詩編説教101             主の2019217

 

          ダビデの詩。賛歌。  ダビデの賛歌

 

慈しみと裁きをわたしは歌い 慈しみと裁きを、わたしは歌おう、あなたに、

 

主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。主よ、わたしはほめ歌おう。

 

完全な道について解き明かします。 わたしは心を向けよう、全き道に。

 

 

 

いつ、あなたは いつ、あなたは来られるのか、わたしのところに。

 

わたしを訪れてくださるでしょうか。 

 

わたしは家にあって わたしは行き来します、全き心で、わたしの家の中を。

 

無垢な心をもって行き来します。 

 

卑しいことを目の前に置かず  わたしは置きません、わたしの両目の前に、

 

背く者の行いを憎み  ベリヤール(「魔」「破滅」)の言葉を。違反を行うこと

 

まつわりつくことを許さず を、わたしは憎み、それはわたしにくっつかない。

 

曲がった心を退け ひねくれた心はわたしから離れる。

 

悪を知ることはありません。 わたしは悪を知ることはない。

 

隠れて友をそしる者を滅ぼし 隠れたところで隣人を中傷する者たちを、わた

 

傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。しは滅ぼします。目の高い者、心の広い者、彼をわたしは耐えられない。

 

わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしは地の忠実な者たちに

 

わたしと共に座に着かせ 目を向ける、わたしと共に住むために。

 

完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。全き道を歩む者は、わたしに仕

 

わたしの家においては  える。住まない、わたしの家の中に、欺きを行う者

 

  人を欺く者を座に着かせず は。嘘を語る者がわたしの目の前で固く

 

偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。立つことはない。

 

朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 朝ごとにわたしは地のすべて

 

悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。の悪者たちを滅ぼす。主の町から断ち滅ぼすために、不義を働くすべての者たちを。

 

 詩編第10118

 

 

 

説教題:「神の御前に正義を行う」

 

 

 

詩編第10118節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

101編は、「王の詩編」と呼ばれています。その内容は王の誓約です。

 

 

 

詩人の「わたし」は、王です。

 

 

 

詩人は王に即位した時、おそらくエルサレム神殿で主なる神を礼拝しました。そして、主なる神の慈しみと裁きをほめたたえて賛美しました。

 

 

 

詩人は12節で次のように賛美します。

 

 

 

慈しみと裁きをわたしは歌い 主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。完

 

全な道について解き明かします。いつ、あなたはわたしを訪れてくださるでし

 

ょうか。わたしは家にあって

 

 

 

サムエル記下の7章で主なる神はダビデと契約を結ばれました。主なる神は預言者ナタンを通してダビデの王国をとこしえに据えると約束されました。そして、主なる神はダビデと彼の後を継ぐ王たちの父となり、ダビデと彼の子孫の王たちは神の子となると約束されました。

 

 

 

 

 

主なる神は、その契約に基づいてダビデ王国に神の不変の愛を示されました。その不変の愛が「慈しみ」です。

 

 

 

同時に主なる神は、ダビデとの契約に基づいて王が主なる神に背いたときに、主なる神は親が愛を持って子を叱るように、王たちの罪を裁かれました。その度に主なる神は、預言者たちを王に遣わされて何度も何度も御自身に立ち帰るように招かれたのです。

 

 

 

この「裁き」を、主なる神の「公正」「公義」と呼んでいます。主なる神が正しい裁きを行われるということは、神の民イスラエルの根本的で、ゆるぎない信仰です。

 

 

 

主なる神は、神の民の中に士師を置かれ、王を置かれ、彼らを通して神の民を裁かれました。

 

 

 

だから、詩人・王は神の代理人として、主なる神に誓いを立て、王の職務である裁き人の務めを果たすと誓うのです。

 

 

 

詩人・王は、2節で「完全な道について説き明かします」と誓います。

 

 

 

完全な」とは、「無垢な心」の「無垢な」と同じ言葉です。分裂のない円満、完全を表す言葉です。この言葉の反対が4節と7節で歌われている「曲がった心」「欺き」「偽り」の偽りの悪徳です。「偽り」とは、「心情の分裂」「全心をかけないこと」「いい加減なこと」を意味しています。

 

 

 

説き明かします」は、心を向けるという意味の言葉です。だから、詩人・王は、「わたしは、心を向けよう、完全な道に」と歌っているのです。

 

 

 

詩人・王は、王に即位しました時、神の法を授かりました。だから詩人・王は彼自身の清き心情と授かった神の法に従順に従うことを誓っているのです。

 

 

 

詩人・王が「いつ、あなたは わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって 無垢な心をもって行き来します」と賛美しています。

 

 

 

詩人・王は、主なる神の到来、あるいは現臨を待ち望んでいます。彼は、王宮で裁き人の職務をするのですから、その職務を果たすためにも、彼は偽りのない心で、主の御力と助けにより頼もうとしたのではないでしょうか。

 

 

 

では3節以下8節までの王の誓約の内容を見て行きましょう。

 

 

 

3節で詩人・王は「卑しいことを目の前に置かず 背く者の行いを憎み」と歌っていますね。

 

 

 

卑しいこと」とは、何でしょうか。これは、「ベリヤールの言葉」を意訳したのです。「ベルヤールの言葉」を、そのまま日本語にすると、「魔の言葉」「破滅の言葉」となります。昨年12月に出版された聖書協会共同訳聖書は「邪悪なもの」と意訳しました。

 

 

 

その意訳の根拠としたのは、旧約聖書の申命記159節です。主なる神がモーセを通して神の民たちに7年目には同胞の負債を免除するように命じられて、こう警告されています。「『七年目の負債免除の年が近づいた』と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることがないように注意しなさい。

 

 

 

この「よこしまな考え」は、ある伝染力を持った悪です。まるでウイルスでインフルエンザが流行するように、神の民たちの中に広がる悪です。7年目は負債を免除しなければなりません。だから、邪悪な考えの者は貧しい同胞が助けを求めても無視しようと、何の利益もないのだからと、貧しい者たちを切り捨てるのです。その悪を主なる神が見過ごされるはずがありません。神の民の共同体に災いをもたらす悪を、主なる神はモーセを通して神の民に捨てるように警告されました。

 

 

 

旧約学者の関根正雄氏は、この「よこしまな」を、本来「無益である」という意味であると言います。そして、偶像を表す「空しい」という言葉を用いています。それに応じて「背く者の行い」を、その者の心の問題と理解し、神の民が主なる神を捨て、偶像を礼拝するために神像を作り、それを詩人である「わたしは憎む」というふうに意訳しています。

 

 

 

いやしいこと」、「背く者の行い」は、偶像礼拝の罪です。詩人・王は授かった神の法、すなわち、十戒の第1戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト20:3)と第2戒「あなたはいかなる像も造ってはならない(出エジプト20:4)に堅く立ち、偶像礼拝の罪を心から憎みました。だから、詩人・王は、彼の身の回りの生活の中に偶像礼拝の罪の痕跡はないと証ししています。彼の心は主なる神にのみ向けられています。

 

 

 

偶像礼拝の罪は、曲がった心から生まれます。その心は神と富とに仕えようという心の分裂です。分裂した心は、目をこの世に奪われ、貪欲の罪が生まれます。そして、隣人のものを欲しがり、むさぼりの罪に陥り、その悪は伝染力を持って神の民たちに広がり、主なる神が定められた道を踏み外すのです。

 

 

 

詩人・王は、そのような主なる神に背く者たちを憎み、彼らから遠ざかり、悪を知ろうとしないと歌っています。

 

 

 

5節で詩人・王は、「隠れて友をそしる者を滅ぼし 傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。」と歌っています。密かに隣人を中傷することも、高慢な態度も、心の中の問題です。この世の裁判の裁きの対象ではありません。しかし、詩人・王は、人の内心の思いを問題にしています。まるでマタイによる福音書で主イエスが山上の説教をなさった、その御言葉を聞いているという感じになります。

 

 

 

 この詩人・王は、主イエスと同じ心を持つ王です。まるで彼は、主イエスのように自らが主なる神の法に従順に従い、悪を憎み、そこから離れた聖なる領域を作り出そうとしているようです。主イエスは、それを神の国と表現されました。そして、主イエスは、ガリラヤでその御国の福音を告げられました。

 

 

 

傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。」は、意訳です。詩人・王は「目の高い者、心の広い者、彼にわたしは耐えられない」と歌っているのです。

 

 

 

 イザヤ書113節で主なる神が預言者イザヤを通して、「災いを伴う集いにわたしは耐ええない」と言われています。「許しません」は「わたしは耐ええない」という意味です。詩人・王は、主なる神と同じ思いを持ち、王国を治めています。

 

 

 

 詩人・王は6節で、「わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め わたしと共に座に着かせ 完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます」と歌っています。

 

 

 

詩人・王は、この国に忠実な人々に目を向けるのです。それは、彼と共に彼らがエルサレムの都に住み、彼に仕えるためです。詩人・王はある意味で彼が王に即位した時に授けられた神の法に従う理想的な国造りをしようとしています。だから、彼が造ろうとする国に忠誠を尽くそうとする者たちに目を注ぐのです。王の臣下は神の法に全心で従う者たちです。

 

 

 

それと反対なのが7節です。「わたしは家においては 人を欺く者を座に着かせず 偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。

 

 

 

詩人・王は、まことに主イエスと同じまなざしで生きています。人の外見よりも人の心を問題にしています。心の曲がった者は、王に仕えることはできません。偽り、欺く者はこの王と衣食住を共にすることはできません。王は、心に偽りを持つ者を、王国から、エルサレムの都から追放するのです。

 

 

 

王と共に王国に住み、エルサレムの都に住む者は、王と同じように清い心情を持ち、神の法に従順に従う者たちです。

 

 

 

詩人・王は、8節で「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし 悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。」と誓っています。

