詩編説教 006 主の2010年9月26日
指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。
主よ、怒ってわたしを責めないでください。
憤って懲らしめないでください。
主よ、憐れんでください 「憐れんでください、主よ。」
わたしは嘆き悲しんでいます。 「なぜなら、弱り衰える、わたしは。」
主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ 「なぜなら、おののく、わたしの骨は。」
わたしの魂は恐れおののいています。 「わたしの魂も、おののく、非常に」
主よ、いつまでなのでしょう。 「あなたは、主よ、いつまで。」
主よ、立ち帰り 「帰りたまえ、主よ。」
わたしの魂を助け出してください。 「助け出したまえ、わたしの魂を。」
あなたの慈しみにふさわしく 「わたしを救いたまえ、あなたの慈しみのために」
わたしを救ってください。
死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず 「なぜなら、死の中にあなたの記憶がない」
陰府に入れば 「死の国、陰府」は死後の世界、地下にあると考えられた。
だれもあなたに感謝をささげません。 「神の無い世界は死である」という考え。
わたしは嘆き疲れました。 「わたしは疲れ果てた、わたしの嘆き(呻き)に。」
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。 「わたしの涙をもって寝床を溶かす。」
苦悩にわたしの目は衰えて行き 「衰える、怒りのために、わたしの目は。」
わたしを苦しめる者のゆえに 「古びる、すべてのわたしを苦しめる者たちによって」
老いてしまいました。
悪を行う者よ、皆わたしから離れよ。 「離れ去れ、わたしから、邪悪を行う者たちよ。」
主はわたしの泣く声を聞き 「なぜなら、聞いた主は、わたしの泣き声を。」
主はわたしの嘆きを聞き 「聞いた主は、わたしの嘆願を。」
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
敵は皆、恥に落とされて恐れおののき
たちまち退いて、恥におとされる。 「敵の敗北を願う文」
詩編第6篇1-11節
礼拝説教題:「主よ、いつまでですか」
今朝は、詩編第6篇1-11節の御言葉を学びましょう。
詩編150篇の中に「悔改めの詩編」と呼ばれているものが、7つあります。その最初の詩編が、この第6篇です。他に詩編32、38、51、102、130、143篇があります。
この悔改めの詩編の一つの特色は、お読みになるとお気づきになります。罪の告白がありません。ダビデ王は、主なる神の御前で自らの罪を告白していません。
出て来るのは、神の怒りにたいするダビデ王の許しの求めです。2節です。ダビデ王は、次のように主なる神に呼び掛けていますね。「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。」
ヘブライ語の旧約聖書を、そのままに読みますと、こうです。「主よ、あなたの怒りで、あなたはわたしを責めないでください。また、あなたの憤りで、わたしを懲らしめないでください」。
ダビデは、主なる神が彼に向けられた怒りと憤りに対して憐れみを乞い求めています。神の怒りと憤りが、ダビデ王に対して向けられています。
さらにダビデ王は、主なる神に嘆き、訴えています。3-4節です。「主よ、憐れんでください わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」
ここでダビデ王が神の怒り、憤りに対して許しを乞い求め、主なる神に嘆いている原因が、彼の病気であることが分かりますね。そして、ダビデ王に敵の存在があり、敵たちはダビデの重い病気を、神が見捨てられたと噂していました。
ダビデ王は、自分の重い病気と敵の存在を、主なる神が自分の罪に対して烈火のごとく怒り、憤られた神の罰であると受け止めています。
だから、ダビデ王は、主なる神に必死に「わたしを責めないでください。懲らしめないでください。憐れみたまえ、主よ」と訴えました。
聖書の時代の人々は、このダビデ王のように人が受ける災いを、病気や不幸な出来事を、その者に対する神の怒り、憤りの結果、神の刑罰と考えました。
旧約聖書に有名な敬虔なヨブの苦難が物語られていますね。天上における神とサタンとの対話から、地上の義人ヨブに苦難が次々に起こります。3人の友達がヨブを見舞いまして、そのひとりの友が次のようにヨブを責めます。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ 正しい人が絶たれたことがあるかどうか。わたしが見てきたところでは 災いを耕し、労苦を蒔く者が 災いと労苦を収穫することになっている。彼らは神の息によって滅び 怒りの息吹によって消えうせる。」(ヨブ記4:7-9、旧約聖書P779)。
病気や災いは、その人の罪に対する神の怒り、刑罰であると、ヨブの友人は言っていますね。だから、重い病気を患ったダビデ王に対して、彼の敵たちがダビデは主なる神に見捨てられたと噂していたのでしょう。
この詩編に、ダビデ王の時代背景を推定できる御言葉はありません。分かっていることは、ダビデ王が重い病気を患っており、それを王の罪に対する神の怒りの結果、神の刑罰であると考えていることです。
そこでダビデ王が主なる神に最初に次のように願いました。主なる神に憐れみを願いました。ダビデ王は、主なる神との関係が回復するように、次のように祈り、願いました。
3節と4節です。「主よ、憐れんでください わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ わたしの魂は恐れおののいています。」
文字通りにヘブル語旧約聖書を読みますと、こうです。「わたしを憐れみたまえ、主よ。なぜなら、弱り衰える、わたしは。わたしを癒したまえ、主よ。なぜなら、おののく、わたしの骨は。そして、わたしの魂もおののく、非常に」。
ダビデ王は、自分の病気が主なる神によることを理解しました。神の怒りにより病気になったのであれば、主なる神の憐れみと恵みにより罪を赦され、神との関係を回復し、病気をいやされる以外に道はないと考えました。
4節後半に「主よ、いつまでなのでしょう」と、ダビデが祈っていますね。神の怒りによって、重い病気になっているという、この望ましくない状態が早く終わるようにと、ダビデは主に祈り求めているのです。
そのためにはダビデ王は、神の憐れみにより神との関係を神の怒りの状態から神との平和の状態に変えていただかなければなりませんね。
だから、5節でダビデ王は、こう祈っていますね。「主よ、立ち帰り わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく わたしを救ってください。」
「立ち帰りたまえ、主よ」です。ダビデの側に救いの根拠はありません。救いの根拠は主なる神です。だから、主なる神がダビデの方に向きを変えてくださり、ダビデの所に来られない限り、ダビデに助けと救いはありません。しかし、ダビデは主なる神が慈しみの神であり、ダビデとの間に平和な関係を作り、彼の体と魂に平安を与えてくださると信じています。「あなたの慈しみにふさわしく」は、「あなたの慈しみのために」です。
そして、旧約時代の人々は、ダビデ王のように死後の世界を、次のように考えていました。6節です。「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず 陰府に入れば だれもあなたに感謝をささげません。」
ダビデ王に復活の理解はありません。旧約聖書のダニエル書に復活の思想がありますが、ダビデ王は、人間は死ぬと陰府、死後の世界に入ると信じていました。それは、地下にあると考えられていました。生ける神から遠く、影のごとき存在を続けると考えていました。だから、死後の世界において主なる神を記憶する者はなく、主の御名を唱え、賛美する者はいないと考えていました。
