詩編説教126              主の2023326

都に上る歌。      歌 上りの  

主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて 主がシオンの回復を遂げた

わたしたちは夢を見ている人のようになった。時、わたしたちは夢見る人のよ

そのときには、わたしたちの口に笑いが うであった。そのとき、わたしたちの

舌に喜びの歌が満ちるであろう。 口は笑いで、わたしたちの舌は喜びで満た

そのときには、国々も言うであろう。 されていた。そのとき、彼は言った

「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 異邦人たちの中で。「主は彼らに大きなことをした」と。

主よ、わたしたちのために 大きなことを主は

大きな業を成し遂げてください。 わたしたちに行った。

わたしたちは喜び祝うでしょう。わたしたちは喜んでいた。

主よ、ネゲブの川の流れを導くかのように 主よ、わたしたち捕らわれ人を

わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。 帰してください。ネゲブの   

                      川床のように。

涙と共に種を蒔く人は。涙をもって種を蒔く人は                 

喜びの歌と共に刈り入れる。 喜びでもって刈り入れる。  

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 泣きながら種袋を背負い出て行

束ねた穂を背負い く人は、喜びの中に束をかかげて入って来よう。

  喜びの歌を歌いながら帰ってくる。

           

                   詩編第12616

 

説教題:「涙をもって種を蒔く人は」

 

今朝は、詩編第12616節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編にも、「都に上る歌」という表題があります。巡礼歌です。神の民イスラエルがエルサレム神殿で主なる神を礼拝するためにエルサレムの都に巡礼した時に歌われました。

 

この詩編の理解の鍵は、1節と4節です。1節の「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られる」と4節の「わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください」という御言葉は、定型表現です。この定型表現の特色は、主語が主なる神です。そして、この定型表現の用例は、次の二つです。一般的な状況の転換を表わす場合と捕囚の帰還を念頭に置く場合があります。

 

また、1節と4節の同じ定型表現が同一の事態を述べているのか、それとも異なる事態を述べているのかを、見定める必要があります。

 

新共同訳聖書は、次のようにこの詩編を理解していると、わたしは思います。13節で詩人は、過去に起こったバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還、そして神殿の再建を、主なる神の偉大な御業として回顧しています。

 

それは、バビロン捕囚の神の民イスラエルが、すなわち、詩人たち神の民イスラエルが見た夢でありました。その夢で見たとおりに主なる神が神の民イスラエルをバビロン捕囚からエルサレムに連れ帰ってくださいました。

 

そして、新共同訳聖書は、4節の定型表現を、1節とは異なる事態と見ていると思います。すなわち、神の民イスラエルがエルサレムに帰還しても、バビロン捕囚同様の苦難が続きました。

 

神の民たちは紀元前539年にペルシア帝国のクロス王によってバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還しました。しかし、神殿の再建と共同体の形成は順調に進みませんでした。パレスチナを支配していた他国民によって妨害されたからです。

 

神の民イスラエルは、バビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還後、約150年経てユダヤ教の共同体を形成したのです。その形成途上でこの詩編126編が作られたのです。

 

この詩編は、3つに内容を区分できます。13節、4節、56節です。

 

詩人が1節で「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。」と歌います時、詩人は神の民イスラエルのバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還を、政治的出来事と思ってはいません。2節と3節で「主なる神が大きな御業を成し遂げてくださった」と証言しています。

 

詩人にとって、神の民イスラエルにとって、そして諸国民にとっても、神の民イスラエルのバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還は主なる神の大きな御業でありました。

 

詩人が「わたしたちは夢を見ている人のようになった」と述べているように、主なる神の大いなる御業が神の民たちの無力さの中で行われたのです。

 

神の民イスラエルができることは、その主なる神の御業を感謝し、ほめたたえることだけです。詩人は、「そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう。」と歌っています。

 

神の民イスラエルは、異教の地バビロンで捕囚の民として無力でした。彼らは自らを解放することも、エルサレムに帰ることもできませんでした。

 

昔、主なる神はモーセを神の民イスラエルの指導者に立てられ、エジプトで奴隷生活をしていた神の民を救出されました。同様のことをバビロン捕囚の神の民にしてくださいました。

 

主なる神はペルシアのクロス王を立てて、神の民イスラエルをバビロン捕囚から解放し、エルサレムに帰還させられました。それは、中近東諸国の人々にとって驚くべき出来事でした。「主なる神が神の民イスラエルに、大きな御業を成し遂げられた」ことを目撃したからです。それは、主なる神の摂理の御業でありました。だから、神の民イスラエルだけではなく、周辺諸国の民たちも「主なる神は、この人々に、大きな御業を成し遂げられた」と主をほめたたえました。

 

しかし、詩人は、4節で「主よ、ネゲブの川の流れを導くかのように わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。」と歌っていますね。

 

ネゲブ川は、エルサレムの山地から見て、南の方角にあります。ネゲブとは、乾燥したという意味です。パレスチナの気候は雨期と乾期があります。雨期にはネゲブ川は氾濫します。乾期にはカラカラになります。砂漠の川が豊かな恵みの雨をいただいて、砂漠があっという間に沃地に変わるように、詩人は神の民イスラエルの大転換を願っているのです。

 

バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還した神の民は少数でした。ほとんどのユダヤ人たちはバビロンに、ペルシアの国に根を下ろして、離散のユダヤ人として生活していました。そしてその地で豊かな生活をし、今更荒廃したエルサレムに帰国する気がありませんでした。

 

詩人は、神の民たちの異国の生活を根こそぎにしても、捕囚の地から彼らを約束の地エルサレムに連れ戻してくださいと祈っているのです。

 

わたしたちキリスト者は、この世において神の御国へと旅する者です。しかし、あまりにもこの世を愛し過ぎていないでしょうか。

 

主の祈りに「御国を来たらせたまえ」という祈りがあります。毎週の礼拝で、祈祷会で、男子会や婦人会で主お祈りをします。そしてわたしたちは「御国を来たらせたまえ」と祈ります。この世におけるわたしたちの信仰生活は、その祈りととても隔たっているのではないでしょうか。

 

4節の詩人の祈りは、彼自身の祈りですが、神の民イスラエルへの励ましだと思います。

 

