詩編説教039 主の2013年12月29日
指揮者によって。エドトンの詩。 指揮者による エドトンの ダビデの賛歌
賛歌。ダビデの詩。
わたしは言いました。 わたしは言った。「わたしは守ろう、わが道を。過ちを犯さぬ
「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。 ように、わが舌で
神に逆らう者が目の前にいる。 わたしは守ろう。悪しき者がわたしの前にいる限り、
わたしの口にくつわをはめておこう。」 わが口にくつわを」
わたしは口を閉ざし沈黙し わたしは沈黙して口をつぐみ、善い事も言わずに沈黙した
あまりに黙していたので苦しみがつのり それでわが痛みはかき立てられる。
心の内に熱し、呻いて火と燃えた。わが心は、わが内に熱くなる。わが呟きに火が燃える。
わたしは舌を動かして話し始めた。 わたしはわが舌で語り出した。
「教えてください、主よ、わたしの行く末を「知らせたまえ、主よ、わが終わり(最後)を
わたしの生涯はどれ程のものか またわが日々の長さ、それがいかほどでしょう。
いかにわたしがはかないものか、悟るように。」知りたい。わたしが何とはかないかを。」
御覧ください、与えられたこの生涯は 見よ、あなたは私の日々を手の幅ほどにした。
僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も無に等しいのです。わが一生は、あなたの御前に無に等しい。
ああ、人は確かに立っているようでも まことにすべては一息、まっすぐに立っている人
すべて空しいもの。 はすべて。
ああ、人はただ影のように移ろうもの。 まことに人は影の中を歩き回る。
ああ、人は空しくあせくせし まことに虚しく彼らは騒ぎ立てます。
だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。 彼は積み蓄えるが、だれがそれらを集める
が知らない。
主よ、それなら そして今、
何に望みをかけたらよいのでしょう。 何を待ち望みましょう、主よ。
わたしはあなたを待ち望みます。 わが望み、それはあなただけです。
あなたに背いたすべての罪からわたしを救い すべてのわが罪より、わたしを救いたまえ。
神を知らぬ者というそしりを 愚かな者の恥としてわたしを置かないでください。
受けないようにしてください。
わたしは黙し、口を開きません。 わたしは黙して口を開きません。
あなたが計らってくださるでしょう。 なぜならあなたがなさったからです。
わたしをさいなむその御手を放してください。取り除いて下さい、わたしの上からあなた
御手に撃たれてわたしは衰え果てました。 の打撃を。あなたの手の打撃によってわたし
あなたに罪を責められ、懲らしめられて は衰え果てる。罪についての非難をもって
人の欲望など虫けらのようについえます。 あなたは人を懲らしめる。あなたはしみの
ああ、人は皆、空しい。 ように彼の慕うものを食い尽す。まことに人はすべて息である。
主よ、わたしの祈りを聞き わが主よ、わたしの祈りを聞いてください。
助け求める叫びに耳を傾けてください。 そしてわが叫びに耳を傾けてください。
わたしの涙に沈黙していないでください。 わが涙に黙さないでください。
わたしは御もとに身を寄せる者 なぜなら(実に)わたしはあなたと共に寄留者です。
先祖と同じ宿り人。 すべてのわが先祖たちのように滞在者です。
あなたの目をわたしからそらせ わたしから目をそらせてください。
立ち直らせてください。 わたしは明るくなりたいのです。
わたしが去り、失われる前に。 わたしが去っていなくなる前に
詩編第39篇1-14節
説教題:「わたしの行く末を導く主」
「わたしの行く末」とは、わたしの人生の終わりという意味です。人は、だれもが生まれて、死ぬことを定められています。わたしたちは、自分に終わりが来ることを、普段は意識していないでしょう。
しかし、意識せざるを得ない時があります。それは、重い病気を患った時です。詩編39篇の詩人ダビデは、重い病気を患いました。
11節と12節です。「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました。あなたに罪を責められ、懲らしめられて 人の欲望など虫けらのようについえます。ああ、人は皆、空しい。」
