詩編説教106               主の2019825

 

ハレルヤ。 ハレルヤハ(主をほめよ)。 

 

恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。感謝せよ、主に。彼の慈しみは、

 

主の力強い御業を言葉に表し まことに良く、まことに永遠。誰か、主の力

 

主への賛美をことごとく告げうる者があろうか。強い業を語り、彼への賛美

 

いかに幸いなことか、裁きを守り のすべてを聞かせる者は。幸いだ、裁きを

 

どのような時にも恵みの業を果たす人は 守り、いかなる時にも義を行う者は。

 

主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき 主よ。わたしを覚えてください、 

 

わたしに御心を留めてください。 あなたが民に好意を示される時に。

 

御救いによってわたしに報いてください。あなたの御救いによって、わたしを

 

あなたの選ばれた民に対する恵みを見。訪れてください。あなたの選ばれた民

 

あなたの国が喜び歌うとき共に喜び祝い の幸いを見、あなたの国民の喜びを

 

あなたの嗣業の民と共に 喜びとし、あなたの嗣業と共に誇るために。

 

誇ることができるようにしてください。

 

わたしたちの先祖と同じく罪を犯し わたしたちは罪を犯した、わたしたちの

 

不正を行い、主に逆らった。 先祖と共に。不義を行い、悪事を働いた。

 

わたしたちの先祖は、エジプトで わたしたちの先祖はエジプトで悟らなか

 

驚くべき御業に目覚めず った、あなたの不思議な御業を。

 

豊かな慈しみに心を留めず 彼らは心に留めなかった、御慈しみの多くを。

 

海辺で、葦の海のほとりで反抗した。 彼らは逆らった、海のほとり、葦の

 

主は、御名のために彼らを救い 海で。主は彼らを救った、彼の御名のために。

 

力強い御業を示された。 知らせるために、彼の力強い御業を。

 

葦の海は主に叱咤されて干上がり 彼は葦の海を叱咤した。するとそれは干

 

彼らは荒れ野を行くように深い淵を通った。あがった。彼らは荒れ野のように

 

主は憎む者の手から彼らを救い 深い淵を歩かせられた。彼は彼らを憎む者の

 

敵の手から贖われた。 手から救った。彼は彼らを敵の手から贖った。

 

彼らを苦しめた者はすべて水に覆われ 水が覆った、彼らを苦しめる者たちを。

 

生き残る者はひとりもなかった。 彼らのうち一人も残らなかった。

 

彼らは御言葉を信じ 彼らは信じた、御言葉を。

 

賛美の歌を歌った。 彼らは歌った、彼への賛美を。

 

 

 

彼らはたちまち御業を忘れ去り 彼らはすぐに彼の御業を忘れた。

 

神の計らいを待たず 彼の助言を待たなかった。

 

荒れ野で欲望を燃やし 彼らは荒れ野の中で欲望を欲した。

 

砂漠で神を試みた。 彼らは砂漠で神を試みた。

 

主はその願いをかなえられたが  彼は彼らの願いをかなえられたが、

 

彼らをやせ衰えさせられた。 彼は彼らの体にやせる病を遣わした。

 

彼らは宿営でモーセをねたみ 彼らは妬んだ、モーセを、

 

主の聖なる人アロンを妬んだ。 聖なる人アロンを、宿営で。

 

地は口を開けてダタンを呑み込み 地は口を開き、ダタンを呑み込み、

 

アビラムの仲間を覆った。 アビラムの仲間を覆った。

 

火が彼らの仲間に向かって燃え上がり 火が燃え上がった、彼らの仲間の中で。炎が神に逆らう者を焼き尽くした。 炎が悪者たちを焼き尽くした。

 

 

 

彼らはホレブで子牛の像を造り 彼らは造った、ホレブで子牛の像を。

 

鋳た像に向かってひれ伏した。 そして彼らは鋳た像にひれ伏した。

 

彼らは自分たちの栄光を 彼らは取り替えた、自分たちの栄光を

 

草をはむ牛の像と取り替えた。 草を食べる雄牛の像と。

 

彼らは自分たちを救ってくださる神を忘れた。 彼らは忘れた、自分たちを

 

エジプトで大いなる御業を行い 救ってくれる者、エジプトで大きな御業

 

ハムの地で驚くべき御業を を行う者を、ハムの地で不思議な御業を、

 

葦の海で恐るべき御業を 葦の海のほとりで恐るべきことを行われた方を。

 

成し遂げられた方を忘れた。 

 

主は彼らを滅ぼすと言われたが 彼は言った、「彼らを滅ぼそう」と。

 

主に選ばれた人モーセは 彼の選ばれた人、モーセが

 

破れを担って御前に立ち 御前の破れに立ち

 

彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。滅ぼそうとする彼の怒りを戻さなければ。

 

彼らは愛すべき地を拒み しかし、彼らは拒んだ、愛すべき地を。

 

御言葉を信じなかった。 彼らは彼の御言葉を信じなかった。

 

それぞれの天幕でつぶやき 彼らはつぶやいた、彼らの天幕で。

 

主の御声に聞き従わなかった。 彼らは聞き従わなかった、主の御声に。

 

主は彼らに対して御手を上げ 彼は上げた、彼の手を彼らに。

 

荒れ野で彼らを倒された。荒れ野の中で彼らを倒すために。

 

子孫は諸国の民に倒され 彼らの子孫を、諸国の中で倒すために。

 

国々の間に散らされることになった。 そして、彼らを諸国の中にまき散らす

 

 

 

彼らはバアル・ペオルを慕い ために。彼らはバアル・ペオルに関係し、

 

死者にささげた供え物を食べた。 死者たちへの犠牲を食べた。

 

この行いは主の怒りを招き 彼らは彼を怒らせた、彼らの行いによって。

 

疫病が彼らの間に広がった。 発生した、彼らの中に疫病が。

 

ピネハスが立って祈ると ピネハスが立ち、裁いた。

 

疫病はとどめられた。 その疫病は止められた。

 

これは代々に、そしてとこしえに 代々にわたり、永遠に、

 

ピネハスの正しい業と見なされるであろう。 彼の義と認められた。

 

 

 

彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。彼らは怒らせた、メリバの水の

 

彼らをかばったモーセは不幸を負った。 ほとりで。モーセは災いにあった、

 

彼らがモーセの心を苦しめたので 彼らのために。まことに彼らはモーセの霊

 

彼がそれを唇にのせたからであった。に逆らった。そして、彼の唇で軽率なことを口走った。

 

主が命じられたにもかかわらず 彼らは滅ぼさなかった、諸国民を、

 

彼らは諸国の民を滅ぼさず 主が彼らに命じられたように。

 

諸国の民と混じり合い 彼らは諸国民に交じり合った。

 

その行いに倣い そして、彼らは倣った、彼らの行いを。

 

その偶像に仕え そして、彼らは彼らの偶像に仕えた。

 

自分自身を罠に落とした。 そして、それらは彼らの罠となった。

 

彼らは息子や娘を悪霊に対するいけにえとし 彼らは犠牲として殺した、彼ら

 

無実なものの血を流した。の息子と娘を悪霊のために。彼らは血を注いだ、彼

 

カナンの偶像のいけにえとなった息子や娘の血は らの息子と娘たちの清い

 

この地を汚した。 血を。彼らがカナンの偶像に犠牲として捧げた彼らの 息子と娘たちの血がこの地を。汚した、

 

彼らは自分たちの行いによって汚れ 彼らは彼らの行為によって汚れた。

 

自分たちの業によって淫行に堕ちた。彼らは姦淫した、彼らの行いによって。

 

主の怒りは民に向かって燃え上がり 主の怒りが燃え上がった、彼の民の上に。御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし 彼は忌み嫌った、彼の嗣業を。

 

彼らを諸国の民の手に渡された。 彼は彼らを諸国民の手に渡した。

 

彼らを憎む者らが彼らを支配し 彼らを憎む者たちが彼らを支配した。

 

敵が彼らを虐げ 彼らの敵が彼らを虐げた。

 

その手によって彼らは征服された。御彼らは征服された、彼らの手の下に。

 

主は幾度も彼らを助け出そうとされたが 多くの回数彼は彼らを救い出した

 

彼らは反抗し、思うままにふるまい しかし、彼らは相謀って逆らった。

 

自分たちの罪によって堕落した。そして彼らの不義によって低くされた。

 

主はなお、災いにある彼らを顧み しかし、彼は見た、彼らの苦難を。

 

その叫びを聞き 彼らの叫びを聞かれた。

 

彼らに対する契約を思い起こし 彼は思い起こした、彼らのために彼の契約を。

 

豊かな慈しみに従って思いなおし 彼は思い直した、彼の慈しみの多さによっ

 

彼らをとりこにしたすべての者が て。彼は彼らに憐れみを与えた、彼らを捕

 

彼らを憐れむように計らわれた。 囚した者たちのすべての前で。

 

 

 

わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い わたしたちを救い給え、主よ。わ

 

諸国の中からわたしたちを集めてください。たしたちの神。諸国からわたした

 

聖なる御名に感謝をささげ ちを集めたまえ。あなたの聖なる御名に感謝する

 

あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。ために。あなたへの賛美を誇るために。

 

イスラエルの神、主をたたえよ たたえよ、主は、イスラエルの神。

 

世々とこしえに。 永遠から永遠まで

 

民は皆、アーメンと答えよ。 言え、すべての民は「アーメン」と。

 

ハレルヤ ハレルヤハ

 

 

 

                 詩編第106148

 

 

 

説教題:「我らも先祖と共に罪を犯した」

 

 

 

詩編第106148節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編104編-106編は終わりに「ハレルヤ」という共通の言葉で閉じられています。この3つの詩編はハレルヤ詩編と呼ばれています。

 

 

 