だから、ダビデ王は、こう主なる神に訴えたのです。自分が重い病気で死に、陰府、すなわち、死の世界に入れば、主は主の御名を覚えて、賛美する者をひとり、失うことになりませんか。だから、わたしを、主よ、あなたの慈しみのゆえにお救いくださいと。
あるいは、イザヤ書38章18-19節に預言者イザヤが病気を癒されたヒゼキヤ王の詩編を次のように記しています。ヒゼキヤ王は、こう讃美しました。「陰府があなたに感謝することはなく 死があなたを賛美することはないので 墓に下る者は あなたのまことを期待することができない。命ある者、命ある者のみが 今日の、わたしのようにあなたに感謝し 父は子にあなたのまことを知らせるのです。」(旧約聖書P1122)。これは、一言でいえば、神の無い世界は死であるという考えです。
7節は、ダビデ王が罪を深く悔いる姿を賛美しています。「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。」
ダビデ王は、自分の罪の嘆きに疲れ果てました。ダビデ王は、罪を悔いる涙を毎夜、床の上に流しました。その涙で、寝床が漂うほどだと歌っていますね。ダビデ王が如何に激しく自分の罪を悔い、その痛みと嘆きを賛美していますね。
ダビデ王は、自分の罪のみを悲しんだのではありません。自らの罪を悔い、主なる神との平和な関係を回復されるように祈ったのです。
8節から11節は、ダビデ王が一転して主なる神が彼の祈りを聞かれたことを宣言し、彼の敵が敗北し、恥に陥ると祈っています。
ダビデ王の敵が誰か分かりません。ダビデ王の身近にいたでしょう。ダビデ王が主に苦しみ、祈り、罪を嘆いている時、敵はダビデ王が神に見捨てられたと噂していました。その敵の苦しみのゆえに、自分が古びてしまった、老いてしまったと歌っています。
ダビデ王の苦しみ、その深さに、どれほどわたしたちは思いを向けられるでしょうか。ダビデ王の敵は同じ神の民です。共に神を礼拝し、讃美し、祈り合う者たちが、ダビデの敵となり、ダビデは神に見捨てられたと噂しているのです。
その苦しみのただ中で、ダビデ王に喜びが与えられました。ただ1回限りの出来事として、主なる神が彼の泣き声を、嘆きを聞いてくださいました。
9節と10節です。「なぜなら、聞いた主は、わたしの泣き声を。聞いた主は、わたしの嘆願を。」と繰り返されています。この「聞いた」という言葉は、主なる神の1回限りの出来事として、主なる神がダビデ王の願いを聞かれたことを表しています。
そして、「主はわたしの祈りを受け入れてくださる」の「受け入れる」という言葉は、主が繰り返しダビデの祈りを受け入れてくださることを意味しています。
最後の11節のダビデが敵の敗北を願う賛美は、最初にダビデが神の怒りの状態を恐れた、その状態に敵たちがたちまちになると宣言しているのです。
ボンヘッファーが『共に生きる生活』という本を書いています。日本のキリスト者たちによく読まれています。お読みになった方もおられましょう。その本の中で、彼は「詩編の秘密」を語ります。そして、彼は詩編の全体を通して祈っているのは、主イエス・キリストであると述べています。だから、詩編を礼拝の中で賛美し、わたしたちは、主イエス・キリストの心を心として、祈ることができると、彼は述べています。
ダビデ王の祈りを通して、主エス・キリストの祈りを聞きましょう。主イエス・キリストは、わたしたちを罪より、神の怒りの中にいるわたしたち罪人を、そこから神との平和の状態に移すために、人となりこの罪の世界に来てくださいました。そして、わたしたちに代わり、神の怒りを身に受けられました。主イエスは、多くの人々の病気と苦しみを癒され、ダビデ王の祈りに応えられました。
そして、主イエス・キリストは、主なる神がダビデ王と契約を結ばれた約束を、十字架と復活の御業を通して成し遂げるために、わたしたち罪人を慈しみのゆえに罪から救い、神との永遠の和解の中に入れるために、このわたしたちの罪の世界に来られたのです。
主イエス・キリストは、ダビデ王が泣き、嘆き祈りました神との和解を、ただ1回限りの神の出来事として、十字架の上で聞き届けてくださいました。
ダビデ王が罪を悔いて、寝床が漂うほど涙を流したことに応えてくださって、キリストはゲツセマネにおいて自らの罪を悔いるためではなく、その罪を自らが担うために血の汗を流され、わたしたちの罪に対する神の刑罰の苦しみを味わわれました。
そして、今主イエス・キリストは、復活し、父なる神の右に座されています。わたしたちの仲保者として、十字架の贖いのゆえにわたしたち罪を赦してくださいと、父なる神に執り成してくださっています。わたしたちがこの礼拝において、個人の祈りにおいて祈ります罪の赦しは、繰り返しキリストのゆえに父なる神に受け入れていただいているのです。
ですから、ダビデ王の「主よ、いつまでですか」という問いかけは、キリストの到来と十字架と復活の御業を通して、意味が変えられました。望ましくない状態が早く終わることを望む気持ちから、キリストの十字架の罪の赦しと復活による永遠の命の保証によって、主が神の御国を実現されるのは、いつまでですかという、喜びと希望に変えられているのです。
次週は、聖餐式を行います。聖霊を通して、聖餐にあずかり、今朝の御言葉の喜びを共に与ろうではありませんか。声を高く、「われは、聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖なる交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の生命を信ず。アーメン」と告白しましょう。永遠の命に招かれている喜びを、聖霊と御言葉を通して共に味わいましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、月一度ですが、詩編の御言葉を学べることを感謝します。ダビデ王の個人の泣きの歌を通して、主イエス・キリストの救いを学べましたことを感謝します。次週の聖餐式を通して「主よ、いつまでですか」という御国の到来の喜びを、聖霊と御言葉を通して味わわせてください。この世には病気と不幸があり、神とわたしたちの関係は罪によって断たれています。キリストの十字架の慈しみのみが罪から救われ、神との平和に生きる唯一の慰めであることを、毎週の礼拝を通して確信させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教 007 主の2010年10月31日
シガヨン、ダビデの詩。ベニヤミン人
クシュのことについてダビデが主に向
かって歌ったもの。
わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。 「あなたの中にわたしは逃げ込む」
わたしを助け、追い迫る者から救ってください。 「追い迫る者すべてから、そして」
獅子のようにわたしの魂を餌食とする者から 「引き裂かないように、獅子のように、」
だれも奪い返し、助けてくれないのです。「ずたずたにする、しかし、いない、・・者」
わたしの神、主よ
もしわたしがこのようなことをしたのなら
わたしの手に不正があり 「不正→邪悪」
仲間に災いをこうむらせ 「仲間(友)→平和な関係(挨拶を交わす)にある者。災い→悪」
敵をいたずらに見逃したなら 「敵→わたしを苦しめる者」「いたずらに→理由なく」
敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき 「敵がわが魂に追いつき、そして捕らえるように」
わたしの命を地に踏みにじり
わたしの誉れを塵に伏させても当然です。 〔セラ 「誉れ→栄光」
主よ、敵に対して怒りをもって立ち上がり 「立ち上がり」→民数記10;35、36.