「わたしをさいなむ」とは、ダビデの病気のことです。「その御手」は主なる神のお働きです。ダビデは、主なる神に罪と咎を責められ、懲らしめられ、彼の体を主なる神に撃たれたので、重い病気になったと告白しています。
今年もあと数日で、1年が終わります。1年が終わり、新しい1年を迎えようとしています。わたしたちは、2013年の1年間を振り返り、反省し、そして2014年の新しい年を歩みたいと思います。
詩編39篇は、ダビデが神の幕屋で聖歌隊の指揮者エドトンの奏楽に合わせて歌った詩編でしょう。ダビデの哀歌です。重い病気に苦しむダビデが主なる神に訴えた哀歌です。
2-4節は、ダビデの沈黙の苦しみを歌っています。2節の「わたしは言いました」は、ダビデの決意です。「わたしの道を守ろう」とは、ダビデの心の思いについての注意を言っているのです。「舌で過ちを犯さぬように」とは、神や他者を呪うことをしないということです。
重い病気のダビデを亡き者にしようとする神に逆らう者がダビデの目の前にいます。ダビデは、主なる神や隣人を、自分の口で呪わないためにくつわをはめておこうと決意したのです。神への呪いとは、この世では悪者が栄えているという神への不平・不満です。そして神に逆らう者すなわち、悪者へのダビデの怒りが他者を呪うことです。
「沈黙は金」と言われますが、聖書は沈黙を苦しみと、ダビデを通して証言しています。ダビデは沈黙に沈黙を続けました。その結果彼の心の中は、苦しみに満たされました。ダビデの病気が悪化したのでしょうか。ダビデの心の中の思いが激しさを増したのでしょうか。ダビデは、「心は内に熱し、呻いて火と燃えた。」と歌っています。
ダビデは、主なる神に語らざるを得ませんでした。こうしてダビデは、舌を動かして、主なる神に話し始めました。
それは、主なる神との対話というより、ダビデの祈りです。ダビデは、祈りでもって哀歌を歌っています。
ダビデは、5節と8節と13節に「主よ」と呼びかけて、5-7節、8-12節、そして13-14節と、3つのことを祈っています。
ダビデは、5-7節で主なる神に「わたしの行く末」を教えてほしいと祈ります。それは、「わが日々の長さ」です。
人生50年、80年と言ってみましても、ダビデは、わたしの生涯がいかにはかないかを悟らせてください、認識させてくださいと祈っています。
このダビデの祈りは、従順の祈りです。彼は単に主なる神に向かって、不満を呟くのではありません。彼は、自分の行く末、すなわち、人生の終わりを、主なる神に教えていただき、主なる神と主なる神がダビデを扱われることに心より従いたいと願っているのです。
なぜならダビデの生涯は、主なる神より「与えられた生涯」だからです。たしかに「わずかに、手の幅ほど」の短い生涯でしょうが、ダビデには貴い生涯です。
人とその生涯は、はかないのです。ダビデは、知っているのです。主なる神が人間を神の息を吹きかけて造られたことを。さらに最初の人間アダムが罪を犯し、人はその罪と咎により死ぬものとなったことを。
ですから、ダビデは知っています。主なる神の御前にすべての人とその生涯が無に等しいと。すべての人とその生涯は息のように消えゆくものであると。
ダビデは、次のように日々を忙しく生きているわたしたちを批判します。あなたは、自分の命を削るほど忙しく働いて、「だれの手に渡るとも知らずに積み上げる」かと。「人は空しくあくせくする」とは、わたしたちの労働のむなしさを述べています。自分は価値があることをしている、家族のために働いているとうぬぼれてみても、その人がこの世から消えると、その人が行ってきたことも残したものも共にこの世から消えてゆくのです。ダビデは、次のように言います。人はだれでもはかない存在であり、自分が忙しく働くことの意味すら知らないと。
次にダビデの第2の祈りを見てみましょう。ダビデは、人とその生涯のはかなさを知りました。では、いま、その空しい自分に希望があるならば、それは主なる神であると、ダビデは祈ります。
8節を、70人訳旧約聖書は、次のように訳しています。「そして、いま、わが期待は何ですか。主ではありませんか。わが存在はあなたにかかっています。」