どんなに神の民がこの世における生活を愛しても、神の御国から遠く隔たるとも、詩人は彼らのこの世の生活を根こそぎにしても、彼らを神の約束の地に連れ戻してくださいと祈るのです。そして、詩人は、この世を愛するわたしたちのためにも祈るのです。わたしたちのこの世の生活が根こそぎにされても、どうかわたしたちを御国に連れ戻してくださいと。

 

5節と6節の御言葉は有名です。愛唱聖句の一つにしている兄弟姉妹も多くおられるでしょう。この御言葉は、伝道する者への励ましですし、この世に生きる信仰者への励ましです。特にこの世において苦難の中にいる者を励ましてくれます。

 

神の民イスラエルにとっても、わたしたちキリスト者にとっても、この世は苦難の連続です。一つの苦難の山を乗り越えると次の苦難の山が、わたしたちの前に立ちはだかっています。

 

バビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還は、主なる神の大きな救いの御業です。しかし、救出された神の民イスラエルに次の苦難が待ち受けているのです。主なる神は、バビロンから解放された神の民たちに荒れ地のエルサレムの復興という難事業を課せられました。その事業は、他国人の支配者たちの妨害がありました。エルサレムに帰還しても彼らの土地は他国人に奪われていたでしょう。主なる神に救出されても、現実は彼らに厳しいものでした。苦労が徒労に終わるというリスクがありました。

 

エルサレムに帰還した神の民たちの生活は、農夫たちの生活に似ていました。春に種を蒔いても、秋に収穫があるという保証はありません。それでも、農夫は徒労と思っても、必ず主はお守りくださり、秋には収穫が得られると信じて、田畑を耕し、大麦、小麦の種を蒔くのです。

 

飢饉があれば、農夫は腹を空かせても、小麦、大麦を食べないで、種を取り、蒔きます。秋に収穫するまで、他のもので飢えをしのぎ、秋の収穫に期待するのです。

 

詩人は、5節と6節で主の摂理による約束をもって農夫を、そしてわたしたちを励ましてくれています。

 

詩人は因果応報を述べているのではありません。主なる神は、わたしたちの悲しみを喜びに変えることがおできになると約束しているのです。

 

この世での貧しい生活は、わたしたちの努力によって変えられません。主なる神が神の民たちの、わたしたちの悲しみを喜びに変えてくださることによって変えられるのです。

 

農夫はエルサレムの門を出て、自分の田畑で働き、そして夕刻、そこから門を通って自宅に帰ります。主なる神の慈しみと摂理を通して農夫の一日一日が支えられています。

 

同様にわたしたちも、この世においてはどんな苦難があろうと、涙を流そうと、この世にキリストの教会を建て上げ、人々にキリストの福音を宣べ伝え、そして生活の糧を得て行かなければなりません。

 

この世における生活は、キリストの再臨によってすべては無に帰するでしょう。しかし、わたしたちのこの世における労苦を、キリストは御国に入る喜びとしてくださるのです、わたしたちが家族のために流す涙を、キリストはわたしと家族が御国に入れる喜びに変えて下さるのです。

 

本当にこの世においてわたしたちは、失敗の連続で、涙なしにこの世を語れません。しかし、キリストが十字架に死なれ、三日目に復活され、わたしたちの失敗も涙も喜びに変えて下さるのです。

 

だから、主なる神はわたしたちの涙を、悲しみを喜びに変えてくださるという、この詩人の御言葉に信頼して、今日の一日を、この一週間を、希望をもって生きようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編126編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

レントの季節、キリストの御苦しみを瞑想し、一日一日感謝し、歩ませてください。

 

詩人は、主なる神の大きな御業によってバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できたことを、主なる神に感謝しています。

 

しかし、神の民イスラエルにとって神の約束の地は、平安の地ではなく、むしろ苦難の地でした。第二神殿を再建し、エルサレムの都を再建し、神の民イスラエルの共同体を再建しなければなりませんでした。更に他国人の支配者たちの妨害もありました。

 

神の御国に至るには、苦難の連続です。一見徒労に思えます。しかし、主なる神がわたしたちを守り、悲しみを喜びに変えて下さることを信じさせてください。

 

教会の伝道が不振ですが、どうか、主なる神がわたしたちの教会を変えて下さると信じさせてください。

 

家族のために涙する者を、喜びに変えてください。この世の不正に涙する者を、喜びに変えてください。貧しい者へ援助に労している者たちの空しさや悲しみを喜びに変えてください。

 

平和のために祈る者たちの悲しみを喜びに変えてください。

 

主イエスよ、あなたは「悲しんでいる者たち幸いである、彼らは慰められる」と約束してくださいました。どうか世界中の悲しんでいる者を喜びに変えてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教127             主の2023423

都に上る歌。 ソロモンの詩     歌 上りの ソロモンの  

主御自身が建ててくださるのでなければ もし主が家を建てなければ

家を建てる人の労苦はむなしい。それを建てる者たちの労苦はむなしい。

主御自身が守ってくださるのでなければ もし主が町を守らなければ

町を守る人が目覚めているのもむなしい。見張りが目覚めているのはむなしい。

朝早く起き、夜おそく休み あなたがたにはむなしい。早く起きる者たちよ、遅

焦慮してパンを食べる人よ く座する者たちよ。辛苦のパンを食べる者たちよ。

それは、むなしいことではないか。 

主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。このように彼は与える。愛する

                     愛する者に眠りを。

見よ、子らは主からいただく嗣業。見よ、息子たちは主の嗣業。

胎の実りは報い。 胎の実は報酬。

若くして生んだ子らは、勇士の手の中の矢。 帰勇士の手の中の矢のようだ、若 

いかに幸いなことか い時の息子たちは。幸いだ。                 

矢筒をこの矢で満たす人は。 それらで矢筒を満たす男は。  

町の門で敵と論争するときも 彼らは恥を受けることがない、敵を門で撃退

恥をこうむることはない。するとき。

                     詩編第12715

 

説教題:「主が建て、守られるのでなければ」

 

今朝は、詩編第12715節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編と次の詩編第128編は、結婚式に読まれる御言葉として有名です。それは、この二つの詩編が新しく家庭を作るという意味に取られるからです。

