ヨハネによる福音書説教25 主の2016年9月18日
その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこに小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べもののためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べものである。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナ食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命をあたえるものである。」
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人の終わりの日に復活させることだからである。」
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天からの降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えられていたときに話されたことである。
ヨハネによる福音書第6章22-59節
説教:「主イエスは命のパン」
前回は、主イエスがガリラヤ湖の湖上を歩かれた奇跡を学びました。主イエスは、ガリラヤ湖の嵐の中、弟子たちが乗り込んだ小舟に近づかれ、「恐れることはない。わたしだ」と言われました。「わたしだ」とは、「わたしはヤハウェ(主)である」という意味です。
五千人の給食の奇跡をし、湖の上を歩く主イエスとはどなただ、天地を創造し、支配する主であると、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えてくれました。そして、主は、いつでも共にいてくださるという喜びと慰めを学びました。
今朝は、ヨハネによる福音書が6章59節に記していますように、カファルナウムの会堂で主イエスがユダヤ人たちにお話になったことを学びましょう。
主イエスがベトサイダの荒れ野で五千人の給食の奇跡をなされて、次の日の翌日、群衆たちは、その荒れ野にいました。彼らは、岸辺に小舟が一艘あり、それに弟子たちが昨夕に乗り込み、沖に漕ぎ出したのを見ておりました。
そして、翌日にティベリアスから小舟が数そう、主イエスが五千人の給食の奇跡をなさったベトサイダの荒れ野までにやって来ました。
そこで群衆たちの中のある者たちは、その小舟に乗り込み、主イエスを捜しだすためにカファルナウムに行きました。小舟に乗り込めなかった群衆たちは歩いてカファルナウムに向かったことでしょう。
数そうの小舟に乗り込んだ者たちは、カファルナウムで主イエスを見つけました。
しかし、彼らは弟子たちが乗り込んだ小舟に主イエスが乗っておられなかったことを確認していたので、彼らはどうして主イエスはここにおられるのだろうと、不思議に思い、主イエスに尋ねました。「ラビ(先生)、いつ、ここにおいでになったのですか」と。
ところが、主イエスは、彼らの質問に答えないで、群衆たちがなぜ主イエスを追いかけているかを言い当てられて、彼らに御自分は天から降った命のパンであるとお話になりました。
主イエスは、群衆にカファルナウムの会堂で話されました。それが26節から58節の主イエスの御言葉です。主イエスは群衆たち、すなわち、ユダヤ人たちと問答する形で、お話をされました。
主イエスを捜し求める群衆は、わたしたちの目にどのように映るのでしょうか。きわめて熱心な人々ではないでしょうか。主イエスに従い、主イエスをこの世の王にしようとするほど熱心な人々です。
しかし、主イエスは、彼らの外見の熱心さに目を留められません。彼らの心を見られました。そして、主イエスは、彼らの主イエスを求める熱心さが信仰からではなく、腹が満たされたという物質的な満足にあり、だから、彼らは物質的な欲望を満たすために主イエスをこの世の王にしようとしているのだと、主イエスは見抜かれました。
そこで主イエスは、彼らを物質的な欲望から主イエスへの信仰に導くために、27節で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と命じられました。そして、主イエスは彼らに「永遠の命に至る食べ物」こそ、父なる神がこの世に遣わされ、受肉された人の子である主イエスが与える食べ物であると説明されました。
この世に属するわたしたちは、群衆のように腹を満たすことに、物質的に満足することを求めています。よく人は死ぬ前に一度はあれだけは食べておきたいとか、しておきたいと物質的な満足を求めがちです。
しかし、主イエスは、わたしたちが求める物質的満足は、所詮朽ちる物であると言われます。ヨハネによる福音書は、わたしたちに主イエスを、この世界を創造された言と紹介しています。だから、主イエスは神の形に創造された人間が、この世でどんなに物質的欲望を満たそうとしても、真の満足を得られないことを知っておられるのです。
だから、主イエスは、彼らに、そして、今のわたしたちにも「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と命じられるのです。
「働きなさい」とは「追求しなさい」「得ようと努力しなさい」という意味です。主イエスは、マタイによる福音書の山上の説教で、何を食べ、飲み、着ようかと言って思いわずらうなと言われて、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と命じられました。「永遠の命に至る食べ物」と「神の国と神の義」は同じだと、わたしは思います。
主イエスは、パンで腹を満たされ満足する彼らに、一生懸命努力して、永遠の命を獲得しなさいと言おうとされました。
そこで主イエスのお言葉を聞いた群衆、すなわち、ユダヤ人たちは、行いによって永遠の命を得ることを思って、28節で主イエスに「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と質問しました。
主イエスが彼らに一所懸命に永遠の命を追求し、得られるように努力せよと命じられたので、彼らは神が彼らに命じられる諸々の御業の中で、何を一生懸命追求し、得られるように努力を続ければよいでしょうかと尋ねました。
29節で主イエスは彼らに答えられました。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と。
主イエスは、彼らが主イエスに、どんな神の業をすればよいかと、行いを求めたことに対して、神の業は一つしかないことを示して、父なる神が遣わされたこのわたしを信じ続けることがたった一つの神の業であると答えられました。