 

 

 

詩人・王は、主なる神の代理人として、毎日神の法に背く悪人を裁き、主なる神が住まわれるエルサレムの都から断つと誓っています。国と都を清めると誓います。

 

 

 

このように詩編101編を学びますと、この詩人・王に近い王はヒゼキヤ、ヨシヤでしょうか。特にヨシヤ王は申命記に基づいて宗教改革を実行し、エルサレムの都から南ユダ王国の全土、そしてすでに滅亡していた北イスラエル王国まで、すなわち、昔のダビデ王国の全土でバールの神像等を破壊しました。

 

 

 

しかし、預言者エレミヤは、ヨシヤの宗教改革は神の民の心まで改革できなかったと批判しています。

 

 

 

詩編101編の詩人が歌う理想の王は現実には存在しなかったということになります。

 

 

 

しかし、この詩人が歌う理想の王は、主イエスに似ています。詩人・王は2節で「いつ、あなたはわたしを訪れてくださるのでしょうか。」と歌っています。彼は、来るべきメシアを待ち望み、預言しているのではないでしょうか。

 

 

 

王の詩編と呼ばれるこの詩編は、王が即位する時、彼は主なる神の子として迎えられました。ダビデは詩編27節で「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ』」。

 

 

 

ダビデはメシアについて預言したのです。同様に詩編101編の理想の王はメシアです。詩人は、彼を待ち望んだのです。

 

 

 

主イエスは、この世に来てくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。目の前のサタンの誘惑を退け、全心を父なる神に向けられ、すべての悪を遠ざけられました。そして神の御国を建て上げるために、そこに罪を清められた神の民を共に住ますために、十字架の道を歩まれたのです。

 

 

 

神の御国に入れる者は、心の貧しい者です。主イエス以外に頼る者を持たない者です。心へりくだる者です。

 

 

 

神の法に背く者、偽り者、おごり高ぶり、傲慢な者は入ることができません。

 

 

 

今主イエスは、天におられますが、再び来られ、この理想の王のようにすべての不法の者たちを裁かれるのです。そして、その裁きは、この教会から始まっているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編101編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

悪に満ちたこの世で、神の法に従い、清き生活を主なる神の御前に造ろうとするこの理想の王を通して、わたしたちは主イエス・キリストに心を向けることが出来て、感謝します。

 

 

 

わたしたちも詩人・王と共に、主の慈しみと裁きを誉め称え賛美させてください。

 

 

 

恵みの契約に基づいて変わらない愛を示される主イエス・キリストの父なる神をほめたたえます。

 

 

 

十字架の御救いのゆえに、神の御前に何の功績もありませんが、罪を赦され、神の子とされ、主イエスと共に御国に住める特権を与えられ、感謝します。

 

 

 

どうか、心高ぶることなく、この世のものに心を寄せて、貪欲にならず、物欲、色欲、名誉欲、主なる神からわたしたちの心を引き離すものから遠ざかり、全き心で主なる神を礼拝させてください。

 

 

 

どうか、神の御言葉が語られ、聞かれるこの礼拝に、わたしたちが詩人・王のように全き心で行き来するこの教会に、主イエスを聖霊と御言葉を通して訪れてください。

 

 

 

どうか、わたしたちの教会に神の民をお集めください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教102               主の2019317

 

          祈り。心挫けて、主の御前に思いを注 貧しい者の祈り。

 

          ぎ出す貧しい人の詩。彼が弱った時、主の御前で彼の嘆

 

主よ、わたしの祈りを聞いてください。 きを、彼は注ぎだした。主よ、聞き

 

この叫びがあなたに届きますように。たまえ、わたしの祈りを。わが叫びがあ

 

苦難がわたしを襲う日に なたのところに届きますように。隠さないでくださ

 

  御顔を隠すことなく、御耳を向け い、あなたの御顔を、わたしから、苦

 

あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。難の日に。傾けてください、あな

 

たの耳を、わたしに。わたしが呼ぶ日に、早くわたしに答えてください。

 

わたしの生涯は煙となって消え去る。まことに消え失せる、煙の中に、わが 

 

骨が炉のように焼ける。 日々は。わが骨は炉のように焼けたのです。

 

打ちひしがれた心は、草のように乾く。 打たれた、草のように、わが心

 

わたしはパンを食べることすら忘れた。 は。まことにわたしは忘れた、わ

 

わたしは呻き がパンを食べることすら。わが呻きの声によって、

 

骨は肉にすがりつき ひっついた、わが骨に、わが肉が。

 

荒れ野のみみずく わたしは似ている、荒れ野のみみずくに。

 

廃墟のふくろうのようになった。わたしはなった、廃墟のふくろうのよう

 

屋根の上にひとりいる鳥のように に。わたしは目覚めています、屋根の

 

わたしは目覚めている。上にひとりでいる小鳥のようです。

 

 

 

敵は絶えることなくわたしを辱め 一日中、わたしを嘲る、わが敵たちは。

 

嘲る者はわたしによって誓う。わたしを嘲ける者たちは、わたしによって

 

わたしはパンに代えて灰を食べ 誓う。まことに灰をパンのようにわたし

 

飲み物には涙を混ぜた。 は食べた。わが飲み物に、わが涙を、わたしは

 

  あなたは怒り、憤り 混ぜた。あなたの憤りと怒りのゆえに。

 

わたしたちを持ち上げて投げ出された。なぜなら、あなたはわたしを持ち

 

わたしの生涯は移ろう影 上げ、投げ落としたから。わが日々は傾いた

 

草のように枯れて行く。影のよう。わたしは草のように枯れてしまった。

 

 

 

主よ、しかし、あなたは、主よ、

 

あなたはとこしえの王座についておられます。永遠に座しておられます。

 

御名は代々にわたって唱えられます。御名は代々に唱えられます(あなたの

 

どうか、立ち上がって 記憶は代々に)。あなたは立って

 

  シオンを憐れんでください。 シオンを憐れまれる。

 

恵みのとき、定められたときが来ました。まことにそれを恵む時、まことに定

 

あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み の時が来ました。まことに愛し

 

塵をすら、どれほど慕うことでしょう。ている、あなたの僕らは、シオンの石を。その塵すら慕うのです。

 

国々は主の御名を恐れ 畏れますように、諸国の民は、主の御名を。

 

地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。すべて地の王たちは、あなたの

 

主はまことにシオンを再建し 栄光を。まことに主がシオンを建て、

 

栄光のうちに顕現されます。栄光のうちに現れられた。

 

主はすべてを喪失したものの祈りを顧み 彼は御顔を向けた、棄てられた者の

 

その祈りを侮られませんでした。祈りに。軽んじなかった、彼らの祈りを。

 

 

 

  後の世代のために 書かれるように、これが、後の世代のために。

 

    このことは書き記されねばならない。

 

  「主を賛美するために民は創造された。」民が創造された、主をほめたたえ

 

                     るように。

 

主はその聖所、高い天から見渡し まことに彼は見下ろす、彼の聖なる高みか

 

大空から地上に目を注ぎ ら。主は、天から地を見られた。

 

捕らわれ人の呻きに耳を傾け 捕らわれた人の呻きに耳を傾け、死に渡された

 

死に定められていた人々を 者を解き放つために。

 

  解き放ってくださいました。

 

シオンで主の御名を唱え 語り、シオンで、主の御名を。

 

エルサレムで主を賛美するために その誉をエルサレムで、

 

諸国の民はひとつに集められ 集められる時、諸国の民が一緒に。

 

主に仕えるために 諸王国が主に仕えるために。

 

  すべての王国は集められます。

 

 

 

  わたしの力が道半ばで衰え 彼は、道半ばでわが力を衰えさせ、

 

  生涯が短くされようとしたとき わが日々を短くする。

 

  わたしは言った。 わたしは言う、

 

  「わたしの神よ、生涯の半ばで わが神よ、わたしを上げないでください、

 

  わたしを取り去らないでください。わが日々の半ばで。

 

  あなたの歳月は代々に続くのです。あなたの年は、代々の世代に。

 

  かつてあなたは大地の基を据え 以前に()地にあなたは基を置かれた。

 

  御手をもって天を造られました。天はあなたの両手の御業。

 

  それらが滅びることはあるでしょう。これらは滅びる。

 

  しかし、あなたは永らえられます。 しかし、あなたは立たれる。

 

  すべては衣のように朽ち果てます。彼らは皆、衣服のように古びる。

 

  着る物のようにあなたが取り替えられると 上着のように、あなたがそれ

 

  すべては替えられてしまいます。 らを取り替えると、それらは変わる。

 

  しかし、あなたが変わることはありません。しかし、あなたはあなたであ

 

  あなたの歳月は終わることがありません。」(あなたは同じ)。あなたの年

 

                      は終わることがない。

 

あなたの僕らの末は住むところを得 あなたの僕らの息子たちは住まい、

 

子孫は御前に固く立てられるでしょう。彼らの子孫があなたの御前に固く立つ

 

                  ように。

 

 詩編第102129

 

 

 

説教題:「貧しい者の祈り」

 

 

 

詩編第102129節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

見出しに「祈り。心挫けて、主の御前に思いを注ぎ出す貧しい人の詩。」とあります。

 

 

 

 「貧しい人」の祈りの詩編です。

 

 

 

「心挫け」は、この詩人が弱った時です。病苦に、敵の迫害に、孤独に、生活の困窮に、彼は弱りはて、心も体も衰えてしました。

 

 

 

 彼はサムエル記のサムエル少年の母ハンナのように、魂を注ぎだして、彼の嘆きを、ヤハウェ、主に向かって祈りました。

 

 

 

 彼の祈りは、彼個人の祈りを越えて、神の民の祈りとなり、今やキリスト教会の祈り、キリスト者であるわたしたちの祈りとなっています。

 

 

 