 

1271節の「主御自身が建ててくださるのでなければ」という御言葉は、文字通り主なる神が家を建てられることですが、詩人は家庭を作ること、家庭生活全般のことを歌っています。そういうわけで結婚式にこの詩編が読まれるのです。

 

さて、この詩編は、一般には「知恵の詩」と呼ばれています。イスラエルの知恵ある者は、民衆に生活のための実際的な指針を与えました。そして、この知恵を、イスラエルの人々は生活経験を積んだ長老に求めました。だから、この詩編は表題に、知恵の代表者である「ソロモン」王の名を付しているのです。

 

表題は、後世の人が付したものです。ソロモン王は、イスラエルの中で最も知恵のある人でした。この詩編が知恵と結びつきますので、この詩編はソロモン王が作ったと言う人がいます。また、ユダヤ人たちは、1節の「家を建てる」こととソロモン王の神殿建設を結び付けました。

 

それから2節に「主は愛する者に」とありますね。「愛する者」は、旧約聖書のサムエル記下1225節でソロモン王が「エディドヤ」すなわち、「主に愛された者」と名づけられた由来を記しています。その「エディドヤ」と同じ言葉です。それでこの詩編の表題に、ソロモン王の名が付されたのです。

 

宗教改革者カルヴァンは、表題の「ソロモン」を受け入れて、次のように述べています。「政治上の事柄について教えるのが常であったソロモンが、知恵の霊によって彼が認識し、体験さえした事柄について論ずるというのは、はなはだふさわしいからである。」

 

しかし、現在は、この詩編の表題の「ソロモン」が作者であるとは信じられていません。この詩編はバビロン捕囚の後にイスラエルがエルサレムに帰還し、神殿とエルサレムの城壁を再建したころに作られたと考えられています。

 

この詩編は、二つに内容が区分できます。12節、35節です。12節は、主なる神の祝福なしに、人が家庭を営むことはむなしいことを歌っています。35節は、子供たちは主なる神の祝福であると歌っています。

 

12節で三度「むなしい」という言葉が出てきます。家を建てること、町を守ること、日々の労働、これらは、人のこの世における大切な営みです。人がこの世に生き、生を営むために最低限必要不可欠なものです。しかし、詩人はそれ以上に重要な存在があると歌っているのです。

 

主なる神という存在です。神の民イスラエルにとって、主なる神の存在とその祝福が最も重要なものなのです。だから、どんな人にとっても、その主なる神なしという条件で営まれる生活は、むなしいということです。お金があっても、豊かで便利な生活をしていても、あるいはこの世の有名人、権力者であっても、どんなに魅力ある生活をしていても、詩人は「むなしい」「むなしい」「むなしい」と三度繰り返すのです。

 

聖書の知恵文学の特徴は、具体的な事柄を挙げて、はっきりと教えることです。12節は、家を建てること、町を守ること、日々の勤労という具体的な事柄を挙げて、詩人は主なる神なしでは、それらの営みは皆むなしいと教えているのです。

 

家を建てる時、主なる神が共にいて祝福してくださることが必要です。実際にこのわたしたちの教会を建てる時、この土地を買い、起工式を行って、建てました。それによってこの教会堂は、わたしたちが建てるのではなく、主が建てて下さることを、わたしたちは信じたのです。

 

主なる神はわたしたちの家を建ててくださるだけではありません。助けてくださるのです。何よりもこの教会堂をよしとし、どんな暴風が来ても、この教会堂が倒れないように助けてくださいました。火事から守ってくださいました。

 

主なる神がいてくださり、この教会堂を祝福してくださるから、この教会堂は60年間、今まで継続して来ているのです。

 

さらにこの詩編は具体的な事柄を挙げています。町が守られることです。家庭と教会が守られるためには、町が、この国が平和でなければなりません。

 

主なる神が、諏訪の町を、この日本の国をお守りくださるのでなければ、平和はありません。

 

先週保阪正康氏の「昭和の怪物 七つの謎」という新書を読みました。保阪氏は日本の現代史の専門家です。4000人から証言を集めて、日本がどうして戦争をしたのか、戦争に関わった人々の「歴史の闇」を追い続けておられます。

 

日本が戦争に負けた原因はいろいろありました。しかし、わたしがその本を読んで、それから今、幸日出男氏の「キリスト教と日本」という題の本を読んでいますが、これは近代日本史と信教の自由を取り上げているものです。これらの本を読んで、思いましたことは、明治以降日本という国は、国も日本人の家庭も主なる神なしに人生の営みをしようとしたということです。主なる神の助けなしに日本と日本人の家庭を守ろうとしたのです。

 

戦前の高級軍人たちは傲慢で、アメリカの国力も考えないで、精神論で日本の国を、国民を守れると思っていたのです。

 

しかし、わたしたちが知っていますように、軍人は国も国民も守れませんでした。軍人たちの努力も計画も、アメリカの国力と物量の前にむなしいものでした。日本は首都東京をはじめ、多くの都市をアメリカの空爆によって廃墟と帰しました。広島、長崎は原爆によって町も人々の家庭も廃墟となりました。

 

しかし、先週の木曜日の聖書を学ぶ集いでアモス書を学びましたが、主なる神は預言者アモスを通して北イスラエル王国と神の民の滅亡と破壊をお告げになり、同時に主なる神は、「ヨセフの残りの者を憐れむ」と約束しておられます。主なる神は、日本と日本人の家庭を滅ぼし尽くさず、残りの者たちに憐れみを示されました。

 

わたしは、箴言1022節の、次の御言葉に心を惹かれるのです。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」

 

これが詩編127編の詩人が教える神の知恵です。

 

日々の営みを顧みてください。詩人が2節で歌っているとおりでありませんか。わたしは、子供のころを思い起こします。父や母が朝早く起きて、夜遅くまで働いていたことを。一日の食事も貧しく、大変だったことを。

 

労働時間を長くして、生活費を稼ごうとしていました。それが、わたしの子供のころの日本人の家庭で見られる風景でした。

 

わたしの家庭はキリスト教ではありません。主なる神がおられません。父も母も自分たちの力のみを頼りして生きていました。

 

