24/8/4村手

    「確かなもの」ルカによる福音書1章14

序 

 足立正範牧師が辞職され引退を迎えます。8月から無牧となります。一つの大きな転換期となりますので、皆さんと一緒に聖書をもう一度改めて読んでいく機会として福音書を選びました。世俗化し宗教離れが進む現代においてキリスト教だけでなくどんな宗教も求められず失われつつある現代です。しかし私たちは御子イエス・キリストにおいて救われ希望をもつ者です。世の中がどのような動向にあろうと与えられた信仰を守り、地上の人生をキリストの証人(あかしびと)として全うしたいと願います。何よりも私たちの教会は信仰と生活の唯一の基準としての聖書を重んじ、神のみ言葉に聞くことを信仰の糧としてきました。この現代の中で神様から招かれている信仰の道を全うするためにはやはりみ言葉を唯一の頼みとして求めたいのです。

 福音書は新約聖書に4つほどございます。聖書が社会で一般的に知られていた少し前の時代においてはヨハネ福音書が信者未信者を含めて人気でした。そのヨハネ福音書の20章最後に31節「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と福音書の目的を記しています。さらにちゃんと前半後半と内容が分かれていて前半ではイエスによる「多くのしるし」を、後半では教えをまとめています。マルコ福音書は巻頭に「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書物のテーマを掲げています。マタイ福音書は巻末のイエス様による弟子派遣の言葉(一般に大宣教命令と呼ばれていますが)で御子の権能と弟子にせよという命令、世の終わりまであなたがたと共にいるという約束で閉じられていますが、これが巻頭の記事と対応していて、イエス誕生においてインマヌエル(神は我々と共におられる)という記事、洗礼者ヨハネによるイエスの紹介「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」というメシアの権威、更にはご自身が洗礼を受け、ペトロを初めとする弟子づくりなど、巻頭と巻末がサンドイッチのように対応し、そのちょうど真ん中16章ではペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」という有名な信仰告白が収められています。それぞれの福音書にちゃんとした目的とその対象者というものが想定されているのです。

ルカ福音書も同様で今朝の聖書箇所がそれを明確に語っているわけです。この点を今朝は皆さんと一緒にきちんと神の言葉として聞きたいと思いました。

 

、「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。」12

 私たちの教派では創立30周年の時に「聖書について」の宣言を出して聖書が神の言葉とは言ってもそれをどのように理解し読むべきかを明確に表明しました。その中の一節に「聖書を解釈するにあたっては、その文章が書かれた時の歴史的状況と文学様式に考慮を払い、文献的歴史的理解をもって近づかなければならない。」とあります。この文献という点で新約聖書には手紙という文学が多く収録されています。もう一つ代表的なものに福音書があります。文学的には手紙が知られていますが福音書については新約聖書だけがオリジナルなものです。ですからこの福音書という書物を神様がお用いになって伝えようとするメッセージは4つの福音書から理解できる文学的な手法を理解することと、「福音」という内容、つまりそれにあずかりそれを福音として伝える働き人や著者の意図をくみ取ることなしには正しくメッセージに触れることはできません。四福音書の中でルカは文学的には長けていて福音のメッセージをテーマごとに整理して編集されています。今朝の目的を記すみ言葉から三点を覚えておきたいと思います。最初にこの書物に記される話は「わたしたちの間で実現した事柄」です。「実現」と訳された言葉は正確には「成就」です。成就というのは事前に約束されたことがあってその約束の言葉どおりになったことを表現します。突然わけもわからず知りもしないことが実現したのではありません。ちゃんと予告されていてその予告通りになったので「成就した」と言っているのです。それも「わたしたちの間で」です。天上の世界や目には見えない霊界、魂といった心の中のことではありません。地上の私たちの人生まさに今生きている日常の世界の中、すなわち「わたしたちの間で」成就したことです。二つ目に、百聞は一見にしかず、伝達されるメッセージに聞くよりも目で見たいものだと言うかも知れません。神様はきちんと証人を用意して「目撃」させてきました。それも途中からではありません。成就の「最初から」です。偏見や思い込みなどを排して理解するなら「順序正しく」理解できるように成就してくださいました。そして最後に「伝えたとおりに、物語を書き連ねようと多くの人々が既に手を着けています。」福音書という書物にするあたって新しいメッセージを創作したのではありません。目撃証言者たちが福音としてのメッセージを語り聞かせて伝道をしました。それこそ福音書に出てくる使徒や弟子達、パウロといった伝道者たちはこうしたお話やそれが伝える神の国のテーマをきちんと認識していました。その最初の彼らが「伝えたとおりに」福音書を編集したのです。福音書になったらメッセージが追加されたのでも、伝道者使徒たちが伝えていた口頭でのメッセージを減らしたのでもありません。福音書に掲載されている個別の物語はきちんと福音の構成と様々なテーマを漏れることなく且つ過分に重複することもなく「伝えたとおり」に「書き連ね」られているのです!

