詩編説教50              主の2014年11月23日
 
           賛歌。アサフの詩。
  神々の神、主は、御言葉を発し
  日の出るところから日の入るところまで
    地を呼び集められる。
  麗しさの極みシオンから、神は顕現される。
  わたしの神は来られる
  黙してはおられない。
  御前を火が焼き尽くして行き
  御もとには嵐が吹き荒れている。
 
  神は御自分の民を裁くために
  上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。
  「わたしの前に集めよ
  わたしの慈しみに生きる者を
  いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」
  天は神の正しいことを告げ知らせる。
  神は御自ら裁きを行われる。
 
  「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。
  イスラエルよ、わたしはお前を告発する。
  わたしは神、わたしはお前の神。
 
  献げ物についてお前を責めはしない。
  お前の焼き尽くする献げ物は
    常にわたしの前に置かれている。
  わたしはお前の家から雄牛を取らず
  囲いの中から雄山羊を取ることもしない。
  森の生き物は、すべてわたしのもの
  山々に群がる獣も、わたしのもの。
  山々の鳥をわたしはすべて知っている。
  獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。
  たとえ飢えることがあろうとも
    お前に言いはしない。
  世界とそこに満ちているものは
      すべてわたしのものだ。
  わたしが雄牛の肉を食べ
  雄山羊の血を飲むとでも言うのか。
 
  告白を神へのいけにえとしてささげ
  いと高き神に満願の献げ物をせよ。
  それから、わたしを呼ぶがよい。
  苦難の日、わたしはお前を救おう。
  そのことによって
    お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」
 
  神は背く者に言われる。
  「お前はわたしの掟を片端から唱え
  わたしの契約を口にする
  どういうつもりか。
  お前はわたしの諭しを憎み
  わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。
  盗人と見ればこれにくみし
  姦淫を行う者の仲間になる。
  悪事は口に親しみ
  欺きが舌を御している。
  座しては兄弟をそしり
  同じ母の子を中傷する
  お前はこのようなことをしている。
  わたしが黙していると思うのか。
  わたしをお前に似たものと見なすのか。
  罪状をお前の目の前に並べて
    わたしはお前を責める。
  神を忘れる者よ、わきまえよ。
  さもなくば、わたしはお前を裂く。
  お前を教える者はいない。
  告白をいけにえとしてささげる人は
  わたしを栄光に輝かすであろう。
  道を正す人に
    わたしは神の救いを示そう。」
                    詩編第50編1-23節
 
  説教題:「苦難の日、わたしはお前を救う」
  詩編第50編1-23節の御言葉を学びましょう。
 
  1節の表題に「賛歌、アサフの詩」とあります。「アサフ」とは何者でしょうか。詩編73編から83編の表題に、「アサフ」の名が記されています。
 
  ダビデ王がダビデ王国を建て、その都エルサレムに神の幕屋を据えました。その神の幕屋に仕えているレビ人、アサフを、ダビデは聖歌隊の指揮者に任命しました。それ以来アサフと彼の子供たち、そして彼の子孫たちは、代々エルサレム神殿の礼拝で演奏と賛美を受け持ちました。
   
  アサフは、主なる神の御言葉を、神の民イスラエルに伝える預言者でもありました。
 
  預言者とは、神の言葉をあずかる者です。神の代言者です。預言者モーセのようにアサフは、主なる神にイスラエルの民の中から預言者として召され、神の民イスラエルを主なる神に導くのです。
 
  そのためにアサフは、神の民イスラエルに主なる神の御言葉を伝え、「真の礼拝とは何か」、あるいは、主なる神の喜ばれる「犠牲とは何か」を教えています。そして、アサフは神の民イスラエルを、主なる神に服従させ、主なる神を忘れた者、すなわち、主なる神に背を向けて、隣人を虐げる者たちに主なる神の裁きの宣告を伝えています。
 
  主なる神は、天と地を証人として立て、神の民イスラエルを裁こうと、彼らの御前に臨在されます。
 
  1節で「神々の神、主」と呼ばれています。主なる神は、この世の神々に比較して最高の神であり、全能者なる神であり、全能の御力で天と地を、全宇宙を創造されました。また、神の民イスラエルを奴隷の地エジプトから救い出して、シナイ山に召し集めて、十戒の板を彼らに授けて、彼らと契約を結ばれ、彼らの神となり、彼らを主の民とされました。
 
  神の民イスラエルは、主なる神にシナイ山に集められたとき、主なる神にいけにえをささげて、主なる神と契約を結びました。5節の「わたしの慈しみに生きる者」と「いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者」とは、神の民イスラエルのことです。
 
  アサフは、6節で「神は御自ら裁きを行われる」と述べて、主なる神が神の民イスラエルを裁く法廷を開かれたと宣言します。
 
  7節で主なる神は、「わたしの民」である神の民イスラエルを告発されています。「わたしはお前を告発する」とは、「イスラエルよ、お前に戒告する」ということです。神は神の民イスラエルに最終判決を下されているのではありません。イスラエルの神として、彼らに憐れみを示されています。主は、神の民イスラエルが罪を認めて、主なる神に立ち帰るのであれば、彼らへの激しい怒りを取り下げられるでしょう。
 
  8-13節で主なる神が言われるように、神の民イスラエルを動物犠牲のことで、責め立てておられるのではありません。主なる神にとって地上のすべての生き物は主のものであり、動物犠牲など必要ではありません。
 
  主なる神が神の民イスラエルの心からお求めになるのは、14節で「告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ」とお命じになっていることです。
 
  「告白を神へのいけにえとしてささげ」とは、「感謝の献げ物をささげよ」という意味です。主なる神が神の民イスラエルに神礼拝で第1にお求めになるのは、動物犠牲ではありません。神の民イスラエルの「感謝の献げ物」です。
 
  「感謝の献げ物」とは、動物犠牲やお金ではありません。神礼拝する神の民イスラエルの心であります。すなわち、彼らが神礼拝で心から主なる神に感謝し、全き信頼を寄せて主なる神に祈ることこそが、主なる神が最も喜ばれるいけにえなのです。
 
  第2に主なる神が喜ばれるのは、「満願の献げ物」であります。「満願の献げ物」とは、祈りを聞き届けられた神の民が主なる神に誓約を果たすことであります。主なる神が喜ばれるいけにえは、神の民イスラエルが神に誓約を果たして、神に心から服従することです。
 
  サムエル記上15章22節で祭司であり、預言者であったサムエルが、サウル王に次のように述べています。主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と。
 
  15節で主なる神は、「わたしを呼ぶがよい」と言われています。「主を呼ぶ」とは、「主に向かって祈る」ことです。心から主なる神に感謝し、全き信頼を寄せることができる者こそ、彼の苦難の日に主なる神に対する力強い祈りをし、心から主なる神に訴えて、「わたしはお前を救う」という神の恵みにあずかるのです。そして、神の御救いを経験した神の民は、ダビデが神の箱をエルサレムの都に運び入れたときに、裸になって踊り、主なる神を喜び賛美したように、礼拝において心から神賛美するでしょう。
 
  主なる神は、16-20節で神に背く者、すなわち、「神を忘れた者」に神の裁きが下ることを弁えるように警告されています。
 
  神の民イスラエルは、神への心から感謝を忘れ、救われた喜びを忘れ、形ばかりの礼拝にこだわり、動物犠牲をささげることには熱心でしたが、礼拝で十戒を唱えても、心から主の掟に従おうとはしませんでした。
 
  神の民イスラエルは、毎週安息日ごとにエルサレム神殿で礼拝し、動物犠牲をささげ、神の御言葉を聞いていたでしょう。しかし、主なる神は、「あなたがたは、わたしの諭しを憎み、わたしの御言葉を聞き捨てている」と告発されています。神の民イスラエルは、礼拝で神の御言葉を聞いても、生活の中で聞いた御言葉を思い返すこともしないし、反省することもありませんでした。
 
  だから、神の民イスラエルは、神の掟である十戒を破っていました。主なる神が戒めておられるのに、主の掟を守らないで盗みをし、姦淫をし、偽証をし、兄弟を辱め、家庭を破壊していました。
 
  だから、主なる神は、神の民イスラエルを裁かれるのです。実際に主なる神はバビロンの王ネブカドネザルをお用いになり、神の民イスラエルを捕囚されました。南ユダ王国は滅び、エルサレムの都も神殿も破壊されました。
 
  しかし、23節で主なる神は、次のように神の民イスラエルに希望をお約束してくださいました。「告白をいけにえとしてささげる人は わたしを栄光に輝かすだろう。道を正す人に わたしは神の救いを示そう。」と。
 
  後にバビロンの異教の地で捕囚された神の民イスラエルは、たとえば預言者ダニエルと彼の仲間たちのように、異教の地バビロンで主なる神に感謝の献げ物をし、主なる神に心から服従しました。それゆえに彼らは、大きな苦難に出会いましたが、その苦難の中から主なる神は彼らを救われました。
 
  使徒ペトロは、ペトロの手紙一4章17節に「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」と宣言しています。詩編50編は、わたしたちキリスト者にとって無関係な御言葉ではありません。なぜなら、神の民イスラエルと同じように、わたしたちも神の御前で悪しき行いを避けられないからです。
 
  わたしたちも熱心に毎週礼拝をしてはいますが、わたしたちは心からキリストに感謝し、キリストに全く信頼し、神礼拝をしているでしょうか。洗礼の時に、信仰告白の時に、転入式や加入式に、そして牧師就職式に、長老の任職式に神と教会に誓約したことを今も心に留めて、それを忠実に果たしているでしょうか。
 
  キリストは今も天と地を証人として立て、わたしたちを神の裁きの下に置かれているのです。
 
  ルカによる福音書18章9-14節で、キリストはわたしたちに次のように慰めを語られています。
 
  わたしたちは、この徴税人のようにただ「わたしの罪をお赦しください」と、主の御前に胸を打ちたたく以外にありません。そして、ただ十字架のキリストを仰ぎ見るだけであります。
 