ウェストミンスター小教理問答の問1と答に「人生の主な目的は何ですか。」「人生の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことであります。」とあります。
生きている今、ダビデは、人とその生涯の空しさを知りました。希望は人とこの世にない事を知りました。では、どこにあるのか。主にのみ希望があると、ダビデは告白します。
ダビデが主なる神を待ち望むのは、「あなたに背いたすべての罪からわたしを救い」という願いのためです。なぜなら、ダビデは知っています。ダビデの重病は、彼が主なる神に背いたすべての罪のためであると。それゆえにダビデは、主なる神に罪からの救いと病気の回復を祈るのです。9節でダビデは、主なる神に罪からの救いを祈り、11節で病気の回復を祈ります。
罪からの救いと病気の回復を祈りますダビデは、まず今不信仰を断ち切りたいと願っています。それが罪の赦しと病気の回復を妨げていると、ダビデは思うからです。具体的には、神を知らぬ者との交わりを断つことです。彼らの仲間であると言われないようにしてくださいと祈っています。そして、ダビデは、すべてを主なる神に委ねています(10節)。
続いてダビデは、主なる神に病気の回復を祈ります。彼は、重病であります。彼が重病で、今健康を望みえないのは、主なる神が彼の罪を責め、懲らしめ、彼らの体を撃たれているからです(11-12節)。「人の欲望」とは、人の慕い求めるもののことです。健康のことでしょう。人は誰でも健康を求めています。神が人の体を撃たれると、人の健康ははかなく壊されます。
ダビデは、「コヘレトの言葉」の作者のように「ああ、人は皆、空しい」と歌います。人とその生涯は、ダビデには頼ることのできないはなかいものであります。
最後のダビデの祈りです。ダビデは祈りの定まった型で祈ります。「主よ、わたしの祈りを聞き 助け求める叫びに耳を傾けてください。」(12節)。この祈りは、嘆きの詩編の冒頭に置かれる祈りの常套句です。
ダビデは、主なる神が彼の祈りに答えてくださることを願い求めています。ダビデは、毎日毎晩涙を流し、主なる神に罪の赦しと体の回復を祈り続けていたのではないでしょうか。ダビデの「わたしの涙」は、彼の祈りでしょう。ダビデは、主なる神に「沈黙しないで、わたしの涙の祈りに応えてください」と訴えているのです。
ダビデは「わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人」と告白しています。「身を寄せる者」とは、「寄留者」のことです。法的保護を必要としている「よそ者」のことです。たとえばモーセ律法は、イスラエルの民がエジプトの国で寄留者であったので、寄留者たちを虐待しないように保護しています(出エジプト記22:20)。
ダビデは、自分は主なる神の保護が必要であるはかない者であると告白しているのです。「宿り人」とは、居留者のことです。レビ記25章23節に、主なる神がモーセをとおして次のように語られています。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない。」宿り人も、寄留者同様に神の律法によって保護を必要とする滞在者であります。
ダビデは、主なる神に「あなたの目をわたしからそらせ 立ち直らせてください」と祈ります。これ以上わたしを苦しめないでくださいと、祈っているのです。ダビデは、主なる神がダビデの罪に目を留められず、彼の罪をお赦しくださいと祈りました。
「立ち直らせてください」は、ヨブの祈りに似ています。ヨブも主なる神から苦難を受けました。彼は、体中を主なる神に撃たれました。ヨブもダビデと同じように人とその生涯のむなしさを嘆き、次のように告白しています。「嘆きを忘れよう この有様を離れて立ち直りたいと言っても」(ヨブ記9:27)。「立ち直りたい」とヨブも苦しみの中で叫んでいます。ヨブは、主なる神に罪を赦されて、「ほがらかになれるように」と願っているのです。
ある詩編註解者は、「立ち直らせてください」を、「わたしは輝きたいのです」と訳しています。わたしがこの世を、この地上を去る前に、「わたしは輝きたいのです」。