 

2、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。」34 

 このことは”福音”だけではなくてその福音の主人公であるところのイエス・キリストについても同様です。ハイデルベルグ問18仲保者はいったいどなた-主イエス・キリストです。を受けて問19「あなたはそのことを何によって知るのですか-聖なる福音によってです。」 父なる神様は私たちを罪から救い神の国の永遠の命を授けるためにメシア(キリスト)をお遣わしになりました。イエス様の受肉と誕生、メシアとしての業、神の国の教え、そしてご自身の命をもっての十字架の贖い、父による復活の命による勝利、これらの救いの成就を神様は御子イエスによって成し遂げられました。私たちは福音書で証言され、教えられているようにイエス・キリストを理解します。イエス様が神の民イスラエルのところに遣わされながらもキリストとして受け入れられなかったのは「伝えれたとおりに」すなわち”聖書に約束されたとおりに”メシアを理解していたのではなく本人たちの勝手な期待にしたがって理解しようとしたからです。つまり期待はずれだったのです。私たち新約時代のキリスト教会は一度来たりたもうメシアを信じることができなかったことを悔い改めて福音書で証しされるところのイエス・キリストを信じようとしてきました。わたしはこの点を皆さんにきちんとお伝えしたいと思っています。私もまたイエス・キリストによって救われ、キリスト教信仰をもって歩んできました。牧師伝道者としてみ言葉に仕えて、み言葉を“説き明かす”という働きに従事してきました。今この歳になって思いますのは、聖書の言葉の深さや豊かさ、その力強さです。イエス様のことなら十分に知っていると思っておられるなら、それはチョット軽率です。パウロはフィリピ書の手紙の中で「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」378と語っています。福音書のみ言葉を通してイエス・キリストを知れば知るほど、まだまだ知らないんだ、この方のことをどれほどもわかっていなかったと思わされるものです。聖書をキリスト教の教理、宗教知識の教科書として読んではいけません。確かに教理も知識も与えてくれますが、聖書は生ける神のみ言葉であって、その生きた言葉をもってイエスのことが伝えられるので、人は信じ、パウロは「知ることのあまりのすばらしさ」と語ったのです。御子イエス様はいつも共にいてくださいますが、それは何よりも福音書のみ言葉において、また聖書の言葉において明らかにされる信仰の秘儀です。

最後にもう一つ覚えておきたいことがあります。福音書は「お受けになった教えが確実なもの」と断言しています。現代の中に「確か」と言えるものがあるでしょうか?不安だらけの未来ではないでしょうか? 福音書には「確か」と言える教え、業、神御自身が証しされているのです。先を見通すことができないこの時代の中にあって本当の安らぎと平安は福音書にあるのです。この確かさをルカは「わたしもすべてのことを初めから詳しく調べています」そして「順序正しく書いて献呈するのがよい」それは「お受けになった教えが確実なものであることを、よくわかっていただきたい」からと記しています。勝手思い込んでいるのでも、信じたいと期待しているのでもありません。ちゃんと調べたのです。そしてそれが教えていること、私たちからすればその教えを受けて信ずべきことを、ちゃんと「順序正しく」記しているのです。ここでの「献呈」という言葉は身分の高い人に捧げる特別なものを意味するのではありません。印刷技術も製本技術もまだない時代の中でこの書物を献呈して“公(おおやけ)”にすることを意味しています。特定の人物しか読めない理解できないのではありません。どんな人であっても聞くことができ、神へ祈り願うことができる人なら誰もがそれに触れ、理解できるものなのです。世の中は世俗化し、目に見えるところばかりを追いかけながら、でもどれもこれも不確かなものばかりの時代です。私たちは不確かな時代の中にあって、神様から受けたものがまことに「確実なもの」であるということを聖書から福音書から知ることができるのです。世俗化でもあるいは自分勝手な期待でもなくて、神様があなたに与えようとしてくださるものをちゃんと受けたいと思うのです。

 なる神様、暗黒の時代の中にあってどうか福音書を通して確かな光と希望を仰ぐことできるるように私たちを導いてください。

 

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

 

2024/9/22 村手 淳

  「自分の父の家」ルカによる福音書24152

序 

 4つの福音書はそれぞれに想定している相手(読者/信仰者)がいて、その想定のもとに「神の子イエス・キリストの福音」マルコ1:1を編集しています。たとえばヨハネは前半にイエスによる業、後半に教えがまとめられています。マタイ福音書はユダヤ人改宗者です。それでマタイでは系図などが最初に掲載されたり、旧約引用が多用されています。ルカ福音書は異邦人向けに福音を提示したものだと言われています。恩師榊原先生によれば大きく三つに内容を区分しています。①最初から950節までにイエス様がメシアであることとその職務(働き)をまとめ、②中ほどの951節~1944節にはメシアの教えを集め、そして③最後に1945節以降はイエス様の十字架と復活の出来事をまとめ、救いの完成を伝えようとしています。人として誕生してメシアの救いの業を始められ、その上で福音の中心となる神の国の教えを語り、そして最後にその教えがイエス様の十字架と復活で成就するという流れです。さらにこうした大きな流れの中にいくつかの段落が構成され、エリスという先生はこの段落が6つの話で1段落という構成をなしているような梗概を提示されました。難しい聖書研究のお話をしたいのではありません。ただ6つの話で一段落を構成する、その一つの段落ごとにテーマがあるのだということをお伝えしたいのです。このテーマがどのようなものであるかを考えながら福音書を読みますと、前後の話の関連やテーマごとのメッセージなどが浮き上がって見えてきます。私のメッセージでは丁寧に一つ一つのお話をとりあげませんが、むしろこのテーマがなんとなく見えるようにお伝えしていきたいと思います。