憤りをもって身を起こし 「立ち上がりたまえ、憤りをもって、わたしを苦しめる者たち」
わたしに味方して奮い立ち 「そして目覚めたまえ、わたしに向かって(わが神、主よ)」
裁きを命じてください。
諸国をあなたの周りに集わせ 「諸民族の集会があなたを囲むように」
彼らを超えて高い御座に再び就いてください。「そしてその上に、高き所に帰りたまえ」
主よ、諸国の民を裁いてください。 「主は諸国民を裁く。」
主よ、裁きを行って宣言してください 「わたしを裁きたまえ、主よ。」
お前は正しい、とがめるところはないと。「わが義に従い、またわが潔白に従い、わたしを。」
あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし「断たれるように、どうか悪しき者たちの悪が」
あなたに従う者を固く立たせてください。「あなたは確立したまえ、義人を」
心とはらわたを調べる方 「そして調べる方、心と腸を」
神は正しくいます。
心のまっすぐな人を救う方 「わたしの盾は神の上に、救う方、心の真直ぐな者たちを」
神はわたしの盾。(読み替え案「わたしの上なるわたしの神は盾」)
正しく裁く神 「神は 裁く方 正しい」
日ごとに憤りを表す神。 「また神は 憤る方 日ごとに」 「憤る→処罰する(呪詛)」
立ち帰らない者に向かっては、剣を鋭くし「もし彼が立ち帰らない、彼の剣を、彼は研ぐ」
弓を引き絞って構え 「彼の弓を 彼は張る。またそれを方向付ける。」
殺戮の武器を備え 「そして彼に対して 彼は準備する。死の武器を。」
炎の矢を射かけられます。「彼の矢を火炎とする。」剣、弓、矢は、偽りの証言による攻撃。
御覧ください。彼らは悪をみごもり 「見よ。彼は邪悪(悪事)をはらむ。」
災いをはらみ、偽りを生む者です。 「害毒を身ごもって、偽りを生む。」
落とし穴を掘り、深くしています。 「穴を、彼は掘り、そしてそれを掘り下げる。」
仕掛けたその穴に自分が落ちますように。 「しかし陥る。穴の中に、自分が造る。」
災いが頭上に帰り 「帰る。その害毒は 彼の頭の上に。」
不法な業が自分の頭にふりかかりますように。「彼の脳天の上に、その暴虐は 下る。」
正しくいます主にわたしは感謝をささげ 「わたしは感謝する、主に。彼の義に従い、」
いと高き神、主の御名をほめ歌います。「わたしは誉め歌を歌おう、主の名を、いと高き」
詩編第7篇1-18節
礼拝説教題:「神の審判と救い」
本日、10月31日は、宗教改革記念日であります。詩編第7篇1-18節の御言葉を学びましょう。
2017年に宗教改革500年を迎えます。宗教改革は、一人の修道士が神の義の審判に悩み苦しむ体験から生まれました。彼の名は、マルティン・ルターです。
彼の家は、代々の農民であり、父は銅の鉱山で働く鉱夫でした。父親が出世し、彼は教育を受けることができました。大学に入り、学士と修士を修得し、法律を学びました。
ルターに一つの衝撃的な出来事が起こりました。それは、雷に打たれるという出来事です。その時彼は、死を恐れ、「聖アンナさま、お助けください。わたしは修道士になります」と誓いました。
ルターは大学の友人たちに別れを告げて、1507年にエルフェルトの町のアウグスティヌス派修道院に入りました。
修道僧としてルターの生活は、とても口で言えるものではありません。ルター自身が拷問の苦しみをなめたと、後に語っています。祈り、何日も食事をしないで、夜を明かし、ストーブもなく、冬の寒さを耐え忍びました。そして、修道院の決まりをすべて、一つも破らないように守りました。もし修道院の決まり事をすべて守る者は天国に入れるとしたら、わたしは入れたとルターは言いました。そして、彼の修道院の仲間たちは、彼の正しさを明らかにできました。
25歳の時にウィッテンベルク大学に招かれ、彼は大学生に哲学を教えました。そして、彼は死ぬまでこの大学で教えました。
ウィッテンベルクの町にありますアウグスティヌス派修道院に高くそびえる塔があり、その中にある部屋に、彼は暮らしました。そこで彼は、神の義の審判に苦しみました。後の人々は、ルターの苦しみを「塔の体験」と呼びました。
晩年のルターは、若いころを思い越して、修道院のわたしが求めていたのは、「いかに恵みの神を手にいれることができるか」であったと述べています。
その時にルターは、旧約聖書の詩編を読み学びました。彼は、詩編に示されている神は、義の神であるか、恵みの神であるか、この問いに心を向けました。そして、神が「義の神」であれば、どのようにしてこの神から「神の恵み」を得られるのだろうか、考え続けました。そして、義の神の義とは、神の掟を守れない者を裁く正しさであると、ルターは思っていました。神は、わたしたちに義を、神の掟を守る正しさを求めるお方であり、人は誰も神の求められる正しさに、清さにたどり着けないと、ルターは考えたのです。
ルターには、神が義なるお方、聖なるお方であることは、神は人に正しさと清さを求めるお方であり、神の求めに答えられない者は皆、義と聖なる神に裁かれ、滅んでしまいます。すると、神の義の前に人は、絶望しかありません。
しかし、神の義は、人を裁く義だけでない、人を義とするものでもある、これが、ルターの塔の体験でした。ルターが聖書から見いだした喜びは、人が神の御前に自分の正しさを示して救われることではなく、神の義を神の恵みとして与えられ、神に正しい者に造り変えられて救われるというものでした。
だから、ルターにとって信仰は、キリストがすべてでした。十字架がすべてでした。キリストが、わたしたちに代り神の義のすべての要求を満たされ、わたしたちに代り十字架の死によってわたしたちの罪の刑罰を受けてくださった、この神が罪人をキリストによって義としてくださった、この神の義をわたしたちはいただいて、義とされ永遠の命を得ました。
そこでルターは、わたしたちに福音を聞き取ることを、こう述べています。あなたがキリストのみもとに連れて行かれるという説教を聞くことであり、福音を説教するということは、キリストがわたしのところに来たりたもうか、わたしたちをキリストのみもとに連れて行くこと以外のなにものでもないと。そこでキリストがどのように働かれるか、どのように人を助けられるか、見るならば、あなたの内に信仰が起こされ、キリストが福音の説教を通してあなたの魂にまさに同じ助けと恵みを差し出されていることを知るべきであと。
前の詩編の説教においてボンヘッファーが詩編はキリストの祈りであると、彼の『共に生きる生活』という著書を通して紹介しました。それは、宗教改革者ルターに遡ります。ルターが詩編150篇は、すべてイエス・キリストの祈りと理解すべきであると教えています。ルターは、詩編をわたしたちがどう読むか、イエス・キリストの祈りであり、イエス・キリストの歌として読むべきだと教えています。キリストを中心にし、キリストの十字架を中心に据えて読むべきだと。
詩編7篇は、神の審判、裁きの神が歌われています。ダビデ王が敵たち、ダビデ王を苦しめる者たちに対して、自分の正しさを神に誓い、神の審判と救いを求めています。
ダビデは、わたしの神主にのみより頼むと言っています。「あなたを避けどころとする」は、「あなたの内にわたしは逃れる」です。主のみをダビデは、頼みとしています。
ダビデ王を苦しめる者たちが誰であり、ダビデ王がどのような恐ろしさを味わっているのか、王の命がどのように危ないのか、はっきりしたことは分かりません。ダビデ王は、主にのみに頼り、主だけがダビデ王の命を助けてくださると信じています。
そして、ダビデ王は、主なる神に自らの正しさを訴えるために、自分に罪があり、悪があり、同胞の民に災いを与えているのであれば、王が民に不正な捌きをしているのであれば、自分の命が踏みにじられても、名誉が損なわれても当然であると述べて、主に自分は潔白ですと、訴えています(4-6節)。
ダビデ王は、主にわたしを苦しめる者に対して怒りをもって立ち上がってくださいと訴えています。これは、旧約聖書にあります民数記第10章35-36節のモーセの御言葉を、ダビデ王が思い起こしながら歌っています。「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたが憎む者は御前から逃げ去りますように。」その箱がとどまるときには、こう言った。「主よ、帰って来てください。イスラエルの幾千万の民のもとに。」(旧約P230)。
主なる神は、幕屋の至聖所にあります契約の箱の上に座されて、民と共に立ち上がって敵たちと戦う神であり、聖所において民と諸国民を集めて、裁く神であります。
9節に驚くべき御言葉があります。「主よ、諸国の民を裁いてください。主よ、裁きを行って宣言してください。お前は正しい、とがめるところはないと。」
ダビデは主にお願いしていません。「主は諸国民を裁く。主は、わたしを裁く。わたしの義に応じて、わたしの潔白さに応じて」。
義なる神は、諸国民と神の民イスラエルを裁かれます。義と聖に応じて裁かれます。そこで義なる神は、悪を滅ぼし、主に従う者、義人を固く立たせてくださいます。これは、神の審判が、わたしたちにとって救いであると、ダビデが歌っています。主なる神は、諸国民と神の民を裁き、悪を滅ぼし、義人を確立すると言っているのです。
神の裁き、審判は、悪を滅ぼし、義人を据えることです。主なる神は、わたしたち人の心を調べることがおできになります。そして主なる神は、義なる裁きを通してわたしたちの内にある罪、悪という不純物を取り除き、神に真直ぐな者としてくださいます。
しかし、主に立ち帰らない者、主に背く者は、言葉の攻撃によってダビデを苦しめる者であり、自らの悪によって、自らを滅ぼしてしまうと、ダビデは述べています。