しかし、今、父と母が一生懸命働いて、守ろうとした家は、他人の手に渡りました。詩人が言うように、主なる神なしの労苦は、むなしいのです。

 

父と母だけではありません。普通、人の一生は大部分が仕事です。そして、それには定年があります。主なる神なしの仕事は、詩人はむなしいと言います。その通りです。テレビで定年を迎えた人の寂しさを放映していました。一所懸命、会社のために働いたのに、定年を迎えた日その人が知ったのは、誰も彼に関心を持たず、一人寂しく会社を去ることでした。

 

詩人は、主なる神が愛する者に眠りを与えられると歌っています。この世において幸せを感じるのは、食べること、眠ることです。どんな時にも食べられること、眠れることほど、幸いを覚えることはありません。睡眠は、詩人が言う通り主が愛される者にお与えくださるプレゼントです。睡眠は、一日の労苦を忘れさせ、明日の活力を与えてくれます。

 

詩人は、この詩編の後半、35節で家庭において子供を与えられるのは、主なる神の祝福であると歌っています。

 

詩人は、3節で「見よ、子らは主からいただく嗣業。」と歌っています。嗣業は、イスラエルが主なる神からいただいたカナンの土地です。主なる神から財産として与えられるものです。

 

子どもが嗣業であるという思想を、この詩人は持っています。子どもたちは、夫婦の努力の結果ではなく、主なる神の嗣業であり、報酬であると、詩人は言っているのです。すなわち、主なる神の恵みの賜物なのです。

 

4節で詩人は、若い時に丈夫な子として産んだ男の子は、何よりの頼りであると歌っているのでしょう。それは、共に敵と立ち向かえるからです。

 

5節で詩人は、幸いな人を歌っています。丈夫な男の子を与えられた人です。彼は、「町の門で敵と論争するとき」と歌っていますね。これは、町の門は裁判の場所だったからです。そこで裁判において敵と論争した時に、子供が彼の助けとなり、恥を蒙ることはないと、詩人は歌っているのです。

 

この詩編がネヘミア・エズラの時代であれば、イスラエルは周辺諸国の敵に囲まれ、エルサレム神殿と城壁の再建に労苦していたときです。神殿の再建も城壁の修復も人出がいります。帰還したイスラエルの神の民たちは、主なる神のお守りと助けを強く願っていたでしょう。更に彼らの家庭に生まれた子供たちの成長を待ち望んでいたでしょう。

 

彼らにとって主なる神の祝福に生きることは、エルサレム神殿と城壁の再建だけではなく、彼らの家庭における子供たちの成長だったでしょう。

 

どんなに時代が変わっても、人の価値観が変わろうとも、主なる神の祝福の中に生きるという神の民たちの信仰に変化はありません。

 

だから、わたしたちも、主なる神が教会、町、国、そして家庭を建て、守られるのでなければ、すべてはむなしいと信仰告白しましょう。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編127編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

主なる神が教会、町、国、わたしたちの家庭を造り、守られるのでなければ、すべてのことはむなしいと、詩篇127編の詩人を通して、主なる神の御心を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちの国も民も、神の民イスラエルと同様に、廃墟となるむなしさを体験しました。しかし、復興して75年を経ましたが、今なお主なる神なしで一生懸命生きています。そして、今日本と国民はいろんな困難なことに直面しています。

 

戦後日本が得意として来た経済に陰りが見え、これまでの労苦が徒労に思えます。

 

だからこそ、わたしたちが主なる神の祝福に生きることにより、周りの人々に大切なことは天地万物の造り主なる神の祝福に生きることだと証しさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教128              主の2023521

都に上る歌。           歌 上りの   

いかに幸いなことか  幸いだ

主を畏れ、主の道に歩む人よ。主を畏れ、主の道に歩む者はすべて。

あなたの手が労して得たものはすべて あなたの両手の労苦の実を

あなたの食べ物となる。まことにあなたが食べる。

あなたはいかに幸いなことか あなたは幸いだ。

いかに恵まれていることか。 あなたによいものがあるように。

妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。あなたの妻はぶどうの木の

食卓を囲む子らは、オリーブの若木。よう。豊かに実る、あなたの家の奥で。

見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。あなたの息子たちは、オリーブの

                  若木のよう、あなたの食卓の回りで。

シオンから 見よ、まことにこのように祝福される主を畏れる男は。

主があなたを祝福してくださるように。あなたを祝福するように、主がシオン                 

命のある限りエルサレムの繁栄を見 から。見よ、エルサレムの良きものを。  

多くの子や孫を見るように あなたの生涯の日々のすべてを。見よ、あなたの

             息子たちの息子たちを。

イスラエルに平和。イスラエルの上に平和。

                     詩編第12816

 

説教題:「幸いな家庭」

 

今朝は、詩編第12816節の御言葉を学びましょう。

 

詩編150編の中で家庭に目を向けている詩編は、詩編第127編と128編だけです。詩編127編が新婚の家庭を祝福する詩編であったとすれば、128編は信仰者の家庭に、神殿の祭司が主なる神の祝福を宣言する詩編です。

 

127編で、詩人は、新婚の家庭を作ることに、文字通り主なる神が家を、すなわち、家庭を建ててくださり、守ってくださるのでなければむなしいと歌いました。そして、128編で、詩人は主なる神を畏れる者の家庭を主なる神が祝福し、繁栄させてくださると歌っているのです。

 

127編と128編は、知恵の詩編です。箴言の17節に「主を畏れることは知恵の初め。」とあります。「主を畏れる」とは、主なる神への信仰のことです。

 

主なる神の「主」という御名は、存在の根源という意味から来ています。主なる神は、旧約聖書の創世記において族長アブラハムと契約を結ばれました。「わたしはあなたとあなたの子孫との神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」という約束です。アブラハムは、主なる神の支えなしにはこの世界に存在することはできないということを信仰体験しました。だから、彼は主を畏れる、すなわち、主なる神のみを信仰し、主なる神のみの命令に従って生涯生きました。

 

アブラハムのように、主なる神を信じる者は、主なる神との関係からこの世の物事を始めます。そして、主なる神を信じ、主なる神の道を歩むのです。

 

詩人は、1節で「いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。」と賛美しています。新共同訳聖書は、意訳しています。詩人の賛美を文字通りに言うと、こうです。「幸いだ。主を畏れ、主の道に歩む者はすべて。」