キリスト者が一生涯、あるいは、主イエスに出会って、それ以後教会生活とキリスト者の生活を続けること、ヨハネによる福音書は、それをたった一つの神の業と、主イエスのお言葉を通してわたしたち読者に伝えているのです。
信仰生活は聖霊の御業であります。
だが、群衆、すなわち、ユダヤ人たちは、満腹するか、主イエスが何かしるし、すなわち、奇跡を行い、彼らに見せてくれないと信じないのです。
そこで彼らは、主イエスに彼らの先祖が出エジプトの時に、荒れ野で主なる神が天からマンナを降らせて、食べさせられたことを話しました。荒れ野で食糧難の危機にある神の民を救うために、主なる神は40年間天からマンナを安息日以外の毎日降らせて、彼らを養われました。
ユダヤ人たちは、主イエスにモーセが荒れ野で先祖たちに天からパンを降らせて、食べさせたように、わたしたちにもしるしを見せてくれと要求しました。
主イエスは、彼らの勘違いを指摘され、荒れ野で天からパンを民に与えたのはモーセではないと否定されました。そして、主イエスの父なる神がまことのパン、世に命を与えるパンを与えると言われました。
当然、群衆は腹を満たすことに関心がありますので、34節で主イエスに「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言いました。彼らの先祖がマンナを毎日食べたように、毎日パンで腹を満たすことができるようにしてくださいと言いました。
彼らの願いに答えた主イエスは、34節から40節で御自身が命のパンであると語られました。
主イエスは、群衆に、ユダヤ人に、そしてわたしたちに、御自身を紹介し、「わたしだ」、「アイ・アム・ホワット・アイ・アム」と言われました。
「わたしは有って有る者」、主なる神という意味です。
面白いのは、主なる神も主イエスも、御自身を紹介しながら、「わたしが何であるかは、何であってもよろしい」と言われていることです。
だから、主イエスは、このヨハネによる福音書の中で、御自分のことを、ここでは「わたしは命のパンである」と御自身を紹介されました。
群衆たち、すなわち、ユダヤ人たちは、彼らの生活領域で、そして、具体的な生活の問題の中で、日々にパンがほしいと思っていたのです。だから、彼らに、主イエスは「わたしが命のパンである」と言われました。
だから、主イエスは御自身のもとに彼らが来て、主イエスを信じて、一生従うのであれば、飢えることも渇くこともないと、荒れ野において天からマンナを降らせて、食糧難から救われたように、主イエスも彼らを生涯守り保護すると約束されました。
だが、36-40節で主イエスは、救いは父なる神の選びであることを教えておられます。
父なる神がその者を永遠の命に選ばれなければ、彼は主イエスのところに来て、主イエスを信じ、生涯主イエスに従う信仰生活をすることはあり得ません。
逆に父なる神が永遠の命に選ばれた者は、主イエスのところに来て、主イエスへの信仰にとどまり、主イエスはその者を教会から追い出されることはありません。
だから、主イエスがこの世で十字架の道を歩まれるのは、御自身の意志ではなく、父なる神の御心を行われているのです。
主イエスは、父なる神が永遠の命に選ばれた者を、一人も失わないで、終わりの日に復活させてくださいます。
この世の物質的なものに満足できず、死に打ち勝つ命を真に得たいと願う者には、主イエスは「わたしは復活であり、命である」と言ってくださるのです。
しかし、ユダヤ人たちには、主イエスはつまずきでありました。主イエスのお言葉は、彼らにはショックでした。彼らは、主イエスが貧しい大工のヨセフとマリアの子であり、彼のたくさんの兄弟姉妹を知っていました。
主イエスの言葉を聞いて、彼らは主イエスを「どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と非難しました。
この批判は当然です。もしわたしたちがこの場にいて主イエスとその家族のことを、彼ら同様に見ていたら、同じことを主イエスにするでしょう。
例えば今のわたしたちの日常生活を考えて見てください。どこに主イエスは天から降って来た命のパンであると受け入れてくれるところがありますか。教会があると。確かに教会で、わたしたちは受け入れています。
それは、わたしたちの能力ですか。実は、人間は生きている世界から解放されることはありません。だから、キリスト者は聖書に苦闘しているのです。聖書は神が世界と人間を造られたといつの世も大胆に語ります。しかし、わたしたちの世界は進化論的世界です。科学万能の世界で、すべてが原因と結果で説明され、奇跡が入り込む余地はありません。
こうした世界から教会もキリスト者も自由になれません。だから、進化論と聖書のどちらが正しいのかと悩むキリスト者が存在します。
この世界に生きる限りには、主イエスにつまずくこと、聖書に疑問を持つことは避けられません。
わたしたちは、今朝のヨハネによる福音書を読み、主イエスにつまずいたユダヤ人たちを不信仰者と裁いてはなりません。むしろ、この世に生きるわたしたちの姿でもないかと思うのです。
43節で主イエスは、ユダヤ人たちに答えて言われます。「つぶやき合うのはやめなさい」と。
これは、人間の評価で主イエスを議論し、非難することを止めなさいとということです。なぜなら、彼らはキリストに対する不信仰の結果、つぶやいているからです
そして、もう一度主イエスは、父なる神が永遠の命に選ばれないと、誰も主イエスのところには来ないとお話になりました。そして、主イエスは、彼のところに来て、彼を信じる者を、終わりの日によみがえらせると言われました。
主イエスが言われる「わたしのもとへ来る」とは、具体的にわたしたちが礼拝に来ることです。そして、御言葉を聞き、聖餐式にあずかり、わたしたちは終わりの日に復活させられるのです。
信仰は、人の能力ではなく、神の賜物です。だから、父なる神に引き寄せられて、教会の礼拝に集い、そこで聖書の御言葉を学ぶことが大切です。
「預言者の書」である旧約聖書は、この福音書の5章39節で主イエスが「聖書はわたしについて証しするものだ」と言われました。誰でも聖書を通して神からキリストについて学びます。そして、父なる神からキリストについて学ぶ者は皆、主イエスのところに来るのです。
そして、主イエスと父なる神は一つです。なぜなら、主イエスは父なる神から遣わされた父の独り子であり、彼だけが父なる神を知っています。だから、主イエスを通してのみ、わたしたちは父なる神を知ることができるのです。そして、聖書が唯一わたしたちにキリストについて証ししてくれます。
47節で、主イエスは、はっきりと宣言されます。「信じる者は永遠の命を得ている」と。今、その者は神と共に生きていると。
主イエスがわたしたちに提供される永遠の命は、今わたしたちが得ている命であり、主イエスと共に生きている命です。