今朝の聖書箇所から430までが一つのテーマとなり、これまた6つの記事で構成されています。①今朝の神殿での自己証言「父の家にいるは当たり前」、②洗礼者ヨハネによるメシアの紹介と警告、③洗礼を受けた時の天からの声による証言、④系図による証言、⑤誘惑による証言、そして最後に⑥故郷ナザレでの証言です。テーマタイトルとして「メシア職への就任」となんだか難しそうなタイトルを付けられています。

 

、「すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるは当たり前だということを、知らなかったのですか。」」2:49

 一つの段落を構成しながらも6つのお話を比較すると、その前後関係のお話がどのようにつながっているのか理解しにくいお話の違いというものを覚えます。少年イエスのお話から成長していくのかと思えば成長過程は全くなく、洗礼者ヨハネの説教が記され洗礼を受けに来られるイエス様のお話が描かれると唐突に系図が掲載され、次には荒野に出て悪魔からの誘惑を受けます。そしてナザレに帰るも歓迎されないで終わるのです。故郷ナザレでのお話は「『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」とイエスが言っているように、すでにメシアとして業をカファルナウムで行っていて地方一帯に話題となっていることがわかります。つまり荒野での誘惑後の出来事ではないのです。つまり時間順ではなくてテーマについて教えるためのお話が並べられているのです。とくに“証言“とタイトルが付けられているように、イエスがメシアであるということを様々な出来事や観点で証ししたいのです。さらにこうしたお話の中でイエスが神の子であり、しかし人々からはヨセフの子と思われていたことが共通して語られています。神殿にいるのは当たり前、洗礼者ヨハネの紹介では「わたしよりも優れた方」であって「聖霊と火で洗礼をお授けになる」という預言者ならぬメシアなのです。洗礼をヨハネから受けると天が開け、聖霊が下って天来の父の声「わたしの愛する子」と紹介されます。系図では最初に「ヨセフの子と思われていた」と紹介しながら「神に至る」方であることが証言されます。悪魔からの誘惑では一貫して「神の子なら」という誘いを受け続けますが、終始一貫して聖書のみ言葉で誘惑を退けられます。お育ちになったナザレでの説教は「その口から出る恵み深い言葉に」皆驚いたのです。しかし「この人はヨセフの子ではないか」と見下されて「歓迎されない」のです。要求に答えようとしないイエスに皆が憤慨して外に追い出されたのです。神からの預言者は旧約の昔からその時代ごとに拒絶されてきました。イエスは預言者でも神の働き人でもなく、いにしえの昔から父なる神が約束してきた救い主メシア「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」なのです。そのことをまず最初に神殿での自己証言であるとか、洗礼者ヨハネの説教とか、天来の声、系図、悪魔の誘惑、旧約の御言葉(ナザレでの説教や拒絶)など様々な角度から紹介してメシアであることを証ししているのです。ここで注意しなければいけないことはメシアだと証言すれば誰もがすんなりと信じて歓迎するのではないということです。人が歓迎できるとすればそれは私たちが期待する自分の理想にかなったメシアであって、ここで紹介されるメシア証言はどれもこれも私たちの期待や理想とは違っていたこと、私たちが誤解していたことを記事で触れています。そもそも天使告知を受け、不思議な仕方で誕生したイエスの言葉をその母マリアでさえ理解しませんでした。洗礼者ヨハネは民衆のメシア待望に手厳しく「悔い改めよ」と言い放ちます。その悔い改めの洗礼を民衆が受けるのは当然ですが、あろうことに救い主メシアが受けます。しかし”だからこそ“天来の声で父は「わたしの心に適う」メシアだと証言するのです。系図ではヨセフの子と思われていたことを紹介しながらも”実は「神に至る」“のです。悪魔の誘惑では「神の子なら」という私たち人間も口にする中傷をしかし聖霊の力に満ちて退けられました。お育ちになったナザレではその口からでる恵み深い言葉に会衆が驚くのです。故郷の人は誇らしく迎えるかと思えば、それを察して業を拒絶したイエスに憤慨します。旧約の昔から民衆が預言者とその言葉に示してきたとおりの反応をここでも示したのです。

 今朝の神殿での少年イエスの自己証言はこうしたメシア待望への人の不信と誤りをよく理解した上で冒頭にあげてきたのではないでしょうか?少年と一般的に言われてきましたがユダヤでは13歳で成人を迎えます。前年の12歳はその準備として神殿巡礼に同行いたします。子供の時からというよりは、成人を迎えるその時にまさにイエスは神殿を自分の父の家と言い「わたしが(ここに)いるのは当たり前」という自分の使命と存在を明確に認識していました。その巡礼は過越祭であって自分の居場所としての神殿というより、その神殿で「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という36ヨハネ説教の成就、すなわち“過ぎ越しでささげられる神の子羊”として自己を認識されていたのだろうと思います。ここでも学者たちの真ん中に座っておられました。まだ幼く少年だからなどと侮ってはいけません。その最初からきちんと認識していたのです。認識しながらも家族に仕え、メシアとしての働きを開始するまでは大工仕事をして家族を支えてきたのです。

 

2、「わたしは、もはや怒りに燃えることなく、エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」ホセア11:9(旧約p416) 