  神の民イスラエルと同じようにわたしたちは、自らの罪のゆえにこの世において多くの苦難を経験することがあるでしょう。しかし、十字架のキリストを仰ぐ者を、必ずキリストは、その苦難の中から救われるでしょう。それゆえにわたしたちは毎週の礼拝ごとにキリストにあって神を喜び賛美したいと思います。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、詩編50編の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  神の民イスラエルが堕落し、主なる神に背き、神を忘れた者となり果てたように、わたしたちも同じ過ちを犯す者です。神の裁きはわたしたちから始まります。
 
  しかし、わたしたちは、十字架のキリストを仰ぐことができることを感謝します。キリストがわたしたちの罪の身代わりに十字架に死なれ、わたしたちに代わって神の呪いと怒りを引き受けてくださいました。
 
  いよいよ来週よりアドベントに入ります。神の子キリストが受肉されたことを心から喜び、キリストに感謝し、キリストに全き信頼を寄せ、アドベントの日々を歩ませてください。
 
  クリスマスを心から楽しませてください。クリスマスの集いに、わたしたちの家族と知人、そしてこの町の人々を誘い、共にクリスマスを祝わせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教51              主の2014年12月28日
 
           指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
           ダビデがバト・シェバと通じたので預
                      言者ナタンがダビデのもとに来たとき。
  神よ、わたしを憐れんでください。
    御慈しみをもって。
  深い御憐れみをもって。
    背きの罪をぬぐってください。
  わたしの咎をことごとく洗い
  罪から清めてください。
 
  あなたに背いたことをわたしは知っています。
  わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
  あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
  御目に悪事と見られることをしました。
  あなたの言われることは正しく
  あなたの裁きに誤りはありません。
  わたしは咎のうちに産み落とされ
  母がわたしを身ごもったときも
      わたしは罪のうちにあったのです。
  あなたは秘義ではなくまことを望み
  秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
  ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。
      わたしが清くなるように。
  わたしを洗ってください
      雪よりも白くなるように。
  喜び祝う声を聞かせてください。
  あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように。
  わたしの罪に御顔を向けず
  咎をことごとくぬぐってください。
 
  神よ、わたしの内に清い心を創造し
  新しく確かな霊を授けてください。
  御前からわたしを退けず
  あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
  御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
  自由な霊によって支えてください。
 
  わたしはあなたの道を教えます
    あなたに背いている者に
  罪人が御もとに立ち帰るように
 
神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。

もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
   神よ、あなたは侮られません。
 
御旨のままにシオンを恵み
エルサレムの城壁を築いてください。
そのときには、正しいいけにえも
  焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ
そのときには、あなたの祭壇に
    雄牛がささげられるでしょう。
                    詩編第51編1-21節
 
  説教題:「罪をゆるされて、新年を迎えよう」
 
  詩編51編は、「7つの悔い改めの詩編」の一つであります。既に詩編6編、32編、38編を学びました。この後102編、130編、143編を学びます。
 
  さて、預言者ナタンを通して主なる神の御声を聞きましたダビデは、3-4節で主なる神に慈しみと憐れみを嘆願し、罪の赦しを願いました。
 
  主なる神は、預言者ナタンを通してダビデの罪を暴かれました。ダビデは忠実な家臣ウリヤの妻と不倫をし、その罪を隠すために夫のウリヤを戦場に送って敵に殺させました。
 
  主なる神は、聖なるお方であり、義なるお方です。ですから、人の罪と悪と汚れをお赦しにはなりません。必ず裁かれます。しかし、同時に主なる神は慈しみと憐れみ深いお方であります。神は御前で罪を犯したダビデを、その場で裁き、滅ぼされませんでした。預言者ナタンをダビデに遣わし、ダビデが自分の罪を悟り、悔い改める機会を用意されました。ですから、ダビデは、主なる神に憐れみと慈しみによって、罪の赦しを嘆願することを許されたのです。
 
  3節の「背きの罪」とは、4節の「咎」のことです。神に対して意図的に背くことであるので、「背きの罪」と訳しています。人間は、人類の最初の人、そして人類の代表者であるアダムの原罪により、生まれながらに罪に汚れ、腐敗しています。それを咎と言います。
 
  ですから、ダビデは、主なる神に「生まれながらに悪に染まり、腐敗したわたしを洗い、個々の罪、不義に汚れたわたしを清めてください」と嘆願しています。
 
  4節の「罪」は、咎から出てくる人間の罪の行為、すなわち、不義のことです。不倫、殺人は、モーセの十戒を破る人間の個々の罪であります。ダビデは、不倫と殺人という罪、不義によって自分を汚しているのです。だから主なる神の罪の赦しを願っているのです。
 
  5-6節でダビデは、自分の罪を自覚しています。自分は咎によって主なる神の御目に悪事をしていると自覚しています。悪事とは、盗み、不倫、殺人等の悪い人の行いです。
 
  7節と8節の冒頭に「見よ」という言葉があります。わたしたち読者に注意を促す言葉です。ダビデは、「自分が神の御前に罪人である」ことに同意しています。「そうです。わたしは母親の胎内にいるときから、生まれながらに神の御前に罪ある者でした。心も体も罪に汚れた者でした。」
 
  この罪は、「秘儀」や「秘術」では消せないのです。神社の神主がするお祓い、僧侶がなす護摩祈祷では消せません。神は、ダビデの心の奥にある「まこと」をお求めです。またダビデの心の奥に神の「知恵」を授けて、罪よりの救いがどこから来るのかを悟らせてくださいます。「まこと」とは、わたしたちが真心から神に罪の赦しを求める思いであり、その者に対し、神は救いの知恵を授けてくださいます。
 
  9-11節は、主なる神に対するダビデの心の「まこと」であります。ヒソプの枝は、祭司が重い皮膚病の人や死人に触れて汚れた人を、清めるときに用いました。ダビデは、主なる神が定められた方法で彼を罪と汚れから清められることを望んでいます。「喜び祝う声を聞かせてください」というダビデの祈りは、神の民と共に主なる神を礼拝できる喜びを回復してくださいというダビデの願いであります。
 
  12-14節がこの詩編の中心です。人の罪を清めるお働きは、聖霊なる神のお働きであります。「心を創造する」のは、神の独占的なお働きです。ダビデは、自分の罪に対して全くの無力であります。ダビデの心と体は罪に染まり、汚れています。だから、ダビデは、神が彼の内に新しい清い心を創造し、ダビデを新しい人間に造り変えて、彼の心に「新しく確かな霊」を授けてくださるように願っています。この「新しい確かな霊」とは、誘惑に負けない心のことであります。
 
  ダビデは、サウル王のように自分を主なる神の御前から退けないでくださいと願っています。主なる神がサウル王を退けられると、サウル王の内にいた聖霊は去りました。ダビデは、信仰生活の回復を願います。それは、自由な霊によって神の御救いの喜びを味わい、喜んで神に仕える信仰生活の回復です。
 
  15節で、ダビデが礼拝と証しの生活によって神に栄光を帰すことを賛美しています。信仰者の喜びの証言が彼の家族や知人、そして彼が共に暮らしている人々を主なる神に立ち帰らせるのです。
 
  16-19節でダビデは、主なる神が自分の罪をお赦しくださるなら、感謝の賛美と証しをささげ続けたいと賛美しています。
 
  「流血の災い」とは、ダビデが忠実な家臣ウリヤを故意に戦死させたことでしょう。ダビデは、自分は死刑に処せられても仕方のない罪人であると告白しています。それゆえに主なる神は、憐れみによりダビデの罪をお赦しくださいました。
 
  ダビデは、罪ある自分が主なる神にいけにえをささげても、主なる神が喜んでくださるのであれば、犠牲をささげると賛美します。しかし、ダビデは、知っています。主なる神が喜ばれる犠牲は、それは「自らの罪を悔いる心である」と。
 
  いけにえの動物は、祭壇で完全に解体されました。同じようにダビデは、彼の心の高慢や誇りが神の御前で完全に砕かれて、主なる神の御前に自分が心からへりくだり、神を礼拝することを、主なる神は喜んで受けいれてくださると賛美します。
 
  20節と21節は、この詩編に、後の時代に付け加えられました。おそらくバビロン捕囚から解放され、エルサレムの都と神殿が再建された時に、付加されたのでしょう。ダビデのように罪を赦され、エルサレムに帰還した神の民たちが、都と神殿を再建し、主なる神の定められた礼拝で、動物犠牲をささげて礼拝できる喜びを賛美しています。
 
  さて、わたしたちが、今朝の詩編から学びますことは、次のことであります。
ダビデは、わたしたちに真の礼拝は罪の赦しと心からの感謝によってささげられることを教えています。

 そこで中心的な働きをするのは、聖霊なる神であります。聖霊は、ダビデに彼の罪を自覚させられ、慈しみと憐れみの主なる神に赦しを求めて生きるように導かれます。彼の心を新しく創造し、誘惑に打ち勝つ心をお与えくださり、罪を赦されたダビデが主なる神を感謝し、賛美する生活を回復されました。

  そして、聖霊はダビデと同じようにわたしたちも、毎週の礼拝において神の御前でわたしたちが罪を告白し、神に罪の赦しを求めるように、導かれます。そして、礼拝ごとに父なる神は、わたしたちに御子主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを宣言してくださいます。わたしたちは、ダビデのように罪を赦されて、新しき年を迎えるのです。そして、新しき年も、聖霊なる神の導きによりわたしたちは、罪を赦された喜びを味わい、心から神に感謝し、喜びを持って神に仕え、神を賛美しましょう。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、今年最後の主の日の礼拝で詩編51編の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  わたしたちは、ダビデと同じように主なる神に背き、生まれながらの罪人であります。
 
  しかし、ダビデと同じようにわたしたちは、十字架のキリストにより罪の赦しをいただいていることを感謝します。
 
  いよいよ新しき年に入ります。どうか聖霊なる神に導かれ、罪を赦されて、新しき年を迎えたわたしたちが、新しき年も心から神に感謝し、神を喜び、神を賛美し、神に仕えさせてください。
 