この3つのハレルヤ詩編には表題がありません。106編は、初めと終わりに「ハレルヤ」という言葉が置かれています。

 

 

 

 また、106編は、107編同様に「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」という賛美で始まっています。

 

 

 

 106編の詩人は、「ハレルヤ」で歌い始め、「ハレルヤ」でこの詩編を閉じずにはいられませんでした。主をほめたたえずにはおれなかったからです。

 

 

 

 105編の詩人は、族長アブラハムから約束の地カナンを取得するまでの神の御救いの歴史を回顧して、主なる神の御救いの御力を賛美しました。詩編106編の詩人は、出エジプトからバビロン捕囚、そしてエルサレム帰還までの主なる神の慈しみと神の民たちの罪の歴史を回顧し、アブラハムとの契約をお忘れにならないで、神の民の忘恩と反逆にもかかわらず、主が慈しみによって神の民を救われたことを物語り、主なる神をほめたたえています。

 

 

 

 長い詩編ですから、11節説き明かすことはできません。

 

 

 

 そこでわたしは、大まかにこの詩編の内容をお話しします。次にわたしは、この詩編の現代的意義をお話しします。今のわたしたちの教会とわたしたちの信仰生活にとって、この詩編はどのように関係し、意味があるのかということをお話しします。

 

 

 

 15節がこの詩編の序文であり、その内容は礼拝への招きです。

 

 

 

詩人は「ハレルヤ」、「主をほめたたえよ」という賛美の言葉で会衆を礼拝に招いています。

 

 

 

 詩人は、イスラエルの会衆に向かって1節で「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」と賛美します。詩人は主なる神に招かれた会衆に彼らの救いにおいてとこしに慈しみを示された「主に感謝」せよと歌っています。

 

 

 

2節で、詩人は、会衆に向かってだれが主なる神に賛美をささげる資格があるのかと問うているのです。

 

 

 

3節で詩人は会衆に幸い、すなわち、礼拝者の祝福を歌っています。それは、「裁きを守り、どのような時にも恵みの業を果たす人」です。いつも正しい人です。偏見がなく公正で、正義を行う人です。詩人は、その人には主を賛美する資格があると歌っています。

 

 

 

そして、45節で詩人は、会衆と共に主の民の救いを共に味わい、喜びに満ちた主への賛美に会衆と共に参与することが許されるように祈り求めているのです。

 

 

 

詩人にとって礼拝に集い、会衆と共に主を礼拝賛美することは、主に選ばれ、救われた者たちの幸いなのです。詩人は、主が招かれ、迎え入れてくださった会衆の中にわたしもいさせてくださり、主がわたしに心を留めてくださるようにと祈っているのです。

 

 

 

詩人にとって礼拝は、神の慈しみであり、その神の慈しみを味わう喜びの場所なのです。

 

 

 

646節がこの106編の本文です。詩人は、105編の主なる神の恵みの救いの歴史と共に神の選民イスラエルの罪の歴史を告白しています。

 

 

 

詩人は、6節で「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し 不正を行い、主に逆らった」と告白し、次のように神の民イスラエルの罪を告白しています。

 

 

 

712節は出エジプトでの罪です。1333節は民数記の荒れ野におけるイスラエルの民の罪です。3438節は士師記、列王記のイスラエルの民が約束の地カナンで犯した罪です。3946節は、列王記の下の北イスラエル王国と南ユダ王国での罪、バビロン捕囚、そしてエルサレム帰還です。

 

 

 

出エジプトの出来事から荒れ野を経てカナンに定住し、そしてバビロンに捕囚され、そして解放されエルサレムに帰還するまで、およそ750年の歴史です。詩人は、その歴史を主なる神の慈しみと神の民の罪の歴史と見ているのです。

 

 

 

わたしは、思います。詩人は、ペルシア時代にエルサレムに帰還した神の民の一員だったと。彼はエルサレムの神殿で主なる神を礼拝し賛美しました。その度に彼は、主なる神がアブラハムとの契約を忘れず、不思議な御業によって神の民イスラエルを救われました慈しみを覚えました。同時に彼の先祖たちと自分たちが犯し続けた罪を思い起こさないわけにゆきませんでした。

 

 

 

彼らの罪は、次のようなものです。小心なこと、常にこの世を恐れています。だから、主を信じません。常に忘恩です。主なる神の恵みと御救いの御業をすぐに忘れてしまいます。むさぼり、主なる神への不従順、偶像礼拝等です。

 

 

 

詩人は646節まで神の民イスラエルの歴史がどんなに罪深い歴史であったかを告白しています。わたしたちの目には絶望的な状態です。詩人は、その状況でエルサレム神殿が再建されている中でこの詩編を礼拝詩編として作りました。

 

 

 

神の民の罪とそれに対する主なる神の報復によって、先祖たちと同じように罪を犯した神の民たちは、バビロンに捕囚され、そして解放されて、エルサレムに帰還しました。帰還しないで、離散のユダヤ人として異国で多くの神の民たちが生活していました。

 

 

 

帰還した神の民たちも多くの苦しみを経験していました。諸国の民に苦しめられ、同胞の民の不正に苦しめられました。詩人は、帰還した神の民たちが、エルサレム神殿に巡礼で来る離散のユダヤ人たちが喜びをもって礼拝をささげるために、この詩編を作りました。

 

 

 

彼は彼の先祖たちの罪と同じ罪を犯したと告白することで、主なる神の慈しみと恵みの救いを、主なる神は常に罪を犯した神の民イスラエルと共に居てくださることを伝えようとしました。

 

 

 

主なる神は聖であり、義なるお方ですから、神の民イスラエルの罪に対して報いられます。それがバビロン捕囚でした。しかし、荒れ野における先祖たちのように、主は罪を裁かれますが、その後に神は恵みによって彼らを救われました。主なる神は、常に罪を犯した神の民イスラエルと共に居てくださいました。

 

 

 

4748節は、この詩編の結びです。これは、詩人の祈りと頌栄です。彼は、主なる神を「わたしたちの神」と呼びかけ、今帰還した神の民である詩人たちを助けてくださいと祈ります。そして、諸国からわたしたち神の民をエルサレム神殿に集めてくださいと祈ります。そして彼は主なる神の御救いに感謝し、主をほめたたえさせてくださいと祈っています。

 

 

 

詩人は最後に頌栄とハレルヤで、この詩編を閉じているのです。

 

 

 

この詩編が今わたしたちとどのように関わるのでしょうか。一つは、旧約聖書の神の民イスラエルの歴史は、新約時代のキリスト教会の歴史に結びついています。

 

 

 

神の民イスラエルは、来るべきメシアを期待し、礼拝しました。彼らの礼拝での犠牲、過越の祭は、キリストを予め示していました。キリストは十字架と復活によってわたしたちの罪を贖い、わたしたちを父なる神と和解させて、神の子としてくださいました。

 

 

 

毎週日曜日キリストに招かれる礼拝は、この詩編106編の礼拝と同じ価値があります。教会も2000年の歴史を歩み、わたしたちも旧約の神の民たちと同じ罪を犯しています。しかし、キリストは永遠の愛と慈しみによってわたしたちの礼拝にわたしたちと共に居てくださいます。

 

 

 

罪あるわたしたちがここで礼拝する資格があるのかと、問われるならば、キリストはあると言ってくださいます。いつも変わることなく、わたしの十字架によってあなたの罪は赦され、わたしの復活によってあなたはわたしと共に永遠の命の中にあると。

 

 

 

だから、わたしたちは、罪の告白と赦しの宣言においてわたしたちの罪を大胆に言い表し、その後に御言葉によって罪の赦しを得ているのです。そして、洗礼と聖餐によってわたしたち罪人と共に居てくださるキリストが、再びわたしたちのところに来てくださり、わたしたちは神の御国でキリストと共に永遠の命をいただけるのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編106編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

わたしたちは、罪人です。大なり小なり、罪を犯し、旧約時代の神の民たち同様に罪を犯しましたと、主に告白する者です。

 

 

 

主イエスは、罪の世に来られただけでなく、罪人と交わり、罪人の罪を負って十字架に死なれ、復活し、今天におられます。しかし、キリストは父なる神と共にわたしたちに聖霊を遣わされ、キリストの霊として今わたしたち罪人と共に居てくださり、詩編106編を通して、わたしたちが教会の2000年の歴史の中で主の恵みとその救いにあずかっていることを教えてくださり感謝します。

 

 

 

どうか、わたしたちも詩人同様に、この礼拝ごとに「ハレルヤ」、「主に感謝せよ、主の慈しみはとこしえに」と主を賛美させてください。主を礼拝し、感謝し、賛美し、主の御心に従わせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教107              主の2019929

 

「恵み深い主に感謝せよ 感謝せよ、主に。 まことに(それは)良い

 

慈しみはとこしえに」と  主の慈しみはまことに永遠に。

 

主に贖われた人々は唱えよ。 主に贖われた者たちは言え。

 

主は苦しめる者の手から彼らを贖い 彼は彼らを贖った、苦しめる者の手から。

 

国々の中から集めてくださった そして各地から彼は彼らを集めた。

 

東から西から、北から南から。 東、西、北、南()から。

 

彼らは、荒れ野で迷い 彼らは迷った、荒れ野の中で。 

 

砂漠で人の住む町への道を見失った。 荒れ地で居住の町への道を、彼らは見

 

飢え、渇き、魂は衰え果てた。失った。飢え、渇き、彼らの魂は彼らの中で弱

 

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと り果てた。彼らは主に向かって叫

 

主は彼らを苦しみから救ってくださった。 んだ、彼らの苦難の中で。彼

 

主はまっすぐな道に彼らを導き らの苦境から彼は彼らを救い出した。彼は彼

 

人の住む町に向かわせてくださった。らを導く、まっすぐな道に。居住の町へ

 

主に感謝せよ。主は慈しみ深く 行くように。感謝せよ、主に。彼の慈し

 

