ヨハネによる福音書説教31    主の20161120

 

 この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」という者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいたベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。

 

 さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」彼らの中の一人で、以前イエスを尋ねたことのあるニコデモが言った。「われわれの律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」

 

               ヨハネによる福音書第74053

 

 

 

 説教題:「救い主はガリラヤからは出ない」

 

前回は、仮庵祭でユダヤ人たちが祝い、待望していることが、エルサレム神殿の境内で巡礼者たちをお招きになった主イエスにおいて実現することを学びました。

 

 

 

すなわち、仮庵祭で祭司たちがシロアムの池から金の瓶で水を汲み、その水を神殿の祭壇に注ぎました。主イエスはその水こそ主が御自身を信じる者たちに与えられる聖霊を表していると語られました。

 

 

 

そして主イエスは、神殿の境内にいる御自身の存在をもって、次のことを証しされました。

 

 

 

すなわち、エルサレム神殿はキリストの影であり、本体であるキリスト御自身が現れ、仮庵祭で祭司たちが神殿の祭壇に注いでいた水は、キリストが御自身を信じる者に与えられる聖霊の影であると。

 

 

 

その聖霊は、その時この世に降っていませんでした。キリストが十字架で死なれ、三日目に復活し、その四十日後に天に昇天され、五十日目、ペンテコステにキリストは聖霊を遣わされ、この地上にキリスト教会が生まれました。

 

 

 

そして、キリスト教会は、主イエスのようにユダヤ人たちに聖霊に導かれて福音宣教をしました。

 

 

 

教会は、主イエスと同じことを経験しました。ユダヤ人、すなわち、祭司長たちとファリサイ派の人々が主イエスを迫害したように、キリスト教会を迫害しました。

 

 

 

そうした状況を踏まえて、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に今朝の御言葉でユダヤ人たちが不信仰で、主イエスを迫害しようとしたことを語っているのです。

 

 

 

主イエスの招きの御言葉を巡って、仮庵祭にエルサレム神殿を詣でた群衆たちの間で対立が生じたことを74045節で、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に証言しています。

 

 

 

主イエスが誰であるのか、仮庵祭にエルサレム神殿に詣でた群衆たちは語り合い、対立しました。

 

 

 

一世紀末の初代教会がユダヤ人たちに福音宣教した時も、同じ状況が生まれていたでしょう。

 

 

 

それは、今のわたしたちの時代でも同じではないでしょうか。教会の福音宣教は、常に主イエスとは何者であるのかと、聞く者たちに対立を生じさせるのです。

 

 

 

主イエスのお言葉は、ファリサイ派の律法学者たちの教えと異なりました。なぜなら、父なる神に遣わされた者として、権威ある者として語られたからです。

 

 

 

だから、群衆たちのある者は、主イエスが本当に神から遣わされたモーセやエリヤと同じ預言者であると言い、「主イエスはメシアである」と主張しました。

 

 

 

他方、群衆たちの中にも、主イエスの弟子の一人ナタナエルのように、メシアがどこで生まれるかを、旧約聖書からよく学んでいる者がおりました。

 

 

 

 たとえば、旧約聖書のミカ書です。51節に、次のようにメシア預言があります。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」

 

 

 

さらにヨハネによる福音書は、群衆たちが主イエスを何者であるかと論争する過程を進展させています。

 

 

 

71014節で群衆たちは、主イエスを「良い人か」「民を惑わす者か」と論争し、対立しています。

 

 

 

ここではその論争がより深められています。主イエスがメシアか、どうかを言い争っています。

 

 

 

論争の進展に仮庵祭に神殿の境内で主イエスが群衆たちに教えられたことが関係していると思います。

 

 

 

そして、群衆たちが主イエスについて論争を深めていくことを見て、ユダヤ指導者たちは一層主イエスを警戒し、今までは見過ごしていましたが、主イエスを捕らえようとしました。

 

 

 

45節以下は、3236節の御言葉の続きであります。

 

 

 

祭司長たちとファリサイ派の人々、すなわち、ユダヤ人たち指導者たちの中にも、主イエスについて対立があったことを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えています。

 

 

 

下役たちは、主イエスを捕らえないで、戻って来ました。当然祭司長とファリサイ派の人々は叱責しました。

 

 

 

下役たちは彼らに次のように弁明しました。「今まで、あの人のように話した人はいません」と。

 

 

 

これだけでは、何ともなりません。

 

 

 