だから、48節で主イエスは、今教会で主イエスと共に生きるわたしたちに、御自分を「わたしは命のパンである」、51節で「天から降って来たパン」と自己紹介されます。
そして、主イエスは、荒れ野のマンナを食べた者は皆死んだと言われます。しかし、天から降って来たパンを食べる者は死なないと言われます。
51節は、わたしたちに教会で行われる聖餐式を思い起こさせてくれます。聖餐式の真の司式者であるキリストは、「わたしは天から降って来たパンである」と言われます。そして、わたしたちに御自身の肉と血をお与えくださいます。パンとぶどう酒は、そのしるしです。
パウロがローマの信徒への手紙11章36節で、次のように神を賛美します。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン。」
この世に生きるわたしたち、罪によって死が入って来た世界で、唯一わたしたちを永遠へと向ける場所は、教会の聖餐式の場であります。
52節でユダヤ人たちは、主イエスの肉を食べることにつまずきました。しかし、53節で主イエスは、彼らに言われました。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命がない。」と。
ヨハネによる福音書は、主イエスの御言葉から53-58節で、信仰と聖餐式によってわたしたちのものと主イエスが約束してくださった永遠の命を教えています。
第一にキリストが共にいてくださることです。聖餐式は、キリストがわたしたちを御自身の食卓にお招きくださいます。命の祝福にわたしたちを招いてくださいます。だから、わたしたちは、聖餐式ごとにキリストの臨在と祝福に招かれていることを教えられます。
第二に「わたしの肉を食べ、血を飲む」は、「わたしの肉を食べ続ける、血を飲み続ける」です。聖餐式を続ける者に永遠の命があり、そのためにキリストがその者の内に内在してくださいます。聖餐式は、わたしたちとキリストが共にいてくださるというしるしであることを教えられます。
第三に聖餐式では、常にキリストに結び付く命であることを教えられます。命の源であるキリストと結ぶついてはじめて生きることのできる命であることを教えられます。だから、ここで主イエスは、「その人を終わりの日に復活させる」と約束されている恵みを強く覚えたいと思います
聖餐式ごとに、再臨のキリストを強く待ち望み、その日にキリストによってよみがえらされるわたしたちは永遠に、御国にてキリストと共に生きるのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスが命のパンであることを学ぶことができて感謝します。
わたしたちの生きる世界は、罪により死に支配されています。また、この世界でわたしたちは、衣食住を満たし、知識や富、名誉を満たすことばかりを考えております。
しかし、わたしたちが満たそうとする物質的な欲望は、主イエスが言われる朽ちたパンです。この世界が滅びれば、共に滅ぶものです。
しかし、主なる神は、人に永遠を思う心を与えられました。
主イエスは、わたしたちの罪の身代わりに十字架に死なれたのみではなく、復活し、永遠の命をわたしたちに保証してくださいました。
どうか、聖餐式ごとに、キリストの十字架と復活を覚え、パンとぶどう酒にあずかり、キリストの肉と血を食べ、飲むことで、キリストの永遠の命にわたしたちもあずからせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教26 主の2016年10月2日
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役に立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れていきたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
ヨハネによる福音書第6章60-71節
説教:「主イエスは命のパン」
前回は、主イエスがユダヤ人たちにカファルナウムの会堂で、御自分が天から降って来た命のパンであるとお話になったことを学びました。
長いお話でしたが、一言要約しますと、主イエスは、御自分が食べるとなくなるパンではなく、御自分の肉と血を食べる者に永遠の命を与えるパンであり、御自分を信じる者たちを終わりの日によみがえらせると約束されました。
今朝は、主イエスのお話を聞いた主イエスの多くの弟子たちが主イエスのお言葉につまずき、主イエスから離れ去ったことと、シモン・ペトロの信仰告白を学びましょう。
ヨハネによる福音書6章50,51節で、主イエスは、言われました。「これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
主イエスのお言葉を聞いた多くの弟子たちが、60節で次のように答えています。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
主イエスの弟子たちの多くが、主イエスのお言葉を文字通りに受け取りました。主イエスが彼の弟子たちに御自分の体の肉と血を食べさせようとしていると思ったのです。
人間の肉と血を食らう話だから、ひどい話で、聞くに堪えないと、彼らは主イエスのお言葉に反発しました。
すると、主イエスは、弟子たちの多くが御自分の言葉を聞いて、不満をつぶやいていることに気づかれました。
弟子たちの多くは、「もうわたしたちは主イエスに聞き従って行くことはできない」と言いました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの弟子たちの多くのつまずきを通して、主イエスの弟子とは何者かを伝えているのです。
そこで、ヨハネによる福音書は、主イエスの弟子の一つの特質に注目しています。それが、「主イエスに聞き従う」という行為です。それを、主イエスは、64節で御自分に聞き従わない者を、「信じない者」と言い換えておられます。
つまずいた弟子たちの多くは、主イエスに「だれが彼に聞き従うことができるか」と不平をつぶやきました。こうして彼らは主イエスを信じませんでした。
主イエスは、すでにこの福音書6章36節で「前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」と言われています。
つまずいた弟子たちの多くは、主イエスと主イエスがなさったしるし、すなわち、神の御業である奇跡を見ました。主イエスが五つのパンと二匹の魚で成人男子五千人を養われた奇跡を見ました。
しかし、彼らは、主イエスのお言葉につまずきました。彼らは主イエスに聞き従うことができませんでした。
つまずいた弟子たちの多くを、主イエスはどう思われたのでしょう。一言、62節で、主イエスはこう言われています。「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」と。