人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 みを。人の子らに彼の不思

 

主は渇いた魂を飽かせ 議な業を。まことに彼は満たした、渇いた魂を。

 

飢えた魂を良いもので満たしてくださった。 そして飢えた魂を良いもので満

 

                     した。

 

彼らは、闇と死の陰に座る者 闇と死の陰に座っている者たち、

 

貧苦と鉄の枷が絞めつける捕らわれ人となった。貧しさと鉄で縛られた者たち。

 

神の仰せに反抗し まことに彼らは神の御言葉に逆らった。

 

いと高き神の御計らいを侮ったからだ。 そしていと高き者の助言を、彼らは

 

主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。 侮った。彼は屈服させた、労苦で彼

 

彼らは倒れ、助ける者はなかった。 らの心を。彼らはよろめいた。しかし助

 

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと ける者がいない。彼らは叫んだ、

 

主は彼らの苦しみに救いを与えられた。 主に向かって。彼らの苦難の中

 

闇と死の陰から彼らを導き出し で。彼らの苦境から彼は彼らを救った。闇と

 

束縛するものを断ってくださった。 死の陰から彼は彼らを持ち上げた。そし

 

主に感謝せよ。主は慈しみ深く て彼らの枷を断ち切った。感謝せよ、主

 

人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。に。彼の慈しみを。人の子ら

 

主は青銅の扉を破り  に彼の不思議な業を。まことに彼は破った、青銅の扉

 

鉄のかんぬきを砕いてくださった。 を。そして彼は鉄のかんぬきをたたき切

 

 

 

彼らは、鞭であり、背きと罪の道のために った。愚かな者たちは彼らの罪の

 

屈従する身になった。 道と彼らの不義のゆえに悩んだ。

 

どの食べ物も彼ら喉には忌むべきもので すべての食べ物を忌み嫌った、彼ら

 

彼らをやせ衰えさせられた。 の魂は。

 

彼らは死の門に近づいた。 そして彼らは死の門まで達した。

 

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと。 彼らは叫んだ、主に向かって。

 

主は彼らの苦しみに救いを与えられた。 彼らの苦難の中で。彼らの苦境

 

主は御言葉を遣わして彼らを癒し から彼は彼らを救った。彼は遣わした、彼

 

破滅から彼らを救い出された。 の言葉を。そして彼は彼らを癒した。そして

 

主に感謝せよ。主は慈しみ深く 彼は逃がした、彼らの滅びの穴から。

 

人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 感謝せよ、主に。彼の慈し

 

感謝のいけにえをささげ みを。人の子らに彼の不思議な御業を。彼らが感謝

 

御業を語り伝え、喜びを歌え。の犠牲を献げるように。彼の御業を歓喜の中で

 

              語るように。

 

彼らは、海に船を出し 海に船を出す者たち

 

大海を渡って商う者となった。 多くの水で仕事をする者たち

 

彼らは深い淵で主に御業を 彼らは見た、主の御業を。深みで彼の不思議な

 

驚くべき御業を見た。 御業を。

 

主は仰せによって嵐を起こし 方彼は言った、そして起こした、嵐の風を。

 

波を高くされたので その波を高くした。

 

彼らは天に上り、深淵に下り 彼らは天に上り、また深い淵に下った。

 

苦難に魂は溶け 彼らの魂は苦難の中で溶けた。

 

酔った人のようによろめき、揺らぎ 彼らはめまいがし、よろめいた、酔っ払

 

どのような知恵も呑み込まれてしまった。らいのように。

 

苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 彼らは叫んだ、主に向かって。彼

 

主は彼らを苦しみから導き出された。 らの苦難の中で。彼らの苦境から

 

主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 彼は彼らを救った。彼は立たせた、

 

波はおさまった。 嵐を沈黙に。そして静まった、それらの波が。

 

彼らは波が静まったので喜び祝い 彼らは喜んだ、まことに波が黙ったから。

 

望みの港に導かれて行った。彼は彼らを導いた、彼らの望みの港に。

 

主に感謝せよ。主は慈しみ深く 感謝せよ、彼の慈しみを。

 

人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。 人の子らに彼の不思議な御

 

             業を。

 

民の集会で主をあがめよ。 彼らが彼を崇めるように、民の集会の中で。

 

長老の集いで主を賛美せよ。 長老たちの座の中で、彼を賛美せよ。

 

 

 

主は大河を荒れ野とし 彼は大河を荒れ野にし

 

水の源を渇いた地とし 水の出るところを渇いた地に、

 

住む者の悪事のために 実りの地を塩地に、その中に住む者たちの悪事のゆえ

 

実り豊かな地を塩地とされた。 に。

 

 

 

主は荒れ野を湖とし 彼は荒れ野を湖にし

 

砂漠を水の源とし。 渇いた地を水の出るところとし。

 

飢えていた人々をそこに住まわせ 彼は住まわせる、そこに飢えた人々を。

 

人の住む町を固く立てられた。 彼は固く立てる、住居の町を。

 

彼らは野に種を蒔き、ぶどう畑を作り 彼らは畑に種を蒔き、葡萄園を造った。

 

作物を実らせた。 そして作物を作った。

 

主が祝福されたので彼らは限りなく増え 民彼は彼らを祝福した。すると、彼

 

家畜も減らされることはなかった。 らは非常に増えた。彼らの家畜を、彼は

 

                 減らさなかった。

 

不毛、災厄、嘆きによって  たしかし、彼らは減った。そして屈みこんだ。

 

彼らは減って行き、屈み込んだ。  束縛と災いと嘆きのゆえに。

 

主は貴族らの上に辱めを浴びせ  彼は貴族たちの上に嘲りを注がれた。

 

道もない混沌に迷い込ませられたが  彼は彼らを迷わせた、道のない混沌の

 

乏しい人はその貧苦から高く上げ  中に。彼は高く上げた、極貧の者たちを

 

羊の群れのような大家族とされた。 貧苦から。そして羊の群れのように大家

 

                 族にした。

 

正しい人はこれを見て喜び祝い 正しい者たちは見る、そして喜ぶ。

 

不正を行う者は口を閉ざす。 しかし、すべての不正はその口を閉ざす。

 

知恵ある人は皆、これらのことを心に納め 賢い者は皆、これらを守るように。

 

主の慈しみに目を注ぐがよい。 そして主の諸々の慈しみに注目するように。

 

 

 

                 詩編第107143

 

 

 

説教題:「主の慈しみに目を注ぐ」

 

詩編第107143節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編は五巻の巻物でありました。詩編107編はその五巻目の冒頭の詩編であります。

 

 

 

詩編106編同様に1節で「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」という定型句で始まります。命令形讃美の形を持つ定型句です。エルサレム神殿の礼拝に集う会衆に主の慈しみを賛美するように促しています。

 

 

 

詩人は、23節で主を賛美する者たちを「主に贖われた人々」と呼びかけています。この名称は、イザヤ書6212節で預言者イザヤが用いています。「彼らは聖なる民、主に贖われた者」と。彼らは、バビロン捕囚によって離散状態からの解放された者たちです。主なる神が彼らを散らされた国々からエルサレム神殿に集められたのです。

 

 

 

苦難の中にいた彼らの嘆きに応えて主なる神は、ペルシアの王クロスを起こし、驚くべき御業で彼らを捕囚から解放されました。だから詩人は、彼らに第二の出エジプトであるバビロン捕囚から解放という奇跡を通して示された主なる神の慈しみを賛美するように促しているのです。

 

 

 

主なる神は、神の民を贖うことで、御自身の神の民に対する恵み深い慈しみをお示しになりました。

 

 

 

主なる神は、敵の手から苦難の中にある神の民を救い、御自身のものとして贖い、世界の四方から彼らを御自身の住まいであるエルサレムの神殿へと集められました。

 

 

 

432節で詩人は、敵の手から贖われた人々を4つのグループに分けています。49節が第一のグループです。砂漠をさ迷い飢え渇きで衰え果てている人々です。1016節が第二のグループです。捕らわれの人々です。牢獄に入れられた人々、悪霊に闇の中に閉じ込められた人々です。1722節が第三のグループです。死に至る病に苦しむ人々です。2332節が第四のグループです。海を航海し、嵐の危険の中にいる人々です。

 

 

 

次の御言葉が4回繰り返され、この4つのグループを分けています。「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった(6131928)と「主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる(815節、2131)という御言葉です。

 

 

 

この繰り返しは、神の民の苦難と嘆き、それに応える主の救いを告げ知らせることと、主に贖われた神の民が主に感謝し、主の奇跡の御業の中に主の慈しみを見て、主を賛美するようにと、礼拝への招きとなっています。

 

 

 

飢え渇きによる命の危機は、神の民が荒れ野の40年間で経験したものです。その危機から主なる神は約束の地カナンへと導かれ、彼らは肥沃な地を得て、満たされたのです。魂はわたしたちの心身の活力ことです。その人自身のことです。飢え渇きは食べ物だけでありません。神の民は、御言葉への飢え渇きも知っています。飲み食いし、生きるだけでは、人は動物と変わりません。霊の飢え渇きがあります。主なる神は、神の民に神の律法を与え、わたしたちに聖書を与えてくださり、正しい道に歩むように導き、わたしたちの心を満たしてくださいます。人はパンのみに生きるのではありません。神の御言葉によって真に生かされるのです。

 

 

 

次に敵に捕らわれる者たちの危機であります。神の民はバビロン捕囚の苦しみを経験しました。彼らは主なる神に反抗し、偶像を己が神とし、主の律法を捨てて、不道徳な生活をしました。ゆえに神の怒りの杯が彼らに注がれ、主なる神はネブカドネツァルを用いて南ユダ王国とエルサレムの都を滅ぼし、神の民たちをバビロンに捕囚されました。それだけではありません。神の民は偶像礼拝によって悪霊の支配下に置かれ、闇と死の陰という牢獄に捕らえられました。モーセの出エジプトで、主なる神は神の民をエジプトの神々から解放されました。同じようにペルシアのクロス王が神の民たちをバビロンから解放し、神の民たちはバビロンの神々から解放されたのです。