だから、わたしたちは想像することを楽しみましょう。それは読書する楽しみです。

 

 

 

この楽しみは、神が人間に与えてくださった素晴らしい賜物であると思います。

 

 

 

以前に紹介しましたバックストン宣教師は、この下役の言葉から詩編453節の御言葉を、仮庵祭にエルサレム神殿の境内で群衆たちに語られた主イエスの姿に当てはめて説教されています。

 

 

 

「あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。」(詩編45:3)

 

 

 

「これが真実であることを見ます。『今まで、あの人のように話した人はいません。』これによって主の言葉がいかに美しいかがわかりませんか。主の言葉の力がわかりませんか。この役人たちは少しも偏見がないので、主の言葉をそのままに重んじました。」

 

 

 

バックストン先生は、聖書をよく読まれるだけでなく、聖書を読むことを楽しまれていると思います。だから、下役の言葉から主イエスのお言葉を活き活き思い巡らせることができるのだと思います。

 

 

 

妄想することは愚かですが、聖書の御言葉を思いめぐらし、楽しむことは聖霊がわたしたちキリスト者にお与えくださった賜物です。

 

 

 

ところが、指導者たちは手下たちを叱責しました。

 

 

 

「お前たちまで、愚かな群衆と共にイエスの惑わされるとは」。

 

 

 

そして、彼らは、下役たちに呪いの言葉を口にしました。

 

 

 

どうか、主イエスのお言葉とユダヤ指導者たちの言葉には天地の差があることを理解してください。

 

 

 

とこしえに父なる神の祝福を受ける神の御子には、美しい言葉、律法に呪われた群衆の罪を赦す力があります。

 

 

 

ところが、この世の権力者、この世の宗教的権力者の言葉は、神の律法に無知である民衆を呪う言葉しかありません。

 

 

 

ユダヤ指導者たちは、主イエスを拒みました。だから、一人を除いて、主イエスを信じた者はいません。そして、彼らが口にする言葉は実に醜いものです。

 

 

 

「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と。

 

 

 

実に醜い言葉です。

 

 

 

次回に学びたいと思っています。8111節の御言葉は、主イエスの美しい言葉とファリサイ派の人々の醜い言葉が実にコンストラクトに描かれています。

 

 

 

姦通した女のお話です。

 

 

 

ユダヤの指導者にとってこの姦通した女は律法に無知な呪われた者です。

 

 

 

しかし、主イエスは美しい言葉で、御自分が父なる神から受けた祝福をこの女に語られ、彼女の罪を赦されました。

 

 

 

バックストン宣教師もこのコンストラクトに気づかれて、次のように説教されています。

 

 

 

「どうぞ主の言葉の力を味わってください。746節、89節において、わたしたちは主の言葉の力を味わいたいものです。『あの人が話すように話した人は、いまだかってありません。』『彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスが一人残された。女はそのままそこにいた』」。

 

 

 

美しい言葉とは、美辞麗句のことではありません。美しい日本語のことではありません。

 

 

 

本当に愛の言葉です。神の律法に無知のゆえに「彼らは呪われている」とこの世で見捨てられた女に、「罪なき者からこの女に石を投げよ」と言われ、「お前の罪を、わたしの父なる神は赦されている」と、主イエスは語られたのです。

 

 

 

美しい言葉は、人の罪を赦す言葉、十字架の言葉です。だから、使徒パウロは預言者イザヤの言葉を引用して、「『良い知らせ伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」と言っています(ローマ10:15)

 

 

 

どんなに正しくても、祭司長やファリサイ派の人々のように、聖書に無知な者たちを呪うのは、醜い言葉です。

 

 

 

主イエスが聖霊と御言葉によって臨在される教会で、聖書を知らない人を呪い、責める言葉は醜いと、ヨハネによる福音書はわたしたちに伝えようとしています。

 

 

 

では、ヨハネによる福音書にとって美しい言葉とは、何でしょうか。それは、主イエスの言葉であり、聖書に無知であるゆえに、呪われた者を赦す言葉です。

 

 

 

主イエスの美しい言葉の前に、下役たちは何もできませんでした。

 

 

 

しかし、ユダヤの指導者の一人、ニコデモが、仲間の者たちを次のように諭しました。

 

 

 

モーセ律法は、まず本人から事情を聞いて、彼が何をしたかを確かめた上で、判決を下すべきであると教えているのではないかと。

 

 

 