 この時、母マリアでさえイエスの言葉の意味がわからないほどの父子関係をイエスは告白しました。ただ理解を超えてはいても天使告知の子でありましたからこのことを「心に納めていた」のです。母マリアにとって理解ができない不思議な子イエスであります。しかしその子は確かにわが子なのです。一緒に下って行きナザレに帰る、両親に仕えて暮らす、巡礼では「道連れの中にいる」、「親類や知人の間」にいると思って探し回ったのです。「慣習」や「毎年」の巡礼そして「旅」などずっと一緒に暮らしたのです。それは私たちがわが子わが家族と生きてきたのと同じです。宣教を始められた時「およそ30歳」までの18年間ずっと両親に仕え、父亡き後は大工仕事をして家族兄弟を支えました。この子は確かに私たちの家族の一員として地上の旅を共にした子です。

 この一連のメシア証言のタイトルを「メシア職への就任」と紹介しました。神様を自分の父と呼ぶ神の子がメシアとして遣わされました。ところが神の子だから当たり前のようにメシアなのではないのです。神の子であっても「神の救い」をもたらすメシアであるためには「就任」しなければいけないのです。それで自分を犠牲にして仕えたのです。自分をささげて過越しの羊となったのです。罪深い私たち「のうちにあって聖なる者」として一緒に暮らし、私たちの救い主メシアに自ら就いてくださったのです。そこに真実なメシアであるということの証明があったのです。

 

 なる神様、私たちが神の救いを仰ぎ見るために神の子イエスはご自分を捨てて何事においてもご自身をささげてくださいました。どうかその尊い犠牲を覚えて旅を続けることができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。                                                                     

 

 2024/10/20 村手 淳

   「誘惑との戦い」ルカによる福音書4113

序 神殿での少年イエスの自己証言から故郷ナザレでの拒絶までを「メシア職への就任」というテーマで6つの話が並べられています。イエス様は神の子でありますが、私たちが救いを仰ぎ見るためにメシアに就いてくださいました。“就く”といっても就職や身分を得ることと違って忍耐を必要とするものでした。エルサレム入場の時の民衆の称賛もなければ、メシアとして正しく理解されることもありません。メシアとして就くとはどういうことなのか、私たちはメシアになろうとされるイエス様をどのように迎えるべきなのか、このテーマについてもう一歩踏み込んで瞑想したいと思います。 

 神の介入によって地上の繰り返される人間の歴史にも「新しい」時代が始まります。その介入とはメシアの派遣のことを指し、驚くべきことに神の子が人として誕生することによって成就します。本人は人間として誕生し成長しますが、成人を迎える時にはすでに神殿を自分の父の家と言って自分が神の子であるという認識を明確にお持ちでした。しかし人間として生まれ育ったのですから当時の人にはその素性と使命は理解されず民衆には「ヨセフの子」と思われていたのです。母マリアもイエスの言葉の意味がわからず「これらのことをすべて心に納めていた」と記しています。洗礼者ヨハネの説教では「神の救い」をもたらすメシアであり、備えを説くヨハネでさえ「履物のひもを解く値打ちもない」ほどの「優れた方」であって火で焼き払われる審判者です。祈りに天が開け神ご自身が「わたしの愛する子」と語られました。聖書を通して約束されてきた神の言葉はまさにこの方のことを神の救いの成就する「主」と示してきたのです。しかし正体を知らず神の偉大さを理解できない私たちにはどう見ても「ヨセフの子」なのです。明確な自己認識をもちながらも成人してもメシアとして働くことはせず両親に18年間も仕えられました。メシアとして働き始めたのは「およそ30歳」になってからです。13歳で成人を迎える当時のユダヤでは30はもう十分歳をとっています。神の子にとって系図はありません。父と聖霊のみです。神の約束を嗣ぐ系図に自分の名を連ね、その約束を継いできた民の歴史と存在を担われたということではないでしょうか。慰めに満ちた神の約束の言葉も解き明かすのではなくて自分で読んで「実現した(成就した)」と言えば、ただそれだけで成就したのです。しかし遣わされる故郷は「ここでもしてくれ」と要求して信じようとしません。前回にもお話したとおり神の子であっても私たちのメシアになるにはこうした忍耐と苦悩に耐えなければいけなかったのです。そしてその忍耐はメシアとしての数年の働きだけのことではなく人として誕生し十字架で生涯を終える最後まで続いたのです。

 

「そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。』と書いてある。」」4:68

福音書がこうしたいくつかの話を並べてメシアに就こうとするイエスの話を改めて眺めると当時のメシア待望というものが神様の約束から大きくずれていたことを教えられます。「神の子なら」という言葉は悪魔の常套句であって十字架でも繰り返されました。悪魔の言葉なのか、私たちのメシア・イエスへの言葉なのか、どちらかわからないほど私たちも神に対して同じ言葉を使います。それの例が十字架についたイエスに議員たちが発した言葉です。「あざ笑って言った「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら自分を救うがよい」23:35。ですからこの悪魔の常套句は私たち自身のメシアへの疑いの言葉でもあるのです。悪魔の誘惑では最初に神の子の神通力を使ってパンを、二つ目に与えられるところの権力と繁栄を「わたしを拝むなら」「一瞬のうちに」手に入れることができるという方法を、そして最後には「神は/あなたをしっかり守らせる」「手であなたを支える」から「飛び降りてみよ」とあからさまな挑発をしました。パンが象徴する豊かさや権力や繁栄を象徴する経済、守りや支えを象徴する軍備による安全保障など、効率を重視する現代においては誰もが、そしてどの国でも飛びつきたくなるような誘い掛けではないでしょうか?