 

この詩編は、礼拝のために家族で神殿を訪れた神の民に、神殿の祭司が神の祝福を告げているのです。それが、この詩編128編の原風景です。

 

だから、128編は、1節に続いて、4節でこう賛美します。「見よ、主を畏れる人はこのように祝福される」と。祭司が主なる神を畏れる者に、神の祝福の宣言を繰り返しています。

 

1節と4節の主なる神の祝福の宣言に挟まれて、23節に主なる神を畏れる者の家庭が具体的にどのように祝福されているかを、詩人は賛美しています。

 

25節で、主なる神を畏れる者が「あなた」と呼びかけられています。彼は、主なる神と親しい関係にあります。

 

具体的には、二つの祝福が述べられています。第一は、経済的な自立です。2節で詩人は、こう賛美します。「あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。」当たり前のことを、詩人は歌っています。わたしたちは、自分たちの労働によって日々の糧を得ているのです。特別なことではありません。それは、わたしたちにとって普通の生活です。

 

「あなたの手」とは、手のひらのことです。「労して得たもの」とは、そのままに言葉にすれば、「あなたの両手の労苦の実」です。農夫の生活が具体的に歌われています。農夫が一日中疲れるほど働いて得た畑の作物です。それを、農夫は家族と共に食べるのです。それが主なる神の祝福だと、詩人は歌っているのです。

 

詩篇128編は、時代背景が記されていません。バビロン捕囚期以後、ユダヤ人たちはエルサレムの都に帰還しました。しかし、彼らの日常生活はとても困難な状況にありました。

 

預言者ハガイが帰還した神の民たちにハガイ書16節でこう預言しています。「種を多く蒔いても、取入れは少ない。食べても、満足することはなく 飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても、温まることなく 金をかせぐ者がかせいでも 穴のあいた袋に入れるようなものだ。」

 

バビロンから帰還した神の民たちは、エルサレム神殿を再建するために120年の年月を要しました。しかし、帰還した神の民たちの生活が苦しくて、彼らは神殿の再建に心を向けることができませんでした。預言者ハガイは、主なる神がそんな神の民たちに飢饉を与えられたと預言しました。

 

ネヘミヤ記の5章には、帰還した神の民たちの中で不正があり、ネヘミヤがそれを解決し、エルサレムの城壁の再建工事の重荷を取り除いたことを記しています。帰還した神の民たちは、ハガイが預言した飢饉で、同胞の者たちに田畑を売り、家を抵当に入れ、子供たちも奴隷にしなければならないほど困窮したのです。ネヘミヤは貧しい同胞の者たちの訴えを聞いて、富める同胞に貧しい同胞たちを重荷から解放するように働きかけました。

 

ハガイ書やネヘミヤ記を読みますと、経済的に自立し、自分の手の働きで、自分と家族が食事できることが、詩人が「あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか」という賛美につながることを理解できるでしょう。

 

家族が父の働きで、一緒に食卓を家族で囲むことができる。詩編の詩人の時代、神の民がバビロン捕囚からエルサレムの都に帰還した時代、普通のことではありませんでした。

 

主なる神の祝福があるから、神の民は彼らの家庭に幸いがあるのです。「恵まれている」は、善きものがあるということです。わたしたちに家庭が与えられ、家族で一家団欒の食事が出来ることは、まさにそれが主なる神がわたしたちにお与えくださっている善きものなのです。

 

現代は、主なる神を信じる者が少ないです。離婚は、日常の茶飯事です。その離婚によって、シングルマザーと子供たちが家庭の貧困に苦しんでいます。ハガイの預言の言葉のとおりに、貧しく困難な家庭になるだけではなく、その家庭に一家団欒という善いものがありません。

 

わたしの家庭は「幸いで、恵まれている」と思っている人がわたしたちの身の回りにどれぐらいおられるのでしょうか。

 

3節で詩人は、「妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」と歌っています。

 

「妻は家の奥にいて」という御言葉につまずかれる方がいるかもしれません。わたしも、妻のことを、「家内」は言います。無自覚に妻は家の内にいると思っているのでしょう。夫は外で働き、妻は家の中で働くというのは、今日の共働きが普通の世界では通用しません。

 

しかし、聖書の世界では、それが普通です。創世記の18章にアブラハムとサラの子イサクの誕生の予告の物語があります。三人の神の御使いがアブラハムを訪れました。アブラハムはその三人の御使いをもてなしました。そこでアブラハムは、幕屋の奥に行き、妻サラに料理を作るように命じました。サラは、客たちが入れない奥の部屋にいて、料理を作りました。そしてアブラハムがそれを客の前に出して、もてなしました。

 

アブラハムの時代、妻は家の奥にいるが当たり前だったのです。

 

「実を結ぶぶどうの木」は、多産をイメージしています。多くの子が与えられることが神の祝福でした。オリーブの木も活力や繁栄の譬えです。子どもたちが元気に食卓を囲んで食事をしているということは、日常のことではなかったでしょう。今でもアフリカや貧しい国々では、子供たちの死亡率は非常に高いです。だから、「幸いだね。恵まれているね。」と言える家族は、本当に少ないと思うのです。

 

5節と6節前半で、詩人はこう賛美しています。「シオンから 主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見 多くの子や孫を見るように。」

 

神殿の祭司は、神を畏れる者、「あなた」に主なる神の祝福を宣言しています。そして、神を畏れる者の家庭の信仰と祝福がエルサレムの繁栄と将来の基盤となっているのです。

 

シオンは、主なる神がいますエルサレム神殿です。そこから神の祝福が神の民たちの家庭に訪れるのです。

 

主なる神は、神の民イスラエルの各々家族を祝福されるだけではありません。主なる神は、神の民イスラエルの全体を祝福されます。エルサレムは神の民たちの都ですが、彼らの信仰の共同体そのものです。

 

わたしは、56節前半は、わたしたちの家庭と教会の関係だと思います。エルサレムの信仰の共同体の幸いと恵みは、主なる神の祝福から来ているのです。主なる神は、神の民たちのおのおのの家庭を祝福され、彼らの信仰の共同体を祝福されます。

 