ところが、ユダヤの指導者たちは彼の主張を無視しました。そして、彼らはニコデモを下役と同様に扱いました。自分たちの考えが正しいと思い込んでいたからです。

 

 

 

彼らは、ニコデモに言いました。「お前も、あのイエスと同じようにガリラヤ出身なのか。ガリラヤからは預言者が出ないことが聖書を読めば明らかではないか」と。

 

 

 

少し脚色しましたが、ユダヤの指導者たちは、少数のニコデモの意見を力で抑え込み、主イエスをガリラヤ生まれと決めつけました。

 

 

 

実は、初代教会がユダヤ人たちに福音宣教したとき、ユダヤ人たちは同じことを言ったのではないでしょうか。ユダヤ人たちは、主イエスがガリラヤ生まれであると誤解していたでしょう。

 

 

 

現代も同じだと、わたしは思います。この世では主イエスはいろいろ言われております。メシアだと言う者たちはいます。革命家であると言う者もおります。道徳の教師であると言う者もいるでしょう。聖人の一人であると言う者もいます。

 

 

 

教会は、主イエスこそわたしたちを罪と死と神の刑罰から救うお方であると伝えています。

 

 

 

主イエスは、わたしたちに美しい言葉を語られました。「あなたの罪は赦されている」と。

 

 

 

主イエスは、わたしたちに美しい御自身の十字架の言葉を語られました。

 

 

 

「神に呪われたあなたがたのために、わたしは十字架で死んだのである」と。

 

 

 

わたしたちは、毎週礼拝で主イエスの美し言葉に、十字架の愛の言葉に、下役たちのように圧倒されて、心から主イエスはキリストとこの世の人々に伝えようではありませんか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、民衆たちが主イエスを誰と言うかで、分裂し、ユダヤの指導者たちが不信仰から主イエスを捕らえようとしたことを学びました。

 

 

 

思いがけないことでしたが、バックストン宣教師の説教を通して、聖書を読む楽しみを教えられ、また、主イエスの美しい言葉とユダヤの指導者たちの醜い言葉を見比べることができて、感謝します。

 

 

 

どうか、主イエスよ、わたしたちも下役たちのように毎週礼拝において主イエスの美しい言葉に圧倒され、わたしたちの家族に、わたしたちの住む町の人々に主イエスはキリストであると証しさせてください。

 

 

 

この世ではいつも主イエスは誰であるかと論争が絶えません。しかし、それが大切なのではありません。わたしたちがこの教会で聖書も神も知らない呪われた者が、キリストの十字架の御言葉によって罪から救われ、神と和解し、神の子とされ、神の祝福の中に生きていることが大切です。

 

 

 

今朝の御言葉によってわたしたちの心がその喜びで満たされますように、そして、12月から始まります「クリスマス月間」に家族を、この町の人々をお誘いできるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 ヨハネによる福音書説教33     主の201718

 

 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

 

 それでファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。

 

あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 

            ヨハネによる福音書第第81220

 

 

 

 説教題:「世の光キリスト」

 

 前回は、姦通した女を、主イエスが赦されたという記事を学びました。本来ヨハネによる福音書の本文ではありませんでした。しかし、キリスト教会の中で古くから知られている話であり、今朝のヨハネによる福音書の815節の主イエスのお言葉とも一致しており、主イエスが誰であるか、知る上でも有益ですので、キリスト教会は消し去らないで、括弧に閉じて残してきたのです。そして、今日までキリスト教会は、その御言葉に基づいて説教をし、その説教を聞き続けてきたのです。

 

 

 

 ただ、ひとつ、わたしは、自分で説教題に付した「これからは、もう罪を犯してはならない」という主イエスの御言葉を語り、解き明かすことができませんでした。

 

 

 

 正直に言いますと、違和感を覚えました。こんな気持ちは初めてでした。実は、わたしは、聖書を読んでいて、あまり疑問に思うことはありません。聖書に記されている奇跡について、わたしは単純にその通りだと思っています。神は全能者なのですから、神が奇跡をなさるのは当然です。キリストの処女降誕も、聖霊なる神の御力でなされたのですから、わたしには疑う余地はありません。主イエスがなさる奇跡も、神の御子の御業ですからわたしは疑ったことはありません。

 

 

 

主の復活が信じられないと言う信徒に出会いましたし、ある教団の牧師が「主イエスの復活を信じられない牧師がいるが、かわいそうだ」と言われている記事を読みました。わたしは本当にキリストの復活を信じられない牧師と信徒はかわいそうだと思います。なぜなら、キリストが死人の中から復活されたことは、わたしたちが死人の中から復活する初穂であると、使徒パウロが言っていることを、わたしは信じているからです。