 

 

 

次に重い病気で死に至る人々の危機です。この世では「病は気から」と言いますね。聖書は、どう言っていますか。詩人は神の民が「無知であり、背きと罪の道のために」重い病気になったと言っています。

 

 

 

主なる神は、御使いのように御言葉を遣わされて、死に至る病にある神の民を癒されました。病を癒された神の民は、神殿に詣でて動物犠牲を献げ、主なる神の癒しの奇跡を語り伝え、主なる神の慈しみを喜び賛美しました。

 

 

 

 神の民は、ソロモン王の時代から海を航海し、他国と貿易しました。離散のユダヤ人たちは、フェニキアの港から地中海の島々を経由してローマへと航海していました。使徒言行録にパウロたちが船で地中海を航海した時に、嵐に遭って難破した記事があります。航海する者にとって嵐ほど怖いものはありません。しかし、その嵐を静めて主なる神は神の民を救い、目的の港へと導いてくださいます。

 

 

 

 詩人は、神の民たちに32節で「民の集会で主をあがめよ。長老たちの集いで主を賛美せよ」と命じています。神の民が集う神殿で神に贖われた人々は、主なる神を礼拝し、主の慈しみを賛美せよと、詩人は歌っているのです。

 

 

 

 3338節で詩人は、バビロン捕囚から解放され、再びエルサレムに帰還した神の民たちの生活を賛美しています。主なる神は、神の民たちの罪のゆえにエルサレムを荒れ地にされ、命の源であるエルサレムの神殿を廃墟とされました。

 

 

 

 しかし、今エルサレム神殿を再建し、エルサレムの城壁を再建させ、バビロン捕囚で飢えた神の民たちをそこに移住させられます。彼らは、町を建て直し、畑を耕し、小麦の種を蒔き、ぶどうの木を植えます。主なる神が彼らを祝福されますので、彼らはその地に増えて、家畜も減らされることはありません。

 

 

 

 3941節で詩人は帰還した神の民の苦難を歌っています。神の民の生活はエズラ記、ネヘミヤ記を読むと、いつもサマリアの貴族たちの迫害を受けていました。彼らの土地は奪われ、神殿の再建、城壁の再建も妨害されました。しかし、乏しい神の民を主は憐れみ、助け、彼らに神殿を再建させ、城壁を修復させられました。詩人は、信仰の苦難の中で彼らが主の救いと慈しみを見るように励ましているのです。

 

 

 

 贖われた人々のこの4つの贖いは、来るべきキリストの救いに結びついています。主イエス・キリストは、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである(マタイ5:3)と言われ、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37)と言われました。

 

 

 

 今朝の詩人は、わたしたちにマルコによる福音書の主イエス・キリストの福音に導いてくれます。父なる神に遣わされ、ガリラヤで御言葉を語られ、悪霊を追い出され、病気を癒され、そして嵐を静められる主イエス・キリストを伝えています。

 

 

 

 わたしたちは、その主イエス・キリストによって罪と死から、悪霊の支配から救われ、神の子とされました。だから、この教会に集まり、主イエス・キリストとその御業を語り伝え、主イエス・キリストをわが神として礼拝し、賛美するのです。

 

 

 

 そして、この詩人のように、わたしたちも礼拝ごとに「主の諸々の慈しみに目を注ぐ」のです。

 

 

 

わたしたちが苦しみの中にいた時、主イエスは「あわれなわたしをお救いください」という祈りに応えて、わたしたちを救ってくださいました。今、ここに自分がいることは、主イエスのお陰です。主イエスを通して、わたしたちは、数々の主の慈しみ、愛を見させていただいているのです。

 

 

 

何よりも嬉しいことは、主イエス・キリストの十字架のゆえにわたしたちの罪を、神は赦してくださっているということです。この主の慈しみこそがわたしたちにとって最後の敵であり、わたしたちの危機である死からわたしたちを永遠に解放してくれるのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編107編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

わたしたちが今、ここに居て、主を礼拝し、賛美できる幸いを感謝します。

 

 

 

主なる神よ、あなたは、不思議な御業を通して、いつも御自身の慈しみを、わたしたち神の民に見せてくださり、愛されるに値しないわたしたちを、アブラハムとの契約のゆえに常に覚えて、愛して下さり、感謝します。

 

 

 

どうか主イエスを通して示された神の愛と慈しみに、常に寄り頼みキリスト者としての生涯を歩ませてください。

 

 

 

バビロン捕囚から帰還した神の民たちのように、わたしたちも自分たちの家庭を建て上げ、教会を建て上げる上でいろいろな苦難があります。旧約の神の民たちが苦難の時に主なる神に向けて嘆き、助けを求めたように、わたしたちも苦しみの時に、「主イエスよ、憐れんでください」と助けを求めさせてください。そして主イエスに救われ、助けられたことを通して、主の恵み深い慈しみに心を留めさせてくださり、ここで毎週主を礼拝し、賛美させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教108              主の20191020

 

      歌。賛歌。ダビデの詩。 歌 賛美 ダビデの

 

神よ、わたしの心は確かです。 揺るがない、わたしの心は。神よ。

 

わたしは賛美の歌をうたいます。 わたしは歌おう。そしてほめ歌おう。

 

「わたしの誉れよ。 わたしの栄光をも。

 

目覚めよ、竪琴よ、琴よ。 目覚めよ、竪琴よ、そして琴よ。

 

わたしは曙を呼び覚まそう。」 わたしは目覚めさせよう、曙のを。

 

主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し わたしはあなたに感謝しよう、

 

国々の中でほめ歌をうたいます。諸国の民の間で、主よ。わたしはあなたを 

 

あなたの慈しみは大きく、天に満ち 誉め歌います、諸国の中で。まことに

 

あなたのまことは大きく、雲を覆います。大きい、天の上であなたの慈しみ

 

は。そしてあなたの真実は雲にまで。       

 

神よ、天の上に高くいまし 高くいませ、天の上に、神よ。

 

栄光を全地に輝かせてください。 そして全地の上にあなたの栄光が。

 

 

 

あなたの愛する人々が助け出されるように 助け出されるため、あなたの愛

 

右の御手でお救いください。する人々が。救い給え、あなたの右の御手で、

 

それを我らへの答えとしてください。そしてわたしに答えたまえ。

 

 

 

神は聖所から宣言された。 神は語る、彼の聖所の中で。

 

「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。 「わたしは喜ぼう。わたしは分

 

スコトの野を測量しよう。けよう、シケムを。スコトの谷を測ろう。                     

 

ギレアドはわたしのもの ギレアドはわたしのもの

 

マナセもわたしのもの マナセもわたしのもの

 

エフライムはわたしの頭の兜 エフライムはわたしの頭の兜

 

ユダはわたしの采配 ユダはわたしの笏

 

モアブはわたしのたらい。 モアブはわたしの洗浄のたらい

 

エドムにわたしの履物を投げ エドムの上にわたしはわたしの履物を投げる。

 

ペリシテにわたしの叫びを響かせよう。ペリシテに対してわたしの叫びを

 

                  上げよう。」

 

包囲された町に 誰がわたしを連れて行くだろう、要塞の町に。

 

誰がわたしを導いてくれるのか。 

 

エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。 そし誰がわたしを導くだろう、

 

                  エドムに。

 

神よ、あなたは我らを突き放されたのか。 神よ、あなたはわたしたちを拒絶

 

神よ、あなたは なされたのか。そして、神よ、あなたは我らの軍勢と共に

 

我らと共に出陣してくださらないのか。  出陣なさらないのか。

 

 

 

どうか我らを助け、敵からお救いください。 お与えください、わたしたちに。

 

人間の与える救いはむなしいものです。 敵からの助けを。そして空虚、人の

 

神と共に我らは力を振るいます。 救いは。神によってわたしたちは力を振る

 

神が敵を踏みにじってくださいます。 います。彼は踏みつけられる、わたしたちの敵を。

 

                 詩編第108114

 

 

 

説教題:「神の助け」

 

今朝は、詩編108114節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

この詩編は、二つの詩編の御言葉を合わせて、一つの詩編としたものであります。詩編57812節と詩編60814節です。二つのダビデの詩編から成り立っています。ですからこの詩編の表題は、ダビデの賛歌、歌と付されています。

 

 

 

27節は、57812節のダビデ個人が歌った感謝の歌であり、814節は、ダビデが主なる神に敵からの助けを祈願した歌です。

 

 

 

異なる詩編から御言葉を引用して、一つの詩編としたのは、ダビデではありません。

 

 

 

新聖書注解書の詩編を見ますと、次のように述べられています。「二つの詩編を合体統一したのは、ダビデまたは当時の歌人ではなく、明らかに捕囚後の人である」と。

 

 

 

聖書を学ぶ集いで、預言書を学んでいます。イザヤ書を学び終えて、エレミヤ書を学んでいます。プリントをお配りしていますので、バビロン捕囚については、お読みになられている方はご理解いただけると思います。

 

 

 

紀元前605年にバビロニア帝国においてネブカドネツァルが王位に就きました。彼は、西方に遠征し、紀元前597年にエルサレムを占領し、ヨヤキン、後のエコンヤ、高官、祭司、預言者、職工、そして神の民たちを捕えて、バビロンに連れて行きました。これが第1回目のバビロン捕囚です。

 

 

 

しかし、ネブカドネツアルはゼデキヤを南ユダ王国の王に据えました。しかし、ゼデキヤは預言者エレミヤを通して語られた主なる神の御言葉に従いませんでした。紀元前588年にゼデキヤはネブカドネツァル反逆しました。