メシア就任というテーマの後、次のテーマが431から始まりますが、その冒頭のお話では汚れた悪霊がイエスの言葉の権威に騒ぎだし、「かまわないでくれ/正体はわかっている」と大声で叫びます。するとイエスは「黙れ。この人から出ていけ」と一喝のもと悪霊を追い出します。メシアの権威をもってすれば悪霊の誘惑など簡単に退けられるのです。誘惑だけではありません。悪霊そのものを追放できたのです。つまりこの荒野での悪魔からの誘惑は「悪魔から誘惑を“受けられた”」とあるように自ら進んで受けられたことによるものなのです。さらにこの記事の最後413「悪魔はあらゆる誘惑を終えて“時が来るまで”イエスを離れた」と閉じているように、十字架への道を選び取る直前のゲッセマネの祈りでは「誘惑に陥らぬように祈りなさい」と弟子に語り、自ら自身「苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた」のです。さらにメシアとしての受難復活の道を弟子に教え始めた時も「ペトロがイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。その時「イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」」マタイ1622~。身近な弟子の言葉にさえ悪魔からの誘惑の言葉を察知して戦っておられました。前述したとおり十字架上では議員たちから「神の子なら」という常套句で嘲りと挑発を受けたのです。少年のころから神殿こそ父の家であり自分の場所である自覚をお持ちでありながら、その場所を離れて家族ならざる兄弟を養うために大工の仕事をもって支えました。メシアとしての働きを始めた時には悪魔からの誘惑をお受けになりました。このテーマのどの箇所を瞑想しましても忍耐と苦悩を感じさせます。私たちは進学や就職などの経験を通してごく当然のこととして自分の賜物や適性に応じた道を進んできました。そしてその結果としてその道を受け取り、あるいは受け取らざるをえず歩んできました。しかしイエスにおいては違ったのではないでしょうか? 神の子なのです。最初から神殿を自らの家とし自ら溢れるほどの栄光をお持ちであって、権威も力をお持ちです。それを一切使わないということはどういうことだったのでしょうか?誰かの代わりを務めること、その代理において自分の能力も豊かさも力も一切使わないのです。私たちなら当然のごとく存分に発揮するところです。私たちを罪から救うメシアに就職するということ、その働きに“就く”とは神の子としてその賜物と力を存分に発揮するということではなくて、私たちの代わりにその義務を果たすべく御自身の一切の権能と賜物さらにはアイデンティティでさえ放棄すること、ただ神の前の一人の人間として誘惑とひたすらに戦い、父の御心に従い通すということを生涯にわたって果たすことを意味します。誘惑に答えず黙っていることもできたでしょう。しかし聖書の言葉をもって退けられました。その聖書の言葉はメシア預言の言葉ではなく普通の信仰者一般に向けた御言葉をもって戦い抜かれました。それもその御言葉を正しく解き明かすところの「聖霊に満ちて」退けたのです。(始まりの4:1と終わりの14に「満ちて」)誘惑は人が弱さを覚える空腹、権力と繁栄、神の守りといったことを柱にしていました。どれもこれも私たち人間の弱さを突く誘いです。イエス様は私たちのメシアに就いてくださいましたが、それは私たちに代わって父なる神様の前に立つ人の姿をとることによってなのです。家族に仕える姿も、悔い改めの洗礼を受けることも、約束の系図に身を置くことも、誘惑に打ち勝つことにおいても、そして聖書の言葉を信じることにおいてもです。神の子として特別な業をしたのではありません。私たちの代わりとなるメシアだから、私たちが神に対して果たすべき義務を私たちに代わって成し遂げてくださったのです。

神の子が人間の姿、人としてこの地上に誕生する、この驚きをヨハネ福音書は「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と証ししています。ヨハネ114 ルカ福音書はイエスの誕生を新時代の到来という形で降誕物語を記し、メシア職への就任というテーマで神殿での少年イエスや洗礼者ヨハネによる紹介と受洗、悪魔からの誘惑や故郷ナザレでの拒絶を記します。人間として誕生する受肉の驚きよりも、メシアとしてその働きにどのようにして就いてくださったのかをその戦いと忍耐で伝えたかったのではないでしょうか?“自分らしく生きること”現代でもよく語られる標語ですが、それを見失った私たちのためにイエスは、自らを放棄してメシアに就いてくださいました。その方を救い主と仰ぐことに私たちの本当の“らしさ”があるのではないでしょうか?  なる神様、この私をあなたへと立ち帰らせるためにイエス様が御言葉と父への信頼をもって歩んでくださいました。どうか主イエスをまっすぐに信じることができますように。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

 