人の子とは、受肉した神の子です。主イエスは、父なる神と共に天におられました。だから、主イエスは、御自分が死んで、その後復活し、再び父なる神がいます天に昇られます。主イエスは、彼らがそれを見たら、わたしのことを信じるのではないか、と言われているのです。
だが、主イエスは、63節で、わたしたちには不思議に聞こえることを言われています。「命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
主イエスは、こう言われました。「霊が生かすものであり、肉は何の役に立たない。わたしがあなたがたに語った言葉は霊であり、命である」と。
主イエスは、わたしたち読者に主イエスの弟子、すなわち、キリスト者になるという過程で、聖霊のお働きが大切であると伝えられています。
主イエスの弟子、すなわち、わたしたちキリスト者たちの成り立ちに目を留めてください。主の弟子、すなわち、キリスト者は、聖霊によって主イエスの御言葉に生かされた者たちです。わたしたちの朽ちて行く体、すなわち、肉はは何の役にも立ちません。
なぜなら、わたしたちは朽ちる目で主イエスを見ても、主イエスを神の子と信じることはできません。わたしたちの朽ちる耳で、主イエスの言葉を聞いても、弟子たちの多くのように聞き従うことはできません。
なぜなら、わたしたち人間には原罪があるからです。それゆえに人は一人の例外なく、生まれながらに罪によって汚れ、神と隣人に敵対して生きているのです。体は、罪によって腐敗し、朽ちて行くのです。
しかし、聖霊が主イエスの御言葉を通してわたしたちの体を、罪から清めてくださいます。生まれながらに罪によって腐敗した心と体を清めて生かしてくださいます。だから、聖霊はわたしたちの内に宿り、主イエスの御言葉を通してキリストの真理と命をお与えくださいます。
昔から改革派教会は、聖霊と御言葉を通して、教会は建てられ、キリスト者は信仰から信仰に成長して行くと確信して来ました。だから、教会の会堂の中には、講壇と聖書があり、聖餐卓と洗礼盤が置かれ、それをコの字型に囲むように会衆席が設けられていました。
カトリックの会堂とは異なり、日曜日の礼拝で御言葉が語られ、聞かれない週日は、会堂の扉が閉められていました。
主イエスの弟子となる、キリスト者となるとは、どういうことであるか、今朝の主イエスの御言葉を通して、いつも考えてほしいと思います。
毎週の主の日の礼拝で、御言葉が語られ、聞かれます。その繰り返しの中でキリストの体なる教会は建てられます。しかし、同時に何と多くの者たちが礼拝で語られるキリストの言葉につまずいて、キリストの体なる教会から離れ去っていることでしょう。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にその事実を隠すことなく、主イエスの弟子たちの多くのつまずきを伝えているのです。
そして、驚くべきことを記しています。主イエスの弟子たちの多くが去り、残された十二弟子たちの中にも、裏切り者のイスカリオテのユダがおり、不信仰なデマスがおり、主イエスを否定したペトロがおり、主イエスを見捨てた弟子たちがいたことを伝えています。
だから、今朝の御言葉で、弟子たちの多くが去り、残された十二弟子たちに、主イエスははっきりと言われました。「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」(64節)と。
主イエスは、こう言われました。「あなたがたの内には信じない人々がいる」と。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの世の教会の現実を指摘しています。主イエスは初めから十二弟子たちの中でだれが御自分をユダヤの官憲に引き渡して裏切り、また、不信仰で、信仰の弱さのゆえに主イエスを否定し、あるいは見捨てて逃げて行くかを知っておられたと伝えています。
それでも、主イエスは十二弟子たちを召され、主イエスの弟子たちの群れとされました。
どうしてでしょうか。主イエスは、御自分と十二弟子たちの関係を、父なる神の御意志の中にあると、宣言されています。
ヨハネによる福音書は、繰り返し主イエスの弟子、すなわち、キリスト者は父なる神の召しによって成り立っているのだと主張しています。
たとえば、次のような主イエスの証言を記しています。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(6:37)。そして、「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」(6:39)。
父なる神のお許しは、教会の福音宣教という召しを通してなされています。そして、聖霊が御言葉を通して、今キリストが臨在される教会の礼拝に来る者たちの心に働きかけ、彼らにキリストへの信仰を呼び起こすことでなされています。
そして、この教会の福音宣教には光と影があります。召される者がいれば、去る者もいるのです。ヨハネによる福音書は、66節で「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と記しています。
そうした中で主イエスは、十二弟子たちの信仰を試されました。「あなたがたも離れていきたいか」と。
主イエスは、十二弟子たちに「あなたがたも去ることを願うのか」と質問されました。
その時にペトロは、主イエスに言いました。「だれのところに行きましょうか。」
この時のペトロは自信に満ちていました。弟子たちの多くが主イエスを離れても、彼は主イエスに「あなたのお言葉に永遠の命がある」と告白しました。
なぜなら、彼は確信がありました。「あなたこそ神の聖者である」と。
ペトロは、主イエスに信じ、知っていますと、実に力強く言い切っています。
しかし、ヨハネによる福音書は、このペトロがこの後に主イエスがユダヤの官憲に捕らえられ、裁判にかけられたとき、三度主イエスを否定し、逃げて行ったことを記しています。
だから、主イエスは、ペトロの信仰告白を、「お前はよく言ってくれた」と評価されていません。
むしろ、主イエスは、残された十二弟子たちも、御自分を裏切り、不信仰に陥り、御自分から離れることを予告されました。
主イエスが御自分で十二弟子たちを召されました。だが、その一人、イスカリオテのユダは、主イエスに「悪魔である」と言われています。
この主イエスの御言葉は、わたしたちのこの世の教会の神秘であると思います。
わたしは、使徒パウロの御言葉を思い起こします。「わたしの身に一つのとげが与えられました。思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:7-9)。
主が召された教会の中に今もユダはいます。どうしているのか、わたしたちが思い上がらないためです。