そして、ダビデ王は、正しくいます主を感謝し、その神を賛美して、この詩編を閉じているのです。
ルターによってこの詩編を、義なる神、その神の裁きを、恵みと理解する道は、主イエス・キリストです。キリストの十字架を通して理解するとき、神の裁き、審判は神の救いであり、恵みの光であることを示されます。
義なる神の審判、キリストの十字架の光が、わたしたちの罪の暗闇に希望の光をもたらしたのです。
神のわたしたちに対する裁きは、キリストの十字架の上に示されました。神は、イスラエルの民だけでなく、諸国民の民をキリストの十字架を通して裁かれました。神は、キリストの義を通して、キリストの完全な従順に応じて、わたしたち罪人の罪と悪を裁き、滅ぼし、わたしたちにキリストを通して神の義と永遠の命をお与えくださいました。
キリストの十字架によって、わたしたちは、神によって義人に据えられたのです。そして、義人として生きるために、神はわたしたちに聖霊を通して信仰を与えられました。信仰は、礼拝における説教を通して常に与え続けられるのであり、洗礼と聖晩餐を通して強められます。そして、説教と礼典が忠実に行われている所に、キリストはわたしたちと共にいてくださいます。
そこでは、このダビデ王のように神を賛美する喜びに溢れているのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、宗教改革記念日に宗教改革者ルターを覚え、詩編の御言葉を学び、神の義の裁きが主イエス・キリストの十字架を通して、わたしたち罪人を義人にする神の恵みの救いであることを学べたことを感謝します。ダビデ王の個人の嘆きの歌を通して、主イエス・キリストの救いに招かれたことを感謝します。次週の聖餐式を通して、わたしたちに与えられた信仰を強め、この世俗主義と偶像に満ちたこの世に力強く主の民として歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教 008 主の2010年11月28日
指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩。
「ギティト」は意味不明。諸説あり。①ペリシテの町ガトの歌。②酒ぶねで歌われた歌。
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く 「御名」→神の臨在、
全地に満ちていることでしょう。「全地(全世界)に」。2節と10節は繰り返し。
典礼では、2、10節が会衆、3-9節が祭司。
天に輝くあなたの威光をたたえます。「あなたは置いた。あなたの威光を、天の上に」
幼子、乳飲み子の口によって。
あなたは刃向かう者に向かって砦を築き「刃向かう者に」→「あなたを攻める者らに」
報復する敵を絶ち滅ぼされます。 [敵を、また、復讐者(44:17)を鎮めるために]
あなたの天を、あなたの指の業を 「わたしは見る、あなたの天、あなたの指の業を」
わたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。「あなたが配置したところの月を、星々を」
そのあなたが御心に留めてくださるとは 「何か、人間は、あなたが彼を記憶すると
人間とは何ものなのでしょう。 は」
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。 「そして人の子とは、あなたは彼を顧みる」
神に僅かに劣るものとして人を造り 「あなたは彼を低く造った、少し神より。」
なお、栄光と威光を冠としていただかせ「また栄光と栄誉を、あなたは彼に冠する」
御手によって造られたものをすべて治めるように 「あなたは彼に治めさす、あなた
その足もとに置かれました。 の手の御業を。すべてを彼の両足の下に置いた」
羊も牛も、野の獣も 「羊と牛たち、すべての。そしてまた、野の獣たち」
空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。「空の鳥、また海の魚、海の通る者の路を。」
主よ、わたしたちの主よ
あなたの御名は、いかに力強く
全地に満ちていることでしょう。
詩編第8篇1-10節
説教題:「人はなにものなのでしょう」
今朝は、詩編第8篇1-10節の御言葉を学びましょう。1節に「ギティトに合わせて」とあります。どういう意味か分かりません。「ギティト」とは、ペリシテの町ガトを指すのか、あるいは、ぶどうの搾り場を指すのであろうと考えられています。その町の歌か、ぶどうの搾り場の歌か、その歌の調べに合わせて、このダビデの詩編を賛美するようにということです。今日では、その歌のメロディーは忘れ去られました。
さて、1節にこの詩編がダビデ王のどんな時に作られ、賛美されたか、説明がありません。3節に少しヒントがあります。ダビデ王が力無く無力な幼子や乳飲み子を、力ある者、敵と復讐者から守る主なる神を賛美していますね。「幼子と乳飲み子」は、人間の中の最も小さく弱い者の代表です。その幼子と乳飲み子の口を通して、主なる神が御自身をあらわされました。そして、神が無力な者を、全能のお力でお救いになり、攻撃する者、敵、復讐者を鎮められました。
それを、ダビデ王は、自分の救いに当てはめました。ダビデ王が、どんな敵から救われたのか、この詩篇には歌われていませんが。
サウル王の迫害から救われたのでしょうか。ペリシテ人の手から救われたのでしょうか。ダビデ王は、主なる神に敵から命を救われて、天を仰ぐことを許されました。幼子や乳飲み子のように力無き一個の人間に心を留め、顧みられ、ダビデに神に近い栄光をお与え下さった主なる神を賛美しました。
詩編第8篇は、賛美詩編と呼ばれています。この詩編の特徴は、2節の始まりと10節の終わりが同じ文章の繰り返しであることです。それは、ダビデ王が神の民たちを、主なる神への賛美に誘っているのです。
「主よ、わたしたちの主よ、何と力強い、あなたの御名は、全地に」。これがヘブライ語旧約聖書の詩編8篇2節の3行の御言葉です。詩編7篇2節に「わたしの神、主よ」というダビデ王の神への呼びかけはありますが、初めて「わたしたちの主よ」と、ダビデ王はここで主なる神に呼び掛けています。
「わたしたちの主」は、「契約の民の主」という意味であります。旧約聖書の出エジプト記をお読みになりますと、イスラエルの民がエジプトから救い出された時、はじめて主なる神と出会い、シナイ山での契約によって主の民となり、主もイスラエルの神となられたことを物語っています。ダビデ王は、今イスラエルの民が地上のすべての民族から特に選ばれ、神から憐れみと愛を受けましたことを心に留めています。そして、ダビデはユダヤの夜空を、満天の星々と月を見上げているのです。
2節の終わりの4行から9節までがこの詩編のダビデの神賛美です。ダビデ王は、「天に輝くあなたの威光をたたえます。」と賛美します。そしてその後主なる神を賛美する理由を述べています。
ダビデ王は、2節の終わり4行目から5節において、天における神の威光と無に等しい人間を賛美しています。6節から9節において、ダビデ王は被造物の傑作であり、その長としての人間の尊厳を賛美しています。
創造主なる「わたしたちの主」の偉大さが満天の星々と月に見られると同時に、弱い人間によってもあらわされていることを、ダビデ王は賛美します。
3節の「幼子、乳飲み子の口によって」という言葉は、3つの解釈があります。第1は、幼児が口に賛美の歌を歌っているのを見て不信仰者も神の実在を実感せずにはいられないです。それが、神が幼子と乳飲み子の口に「力の基を置いた」ということです。第2は、詩人ダビデが幼子と乳飲み子の寝床の側に立ち神の護りを思い、戸外に出て神を賛美したというものです。第3はユダヤの伝説にイスラエルの民が紅海を渡った時に、幼児たちが賛美を歌ったという話があるので、詩人ダビデはそのことを賛美したというものです。わたしは、一番目と思います。
ここでダビデ王が「刃向かう者」「報復する敵」と言っているのは、神が人に委ねた務めを不正に行使し、自分たちの栄光を求めている者たちのことです。罪に堕落した状態にある人間の行動であります。
ダビデ王は、刃向かう者、敵、復讐者の前で幼子と乳飲み子は、全くの無力さのゆえに、神に護られていると賛美しています。
主イエスが都エルサレムに王として入城されたときに、主イエスを子供たちが口で誉め称えました。ところが、それを聞きました祭司長たちや律法学者たちが怒りました。マタイによる福音書21章16節において祭司長たちと律法学者たちが主イエスに子供たちが何と言っているか聞こえるかと質問しています。主イエスはお答えになりました。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」。
祭司長たちや律法学者たちは刃向かう者でした。神が委ねられた務めを不正に行使し、神の民を主イエスに近づけるべきなのに、遠ざけようとしました。そこで主イエスは、幼子と乳飲み子の口によって、主イエスに敵対する者たちを退ける砦とされました。
4節の「あなたの指の業」は、7節の「手の業」と同じです。ダビデは、創世記1章の神の創造の御業を念頭に置いています。
特に「月も、星も、あなたが配置なさったもの」は、ダビデ王が旧約聖書の創世記第1章14-18節の御言葉を心に留めて賛美しています。ダビデ王は、神の栄光の現れである夜空にある満天の星を、月を見ました。そして、人間、一個の人の子としての自分のはかなさ、弱さを悟りました。
5節は、「人間」と「人の子」は、同じ意味です。「人間」は弱く死ぬべき者という意味です(詩編103:15)。「人の子」はアダムの子、土からできているという意味です。