              24/11/24村手 淳

    「神の国の福音」ルカによる福音書43144

序 福音書冒頭にある序文1:14の後に、これまで二つのテーマを紹介してきました。最初にクリスマスのオラトリオで有名なイエス誕生の物語では「メシア時代の夜明け」として繰り返される人間の歴史に「新しい」と言えるメシア時代の到来を見ました。二つ目に神殿でラビたちと討論される少年イエスのお話からは「メシア職への就任」というテーマです。神殿にいるのが当たり前のイエスが両親に仕えて暮らされたり、洗礼者ヨハネの説教で紹介されるメシアであったり、更にはその悔い改めの洗礼を受けたりして「神の子」でありながら、私たちの救いのために「メシア」に就任される忍耐と戦いをされたことが語られていました。今朝の4:31から950までは「ガリラヤ伝道・メシアのわざ」という大きな段落に入ります。その後の951以降では「わざ」ではなく「メシアの教え」が中心になります。前半の「メシアのわざ」が中心となる段落の中に更に4つのテーマでお話が並んでいます。①「メシアの権威」~6:11、②「使命の性質」6:12750、③「神の国の宣教」8章、そして④「メシアの使命の確証と拒絶」~950です。今朝の箇所は「メシアの権威」の最初のお話です。このお話から始まるテーマ全体6つの話の流れを見ると、「安息日には人々を教えておられた」で始まり、6つ目の最後に「安息日の主である」と宣言し、6:6で「安息日にイエスは会堂に入って教えておられた」とまとめています。この枠組みから「メシアの権威」は安息日と呼ばれる礼拝を中心に描かれていると言えます。ですから6つのお話を見てみるとイエスが教える(説教する)ことや律法との関係などが扱われているのに気が付きます。「清めの献げもの」「断食」「安息日に病気を」など。そしてお話に共通するつながりを見ていくとメッセージが浮かび上がってきます。すなわち「メシアの権威」とは“神の国の福音”に現れます。この福音において大漁の救いが成就します。その救いは人を罪の汚れから清め、メシアの権威によって罪赦されるのです。だからメシアは「罪びとを招いて悔い改めされる」ためであって、メシアによって悔い改めた者たちは新しい生命力をもって新しい生き方をします。まさに神様が「安息日」で約束してきた真実な安息が主メシアによって成就するのです。「人の子は安息日の主」だからです。

 

、「人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」4:36

 こうしたメシアの権威についてメッセージが「言葉」や律法の安息日いわゆる「礼拝」と結びついていることを私たちは最初に覚えておきたいと思います。「権威」というものを皆さんはどのように理解し、また現代社会や私たちの日常生活、人生においてどのような影響があるでしょうか? 組織や人などに権威があったりするのですが、ニュースで報道されるのはどちらかというと間違った「権威」が多いように思われます。批判できなかったり正すことができなかったりなど。どちらかというと権威とは“横暴”と思われることが多い現代ではないでしょうか? 辞書では「他人を威圧して自分に従わせる威力」「万人が認めて従わなければならないような価値の力」とあります。それで最初にわかることは、イエスのメシアとしての権威はこうした横暴や威圧して従わされてきた力から人を解き放つことに現れるということです。悪霊に取りつかれた男から霊を追い出したり、熱病に苦しんでいたしゅうとを癒したり、さらには当時死を意味した皮膚病を清めたりしたのです。それで4つめのお話では中風を患っている人の癒しの業から「罪赦された」「起きて歩け」という権威を示します。続く徴税人レビを弟子にする話ではこうした権威は「病人」に「医者が必要」すなわち「罪びと招いて悔い改めさせるため」のものだと解説され、「花婿と一緒にいる」ことの「喜び」こそが「新しい服」と表現される人生スタイルになるのです。最後の6つ目のお話では「安息日にしてはならないことを、なぜあなたちはするのか」というファリサイ派からの詰問に「人の子は安息日の主」であって「聖書を読んだことがないのか」「祭司」同様に「取って食べ/与えたではないか」と厳しくたしなめます。これを証明するために「右手が萎えていた」人を真ん中に立たせて「安息日に許されているのは、/命を救うことか、滅ぼすことか」とさえ問い、その場で「手を伸ばしなさい」と言って「元どおりに」癒されます。律法からも解放され、その律法が定める「安息日」が約束してきた安息と誰がそれを成就するのかをお示しになったわけです。こうしてここに並べられているお話から「メシアの権威」というものが、いかに私たち人間の社会で振るわれる権威とは違ったものであるかが明瞭となります。権威とはもともと神がそれをお与えになるものであって、与えられた意図をきちんと果たせば与えた方の栄光を現わしますが、堕落した地上世界では権力や名誉欲などを誇示するために使われるので、権威というとあまり良いイメージがありません。本来の権威とはイエス様の業に現れるような救いの力なのでしょう。

 今朝のお話では礼拝で教えられるイエス様に人々が「非常に驚いた」とあります。なぜなら「その言葉には権威があったから」なのです。その具体例として「悪霊に取りつかれた男」と「高い熱に苦しんでいた」シモンのしゅうとの癒しが描かれています。この権威、実は人々よりももっとはっきりと認識したのは「汚れた悪霊」でした。イエスという「権威」者は「神の聖者」だからです。何よりも驚きをもって描かれるのはその権威者イエスの「言葉」による権威です。悪霊追放は当時の社会でも見られたようですが、それが魔術や呪文ではなく「黙れ。この人から出ていけ」との一喝でなされたのです。病気についても同様でしゅうとの癒しのあと、そのうわさで「いろいろは病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れてきた」。この時「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」のです。しかし最初のしゅうとのいやしは「枕もとに立って熱を叱りつけ」ただけで熱は去り彼女は立ち上がりました。まさにイエスは父なる神様から遣わされたメシア、権威者でした。その言葉には父なる神の権威と力がありました。前述したように驚くべきはその権威と力が人を闇の力から解放し立ち上がらせることにあることです。礼拝で朗読される神の言葉「律法」では人は「罪」という病気や悪霊の支配を理解します。しかし朗読される神の言葉は同時に悔い改めの招きでもあり救いの約束でもあります。イエスの言葉はまさに父なる神様が伝えたかった福音であったのです。