  わたしたちの信仰生活を通して、わたしたちの家族と知人、そしてこの町の人々を誘い、共にキリストの十字架の罪の赦しの恵みに立たせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 詩編説教52              主の2015年1月18日
 
           指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。
           エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメ
                      レクの家に来た」と告げたとき。
 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。
  神の慈しみの絶えることはないが、
  お前の考えることは破滅をもたらす。
  舌は刃物のように鋭く、人を欺く。
  お前は善よりも悪を
      正しい言葉よりもうそを好み
  人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。
  神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。
  お前を天幕から引き抜き
  命ある者の地から根こそぎにされる。
 
  これを見て、神に従う人は神を畏れる。
  彼らはこの男を笑って言う。
  「見よ、この男は神を力と頼まず
  自分の莫大な富に依り頼み
  自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」
     
  わたしは生い茂るオリーブの木。
  神の家にとどまります。
  世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
  あなたが計らってくださいますから
  とこしえに、感謝をささげます。
  御名に望みをおきます。
  あなたの慈しみに生きる人々に対して恵み深い
  あなたの御名に。
                    詩編第52編1-11節
 
  説教題:「神の御名に望みを置く」
  詩編第52編は、ダビデの教訓詩です。表題に「マスキール。ダビデの詩」とありますように、歴史に基づく教訓であります。「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき」と記していますように、旧約聖書のサムエル記上第22章9節の出来事を背景にしたダビデの詩であります。
 
  サウル王は、ダビデを恐れて迫害しました。彼は息子ヨナタンがダビデと契約を結んだことを後で知りました。サウル王は、家臣たちがそのことを彼に知らせなかったと叱責しました。その時に族長ヤコブの兄、エサウの子孫であるエドム人ドエグが、サウル王に次のように知らせたのです。「エッサイの子が、ノブにいるアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました」と。
 
  サウル王の迫害から逃れたダビデは、ノブの祭司アヒメレクの家に立ち寄り、祭司だけが食べることを許されたパンとダビデが戦いで倒したペリシテの勇士ゴリアトの剣を手に入れたのです。そして、そこにドエグがおりました。
 
  ドエグの密告によって、サウル王はノブの祭司アヒメレクと彼の家族を、ダビデを匿ったということで、皆殺しにしました。アヒメレクの息子アビアタルだけが助かりました。
 
  この詩編は、全部で9節の詩であります。3-9節と10-11節に内容を分けることができます。ダビデは、3-9節でエドム人ドエグのように「力ある者」が悪と富を誇り、善より悪を、正しい言葉よりうそを好むことを、厳しく弾劾し、彼の滅びを神に祈願しています。10-11節でダビデは、信仰告白しています。彼は自分を豊かに育つオリーブの木と言い、神の家に留まり、生涯神の慈しみに依り頼み、神を賛美し、神の御名による救いを待ち望みますと信仰告白しています。
 
  「力ある者」とは、強い勢力を持つ者であります。その者が自分の力に依り頼み、神の御前で自らの悪事を誇っているのです。エドム人ドエグは、サウル王家の牧者の長として富と力に恵まれていました。
 
  ダビデが、「神の慈しみの絶えることはない」と賛美しますように、ドエグに富と力をお与えになったのは、神の慈しみです。ところが、彼は神の慈しみを、自らの滅びに用いたのです。彼は、善よりも悪を、正しい言葉よりもうそを好み、隣人を欺き、破滅に落とす言葉を好み、平然と神の目の前で悪を行ないました。
 
  ドエグは、ノブの祭司アヒメレクの家で一夜の宿を借り、親切にもてなされました。ところが、彼の舌は刃物のように鋭く、祭司アヒメレクと彼の家族の者たちが旅人である彼にした親切を裏切り、彼はサウル王の気に入られようと、アヒメレクと彼の家族の者たちを不利な言動で死に追いやりました。
 
  神は、ダビデの口を通して、ドエグのように人の命を滅ぼそうとする言葉を語る者を、悪人として断罪し、永遠の滅びを宣告されています。神は、ドエグを打ち倒され、永遠に滅ぼされます。彼を天幕から引き抜かれます。すなわち、この地上から彼の命を消し去られます。
 
  いつの世も、神の慈しみは絶えることはありませんが、人を欺き、うそと人を滅びに落とす言葉を語る悪人がいます。悪人は、栄え続けることはできません。なぜなら、神がこの世界と歴史を支配され、悪人を打ち倒され、永久に滅ぼされるからです。
 
  わたしたちの目には、悪と暴力が世界を支配しているように見えます。富と力を持つ者が貧しい者たちを搾取しています。隣人の親切を裏切る者がいます。「オレオレ詐欺」のように言葉巧みにお年寄りを騙して大金を奪う者がいます。ダビデは、悪人の存在を、裁かれる神がおられるという教訓を教えています。悪人が栄えることはありません。神は必ず悪人の存在を裁かれ、彼らを永遠に消し去られます。
 
  ですからダビデは、8-9節でどんなにこの世において富と力を持つ者であろうと、神に依り頼まない者は悲惨であると賛美しています。
 
  神に従う者とは、義人のことです。信仰者と言ってもよいでしょう。ダビデのように信仰者は、この世で神が悪人を裁かれるのを見ます。ダビデより後の時代ですが、北イスラエル王国にアハブ王と王妃イゼベルが神の前で悪事を誇りました。彼らは、預言者たちを迫害し、民たちを偶像礼拝の罪に陥れました。また、彼らはナボトのぶどう畑を奪い取るために、ナボトに罪をきせ、うその証言で彼の命を奪いました。しかし、主なる神はこの二人の悪人を裁かれました。アハブ王はアラムとの戦いで命を落とし、王妃イゼベルはイエフの謀反で殺されました。ダビデの口を通して神は悪人の裁きを宣言されたように、アハブ王家をこの地上から根こそぎされました。
 
  ですから、信仰者は神の慈しみに依り頼まない悪人が、神の裁きでどんなに悲惨な終わりを迎えるかを知っています。悪人を裁かれ、義人を救われる神を畏れ、敬うのです。そして神の御前で自らの力と富を誇る悪人を笑います。
 
  神の慈しみで富み、力を得たのに、悪人は慈しみの神を自分の力と頼まないで、自分の富に依り頼み、自らを滅ぼすものを力と依り頼んでいるからです。
 
  10節と11節は、ダビデの信仰告白です。
 
  「わたしは生い茂るオリーブの木。」オリーブの木は、大きく、長命で、常に緑を保ち、容易に根絶やしにされることがありません。オリーブの木は安定の象徴です。
 
  神の家は神に保護される安全の象徴です。ダビデは、「わたしは生涯神の慈しみに依り頼み、人生を安定と安全な歩みをします」と信仰告白しています。
 
  9節でダビデは、「あなたが計らってくださるから」と信仰告白しています。ダビデのように信仰者は、神の御計画の中で生き、神に守られています。だから、信仰者の人生は安定し安全です。
 
  確かに神の慈しみは悪人の力よりも強く、神はダビデを悪人より守り、サウル王とドエグの手からお守りくださいました。
 
  ですからダビデは、とこしえに神に感謝し、神の御名に望みを置くと信仰告白しています。
 
  「あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い あなたの御名に」というダビデの信仰告白は、礼拝に生きるキリスト者の教訓です。
 
  神は、神を礼拝する者、神の慈しみに生きる人々に、神の慈しみを知らされます。神は、神を礼拝する者に恵み深いと、ダビデは証ししています。確かに神は、ダビデと契約を結ばれて、「わたしはあなたの神となり、ダビデと彼の家の者たちは神の民となり、わたしはダビデの家の末からメシアを遣わす」と約束されました。ダビデは、神の約束を見ることはできませんでしたが、今神を礼拝するわたしたちは、ダビデの子孫としてメシアであるイエス・キリストがこの世に来られ、十字架を通して神の慈しみをわたしたちに知らされたことを知っています。
 
  キリストの御名に、わたしたちは望みを置いています。ダビデのようにわたしたちが生涯神の家の客としてキリストの十字架をとおして示された神の慈しみに依り頼み、人生を安定と安心の歩みができることを、心より神に感謝したいと思います。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、主の日の礼拝で詩編52編の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  わたしたちは、ダビデと同じように神の慈しみに依り頼み、人生を安定と安心の歩みができることを感謝します。
 
  この世には、富と力に依り頼み、偽りと欺きの言葉でわたしたちを滅びに陥れようとする者がいます。しかし、わたしたちは、神の摂理の下で悪人は神の裁きで滅ぼされ、神の慈しみに生きる者は、オリーブの木のように確かな人生を保証され、生涯キリストの御名によって守られていることを心より感謝します。
 
  新しき年、神の御名に望みを置き、主の日の礼拝ごとに心から神に感謝し、神を喜び、神を賛美し、神に仕えさせてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 詩編説教53              主の2015年2月22日
 
           指揮者によって。伴奏付。マスキール。ダビデの詩。ジ
           フ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠
                      れている」と話したとき。
 神よ、御名によってわたしを救い
  力強い御業によって、わたしを裁いてください。
  神よ、わたしの祈りを聞き
  この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
  異邦の者がわたしに逆らって立ち
  暴虐な者がわたしの命をねらっています。
  彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
 
  見よ、神はわたしを助けてくださる。
  主はわたしの魂を支えてくださる。
  わたしを陥れようとする者に災いを報い
  あなたのまことに従って
    彼らを絶やしてください。
  主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ
  恵み深いあなたの御名に感謝します。
  主は苦難から常に救い出してくださいます。
  わたしの目が敵を支配しますように。
                    詩編第54編1-9節
 
  説教題:「敵の滅び」
  今朝、お読みしました詩編は、ダビデが主なる神に嘆願した祈りであります。
 
  1-2節の表題にこの詩編の背景を記しています。特に2節です。「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」。
 