また、わたしは、思うのです。この世の教会に信じられないことが起こります。それを、主イエスは御存じです。知っていて、主イエスは御自身のところに召してくださったのです。教会がこの世の罪で混乱し、キリスト者たちが大きな罪を犯すなら、今朝の主イエスのお言葉に心を向けるべきです。
向けるからこそ、わたしたちに真に罪の悔い改めができると思います。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に十字架のキリストの勝利を伝えています。キリストは、御自身が「悪魔」と呼ばれたユダのためにも、十字架で死なれ、罪と悪魔に勝利されました。
キリストは、ユダに罪の悔い改めを、彼が死に至るまで求められていたでしょう。
今も同じです。主イエスは、今ここにおられ、今朝わたしたちにこの御言葉を語られると共に、わたしたちを聖餐の恵みへと招かれています。
この恵みに招かれる者は、キリストのパンとぶどう酒を飲み食いし、永遠の命をいただくことができます。
本当に不思議なことですが、どんなにこの世の教会で主に対する裏切りが行われても、そこがキリストの教会であれば、常に毎週の日曜日に御言葉が語られ、そして、聖餐式が行われています。
本当に悲しいことを、教会で経験しても、主イエスはその教会に日曜日ごとに臨在され、御自身の民を招かれ、御言葉を語られ、その御言葉を聞く群れを起こし、信じる者に洗礼を施し、そして、罪を悔いて、主イエスを信じ、御国へと、わたしたちが歩めるように、聖餐の恵みにあずからせてくださるのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスの御言葉につまずいた弟子たちの多くが主から離れたことを学びました。
わたしたちの教会は、毎週主の日に主に御言葉が語られています。だが、わたしたちは自らの罪と豪まで、その御言葉につまずき、教会を去ることがあります。
しかし、主イエスは、わたしたちをこの教会に召されただけでなく、わたしたちの弱さとつまずきをよくご存じです。
だから、主イエスは、今朝の御言葉で、御自分に帰るように招かれています。そして、今朝は、ここにいてくださり、御言葉と共に聖餐式の恵みにわたしたちをあずからせてくださり、感謝します。
どうか、聖餐式ごとに、キリストの十字架と復活を覚え、パンとぶどう酒にあずかり、キリストの肉と血を食べ、飲むことで、キリストの永遠の命にわたしたちもあずからせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
主の2016年10月9日
その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきりと示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上っていくがよい。わたしはこの祭に上っていかない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
ヨハネによる福音書第7章1-9節
説教:「主イエスの兄弟たちの不信仰」
前回は、主イエスの弟子たちの多くが、主イエスの御言葉につまずいて、離れ去ったことを学びました。主イエスは、残った12弟子たちにも、「あなたがたも、わたしから離れるのか」と質問されました。主イエスの問いに対してペトロが立派な信仰告白をしました。彼は、主イエスこそが永遠の御言葉を持たれ、神の聖者であると言いました。
ところが、主イエスの応答は冷たいものでした。主イエスはペトロの「あなたは神の聖者である」という信仰告白を無視されて、御自分が選ばれた十二弟子たちの中の一人は悪魔であると言われました。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にそれはイスカリオテのユダであると記しています。彼は、主イエスが召された十二弟子たちの一人であるのに、密かにユダヤ人の指導者たちと通じて、主イエスを彼らに売り渡そうとしていました。
だから、今朝の7章1節でヨハネによる福音書は、次のように記しているのです。「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」と。
わたしたちの新共同訳聖書は、想像たくましく主イエスがガリラヤを巡回伝道し、ガリラヤ地方の町々、村々を巡って巡回説教をされていたように記しています。
福音書のギリシャ語を日本語に翻訳する作業は、単純にギリシャ語を日本語に転換することではありません。そうであれば、「イエスはガリラヤを巡っておられた」ではなく、「ガリラヤを歩いていた」と訳すべきです。主イエスは、ガリラヤのあちらこちらを歩き回られていたのです。当然主イエスが十二弟子たちと共にガリラヤ伝道されていたのだと、わたしたちはこの御言葉を読んで思うわけです。
しかし、主イエスは、ユダヤ地方をあちらこちら歩き回ろうとは思われませんでした。その理由は、一つはユダヤ人たちに命を狙われていたからです。これについては、少し後で触れましょう。
第二の理由は、6節の「わたしの時は来ていない」からです。神が定められた時であります。主イエスが十字架に上げられて、神の栄光を現される時であります。
さて、今朝の御言葉で、すなわち、7章1-9節で、5章から記されていた主イエスの第二回目のエルサレムへの上京の記述が終わります。次回より主イエスの第三回目のエルサレムへの上京の記述なされます。
第二回目のエルサレムへの上京で、主イエスは御自分を、父なる神の子であると宣言し、父なる神は子に裁きの業を委ねられ、主イエスは御自分の御言葉を聞いて信じる者には、永遠の命を与え、裁かれることなく死から命に移っていると、ユダヤ人たちに語られました。そして、主イエスの語られる裁きは、今主イエスの御言葉を聞いている今、信じるか否かで行われていると言われました。
その結果、主イエスは公然とユダヤをあちこち歩けなくなりました。主イエスがユダヤ人たちの安息日を破って病気の人を癒し、御自分を神と等しい者とされたので、ユダヤ人たちは主イエスを、神を冒涜する者として、殺そうとしたからです。
7章1-9節は、第二回目のエルサレムへの上京の記事の締めくくりであり、第三回目のエルサレムへの上京の記事への橋渡しでもあります。
ここで注目する記述は、「仮庵祭が近づいていた。」主イエスの兄弟たちの不信仰、そして「わたしの時がまだ来ていない」と言われた主イエスのお言葉です。
新共同訳聖書も、多くの日本語訳聖書は「仮庵祭が近づいていた」と訳しています。「近かった」というニュアンスです。
仮庵祭は、ユダヤ人たちの三大祭りの一つです。秋の収穫の季節に重なりました。そこで主なる神はモーセを通して神の民に次のようにお命じになりました。「麦打ち場と酒ぶねからの収穫が済んだとき、あなたは七日間、仮庵祭を行いなさい」(申命記16:13)と。