「命のある限り」は、神の民の全生涯です。主なる神を畏れる「あなた」には、シオン、エルサレムから、主なる神がいます神殿から彼の全生涯にわたって主なる神の祝福があります。そして主なる神の祝福と恵みがエルサレムを、信仰の共同体を繁栄させるのです。

 

信者の家庭から教会へと、主なる神は祝福してくださるのです。家庭が何の負債もなく、日々夫の労働によって支えられ、妻が家庭を守り、子供たちが元気に日々を過ごし、一家の団欒があることが幸せなのです。この幸せと恵みは、主なる神が主を畏れる者にお与えになる祝福です。そして、主なる神はシオンに、エルサレムの神殿にいますゆえに、シオン、エルサレムこそが主なる神の祝福と恵みの源なのです。

 

そして、6節の後半で詩人は「イスラエルに平和」と歌っています。神の民の家庭からイスラエルの信仰共同体へと神の平和が広がって行くのです。

 

詩篇128編から次のことを教えられます。わたしたちの教会が祝福されえるためには、わたしたちの家庭が祝福されなくてはなりません。そのためには、わたしたちが主なる神を恐れて生きることです。具体的には、神礼拝の人生を生きることです。そのとき、主なる神はわたしたちの家庭を祝福してくださるのです。わたしたちの家庭に日々の糧をお与えくださいます。子どもたちを与えてくださり、元気に成長させてくださいます。

 

この上諏訪湖畔教会に、わたしたちの子や孫が加えられることを祈り求めようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編128編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

詩篇128編の詩人を通して、主なる神が神を信じる者に家庭の祝福を宣言されたことを学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちの家庭を、主イエスは祝福してくださり、日々の糧をお与えくださっています。わたしたちの労働によってわたしたちの家庭が支えられている恵みを感謝します。

 

夫と妻が与えられ、子供や孫を与えられ感謝します。

 

どうかわたしたちの家庭からこの教会の祝福へと、またこの教会から日本の祝福へと、そして、世界の祝福へと広げてください。

 

どうか、この日本の国を、御言葉の飢饉から救い出してくださり、主なる神を畏れる者たちを起こしてくださり、日本の家庭を祝福してください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教129              主の2023625

都に上る歌。           歌 上りの   

イスラエルは言うがよい。  しばしばわたしが若かったときから

「わたしが若いときから 彼らはわたしを攻撃した、

彼らはわたしを苦しめ続けたが と、イスラエルは言うがよい。

わたしが若いときから わたしが若かったときから

彼らはわたしを苦しめ続けたが しばしば彼らはわたしを攻撃した。

彼らはわたしを圧倒できなかった。 しかし彼らはわたし勝てなかった。

耕す者はわたしの背を耕し わたしの背を耕した、耕す者たちが。

畝を長く作った。」 長く伸ばした、彼らの畝を。

 

主は正しい。主は義しく

主に逆らう者の束縛を断ち切ってくださる。彼は邪悪な者たちの綱を断ち切

シオンを憎む者よ、皆恥を受けて退け。った。恥を受け、後ろに退け。シオン                 

抜かれる前に枯れる屋根の草のようになれ。を憎む者はすべて。彼らが屋根の  

刈り入れても手を満たすことはないように。 草のようになるように、抜かれ

穂を束ねてもふところを満たすことはないように。る前にそれは枯れる。刈り

傍らを通る者が 入れる者が手を、穂を束ねる者が懐を満たさない。そして

「主はあなたがたを祝福される 通行人は言わない。「主の祝福があなたがたに。

わたしたちも主の御名によって わたしたちはあなたがたを祝福する、主の御

あなたがたを祝福する。」と言わないように。 名によって」と。

                     詩編第12918

 

説教題:「主の正義を信じて、耐え忍ぶ」

 

今朝は、詩編第12918節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、詩篇124編と似ています。詩人は1節で、「イスラエルは言うがよい。」と歌っていますね。詩編124編も1節で、詩人が「イスラエルよ、言え。」と歌っています。

 

それだけではなく、詩人は、8節で「わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」と歌っていますが、1248節で「わたしたちの助けは 天地を造られた主の御名にある」と歌っています。どちらも、祝福の宣言です。

 

また、どちらの詩編もその内容が似ています。二つの詩編は、敵の中にあっても、主なる神が守ってくださるという信仰の告白が、神の民イスラエルの出エジプトやバビロン捕囚からの解放という歴史的な体験を通して表明されているからです。

 

124編と129編は、エルサレム神殿の礼拝で用いられたでしょう。「イスラエルよ、言え。」「イスラエルは言うがよい。」という御言葉は、神殿での礼拝を指導する祭司が、自分と和してこの信頼の歌を歌えと、礼拝する神の民に勧告しているのです。

 

1節と2節で同じ言葉が繰り返されていますね。「わたしが若いときから 彼らはわたしを苦しめ続けたが」という御言葉です。

 

「わたし」は、神の民イスラエルのことです。神の民イスラエルがエジプトで奴隷生活をしていたことを、あるいはバビロニア捕囚で苦しめられたことを思い起こしているのでしょう。

 

「若いときから」という御言葉は、旧約聖書の十二小預言書のひとつ、ホセア書の111節の御言葉を思い起こします。預言者ホセアは、神の民イスラエルがエジプトで奴隷生活をし、主なる神に助け出されて、神の民とされたことを次のように預言しました。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」と。

 

だから、1節と2節の繰り返された御言葉は、神の民イスラエルの歴史における危機と主なる神の救いの体験を歌っているのです。神の民イスラエルが若いころ主なる神に救われて、奴隷の地エジプトから脱出し、紅海の海を渡り、シナイ山へと導かれました。そして、主なる神は約束の地カナンに定住した神の民イスラエルを周辺諸国から守られ、ダビデ王国を据えられました。

 

しかし、神の民イスラエルは、主なる神の御前に偶像礼拝の罪を犯しました。その結果、ダビデ王国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。そして、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされました。北イスラエル王国の神の民たちは歴史から消えましたが、南ユダ王国の神の民たちはバビロン捕囚からユダヤに帰還し、エルサレム神殿とエルサレムの都の城壁を再建しました。

 