  2節は、サムエル記上23章19節の引用です。「ジフ人」とは、ダビデと同じユダ族の人々です。「ジフの町」は、ユダ族が相続した嗣業地の最南端にある山地の町です。
 
  ダビデは、サウル王に命を狙われ、ジフの町に近い荒れ野に隠れていました。ジフの町の人々は、ギブアにいるサウル王を訪れ、ダビデがジフの荒れ野に隠れていると報告しました。
 
  そこでダビデは、自分が危険な状況に陥ろうとしているので、主なる神に嘆き、祈りましたのがこの詩編であります。
 
  このような詩編を、個人の嘆願の祈りと呼び、その祈りには、次のような特徴があります。第1に神に助けを求める熱心な呼びかけがあります。それが3-4節です。第2に自分の立場を訴えています。それが5節です。第3に確信の理由を述べています。それが6節です。第4に嘆願を具体的に示し、その後いけにえの奉献、賛美、感謝を約束しています。それが7-9節です。
 
  ダビデは、3-4節で「神よ」と呼びかけて、神に助けを求める熱心な呼びかけをしています。ジフ人は今にもダビデを捕らえ、サウル王に引き渡そうとしているからです。
 
  ですから、ダビデは神に助けを求めて、「み名によってわたしを救い」と呼びかけています。「み名」は、主なる神が人々にご自身を啓示された神の本質を表しています。イスラエルの民の先祖であるアブラハムには「全能の神」「いと高き神」というみ名を表され、アブラハムを召され、救い、子孫とカナンの地の相続を約束し、彼の生涯を守られました。出エジプトのときには、モーセとイスラエルの民に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、「わたしはあるという者」「主」というみ名を表され、イスラエルの民をエジプトの奴隷の地から解放し、約束の地カナンに導かれました。特に「主」というみ名は、神が神の民を救うために「共にいる」ということを表しています。さらに「力ある者」、「苦しむ者・悩む者の保護者・弁護者」というみ名を表し、イスラエルの民を諸外国の支配から守られました。
 
  ダビデが神の助けを求めて熱心に神のみ名を呼びかけているのは、ダビデにとって神が遠い存在であるからではありません。むしろ、ダビデにとって主なる神は身近な存在であります。なぜなら、主なる神は神の民ダビデと「共にいて」くださるからです。神の民イスラエルと共にいて、主なる神は力強い御業で、神の民イスラエルを奴隷の地エジプトから救い出し、荒れ野の40年間神の民を守り、約束の地カナンに導かれました。
 
  3節でダビデが「わたしを裁いてください」と祈っているのは、「わたしを弁護してください」という意味です。この意味と神のみ名からダビデが信じ、頼っている主なる神は、次のようなお方であります。常にダビデと共にいてくださいます。ダビデが呼びかければすぐにダビデを助けに来てくださり、いつでもダビデを敵から守ってくださるお方であります。
 
  ですから、ダビデは、4節で「神よ」と呼びかけて、心から信頼して神に祈ることができました。ダビデが祈る神は、ダビデの身近におられ、ダビデが祈る口にご自身の耳を傾けて聞いてくださっているというのが、ダビデが神に祈るという感覚でありました。
 
  次にダビデは、5節で神に自分の立場を訴えています。ジフ人をダビデは、「異邦の者」「暴虐な者」と呼んでいます。ジフ人は、ユダ族の人々で、ダビデの同胞です。どうしてでしょうか。旧約聖書のレビ記22章12節に祭司の娘が一般人と結婚すると、彼女はレビ人ではなくなり、神殿で献げられたものを食べる事ができないという規定があります。ダビデは、神にジフ人を、「わたしに逆らい、自分の前に神を置こうとしない」者であると訴えています。主なる神は、サムエルを通してダビデに油を注ぎ、イスラエルの王とされました。ダビデは、ユダ族の指導者でもあります。ジフ人は、主なる神を神とせず、主が立てられたユダ族の指導者に逆らい、ダビデの命を狙いました。ですから、彼らは異邦の者であり、神の立てたユダ族の指導者の命を狙う暴虐な者でありました。
 
  今ダビデは、主なる神に不信仰なジフ人たちによって苦境に立たされていることを訴えました。
 
  6-9節は、嘆きから感謝に一転しています。ダビデは、神に助けを求める熱心な呼びかけから、すでに敵から救われたという確信と感謝を祈っています。
 
  次のようにダビデは、6節で確信の理由を祈ります。ダビデの確信は、救いの確かさです。「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」。ダビデの信仰告白です。ダビデは、ジフ人の不信仰を「彼らは自分の前に神を置こうとしない」と非難しました。反対にダビデは常に自分の前に神を置いて生きて来ました。そこでダビデが確信したことは、神は信仰者の人生の最高の助け手であり、命の保護者であるということでした。
 
  7節は、ダビデが神に願った具体的な祈りです。文字通りに取れば、敵を滅ぼしてくださいと、ダビデは祈っています。
 
  しかし、本当にダビデは敵に復讐することを祈っているのでしょうか。むしろ、自分の前に神を置く信仰者が神のまことに従って祈る言葉ではないでしょうか。たとえば、箴言20章22節に「悪に報いたい、と言ってはならない。主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。」とあります。箴言は、人は私的な復讐に心を傾けるが、それは正義を危うくすると述べ、人は復讐を主なる神に委ねるべきであると教えています。ダビデも主なる神に復讐を委ね、主なる神がまことに従って敵を滅ぼしてくださるように祈りました。
 
  そして終わりにダビデは、主なる神にいけにえの奉献、賛美、感謝を約束して祈りを終えています。
 
  ダビデが8節で自ら進んでいけにえの奉献をし、神のみ名に感謝する理由は、7節の神の救いの歴史にあります。イスラエルの民が主のみ名によって救われた歴史は、出エジプトから始まります。今ロードショーしています「エクソダスー神と王」という映画で神を自分の前に置かないエジプトの王と民が神の民イスラエルを奴隷として虐待し、主なる神がエジプトの王と民たちに10の災いを下し、ご自身のまことに従って紅海で神の民イスラエルを救われ、追跡してきたエジプトの軍隊を滅ぼされます。
 
  映画では、その後でモーセの姉ミリアムと女性たちがタンバリンを打ち鳴らして主なる神を賛美した場面は描かれませんでした。エジプトから救い出された神の民たちは、恵み深い主を礼拝し、主を賛美しました。
 
  ダビデも同じことを後にしています。ユダとイスラエルを統一し、ダビデ王国を立て、都をエルサレムに定めました時に、彼は神の幕屋をエルサレムの都に移し、主なる神を礼拝し、賛美しました。
 
  そして、神の民イスラエルは、主なる神が臨在されるエルサレムの神殿で主なる神を礼拝し、いけにえを奉献し、賛美するごとに、9節の御言葉を再確認しました。イスラエルの民は、常に主なる神を自分たちの前に置きました。主なる神は、常に苦難の中から神の民を救い出し、ダビデを救い出してくださいました。そしてダビデと神の民は、主なる神が臨在される礼拝で、「わたしの目が敵を支配するように」という祈りを、神が実現してくださっていることを再確認するのです。
 
  さて、今のわたしたちにこの詩編をわたしたちの喜びとできる理由は、何でしょうか。
 
  第1にイエス・キリストというみ名によって神は、わたしたちに神の本質と救いのお働きをお示しになりました。神の民イスラエルを奴隷の地から解放された主は、主イエス・キリストの十字架と復活によってわたしたちキリスト者を罪と死から解放してくださいました。
 
  第2に主は、常に神の民イスラエルと共にいてくださいました。エジプトから荒れ野、そして、約束の地カナンに神は、神の民イスラエルと共に歩まれ、彼らの身近で彼らの祈りに耳を傾けられました。同様に主イエス・キリストは教会と共に、わたしたちキリスト者と共にいてくださいます。神の御国に至るまで教会とわたしたちキリスト者をあらゆる敵対者からキリストが弁護してくださいます。
 
  第3にわたしたちも毎週の礼拝ごとにダビデのように「神はわたしたちを助けてくださる。主はわたしたちの魂を支えてくださる」と信仰告白することが許されています。なぜなら、復活のキリストは今天におられますが、聖霊と御言葉を通して毎週の礼拝に臨在されています。だから、わたしたちは、霊とまことをもって神を礼拝し、聖書とその説き証しである説教を通して今も主の御声を聞き、洗礼と聖餐を通してわたしたちの信仰を強められ、そして何が神に喜ばれ、何が神に嫌われるかをわたしたちは判断できるようにされます。
 
  第4にわたしたちキリスト者は、キリストの所有であり、この世では信仰の戦いがあります。主イエスが復活によって罪と悪魔と死に勝利されたように、わたしたちキリスト者も罪と死に勝利し、永遠の御国の住民とされます。この喜びを再確認できるのは、わたしたちの礼拝であります。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、主の日の礼拝で詩編54編の御言葉を学ぶことができて感謝します。
 
  ダビデの祈りを通して神の民イスラエルの救いを学び、同じようにわたしたちもキリストの十字架と復活を通して罪と死から解放され、永遠の御国に生きる喜びを教えられ、感謝します。
 
  この世には、自分の前に神を置かない不信仰な者たちとの戦いがあり、わたしたちキリスト者を滅びに陥れようとする者がいます。しかし、わたしたちは、ダビデが主に委ねましたように、主イエス・キリストにすべてを委ねてこの世を歩ませてください。
 
  主の日の礼拝を感謝します。礼拝ごとに、特に次週の礼拝では聖餐式があります。どうか、礼拝で御言葉と聖餐の恵みにあずかり、主イエス・キリストの十字架と復活がわたしたちを罪と死から解放し、永遠の御国の喜びの勝利に導くものであることを再確認させてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 詩編説教55                 主の2015年3月22日

             指揮者によって。伴奏付き。
             マスキール。ダビデの詩。
神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。
嘆き求めるわたしから隠れないでください。
わたしに耳を傾け、答えてください。