 

 

 

ネブカドネツァルは、エルサレムの都を包囲し、紀元前586年にエルサレムの都と神殿を破壊し、ゼデキヤを処刑しました。そして主要なエルサレムの住民をバビロンに連行しました。これが第2回目のバビロン捕囚であり、南ユダ王国は滅亡しました。そしてユダとエルサレムの都は荒廃してしまいました。

 

 

 

バビロン捕囚は、預言者エレミヤが預言したように、70年間でした。紀元前539年にペルシア帝国のキュロス大王がバビロニア帝国を滅ぼし、勅令を出して、捕囚の民たちがエルサレムの都に帰えることを許しました。

 

 

 

帰国を許された神の民たちは、ユダに戻りました。しかし、その地はサマリア人たちが支配していました。帰国のユダヤ人たちは、サマリア人の支配者たちの迫害を耐え忍び、紀元前520年から515年まで、5年間の歳月を費やして、かつてソロモン王が建てた神殿のところにエルサレム神殿を再建しました。

 

 

 

再建された神殿で礼拝し、賛美するために、詩編108編が編纂されました。帰国した神の民は、神殿での礼拝においてバビロン捕囚から解放されたことを心から感謝したことでしょう。同時に神殿を再建し、エルサレムの都を修復するために、サマリア人たちの支配者が彼らを妨害し、迫害する苦難を忍ばなければなりませんでした。主なる神の助けが必要でした。

 

 

 

ですから詩編108編を編集した者は、バビロン捕囚から帰国した神の民の新しい状況の中で、主なる神に感謝するだけではなく、主なる神の助けを願って、この詩編を作り、礼拝で賛美したのです。

 

 

 

ダビデは、救い主なる神の変わることのない愛と慈しみが宇宙全体を包み込むほどに大いなるものであることを確信しています。主なる神はその愛と慈しみによって諸国を支配し、バビロン捕囚の地から神の民を救われました。

 

 

 

主なる神は、昔神の民が奴隷の地エジプトで主なる神に助けを求めました時、主なる神は指導者モーセを遣わし、彼らの祈りに答えて奴隷の地エジプトから救い出されました。

 

 

 

同じようにバビロンで捕囚された神の民たちが主なる神に助けを願い求めたとき、主なる神はキュロスを遣わして、神の民の祈りに答えて、彼らをバビロン捕囚から解放し、ユダに帰国し、エルサレム神殿を再建し、エルサレムの都を修復し、神の民としての共同体を回復してくださいました。

 

 

 

だから、エルサレムに帰国し、神殿で礼拝する神の民たちは、諸国民の支配者である主なる神が神の民をバビロン捕囚から解放してくださり、御自身の栄光をあらわされ、彼らの祈りに答えられたことを感謝し、主なる神に賛美をささげているのです。

 

 

 

この喜びの歌は、わたしたちキリスト者を、復活のキリストへと導いてくれます。預言者イザヤは、イザヤ書405節でこう預言しています。「主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」と。神の民が主なる神に救われる時、人は神の栄光を見ることができます。

 

 

 

わたしたちも神の独り子キリストが人となり、この世に来られ、わたしたちの罪を贖い、永遠の命を与えるために、十字架に死なれ、死人の中から復活されました。

 

 

 

わたしたちは、礼拝ごとに救い主イエス・キリストの十字架と復活を通してわたしたちを永遠の滅びから救ってくださった神の栄光を見て、神を賛美しているのです。このようにこの日本の国でキリストの教会が父なる神と子なるキリスト、そして聖霊なる神を、唯一の神を礼拝し、賛美することで、神の栄枯を見、そして栄光のキリストとわたしたちはひとつとなり、御国における神の支配の中に入れられているのです。

 

 

 

108編が感謝の歌に、神に助けを祈願する歌を合わせたのは、捕囚後の神の民たちがエルサレム神殿を再建し、エルサレムの都を修復するために、大変苦難な状況にあったからです。

 

 

 

そのためにこの詩編108編を編集した者は、信仰によって勝利することの大切さを、ダビデの賛美を通して訴えたのです。ダビデが不動の心で神への信仰を確立したように、どんな困難な中でも心を揺るがさないで、主を礼拝し賛美することが神の民の姿であると歌っているのです。「神よ、わたしの心は確かです。わたしは賛美の歌をうたいます。

 

 

 

神の民の信仰は、主なる神は全世界の支配者であり、神の民の祈りに答えて、助けてくださるという確信です。

 

 

 

今朝の詩編と共に、ヨハネによる福音書1417章の主イエスのお別れ説教を読んでください。ヨハネによる福音書13章より主イエスの最後の一週間が始まります。十字架への道、そしてキリストの復活へと、わたしたちは導かれます。

 

 

 

これが詩編のダビデが、誰がわたしたちを導いてくれるのか、神よ、わたしたちを突き放さないでくださいという祈りに対する神の答えです。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、主イエスが死を予告され、弟子たちの裏切りを予告されたことを記します。当然主イエスの弟子たちの心は騒ぎ、揺れ動きます。彼は不安を覚えます。その中で主イエスは彼らに別の助け主を遣わして、彼らを孤児にしないと約束されます。ヨハネによる福音書1633節で主イエスは、こう言われます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と。

 

 

 

神によってわたしたちが力を振るうことがわたしたちの信仰です。十字架に死なれ、死人の中から復活されたキリストに堅く立つ信仰こそ、勝利の信仰です。

 

 

 

 

 

それゆえに詩編108編は、教会の礼拝の中で主イエスが復活し、死に勝利され、御国に昇天された日を記念して、礼拝賛美される詩編歌となりました。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編108編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

わたしたちは今、ここで主を礼拝し、賛美できる幸いを心から感謝します。

 

 

 

詩編108編のダビデと共にキリストの十字架と復活による救いを通して、この礼拝で神の栄光を見る喜びを得、感謝します。

 

 

 

わたしたちは、小さな群れです。しかし、バビロン捕囚から帰還した神の民たちのように、この諏訪の地で家庭を作り、教会を建て上げています。いろいろな苦難がありますが、旧約の神の民たちのように、キリストを通して神の栄光を見、わたしたちの助けの祈りを聞き届けてくださる神の慈しみとまことを見させてください。

 

 

 

本当に弱い者です。人の力に頼れないものです。御霊の助け、御言葉の助けをお与えください。今朝の詩編108編の御言葉に励まされ、どんな困難な中でもキリストの十字架と復活に心を固く定め、勝利する信仰をわたしたちに与えてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

詩編説教109              主の20191124

 

      指揮者によって。ダビデの詩。指揮者による ダビデの

 

      賛歌。 賛歌。

 

わたしの賛美する神よ。 神よ、わたしの賛美の

 

どうか、黙さないでください。 沈黙しないでください。

 

神に逆らう者の口が まことに悪者の口と

 

欺いて語る口が、わたしに向かって開き 偽りの口を、彼らはわたしに開き、

 

偽りを言う舌がわたしに語りかけます。 偽りの舌で彼らはわたしに語り、

 

憎しみの言葉はわたしを取り囲み 憎しみの言葉でわたしを囲み、

 

理由もなく戦いを挑んで来ます。彼らは理由なくわたしと戦うのです。 

 

愛しても敵意を返し わたしの愛に対して彼らはわたしを訴えます。

 

わたしが祈りをささげても わたしは祈ります。       

 

その善意に対して悪意を返します。彼らはわたしに置きました、善の代わりに

 

愛しても憎みます。 悪を。そしてわたしの愛の代わりに憎しみを。

 

 

 

彼に対して逆らう者を置き 任命してください、彼の上に悪者を。

 

彼の右には敵対者を立たせてください。そして敵対者が彼の右手に立つように。

 

裁かれて、神に逆らう者とされますように。彼が裁かれ、悪者とされるように。

 

祈っても、罪に定められますように。 彼の祈りが罪とされるように。

 

 

 

彼の生涯は短くされ 彼の日々は少なくされ

 

地位は他人に取り上げられ 彼の仕事を、他人が取るように。                     

 

子らはみなしごとなり 彼の息子たちがみなしごと

 

妻はやもめとなるがよい。 彼の妻はやもめとなれ。

 

子は放浪して物乞いをするがよい。彼の息子たちが放浪し、物乞いし、

 

廃墟となったその家を離れ 彼らの廃墟から

 

助けを求め歩くがよい。 助けを求めるように。

 

彼のものは一切、債権者に奪われ 債権者が彼の全財産を取り、

 

働きの実りは他国人に略奪されるように。 彼の労苦の実りを、見知らぬ

 

慈しみを示し続ける者がいなくなり 人々が奪うように。彼にあわれみを

 

みなしごとなった彼の子らを かける者がなくなり、彼のみなしごたちを 

 

憐れむ者もなくなるように。 恵む者がなくなるように。

 

子孫は断たれ 彼の末裔を断ち切るように。

 

次の代には彼らの名も消されるように。 次の代では彼の名が抹消される

 

主が彼らの父祖の悪をお忘れにならぬように。ように。彼の父祖たちの不

 

母の罪も消されることのないように。 義が主に記憶され、母の罪が消さ

 

その悪と罪は常に主の御前にとどめられ れないように。それらが主の御

 

その名は地上から断たれるように。前に常にあるように。主が彼らの記憶   

 

                を地から断たれるように。

 

彼は慈しみの業を行うことに心を留めず それは彼が慈しみをなすことを

 

貧しく乏しい人々 覚えず、貧しく乏しい人々を迫害し、

 

  心の挫けた人々を死に追いやった。絶望した人々を殺したゆえだ。

 

  彼は呪うことを好んだのだから 彼は呪いを愛したので

 

  呪いは彼自身に返るように。呪いが彼に来た。

 

  祝福することを望まなかったのだから 彼は祝福を喜ばないので

 