 だから、キリスト教会は、伝統的にこの詩編を、「七つの悔い改めの詩編」の一つ、その5番目のものとして、大切にしてきました。

 

 

 

詩人の祈りから3つのことを学びましょう。

 

 

 

第一は、212節の御言葉です。詩人の嘆きの祈りを学びましょう。詩人は悩み苦しみを主なる神への祈りという形で告白しています。

 

 

 

 第二は、1323節の御言葉です。シオンの再建を願う神の民の祈りを学びましょう。詩人はシオンが再建され、神の民が新しく創造され、諸国の民をひとつに集められて、そして諸国の王たちを御自身に仕えさせられる主なる神の主権性を賛美しています。

 

 

 

 第三は、2429節です。詩人は人の命のはかなさ、移ろいやすさと永遠に変わらない主なる神を対比して祈っています。その祈りを学びましょう。再び詩人は自分の現実の苦しみに目を向け、自分と人の人生のはかなさ、移ろいやすさを、主に嘆き訴えて祈り、主が永遠にいますことを賛美しています。

 

 

 

以上の三つを学ぶ前に、この詩人の詩編の特色を見ましょう。

 

 

 

彼は、他の詩編の御言葉、祈りをとても多く引用しています。それは、神の民の祈りには決まり文句、定型句があるからです。

 

 

 

病苦と孤独、迫害と生活の困窮を、主に嘆き祈る詩人に、耳を傾けましょう。

 

 

 

2節で詩人は、「主よ、わたしの祈りを聞いてください。この叫びがあなたに届きますように」と祈ります。これは、祈りの定型句です。ダビデが主に詩編171節で「主よ、正しい訴えを聞き わたしの叫びに耳を傾け 祈りに耳を向けてください」と祈っています。

 

 

 

詩人は、ダビデと同じように主に訴えて、祈っているのです。その時には2節の御言葉を、ダビデの祈りのように冒頭に置くことが、神の民たちの祈りの習慣なのです。

 

 

 

3節の御言葉も同様です。「苦難がわたしを襲う日に 御顔を隠すことなく、御耳を向け あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。

 

 

 

ダビデは、詩編132節で祈っています。「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのですか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。

 

 

 

 神が人から御自分の御顔を隠されるとは、神がその人を「忘れる」「棄てる」という意味を表す決まり文句なのです。神はその人と関係を絶たれて、恵みをお与えくださらないのです。

 

 

 

 「あなたを呼ぶとき、急いで答えてください」という詩人の祈りも、神の民が主なる神に訴える時の決まり文句です。

 

 

 

 詩人はダビデのように神の民が主なる神に訴える祈りをしているのです。

 

 

 

 詩人の主への訴えが412節の御言葉です。最初の4節と最後の12節で詩人は自分の命のはかなさ、移ろいやすさを訴えています。その訴えに囲まれるように今の詩人の病苦と敵の迫害と生活の困窮の状態を述べています。

 

 

 

 詩人は、この祈りで第一に彼の生涯のはかなさ、移ろいやすさを語っているのです。

 

 

 

彼の生涯は、はかなく、移ろいやすいです。だから、46節で彼はまず病苦を訴えています。ある注解者は、46節の詩人の症状は熱病を誇張表現していると説明します。

 

 

 

この詩編の前にヨブ記という書物があります。そこで主人公のヨブが彼の体の病気の苦しみを次のように言っているのです。「わたしの皮膚は黒くなって、はげ落ち 骨は熱に焼けただれている。(ヨブ30:30)と。そして、ヨブは、こう続けて言います。「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく 命はパンをいとい 魂は好みの食べ物すらいとう。肉は消耗して見えなくなり 見えなかった骨が姿を現し 魂は滅亡に 命はそれを奪うものに近づいてゆく。(ヨブ33:1922)

 

 

 

 詩人は、ヨブが言う病気で苦しみ、死に至る病に苦しんでいたのではないでしょうか。

 

 

 

 病苦に、社会的な困窮が詩人に追い打ちをかけました。79節の御言葉です。詩人は敵の迫害で社会的に孤立状態に陥っていました。彼は、バビロン捕囚の民の一人だったのではないでしょうか。

 

 

 

敵とはバビロンの異邦人たちかもしれません。聖なる都を離れ、詩人は宗教的に汚れた異教の地に住んでいたでしょう。そして、異邦人から「お前たちの神がどこにいるのだ。どうしてお前たちの神はお前を助け、お前たち神の民を助けられないのだ」と嘲られていたでしょう。だから、詩人はまるで荒れ野に住むみみずく、フクロウであると告白しているのです。

 

 

 

 1012節は、詩人にはさらに深刻です。神の刑罰の中に彼は置かれていると告白しているからです。「わたしはパンに代えて灰を食べ」とは、詩人が灰の中に身を伏して悔い改めたという意味です。ヨブが「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。(ヨブ42:6)と告白しています。詩人は、まさにヨブに似た人生を生きたのです。

 

 

 

 まさに捕囚の地の四面楚歌の中で、彼はヨブのようにどん底の中から主なる神に嘆き訴えて、助けを祈り求めました。

 

 

 

 13節から23節は、詩人が自分のことから祈り求める主なる神にテーマを移しています。個人の祈りが神の民の祈りに変わっています。そこで彼は、主なる神の主権性を賛美します。

 

 

 

 13節で詩人は、主なる神が王座に就かれて、世界を、すなわち、諸国の民たちを代々に支配されていると賛美しています。

 

 

 

 そして、詩人は1419節で主なる神にシオンの回復を祈り求めています。シオンとはエルサレム神殿です。詩人は、1415節で神の民の恵みの時、主が定められたエルサレム神殿を再建する時が来たと預言しています。

 

 

 

そして、詩人は、主に神の民たちが破壊された神殿の跡、残された石をどんなに慕っているか、そこに神殿を再建したいと願っているかを訴えています。

 

 

 

1617節で詩人は、シオンの回復が主の栄光のためであると述べています。詩人は、エルサレム神殿が再建され、主の栄光が現わされ、主なる神が王として諸国の民たちを支配され、諸国の王たちや民たちがエルサレム神殿に集められて、神の御名を賛美するように祈っています。

 

 

 

19節は、詩人が自らは捕囚の地で死ぬことを自覚し、彼は次の世代に望みを託したのでしょう。

 

 

 

詩人は2023節でバビロン捕囚からの解放を賛美しています。主なる神が天からバビロン捕囚の神の民たちに助けの手を伸ばされ、彼らを死の地から解放されます。エルサレムに帰還させ、エルサレム神殿を再建し、主なる神を礼拝し、賛美させるためです。そして、再建されたエルサレム神殿に諸国の王たちが主に仕えるために集まると、詩人は預言しました。

 

 

 

 だが、詩人は、その栄光を見ることはできなかったでしょう。それゆえに再び詩人は、彼の嘆きを主なる神に訴え祈るのです。

 

 

 

しかし、詩人は、前のように神の怒りと憤りについて触れてはいません。詩人は、主なる神の永遠性に目を向けています。そのために彼の生涯と神が造られたこの世界のはかなさと移ろいやすさを嘆いているのです。

 

 

 

 詩人の命とこの世界の命は、衣服のように古びて、滅んでしまいます。また、わたしたちが毎日衣服を着替えるように、神の造られたこの世界も替えられてしまいます。詩人たちの世代は、次の新しい世代と交替するのです。この世界も四季の移り変わりの中で、前のものは消え去り、新しいものが芽生えてきます。そして、新しく芽生えたものも、古びて滅びゆくのです。

 

 

 

 しかし、詩人は告白します。主なる神は変わられないと。永遠にいますと。

 

 

 

そして、詩人は、彼の次の世代の神の民たちが主なる神との契約の中で神と共に生きることを祈り、願っているのです。

 

 

 

貧しい者の祈りとは、神の民の祈りです。永遠にいます神に祈る者です。そして、この詩人から学ぶことは、神の永遠性こそが詩人のこの世の現実の苦しみを解決するカギであるということです。

 

 

 

今、わたしたちはレントの季節を過ごしております。この詩人から、この詩人の御言葉の一節から、その喜びを学べれば感謝です。

 

 

 

今朝の詩人の祈りに耳を傾けて、わたしたちの心で捕えるのは、二つのことでないでしょうか。一つはわたしたちの命の短さです。人は誰でも道半ばでその命は失われるというはかなさ、移ろいやすさを知っています。それに対して詩人は主なる神は永遠のお方であり、永遠にいますお方であることを知っています。

 

 

 

この二つの真実から、詩人は一つの希望を見出しました。いつの時代も神の民は永遠の神、主と共に生きてきたという事実です。

 

 

 

その事実が、詩人に次のように祈れる希望を与えてくれました。詩人が18節で祈るように、「主はすべてを喪失した者の祈りを顧み その祈りを侮られませんでした。

 

 

 

詩人は、主なる神とアブラハムとの契約を思ったでしょう。主なる神とモーセがシナイ山で恵みの契約を更新したことを思ったでしょう。彼らは、今この世に存在していません。しかし、彼らと契約を結ばれた主は、永遠に生きておられます。だから、彼らの祈りを覚えて下さり、その契約を実行して、シオンを再建し、諸国の王たちや民たちがエルサレム神殿に集めて下さいます。バビロンから帰還した神の民たちを通して諸国の王たち、民たちが神の祝福にあずかるのです。

 

 

 

さらに異邦人たちの救いを保証してくれるお方は、主イエス・キリストです。

 

 

 

主イエスは、永遠に生きる主です。アブラハムとモーセ、そしてダビデと恵みの契約を結ばれた主です。

 

 

 