そこで祭の期間、すべての成人男子は、エルサレムに仮庵を作って滞在しなければなりませんでした。神の民が昔奴隷の地エジプトを脱出し、荒野で四十年間生活したことを記念して、パレスチナに定住した後、家の屋上や庭に木の枝で庵を作り、そこに住んだことから、仮庵祭という名が付けられました。
収穫の季節にこの祭を祝うのは、神の民イスラエルの歴史が罪の赦しを意味する贖いに基づいてなされているからです。偶像の神々を信じて、その神話に基づいて秋の収穫を祝うパレスチナの祭りと仮庵祭は明確に区別されました。
今年は諏訪地方の各地は主柱祭で、秋の収穫を祝っています。わたしたちキリスト者は主イエス・キリストを信じているのですから、その信仰に基づいて定められた主の日の礼拝を守り、主に秋の収穫を感謝することが主の御心に適うと思います。
旧約聖書を読みますと、神の民イスラエルは、自分たちがカナンの民たちの偶像を礼拝することは許されませんでしたが、カナン人たちがカナン人たちの神々を拝み、収穫祭を祝うことを非難してはいません。
ただし、脱出することは大切です。アブラハムは主に召されてメソポタミアからカナンに脱出しました。月の神を拝んでいた共同体から、主なる神に贖われて、カナンへと導かれ、神の民イスラエルも奴隷の地エジプトの偶像の神々の世界から贖われてカナンへと導かれました。
導かれたところも偶像礼拝がなされているところでしたが、アブラハムも神の民イスラエルも、主なる神のみを礼拝しました。
神の民イスラエルに、仮庵祭が近くにありますように、キリスト者にとっても主の日は近くにあります。神の民イスラエルがカナンの地でカナンの神々に異邦人たちが収穫感謝を祝う時、仮庵祭を祝っていました。わたしたちも、御柱祭を祝い、秋の収穫感謝を祝われている中で、主の日に主イエスと父なる神、聖霊の、三位一体の神を礼拝し、秋の収穫を感謝することは、主の御心に適うのです。
主イエスの弟子たちの多くが、主イエスのお言葉に躓き、離れたことを学びました。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、主イエスの兄弟、すなわち、主イエスの肉親の弟たちも不信仰であったことを伝えています。
新共同訳聖書は日本の習慣に従い、3節で「イエスの兄弟たち」と訳していますが、主イエスがヨセフとマリアの長男ですから、ここは「主イエスの弟たち」と訳すのが正確です。
主イエスと肉親との関係は、分からない点が多いです。ヨハネによる福音書が主イエスの弟たちについて言及するのは、ここと20章17節のところだけです。20章17節の主イエスが言われる「わたしの兄弟」が主イエスの弟たちであればですが。
この記述でヨハネによる福音書がわたしたちに伝えているのは、主イエスが置かれている厳しい現実です。
弟子たちの多くに去られ、残った十二弟子たちの中の一人は、主イエスをユダヤ人指導者に売り渡そうとする悪魔であり、残りの弟子たちは外見的には自信満々の者たちですが、主イエスの信頼を得てはいません。信仰告白したペトロさえ、後に主イエスがユダヤの指導者たちに逮捕され、裁判にかけられた時、三度主イエスを知らないと言って、主を裏切りました。
一番信頼すべき肉親たちが、主イエスの弟たちが主イエスを信じていませんでした。
弟たちは、主イエスのところに来て、偉そうに命令しました。エルサレムに上京せよと。
命令した理由は、ガリラヤでしている奇跡を、エルサレムにいる弟子たちに見せることです。
わたしは、この場面を次のように思い巡らしました。3節と4節を読んでいると、表に出ていませんが、サタンが主イエスを、彼の弟たちの不信仰を利用して誘惑しているように思えるのです。
サタンは、主イエスの弟子たちの多くがガリラヤで去って行ったことを知っています。そこで不信仰な弟たちを用いて、「エルサレムにはお前の奇跡を見て多くの者たちが信じたではないか。お前のファンが多く居る。彼らにここでした奇跡を見せてやれ。彼らなら信じてくれて、お前は有名になれる」と。
弟たちは、主イエスにエルサレムに上京して、ここでしたように奇跡を行い、自分を広く知られるようにしなさいと勧めました。すなわち、広く世間に知られて、有名人になりなさいと勧めたのです。
主イエスがエルサレムで有名人になれば、弟たちもその恩恵にあずかれると思ったのでしょう。この世の欲に心奪われた主イエスの弟たちを、ヨハネによる福音書は、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」と記しています。
信仰は肉からは生まれません。主イエスがユダヤ人の教師ニコデモと対話された時に、「肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」と主イエスは言われました。肉から生まれた主イエスの弟たちは、主イエスを信じることより、主イエスを利用してお金儲けをしようとしました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが「わたしの時はまだ来ていない」と言われたことを伝えています。
要するに、主イエスが神の子の栄光の姿を現される時のことです。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエス・キリストが十字架と復活の時に御自身の神の子としての栄光を現されたことを伝えてくれています。
その時が来るのは、主イエスが仮庵祭にエルサレムに上京される時からであります。
第三回目にエルサレムに上京され、主イエスは十字架の道を歩まれて行きます。
他方、主イエスは、「あなたがたの時はいつも備えられている」と言われています。
これは、主イエスが常にわたしたちキリスト者と共にいてくださる時です。十字架と復活を通して、御自身が神の子であることの栄光を現された主イエスは、その後に天に上られました。そして、わたしたちに聖霊を遣わされ、この地上に教会を建て、礼拝ごとに聖霊と御言葉を通して臨在してくださっています。
だから、今キリストは礼拝ごとに教会に臨在され、聖霊と御言葉を通してヨハネによる福音書と同じように、今ここにいるわたしたちに「真にわたしを見た者は神を見たことになり、わたしを信じる者は永遠の命を得、死から命に移されている」と言われているのです。
ここに、この礼拝にこそわたしたちがキリストを通して、神を見る者となる祝福と喜びがあります。
そして、わたしたちが見るキリストは、この世に憎まれておられます。どうしてか、御自身の十字架によって、御自身を公にされました。そして、御自身の死によってこの世の行いの悪いことを証しされました。だから、闇を愛するこの世は、キリストを憎みます。
洗礼を受けてキリスト者になっただけでは、キリストの弟子であることだけでは、この世に憎まれることはありません。