  祝福は彼を遠ざかるように。祝福は彼を遠ざかった。

 

  呪いを衣として身にまとうがよい。彼は呪いを衣として身にまとい

 

  呪いが水のようにかれのはらわたに 呪いが水のように彼の中に

 

  油のように彼の骨に染み通るように。油のように彼の骨の中に染み

 

  呪いが彼のまとう衣となり 込むがよい。それは彼が身を覆う衣と

 

  常に締める帯となるように。なり、常に彼が腰につけている帯とな

 

  わたしは敵意を抱く者に対して れ。これがわたしに敵対する者たちと

 

  わたしの魂をさいなもうと語る者に対して わたしの魂に対して悪を語

 

    主はこのように報いられる。 る者たちに対する主からの業である。

 

主よ、わたしの神よ しかし、あなたは神、わが主。

 

御名のために、わたしに計らい 御名のためにわたしに計らってください。

 

恵み深く、慈しみによって まことにあなたの慈しみは良く

 

  わたしを助けてください。 わたしを救い出してください。

 

わたしは貧しく乏しいのです。まことにわたしは貧しく乏しいのです。

 

胸の奥で心は貫かれています。そしてわたしの心はわたしの内で刺し貫かれて

 

移ろい行く影のようにわたしは去ります。います。わたしは傾く影のように過

 

いなごのように払い落とされます。ぎ去ります。振り払われます、いなごのよ

 

断食して膝は弱くなり うに。わたしの両膝は断食でよろめき、

 

からだは脂肪を失い、衰えて行きます。わたしの肉は脂肪なく衰え行きます。

 

わたしは人間の恥。そしてわたしは彼らの恥である。

 

彼らはわたしを見て頭を振ります。彼らはわたしを見て頭を振ります。

 

わたしの神よ、主よ、わたしを助けてください。わたしを助けてください、

 

慈しみによってお救いください。わたしの神よ、主よ。わたしを救ってくださ

 

それが御手によることを、御計らいであることを い、あなたの慈しみによっ

 

主よ、人々は知るでしょう。て。彼らは知るがよい、あなたの手がこのことを、

 

彼らは呪いますが 主よ、あなたがそれを行われたことを。彼らは呪い、

 

あなたは祝福してくださいます。あなたは祝福される。

 

彼らは反逆し、恥に落とされますが 彼らは立ち上がるが、彼らは恥じる。

 

あなたの僕は喜び祝います。しかしあなたの僕は喜ぶ。

 

わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし わたしに敵対する者たちは辱めを着る

 

恥を上着としまとうでしょう。ように。彼らの恥を上着のように着るように。

 

わたしはこの口をもって わたしはわたしの口で

 

  主に尽きぬ感謝をささげ 大いに主をほめたたえよう。

 

多くの人の中で主を賛美します。多くの人の中でわたしは彼を賛美しよう。

 

主は乏しい人の右に立ち まことに彼は乏しい者の右に立つ、

 

死に定める裁きから救ってくださいます。彼の魂を裁く者の手から救うために。  

 

                   詩編第109131

 

 

 

説教題:「貧しく弱い者を助ける神」

 

今朝は、詩編109131節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

さて、主イエスが復活し、天に帰られた後、エルサレムの都のある家で主イエスの11弟子たちと主イエスの母マリア、そして主イエスに従った婦人たちや他の弟子たちが集まって、熱心に祈っていました。120人ほどの主イエスの弟子たちが心一つとし祈り、裏切り者のユダに代わる使徒を選び出そうとしていました。

 

 

 

その時に使徒ペトロが兄弟たちに言いました。聖霊がダビデの口を通して裏切り者ユダについては預言されており、実現しなければならなかったと。すなわち、ユダは使徒たちの仲間の一人であり、使徒の務めを与えられていたが、不正で得た報酬で、自らの命を断ちました。そこでペトロは今朝の詩編109編の8節後半の「地位は他人に取り上げられ」を、「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」という70人訳聖書の御言葉を引用して、使徒の補充選挙を提案しました。そこでヨセフとマティアの二人が候補に挙げられて、くじを引き、マティアが使徒に選ばれました。

 

 

 

このように初代教会が生まれる前に、使徒ユダに代わる使徒を選ぶ根拠として、今朝の109編の8節の後半の御言葉が引用されたことで、今朝の詩編は有名であります。

 

 

 

しかし、今わたしの聖書朗読をお聞きになられたように、この詩編は呪いの詩編です。

 

 

 

この詩編の作者は、1節に「ダビデの詩」と紹介されています。使徒言行録216節で使徒ペトロも「聖霊がダビデの口を通して預言しています」と言っていますように、この詩編はダビデの詩です。

 

 

 

ダビデはイスラエルの王です。羊飼いから身を起こして、サウル王に召し抱えられ、頭角を現しました。しかし、サウル王はダビデを妬み、殺そうとしました。そこでサウル王の迫害で幾度となく、苦難を味わいました。また、イスラエルの王となった後も、ダビデはわが子に命を狙われました。

 

 

 

それゆえ彼には多くの敵対者がいました。この109編のダビデの敵対者が誰であるかは、特定は難しいでしょう。

 

 

 

ダビデは、この詩編で彼の敵対者たちを、「彼ら」あるいは「彼」と、複数と単数で敵対者を呼んでいます。

 

 

 

まず15節です。新共同訳聖書は「彼ら」を訳していません。しかし、字義どおりに訳すと、こうなります。「神よ、わたしの賛美の 沈黙しないでください。まことに悪者の口と偽りの口を、彼らはわたしに開き、偽りの舌で彼らはわたしに語り、憎しみの言葉でわたしを囲み、彼らは理由なくわたしと戦うのです。わたしの愛に対して彼らはわたしを訴えます。わたしは祈ります。彼らはわたしに置きました、善の代わりに悪を。そしてわたしの愛の代わりに憎しみを。

 

 

 

 このようにダビデは、15節で敵対者を「彼ら」と呼びかけています。

 

 

 

 ダビデは620節では、敵対者を「彼」と単数で呼びかけています。

 

 

 

 そして、ダビデは、2131節では再び敵対者を「彼ら」と呼びかけています。

 

 

 

 この詩編を呪いの詩編として、礼拝で歌うのは相応しくないと言う方々が教会に中におられます。それほど詩編109編は、呪いの詩編として評判の悪い詩編です。

 

 

 

 それは、ダビデが敵を呪っていると、思われているからです。詩編の中では619節で呪いの言葉が重ねられているのも、珍しいと思います。これをどのように理解するか、それによってこの詩編の評価は変わります。

 

 

 

 これをダビデの呪いの祈りと理解するのか、それともダビデが彼の敵対者たちの呪いの言葉を引用していると理解するのかで、この詩編の評価は変わると思います。

 

 

 

 ある詩編注解者が次のように述べています。619節はダビデが敵対者たちの呪いの言葉を引用した。そして20節の「主はこのように報いられる」の「主は」は後の人の加筆である。また、「報いられる」という言葉は「やり方」とも訳せる言葉である。だから、20節は次のように訳せる。「これが(ヤハウェからの)わたしを訴える者たちとわたしに向かって悪いことを言う者たちのやり方です。

 

 

 

 619節のダビデの敵対者たちの呪いの言葉は、彼らがダビデを呪うやり方であったと、ダビデが20節で説明しているのです。

 

 

 

 以上のように理解すると、15節と2131節がダビデの信仰の歌となります。そして、ダビデは敵対者が彼を呪ったことを、常に愛を持って答えていたのです。だから、ダビデの心は敵対者の心ない呪いの言葉で刺しぬかれ、貧しい者、すなわち、敬虔な者を救ってくださる主なる神に、ダビデは助けを求めました。それが、この詩編109編の御言葉なのです。

 

 

 

 敵対者が誰か、分かりません。ダビデは彼を、彼らを愛していました。しかし、敵対者たちはダビデに憎しみと悪をもって答えました。そして彼らはダビデを滅ぼそうと、呪いの言葉をダビデに浴びせました。ダビデの心は彼らの呪いの言葉で深く傷つき、傷みました。彼は貧しい者の心を主なる神が救ってくださるように、助けを祈り求めたのです。

 

 

 

 この詩編はダビデの個人の嘆きの歌に、感謝の歌が含まれています。1節でダビデが主なる神に「わたしの神よ、沈黙しないでください」と嘆き訴えています。

 

 

 

 ダビデは、彼がどんな苦難にあろうと、主なる神を「わたしの神」と信頼し、賛美しました。ダビデからわたしたちは、わたしたちの神はどんな時も「わたしの神」として、礼拝し、賛美するお方であると教えられます。

 

 

 

 23節でダビデは、自分が法廷で敵対者たちに無実の罪を着せられる弱く貧しい者であると訴えています。3節の「理由もなく戦いを挑んでいます」は法廷での争いを指しています。敵対者は不法を働く悪人です。ですから主なる神を恐れず、嘘と偽りで、憎しみの言葉によってダビデを有罪にしようとしています。

 

 

 

 だから、ダビデは、31節で「主は乏しい人の右に立ち 死に定める裁きから救ってくださいます。」と、主なる神の救いに感謝しているのです。

 

 

 

 ダビデは、主なる神こそ正義の根拠であり、主なる神が貧しいダビデの右側に立たれて、彼を保護してくださり、救ってくださると感謝しています。

 

 

 

 ダビデは、敵対者が彼の愛を憎しみで返しても、4節で「わたしが祈りをささげても」と歌っています。ダビデは「わたしは祈ります」と歌っているのです。ダビデは祈ることしかできませんでした。

 

 

 

 だから、ダビデは、貧しき者でした。彼は主なる神に寄り頼む以外にありませんでした。

 

 

 

 619節は、ダビデが敵対者たちに対する呪いの言葉を、主なる神に祈っているのではありません。ダビデが報復の呪いの言葉を祈っていると理解することは誤りだと思います。

 