 

 

 

わたしは、自分を逐語霊感主義者であると思っています。聖書すべて、神が著者であり、聖書の御言葉は誤りなき神の御言葉と信じています。

 

 

 

 だから、811節の「これからは、もう罪を犯してはならない」という主イエスのお言葉に、正直に戸惑い、説教題にその言葉を付したのに、語ることを避けてしまいました。

 

 

 

 他の福音書を読んでも、主イエスが罪を赦した者に、「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われているのを、わたしは知りません。むしろ、主イエスは、罪を赦した者に「安心して行きなさい」と言われています。

 

 

 

 今年は、宗教改革500周年の年です。マルティン・ルターが宗教改革運動を始めて、500年目です。

 

 

 

 彼は、ローマカトリック教会の免罪符に対して抗議し、95箇条の提題をウィッテンベルク城教会の扉に貼り出しました。

 

 

 

 その第1条は、キリスト者の生涯は悔い改めの生涯であるという内容です。キリストに罪を赦された者の生涯が罪を悔いる生涯であると、熱心に聖書を学び、罪に苦しんだ宗教改革者ルターが叫びました。

 

 

 

 そして、この叫びを受け取られたキリストは、彼に「これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのではありません。「安心して行きなさい」と言われたのです。だから、彼は臨終の時に、「わたしは乞食だ」と告白しました。彼の生涯は、ただただキリストの恵みを賜った生涯であったという意味でしょう。

 

 

 

 少し説教の前置きが長くなりましたが、話さずにおれませんでした。

 

 

 

 さて、714節から、括弧に括られた姦淫の女を、主イエスが赦された記事を除いて、8章の終わりまで、仮庵祭で巡礼者たちが溢れていたエルサレム神殿において主イエスがファリサイ派の人たちと論争された記事であります。

 

 

 

 その記事を通してヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスは一体何者であるか、また、主イエス御自身が自分のことを何者と思っているかを様々な形で伝えようとしています。

 

 

 

 今朝のところではヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスは世の光であると伝えています。主イエス御自身が、「わたしは世の光である」と宣言されています。

 

 

 

 これまで主イエスは、御自分を「わたしは命のパンである」(6:48)と言われ、「生きた水の流れである」(7:38)と言われました。ここでは「わたしは世の光である」と、主イエスは言われています。

 

 

 

 14節と5節の御言葉を思い起こしていただけると、うれしいのです。

 

 

 

 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 

 

 

 今朝の御言葉は、この御言葉の実例であります。

 

 

 

 主イエスは、父なる神がこの世に、すなわち、暗闇に遣わされた言、独り子なる神です。だから、主イエスの内に命があり、その命は暗闇の中にいるわたしたちを父なる神の御下に導く光でありました。

 

 

 

 主イエスは、ファリサイ派の人々に「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。

 

 

 

 主イエスを信じ、主イエスの御後に従う者だけが、父なる神の御下に導かれるのです。主イエス・キリストという光なしに、この世で父なる神に至る者はおりません。

 

 

 

 世界と人間は神に創造されました。しかし、人は罪によって創造された状態から堕落し、自分から創造された神に至る道を見失ってしまいました。キリストという光のないこの世は、まさに暗闇であります。そして、暗闇に生きる世の人々は、創造主である父なる神との関係を失い、闇の中を歩んでいるのです。

 

 

 

 闇の中を歩むとは、どこから来て、どこに行くのか知らないことだと、主イエスは言われます。

 

 

 

 ファリサイ派の人たちは、主イエスの自己証言を真実ではないと否定しました。主イエス一人が言われていることであるので、信用できないと主張しました(13)

 

 

 

 主イエスは彼らに反論されました。その時に主イエスは御自身の証言が真実であるのは、「わたしがどこから来て、どこに行くのか、知っているからだ」と答えられました。

 

 

 

 主イエスは、一人ではありません。常に父なる神と一緒です。父なる神に遣わされて、この世に来られ、再び十字架と復活を通して父なる神の御下に帰られます。

 

 

 

 そのことを通して、暗闇のこの世に生きるわたしたちに、キリストは世の光として永遠の命の光を照らされたのです。

 

 

 

 わたしたちは、この世界の日常を越えて、永遠の命があることを、世の光であるキリストを通して示されたのです。

 

 

 