彼らが死んだ後も、主は生きて、神の民と共に歩まれ、時が来たとき、人この子としてこの世に来られ、死の暗黒に住んでいたわたしたち異邦人を、罪と死から解放するために、罪の世に来てくださいました。そして、詩人の恐れた神の怒りと憤りを、主イエスはあの十字架の上で受けてくださったのです。それによって罪ゆえに死と涙の谷を生きなければならなかったわたしたちは、罪と死から解放されました。そして、わたしたちはキリストと共に生きる永遠の命をいただき、神の子とされました。

 

 

 

主イエスが死んで、復活されたゆえに、詩人が賛美する後の世代であるキリスト教会はその主イエスを賛美するために創造されたのです。

 

 

 

だから、わたしたちは、毎日曜日ごとに喜んでこの教会に集まり、主を賛美し、主に仕えて、永遠の主、イエス・キリストと共に神の御国へと歩んでいきましょう。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編102編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

この教会でわたしたちが主を崇め、礼拝し、賛美し、仕えることができる幸いを感謝します。

 

 

 

どうか永遠の神、主に心を向け、わたしたちがはかない、移ろいやすい生涯であることに気づかせてください。そして、詩人と共に、永遠の神主と共に生きてきた神の民の歴史に、歩みに、そして彼らの祈りに、わたしたちの歴史と歩みと祈りを重ね合わすことが出来る用意してください。

 

 

 

そしてその重なり合うところに主イエス・キリストの十字架と復活の御業があることを心に留めさせてください。

 

 

 

アブラハムの恵みの契約に基づいて永遠の神主が神の民に変わらない愛を示され、主イエス・キリストの十字架によって、永遠の神の愛がわたしたちに及ぶことを覚えて、永遠の神をほめたたえます。

 

 

 

どうか、イースター伝道礼拝を祝してください。毎週の主の日の礼拝を祝してください。詩人が祈りましたように、諸国の民をわたしたちの教会にお集めください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教103               主の2019526

 

          ダビデの詩。 ダビデの

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。 たたえよ、わたしの魂よ、主を。

 

わたしの内にあるものはこぞって わたしの内なるすべてのものよ、

 

聖なる御名をたたえよ。彼の聖なる御名を。

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。たたえよ、わたしの魂よ、主を。

 

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。忘れるな、彼のすべての恩恵を。

 

主はお前の罪をことごとく赦し 赦す者、あなたの咎をすべて 

 

病をすべて癒し 癒す者、あなたの病をすべて

 

命を墓から贖い出してくださる。 贖う者、あなたの命を墓穴から

 

慈しみと憐れみの冠を授け 冠する者、あなたに慈しみと憐れみを

 

長らえる限り良いものに満ち足らせ 満ち足らせる者、あなたの願いを良き物

 

鷲のような若さを新たにしてくださる。新になる、鷲のように、あなたの若さ

 

                  は。

 

主はすべて虐げられている人々のために 主は義(正義)を行う者、

 

恵みの御業と裁きを行われる。すべての虐げられている者たちのために裁きを。

 

主は御自分の道をモーセに 彼は知らせた、彼の道をモーセに、イスラエルの

 

御業をイスラエルの子らに示された。子らに御業を。

 

主は憐れみ深く、恵みに富み は憐れみ深い、また、恵み深い主は。

 

忍耐強く、慈しみは大きい。怒るに遅く、慈しみは豊か。

 

永久に責めることなく  いつまでも争わず

 

とこしえに怒り続けられることはない。 とこしえに怒ることはない。

 

主はわたしたちを わたしたちの罪に従って

 

罪に応じてあしらわれることなく 彼がわたしたちに行ったことはない。

 

わたしたちの悪に従って報いられることもない。わたしたちの不義に従って

 

天が地を超えて高いように。彼がわたしたちに報いたことはない。まことに

 

慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。高いように天が地より。力強い、彼の

 

東が西から遠い程 慈しみは、彼を畏れる者たちの上に。遠いように、東が西

 

わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。から。彼は遠ざける、わたしたち

 

父がその子を憐れむように を、わたしたちの背きの罪から。憐れむように、

 

主は主を畏れる人を憐れんでくださる。父が子たちを。主は憐れむ、彼を畏れ

 

                  者たちを。

 

主はわたしたちを まことに彼は知っている、

 

どのように造るべきか知っておられた。わたしたちの造られた様を。

 

わたしたちが塵に過ぎないことを  覚えておられる、わたしたちが塵で

 

御心に留めておられる。 あることを。

 

人の生涯は草のよう。人は、草のよう、彼の日々は。

 

野の花のように咲く。野の花のように、このように彼は花咲く。

 

風がその上に吹けば、消えうせ まことに風がその上を過ぎれば無い。

 

生えていた所を知る者はなくなる。 どこに咲いたか分からない。

 

 

 

主の慈しみは世々とこしえに 主の慈しみはとこしえからとこしえまで、

 

主を畏れる人の上にあり 主を畏れる人々の上に。

 

恵みの御業は子らの子らに 彼の義は子らの子らに。

 

主の契約を守る人 彼の契約を守る者たちと、

 

命令を心に留めて行う人に及ぶ。彼の命令を行おうと覚えている者たちに。

 

主は天に御座を固く据え 主は天に彼の座を固く据え

 

主権をもってすべてを統治される。 彼の王国は、すべての者を統治する。

 

御使いたちよ、主をたたえよ たたえよ、主を 御使いたちよ。

 

主の語られる声を聞き 言力ある勇士たちよ、

 

御言葉を成し遂げるものよ 彼の御言葉を行う者たち、

 

力ある勇士たちよ。 聞き従うために、彼の御言葉の声を。

 

万軍の主よ、主をたたえよ。たたえよ、主を、彼の軍勢よ。

 

御もとに仕え、御旨を果たすものよ。彼に仕える者たちよ、彼の御旨を行う

 

主に造られたものはすべて、主をたたえよ。たたえよ、主を。すべての彼の御

 

主の統治されるところの、どこにあっても。業よ。彼の統治のすべての場所で。

 

 

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。たたえよ、主を、わたしの魂よ。

 

 詩編第103122

 

 

 

説教題:「わたしの魂よ、主をたたえよ」

 

 

 

 

 

詩編第103122節の御言葉を学びましょう。

 

1節の表題に「ダビデの詩。」とあります。しかし、この詩編にはどこにも、ダビデと関わるもの記されていません。

 

 

 

この詩編の作者が誰であるかは不明です。

 

 

 

詩人が5節で「鷲のような若さを新たにしてくださる」と歌っていますね。旧約聖書のイザヤ書4031節で、バビロン捕囚の時代に活躍しました第二イザヤと呼ばれています無名の預言者が次のようにバビロン捕囚の中で絶望していた神の民を励ましています。「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」

 

 

 

この詩編の作者は、第二イザヤよりも後の人で、バビロン捕囚から解放されて、エルサレムに帰還していた人ではないかと、わたしは推測しています。

 

 

 

12節はこの詩編の序文であり、2022節がこの詩編の結びです。詩人は、自分の魂に訴えて、主なる神をたたえて賛美するように招いています。

 

 

 

35節で詩人は、主に罪を赦され、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できたことを、個人的に感謝しています。

 

 

 

619節で詩人は、主なる神が神の民イスラエルになされた恵みの御業を賛美しています。

 

 

 

出エジプトからバビロン捕囚の解放までの神の救済史を賛美しています。

 

 

 

この詩編103編は、美しい一枚の絵画にたとえることができます。はじめと終わりにある「わたしの魂よ、主をたたえよ」という御言葉がこの詩編103編の絵を飾る額縁です。

 

 

 

この103編の詩編のテーマは、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還し、再建したエルサレム神殿で神に感謝の礼拝をする詩人が主なる神が出エジプトからバビロン捕囚の解放まで神の民を救われたことへの感謝です。

 

 

 

詩人は、聖書的信仰の木に咲いた最も美しい花の一つを描いているのです。

 

 

 

 

 

額縁である「わたしの魂よ、主をたたえよ」という御言葉は、この詩編が礼拝に用いられるものであることを暗示しています。

 

 

 

新約聖書のヨハネによる福音書の第4章で主イエスはサマリアの女と主なる神をどこで礼拝するかを対話されています。女がゲルジム山か、エルサレムかと質問すると、主イエスは神を礼拝する場所が問題なのではないと言われました。誰もが「霊と真理をもって父なる神を礼拝する時が来る。今がその時である」と言われました。そして、主イエスは女に「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない(ヨハネ4:24)と言われました。

 

 

 

詩人は、彼の魂に「霊と真理をもって主を礼拝せよ」と呼び掛けているのです。その額縁の中に詩人は、主なる神が神の民イスラエルのためにどんなに素晴らしい救いの御業をなされたかという絵を描いているのです。

 

 

 

1節で詩人は「わたしの内にあるものはこぞって聖なる御名をたたえよ」と賛美していますね。

 

 

 

わたしの内にあるもの」とは、文字通りに言うと「わたしの内にある内臓」です。これは、今のわたしたちの言葉では「わたしの全人格」です。詩人は、彼の全人格をもって、霊と真理をもって、聖なる主なる神の御名を礼拝しよう、礼拝で主にお会いしようと、招いているのです。

 

 

 

そして、礼拝を通して主なる神は神の民たちに御自身が彼らの御救いを御計画され、それを神の民の歴史の中で実行されたことをお告げになりました。詩人は、神の民たちに神の恵みの御業を一つも忘れてはならないと命じています。

 

 

 

西ドイツの大統領であったヴァィッゼッカーがドイツ国民に「思い起こすことなくして和解は起こらない」と訴えました。戦前ドイツはヒットラーの命令の下、多くのユダヤ人たちを虐殺しました。この事実を忘れず、常に思い起こすことで、ドイツ国民はユダヤ人たちと和解できると、彼は信じていました。

 

 

 

彼はキリスト者です。彼は、神に対する信仰を次のように述べています。「神に対する信仰とは、神が歴史の中で働かれることを信じることだ。想起とは神の歴史における働きを経験することなのであります。想起は、救済を信じる信仰の源泉です。この経験が希望を生みます。救済への信仰を生みます。」