神に背き、堕落した、無能で弱い人間を、神はなおねんごろに取り扱ってくださるのは、なぜかと、ダビデは問うています。これが、ダビデが神賛美する理由です。
「顧みる」は主なる神が訪れてくださることです。本日よりアドベントが始まります。キリストの御降誕を心に留めつつ、日々を歩みます。大会が出版しています『リジョイス』も、12月の聖書日課にクリスマスの御言葉を選んでいます。ぜひアドベントにマタイによる福音書1章と2章、ルカによる福音書1章と2章、ヨハネによる福音書1章と3章をゆっくりと時間をかけ、お読みください。そして、ダビデのように神が憐れみと恵みによって、罪あるわたしたちを訪れてくださったキリストの御降誕を瞑想し、この5節の御言葉を心に留めて、神が憐れみ、訪れてくださる人間、この一個の人の子とは何ものかと問いかけてみてください。
4-6節の御言葉は、新約聖書のヘブライ人への手紙第2章6-8節とコリントの信徒への手紙Ⅰ第15章27節に引用されています。そこではキリストの受難、復活、昇天が人間に委ねられた務めを回復する原動力になったことを明らかにし、キリストの働きを預言する詩編として、この御言葉が解釈されています。だから、このダビデ王の祈りと希望は、キリストにより実現されました。それが、キリスト教会の理解です。
6節の「神に僅かに劣るもの」という表現を、70人訳旧約聖書によって、ヘブライ人への手紙の記者は、2章7節に「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」と訳しています。「彼」とはキリストであり、キリストの低き状態、死の期間と状態をあらわすと、6節の御言葉を理解しています。
ダビデ王は、本来人間が創造された時の状態を賛美しました。神の似姿としての高い地位にあった人間を心に留めていたのです。
それでも、ダビデ王は傲慢にならずに、神は僅かに劣る者として、人間を創造されたと賛美しました。「劣る」は、「欠乏する」「足りない」という意味です。ダビデは、人間が本来的に欠けている存在、何か不足を感じる者として造られたと見ています。パスカルも『パンセ』の中で書いています。「人は創造者である神による以外には、決して満たされない空洞を持つ者として、造られた」。まさに人間は、欠けた所に神が満ちてくださることによって真の人となるように造られたのです。この「劣る」という言葉は、詩編23篇1節に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることない」の「欠ける」という言葉と同じです。ダビデ王は、主がわたしの牧者でないならば、わたしという人間は乏しい者であり、人として欠けた者であり、人は創造主なる神、キリスト以外には満たされないと告白しているのです。
「栄光と威光を冠としていだかせ」は、地上の王、神の代行者としての人間の職務を指しています。人間の尊厳は、神の代理者として、神が創造された世界を管理する働きにあります。
7節は、地上の王として神から尊厳と威光を与えられた人間を賛美します。しかし、人間は次の二つのことを心に留めるべきです。人間は神の代理人であることと神に背いた罪人であることです。
8、9節に人間の支配に置かれたものが、人間の身近なものから遠いものへと描かれています。生き物である。人間が神に委ねられたのは、命の管理です。地上の生き物への配慮です。
詩編8篇は、わたしたちを創造主に導くだけではありません。ヘブライ人の手紙第1章3節において、次のように語られています。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる神の右にお着きになりました。」
このキリストが十字架によって罪を贖われ、復活し、昇天され、神の右に座されて、人と全世界を回復されています。ダビデはその喜びを賛美し、期待しているのです。キリストの贖い、そして、新しい天と地の再創造を、この詩編は賛美しているのです。
その意味でこの詩編はキリストへの預言であります。キリストは、わたしたちの主であり、神の像に造られた人の姿を回復されました。そして、新たなる創造はキリストにおいて聖霊を通して、今始まっています。それがわたしたちの教会の礼拝であり、伝道であります。そしてダビデ王が待ち望む、神の御国の到来を、新天新地の再創造を、わたしたちも共に待ち望み、この詩編をダビデ王と共に教会の礼拝において賛美しょうではありませんか。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、アドベントの第1週を迎えました。今朝の詩編第8篇の御言葉を繰り返し読み、瞑想し、神の顧み、愛と憐れみに心を留め、キリストがわたしたちを訪れてくださったクリスマスの喜びへとお導きください。罪に死ぬべき人を、キリストを通して憐れみ愛してくださる父なる神に感謝し、自らが神に造られた務めを果たせるようにしてください。一日一日を神に感謝し、生かしてください。ダビデ王のように神の御国の到来を待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教 009 主の2010年12月26日
指揮者によって。ムトラベンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。
わたしは心を尽くして主に感謝をささげ
驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
御名をほめ歌おう。
御顔を向けられて敵は退き
倒れて、滅び去った。
あなたは御座に就き、正しく裁き
わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし
その名を世々限りなく消し去られる。
敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り
あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。
主は裁きのために御座を固く据え
とこしえに御座に着いておられる。
御自ら世界を正しく治め
国々の民を公平に裁かれる。
虐げられている人に
主が砦の塔となってくださるように。
苦難の時の砦の塔となってくださるように。
主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
シオンにいます主をほめ歌い
諸国の民に御業を告げ知らせよ。
主は流された血に心を留めて
それに報いてくださる。
貧しい人の叫びをお忘れになることはない。
憐れんで下さい、主よ
死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。
御覧ください
わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。
おとめシオンの城門で
あなたの賛美をひとつひとつ物語り
御救いに喜び躍ることができますように。
異邦の民は自ら掘った穴に落ち
隠して張った網に足をとられる。
主が現れて裁きをされるとき
逆らう者は
自分の手が仕掛けた罠にかかり
神に逆らう者、神を忘れる者
異邦の民はことごとく、陰府に退く。
乏しい人は永遠に忘れられることなく
貧しい人の希望は決して失われない。
立ち上がってください、主よ。
人間が思い上がるのを許さず
御顔を向けて異邦の民を裁いてください。
主よ、異邦の民を恐れさせ
思い知らせてください
彼らが人間にすぎないことを。
詩編第9篇1-21節
説教題:「永遠に心を向けて」
今年最後の礼拝を守りましょう。
今朝は、詩編第9篇1-21節の御言葉を学びましょう。
詩編9篇と次の10篇は、元々一つの詩編だったと言われています。その理由は、4つあります。第1に見出しに「アルファベットによる」と表記がありますね。ヘブル語のアルファベットを順に9篇から10篇まで並べて、歌われています。第2に初代教会で使われた70人訳聖書とラテン語聖書(ウルガーター)が9-10篇を一つの詩編と数えています。第3に10篇に表題がないことです。第4に「セラ」という言葉が、9篇21節の終わりにあることです。7篇を御覧になると、分かりますように、「セラ」が一番終わりに出てくることはありません。ここだけです。
しかし、詩編の内容が異なると考えられましたので、これらの詩編は二つに分けられました。9篇は、諸国民対する神の裁きを告げています。10篇は不法者の悪を訴え、貧しい者の救いのために主の裁きを祈り嘆いています。
さて、1節の表題に、「ムラトベンに合わせて」とありますね。その言葉は、意味不明であります。「息子の死について」の曲に合わせてという意味ではないかと思われています。
2-5節は、ダビデ王が主なる神の勝利を賛美しています。イスラエルの民が目撃し、ダビデ王自身も体験した主なる神の奇跡の御業を、子供たちや孫たちに、後の世の神の民たちに語り伝えようと賛美しています。
2節にダビデ王は、「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ」と歌っていますね。「心を尽くして」は「わたしの心のすべてで」という意味です。ダビデ王は口先だけでなく、「心を尽くして」主に感謝の賛美をしました。
ダビデ王は、「あなたの驚くべき御業」を、主がイスラエルの民を奴隷の地エジプトから救われた紅海の「奇跡」、そして、約束の地カナンに導かれ、主ご自身が周りの異邦人たちと戦い、勝利されたことを賛美しました。