わたしは悩みの中にあってうろたえています。
わたしは不安です。
敵が声をあげ、神に逆らう者が迫ります。
彼らはわたしに災いをふりかからせようとし
憤って襲いかかります。
胸の中で心はもだえ
わたしは死の恐怖に襲われています。
恐れとわななきが湧き起こり
戦慄がわたしを覆い
わたしは言います。
「鳩の翼がわたしにあれば
飛び去って、宿を求め
はるかに遠く逃れて
荒れ野で夜を過ごすことができるのに。
烈しい風と嵐を避け
急いで身を隠すことができるのに。」

主よ、彼らを絶やしてください。
彼らの舌は分裂を引き起こしています。
わたしには確かに見えます。
  都に不法と争いのあることが。
それらは昼も夜も、都の城壁の上を巡り
町中には災いと労苦が
町中には滅びがあります。
広場からは搾取と詐欺が去りません。

わたしを嘲る者が敵であれば
  それに耐えもしよう。
わたしを憎む者が尊大にふるまうのであれば
  彼を避けて隠れもしよう。
だが、それはお前なのだ。
わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲。
楽しく、親しく交わり
神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。

死に襲われるがよい
生きながら陰府に下ればよい
住まいに、胸に、悪を蓄えている者は。
わたしは神を呼ぶ。
主はわたしを救ってくださる。
夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。
神はわたしの声を聞いてくださる。
闘いを挑む多くの者のただ中から
わたしの魂を贖い出し、平和に守ってくださる。
神はわたしの声を聞き、彼らを低くされる。
  神はいにしえからいまし
  変わることはない。
その神を畏れることなく
彼らは自分の仲間に手を下し、契約を汚す。
口は脂肪より滑らかに語るが
心には闘いの思いを抱き
言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。

あなたの重荷を主にゆだねよ
主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え
とこしえに動揺しないように計らってくださる。

神よ、あなた御自身で
  滅びの穴に追い落としてください。
欺く者、流血の罪を犯す者を。
彼らが人生の半ばにも達しませんように。
わたしはあなたに依り頼みます。
                 詩編第55編1-24節

説教題:「あなたの重荷を主にゆだねよ」
 今朝は、詩編第55編1-24節の御言葉を学びましょう。1節の表題に「マスキール。ダビデの詩。」とありますが、「ダビデの教訓詩」であります。「マスキール」とは、「悟りを与え」という言葉と同じであることから、「教訓詩」と呼ばれています。その目的は、わたしたち信仰者に対して教訓を述べることです。どうすれば神の民は、苦しみ、苦難を逃れられるかを教えようとしています。

 この詩編は、祈りに始まり、祈りで終わります。2―3節前半は、神の民が神に祈る時の決まり文句です。絵画に喩えると、この祈りの決まり文句と24節の祈りという額縁の中にダビデの教訓詩という絵があります。

 その絵は、ダビデが親しい友に裏切られ、胸が張り裂けんばかりに悩む姿を描いています。そして、ダビデがその悩みへの解決策を、その絵を見るわたしたちに提示しています。23節の御言葉であります。「この絵を見る神の民よ、あなたのすべての悩みと心配を主なる神にゆだねよ。主はあなたを支え、神の民が動揺することを許されません。」

 さて、サムエル記下15-19章にダビデが息子アブサロムに反逆され、エルサレムの都を捨てて、荒れ野に逃走した事件があります。アブサロムは、巧みにエルサレムの都に来てダビデに訴えようとする民たちを欺きました。そしてアブサロムは、ダビデの親友であり、相談役でありましたアヒトフェルを軍師に迎えました。アヒトフェルは、アブサロムに助言し、王国を速やかに支配下に置き、ダビデの命を奪う計略を巡らせました。

 ですからダビデは、信頼した友に裏切られ、息子アブサロムに味方する敵を神に訴えて、主に救いを祈りました。

  ダビデは神に「身を隠さないでください」と訴えていますね。ダビデは、自分の悩みと苦しみから神が無慈悲にも顔を背けないでくださいと訴えているのです。ダビデは、神に3節後半で「わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です」と告白していますね。ダビデは、神に「悩みと不安のなかにいるわたしを無視しないでください」と訴えているのです。

 ダビデは、4節から9節で次のように歌います。「今わたしは敵に囲まれ、死の恐怖の中にあります。見よ、鳩には翼があり、外敵を逃れて、自分の巣に憩う。わたしにも翼があれば、荒れ野に隠れて夜を過ごすのに。」

 ダビデは、神に10節から12節で、次のように訴えています。アブサロムに支配されたエルサレムの都は不法と争いに満ちているので、神が裁かれるようにと。

 さらにダビデは、13-15節で信頼する友の裏切りを深く悲しみ嘆いています。ダビデの親しき友であり、ダビデの相談役であり、共に神の幕屋で主を礼拝したアヒトフェルが、ダビデの敵となった者たちを率いてダビデの命を奪おうとしています。

 16節は、ダビデを裏切りました親友の末路を、ダビデが暗示しています。アヒトフェルは、自分がダビデを殺す計略をアブサロムに差し出しましたが、受け入れられず、自らの命を絶ちました。生きながら陰府に下りました。

 ダビデは17節から22節で次のように賛美します。わたしの悩みと苦しみは、鳩のように恐れて、荒れ野に逃れても解決しなかった。信頼する友の裏切りが、わたしの深い心の傷となったからだ。わたしの信頼する友はわたしを捨て、神、主なる神だけがわたしと共にいてわたしをお救いくださった。

 そしてダビデは、23節と24節でわたしたちに一つの教訓を教えています。わたしのように苦難の時は、「あなたの重荷を主にゆだねよ」と。なぜなら、主なる神は、あなたを支え、神の民が苦難に動揺することを許されないからだと。また、神がわたしたちの敵を裁いてくださるからだと。「滅びの穴」とは、死者の行くところです。そこでダビデの敵は、神とそのすべての喜びから永遠に切り離されるのです。

 さて、最後にダビデは、「あなたの重荷を主にゆだねよ」と賛美しましたが、彼の賛美を主なる神はダビデの死後、およそ千年を経て、主イエス・キリストを通して答えてくださいました。

 今わたしたちは、レントの季節を過ごしています。来週から受難週が始まります。その受難週の中で主イエス・キリストがダビデのように親しい弟子、イスカリオテのユダの裏切りで、十字架刑に処せられます。

 受難週の木曜日は、洗足の木曜日と呼ばれています。主イエスが12弟子たちの足を、奴隷のように洗われて、最後の晩餐をされました。そこで主イエスは、ユダの裏切りを予告されました。主イエスは、裂かれたパンを12弟子たちに渡し、杯を渡して12弟子たちと新しい契約を結ばれた後に、次のように宣言されました。「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」そして、主イエスは、ユダが「わたしではないでしょうね」と尋ねると、「それは、あなたが言っていることだ」と答えられたのです。

 その時にダビデが14-15節で告げた御言葉が実現したのです。「だが、それはお前なのだ。わたしと同じ人間。わたしの友、知り合った仲。楽しく、親しい交わり 神殿の群衆の中を共に行き来したものだった。」

 わたしたちの救い主キリストは、人間となり、親しい弟子の裏切りで、十字架の上で処刑にされました。その時にキリストは、ご自身を父なる神に委ねられ、わたしたちの罪の重荷を負い、十字架で死んでくださいました。この死によってわたしたちの罪の刺が抜き取られ、わたしたちは死と滅びから解放されました。

 どうかレントのこの一週間、今朝の御言葉に親しみ、御受難のキリストを思い起こし、ダビデがわたしたちに勧める御言葉に耳を傾けてください。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主に従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」そのとおりです。主イエスは御自身の十字架と復活を通してわたしたちを永遠の命で支えてくださるのです。

 お祈りします。

 イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちはレントの季節を過ごしております。御受難のキリストを日々に思い、ダビデの今朝の御言葉、「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えくださる。主は従う者を支え とこしえに動揺しないように計らってくださる。」を心に留めさせてください。

 世界に悪と憎しみが満ち、不法と暴力がわたしたちの人生に暗い影を投げかけています。いつわたしたちと家族が理不尽な死に出会うかしれないと、だれもが不安を覚えています。

 だからこそわたしたちの目を、キリストに、十字架と復活のキリストに釘づけにしてください。わたしたちキリスト者に、ダビデをとして主が約束された御言葉を実現してください。

 そしてわたしたちにどんなことが起きようと、父なる神は受難と復活のキリストを通してわたしたちをとこしえに揺らぐことのない永遠の命でお支えくださっていることを、喜びをもって確信させてください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 詩編説教056               主の2015年4月26日

             指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。
             ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガドでペリシテ人に捕らえられたとき。
神よ、わたしを憐れんでください。
わたしは人に踏みにじられています。
戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ
陥れようとする者が
  絶えることなくわたしを踏みにじります。
高くいます方よ
多くの者がわたしに戦いを挑みます。
恐れをいだくとき
わたしはあなたに依り頼みます。
    神の言葉を賛美します。
    神に依り頼めば恐れはありません。
    肉にすぎない者が
    わたしに何をなしえましょう。
   
わたしの言葉はいつも苦痛となります。
人々はわたしに対して災いを謀り
待ち構えて争いを起こし
命を奪おうとして後をうかがいます。
彼らの逃れ場は偶像にすぎません。
神よ、怒りを発し
    諸国の民を屈服させてください。

あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。
あなたの記録に
    それが載っているではありませんか。
あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。

神を呼べば、敵は必ず退き。
神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。
  神の御言葉を賛美します。
    主の御言葉を賛美します。
    神に依り頼めば恐れはありません。
    人間がわたしに何をなしえましょう。

神よ、あなたに誓ったとおり
感謝の献げ物をささげます。
あなたは死からわたしの魂を救い
突き落とされようとしたわたしの足を救い
命の光の中に
    神の御前を歩かせてくださいます。
                 詩編第56編1-14節