ダビデは、この詩編39篇を通して、次のように祈り願っているのです。「わたしは、主なる神に罪を責められ、懲らしめられて重い病気になりました。人とその生涯のはかなさをよく知っています。わたしの望みは主なる神のみです。どうか主よ、わたしの祈りに応えて、わたしの罪を赦し、わたしに健康を回復してください。どうか主の御前に輝きのある人生を生かしてください。」
ダビデの祈りを、主なる神はお聞き届けられたのでしょうか。明るい顔と心で、ダビデは、その後人生を生きることができたのでしょうか。
ダビデが待ち望みました主なる神は、人である主イエス・キリストとしてこの世に来てくださいました。主イエスは、ダビデが祈り願いました人の罪の赦しと体の回復と神の御前に輝かしい人生を生きることを実現してくださいました。
主イエスは、罪なきお方です。神の御子です。そのお方がダビデとわたしたちの罪を赦すために、身代わりとなられました。十字架の上で主イエスは神より罪を責められ、懲らしめられました。主イエスはダビデのように口を開かず、死に至るまで父なる神に従順に従われました。
主イエス・キリストによってダビデとわたしたちは、神より罪の赦しを得ました。十字架に死なれた主イエス・キリストは、復活されました。それによって罪に死に朽ちるわたしたちの体が、キリストと同じ復活の体を得るのです。そして、わたしたちは、これからは自分のために生きるのではなく、神のために生きる輝かしい永遠の命を約束されています。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、詩編39篇を通して、ダビデの3つの祈りを学びました。ダビデ同様にわたしたちも、主イエス・キリストの十字架と復活の御業のゆえに罪の赦しと永遠の命と神のために生きる輝かしい生を約束されていることを感謝します。ダビデが告白するように今わたしたちは、はかない存在です。自分と人に絶望しています。しかし、ダビデと同じようにわたしたちも再臨の主イエス・キリストを待ち望むことができるようにしてください。わたしたちがダビデと共に神の御国において輝いた命を生きる喜びを心に留めて、年末年始を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教040 主の2014年1月26日
指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。 指揮者による ダビデの賛歌
主にのみ、わたしは望みをおいていた。 わたしは切に主を待ち望んだ。
主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。彼はわたしに身を乗り出し、叫びを聞いた。
滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしを滅びの穴、泥沼の泥から引き上げ
わたしの足を岩の上に立たせ わたしの両足を岩の上に立たせて、
しっかりと歩ませ わたしの歩みを確かにされた。
わたしの口に新しい歌を 彼はわたしの口に新しい歌を
わたしたちの神への賛美を授けてくださった。 われらの神への賛美を授けられた。
人はこぞって主を仰ぎ見 多くの人はこれを見て、
主を畏れ敬い、主に依り頼む。 畏れ、主に依り頼んだ。
いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。 幸いだ、主にその信頼を置いている人。
ラハブを信ずる者にくみせず 彼は異教の偶像や
嘆きの教えに従わない人は。 偽りの神像に頼らない。
わたしの神、主よ あなたは多くの事をなした、わが神、主よ。不思議な御業と
あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。 配慮の数々を、わたしたちのために。
あなたに並ぶ者はありません。 あなたに比べるものがない。
わたしたちに対する数知れない御計らいを わたしは告げよう。またわたしは語ろう。
わたしは語り伝えて行きます。 それらは夥しくて数え切れません。
あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 犠牲と供え物を、あなたは喜ばない。
焼き尽くす供え物も 燔祭と