3節にダビデ王は、「わたしは喜び、誇り、御名をほめ歌おう。」と賛美していますね。「わたしは喜び、誇り」は、ヘブル語の旧約聖書では「わたしは喜ぼう、そして歓喜しよう、あなたにあって。」です。「喜ぼう」「歓喜しよう」と似た言葉を並べ、神賛美が神を喜び躍ることだと強調しています。
そのダビデ王の賛美の喜びがサムエル記下の6章に物語られています。ダビデ王が王国を統一し、周辺の諸国を平定し、エルサレムに都を築き、神の契約の箱を運び入れました時、彼は裸で民たちと共に主を喜び躍りました。
4節と5節は、ダビデ王が賛美する理由を歌っています。主なる神が現れて、ダビデの訴えを聞き入れてくださり、ダビデの敵、ペリシテ、アマレクなど周辺の諸国民を恐怖に陥れ、滅ぼし、勝利を与えてくださったことを賛美しています。
5節は、神が裁判官のように正義によって敵を裁き、勝利されたことを賛美しています。「あなたは御座に就き、正しく裁き、わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。」「御座」は、主なる神の裁判官としての力をあらわしています。主なる神は「義の裁き人」であります。主なる神は正義、すなわち、法に基づいた、公平な裁きを下され、ダビデの訴えを正しいとお認めになりました。だから、ダビデは周辺の諸国民、ペリシテとアマレクと戦い、勝利しました。
6-9節は、ダビデがこの世の悪は一時的であり、それに対する神の裁きは永続的であることを賛美します。ダビデは、出エジプトとイスラエルのカナン定住の出来事を心に留めて賛美します。エジプトの王パロは、神の裁きによって紅海の海に沈み、歴史から名を消し去られました。またイスラエルのカナン定住を阻んだアモリ人の王シホンとバシャンの王オグ、そして彼らの国の民たちも、神の裁きによって永遠にこの地上から名を消し去られ、彼らの町は廃墟となりました。
6節の「消し去られる」とは、「滅ぼした」という意味であります。「異邦の民を叱咤し」とは、「あなたは異邦人たちを責める」です。主なる神は、ダビデに敵対したペリシテ、アンモン、アマレクの諸国民の悪を、ご自身の法に従って裁かれました。そして7節にありますように「敵を滅ぼし、町々の記憶を無く」されました。
8節と9節は、主なる神が永遠に座し、裁きのために彼の座を固く据えられ、正義をもって世界を裁かれ、公平に諸民族を裁かれると賛美しています。
神の裁きは、すでに学びました詩編7篇9節の諸国民の裁きと同じです。主なる神は、ダビデの訴えを取り上げて、諸国民を裁かれます。
10節から13節は、主なる神の裁きの結果として、ダビデは「虐げられている人」、「貧しい人」「御名を知る人」「主を尋ね求める人」の救いを語り、主に向かって礼拝をし、主を賛美しようと、信仰者たちを勇気づけています。
ダビデが10節、13節、19節に「虐げられている人」「貧しい人」と歌っているのは、主なる神を礼拝し、信頼しているイスラエルの民たち、信仰者たちのことです。
ダビデの願いは、信仰者の願いです。世から悪が無くなることです。共に主を礼拝し賛美することです。そのために主なる神は、イスラエルを選び、教会を選ばれました。
10節に「そして主が信仰者たちの砦の塔、苦難の時の砦の塔となってくださるように」と賛美しています。「砦の塔」とは、信者たちを安全に守る要塞です。
11節の「御名を知る人」は、主を神として拝む者たちです(36:11、79:6、イザヤ52:6等)。
「主をより頼む」「主を尋ね求める」、13節の「貧しい人の叫び」が主に守られ、救われる条件です。すなわち、主への信仰です。主への信仰がある者は、それは「主を追求する人」(同13節)であります。ダビデの時代のイスラエルの民は、神を信じ神に忠実な者は神に捨てられることがなく、長寿を全うするという信仰がありました(詩編37:28「主の慈しみに生きる人を見捨てることなくとこしえに見守り」)。
12節と13節は、ダビデがイスラエルの会衆とわたしたち異邦の諸国民に主は主を信じる信仰によって恵まれることを人々に伝えよと賛美をしています。「ほめ歌え、シオンに座す方主に。告げよ、諸国民の中に、彼の御業を。」「なぜなら、血を求める方は、それを記憶する。彼は忘れない、貧しい者たちの叫びを。」。
ダビデは、主の裁きが世界に救いをもたらすことを目的としていることを歌っています。貧しい者はへりくだる者です。神を恐れる者です。神の裁きはエルサレムから国々を支配し、神に敵対する悪しき者を裁き滅ぼしますが、へりくだって神を恐れ、血を流すなという主の命令を守る者を、イスラエルの神の民と共に見捨てられないと、ダビデは賛美し、わたしたちを勇気づけています。
14節と15節は、ダビデが貧しい人、主をより頼む人の祈りを、信仰告白を、彼自身の体験を通して賛美します。死の門、すなわち、死者の領域、神無き世界から救い出してくれるのは自分や人ではないと、ダビデは告白しています。
神の民、信仰者たちはこの世において常に死と向き合っています。病気や生活の苦しみ、迫害があり、ダビデ自身も、敵からの苦しみを味わっています。ダビデは、神の裁きが実現し、ダビデと神の民が死の支配から救われることを祈り求めるように、神が共にいてくださるエルサレムの神殿で共に主を礼拝し、賛美し主を喜べるように祈ろうと、励まし賛美しています。
このダビデの祈りは、キリストの十字架によって実現しました。神がキリストの十字架によってわたしたちの罪を裁き、わたしたちを死から救い出してくださり、「シオンの娘の門」で、神の神殿、神が臨在されるこの教会で、わたしたちは主を礼拝し、主に感謝し、賛美をささげているのです。
16節から21節は、ダビデは神の勝利を祈り、主なる神に敵対する諸国の民や悪しき者たちの行く末を思い巡らし、神が裁きを行われ、人間の傲慢の罪を打ち砕かれ、人間ははかない存在であり、神になれないことを知らしめてくださいと賛美しています。
16節は、悪人は自分の悪によって神の罰を受けるということのたとえです。17節は、主の裁きの方法の不思議さとその裁きの正しさを、ダビデは賛美します。
18節以下は、神と人間との関係が明らかにされています。「悪しき者」は、「神を忘れた者」です。「悪しき者は帰って行く、陰府へ。すべての異邦人たち、神を忘れた者たちも」。ダビデは自滅すると歌っているのです。
19節は、人は神を忘れても神は忘れないと、ダビデは歌っています。「なぜなら、永久に極貧の者が忘れられることも、貧しい者たちの望みが永遠に失せることはない。」ダビデは、信仰者の祈りは必ず神に聞かれ、信仰者は世に勝利すると歌っています。
20節と21節は、ダビデが神の強さと人間の弱さを歌っています。「立ち上がりたまえ、主よ。人間が強くならないように。あなたの御前で異邦人たちが裁きを受けるように。」
21節。「置きたまえ、主よ、彼らに恐れを。異邦人たちが、彼らが人間であると知るように。 セラ。」。
真に神は、ダビデの祈りに答えて、神の子キリストをこの世に遣わしてくださいました。そして、神はキリストの十字架を通して人間の罪を裁かれました。そして、キリストは死から復活し、わたしたちを死から解放されました。今、天に昇られ、父なる神の右に座されて、生ける者と死ねる者を裁かれています。このキリストの御前に自らの弱さを認める者は、主を崇め、心を永遠に向けて、キリストの救いの完成を待ち望むのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今年一年、主の恵みの内に礼拝を守り、御言葉と聖餐の恵みにあずかり、主を礼拝できたことを感謝します。去る年、来る年、この世は変化しますが、主イエス・キリストの愛は変わらないことを感謝します。新しき年も主と共に歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教 010 主の2010年1月30日
主よ、なぜ遠く離れて立ち
苦難の時に隠れておられるのか。
貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて
その策略に陥ろうとしているのに。
神に逆らう者は自分の欲望を誇る。
貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
神に逆らう者は高慢で神を求めず
何事も神を無視してたくらむ。
あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。
彼の道はどのようなときにも力をもち
自分に反対する者に自分を誇示し
「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで
災いに遭うことはない」と心に思う。
口に呪い、詐欺、搾取を満たし
舌に災いと悪を隠す。
村はずれの物陰に待ち伏せし
不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。
茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ
貧しい人を捕らえようと待ち伏せ
貧しい人を網に捕らえて引いて行く。
不運な人はその手に陥り
倒れ、うずくまり
心に思う
「神はわたしをお忘れになった。
御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。
立ち上がってください、主よ。
神よ、御手を上げてください。
貧しい人を忘れないでください。
なぜ、逆らう者は神を侮り
罰などはない、と心に思うのでしょう。
あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。
逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き
彼の反逆を余すところなく罰してください。
主は世々限りなく王。
主のち地から異邦の民は消え去るでしょう。
主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け
その願いを聞き、彼らの心を確かにし
みなしごと虐げられている人のために
裁きをしてくださいます。
この地に住む人は
再び脅かされることがないでしょう。
詩編第10篇1-18節
説教題:「貧しい人を忘れない神」
今朝は、詩編第10篇1-18節の御言葉を学びましょう。
詩編9篇と10篇は、ダビデ王の賛美です。ダビデ王は、今から3千年昔のイスラエルの王であり、敬虔な信者です。
ダビデ王は、主なる神がこの世界を創造し、歴史を支配されていることを信じています。同時にこの世界が罪の世界であることも信じています。主なる神に反逆する者がいます。彼らは、主なる神の御目の前で貧しい人をいじめ、虐げています。
貧しい人とは、主なる神を信じていますイスラエルの民です。彼らは、主なる神を頼りにしています。主なる神にのみ希望を抱いて生きています。その貧しい人がこの世において苦難の中にあります。しかし、主なる神はなぜか沈黙されています。
神の民が苦難の中にある時、主なる神が沈黙されている!これは、ダビデ王にとって大きな信仰の問題でありました。だから、ダビデは主なる神に「なぜ、主よ」と祈り訴えました。
1節の「なぜ」という言葉は、常に神に見捨てられたという嘆きと結び付いています。有名な御言葉は、主イエス・キリストの十字架を預言しましたダビデ王の詩編22篇2節です。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」
十字架のキリストは、ダビデの嘆きをそのまま十字架の上で、父なる神に向けて叫ばれ、そして、死なれたのです。父なる神に完全に服従されたキリストは、神に呪われ、見捨てられ、十字架の上で死なれました。
それと同じ嘆き訴えを、ダビデはしています。「主よ、なぜ遠く離れて立ち 苦難の時に隠れておられるのか。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて その策略に陥ろうとしているのに。」
ダビデは見たのです。貧しい人の苦難を。主なる神に頼り、主なる神に希望を抱いている神の民が、主なる神に反逆し、侮り、無視する傲慢な者にいじめられ、虐げられ、殺されているのを。しかし、神の民の苦難の時に主なる神は、貧しい人を助けられず、沈黙されていました。それがダビデの「主よ、なぜ」という嘆きでありました。
貧しい人は、単に貧乏人ではありません。主イエスが言われた「心の貧しき人々」です(マタイ5:3)。主なる神に頼らないでは、主なる神に希望を抱かないでは、この世を生きることができないと思っている人です。ダビデも、貧しき人の一人です。
貧しい人と神に反逆する者は、ダビデ王と同じイスラエル人です。しかし、神に反逆する者は貪欲な者です。日頃から自分の欲望を誇り、主なる神を侮っています。
だから、彼らは傲慢です。主なる神を恐れることがありません。平気で悪を行っています。「神を愛し、隣人を愛せよ」という主なる神の御命令を、神に逆らう者は守りません。むしろ、驕り高ぶり、貧しい人をいじめ、虐げるのです。
神に反逆する者も、主なる神を礼拝し、主に犠牲をささげます。しかしながら、彼は心から神を求めません。主なる神を信じ、頼ろうともしません。むしろ、彼は主なる神を無視して生きているのです。そして、貧しい人を滅ぼそうと企んでいるのです(3-4節)。
5節の「あなたの裁きは彼にとってあまりにも高い」とは、神に逆らう者には主なる神の裁きなど眼中にないのです。彼らの道、人生は常に彼らが力を持ち、栄えているからです。その彼らの栄えを、神に逆らう者たちは、「自分に反対する者に誇示し」ました。
それが6節の悪人の言葉です。「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで災いに遭うことはない」。
主なる神を恐れない者、神に反逆する者ほど、神の民、貧しい人にとって恐ろしい存在はこの世にありません。
神に反逆する者の口に呪いがあります。彼らは詐欺、搾取を行います。彼らの舌、すなわち、彼らの語る言葉には災いと悪が隠されています(7節)。
そして、神に反逆する者は、自らの心に持つ悪を実行します。人気のない村はずれで、物陰に潜み、貧しい人を待ち伏せします。そして、罪のない人を殺すのです。貧しい人、不運な人は神に逆らう者にいじめられ、虐げられ、命を奪われても、倒れ、うずくまる以外にありません(8-10節)。
だから、貧しい人は心の中で絶望し、思うのです。「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。
何という悲しみでしょう。何という非条理でしょう。これがわたしたちの生きる罪の世界の姿です。
心に絶望した貧しい人の魂の声を聞いたダビデ王は、心から主に叫びました。「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」
昔のイスラエルの民たちは、敵国と戦争をします時に、神の箱を担ぎ、その箱に向かって、今ダビデが主なる神に訴えました言葉を、祈りました。主なる神が、敵国との戦いに介入してくださり、イスラエルに勝利をお与えくださいと祈りました。
ダビデ王は、主なる神が罪のこの世界に介入され、貧しものを忘れないで、神に反逆する者の手から貧しい人をお助け下さいと祈りました。
主なる神が罪のこの世界に介入されるのです。この世界に生きて働かれるのです。ダビデは神に逆らう者に向かって言います。「どうして神に逆らう者は神を侮り、神の罰がないと心に思うのか」と。
主なる神は、この罪の世界に介入されます。だから、主なる神はいつでもこの世界を御覧になっているのです。決して貧しい人をお忘れになっていません。
主なる神は、貧しい人の苦難の時に彼らを御覧になっています。そして、主なる神にすべてを委ねようと決意した貧しい人のところに必ず訪れてくださいます。だから、貧しい、不運な人は、主なる神にすべてをお任せするだけで良いのです。あのみなしごのように、主なる神に頼る以外にない貧しい人を、主なる神は必ず助けてくださいます。そして、主なる神は、正義をもって裁かれ、神に逆らう者、悪事を行う者を徹底的に罰せられます(12-15節)。
ダビデ王は、主なる神が正しく支配される地に住みたいと最後に訴えています。神に反逆する者が思い上がり、貧しい人を迫害することを許さない地に住みたいと。主なる神が貧しい人に耳を傾けられ、彼らの心に平安がもたらされ、みなしごと虐げられた人のために正義を行われ、再びこの地に住む貧しい人が人におびえることはないと、主なる神が永遠に支配される地を賛美しています。
この詩編は、キリストの到来とキリストがもたらされる神の国を預言しているのです。父なる神は、この罪の世を御覧になり、貧しい人のところに御子キリストを遣わされました。神の御子キリストが人の子として、処女マリアより生まれ、みなしごのように主イエスに依り頼む罪人、売春婦、徴税人たち、貧しい人を招かれ、そして、彼らの罪を背負って十字架の上で死なれました。
主イエスは弟子たちに主の祈りを教えられ、「御国を来たらせたまえ。御心をなさせたまえ」と祈るように教えられました。すべての国の貧しい人を忘れられない神として、今も主イエスは貧しい人であるわたしたちを、この教会にお招きくださり、神に反逆する者を恐れることなく、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、父なる神の罪の赦しと永遠の命を得るようにお勧めくださっているのです。
罪のこの世に苦難は避けられません。その時神の沈黙にわたしたちは苦しむでしょう。しかし、ダビデ王はわたしたちをは励ましています。苦しまれた十字架のキリストを仰げ、死人の中から復活されたキリストに常に目を留めよ。キリストと共に神の国は来る。貧しい人を、神はお忘れになっていない。すべての貧しい人は救われ、罪のこの世界は過ぎ去り、永遠に人を恐れる必要のない新しい地が来ると。
ダビデと共に、再臨のキリストを待ち望もうではありませんか。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、この世は罪の世界であり、貧しい人には苦難の時です。わたしたちが信仰のゆえに、キリスト者のゆえに苦しむ時があり、その時に主なる神の助けなく、ただ沈黙に、不安を覚えることがあります。しかし、今朝のダビデの詩編を通して、主なる神は貧しい人を、わたしたちをお忘れにならず、この罪の世界に御子キリストを遣わし、キリストがわたしたちの罪の身代わりに十字架に死なれ、永遠の命の保証として復活されました。そして、わたしたちを忘れることなく、再び来ると主イエスは約束してくださいました。心から喜び、主の再臨を待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。
聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書朗読とその解き明かしである説教を通してわたしたちの心を照らし、御言葉を理解し、福音において提供される主イエス・キリストをわたしたちの救い主として受け入れさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