 

 

 この詩編を根拠にキリスト者も敵対する者に呪いの祈りをできると考えるのは誤りです。主イエスが敵を愛せよと命じられたことに反するでしょう。

 

 

 

 むしろ、ダビデの敵対者がダビデを呪ったのです。それを、ダビデは、敵対者の呪いの言葉を引用し、彼らはこんなやり方でダビデを呪っていると説明したのです。

 

 

 

 21節以下でダビデは、主なる神を「わたしの神」と信頼し、主なる神御自身が御計画の中でダビデを恵みと慈しみの中で救ってくださるようにと祈ります。本当にダビデは、主なる神に寄り縋る以外に何の力もない弱く貧しい者でした。

 

 

 

 ダビデは、彼の愛を憎しみで返し、彼の善意を悪意で返し、ダビデを嘘と偽りの口で罪に陥れようとする敵対者を、自分で報復しよう、復讐しようとしているのではありません。

 

 

 

 ダビデは、すべてを主なる神に委ねようとしています。困難な状況は変わりません。それでもダビデは、彼の口で心から主なる神に感謝し、多くの人々の中で、エルサレムの幕屋の礼拝で主なる神を賛美すると歌っています。

 

 

 

 2231節のダビデの言葉を繰り返し読んでみましょう。そこに受難の主イエスを見つけられませんか。神の独り子主イエスが人としてこの世に来られました。その生涯は貧しく、移ろう影のようでした。尊ばれるどころか非難されました。見捨てられました。何の罪もありませんでしたのに、偽りと嘘の証言で十字架刑という恥ずべき刑罰を受けられました。ゴルゴタの刑場の主イエスを見た人々は頭を振りました。その御姿が恥ずかしかったからです。

 

 

 

 ダビデは聖霊によって十字架のキリストを預言しているのではありませんか。彼が「わたしの神、主よ、わたしを助けてください」と祈りました。聖霊なる神は答えてくださいました。それがダビデのこの御言葉でした。

 

 

 

神の御手によって、キリストの十字架による貧しい者の救いがはかられました。十字架のキリストを、敵対者たちは呪いました。しかし、父なる神は、十字架のキリストを祝福され、彼を復活させられました。

 

 

 

今やダビデが預言するように、十字架のキリストに敵対した者たちは恥に落とされ、キリストの弟子たちはキリストを神として崇め、礼拝し、喜びに満たされています。

 

 

 

その喜びに満たされたわたしたちに、ダビデが語りますのは、使徒パウロがローマの信徒への手紙1219節で語っている御言葉です。

 

 

 

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。

 

 

 

ダビデも「主は乏しい人の右に立ち 死に定める裁きから救ってくださいます」と歌い、「わたしに敵意を抱く者は辱めを衣とし 恥を上着としてまとうでしょう」と歌っています。

 

 

 

この世でも教会でも、不条理なことはあるでしょう。偽りと嘘によって陥れられることもあります。心を傷つけられる言葉や行為もあるでしょう。その時にわたしたちにできることは、このダビデのように、受難の主イエスのように、弱い者、貧しい者として、「わたしの神」に寄り頼むことだけです。

 

 

 

主イエスは、わたしたちに約束されました。「わたしはいつもあなたがたと共にいる」と。わたしたちの右にいて、主イエスは常にわたしたちを保護してくださいます。最後の神の審判において主以外に頼る者のいない貧しい者を、主イエスは心に留めてくださるのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編109編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

今朝の詩編は呪いの詩編と呼ばれ、教会の中で人気のない詩編です。しかし、今、この詩編109編を通して、ダビデの貧しい者の信仰を学び、聖霊がわたしたちにこの詩編を通して受難のキリストを指示してくださり、主を礼拝し、賛美できる幸いを得ましたことを心から感謝します。

 

 

 

どうかわたしたちもダビデのようにこの世で苦難に遭い、不条理を経験し、嘘と偽りで苦しめられるかもしれません。しかし、呪いの言葉を受けても、呪いの祈りで返すのではなく、主イエスが「互いに愛しなさい」と命じられた御言葉に立たせてください。

 

 

 

わたしたちは、本当に何もできない者です。主に依り頼む以外にありません。ですから、主が御心によってわたしたちを助けてくださり、試練と困難からわたしたちを逃れさせてください。

 

 

 

どんな困難な中でも主イエスの御受難を、キリストの十字架と復活に心を定め、御国に向けて歩ませてください。どうかわたしたちが憎しみを持つことから解放し、常に兄弟姉妹を愛せる心をお与えください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2019年度最後の礼拝説教       主の20191229

 

 

 

          賛歌。感謝のために。  感謝の賛歌

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。あなたがたは歓声を上げよ、主に

 

喜び祝い、主に仕え 向かって、全地よ。仕えよ、主に、喜びの中で

 

喜び歌って御前に進み出よ。 来い、彼の面前に、喜びの歌をもって。

 

知れ、主こそ神であると。 知れ、主こそ神。

 

主はわたしたちを造られた。 彼がわたしたちを造った。

 

わたしたちは主のもの、その民。 そして、わたしたちは彼のもの。

 

主に養われる羊の群れ。 彼の民 そして彼の牧する羊の群れ。

 

 

 

感謝の歌をうたって主の門に進み  来い、彼の門に、感謝をもって

 

賛美の歌をうたって主の庭に入れ。 彼の中庭に、賛美をもって。

 

感謝をささげ、御名をたたえよ。 感謝せよ、彼に。褒め称えよ、彼の名を。

 

主は恵み深く、慈しみはとこしえに まことに彼は良い。永遠に彼の慈しみは。

 

主の真実は代々に及ぶ。 そして、彼の真実は代々にまで。

 

 詩編第10015

 

 

 

説教題:「喜び、賛美、感謝をもってこの年を終える」

 

今朝は、今年礼拝を守りましょう。

 

 

 

詩編第10015節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

表題に「賛歌。感謝のために」とあります。詩編100編は「感謝の賛歌」です。主なる神への感謝を歌ったものです。

 

 

 

詩編100編は、「礼拝詩編」と呼ばれています。神の民たちがエルサレムの都まで巡礼し、神殿に詣でました時、神殿の祭司たちが彼らを主なる神の礼拝へと招いたのがこの詩編です。

 

 

 

神礼拝は、主なる神が神の民を招かれるところから始まります。主なる神の招きなしに、わたしたちの神礼拝は成り立ちません。

 

 

 

詩人は、1節で「全地よ」と呼びかけ、「主に向かって喜びの叫びを上げよ」と命令しています。

 

 

 

全地」とは大地のことではありません。全世界の人々です。エルサレムの都まで巡礼して来た全世界の人々です。

 

 

 

紀元前515年にバビロン捕囚から帰還した神の民たちは第二神殿を完成させました。そしてネヘミヤが紀元前445年に帰国してエルサレムの都の城壁を修復する工事を始めました。エルサレム神殿とエルサレムの都が再建されました。各国、各地に散らされていた神の民たちが、そしてユダヤ教に改宗した者たちがエルサレムの都に、神殿に巡礼して来ました。

 

 

 

詩人は、神殿の祭司だったでしょう。巡礼の全世界の人々を出迎えて、「あなたがたは主に向かって歓声を上げよ」と命じました。全世界の人々を、エルサレムの神殿での礼拝に招かれた主なる神を、神殿に詣でて、賛美し、主なる神に感謝せよと命じているのです。

 

 

 

喜びの叫び」とは、歓声です。喜んで叫ぶ声、それは救われた喜びの声、叫びでないでしょうか。主なる神が神の民たちを、バビロン捕囚から解放され、荒れ果てたエルサレムの都と神殿を元どおり回復されたという喜びの叫びです。

 

 

 

そこから礼拝に招かれた神の民たちに主なる神への感謝の心が生まれます。その心は、喜んで神に仕えようという動機を生み出すのです。

 

 

 

そこで巡礼の神の民たちを礼拝に招く祭司である詩人は、2節でこう歌います。「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ」と。そして、4節で「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、主の御名をたたえよ。」と。

 

 

 

巡礼の神の民たちは、礼拝のために神殿の「主の門」を通り抜けて「主の庭」に入りました。「主の庭」は内庭と外庭がありました。内庭には神殿の至聖所と聖所がありました。そしてその前に祭壇がありました。その祭壇を取り囲むようにして主に仕える祭司たちが主なる神を礼拝しました。そして、祭司たちの庭の前にイスラエルの男子たちが主なる神を礼拝する庭がありました。男子と女子が主なる神を礼拝する庭は壁で隔てられていました。そして女子が礼拝する庭から男子が礼拝する庭に入るために、その出入口としてニカノルの門がありました。異邦人たちは神殿の異邦人の門を通り抜けて、外庭に入り、主なる神を礼拝しました。

 

 

 

このようにこの詩編はエルサレム巡礼という背景から生まれました。だから、詩人に命じられて、巡礼者たちが13節を歌い、神殿の門を通り抜けて、神を礼拝する主の庭に入りました。すると、巡礼者たちを出迎えるように詩人を始め神殿の祭司たちが45節を歌い、巡礼者たちを神礼拝へと招いたのです。

 

 

 

さて、詩人は12節で3度「喜びの叫び」、「喜び祝い」、「喜び歌って」と巡礼の神の民たちに「喜び」を繰り返し強調しています。

 

 

 

詩編100編は、この喜びが「基調」です。「基調」というのは、音楽では支配的な音のことです。絵画では色のことです。哲学や思想では根底となる傾向、考え方のことです。

 

 

 

この詩編は喜びが支配的なのです。主なる神を喜び感謝する賛美なのです。それは、この詩編が神礼拝のためのものでるという意味です。

 

 

 

そこから当然、次の結論がでます。神礼拝は喜びが支配的であると。

 

 

 