しかし、世の光であるキリストを否定したファリサイ派の人たちは、この世の暗闇から抜け出すことはできません。日々この世に生きながら、彼らは自分たちがどこから来て、どこに行くのか知りません。

 

 

 

キリストを知らなければ、この世の人間はどんなに知恵があり、賢くても、才能があり、金持ちでも、自分たちがどこから来て、どこに行くのか、答えを出すことはできません。せいぜい言えることは、世界も人も死で終わり、この世界は消滅するということでしょう。

 

 

 

もう一つ、暗闇のこの世は、神と人が敵対するだけでなく、人と人が敵対する世界です。隣人との口喧嘩から戦争に至るまで、人は人を裁いています。

 

 

 

わたしたちは「肉に従って裁く」者たちです。肉、つまり、罪に死すべき人間である以上、生まれながらに、わたしたちの心は隣人を憎む傾向を持ち、隣人を常に裁いているのです。

 

 

 

使徒パウロがフィリピの信徒への手紙234節でこう勧めています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」。

 

 

 

主イエスによって、罪赦された者が集まるフィリピ教会の中でも、キリスト者たちが自己中に生き、隣人である兄弟姉妹を裁いていたのです。

 

 

 

わたしが隣人を赦せるということは、実際は幻想ではないでしょうか。「わたしはだれをも裁かない」と言われ、人の罪の身代わりに十字架に死なれた主イエスだけが、真実人を裁くのではなく、人の罪を赦してくださるのです。

 

 

 

しかし、主イエスは、人を裁く時を御存じです。必ず父なる神は、暗闇の世、神に敵対するこの世を、キリストを通して裁かれます。

 

 

 

その時、キリストは御自分の裁きは真実だと言われています。その裁きで、主イエス・キリストと父なる神が証人となられるからです。

 

 

 

旧約聖書の申命記で主なる神はモーセを通して神の民に「裁判では2人ないし3人の証人によって事が立証されなければならない」と言われています(申命記19:15)

 

 

 

主イエスが「わたしは世の光である」と自己証言されると、同じことを、主イエスをこの世に遣わされた父なる神も証言してくださるので、主イエスの自己証言は真実であります。

 

 

 

ところが、ファリサイ派の人たちは、主イエスに「あなたの父はどこにいるのか」と質問しました。それに対して主イエスは答えられました。主イエスを信じないファリサイ派の人たちは、主イエスも父なる神も知ることはできないと。

 

 

 

主イエスが19節で言われていることは、次のことです。父なる神は主イエスを通してでなければ知り得ないと。わたしたちが、父なる神に至る道、すなわち、永遠の命の世界に至る道は主イエスの御言葉を信じることを通してしかありません。

 

 

 

ファリサイ派の人たちは、主イエスも主イエスの証言も拒みました。そして、光である主イエスを通して、父なる神に至る道も拒んでしまいました。

 

 

 

主イエスがユダヤ人たちと論争された神殿の境内は、宝物殿の近くとあります。そこに婦人の庭と呼ばれているところがありました。主イエスとユダヤ人たちの論争を、仮庵際で神殿に詣でていた婦人たちも聞いたのではないでしょうか。

 

 

 

主イエスの十字架の時が来ていなかったので、主イエスをユダヤ人たちは逮捕できませんでした。

 

 

 

さて、わたしは、教会堂というものに、強い関心を持っています。将来ヨーロッパに行く機会があれば、いろんな教会堂を訪ね歩きたいです。石でできた教会堂です。真っ暗らか、薄暗い所というイメージがあります。

 

 

 

問題は、会堂にどのように光を取り組んでいるかであります。ある牧師の説教を読んでいますと、こんな文章に出会いました。

 

 

 

「フランスのロマネスクの教会を訪ねてみて、教えられることがありました。十世紀から十二、十三世紀にロマネスクの教会ができました。石でできた教会ですが、問題なのは、光をどう取り込むか、ということです。どの修道院も、光をどう取り組むかということで、位置を決めているのです。ある修道院に朝早く行った時、朝一番の陽光が、教会の正面から小さな窓を通して教会の中に差し込んで来ていました。太陽の動きに従って、暗い堂内がだんだんと変わっていきました。そういう光を見る時に、私たちはそれを、私たちの日常生活が明るいか暗いかという問題に解消してしまいそうですけれども、そうではなくて、私たちの日常生活の中から永遠の光を見ることができる、暗闇の中を歩かず、永遠のいのちの光にあずかることが出来る、それは主の十字架での死によって初めて明らかにされた世界であると、読めるのです。」