説教題:「命の光の中を歩かせてください」
 今朝は、詩編第56編1-14節の御言葉を学びましょう。1節の表題に「はるかな沈黙の鳩に合わせて。ダビデの詩。ミクタム」とあります。この詩編56編は、今日失われた「はるかな沈黙の鳩」という名の歌、あるいはこの言葉で始まる歌があり、その旋律に合わせて、この詩編を賛美するようにという指示を記しています。この詩編はダビデが作りました。「ミクタム」は、諸説ありますが、意味不明であります。

  さらに表題は「ダビデがガトでペリシテ人に捕らえられたとき」と記して、この詩編をサムエル記上21章11節から16節に記しているダビデの事件に結び付けています。ダビデがサウル王の迫害を逃れ、ペリシテの国のガトに入りました。ところがガトの王アキシュの家臣たちがダビデを殺すように進言し、ダビデは狂人を装い、難を逃れました。そのことを、ダビデが主なる神に感謝して歌っているのが、この詩編であります。

 ダビデは、信仰深い人です。その生涯、主なる神を依り頼みました。主なる神を依り頼む者に人への恐れないとは、信仰者の持つ信仰の真実であります。実際にこの詩編の中でも、ダビデは4節と5節で「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます。」「神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者がわたしに何をなしえましょう。」と力強く賛美しています。10節と12節でも表現は少し違っても同じことを繰り返し賛美しています。

 この詩編を味わう。ダビデの信仰と彼の苦難を思う。わたしは、一つのことに気づき、キリストのお言葉を思い起こします。それは、信仰は確信していても、わたしたちの肉体は弱いということです。ゲツセマネの園で主イエスは弟子たちと祈られました。その時に主イエスは途中で眠ってしまったペトロに言われました。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マルコ14:37-38)。

 そのとおりです。ダビデは信仰の人です。神を畏れ、人は恐れるに足りないことを確信しています。しかし、今ダビデが体験している現実は、敵に囲まれて四面楚歌であります。ダビデは、一日中数多くの敵を前にして苦しんでいるのです。

 ダビデは、主なる神に9節で「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです」と訴えていますね。「嘆き」と訳されたヘブライ語は、「さまよう」という意味の言葉です。ダビデは、サウル王に命を狙われ、サウルが支配するイスラエルに留まることができません。イスラエルの敵国であるペリシテに逃亡するほかありませんでした。ところが、ダビデはペリシテ人にはサウル以上に恐ろしい敵でありました。だから、ペリシテの国のガトの王アキシュの家臣たちは、王にダビデを捕らえて殺すように進言しました。

 ダビデは、絶体絶命の窮地に陥りました。だから、ダビデは、主なる神に憐れみを求めました。「神よ、わたしを憐れんでください。わたしは人に踏みにじられています。戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ陥れようとする者が絶えることなくわたしを踏みにじります。高くいます方よ、多くの者がわたしに戦いを挑みます。」(2―3節)。

 ダビデは、ガトのアキシュ王の家臣たちが「ダビデを捕らえ、殺しましょう。彼はサウルよりも恐ろしいわたしたちの敵です」と訴えていることを知り、「高きにいます方」である主なる神に信頼を寄せています。

 このダビデの詩編を読みます時、思いませんか。信仰の人ダビデのように、自分が同じ立場に立たされたらと。この詩編を読み、歌う多くの信仰者たちが、そう思ったでしょう。迫害と苦難にある信仰者は、ダビデから次のことを学んだのではありませんか。

 ダビデもわたしたちも、人は弱い者であるが、高くいます方、主なる神こそ真に恐るべき方。信頼すべき方であると。主なる神が絶体絶命のダビデの恐れを除いてくださり、ペリシテ人の手から彼を解放してくださいました。狂人を装い、難を逃れました。恥ずかしい自分の姿でありますが、主なる神はダビデの恐れを取り去ってくださいました。

 5節と11-12節は、リフレーン、繰り返しです。ダビデは、神の言葉、主の言葉を賛美しています。ダビデは、繰り返すことで、わたしたちに主なる神に信頼するとは、何かを教えてくれています。

 ひとつ場違いな質問をしましょう。ロビンソン・クルソーのように無人島に漂流したとき、あなたがひとつだけ持つとしたら、それは何ですか。ダビデなら、神の御言葉、主の御言葉と答えるでしょう。わたしたちは、神の御言葉である聖書と答えませんか。

 ダビデは、預言者ナタン、祭司ツァドクやアビアタルらがダビデに語る神の御言葉にしっかりと自分を結びつけました。その神の御言葉を通して彼は、生涯主なる神を仰ぎ見、この詩編のように神の御言葉を賛美しました。ダビデは、預言者ナタンを通して主なる神が「わたしはダビデとその子孫の神となる」と言われた言葉に導かれて、主なる神を信頼しました。

 わたしたちの神信頼は、「わたしは神が好きです」というような漠然とした感情ではありません。主なる神がアブラハムに「わたしはあなたとあなたの子孫の神となる」と言われた御言葉を、アブラハムと彼の子孫は生涯しっかりと自分たちに結びつけて生きました。神の御言葉がダビデやアブラハムたちを神信頼に導きました。今も同じです。聖書の神の御言葉を通して、わたしたちはキリストを仰ぎ、神を賛美しています。そして、聖書の御言葉は、わたしたちをキリストへの信頼に導いてくれます。そして、この信頼が、この世において苦難の中にあるわたしたちを人への恐れから解放します。さらにダビデのように人への恐れに立ち向かわせるのです。

 6節の「わたしの言葉はいつも苦痛となります」とは、一日中ダビデの敵たちがダビデの言葉を傷つけているからです。「人々はわたしに対して災いを謀り」とは、敵たちがダビデを災いに陥れようと、悪に向かっているという意味です。

 その結果、ダビデは、7節で次のように述べています。敵たちはダビデの見えないところに待ち伏せし、警戒を怠らないで、いつでもダビデの命を襲う用意をしていると。

 8節は、ダビデが主なる神に彼の敵たちを裁かれるように願っています。「彼らの逃れ場は偶像にすぎません」とは、そのままヘブライ語の本文を読めば、「悪のために、彼らに救いがあるだろうか」です。70人訳聖書は、「決して彼らを救わないでください」と訳しています。ダビデは、ダビデの命を狙うペリシテ人たちを滅ぼしてくださいと祈っています。さらにダビデは、主なる神が怒りをもってイスラエル周辺諸国の民たちを裁かれるように祈ります。

 サムエル記下を読みますと、サウルの死後、ダビデがイスラエルの王となり、周辺諸国の民たちを征服します。主なる神は、ダビデの祈りを聞き、ダビデに周辺の諸国民を支配させられました。

 9節は、この詩編の中で一番感動する御言葉です。「わたしの嘆き」とは、サウルの迫害によってダビデが放浪していることです。主がそれを数えられ、記録し、そして主の革袋にはダビデの涙が蓄えられています。ダビデの長い信仰の戦いに、彼が涙した日々に、思いを寄せています。ダビデのように、主なる神がこの地上を旅する教会とキリスト者たちのすべての苦難を数え、記録に留め、わたしたちの涙を記憶してくださっているのです。どんな苦難の中でも、ダビデも教会も、わたしたちも主なる神に忘れられることはありません。

 ですから、ダビデは、主なる神に呼びかけて、助けを求めれば、主なる神は敵をダビデから退けて、御自身がダビデの味方であると確信させてくださると告白しています。主なる神が味方であれば、人を恐れることはありません。ダビデの10節の告白は、わたしたちに使徒パウロがローマの信徒への手紙8章31節の御言葉を思い起こさせます。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」

 このように信仰者の神信頼は、主なる神と神の約束の言葉にかかっているのです。

 ダビデの13節と14節の御言葉は、この詩編が主なる神に救われたダビデの感謝として歌われています。ダビデは、サウルの迫害から解放され、苦難の長い放浪から解き放たれて、彼が主なる神に誓約した通り、神の幕屋で主なる神に感謝の犠牲を献げました。

 礼拝するダビデは、主なる神が死から彼の魂を救い出されたことを感謝しました。すなわち、サウルの迫害、ペリシテ人たちの災い、ダビデはいつも死の中に突き落とされそうになりました。その度に主なる神がダビデの足をしっかりと大地に支えてくださいました。

 さらに主なる神を礼拝するダビデは、次のことを願っています。「命の光の中に神の御前を歩かせてくださいます。」と。

 主なる神は、命の光の中にいまし、ダビデは死から主なる神のいます命の光の中に入れられることを願っています。

 それは、「復活であり命である」主イエス・キリストの救いによって実現しました。神の御前を歩むためには、命の光である主イエス・キリストに来なければなりません。キリストは、わたしたちを死から、神の御前に、命の光の中に招くために、この世に来てくださり、聖霊によってこの世に教会を立て、福音宣教を通して死の滅びの中にある人々を命の光の中に、神の御前に歩むように招かれています。

 お祈りします。 

 イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちがダビデの詩編56編の御言葉、に心を留めさせてください。

 心が燃えても、肉体が弱いわたしたちのこの地上の旅を助け、お守りください。この世におけるキリスト者の数は少なく、キリスト者として生きる時、多くの苦難を覚えます。迫害があればと、不安を覚えます。

 わたしたちは弱い者であるので、どうか神の御言葉にわたしたちをしっかり結び付けてくださり、十字架と復活のキリストを常に仰ぎ、礼拝に置いて詩編歌を賛美し、主への信頼に導いてください。主を畏れ、信頼し、人への恐れ、死への恐れからわたしたちを解放してください。

 わたしたちを死から永遠の命へと招かれたキリストに、わたしたちを固く結びつけ、御国へと至らせてください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教057               主の2015年5月31日

             指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。

憐れんでください
神よ、わたしを憐れんでください。
わたしの魂はあなたを避けどころとし
災いの過ぎ去るまで
  あなたの翼の陰を避けどころとします。
いと高き神を呼びます。
わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。
天から遣わしてください
神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。
わたしを踏みにじる者の嘲りから
    わたしを救ってください。
   