では、どうしてこの詩編は喜びを基調とし、神礼拝は喜びが支配的なのでしょうか。

 

 

 

巡礼である神の民たちが礼拝に招かれた神殿に、すなわち、聖所と至聖所がある「主の庭」にバビロン捕囚から解放し、神の民を創造し、全世界を支配する王である主なる神がいますからです。

 

 

 

知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。

 

 

 

 

 

これは神の民イスラエルの信仰告白です。

 

 

 

知れ」、知るとは知識・情報のことではありません。男と女が結婚して一体となるように、主なる神と神の民が一体となる体験です。主なる神と神の民が一つの共同体となり、主なる神のみが唯一神であると体験することです。

 

 

 

その体験は、彼らが主なる神によってバビロン捕囚から解放され、再建されたエルサレムの神殿で主なる神を礼拝する共同体とされた、神の民の共同体として創造されたという体験なのです。

 

 

 

その体験とは、主なる神がバビロン捕囚の彼らを贖われたというものです。すなわち、主なる神は、彼らを神御自身のものとして買いとられたのです。だから、彼は、「わたしたちは主のもの、その民」と信仰告白しているのです。

 

 

 

主なる神は唯一の神で、天地万物の創造者です。そのお方がバビロン捕囚の解放と第二神殿の再建とエルサレムの城壁の修復を通して、主なる神を礼拝する神の民を創造してくださいました。

 

 

 

だから、詩人は、「彼がわたしたちを造られた。わたしたちは彼のもの。彼の民、彼の牧する羊の群れ」と告白するのです。

 

 

 

しかし、神の民たちの信仰体験だけでは、喜びは続きません。礼拝の喜びは続かないのです。体験は過去のものであり、神の民たちは現在と未来に向けて生きているのです。

 

 

 

ところが、主なる神は、神の民たちに彼らと共にいると約束され、神殿に臨在されています。

 

 

 

それを、神の臨在、あるいは現在と言っています。

 

 

 

 

 

日本語大辞典を紐解きますと、「臨在」という言葉は出てきませんが、「現在」は解説されています。「現に存在すること」と、簡潔で、適切な説明があります。

 

 

 

これが主なる神の御名でした。

 

 

 

旧約聖書の出エジプト記3章です。そこにモーセが荒れ野で主なる神に出会った記事があります。主なる神は羊飼いのモーセを召して、神の民イスラエルの指導者とされました。

 

 

 

主なる神がモーセをエジプトの神の民たちのところに遣わそうとされた時、モーセはエジプトの神の民たちに自分を遣わされた神の名を何と言えばよいのですかと、主なる神に質問しました。主なる神は彼に御自身を紹介されて、こう言われました。「『わたしはある』という方がわたしをあなたがたにつかわされたのだと。(出エジプト記3:15)

 

 

 

この「わたしはある」を、第一に改革派教会は「神は自存者である」と理解してきました。自存とは自力で生きるという意味です。反対語は他力です。神は自力で存在され、人とこの世界はその神によって存在させられています。

 

 

 

だから、この神、主が永遠に「わたしはある」というお方で、この世界と人間の創造者で、そして、宇宙と歴史の主権者なのだと、わたしたちは信じているのです。

 

 

 

そして、「わたしはある」を、第二に「わたしは今いる」、「わたしは今いるという者である」という意味に、わたしたちは理解しています。

 

 

 

主なる神は、神の民イスラエルにとって常に「今います」お方でした。それを、預言者イザヤは、「インマヌエル」(「神、我らと共にいます」)と言い表しました。

 

 

 

詩編100編の詩人が神礼拝を喜びが支配的であると理解しているのは、エルサレム神殿の礼拝に主なる神が今いますからです。バビロン捕囚の解放を通して、主なる神が神の民たちを贖われた主なる神は、神の民たちに神殿とエルサレムの都の城壁を再建させて、主なる神を礼拝する神の民を創造し、彼らが礼拝する只中に今いてくださるのです。

 

 

 

2節の「主に仕え」とは礼拝の行事を執り行うことです。礼拝することです。そこに現に今、主なる神がいますのですから、詩人は巡礼の神の民たちに喜びをもって礼拝せよと、主なる神に仕えよと命じているのです。

 

 

 

旧約聖書の申命記1211節と12節で主なる神は、モーセを通して神の民に神礼拝する場所を次のように定められました。「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれた場所に、わたしの命じるすべてのもの、すなわち焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、および主に対して誓いを立てたすべての最良の満願の献げ物を携え行き、あなたたちの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜び祝いなさい。

 

 

 

これが主に仕えることです。神礼拝です。神礼拝を喜び祝うのは、彼らが主なる神を礼拝する時、そこに現に今主なる神がいて、彼らを祝福してくださるからです。

 

 

 

インマヌエル、主我らと共にいます。これが神礼拝を喜びで支配しているのです。

 

 

 

さらにヨシュア記241426節を読みますと、何度も神の民の指導者ヨシュアは、約束の地カナンに導き入れられた神の民に、カナンの地での全生活を通して「主に仕える」ことを誓わせています。

 

 

 

主日礼拝だけでなく、日々の礼拝、家庭礼拝や個人礼拝を奨励しているのです。彼は、神の民たちに今日、「主に仕える」か、カナンの神々に仕えるかを選びなさいと命じて、神の民が主に仕えることを選びますと、彼らとシケム契約を結びました。そして、その契約のしるしとして大きな石を、彼らが神礼拝をしていました聖所のテレビンの木の下に置きました。

 

 

 

ヨシュアにとって「主に仕える」ことは、約束の地での神の民たちの生活全体が「主に仕える」ことでした。ヨシュアは、神の民たちにカナンでの彼らの生活の隅々まで主に仕えることを要求したのです。そして、ヨシュアは次のように警告しました。もし彼らが主を捨て、他の神々に仕えるのであれば、主もまた彼らを捨てられ、彼らは他国で奴隷となると。

 

 

 

ヨシュアの言葉は真実でした。神の民たちはその後主なる神を捨て、他の神々を礼拝し、彼らの国は二つに分かれ、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、神の民たちは捕囚されました。南ユダ王国もバビロンに滅ぼされ、神の民たちはバビロン捕囚されました。

 

 

 

熱心に神礼拝しても、そこに主なる神がおられないなら、その神礼拝は喜びが支配的になるどころか、むしろ礼拝する神の民たちに災いをもたらすのです。

 

 

 

 

 

このように詩編100編と旧約聖書の学びから、今、わたしたちが教えられることは、次のことです。

 

 

 

神礼拝は喜びが支配的であり、わたしたちが喜んで神を礼拝するのは、わたしたちと共に神がいますからです。

 

 

 

わたしたちの神礼拝の恵みは、キリストの十字架と復活の御業によって与えられたのです。

 

 

 

旧約聖書の神の民たちがバビロン捕囚から解放されたように、わたしたちはキリストの十字架と復活の御業によって罪と死の奴隷状態から解放されました。

 

 

 

父なる神は、御子イエス・キリストを真の人としてこの世に遣わされました。そして神であるキリストを、人として神の律法の下に置かれました。彼は、真の人として神の律法を完全に守られ、父なる神に義と認められました。同時にキリストは御自身の義を、罪人であるわたしたちにお与えくださいました。また、キリストは罪無きお方でした。しかし、キリストはわたしたちの罪を贖うために御自身を十字架にささげられました。わたしたちに代わり死の刑罰を受けてくださいました。

 

 

 

そして、キリストは三日目に死人の中から復活されました。

 

 

 

このキリストの十字架と復活の御業によって、父なる神はわたしたちの罪をお赦しくださいました。わたしたちは罪を赦されただけでなく、キリストのゆえに父なる神に義と認めていただき、父なる神と和解し、神の子とされました。

 

 

 

具体的には、わたしたちは主イエスをキリスト、救い主と信じて、洗礼を受けました。そして、神礼拝するキリスト教会の一員とされました。神を礼拝する共同体の一員として、聖霊を通して再創造されました。

 

 

 

天に昇られたキリストは、聖霊として、ペンテコステの日に降臨され、それ以来キリスト教会の礼拝に共に居てくださるのです。

 

 

 

上諏訪湖畔教会は今年一年休むことなく神礼拝を続けることが出来、今も続いており、来年も続けて行くでしょう。

 

 

 

わたしたちを十字架の贖いによって御自身のものとされたキリストは、この神礼拝ごとに、現に今わたしたちと共にいてくださいます。だから、今わたしたちは、主イエス・キリストを喜び、賛美し、感謝をもってこの年も終えることができることを喜びたいと思います。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年一年休むことなく主日礼拝を守れたことを感謝します。

 

 

 

主イエスよ、この一年間、聖霊と御言葉を通して、今現にここに居て下さり、わたしたちが神礼拝できる喜びを与え続けて下さり感謝します。

 

 

 

こうして主日礼拝ごとに、キリストの十字架と復活の御業を瞑想し、罪と死の奴隷状態から救われた喜びを、繰り返し思い起こせるだけでなく、今朝御言葉と共に聖餐の恵みにあずかり、今現に主イエスがわたしたちをこの礼拝に招き、喜びの祝いにわたしたちを預からせてくださることに、心から喜び感謝します。

 

 

 

今年一年間、神礼拝の喜びで満たしてくださり、ありがとうございました。

 

 

 

2020年の新しき年も、どうかわたしたちと共にいます主なる神よ、アブラハムの恵みの契約に基づいて、常にわたしたちの神となり、わたしたちの礼拝と共に居て、主イエスの十字架の下にわたしたちを導いてください。キリストの十字架と復活の御業を通して、主なる神がわたしたち異邦人を救い、罪の赦しと神の子としてくださる喜びをもって、心から神に感謝する礼拝をささげさせてください。

 

 

 

どうか、新しき年、わたしたちの教会にわたしたちと共に神を礼拝し、感謝する者を多く起こしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。