 

 

 

詩編103編の詩人は、礼拝の中で主なる神がモーセを通して奴隷の地エジプトから神の民を救われたことを思い起こしたでしょう。また、彼は、礼拝の中で主なる神が神の民たちをバビロン捕囚からの解放し、エルサレムへと帰還させてくださった救いを思い起こしたでしょう。その経験がこの詩編103編を生み出したのです。

 

 

 

 詩人は35節で主なる神の御救いを思い起こして、次のように主なる神を信仰告白するのです。

 

 

 

3節で詩人は、主なる神を、罪を赦す者、病を癒す者と告白しています。4節で詩人は主なる神を死から、すなわち、墓穴から贖い出し、命を与える者、慈しみと憐れみの冠を授ける者と告白しています。5節で詩人は、主なる神を彼の願いに応じて、良き物で満たされる者と告白します。そして詩人は、主なる神を、鷲の若さのように、詩人を新たな者としてくださる者と告白します。

 

 

 

詩人は、1619節で主なる神が歴史において神の民に示された恵みの御業を彩り豊かに描いています。

 

 

 

第一は67節です。詩人は、主なる神が「虐げられている人々のために恵みの御業と裁きを行われる」と賛美します。これは、詩人が7節で「主は御自分の道をモーセに 御業をイスラエルの子らに示された」と賛美していますように、詩人が出エジプトの出来事を思い起こしているのです。主なる神は、その時にモーセに十戒の石の板を授けて、主なる神御自身の道を示されました。また、神の民たちに数々の救いの御業を示されました。そしてエジプトに奴隷として虐げられていた神の民たちを救うために、「恵みの御業」、すなわち、正義と「裁き」を行われました。67節で詩人は、主なる神が正義と裁きという性質で、神の民を救い、神の民を訓練されたことを述べています。

 

 

 

詩人は、89節で主なる神の「憐れみ」「恵み」「寛容」「慈しみ」という性質が豊かであると賛美しています。

 

 

 

主なる神は、神の民の荒野での40年間、彼らの心の頑なさと不信仰のゆえに彼らに向けて怒り続けられることはありませんでした。むしろ、寛容と忍耐で、また憐れみと恵みによって彼らを約束の地カナンへと導かれました。

 

 

 

1014節は、詩人がバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還した主なる神の御救いを思い起こしているのです。

 

 

 

詩人は、10節で、こう賛美しています。主はわたしたちを、わたしたちの罪と悪に応じて裁かれない、むしろ主はわたしたちに良くしてくださり、バビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できたことを告白しているのです。

 

 

 

11節の「慈しみ」は、神に選ばれた選民に対する主なる神の不変の愛です。詩人は、神の不変の愛は地の上にある天のように高くて、主を畏れる人たちだけに限定されず、むしろ、神の選民を超えて異邦人にまで及ぶと述べています。。

 

 

 

また、神の「憐れみ」は、罪の赦しと忍耐を伴うものです。主なる神が一方的に神の民である詩人を愛され、彼の罪を赦し続けて下さいます。だから、詩人たちの背きの罪は、東から西へと遠く隔てられたと、詩人は告白します。

 

 

 

詩人は、13節で主なる神の愛を、父の子に対する憐れみにたとえています。

 

 

 

1416節で詩人は、わたしたちの被造物としての弱さを告白し、主なる神はそれを心に留めて、わたしたち神の民を憐れまれると告白します。

 

 

 

使徒パウロが述べている肉の弱さを、わたしたちは持っています。この世における人間は、この世の被造物と同様に、滅ぶべき身であります。塵に過ぎません。

 

 

 

詩人がそれを、主なる神は御心に留められると述べるのは、神は御自分が作られたものが、この世で滅ぶべき身であると知り、主なる神は永遠に憐れまれると述べているのです。

 

 

 

人は、野に咲く草のように、この世の日々に咲いています。しかし、風が吹き、咲いている野の花を通り過ぎますと、この世から消えてしまい、後は誰もこの世で見出すことはありません。

 

 

 

だから、詩人は主なる神に永遠にわたしのことを心に留めて下さいと願っているのです。主なる神が御心に留めて下さるのであれば、主なる神の永遠の慈しみと憐れみが、この世に生きる滅ぶべきわたしたちの身を支え守っているのです。

 

 

 

神の慈しみ、神の民に対する神の不変の愛が世々とこしえにあれば、その神の不変の愛の中でわたしたちは主なる神に罪を赦され、主なる神と和解し、主なる神との永遠の命の交わりに生きることができます。

 

 

 

その永遠の交わりの中で神の義が子から子へと伝えられます。神の永遠の慈しみは、恵みの契約を通して、主なる神がわたしたちの神となられ、わたしたちが神の民となるという交わりより、神の慈しみがわたしたちにとこしえに続くと、詩人は歌っています。

 

 

 

19節の詩人の賛美は、復活の主イエスが昇天され、実現しました。父なる神は主イエスにすべての権限を授けられました。それゆえ主イエスは、わたしたちに聖霊を遣わされ、教会の福音宣教を通してこの世界を統治されています。

 

 

 

主イエスは、十字架につかれる前の夜に弟子たちと最後の食事をされ、お別れの説教をされました。その時に主イエスは、天の御国に帰り、わたしたちの住まいを用意すると約束してくださいました。

 

 

 

その日に備えつつ、その日まですべての人々にキリストの福音を伝え、この会堂で毎週主イエスをたたえましょう。

 

  

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編103編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

今朝も主に招かれ、兄弟姉妹と共に、子供たちや友と共にこの教会で主を崇め、礼拝し、賛美し、主に仕えることができる幸いを感謝します。

 

 

 

どうか、詩人が「わたしの魂よ、主をたたえよ」と呼び掛けていますように、わたしたちも霊と真理によって、わたしたちの全人格でもって主を礼拝し、賛美し、主に仕えさせてください。

 

 

 

どうか、主なる神の永遠の慈しみとこの世で滅ぶべき身であるわたしたちの弱さに常に心を向けて、十字架の主イエスに寄り頼む信仰をお与えください。

 

 

 

詩編説教104               主の2019623

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。 たたえよ、わたしの魂よ、主を。

 

主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。主よ、わたしの神、あなたは大き

 

栄えと輝きをまとい い、非常に。尊厳と威光をあなたは着ている。

 

光を衣として身を被っておられる。あなたは身を被っている、光を、衣のよ

 

天を幕のように張り うに。張っている、天を、幕のように。

 

天上の宮の梁を水の中にわたされた。 水の中におのが高殿の梁をわたす者。 

 

雲を御自分のために車とし 雲を彼の車とし

 

風の翼に乗って行き巡り 風の翼で進み

 

さまざまな風を伝令とし 風たちをおのが使者とし

 

燃える火を御もとに仕えさせられる。 燃える火をおのが従者とする。

 

                  

 

主は地をその基の上に据えられた。 彼は築いた、地をその基の上に。

 

地は、世々限りなく、揺らぐことがない。それが揺るがされないように、永遠

 

深淵は衣となって地を覆い に。深淵が衣服のようにそれを覆う。

 

水は山々の上にとどまっていたが 山々の上で留まっていた、水が。

 

あなたが叱咤されると散って行き あなたの叱責のゆえに彼らは逃げ、

 

とどろく御声に驚いて逃げ去った。 あなたの雷の声のゆえに、彼らは急い

 

水は山々を上り、谷を下り で逃げた。山々は上り、谷は下る。

 

あなたが彼らのために設けられた所に向かった。 あなたが彼らのために据。

 

あなたは境を置き、水に越えることを禁じ えた場所に。境をあなたは置いた、

 

再び地を被うことを禁じられた。 超えないように。再び地を覆うことがない

 

                ように。

 

主は泉を湧き上がらせて川とし 泉たちを川の中に遣わし

 

山々の間を流れさせられた。 山々の間にそれらは進む。

 

野の獣はその水を飲み 野のすべての獣に水を飲ませ

 

野ろばの渇きも潤される。 癒す、野ろばたちは渇きを。

 

木のほとりに空の鳥は住み着き 空の鳥がそれらの上に住まう。

 

草木の中から声をあげる。 枝葉の間から、(鳥たちは)声を出す。

 

 

 

主は天上の宮から山々に水を注ぎ 彼は水を与える、山々に、おのが高殿から。

 

御業の実りをもって地を満たされる。あなたの業の実により満足する、地は。

 

家畜のためには牧草を茂らせ 生えさせる、牧草を、家畜のために。

 

地から糧を引き出そうと働く人間のために そして、草を、人の労働のために

 

さまざまな草木を生えさせられる。 地からパンを出すために。

 

ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ そして。ぶどう酒は喜ばせる、

 

パンは人の心を支える。人の心を。油で顔を輝かせ、パンは人の心を支える。

 

主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち 無い主の木々は満ち足り

 

そこに鳥は巣をかける。 ている。彼が植えたレバノン杉たちは。そこで鳥た

 

こうのとりの住みかは糸杉の梢。 ちが巣を作る。こうのとりは糸杉がその家。

 

高い山々は野山羊のため 高い山々は、野山羊たちのため。

 

岩狸は岩場に身を隠す。 岩は。岩狸たちの隠れ場。

 

 

 

主は月を造って季節を定められた。 彼は造った、月を、季節のために。

 

太陽は沈む時を知っている。 太陽は知っている、おのが入る所を。

 

あなたが闇を置かれると夜になり あなたが闇を置くと、すると夜になる。

 

森の獣は皆、忍び出てくる。 その間に這いまわる、森のすべての獣が。

 

若獅子は餌食を求めてほえ 若獅子たちは、獲物に吠え、

 

神に食べ物を求める。 神からおのが食べ物を求める。

 