わたしの魂は獅子の中に
火を吐く人の子らの中に伏しています。
彼らの歯は槍のように、矢のように
舌は剣のように、鋭いのです。

  神よ、天の上に高くいまし
    栄光を全地に輝かせてください。
   
わたしの魂は屈み込んでいました。
彼らはわたしの足もとに網を仕掛け
わたしの前に落とし穴を掘りましたが
その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。

わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。
目覚めよ、わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしは曙を呼び覚まそう。
   
主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し
国々の中でほめ歌をうたいます。
あなたの慈しみは大きく、天に満ち
あなたのまことは大きく、雲を覆います。

    神よ、天の上に高くいまし
    栄光を全地に輝かせてください。
                 詩編第57編1-12節

  説教題:「わたしは心を確かにします」
  今朝は、詩編第57編1-12節の御言葉を学びましょう。
 
  1節の表題に、「指揮者によって。『滅ぼさないでください』に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき。」と記してあります。
 
  詩編57編は、エルサレム神殿の礼拝で歌われました。この詩編は、「滅ぼさないでください」という曲名の歌に合わせて、賛美されました。他に同じ曲名で賛美されたのは、詩編58編、59編、そして75編です。
 
  「ダビデの詩」とありますので、ダビデが作りました。「ミクタム」という言葉の意味は諸説ありますが、意味不明であります。

  「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」と記しています。これがこの詩編の時代背景です。サムエル記上22章1節のアドラムの洞窟と24章のエン・ゲディの洞窟を、この詩編の場所と定め、ダビデがサウル王の迫害から逃れていた時代がこの詩編の背景です。
 
  ダビデは信仰の人です。彼は生涯、主なる神に依り頼みました。ですから、ダビデは、サウル王の迫害の中で主なる神を信頼しました。そして、主の救いを祈り願いました。それが、2-4節のダビデの祈りです。
 
  ダビデは2節で次のように主なる神に祈っていますね。「憐れんでください。神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし 災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします。」
 
  ダビデは主なる神への信頼を、ひな鳥が難を逃れて、親鳥の翼の中に守られる姿にたとえています。
 
  ダビデは、ひな鳥が親鳥の翼の中に逃げて、身を守るように、サウル王の迫害の嵐が過ぎ去るまで、主なる神を避けどころとし、身を隠しました。
 
  「わたしの魂はあなたを避けどころとし」、ダビデは主なる神のもとに逃れて、そこで彼の平安を見出しました。ひな鳥が必死に親鳥の翼の中に逃れるように、ダビデも苦難の中で全身全霊をもって主なる神に信頼しますので、主なる神にダビデを憐れみ、助けてくださいと祈り願っています。
 
  次に、ダビデは神の名を呼びかけています。3節です。「いと高き神を呼びます わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。」
 
  「いと高き神」とは、主なる神の呼び名です。ダビデは、主なる神を「いと高き神」と呼び掛け、「わたしのために何事も成し遂げてくださる神」と信仰告白しています。
 
  「いと高き神」は、主権を持って全世界を支配されていますので、「ダビデのために何事も成し遂げてくださる神」であります。

 わたしは、ダビデの祈る言葉に、2つのことに気づきました。第一は、わたしたちもダビデ同様に主なる神を避けどころとすることが大切であるということです。

  新約聖書の4つの福音書を読んでいますと、主イエスは、弟子たちや群衆たちと離れて、祈るためにひとり山に行かれたと記しています。リトリート、わたしたちの魂の避けどころが必要です。ダビデや主イエスのように神のもとに避けどころを見出し、神の全き支配の下にかくまわれることがこの世に生きる神の民には必要です。

  第二は、ダビデは族長アブラハムのように主なる神に召され、主なる神と契約を結んだ神の民です。だから、主なる神は、ダビデのために「何事も成し遂げてくださる神」であります。ダビデは、主なる神の摂理に心から信頼し、この世を歩むことができました。
 
  使徒パウロは、次のようにダビデの信頼する神を言い表しました。「神は愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)。
 
  ダビデは4節で次のように主なる神に助けを求めることができました。「天から遣わしてください 神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。わたしを踏みにじる者の嘲りから わたしを救ってください。」
 
  ダビデが求めた主なる神の助けとは、神の慈しみとまことです。神の慈しみとは神の恵みであり、弱い者に対する同情であります。まこととは契約の神の真実であり、神の民を救おうとする神の熱心であります。ダビデは、主なる神が慈しみとまことの翼を広げて、苦難の中にあるダビデを助けるために訪れてくださることを祈り求めたのです。
 
  なぜなら、ダビデの魂は、獅子の中にあったからです。すなわち、サウル王の迫害という危険な状況にありました。
 
  5節の「彼らの歯」と「舌」とは、ダビデを迫害する者たちの言葉であります。言葉は、人間のコミュニケーションにとって大切な道具です。その言葉が人の魂を殺す道具に使われるのです。だから、敵の言葉が槍となり、剣となり、鋭くダビデの心を刺し貫くのです。
 
  ダビデの「火を吐く人の子らの中に伏しています」という言葉に、わたしは今日お学校のいじめ、職場のいじめを連想しました。いじめる者の言葉が槍となり、剣となり、いじめられる者の心に鋭く刺さり、自殺する者たちがおり、心を病んで、家にとじこもりとなる者たちがいます。
 
  本当にこの世の罪の現実は、ダビデにとっても、わたしたちにとっても、弱い立場にある者たちにはとても悲惨であります。
 
  だから、ダビデがわたしたちに6節と12節で繰り返して伝えるメッセージがあります。「神よ、天の上に高くいまし 栄光を全地に輝かせてください。」ダビデを、そしてこの世において迫害される者を、この悲惨な現実から救うものは、天からの神の全き恵み以外にないと。
 
  ダビデは、7節で「わたしの魂は屈み込んでいました。」と告白していますね。これは、ダビデが失望によって俯いているというのではありません。敵がダビデの足を狙って、卑怯で巧妙な罠を仕掛けるので、その罠から逃れるために、自然にダビデは下を向くのです。そして主なる神に助けられて、ダビデは敵が仕掛けた網を避け、落とし穴に落ち込まないようにしたのです。そして、ダビデは、次のように証言しました。敵が自業自得で、彼らの仕掛けた罠に自ら落ち込んだと。
 
  8-12節は、ダビデの感謝の歌であります。9節にダビデが「わたしは曙を呼び覚まそう」と歌っているように、ダビデは朝を迎えました。主なる神に守られて、不安な夜を過ごし、ダビデは曙の光の中に立ちました。そして、ダビデは、8節で次のように決意しました。「わたしは心を確かにします。神よ、わたしは心を確かにして あなたに賛美の歌をうたいます。」
 
  「わたしは心を確かにします」とは、ダビデの心が定まったのです。揺るぎなくなったのです。ダビデの現実は好転していません。依然としてダビデは獅子の中におり、サウルはダビデの命を奪おうとしています。しかし、ダビデは心を確かにしました。彼の心を定め、揺るぎないものとしました。すなわち、主なる神と共に光の中に生きよう。主なる神の支配の下に身を隠して、主なる神と共に生きよう、と。
 
  だから、ダビデは、次のように心から主なる神に感謝の歌を歌いました。「目覚めよ、わたしの誉れ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう」と。要するにダビデは、自らを励まし、竪琴を奏でて、曙、すなわち、朝を呼び寄せたいと賛美しました。
 
  曙、すなわち、朝は「期待される神の到来を告げるしるし」でした。ダビデは、曙に彼を訪れてくださる主なる神の御支配の下に自分の身を寄せたいと願っているのです。
 
  10-12節は、ダビデが主なる神に感謝し、賛美しています。ダビデは、諸国民たちの中で主なる神に感謝の賛美をし、諸国の中で主なる神をほめ歌を歌うと賛美しています。
 
  その理由は、神の慈しみとまことがあまりにも偉大であり、天にまで達しているからです。慈しみとまことに富みたもう神を諸国民の間でほめたたえることがダビデの願いであります。
 
  ダビデの祈りは、教会の祈りです。ダビデは、主なる神に天から慈しみとまことをお遣わしくださり、わたしたちをお救いくださいと祈りました。
 
  ダビデの祈りは、主イエス・キリストの受肉と十字架と復活によって実現しました。ヨハネによる福音書は、次のように証言しています。
 
  「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」(ヨハネ1:14)。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(ヨハネ1:17)。
 
  キリストの受肉と十字架の死と復活によって、わたしたちに対する神の慈しみとまことは明らかにされました。復活されたキリストは、日曜日の朝に11弟子たちを、そして主イエスに従った女性たちを訪れてくださいました。そして、今天にいますキリストは、聖霊をお遣わしになり、毎週日曜日の朝に全世界の教会を訪れてくださいます。ですからダビデが願ったように、今全世界の国々で主なる神に救われた喜びを、感謝し、賛美しているのです。
 
 お祈りします。 

 イエス・キリストの父なる神よ、ダビデの詩編57編の御言葉を学ぶことが許されて、心より感謝します。

 わたしたちは、日曜日ごとにこの世を逃れ、しばらく教会にリトリートし、主なる神の御言葉の支配の下に置かれ、この世の誘惑から守られていることを感謝します。

  わたしたちは、主なる神のひな鳥です。どうか主なる神の慈しみとまことの翼の陰にお守りください。
 
  わたしたちは、わたしたちの仲保者キリストを通して、父なる神と恵みの契約を結びました。どうか、わたしたちが御国に至るまで、万事を益としてください。

 わたしたちの心を確かにし、わたしたちが光であるキリストと共に歩むことを決意させてください。

 わたしたちを死から永遠の命へと招かれたキリストに、わたしたちを固く結びつけ、御国へと至らせてください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。



詩編説教058               主の2015年6月28日

          指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。

しかし、お前たちは正しく語り
公平な裁きを行なっているというのか。
人の子らよ。
いや、お前たちはこの地で
  不正に満ちた心をもってふるまい
お前たちの手は不法を量り売りしている。