 

 

 

わたしたちの会堂にも、クリスマスに講壇に光が差し込みます。光であるキリストの訪れです。そして、毎週日曜日に、わたしたちは、ここで光であるキリストに、聖霊と御言葉を通してお会いし、日常生活の中から永遠のいのちの光を見ることを許されているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝、共に礼拝に集い、この世の光である主イエス・キリストの御言葉の恵みにあずかることができて感謝します。

 

 

 

主イエスが「この世の光である」ことを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

主の御言葉を信じることを通して、日常生活の中から永遠の命の世界を見ることが許されて、本当にうれしく思います。

 

 

 

十字架のキリストのみが、人の罪を赦す唯一の存在であり、父なる神はわたしたちの教会に十字架のキリストの福音を委ねて下さり、わたしたちが福音宣教を通して、主イエスの「わたしはだれをも裁かない」という喜びを伝えることができることを感謝します。

 

 

 

今年一年家族に、わたしたちが住んでいる町の人々にキリストの福音を伝える勇気と力をお与えください。

 

 

 

わたしたちの教会に訪れてくださるキリストを通して、この礼拝でわたしたちが日常生活の中から永遠の命の世界を、御国を見させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

ヨハネによる福音書説教35      主の201725

 

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

 

 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 

            ヨハネによる福音書第第83138

 

 

 

 説教題:「キリストが与える自由」

 

 前回は、主イエスが父なる神の御下に去って行かれることを語り始められたことを学びました。すなわち、主イエスは御自身が十字架で死なれ、復活し、天に昇られ、父なる神の御下に去って行くと、語られました。

 

 

 

 主イエスが「去って行く」と言われるのを聞いて、ユダヤ人たちは主イエスが自殺するのかと考えました。その時に主イエスは、彼らはこの世に属し、御自分は上に、天に属すると言われました。

 

 

 

 ユダヤ人たちはこの世に属し、神に敵対したこの世界で、自分たちの罪のうちに死ぬことになります。主イエスは永遠の命の世界に属され、主イエスを通してでなければ、その世界をこの世に属している者は見ることができません。

 

 

 

 それから、主イエスは、ユダヤ人たちに「わたしはある」と言われました。主イエスは、ユダヤ人たちに出エジプトで奴隷の地からイスラエルの民を救った主なる神が、今ここにいると言われました。「今ここにこの罪の世から永遠の命の世界に神の民を救う主なる神が、ここにいる、わたしである」と。

 

 

 

 830節で、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの語れたことを聞いたユダヤ人たちの中に、多くのユダヤ人たちが主イエスを信じたと伝えています。

 

 

 

 今朝の御言葉は、主イエスが御自身を信じたユダヤ人たちと論争された御言葉です。

 

 

 

主イエスを信じたユダヤ人で、わたしたちは、その一人、3章で主イエスと対話したニコデモを思い起こします。主イエスを信じた多くのユダヤ人たちの中にニコデはいたのでしょうか。

 

 

 

分かりません。ヨハネによる福音書は何にも記していないからです。

 

 

 

また、223-24節で主イエスのしるしを見て信じたユダヤ人たちのことを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に紹介し、主イエスは彼らを信用されなかったと伝えています。

 

 

 

 どうして、主イエスは御自身をメシアと信じるユダヤ人たちを信用せず、御自分の本当の弟子ではないと思われていたのでしょうか。

 

 

 

 31節の主イエスの御言葉が理解の鍵とならないでしょうか。

 

 

 

そこで主イエスは、御自分の本当の弟子とは誰であるかを話されています。そして、主イエスは御自分を「真理」と言われて、「わたしは本当の弟子に自由を与える」と約束されています。

 

 

 

この主イエスの御言葉から次のような背景を、わたしたちは想像できないでしょうか。主イエスを信じるユダヤ人たちが「本当にわたしの弟子でなかった」のは、彼らが主イエスのお言葉に留まらなかったからです。彼らが、ユダヤ教の伝統や因習の奴隷になっていたからです。

 

 

 

一言で言えば、彼らは自分の行いによって神の救いにあずかろうとしていました。彼らは主イエスに頼らず、自分たちの肉に頼ろうとしていました。その一つの例が、33節の「自分たちはアブラハムの子孫である」という彼らの誇りでした。神に選ばれた選民であるという彼らのイデオロギーの奴隷になっていました。神の御前におごり高ぶる罪の奴隷になっていたのです。