罪の代償の供え物も求めず 罪祭を、あなたは求めない。
ただ、わたしの耳を開いてくださいました。 耳を、あなたはわたしのために掘った。
そこでわたしは申します。 そのとき、わたしは言いました。
御覧ください、わたしは来ております。 見よ、わたしは来ました。
わたしのことは 書の巻物の中に
巻物に記されております。 わたしのために記されています。
わたしの神よ、御旨を行うことをわたしに望み あなたの意志を行うことを、わが神よ、
あなたの教えを胸に刻み わたしは喜びとします。あなたの律法がわが内にあります。
大いなる集会で正しく良い知らせを伝え わたしは大会衆の中で義を伝えました。
決して唇を閉じません。 見よ、わが唇を、わたしは閉ざさなかった。
主よ、あなたはそれをご存知です。 主よ、あなたは御存知です。
恵みの御業を心に秘めておくことなく あなたの義を、わたしは心に覆い隠さなかった。
大いなる集会であなたの真実と救いを語り あなたの真実と救いを、わたしは言いました。
慈しみとまことを隠さずに語りました。 大会衆にあなたの慈しみと真実を隠さなかった。
主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく 主よ、あなたもわたしから憐れみを閉ざ
慈しみとまことによって されませんように。あなたの慈しみと真実が
いつもわたしをお守りください。 常にわたしを守るでしょう。
悪はわたしにからみつき、数えきれません。 なぜなら、数え切れないまでの悪がわたし
わたしは自分の罪に捕らえられ を囲んだ。わたしの咎はわたしに追いつき
何も見えなくなりました。 それでわたしは、見ることもできなくなりました。
その数は髪の毛よりも多く わが頭の髪の毛よりも、夥しく
わたしは心挫けています。 また、わが心さえも、わたしを見捨てました。
主よ、走り寄ってわたしを救ってください。 どうか、主よ、わたしを救い出したまえ。
主よ、急いでわたしを助けてください。 主よ、わが助けのために急ぎたまえ。
わたしの命を奪おうとねらっている者が わが魂を求めて、滅ぼそうとする者たちが
恥を受け、嘲られ こぞって恥じ入るように、また辱められるように。
わたしを災いに遭わせようと望む者が わたしの災いを楽しみにする者たちは
侮られて退き 後方に退き、辱められるように。
わたしに向かってはやし立てる者が わたしに「あはは、あはは」と言う者たちは
恥を受けて破滅しますように。 彼らの恥の結末のゆえに、おののくがよい。
あなたを尋ね求める人が すべてあなたを求める者たちは
あなたによって喜び祝い、楽しみ あなたにあって喜び、また楽しみ
御救いを愛する人が あなたの御救いを愛する者たちが
主をあがめよといつも歌いますように。 常に「主は偉大なれ」と言うように。
主よ、わたしは貧しく身を屈めています。 だがわたしは貧しく、極貧の者。
わたしのためにお計らいください。 主はわたしのことを配慮される。
あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。 あなたは、わが助け、わたしを救い出す方。
わたしの神よ、速やかに来てください。 わが神よ、遅れ給うな。
詩編第40篇1-18節
説教題:「主なる神を信頼する者の幸い」
今朝は、詩編第40篇1-18節の御言葉を学びましょう。
ダビデは、今多くの苦しみがあります。非常に苦しい立場に置かれています。速やかに主なる神が彼を救ってくださるように祈っています。
ダビデの祈りを通して、今朝は「主なる神を信頼する者の幸い」を学びたいと思っています。
ダビデは、2-12節で主なる神の御救いを感謝し賛美します。そして、彼は13-18節で主なる神に彼の嘆きを訴えて、救いを求める祈りをしています。
14-18節は、ほとんど詩編70篇2-6節と同じであります。
さて、今ダビデの命は風前の灯です。
ダビデは、主なる神に今すぐ助けてくださいと訴えています。「走り寄って」、「急いで」、そして最後に「わたしの神よ、速やかに来てください」と。
この詩編は、神の民、そして、わたしたちキリスト者の生を、この世におけるダビデとわたしたちの信仰生活の体験そのものを歌っているのではないでしょうか。