詩編説教 010 主の2010年1月30日
主よ、なぜ遠く離れて立ち
苦難の時に隠れておられるのか。
貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて
その策略に陥ろうとしているのに。
神に逆らう者は自分の欲望を誇る。
貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。
神に逆らう者は高慢で神を求めず
何事も神を無視してたくらむ。
あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。
彼の道はどのようなときにも力をもち
自分に反対する者に自分を誇示し
「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで
災いに遭うことはない」と心に思う。
口に呪い、詐欺、搾取を満たし
舌に災いと悪を隠す。
村はずれの物陰に待ち伏せし
不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。
茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ
貧しい人を捕らえようと待ち伏せ
貧しい人を網に捕らえて引いて行く。
不運な人はその手に陥り
倒れ、うずくまり
心に思う
「神はわたしをお忘れになった。
御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。
立ち上がってください、主よ。
神よ、御手を上げてください。
貧しい人を忘れないでください。
なぜ、逆らう者は神を侮り
罰などはない、と心に思うのでしょう。
あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を
顧みてくださいます。
不運な人はあなたにすべてをおまかせします。
あなたはみなしごをお助けになります。
逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き
彼の反逆を余すところなく罰してください。
主は世々限りなく王。
主のち地から異邦の民は消え去るでしょう。
主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け
その願いを聞き、彼らの心を確かにし
みなしごと虐げられている人のために
裁きをしてくださいます。
この地に住む人は
再び脅かされることがないでしょう。
詩編第10篇1-18節
説教題:「貧しい者を憐れむ神」
今朝は、先月に続き詩編第10篇の御言葉から「貧しい者を憐れむ神」について学びましょう。先々月と先月にお話ししましたように詩編9篇と10篇は、本来一つの詩編であり、ダビデ王が賛美したものです。
詩編9-10篇を説教し、改めて貧しい人を救われる主なる神について思いを巡らしました。
ダビデ王は、9-10篇の中で「貧しい人」、「困窮者」、「乏しい人」、「虐げられた人」、「不運な人」、「みなしご」のような弱者を、主なる神が忘れることなく、憐れみ、救われるように祈り願っています。
ダビデが主なる神に救いを祈る「貧しい人」とは、誰だろうか。どうして主なる神は、貧しい人を憐れみ、救われるのだろうか。考えてみました。
貧しい人は、第一に差別されている人々です。そのために生活に苦しんでいます。力ある者に虐げられた「不運な人」と、ダビデは歌っています。悲惨さの中で神に見捨てられたと、自他共に認めています。第二に貧しい人は正当な裁判を受けられません。貧しい人は、格差社会の中で自分たちが不当にも差別され、虐げられ、命すら保証されていないことを、正当な裁判によって訴えることができません。第三にだからこそ貧しい人は主なる神の憐れみにすがる他に生きるすべのない人々です。それ故にダビデ王は、10篇17-18節に次のように賛美しています。「主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために 裁きをしてくださいます。」
ダビデ王にとって貧しい人とは、自分を含めて主なる神を信じていますイスラエルの民です。主なる神のみを頼りにしています。主なる神にのみ希望を抱いて生きています。そして貧しい人は、この世において差別され、苦難の中にあります。しかし、この世において貧しい人は正当な裁判に訴えることはできません。ダビデは10篇8節に「不運な人」と歌っています。ヘブライ語の「ヘルカー」、「不運な人」は、詩編以外にどこにも出て来ません。10篇10節に「不運な人はその手に陥り倒れ、うずくまり」と、ダビデは歌っていますね。
初代教会のキリスト者たちは、詩編をキリストに結び付けて理解し、賛美しました。この「不運な人」に十字架のキリストを思い浮かべたでしょう。ダビデの嘆きをそのままに「貧しい人」として、差別され、虐げられ、宗教的指導者たちの罠に陥り、正当な裁判に訴えることもできず、十字架の苦難の道を歩まれたキリストを思い描いたでしょう。
そして、この詩編10篇を読む者は、ダビデのように「主よ、なぜ遠く離れて立ち 苦難の時に隠れておられるのか。貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて その策略に陥ろうとしているのに。」と神に叫ぶのです。ダビデが見た貧しい人の苦難を、キリスト者たちは十字架のキリストに見たのです。
ダビデ王は、10篇14-18節に次のように賛美しています。「あなたは必ず御覧になって
御手に労苦と悩みをゆだねる人を 顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き 彼の反逆を余すところなく罰してください。主は世々限りなく王。主のち地から異邦の民は消え去るでしょう。主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け その願いを聞き、彼らの心を確かにし みなしごと虐げられている人のために 裁きをしてくださいます。この地に住む人は 再び脅かされることがないでしょう。」
わたしたちは、ダビデの賛美にキリストがすべてを父なる神に委ねられて十字架の苦難を受けられたことを思い起こします。そして、父なる神はキリストを死人の中から甦らされて、救い出されたことを見るのです。
そして、神はわたしたち貧しい者を憐れみ、キリスト同様に死人の中から甦らせてくださいます。キリストと同じ永遠の命を与えられた栄光の体に甦らされます。そして、神の最後の審判の時が訪れ、人類は神に裁かれるのです。その後新しい天地にキリストと共に永遠に生きる貧しい者は、今のこの地上の苦難を二度と味わうことのない平和を得るのです。
主なる神の摂理の中で、今の歴史の中で、社会の中で、キリスト者は貧しい人として生きています。キリストは、「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」と約束されました(マタイ福音書5:3)。主イエスが言われる「貧しい者」は、今の生活状況の中の貧しい人に似ています。働く気持ちがあり、働きたいのに、リストラ、就職難により、低賃金で貧しく、おびえて生活している人です。社会格差により貧しくされた人です。でもキリスト者のすべてが社会格差やリストラ、就職難で、何らかの社会の差別によって貧しくなるわけではありません。だから、主イエスは「心の貧しい者」という制限を付けられました。神の助けと守りを求め続けて生きねばならない心の貧しい者を、神は憐れみ救われると。
心から神により頼み、すべてを神に委ねる貧しい人を、主なる神はお忘れになりません。必ず憐れんで下さいます。
教会に尋ねて来る人はほとんどいません。しかし、いつの時代でも教会に金の無心に来る人はいます。お金を渡すこともあり、食料を渡すこともあり、持って来られた果物を買ってあげることもあります。その時必ず一言言います。「教会の礼拝に来ませんか」と。「あなたのお家の近くの教会の礼拝に出てください」と。しかし、金を無心に来ても、本心からへりくだることは無理のようです。「主よ、お助けください」と、人は生活に少々困っても言えるものではありません。お金より心が大切だと、主イエスは言われますが、人は自分の心を見ることはできません。金や物を失っても、人は生きていけますが、心を失えば、心弱り絶望すれば、生きることはできません。まして心から神を求めないで、自分がどんなに惨めなものかを知ることはできません。
神を知ること、貧しい者を憐れむ神を、十字架のキリストを通してわたしたちへの愛を知らされた神を知ること、これこそが人間最高の喜びです。その喜びが、教会の礼拝にあると確信していますので、金を無心に来る人に教会の礼拝にお誘いしています。でも、主イエスは言われます。「あなたが私を選んだのではなく、わたしがあなたを選んだ」と。主イエスに招かれることなく、礼拝に集うことはできません。貧しい者であるわたしたちを、主なる神はキリストの十字架を通して憐れまれたので、今わたしたちはこうして礼拝し、主なる神を、ダビデ王と同様に賛美しているのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、キリストの十字架をとおして貧しいわたしたちを憐れみ、お救いくださり、この礼拝にお招きくださり感謝します。主イエス・キリストの恵み深い父なる神の愛を、この町の人々に伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。