神に逆らう者は
    母の胎にあるときから汚らわしく
欺いて語る者は。
    母の腹にあるときから迷いに陥っている
蛇の毒にも似た毒を持ち
耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで
蛇使いの声にも
巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。

神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。
主が獅子の牙を折ってくださるように。
彼らは水のように捨てられ流れ去るがよい。
神の矢に射られて衰え果て
なめくじのように溶け
太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。
鍋が柴の炎に焼けるよりも速く
生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。

神に従う人はこの報復を見て喜び
神に逆らう者の血で足を洗うであろう。
人は言う。
「神に従う人は必ず身を結ぶ。
神はいます。
神はこの地を裁かれる。」
                 詩編第58編1-12節

  説教題:「神はいます。神はこの地を裁かれる」
  今朝は、詩編第58編1-12節の御言葉を学びましょう。
 
  ダビデは、1節で「お前たち」と呼びかけています。だれのことでしょうか。岩波書店の旧約聖書の詩編は「神々」と訳し、口語訳、新改訳とフランシスコ会訳聖書の詩編は「力ある者よ」「権力ある者よ」と訳しています。
 
  ダビデが「お前たち」「人の子らよ」と呼びかけて、彼らの不正と悪事を糾弾しています。彼は告発します。「正しく語り、公平な裁きを行なっているのか」。ダビデの告発の言葉から、「お前たち」「神々」「権力ある者」とは、この地に住む人の子らであり、この世の裁判官であると思われます。
 
  旧約聖書のイスラエル社会では裁判官を、「さばきつかさ」と呼びました。悪を行なう者を罰し、正しい者、弱い立場にある者を弁護することにより、公の正義をなす人であります。彼は主なる神の代理者であり、主なる神に代わって正義を行なう者です。「さばきつかさ」の制度は古く、出エジプトの荒野の生活までさかのぼります。イスラエルの指導者モーセが、出エジプト後、「さばきつかさ」として一人ですべての民の紛争を裁いておりました。モーセの舅であるエトロがそれを見て、モーセに助言しました。民の紛争解決のためにモーセを助ける神の代理者を立てるように、と。すなわち、信頼できる者を千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立て、彼らに民を裁かせるように助言しました(出エジプト記18章)。
 
  カナンの地に定住した後、イスラエル社会の中で「さばきつかさ」は士師として、救済者として活躍しました。民たちの紛争を解決するだけではなく、偶像礼拝から民たちを守り、民を率いて敵と戦い、外国の圧政からイスラエルの民を救い出しました。最後の士師である「さばきつかさ」が預言者であり、祭司であったサムエルです。そしてサムエルにイスラエルの民が王を要求しました。主なる神が民の願いを聞かれて、サウルをイスラエルの最初の王としてお立てになりました。以後イスラエルは王制となり、王が最高権力者となり、王は神の代理人であり、唯一の「さばきつかさ」となりました。
 
  このようにイスラエルの「さばきつかさ」の歴史をたどれば、ダビデが不正な裁きを糾弾している「権力ある者」「お前たち」とは、サウルと彼に仕える高官たちであると考えることは可能でしょう。
 
  サウルは、ダビデを迫害し殺そうとしています。ダビデは彼の不正をただすために、主なる神に訴える以外にありませんでした。それが、この詩編です。
 
ダビデは、続けて3節で「いや、お前たちはこの地で 不正に満ちた心をもってふるまい お前たちの手は不法を量り売りしている」と厳しくサウルの不正を告発しています。サウルは、心の中でダビデを恐れ、憎しみ、ダビデに悪を企てようとしていただけでありません。白昼堂々とダビデを迫害し、「不法を量り売りしている」のです。この場合の「不法」とは暴虐、迫害のことであります。だれの目にも見えるほどあからさまにサウルは、ダビデを迫害し、殺そうとしました。そして、ダビデに関わった祭司とその家族を虐殺したのです。

  ダビデは、どうして力ある者が民に不正と悪事をなすのか、その理由を4-6節で次のように歌っています。それは、権力者が主なる神を恐れないからです。故意に主なる神の御声を聞いて、それに服することをしないからです。
 
  アダムの原罪以来、すべての人は生まれながらに神に背く者であり、母の胎にいる時から汚れた者です。母の胎にいる時から主なる神より逃亡し、人生をさまよっています。
 
  サウルもその一人でした。彼は、主なる神に召されて王とされました。主なる神に代わって民を裁く者となりました。しかし、彼は与えられた権力を、コブラの毒のように用いました。ダビデが「耳の聞こえないコブラ」と歌う時、それは生まれながらの人が神の御言葉を聞くことができないことを意味しています。更に「耳をふさいで」とは、故意に神の御言葉を聞こうとしないという意味です。だから、彼は故意に主なる神を退けて、権力を蛇の毒のように用いるのです。権力を、民を生かすためではなく、殺すために用いるのです。6節のコブラが蛇使いの声にも、呪文にも聞かないとは、故意に不正と悪事をなす者は自分の良心の声にも、神の御言葉にも聞かないという意味です。
 
  だから、ダビデは7-10節で不正な権力者に主なる神の裁きを祈り求めているのです。7節の彼らの口から歯を抜く、師子の牙を折るとは、不正な権力者の権力を除くことです。不正な権力者の権力は、蝮の毒やライオンの牙のように民の命を無慈悲に奪います。だから、彼らの権力を除く以外にありません。
 
  ダビデは、8-9節で4つのことを主なる神に祈ります。第1は、不正な権力者が砂漠の川のように消えてしまい、神の矢、すなわち、神の裁きによって衰え果て、ダビデや民に害を加えることがないようにしてくださいという願いです。第2は、不正な権力者が自滅するようにという願いです。9節の「なめくじのように溶け」とは、ナメクジに塩をまくと溶けてしまいますね。そのように不正を行なう権力者が自滅するように、ということです。第3は不正な権力者が生まれないようにという願いです。「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」とは、日の目を見ないように、生まれないようにという意味です。第4は、不正な権力者の悪巧みの計画が速やかに失敗するようにという願いであります。「鍋」は不正な権力者の計画です。「柴の炎」は計画の実行です。「炎の怒り」とは神の怒りです。神の怒りにより不正な権力者の計画が失敗し、彼の計画が彼の落とし穴となって自滅するようにという願いです。
 
  11節は、神に従う者、すなわち、義人の喜びであります。神の報復を見て喜ぶとは、主なる神御自身が「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言われているように、義人は自分で悪に報復しないで、主なる神の裁きに委ねます。だから、「報復を見て喜ぶ」ことは、ダビデの希望でした。実際にダビデは、サウルの迫害に対して復讐しませんでした。むしろ、主なる神がサウルを王に立てられたことを尊び、報復を主なる神に委ねました。そして、主なる神は、サウル王をペリシテとの戦いで報復されました。そして、サウルが流した血は、ダビデの足下を浸しました。昔大勝利を表すために、征服者は敵の血の中を渡ると言ったそうです。最後にダビデは、主なる神がサウルを裁かれたことで勝利を得たのです。
 
  最後にダビデは、人の言い伝えを歌います。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる」と。
 
  「神に従う人」とは義人のことです。彼は日々蒔き続ける義の種を、自分で食べることができます。ダビデは、この地上ではなく、御国の喜びを歌っています。わたしたちキリスト者にとって、来週あずかる聖餐は、義の種であります。教会の礼拝は、天国の型であります。わたしたちは、ここでキリストを崇め、父なる神を礼拝し、聖霊を賛美し、神の御言葉を聞き、毎月第1主の日とクリスマス、ペンテコステ、宗教改革記念日等に聖餐にあずかります。また日々祈り、家族や隣人にキリストを伝えています。これらは義の種であり、わたしたちは天国で食べることができます。すなわち、キリストを通して父なる神と交わり、福音を伝えた家族と隣人と共に天国で永遠に生きるのです。そこにはアブラハムもダビデも、わたしたちが聖書で知っている義人たちがおり、宗教改革者ルターやカルヴァンがいます。
 
  旧約聖書では、「神がいます」という神の現臨こそが救いでした。わたしたちにとっても「キリストがいます」というキリストの現臨こそが救いです。イスラエルの民と共におられた主なる神は、裁きによってこの罪の世界から神の民イスラエルを分かたれました。ダビデを、罪の世から神の民に分かたれました。同様にキリストは、宣教を通してこの罪の世から教会を神の民として分かたれました。
 
  神が裁かれるとは、罪ある人を滅ぼされることだけではありません。生まれながら罪あるわたしたちを、母の胎にいる時からコブラのように神に服することができなかった者を、主なる神はキリストの十字架の裁きを通して、罪を赦し、神の子とし、聖霊と御言葉を通して清め、この罪の世から分かち、永遠の御国への希望をお与えくださいました。
 
  ですから、ダビデはわたしたちに今も語ります。どうかわたしたちと共にいます神が、宣教を通してこの世にあるわたしたち罪人を裁き、この世から御国へと招いて下さっていますから、これ以上耳をふさぐコブラにならないでください。キリストの言葉に耳を傾けてくださいと。
 
 お祈りします。 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編58編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。

 神を恐れない権力者は、権力を蝮の毒のように用いて、わたしたちに命ではなく、滅びをもたらそうとしています。今の日本の状況に不安を覚えていますが、日曜日ごとに神の御言葉を聞ける喜びを感謝します。月一度の聖餐の恵みを感謝します。どうか、今朝の主なる神の御言葉の支配の下に置かれ、この世の誘惑と艱難から守られ、御国へとお導きください。

  わたしたちの日々の生活が、御国で実を結ぶものとしてください。どうか主よ、憐れみ、わたしたちの家族をお救いください。この町の隣人をお救いください。
 
  キリストよ、約束通りわたしたちと共にいてください。キリストの十字架の恵みを、わたしたちに見せてください。洗礼者、信仰告白者をお与えください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。