 

 

 

 これでは、主イエスの真の弟子となることはできません。

 

 

 

 だから、主イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われました。「わたしの御言葉にとどまれ」と。それは、「イエスの中にとどまれ」ということです。

 

 

 

 本当に主イエスの弟子になりたいのであれば、主イエスの御言葉に、主イエスの中にとどまらなければなりません。

 

 

 

 わたしは、ヨハネによる福音書が主イエスのお言葉に、独特の「教会」理解していると思います。

 

 

 

 それを、わたしは次のように理解します。「教会で語られる主イエスの御言葉の中にとどまれ」と。

 

 

 

 主イエスの弟子は、教会の礼拝で語られる主イエスの御言葉を聞いて、主イエスの中にとどまる者です。

 

 

 

 主イエスの御言葉を聞いて、主イエスを救い主と信じ、洗礼を受けて、キリストと一つに結び合わされた者です。

 

 

 

 その者に、主イエスは32節で次のことを約束してくださいます。「真理はあなたたちを自由にする」と。

 

 

 

 「真理」とは、主イエスのことです。主イエスは、御自分を「わたしは、道であり、真理であり、命である」と言われています。

 

 

 

 「自由にする」とは、救うということです。

 

 

 

 主なる神が神の民イスラエルを奴隷の地から解放されたように、自分の罪のうちに死ぬユダヤ人たちを、真理である主イエスは、罪の奴隷から自由に解放してくださいます。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスとユダヤ人たちとの論争を通して、主イエスは「いったい、どなたであるか」を伝えようとしているのです。

 

 

 

 主イエスを信じる者には、主イエスは暗闇から引き出す世の光です(ヨハネ8:12)。渇く者にとっては「生きた水の流れ」です(7:37-38)。そして、ここでは自由を与える真理です。

 

 

 

 ヨハネによる福音書にとって、真理を知ることは主イエスを知ることであり、そのことが、わたしたちが罪の奴隷から解放されて、自由になることにつながっているのです。

 

 

 

 罪だけでありません。律法から、死から、この世からの自由です。

 

 

 

 ところが、主イエスの御言葉は、肉に寄り頼むユダヤ人たちとの論争に発展しました。

 

 

 

 彼らは、アブラハムの子孫であることを誇りました。彼らは、自分たちが誰かの奴隷になったことはないと言いました。だから、彼らは主イエスに「どうしてわたしたちを自由にする」と言うのかと、反発しました。

 

 

 

 彼らの反発の根拠は、選民思想です。自分たちは神に選ばれた民であるという誇りです。

 

 

 

 それに対して主イエスは、彼らに次のように答えられました。「はっきり言っておく」とは、「アーメン、アーメン、わたしは言う」という言葉です。主イエスの宣告です。主イエスが重要なことを言われ、それに反論の余地はありません。

 

 

 

 「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と。主イエスが言われる「罪」とは、ユダヤ人たちが主イエスを拒み、主イエスを殺そうとしていることです。

 

 

 

 主イエスを信じたユダヤ人たちは、主イエスと自分たちを同じ人間と理解していました。主イエスを、神であり、神と等しい者と受け入れることはできませんでした。それどころか、主イエスは彼らが御自身を殺そうとしていることをご存知でした。だから、主イエスは彼らに向かって、「あなたがたは罪の奴隷であり、悪魔の奴隷である」と言われたのです。

 

 

 

 ユダヤ人たちは、自分たちを神の選民と誇りましたが、今主イエスを殺すことで、罪の奴隷、悪魔の奴隷として、父の家から売り渡されようとしていたのです。

 

 

 

 だから、主イエスはユダヤ人たちに言われました。父の家の子は御自分であり、主イエスは父なる神と同じ御力を持たれて、今奴隷に売り渡されようとしているユダヤ人たちを自由にすることができるし、本当に自由になると言われました。

 

 

 

 主イエスは、ユダヤ人たちがアブラハムの肉の子孫であることをよくご存じでした。彼らが神に選ばれたアブラハムの子孫であることを誇りにしていることを知っておられました。

 

 

 

 同時に彼らの誇りが、彼らを罪の奴隷から解放し、自由にしないこともご存知でした。なぜなら、彼らの心の中で主イエスを殺そうとしていたからです。

 

 

 

 そして、ユダヤ人たちは、最終的に主イエスの御言葉を受け入れないで、主イエスを拒む罪を犯すのです。

 

 

 