それから、バビロン捕囚の神の民たちの中には、離散のユダヤ人としてペルシア帝国に留まる者たちがいました。その時ユダヤ人に敵対する者がペルシア帝国内からユダヤ人たちを撲滅しようと計画しました。主なる神は、ペルシア王の妃になったエステルを通してユダヤ人たちを救われました。

 

出エジプトの事件、バビロン捕囚、そして、ユダヤ人を撲滅する計画から、主なる神は神の民イスラエルを救われました。それゆえに詩人は2節で「彼らはわたしを圧倒できなかった」と歌っているのです。「圧倒できなかった」とは、敵対する者たちが、神の民イスラエルに勝てなかったということです。

 

3節で詩人が「耕す者はわたしの背を耕し 畝を長く作った」と歌っていますね。神の民イスラエルが畑にたとえられています。畑を耕す者は神の民イスラエルの敵です。地を耕すように、敵は神の民イスラエルを奴隷にし、あるいは捕囚しました。神の民たちは、敵たちに背中に鞭を打たれ、傷つけられました。その神の民たちの苦難が歌われているのです。

 

そして、4節で詩人は、「主は正しい」と歌っていますね。詩編11656節で「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。」と歌っています。

 

主なる神が正義であられるお方であることは、神の民イスラエルにとって憐れみ深く、情け深く、弱く哀れな神の民を救ってくださるお方だということです。

 

主なる神は、神の民イスラエルの先祖であるアブラハムと恵みの契約を結ばれました。主なる神は彼に約束されました。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの神となる」と。

 

それゆえに主なる神は、アブラハムとの約束を思い起こされて、エジプトでの奴隷の束縛を断ち切られて、神の民イスラエルを解放されました。また、バビロン捕囚の束縛を断ち切られて、神の民イスラエルを解放し、エルサレムに帰還させてくださいました。

 

5節で詩人は、「シオンを憎む者よ」と呼びかけていますね。「憎む」という言葉は、敵視するから嫌う、避けるまでを意味する御言葉です。シオン、すなわち、エルサレムの都を攻撃する敵国から、エルサレムの神殿の礼拝を疎んじるユダヤ同胞の不敬虔な者までを意味しています。

 

敵国の異邦人たち、同胞の不敬虔な者も、詩人は主の御前で恥を受けて、退けと歌っています。そして屋根に生え出る草のようになるようにと、詩人は彼らを呪っているのです。

 

ユダヤ人の家の屋根は、泥塗です。風に運ばれた草の種が芽を出しても、パレスチナは空気が乾燥し、太陽が照り続けるので、根が枯れてしまいます。だから、詩人は、収穫期の麦のように、刈り入れ人や麦の穂を集める人を喜ばせることができないと歌っています。

 

8節は、挨拶と祝福の宣言が一緒になっています。分けた方がよいと思います。傍らを通る者が「主はあなたを祝福される」と言わないように、という挨拶の言葉と、「わたしたちも主の御名によって あなたがたを祝福する」という神殿の祭司が礼拝者たちを祝福する宣言です。

 

この詩編は、124編と同じように、神殿の祭司の祝福の宣言で終わっているのです。

 

エルサレム神殿の礼拝において、この詩編は14節までを神殿の祭司たちが歌い、58節の挨拶の言葉までを神の民イスラエルの歌い、最後に祭司が祝福の宣言をして終わりました。

 

今のわたしたちの礼拝が礼拝の招きで始まり、祝福の宣言で終わるように、詩篇124編と129編は、礼拝の招きで始まり、祝福の宣言で終わっています。そして、祭司たちは神の民イスラエルに、神の民の救済史を物語るのです。その中で中心となるメッセージは、「主は義しい」という福音であります。

 

主なる神は義しいお方です。アブラハムとの恵みの契約のゆえに弱くて哀れな神の民イスラエルを憐れみ救ってくださいました。主は神の民を奴隷の軛、捕囚の軛から断ち切って、彼らを自由にしてくださいました。

 

主は義しいお方です。だから、コロナウイルスの災禍、この世における経済的不正と搾取に苦しむ弱い哀れなわたしたちを救われます。

 

旧約聖書の神の民たちに預言されたように、主イエス・キリストの十字架のゆえに、この世の罪と死の軛を断ち切られ、わたしたちを自由にしてくださいます。

 

また、主イエス・キリストは死人の中から復活されました。それによって御自身が義なるお方であることを証しされました。主イエスは、この世の悪からわたしたちをお救いくださります。わたしたちを神の御国の民として、新しい生を生きることができるようにしてくださいました。

 

だから、わたしたちも詩編129編の詩人同様に、神の御国への巡礼者です。この巡礼者は、自分が正しいと信じてはいません。むしろ、キリストが義しいお方であると信じて、この世におけるあらゆる試練を耐え忍ぼうとしているのです。この世のあらゆる敵対者に、傷つけられ、蔑まれるかもしれません。しかし、それは、主イエスが歩まれた十字架への道です。神の民イスラエルが待ち望む希望の道です、我らの国籍が天にあるという。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編129編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

詩篇129編の詩人は、過去における主なる神に救いに心を向けています。神の民イスラエルは、何度もこの世において命の危険を経験しました。その中で主なる神は義なるお方であるゆえに、神の民イスラエルを守り、救われました。

 

主なる神は、シオンを憎む者から、神の民を守り救われました。どうか、教会を憎み、キリスト者を憎む者から、わたしたちを守り、お救いください。

 

どうか、御国への巡礼者として、この世における罪を、死を断ち切ってください。我らの国籍が天にあることを感謝させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教130              主の2023723

都に上る歌。           歌 上りの   

深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。 深い淵からあなたを呼びます、主

主よ、この声を聞き取ってください。 よ。わが主よ、聞き給え、わたしの声を。

嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。あなたの両耳を傾け給え、わたし

                    の嘆願の声に。

主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、あなたが諸々の咎を

主よ、誰が耐ええましょう。 見張られるならば、誰が立ち得るでしょう。

しかし、赦しはあなたのもとにあり 実に赦しはあなたと共にある。

人はあなたを畏れ敬うのです。 あなたが畏れられるために。

 