太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き 太陽が昇ると彼らは引き上げる。

 

それぞれのねぐらにうずくまる。 そして、おのがねぐらに伏す。

 

人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。彼人が出かける、おのが仕事のため

 

                   に。夕まで、おのが労働に。

 

主よ、御業はいかにおびただしいことか。 何とあなたの御業は多いことか、

 

あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。主よ。すべての物を、知恵に

 

地は御造りになったものに満ちている。よってあなたは造った(行った)。満ちている、地は、あなたの造ったもので。

 

同じように、海も大きく豊かで この海は大きく、両手の広さ(広々としている)

 

その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。 そこに這うものが、無数に、

 

舟がそこを行き交い 大小の生き物たちが共に。そこに諸々の船が航行する。

 

お造りになったレビヤタンもそこで戯れる。あなたが造ったレビヤタンもその

 

彼らはすべて、あなたに望みをおき 中で遊ぶために。これら皆はあなたに期

 

ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。待する。その時におのが食物

 

あなたがお与えになるものを彼らは集め を賜ることを。あなたが与えると彼

 

御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。らは集める。あなたが御手を開

 

御顔を隠されれば彼らは恐れ くと、彼らは良きもので満たされる。あなたが

 

息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 御顔を隠されると、彼らは怯える。あ

 

元の塵に帰る。 なたが彼らの息()を集められると、彼らは息絶え、彼らの塵

 

あなたは御自分の息を送って彼らを創造し に帰る。あなたが送ると、あなた

 

地の面を新たにされる。の霊を、彼らは創造される。そしてあなたは新しくする、地の面を。

 

どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主の栄光があるように、永遠に。

 

主がご自分の業を喜び祝われるように。 主が御自分の業を喜ばれるように。

 

主が地を見渡されれば地は震え 主が地を見つめると、地が震え、

 

山に触れられれば山は煙を上げる。主が山々に触れると、山々は煙を上げる。

 

命のある限り、わたしは主に向かって歌い わたしは歌おう、主に、わたしの

 

長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。命の(限り)。わたしはほめ歌お

 

どうか、わたしの歌が御心にかなうように。う、わたしの神を、わたしのある

 

わたしは主によって喜び祝う。限り。わたしの歌が彼に甘美であるように。

 

どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ わたしは主にあって喜ぶ。絶える

 

主に逆らう者がもはや跡を絶つように。ように、罪人たちが地から。不法者たちはもはやいない。

 

わたしの魂よ、主をたたえよ。ほめよ、わたしの魂よ、主を。ハレルヤ。

 

ハレルヤ。

 

 

 

 詩編第104135

 

 

 

説教題:「わたしの魂よ、主をたたえよ」

 

 

 

 

 

詩編第104135節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編103編と同じ説教題にしました。始めと終わりに「わたしの魂よ、主をたたえよ」と、個人の神賛美があります。

 

 

 

しかし、103編は、詩人の個人の感謝の歌であり、主題は神の恵みと慈愛でありました。詩人は、病を癒された者であり、主なる神は神の病を癒し、彼の罪を赦してくださった恵みと慈しみのお方でした。神の契約を守る者たちが主を称えている詩編でした。

 

 

 

詩編104編は、詩人の神を賛美の歌です。詩人は主なる神の天地万物の創造の御業と創造主なる神、主が創造されたすべての被造物に良き配慮をされていることを称えています。

 

 

 

長い詩編ですので、1節ずつ説明することはできません。

 

 

 

まず14節を読みます。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい 光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り 天上の宮の梁を水の中にわたされた。雲を御自分のために車とし 風の翼に乗って行き巡り さまざまな風を伝令とし 燃える火を御もとに仕えさせられる。

 

 

 

詩人がほめたたえる主、わたしの神は、万物の創造者であり、偉大なお方であり、全宇宙、この世の世界を超える主権者であります。

 

 

 

3節は、創世記16節と7節の「大空の創造」です。神は、大空を創造し、大空を上下に分離されました。古代人は、宇宙を蓋つきのお椀にイメージしました。蓋の部分が大空です。椀の部分が海と陰府です。大空の創造により水が上下に分離されました。そして、大空の上に深淵の水があり、天蓋の窓が開かれて、あのノアの洪水が起こったのです。

 

 

 

主は、大空の上の水の中に御自身の住まいを設けられています。創造主はなる神は、この世の偶像とは違います。生きて働かれる神です。だから、砂漠に天幕を張って住む遊牧民のように、大空の上の水の中に天幕を張り、柱を立て、御自身の住まいを設けられました。

 

 

 

主なる神は雲を御自分の乗り物とし、風の翼に乗ってと、詩人が賛美していますね。主はケルビムという天使の御使いに乗られ、大空を翔け、それを玉座とされました。

 

 

 

詩人は、創造者である主は、被造世界すべての王であると賛美するのです。

 

 

 

続いて詩人は、59節で次のように賛美します。「主は地をその基の上に据えられた。地は、世々限りなく、揺らぐことがない。深淵は衣となって地を覆い 水は山々の上にとどまっていたが あなたが叱咤されると散って行き とどろく御声に驚いて逃げ去った。水は山々を上り、谷を下り あなたが彼らのために設けられた所に向かった。あなたは境を置き、水に越えることを禁じ 再び地を被うことを禁じられた。

 

 

 

大地の創造です。大空の水が上下に分離され、創世記19節で、神は「天の下の水は一つの所に集まれ、乾いた所が現れよ」と言われ、大地を創造されました。大地は大空の下の水の上に据えられ、神が御手で支えておられるので、永遠に揺らぐことはありません。また、水が山や谷を下り、泉が生まれ、神は地と海の境を設けて、水が地を覆うことを禁じられました。こうして大地が成立しました。

 

 

 

詩人は1018節で次のように賛美しています。「主は泉を湧き上がらせて川とし 山々の間を流れさせられた。野の獣はその水を飲み 野ろばの渇きも潤される。木のほとりに空の鳥は住み着き 草木の中から声をあげる。主は天上の宮から山々に水を注ぎ 御業の実りをもって地を満たされる。家畜のためには牧草を茂らせ 地から糧を引き出そうと働く人間のために さまざまな草木を生えさせられる。ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ パンは人の心を支える。主の木々、主の植えられたレバノン杉は豊かに育ち そこに鳥は巣をかける。こうのとりの住みかは糸杉の梢。高い山々は野山羊のため 岩狸は岩場に身を隠す。

 

 

 

神が創造された大地に天から水を注がれ、地に泉や川が生まれ、木々が茂り、そこに動物や人が豊かに生活する姿を、詩人は歌っています。神は創造された被造物を、より豊かに生きれるように配慮されています。

 

 

 

カルヴァンは、『キリスト教綱要』の第3102節で神の創造の目的に向けてすべてのものを用いることを論じて、こう述べています。「神のもろもろの賜物は、創造者御自身がそれらを造り、定めたもうた目的に向けて用いるときは、誤って用いられることがない」。

 

 

 

神は、わたしたちを心から喜ばすためにぶどう酒を与え、わたしたちの心を支えるためにパンをお与えくださいました。飲み食うというわたしたちの行為は、取るに足りないことではありません。食事は、労働と同じにわたしたちにとって生きるに欠かせないものです。創造者はわたしたちに生活の楽しみと生きる支えとなるようにぶどう酒とパン、すなわち、食事を備えてくださったのです。

 

 

 

次に1924節で詩人は、次のように賛美します。「主は月を造って季節を定められた。太陽は沈む時を知っている。あなたが闇を置かれると夜になり 森の獣は皆、忍び出てくる。若獅子は餌食を求めてほえ 神に食べ物を求める。太陽が輝き昇ると彼らは帰って行き それぞれのねぐらにうずくまる。人は仕事に出かけ、夕べになるまで働く。主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地は御造りになったものに満ちている。

 

 

 

18節までは、地における動物と人の空間的な生活を、詩人は賛美した。19節以後は時間的な生活を、詩人は賛美しています。神は、太陽と月を造られ、季節を定め、昼と夜を造り、動物と人が生活の時間を分けるようにされたと、詩人は賛美しています。野獣たちは夜活動し、昼間休みます。人間は朝から夕まで働き、夜は休みます。素晴らしいことは、神の知恵によって被造世界は造られ、神が良しとされ、神の御栄光を表すもので満ちているということです。

 

 

 

次に2526節です。「同じように、海も大きく豊かで その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。舟がそこを行き交い お造りになったレビヤタンもそこで戯れる。

 

 

 

詩人は、神が創造された海とその中に生きる生き物について、そして人が舟で海を航海することを賛美しています。レビヤタンは海の怪物です。主なる神が創造されたもので、主はレビヤタンと遊ばれると、詩人は歌っています。

 

 

 

次に2730節です。「彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。御顔を隠されれば彼らは恐れ 息吹を取り上げられれば彼らは息絶え 元の塵に帰る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し 地の面を新たにされる。

 

 

 

創造者が被造世界の生と死を支配されていると、詩人は賛美しています。神の摂理の中ですべての生き物は生かされ、死ぬのです。詩人は、神が生死を支配されるだけでなく、それによってすべての生き物が世代交代し、神は常に地を新たにされると賛美しています。

 

 

 

最後に3135節です。「どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主がご自分の業を喜び祝われるように。主が地を見渡されれば地は震え 山に触れられれば山は煙を上げる。命のある限り、わたしは主に向かって歌い 長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ 主に逆らう者がもはや跡を絶つように。わたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

 

 

 

詩人は、最後に創造者なる主に、とこしえに栄光があるようにと賛美します。地震も火山の噴火も、創造者である神、主の威厳であり、力であると、詩人は歌っているのです。

 

 

 

詩人は、自分の命がある限り、創造者である主を賛美すると、心から告白しています。そして、彼は自分の神賛美が主の御心に適うように、自分が主にあって喜びうるようにと、賛美しています。