しかし、キリストに従おうとすれば、この世に憎まれるでしょう。具体的には、日曜日の礼拝を続けることです。それは、自分がキリストの弟子であることを公にすることです。十字架に死なれたキリストの御後に従うことですから、この世の生き方に背を向けることですから、この世とは異質ですので、特に日本では憎まれます。キリストの十字架をこの世の人々に伝えることは、伝える相手の罪を言うことになりますから、必ず反感を買うでしょう。
諏訪に来まして、年配の牧師と交流を持ちました。その牧師が御柱祭に誘われました時に、誘った方がキリストさんは十字架を背負って参加すればよいと言われたそうです。同じ柱を立てるのだからと。
うまいこというものだと思われましたが、参加されませんでした。十字架を立てることは、この世の人々と同調することではありません。相手に向かって、お前は神に反逆した罪人であると伝えることです。そのままでは滅びるぞと伝えることです。主イエス以外に死と滅びから救われる道はないと説得することです。
主イエスは、ユダヤ人たちに「あなたがたは悪魔である父から出た者で、人殺しである」と言われて、彼らに憎まれました。
神の恩寵は、本当に不思議です。主イエスが弟子たちの多くに去られ、十二弟子たちに裏切られ、御自分の弟たちの不信仰に出会われ、そして、この世に憎まれて、十字架に死なれた時に、豊かに現わされたからです。
神の子キリストが、この世に憎まれて死なれたからこそ、わたしたちは罪の赦しの恵みにあずかれたのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスの兄弟たちの不信仰を学びました。
わたしたちは、今朝の御言葉から主イエスの十字架の栄光と恵みを見させていただき感謝します。
礼拝に来るごとに、主の御言葉をいただき、主イエスを見る者は神を見たのであると、死から命の恵みに移されている喜びにあずかれて、感謝します。
主イエスは、「わたしはこの世に憎まれているが、あなたがたは憎まれていない」と言われました。どうか礼拝に出続けて、キリスト者であることを公にし、キリストを人々に証しすることで、この世の人々の憎しみを受け、主の十字架を担うことができるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教28 主の2016年10月16
しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者がいれば、「いや、群衆を惑わしている」という者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。―もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが―だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」
ヨハネによる福音書第7章10-24節
説教:「仮庵祭での主イエス」
前回は、主イエスの肉親の弟たちの不信仰を学びました。仮庵祭が近づいていました。主イエスは十二弟子たちとガリラヤ地方をあちこちと歩きまわられていましたが、ユダヤ人の指導者たちが主イエスの命を狙っていましたので、ユダヤ地方に行き、あちこちと歩こうとは思われませんでした。
ところが、主イエスの弟たちは、仮庵祭にエルサレムの都に上り、ガリラヤで行っていた奇跡を見せて、有名になりなさいと偉そうに命令しました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの弟たちさえも、主イエスを信じていなかったと伝えています。
主イエスは、弟たちの命令を拒まれて、今、まだ神が定められた時が来ていないので、上京しないと言われ、弟たちだけで行くがよいとも言われました。
さて、本日のヨハネによる福音書7章10節より20章29節まで主イエスの第3回目のエルサレムへの上京を記しています。主イエスは、仮庵祭に人目を忍んでエルサレムの都に上京され、そこで神殿奉献記念祭、過越祭までエルサレムに滞在され、十字架の道を歩まれます。
不信仰な弟たちとエルサレムに上京することを拒まれましたが、「わたしの時が来た」ので、主イエスは人目を避け、隠れるようにしてエルサレムの都に入られました。
このように上京されたのは、主イエスは再びガリラヤに帰られる意志がなかったからです。最後は十字架の死に至る御自身の栄光の道を歩まれたからです。
ですから、仮庵祭から10章22節の神殿奉献記念祭を経て、11章55節の過越祭まで主イエスは、エルサレムの都とその周辺で滞在を続けられます。ガリラヤには帰らないで、10章40節では「ヨルダン川の向こう側」のユダヤ地方とその周辺に滞在され、11章1節はベタニアの村に滞在され、11章54節では「荒れ野に近い地方のエフライム」に滞在され、そして12章1節では再びベタニアで滞在され、その後エルサレムへの最後の入城をし、エルサレムで十二弟子たちと最後の晩餐をされ、そしてユダの裏切りで、ユダヤの官憲に逮捕され、ローマ総督ピラトの裁判で死刑判決を受け、十字架刑で死なれました。ヨハネによる福音書は、このすべての過程を「神が定められた時」、すなわち、主イエスの「わたしの時」として描いているのです。
主イエスの「わたしの時」は、キリストの栄光が現わされる時でありますが、主イエスは、御自分が世に憎まれる時であるとも言われていました。主イエスが、公然とこの世の悪を指摘されるからです。
世に憎まれ、公然とユダヤ地方とエルサレムの町を歩けなくなられ、ユダヤ人指導者たちに殺されることで、主イエスは御自分が神の独り子なる栄光を公にされるのです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にエルサレムの都における人々の評判を伝えています。仮庵祭でエルサレムの都は、巡礼者で溢れていたでしょう。ユダヤ人の指導者たちは、主イエスを警戒し、居場所を探していました。
祭りに集まりました群衆たちの間で、主イエスの評価は分かれていました。「良い人だ」と言う人々がおれば、「民衆を惑わしている」と言う人々がいました。しかし、噂する人々に共通するのは、ユダヤの指導者たちを恐れ、公然と主イエスのことを話せないことでした。
実は、ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架に死なれて、およそ70年後に書かれました。その頃、初代教会とキリスト者たちは、ユダヤ人たちの迫害を受けていました。
だから、キリスト者たちも、エルサレムの群衆たちと同様に、ユダヤ人たちを恐れて、公然と主イエスについて語れなかったと、わたしは思います。