 

2、「しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らさなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」」4:43

 そこで最後にこの冒頭のお話の流れと結論に目をむけておきたいのです。「言葉に権威があった」と驚きの理由を説明して、その解説として悪霊追放と熱病いやしを並べます。この言葉の権威は「一人一人に手を置いていやされた」とあるように、誰に対しても更には一人として漏らすことなく施されるものなのです。逆に従わせてきた悪霊は「わめき立て」ますが、イエスは「もの言うことをお許しにならなかった」。現代はネット上での「わめき立て」がまるで真実かのように横行していますが、このお話と指して違いはないのではないでしょうか? さらに群衆は「イエスを捜し回って」「自分たちから離れて行かないように」と「しきりに引き止め」ました。「しかし」イエス様は「ユダヤの諸会堂に行って宣教」されました。なぜか?それは「神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」からです。メシア派遣とその業は悪霊追放でも病気いやしでもなく福音宣教のためなのです。悪霊が「神の子だ」とわめき立てるのを許さず41、群衆の引き止め要請にも拘束されず42、神の国の福音宣教にこそメシア派遣の権威の目的があります。すなわち「福音」宣教こそメシアの業であり、その福音を宣教するイエスとその言葉に「メシアの権威」が示されるのです。メディアがわめき立ててきたのか?SNSで発信されるストーリーが真実なのか?その選挙の結果が真実なのか?私たち人間の世界では真実はわからず、証明も困難です。しかし、イエス・キリストという方による罪の赦しと救い、癒しの業は「一人一人に手を置いていやされた」ほどに確かなものなのです。「福音」は人を「癒し」「他の町にも/告げ知らされ」「罪赦し」人を「起き上が」らせます。そして徴税人だったものを「悔い改めさせる」のです。そして「安息日」が指し示してきた「命を救う」という神の約束を果たすのです。私たちが悲しみや病気の中にあっても「福音」に触れて立ち上がって神を仰ぐとき、そこにはメシア・イエスの業がなされているのです。

 父なる神様、様々な思いに囚われている私たちを解放し癒してくださる時にはいつもイエス様が福音をもって伝える業をしていてくださいます。どうか地上にあるかぎり「御国を来たらせたまえ」と願い続けることができますように。

 

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

 

24/12/15

      「安息の主」ルカによる福音書6111

序 福音書というものはイエスの伝記でも物語でもなく“福音”というものを伝えるために書かれた書物です。旧約聖書が必ず説きあかしという説教を伴ったように福音書も書かれた文書のみならずその説きあかしがなされて福音を伝えます。使徒言行録826節から記されているエルサレム巡礼をしたエチオピアの高官が帰郷する際に天使がフィリポを同伴させ、高官の問いに35節「フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについての福音を告げ知らせた」とあるようにです。私の奉仕では皆さんともう一度福音書を開いていきたいと思っていますが、個別のお話ではなく、いくつかの話に共通するテーマというものをご紹介して皆さん自身でもそのテーマを巡って福音書から瞑想していただきたいと思いました。431611までを榊原先生は梗概のテーマで「メシアの権威」という題をつけています。431「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである」36「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」と冒頭のお話でテーマに触れています。4つ目のお話“中風の人をいやす”では524「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」と言ってから病気を癒します。悪霊を追い出したり、熱病を癒したり、さらには重い皮膚病、中風の病などの癒しを見て、多くの人々が神を賛美し「恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った」526のですが、このイエスの権威にファリサイ派や律法学者たちは「つぶやき」530そして611の最後では「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」のです。彼ら自身が持ち、理解するところの権威からはとうてい認めることができないものでもありました。驚嘆するにせよ、怒りを買うにせよ、人々の反応はそれぞれのあってもやはりイエスの言葉には権威があったことを証明しています。

 