 

 

 

だから、神が創造された大地から、罪人と不法な者が消え去るようにと、彼は祈り、願い、この詩を閉じているのです。

 

 

 

罪人と不法な者たちは、創造主、主が御自身が造られた世界とすべての生き物を肯定されているのに、その御心から背を向けて、神に立ち帰らない者たちです。

 

 

 

彼は、創造者である主、わたしたちの神に反逆する者が神の造られた地にいなくなり、この地に真の平和が来ることを願っているのです。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編104編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

今朝も主に招かれ、兄弟姉妹と子供たち、そして友たちと共にこの教会でわたしたちの神、創造者なる主を崇め、礼拝し、賛美し、仕えることができる幸いを感謝します。

 

 

 

詩人が「わたしの魂よ、主をたたえよ」と呼び掛けていますように、わたしたちも霊と真理によって、わたしたちの神、創造者なる主を礼拝し、賛美し、仕えさせてください。

 

 

 

どうか、主なる神の創造と摂理に御業に目を留めて、神の永遠の慈しみと憐れみを心に留めさせてください。

 

 

 

わたしたちが神の創造の目的にかなうように、この世で与えられたものを用いさせてください。

 

 

 

毎日の食卓を楽しみ、食事を通して神がお与えくださる恵み、喜び、慰め、お守りに感謝させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

アブラハムの恵みの契約に目を留めさせてください。永遠の神主がアブラハムを通して神の民に変わらない愛を示され、主イエス・キリストの十字架を通して、永遠の神の愛がわたしたちに及ぶことを教えて下さり、心から永遠の主なる神をほめたたえます。

 

 

 

どうか、毎週の主の日の礼拝を祝してください。詩人が祈りましたように、主イエスが主権を持たれ、教会の福音宣教を通して諸国の民を教会にお集めください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教105           主の2019728

 

主に感謝をささげて御名を呼べ。 感謝せよ、主に、呼べ、御名を。

 

諸国の民に御業を示せ。知らせよ、諸国の民の中に、彼の御業を。

 

主にむかって歌い、ほめ歌をうたい 歌え、彼にむかって、ほめ歌え、彼にむ

 

驚くべき御業をことごとく歌え かって。語れ、すべての彼の不思議な業を。

 

聖なる御名を誇りとせよ。誇れ、彼の聖なる名によって。

 

主を求める人よ、心に喜びを抱き 心が喜ぶように、主を求めている者たちの。

 

主を、主の御力を尋ね求め 尋ね求めよ、主を。そして彼の御力を求めよ。 

 

常に御顔を求めよ。 彼の顔を常に

 

主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を。覚えよ、彼の不思議な業を、彼が

 

主の口から出る裁きを心に留めよ。の彼の口の裁きと奇跡と。

 

主の僕アブラハムの子孫よ 子孫よ、アブラハムの、主の僕。

 

ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。 息子たちよ、ヤコブの。彼の選んだ者たち。

 

主はわたしたちの神 彼こそ主、わたしたちの神。

 

主の裁きは全地に及ぶ。神の裁きが全地に。

 

主はとこしえに契約を御心に留められる。 彼は覚えている、永遠に、彼の

 

千代に及ぼすように命じられた御言葉を。 契約を。御言葉を、彼は千代に命

 

アブラハムと結ばれた契約を じた。彼がアブラハムと結んだところの。

 

イサクに対する誓いを。 そして彼の誓いを、イサクに対する。

 

主はそれをヤコブに対する掟とし そして彼は立てた、ヤコブに対する掟と

 

イスラエルのとこしえの契約として立て して。イスラエルに対する永遠の契

 

宣言された 約。言われた。

 

「わたしはあなたにカナンの地を。 「わたしはあなたに与えようカナンの領

 

嗣業として継がせよう」と。 地を。あなたの嗣業の」。

 

 

 

その地で、彼らはまだ数少なく 彼らが少数の人々であった時

 

寄留の民の小さな群れで その中にわずかで、そして寄留していた。

 

国から国へ そして彼らは行き来きした、

 

ひとつの王国から他の民のもとへ移って行った。国から国へ、王国から他の民

 

主は彼らを虐げることをだれにも許さず へ。彼はさせなかった、誰にも、彼

 

彼らのことを、王たちに戒めて言われた。 らを虐げることを。彼らのために、

 

「わたしが油を注いだ人々に触れるな。王たちを叱責した。「触れるな、わたし

 

せわたしの預言者たちに災いをもたらすな」と。の油注いだ者たちに。そして

 

わたしの預言者たちに、害を与

 

主はこの地に飢饉を呼び えるな」。そして彼は呼んだ。飢饉を、この地の上に。

 

パンの備えをことごとく絶やされたが すべてのパンの杖を折った。

 

あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。彼は遣わした、彼らの目にひとり

 

奴隷として売られたヨセフ。 の人を。奴隷として売られたヨセフ

 

主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ 彼らは彼の足を枷で苦しめた。

 

首に鉄の枷をはめることを許された 彼の首に鉄が入った。

 

主の仰せが彼を火で練り清め 彼の言葉が来るときまで、主の御言葉は彼を

 

御言葉が実現する時まで 練り清めた。

 

王は人を遣わしえ彼を解き放った。王は人を遣わし、彼を解放した・

 

諸国を支配する王が彼を自由の身にし 諸国民の支配者が彼を解放した。

 

彼を王宮の頭に取り立て 彼は彼を彼の家の主人として置いた。

 

財産をすべて管理させた。 支配者として彼の所有物のすべてを

 

彼は大臣たちを思いのままに戒め 彼の大臣たちを彼の意のままに縛り

 

長老たちに知恵を授けた。 彼の長老たちを、彼は賢くした。

 

イスラエルはエジプトに下り イスラエルはエジプトに来た。

 

ヤコブはハムの地に宿った。 ヤコブは、ハムの地に寄留した。

 

主は御自分の民を大いに増やし 彼は彼の民を非常に増やした。

 

敵よりも強くされた。 そしてそれを敵よりも強くされた。

 

 

 

主が彼らの心を変えられたので 主は彼らの心を変えられた。

 

彼らは主の民を憎み 彼の民を憎むように。

 

主の僕たちを悪だくみをもって扱った。彼の僕たちに悪だくみするように。

 

主は僕モーセを遣わし 彼は彼の僕モーセを遣わし

 

アロンを選んで遣わされた。彼が彼を選んだところのアロン。

 

彼らは人々に御言葉としるしを伝え 彼らは彼らの中に彼のしるしの御言葉

 

ハムの地で奇跡を行い を置いた。そして奇跡をハムの地で。

 

御言葉に逆らわなかった。彼は闇を遣わし、暗くした。

 

主は闇を送って、地を暗くされた。そして彼らは逆らわなかった。彼の御言葉

 

主が川の水を血に変えられたので魚は死んだ。に。彼は彼らの水を血に変えた。

 

その地に蛙が群がり、王宮の奥に及んだ。そして彼らの魚を殺した。彼は彼ら

 

その地に蛙が群がり、王宮の奥に及んだ。の地に蛙を群がらせた。彼らの王た

 

主が命じられると、あぶが発生し ちの部屋の中に。彼が言った、するとあぶ

 

ぶよが国中に満ちた。 の群れが来た。ぶよが彼らのすべての領域に。

 

主は雨に代えて雹を降らせ 彼は彼らの雨を雹に変えた。

 

燃える火を彼らの国に下された 燃える火を、彼らの地に。

 

主はぶどうといちじくを打ち そして彼は撃った、彼らのぶどうの木と

 

国中の木を折られた。 いちじくの木とを。そして彼らの領域の木を折った。

 

主が命じられると、いなごが発生し 彼が言った、するといなごが来た。

 

数えきれないいなごがはい回り いなごの幼虫が、しかも無数の

 

国中の草を食い尽くし そしてそれは彼らの地ですべての草を食べた。

 

大地の実りを食い尽くした。そして彼らの地の実を食べた。

 

主はこの国の初子をすべて撃ち そして彼は彼らの地ですべての長子を撃った。

 

彼らの力の最初の実りをことごとく撃たれた。彼らの精力のすべての初めを。

 

 

 

主は金銀を持たせて民を導き出された。彼は彼らを金と銀と共に出させた。

 

どの部族にも、落伍する者はひとりもなかった。彼の諸部族の中によろめく者

 

エジプトは恐怖に襲われていたから はいなかった。エジプトは彼らが出る時

 

彼らが出て行くのを喜んだ。に喜んだ。なぜなら、彼らへの恐れが彼らの上に

 

主は雲を広げて覆いとし 落ちたから。彼は雲を覆いとして広げた。

 

火をもって夜を照らされた。そして火を夜に照らすために

 

民が求めると、主はうずらをもたらし 乞い求めた、すると、彼はうずらを

 

天のパンをもって彼らを満足させられた。持って来た。そして天のパンで彼ら

 

主が岩を開かれると、水がほとばしり を満足させられた。彼が岩を開いた。

 

大河となって、乾いた地を流れた。 すると水がほとばしり出た。乾いた地に

 

主は聖なる御言葉を御心に留め 川となって行った。まことに彼は思い出した、

 

僕アブラハムを御心に留められた。 彼の聖なる御言葉を。彼の僕アブラハム

 

主は、御自分の民を喜びのうちに を。彼は彼の民を喜びの内に導き出した。

 

選ばれた民を歓呼のうちに導き出された。彼の選んだ者たちを、喜びの歓呼

 

主は彼らに諸国の土地を授け の中に。彼は彼らに国々の地を与えた。

 

多くの民の労苦の実りを継がせられた。諸国民の労苦の実りを、彼らは継いだ。

 

 

 

それゆえ彼らは主の掟を守り 彼らは主の掟を守るために

 

主の教えに従わねばならない。 彼の教えを守らねばならない

 