わたしは主に望みをおき わたしは待ち望みます、主よ。

わたしの魂は望みをおき 待ち望みます、わたしの魂は。

御言葉を待ち望みます。 彼の言葉を、わたしは待ち望みます。

わたしの魂は主を待ち望みます。 わたしの魂は、わが主を。                 

見張りが朝を待つにもまして  夜回りが朝を  

見張りが朝を待つにもまして。 夜回りが朝を(待つより)

 

イスラエルよ、主を待ち望め。待ち望め、イスラエルよ、主を。

慈しみは主のもとに 実に主と共に、慈しみが。

豊かな贖いも主のもとに 主と共に贖いが豊かにある。

主はイスラエルを 彼は贖い出される、イスラエルのすべてから

すべての罪から贖ってくださる。 諸々の咎を。

                     詩編第13018

 

説教題:「赦しはあなたのもとにあり」

 

今朝は、詩編第13018節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、巡礼歌、「都に上る歌」を集めた詩編の中で11番目のものです。そして悔い改めの7つの詩編の一つでもあります。悔い改めの7つの詩編の第六番目のものです。この詩編は、罪の悔い改めの礼拝と訓練において用いられました。

 

さて、詩人は、1節で「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。」と賛美しています。

 

「深い淵の底から」というのは、意訳です。「深い所から」です。それは、深い海の底に、全く光の届かない所です。

 

詩人は、海の底、光の届かない所から、主なる神に嘆願を呼びかけています。1節と2節です。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」。

 

古代の神の民イスラエルは、天と地と陰府という三層の世界像の中に生きていました。天は主なる神がいますところであり、地は人が住む所です。そして、陰府は、死者の世界です。だから陰府は主なる神から一番遠い所で、神の恩寵の光が届かない所です。まさに主なる神との交わりが断たれたところです。

 

詩人は今その陰府の世界にいるのです。海の底と同様に、陰府の世界も罪に苦しみ沈んでいる詩人の苦しみをたとえているのです。

 

底なしの悩みから、自ら希望の光を見いだせない所から、詩人ができる唯一のことは主なる神に祈るということだけでした。

 

1節と2節の詩人の御言葉は、詩人が彼の祈りの声を、主なる神にお聞きくださいという嘆願で始まっています。

 

詩人は、主なる神に祈っています。主なる神の恩寵の光が届かない所から。

 

わたしたちは、この詩人の祈りを信じることができますか。主なる神から一番遠く離れた所で、はっきり言って、主なる神に見捨てられた所で、この詩人のようにわたしたちは主なる神に祈ることが出来ますか。

 

詩人は祈ることができました。彼は、主なる神を「あなた」と親しく呼びかけて、「主よ、わたしの嘆願の祈りを聞き届けて聞いてください」と呼びかけています。

 

この詩人の祈りは、神の恵みの奇跡であると、わたしは思います。詩人は、主なる神から遠く離れた所に、主なる神に見捨てられた所に置かれているのに、そこから主なる神に呼びかけて祈りました。

 

その祈りによって、詩人にとって遠くにいます神が彼の身近な神となるという恵みを得ているのです。

 

詩人は、34節で続いてこう歌っています。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら 主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです。」

 

詩人が嘆願する主なる神は、木や石の偶像ではありません。わたしたち同様に生きた神です。人格を持つ神です。だから、主なる神は、わたしたち人間の罪を常に見張られています。

 

だから、主なる神はわたしたち人間の罪を逐一記録し、処罰を下すことがおできになるのです。だから、詩人は主なる神がわたしたちを罪ある者として心に留められ、裁かれたなら、わたしたちは誰一人主なる神の御前に正し者として立つことはできませんと述べているのです。

 

それだけではありません。主なる神は、御自身の御前で犯すわたしたちの罪を赦すことがおできになります。

 

わたしたちの罪を裁くのではなく、赦してわたしたちを神の御前に立たせるために、主なる神はわたしたちが神との交わりで障害となります罪を取り除いてくださるのです。

 

詩人の時代、主なる神は彼や神の民の罪を取り除くために、礼拝において動物犠牲を捧げさせられました。犠牲の動物の血によって神の民の罪が赦され、神の民は主なる神との交わりを回復することができました。

 

この動物犠牲は、来るべきキリストの型です。キリストの十字架の罪の赦しによって、わたしたちは恐れることなく、主なる神の御前に出ることが許されたのです。

 

詩人は、56節で主なる神を待ち、御言葉を待つと歌っています。詩人は、主なる神が「あなたの罪を赦す」と宣言してくださる御言葉を待ち望むと歌っているのです。

 

「わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして」。

 

詩人は、主なる神の救いに望みを置き、心から主なる神の救いに期待すると述べているのです。6節は、エルサレムの城壁を警護する夜回りが朝が来るのを待つように、詩人は熱心に主なる神が彼を救いに来られるのを待つと述べています。

 

78節で詩人は、主に祈りを呼ばわることから、主の贖いを待ち望むように、イスラエルの共同体に呼びかけています。

 

赦しは、慈しみと贖いという言葉に置き換えられています。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに 主はイスラエルを すべての罪から贖ってくださる。」

 

「慈しみ」は、恵みの契約に基づく神の民イスラエルに対する主なる神の愛です。「豊かな贖い」は、出エジプトやバビロン捕囚からの解放のように、神の民イスラエル全体の救いのことです。

 

主なる神は、アブラハムとの恵みの契約に基づいて奴隷の地エジプトから神の民イスラエルを解放されました。そして、バビロンの異教の地から神の民イスラエルを解放し、エルサレムに帰還させられました。

 

そして、詩人が期待し、待ち望みました主は来て下さいました。そして、十字架の贖いによってわたしたちを罪から解放してくださいました。キリストは、御自身の犠牲によってわたしたちの罪を贖われました。そして、わたしたちを神の子とし、御国の相続者とされ、この世から御国へと導いてくださるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編130編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

詩人は、自らの罪による苦しみから、主なる神の罪の赦しに与る恵みを得ただけではなく、神の民イスラエルの全体を贖われる主なる神の愛を願い求めています。

 

どうか、わたしたちも自分たちが罪を赦されることを願い求めるだけではなく、この教会の救いを願い求めさせてください。

 

キリストの十字架の贖いを通して、恵みの契約に基づく神の愛を、この礼拝を通してほめたたえさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。