昔、イスラエルの民は、エジプトで奴隷生活をしていました。主なる神は、身を乗り出して民の絶望の嘆きの叫びを、聞き届けてくださいました(出エジプト記2:25)。
そして、主なる神は、イスラエルの民を「滅びの穴、泥沼」から救い出してくださり、御自身がくだられたシナイ山に彼らを固く立たせてくださいました(出エジプト記19:1)。
そこで主なる神はモーセを通してイスラエルの民たちと契約を結ばれました。そして、主なる神は、シナイ山で彼らに十戒の板を与えられました(出エジプト記20:1-21)。
主なる神の不思議な御業によって紅海の海を渡りましたイスラエルの民は、彼らの口に主なる神の救いの御業を称える新しい歌を授けられました(出エジプト記15:1-21)。
こうして神の民イスラエルは、約束の地カナンを目指して、40年間荒野の旅を続けました(出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)。
そこで神の民イスラエルが信仰体験したことは、「人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主を依り頼む。いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。」であります。
イスラエルの民は、かたくなな民でした。「ラハブ」すなわち、異教の神々に心を寄せて、罪を犯し、主なる神の裁きを受けました(民数記25:1-18)。
「嘆きの教え」すなわち、偽りの偶像である金の子牛を作って、主なる神の十戒を破りました。そして主なる神の裁きを受けました(出エジプト記32:1-35)。
ある時は、主なる神に不満を呟きました。主は天から炎の蛇を民たちに送られました。モーセがイスラエルの民たちのためにとりなしの祈りをしました。主なる神は、「炎の蛇を作り、旗竿の先に掲げよ。蛇に噛まれた者は、それを見て命を得る」と言われました。民たちはこぞってそれを仰いで、救われました(民数記21:4-9)。
主なる神は、イスラエルの民をエジプトからカナンの地に導き、そして彼らをカナンの地に定着させるまで多くの不思議な御業をなされました(ヨシュア記、士師記)。
それによってただ一つの真理を、イスラエルの民に示されました。それは、十戒の第1戒です。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(申命記5:7)。
「あなたに並ぶものはありません」という真理であります。世に神々と呼ばれるものがありますが、主なる神は比類なきお方であります。
主なる神に救われた神の民イスラエルの務めは、主なる神が数え切れないほどイスラエルの民を配慮されたことを、「わたしは語り伝えていきます」ということであります。
ダビデは、次のように教えています。主なる神は、民が犠牲をささげることよりも、彼らが神の御心に服従し、神の恵みの御業を伝えることを喜ばれていると。
そのために主なる神は、イスラエルの民の耳を開かれ、ダビデの耳を開かれました。主の御言葉を聞く耳を与えて、ダビデと神の民イスラエルが主に服従できるようにしてくださったのです。
それゆえにダビデは、エルサレムの神の幕屋に礼拝に来ました時、次のことを喜びました。巻物の書である律法に記されている「わたしのこと」を、主なる神が「御旨を行うことをわたしの望み」として彼の心の内に刻まれ、彼が主なる神に服従して生きることができるようにされたことです。
ダビデは、この詩編の前半の最後に主なる神の救いに対する神の民のまことの感謝は、心から主なる神に服従し、主なる神の愛と憐れみ、そして真実の救いを全会衆に証しすることであると教えています。
それゆえにダビデは、主なる神の忠実な証し人になると告白しています。そしてダビデは、主なる神が彼に憐れみを閉ざさないで、主なる神の変わらない愛とまことによって、ダビデをお守りくださり、主なる神に救われた者の務めである証しを続けさせてくださいと祈りました。
この詩編の後半は、話が一転します。過去から現在に移ります。
今ダビデは、「わたしは自分の罪に捕らえられ」ていますと告白しています。この罪は、咎のことであります。