 主イエスのお言葉は、ユダヤ人たちにとって反論の余地なきものでありました。なぜなら、主イエスは、父なる神のもとで見たことを話され、父なる神から聞いたことを話されていたからです。

 

 

 

 主イエスとユダヤ人たちとの今朝の論争から、わたしたちは、主イエスの真の弟子とは誰であるかを学ぶことができます。

 

 

 

 第1に、主イエスの真の弟子は、真理を知り、主イエスを知る者です。十字架と復活の主イエスを知る者です。

 

 

 

 第2に、主イエスの御言葉にとどまる者です。一生主イエスの御言葉にとどまる者です。その御言葉に学び続ける者です。弟子とは学ぶ者のことです。

 

 

 

 第3に、真の弟子であることは、真理を、主イエスを知る結果です。宗教改革者ルターは、主イエスを知る結果、聖書より信仰義認の教えを見いだし、キリスト者の生涯が悔い改めの生涯であることを見いだしました。そして、彼は自分の人生をキリストのために用いました。

 

 

 

 人は人生を出世のために、財産を蓄えるために、快楽のために用います。キリスト者は主イエスを知る結果、人生を神への従順と奉仕に用います。

 

 

 

 主イエスを知る結果、キリスト者の人生の価値は変わります。「主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています」(フィリピ3:8)

 

 

 

 第4に、弟子であることは、キリストから与えられた自由があります。

 

 

 

 キリスト者は、キリストが与えてくださった自由のゆえに、一切のものから自由であります。

 

 

 

 キリストが与える自由は、「・・からの自由」であります。罪と死からの自由、悪魔と世の権力からの自由、罪や死、お金、名誉欲、快楽等からの自由であります。

 

 

 

 500年昔に宗教改革運動を始めたルターは、『キリスト者の自由』という書物を書きました。そこで彼は、キリスト者の二つの命題を記しました。

 

 

 

 キリスト者は、何者にも服従しない主人である。

 

 

 

 キリスト者は、何者にも仕える奉仕の僕である。

 

 

 

ルターは、聖書の御言葉から、キリストがキリスト者に与えられた自由は、すべての隣人に奉仕する自由であることを見いだしました。

 

 

 

 彼は、その模範を十字架の道を歩まれるキリストの見出したのです。キリストは、御自身の自由により、神であるのに人となり、真の王であるのに、すべての者の僕となられました。

 

 

 

 キリスト者であるわたしたちも同じです。キリストの十字架によってすべての罪を赦され、わたしたちはキリストから自由を与えられました。使徒パウロが言うように、わたしたちはすべてのことを許されています。自由な者です。

 

 

 

 しかし、この自由は、すべての者にわたしたちが僕として奉仕しなければ、益にはなりません。

 

 

 

 この世界は罪の世界で、パワーゲームの世界です。その日常生活の中で、キリスト者は世界がどのような状況にあろうと、教会が迫害され、キリスト者たちが迫害されても、キリストから自由を与えられています。キリストは、その自由をこう言われます。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と。そのお言葉どおり、キリストは自由に十字架の道を歩まれ、父なる神は死人の中からキリストを復活させられたのです。

 

 

 

 だから、わたしたちは、毎週の日曜日に礼拝で語られるキリストの御言葉に留まり、この罪の世界の中で、罪と死、あらゆる困難と悲しみに出会うとも、キリストの中に、すなわち、この教会の中にとどまり、キリストがわたしたちに与えられる「罪の赦し、体の甦り、永遠の命」の自由を受け止めようではありませんか。

 

 

 

 どのようにして、受け止めるのか。この後の聖餐式を通して受け止めましょう。聖餐式こそ、キリスト者がこの世から永遠の命の世界につながるキリストの自由な恵みであります。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、

 

 

 

主イエスは、わたしたちに「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と約束してくださいました。

 

 

 

主の日ごとの礼拝でわたしたちが牧師の説教を通して、主イエスの御言葉にとどまり、主イエスを知り、キリストの与えてくださる自由で、わたしたちをすべてのものから解放してください。

 

 

 

同時に、主イエスがすべての者の僕となられたように、キリストから与えられた自由を、すべての者に仕えることに用いさせてください。

 

 

 

今朝の御言葉から、わたしたちが今からあずかる聖餐式が、罪のこの世から永遠の命の世界につながるキリストの自由な恵みであることを理解させてください。

 

 

 

わたしたちが今朝の御言葉に支えられて、この一週間を歩めるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。