.「ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」」521

 メシアの権威はイエス様の教える言葉に現れ、それが現実的に悪霊を追放したり病気を癒したり、更には徴税人レビを弟子としてお召しになったりという業に成就します。とりわけ病気の癒しが多く描かれます。高い熱、いろいろな病気、重い皮膚病、中風、手の萎えた人などです。しかしこうした癒しを“奇跡”として描くのではなくてイエス様の言葉による“権威”として描くことに焦点があてられています。さらにこうした業をする際に言葉の力よりも、それを解説したり問いかけたりして読者にご自身の権威の“意味”を考えさせているのも特徴的です。最初の悪霊追放と病気の癒しではその最後にイエスの祈りによる父の御心を確認して結局この権威は「神の国の福音を告げ知らせなければならない」という目的のものであることを教えます。それに続くペトロへの大漁奇跡ではその福音が玄人のペトロでさえ驚くほどのテリトリーを持っていて、ペトロをして「人間をとる漁師」とし、多くの人を救い上げることが約束されます。重い皮膚病の癒しでは「清くなれ」(「治れ」ではなく)という宗教的な清さと汚れに関連する言葉を発します。病気そのものの汚れではなくて、ペトロが「罪深い者」と告白したように“罪を清める”ことができ、それを御心としているところの福音であり権威なのです。中風の癒しでは「あなたの罪は赦された」と言うのと「起きて歩け」と言うのとどちらが易しいかと問いかけて考えさせますが、結局はっきりと「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と語ってそれを証明されたのです。レビの召命に至っては「徴税人」であって律法学者たちから「なぜ徴税人や罪びとなどと一緒に飲んだり食べたりするのか」という問いかけを引き出しますが、ここでも「必要とする」のであって「罪びとを招いて悔い改めさせるため」と教えます。最後の安息日のお話では「安息日にしてはならないこと」という問いをきっかけに「人の子は安息日の主」であって「命を救うことか、滅ぼすことか」と問いかけて読者に迫ってきます。すなわち救いによる安息を与えるための「人の子」イエスとその権威なのです。病気の「癒し」ということよりも「罪の赦し」「救い」という観点でご自身の権威をお示しになっていきます。同時にこれはそのイエス様の権威に対して「非常に驚く」会衆、「神の言葉に聞こうとしてその周りに押し寄せてきた」群衆、「床に乗せて運んできてイエスの前に置こう」とする人々、「何もかも捨てて立ち上がり」従うレビといった人々を誕生させます。しかしその反対もあって中風の癒しでは「あなたの罪は許された」と言われたイエスの発言に「神を冒涜するこの男は何者だ」と考える学者たち、徴税人レビを召す行為に「なぜ徴税人や罪びとなどと一緒に飲んだり食べたりするのか」といった批判を生み出し、道すがらの麦を食べる行為をもって「安息日にしてはならないこと」という訴えを受けて「安息日に律法で許されているのは」どっち!という厳しい問いかけを彼らに投げかけて「彼らは怒り狂って何とかしようと話し合った」という反発を生み出します。こうした二つの流れは明らかに当時のユダヤ教信仰に対してのキリスト教信仰を弁証していると言えます。なかなか理解されない宗教的な罪、苦悩、孤独といったことに神の権威をもってイエス様は「福音と告げ知らせ」「手を差し伸べ」「信仰を見」「罪びとを招き」「命を救う」ことをされます。こうしたイエスの業に“畏れ”を覚えない者たちは「どちらが易しいか」と問われても答えられず「病人、罪びと」という意識がなくて「医者を必要と」せず「古いブドウ酒を飲めば新しいものを欲しがらない」。だから「安息日の律法で許されているのは」と問われても自身の主張が結局は「悪」「滅ぼすこと」になるということもわかりません。イエス様の言葉による権威と力を中風の癒しのお話でははっきりと「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」517と教えています。主の力というものをどのように見ようとするかが問われますが、信じなければ見えないと言ったほうがよいかもしれません。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言ったペトロのようにです。徒労に終わることの多い日々の生活の中にあって主の言葉、聖書の言葉だけは「主の」力を見せてくれるのです。

 

、「イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」」69

 そこで最後に私たち自身イエス様の問いかけに耳を傾けて自身を顧みておきたいと思います。キリスト教だから自分は安心と思うのではなくて「神の国の福音」というものに喜びを覚え「花婿」イエス・キリストという方と「一緒にいる」という希望を覚えたいのです。ユダヤ教信仰に対するキリスト教信仰の弁証と言いましたが、問題なのは何が「ユダヤ教信仰」なのかという点です。これは大雑把かもしれませんが、私たち自身福音の喜びとイエスという希望を忘れれば同じ誤りに陥るのではないでしょうか? お話によれば「訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか注目していた」7とあります。あるいは「古いぶどう酒を飲めばだれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」539とイエス様自身解説しておられます。古い飲み物を飲んで酔いしれてきた人生、或いは「安息日」ということよりも「訴える口実」ということを意識するならユダヤ教徒でなくともやはり同じことなのです。イエス様の問いかけはとても意味深です。「安息日に律法で許されている」ということ、更には「善か悪か」「命を救うことが、滅ぼすことか」。そもそも「安息日」とは何でしょうか。神様からの約束、福音としての「安息」を覚えてきたでしょうか。イエス様が言うには「善」をしなければ「悪」であり「命を救う」ことをしなければ「滅ぼすこと」になるのです。中間はありません。何もせずに安息日を守ってきたと誇っているのかもしれません。しかし何もしないのなら善も救いもないのです。イエス様自身こうした業をする中で何度も祈っておられます。悪霊追放と高熱癒しの後に442「朝になると人里離れた所へ出て行かれた」、重い皮膚病清めの時も516「人里離れた所に退いて祈っておられた」。神様からの安息が与えられるように、安息日だからこそ悪霊から解放され435、病を癒され440、起きて歩き524、招かれて「悔い改め」532、「安息の主」65に慰めと希望を覚える。どれもこれもイエス様の祈りによる結実なのです。そんな安息の主イエスに「すべてを捨ててイエスに従った」者になりたいと願います。礼拝と説かれる御言葉はそのようなイエスの祈りと権威ある言葉によって福音となり救いとなり喜びとなってきました。

 父なる神様、毎聖日ごとに私たち一人一人を招き、祈りをもって神の救いをお与えくださり感謝します。どうか少しでも福音の御言葉に触れることができますように。

 

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。