人は、アダムの原罪の結果、生まれながらに腐敗しています。それゆえに「悪はわたしにからみつき、数え切れません」というダビデの悲惨な罪の状態があります。
また、自分の罪だけでなく、この世における苦難を、ダビデは避けられません。ダビデは、常に命を狙われています。
ダビデは、自分の罪に苦しみ、この世の悪と悪人の災いに苦しんでいます。それらの苦しみに、ダビデは気力を無くし、心挫けいています。
それゆえにダビデは、「主にのみ、わたしは望みをおいていた」のであります。神への信頼は、自分に絶望することからスタートします。
ダビデは、共に主を礼拝する人々を祝福します。「あなたを求める人」「御救いを愛する人」が主にあって喜び、楽しみ、「主に栄光あれ」といつも賛美するようにと。
そしてダビデは、「主よ、わたしは貧しく身を屈めています」と告白します。「わたしは苦しむ者、貧しい者です」と告白しているのです。
ダビデは虐げられ、苦境の中にあります。
その中でダビデは、主なる神にわたしのために配慮してくださいと祈ります。主なる神だけが、ダビデの助け、逃れ場であるからです。
主なる神は、ダビデにとって「わたしの神」であります。ですからダビデは主なる神を信頼して、「わたしを救うことを遅らせないでください」と祈るのであります。
詩編40篇は、キリスト教会ではキリストの受苦日、すなわち、キリストが十字架で死なれた金曜日に朗読されました。
その理由は、新約聖書のヘブライ人への手紙第10章5-14節の御言葉にあります。ヘブライ人への手紙の記者は、キリストの御言葉として詩編40篇7-9節の御言葉を引用しています。この世に来られたキリストが、この御言葉を語られましたと。
ヘブライ人への手紙の記者は、キリストの言葉を次のように理解しました。キリストは御自身の生と十字架の死に言及し、それが、神の御旨への完全な服従であることをお示しになられたと。
ヘブライ人への手紙の記者は、キリストの言葉を次のように解説します。キリストは、御自身が罪のための唯一の犠牲となられ、そして聖なる者たちを、旧約の神の民たちとわたしたちキリスト者たちを永遠に罪より救い、汚れなき完全な者に、神の民にしてくだしました。
ダビデも、わたしたちキリスト者も、この世に生きる限り、キリストを待ち望み、キリストに信頼し、現在のこの世における自分の罪と苦しみからの救いを求めて祈り続けなければなりません。
しかし、ダビデが賛美しますように、主なる神を信頼する者は幸いであります。キリストに望みをおくことができるからです。
十字架の道を歩まれたキリストは、サマリアに立ち寄られた時に、ヤコブの井戸で一人の婦人に出会われました。彼女は、主イエスと対話する中で、主イエスが救い主であることを受け入れ、サマリアの町の人々に「この方がメシアかもしれません。」と知らせました。
食物を持ち帰って来た弟子たちは、主イエスに食事を勧めました。その時に主イエスは、弟子たちに「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハネ4:34)と言われました。
わたしたちのために、キリストがただ一度御自身を罪に対するいけにえとして十字架の上にささげて、神の御心を行われ、わたしたちの御救いを成し遂げてくださいました。
このキリストの十字架のゆえに、ダビデの祈り、そしてわたしたちキリスト者の祈り、「罪を赦したまえ」「悪より救い出したまえ」という祈りは、必ず希望のうちに実現されます。
ダビデとわたしたちが切に待ち望んでいます御国が到来し、永遠の命の喜びに入れられるでしょう。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、詩編40篇を通して、ダビデの祈りを学びました。ダビデ同様にわたしたちも、主イエス・キリストを信頼する者の幸いに生かしてください。キリストが父なる神の御旨を行われ、十字架に死に、わたしたちの罪を贖ってくださり、感謝します。ダビデ同様にわたしたちも罪を赦された罪人です。この世を生きる限り、自分の罪とこの世の悪に苦しんでいます。どうかダビデと同じようにわたしたちも再臨の主イエス・キリストの救いを待ち望むことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。