ハレルヤ

 

 

 

 詩編第105145

 

 

 

説教題:「神の契約」

 

 

 

詩編第105145節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編104編-106編は終わりに「ハレルヤ」という共通の言葉で閉じられています。この3つの詩編はハレルヤ詩編と呼ばれています。

 

 

 

この詩編の2節で、詩人が「主にむかって歌い、ほめ歌をうたい」と歌っていますね。文字通りに表現すれば、詩人は「主に向かって歌え、主をほめ歌え」と歌っているのです。だから、「ハレルヤ」とは、「主をほめ歌え」という意味です。

 

 

 

詩人は、この詩編の1節で「主に感謝をささげて御名を呼べ」と歌っています。詩人は、「主に感謝せよ、その御名を呼べ」と歌っているのです。

 

 

 

「感謝」、この言葉は、聖書の中で、また、神の民イスラエルの信仰生活とわたしたちキリスト者の生活の中で重要で大きな影響を与えている言葉です。

 

 

 

だから、詩編の詩人たちはこの言葉をしばしば繰り返しこの言葉で神の民たちの礼拝生活を奨励し、彼らの生活の中で実際に主に感謝して生きよと力づけています。この詩編の詩人も同じです。だから、この詩編は、感謝の詩編とも呼ばれています。

 

 

 

神の民、そして、わたしたちキリスト者の感謝は色々です。しかし、感謝の根底にあるものは一つでないでしょうか。万事を支配し、益としてくださる主なる神とその摂理の御業です。

 

 

 

詩人は、主なる神がアブラハムとその子イサク、そして孫のヤコブと契約を結ばれたことを出発点とし、神の民イスラエルの先祖である彼らの族長たちの寄留生活から始め、彼らの先祖ヤコブと彼の子孫たちがヨセフの助けでエジプトに滞在したこと、エジプト人に憎まれ、主なる神が遣わされた指導者モーセとアロンに導かれ、主なる神の奇跡の御業を通して、エジプトを脱出し、、荒野の生活から約束の地カナンに定住するまでの歴史を振り返って、主なる神の御支配と守りを感謝しています。

 

 

 

この感謝の詩編の起源はダビデにあります。旧約聖書の歴代誌上164節にこのように記録されています。「彼はレビ人の幾人かを奉仕者として主の箱の前に立て、イスラエルの神、主をたたえて感謝をささげ賛美するように命じた」。

 

 

 

」は、ダビデです。彼の命令で聖歌隊の指揮者の一人アサフと彼の兄弟たちが詩編歌を作り、神の幕屋の契約の箱の前で主をほめ歌い、感謝の詩編を賛美しました。歴代誌上の16836節にその詩編が記録されています。その詩編の一部が、すなわち、歴代誌上の16822節がこの詩編の115節にそのまま引用されています。

 

 

 

そこから次のことが分かります。詩編105編はダビデが神の幕屋の礼拝に用いるために命じて、作らせたものの一部を引用しているということです。詩人は礼拝で主なる神をほめ歌い、感謝するためにこの詩編を作りました。

 

 

 

詩編の一部はダビデの時代に遡りますが、この詩編が礼拝に用いられたのは、バビロン捕囚以後でしょう。この詩編と詩編106編とは密接な関係にあります。バビロンに捕囚された神の民イスラエルがペルシア帝国のクロス王によって解放され、エルサレムに帰還し、エルサレム神殿を再建しました。その神殿の礼拝で主なる神に感謝の詩編を歌うために、この詩編が生まれたと、わたしは考えています。

 

 

 

この詩編は、神の民イスラエルの信仰告白でもあります。詩人はアブラハム、イサク、ヤコブら信仰から始めて、エジプト滞在と苦難、そしてエジプト脱出後の荒野の生活と約束の地カナンへの入国までの歴史を回顧し、主なる神への信仰告白を、詩の形式で表しているのです。

 

 

 

神の民イスラエルの最古の信仰告白は、申命記2659節に次のように記録されえいます。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしたちは主が与えられた、地の実りの初物を、いまここに持って参りました。

 

 

 

詩人はこの信仰告白に基づいてこの詩編を歌っています。神と族長アブラハム、イサク、ヤコブとの契約に始まり、族長たちの寄留生活、族長ヨセフの苦難と栄光、族長イスラエルと家族のエジプト滞在、エジプトで神の民イスラエルの人口が増え、迫害され、主なる神の奇跡の御力で出エジプトし、荒野の生活を通して、そして約束の地カナンに入り、土地取得を取得したことを告白しています。

 

 

 

詩人は、一切神の民イスラエルの罪と主なる神への不従順に触れてはいません。首尾一貫して主なる神の摂理の御業を感謝し、主をほめ歌っています。神の民イスラエルの歴史を、主なる神の救済史として見ています。

 

 

 

7節と8節がこの詩編の中心的主題です。「主はわたしたちの神 主の裁きは全地に及ぶ。主はとこしえに契約を御心に留められる」。

 

 

 

歴史における神の支配の中心に神の契約があります。だから、詩人は、この詩編の944節でアブラハムの契約からカナンの土地取得までの約800年間の歴史を回顧しています。

 

 

 

主なる神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を忘れないで、いつも主なる神は彼らに約束された御言葉を思い起こされ、心に留められて、神の民イスラエルを苦難から救われ、約束の地へと導かれたのです。

 

 

 

主なる神は、神の契約に忠実であることを通して、神の民イスラエルに歴史の中で一貫して神の恵みを証しされました。

 

 

 

同時に詩人は、主なる神が神の民に神の契約に忠実であることを歴史の中で求められたことを歌っています。

 

 

 

詩人は8節で「主はとこしえに契約を御心に留められる。」と歌っています。神の契約は、主なる神がアブラハムの神となり、アブラハムが主なる神の民となるという契約でした。アブラハムと彼の子孫たちは、主なる神のみを信じて服従することを求められました。

 

 

 

だから、詩人は、神の民イスラエルの歴史を語り、主なる神がアブラハムとの契約に忠実であられ、一貫して神の恵みを証しされたように、神の民も神との契約を忠実に守り、主なる神のみに信頼して生きることを求められているのです。

 

 

 

だから、神の契約は、神の御言葉であり、神の御言葉としてとこしえに神の民に服従を求めるのです。この服従は、神の恵みに対する応答であります。

 

 

 

それゆえわたしたちが詩人に、どうしてこの詩編を作ったのか、と尋ねるなら、彼はこう答えるでしょう。「この世の歴史を支配され、神の契約に従って神の民に一貫して御自身の恵みを知らせられる主なる神を証しし、神の民が主なる神の恵みに対する感謝の応答として主なる神を信頼するように奨励するためであると。

 

 

 

だから、最後に詩人は、45節で「それゆえ彼らは主の掟を守り 主の教えに従わねばならない。」と歌っているのです。

 

 

 

神の契約は、この歴史の中で神の御言葉として語り続けられ、神は御自身の契約を忠実に実行され、神の民に対する神の恵みを一貫して知らせられます。詩人は、その神の恵みに神の民たちが感謝し、応答することを奨励しているのです。

 

 

 

この場合の「主の掟」、「主の教え」は、810節で詩人が言う神の契約であります。主なる神がアブラハムらと結ばれた神の契約は「千代に及ぼすように命じられた御言葉」であります。神の掟であり、教えです。主なる神は、神の契約を守る神の民を創造するために、アブラハムからエジプトの滞在と脱出、そして荒野の生活と約束の地カナンへの定住という神の民の歴史の中でアブラハム契約を思い起こされ、一貫して神の恵みを彼らに知らせられました。

 

 

 

その神の恵みに応答するように、主なる神は出エジプトという出来事を通して神の民イスラエルを神の民として選ばれ、彼らが神の僕として神の契約を忠実に果たせるように、導かれているのです。

 

 

 

今も主なる神は、神の契約に生きる民を求め、創造されています。それが、キリスト教会です。教会は、キリストの十字架によって罪を贖われ、キリストの所有とされた群れであります。

 

 

 

主なる神はアブラハムとの契約に基づいて救い主キリストをこの世に遣わされ、わたしたち異邦人たちを罪から救い、神の民としてくださいました。

 

 

 

だから、わたしたちは、主イエスに召されて、毎週日曜日にこの教会で礼拝し、神の恵みの救いに感謝し、主の御名をほめ歌うのです。

 

 

 

わたしたちを罪から救われたキリストの十字架と復活の神の御業をほめ歌うのです。イエス・キリストを通してアブラハムとの神の契約が実現し、わたしたちはアブラハムの子孫とされ、神の子とされ、キリストを長子とする神の御国を相続させようという神の約束の御言葉を聞き続けるのです。

 

 

 

主イエス・キリストを通して教会は、神に選ばれ、神の契約に入れられ、アブラハムの霊の子として、神の御国を相続するのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編105編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

神の契約の恵みに生かされていることを感謝します。

 

 

 

主イエスとその救いの恵みにあずかっていなければ、わたしたちの生きている世界は無意味であり、闇であります。

 

 

 

しかし、主なる神は、アブラハムを選び、彼と恵みの契約を結ばれ、わたしたち異邦人も、主イエス・キリストの十字架と復活による救いのゆえに、アブラハムの恵みの契約の一員とされ、アブラハムの霊的子孫とされ、御国の民とされている恵みを感謝します。

 

 

 

どうか、詩人が「神に感謝し、主の御名をたたえよ」と呼びかける御声に聞き従い、主を礼拝し、賛美し、感謝をささげさせてください。

 

 

 

どうか、神の契約にどんなに主なる神が忠実であり、摂理の御業を通して知らせてくださる神の恵みにわたしたちの信仰の目を留めさせてください。

 

 

 

わたしたちが主の恵みに応答し、神の御力と臨在を求め、聖霊と神の御言葉によって神の民としてこの世で主に服従して歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。