ところが、仮庵祭が半ばを過ぎたときに、隠密に行動されていた主イエスは、突然エルサレム神殿の境内に現れられました。神殿はエルサレムの高い丘の上にありましたので、「上って行った」と記されています。
主イエスは、公然と仮庵祭に集まった群衆に聖書を教えるために神殿の境内に上られました。
そして、主イエスの教えを聞いて、ユダヤの指導者たちは驚いてしまいました。主イエスは、律法学者たちのように正規の仕方で聖書を学ばれていなかったからです。当時の神学校のようなところで、有名な律法学者の指導を受けて聖書を学ばれたことはありません。
彼らは、どこで主イエスが聖書についての深い知識を身に着けたのかと驚くと、主イエスが答えられて、主イエスとユダヤ人指導者たちと主イエスと群衆たちとの論争が始まりました。
この論争を、ヨハネによる福音書は、初代教会のキリスト者たちとユダヤ人たちとの論争を踏まえて記しているのです。
主イエスは、ユダヤ人の指導者たちに言われました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、御自分を遣わされた方の教えである」と。
主イエスは、御自分の教えの出所を言われました。
主イエスが話される教えは、御自分のものではなく、御自分をお遣わしになった神のものであると。
そして、この事実は、「この方の御心を行おうとする者」には、理解できると、主イエスは言われます。
「この方の御心を行おうとする者」に「聖霊に導かれて」を補うとよく分かります。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの言葉で、わたしたちキリスト者のことを述べています。
聖霊に導かれたキリスト者には、主イエスの教えが神からでたものか、主イエスが自分で自分の思いを語られているのか、理解できると。
その通りです。わたしたちは、教会の礼拝で、神の御言葉、キリストの言葉を聞きます。
もし、主イエスが父なる神の御言葉ではなく、御自分の言葉を語られるのであれば、父なる神よりも御自分の栄光をお求めになるでしょう。
しかし、主イエスは御自分の十字架を通して父なる神の栄光が現わされることをお求めになりました。
だから、キリスト者は次のことを知っているのです。主イエスは真実の人であり、彼には不義がないと。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、主イエスのお言葉を通して、説教論を語っているのです。
誰であれ、牧師は自分自身から、そして、自分自身を根拠としてしか語れない者は、自分の栄光を求める以外にない。
それに対して牧師が自分を超え、自分を召し、遣わされたお方の栄光を求めるならば、彼は真実主の証し人であり、彼の言葉に不正がないと。「その人には不義がない」という文章は、不正がないという表現の方がよいと思います。
改革派教会が伝統的に証しを嫌うのは、語る者の自慢話になりやすいからです。宗教改革者カルヴァンは、ほとんど自分のことを語らず、御言葉の解き明かしに徹しました。聖書の御言葉、神の御言葉こそ真の権威があり、わたしたちをキリストの十字架に導き、神の御救いの恩寵にあずからせると信じていたからです。
どうか、この主イエスのお言葉を、常に主の日の礼拝で聞く牧師の説教を判断する規範の御言葉にしてください。
最後に主イエスは、突然19節から21節でモーセ律法を語られ、22節から24節で安息日についてお話になっています。前後につながりはありません。
だから、読んでいると頭が混乱してしまいます。
理解するカギは、主イエスはユダヤ人たち指導者の優先順位を逆転されているのです。指導者たちは、モーセ律法を何よりも優先しました。だから、彼らは安息日と割礼を何よりも優先しました。なぜなら、モーセが民に安息日と割礼を命じているからです。
特にここで主イエスが、次のように言われていることに注意してください。23節です。「モーセ律法を破らないようにと、人は安息日であっても、割礼を受けるのに」。
主イエスの時代に、ユダヤの民は、モーセの律法を破らないように、安息日に割礼を受けていました。
割礼とは男性の性器を切る儀式です。それによって人々は神の民の仲間入りをします。
ところが、主イエスがエルサレムの都にあるベトザタの池で安息日に病人を癒されると、安息日律法を破ったと非難されました。
主イエスは安息日に病人を癒されたことを、割礼より優先されました。なぜなら、割礼は人間の一部分に関わる行為であり、主イエスが病人を癒されたのは、その人の体全体を健康にする行為だったからです。
主イエスは、わたしたちの目に見える形で明らかにされませんが、モーセ律法の根本は神を愛し、隣人を愛することです。その観点から見て、安息日に割礼を施すのと、病人を癒すのでは、どちらを優先すべきかは明らかであると言われました。
それが「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」ということです。
今朝の御言葉が、主イエスの噂話、主イエスの評価で始まりましたので、ここは表面的な判断をしないで、正しい判断を判断しないということです。
今、礼拝にあずかっている者として、今朝の主イエスのお言葉から、わたしは、次のことを学びたいと思います。
神が人として受肉されたわたしたちの世界は、噂話が日常化しています。それは、現代ではテレビとインターネットを通して世界に拡散されています。
人々は、噂話で時を過ごしています。今もそうです。
しかし、わたしたちは、ここで主イエスの御言葉を聞いています。主イエスを教えに耳を傾けています。
噂話の中で自分たちの栄光を、自慢話をするのではなく、主イエスを遣わされた父なる神の栄光を求め、賛美するために、今ここで礼拝をし、御言葉を聞き、主を賛美しています。
同時に、わたしたちの現代社会も人が人を評価し、判断します。先週ネットのニュースで大手の広告企業に就職した女性が過労死したということを伝えていました。残業を強いられ、パワハラを受け、心身共に病み、自ら命を絶たれました。
その女性は、一人の人間ではなく、交換できる部品のように、出来の悪い部品として扱われました。
わたしたちの教会は、十字架の主イエスの死を語り、人間ではなく部品のように扱われている人々に、次のように語らなければなりません。「あなたはこの世で交換可能な部品ではない。あなたは、キリストの十字架を通して父なる神に愛された、ただ一人の大切な神の子である」と。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスが仮庵祭に第3回目のエルサレムへの上京なさたことを学びました。
わたしたちは、今朝の御言葉から主イエスの御言葉が父なる神の教えであり、同様に牧師の説教が主イエスの御言葉であることを、判断する主のイエスの御言葉を得たことを感謝します。
また、この世は噂話がテレビやインターネットで世界に拡散し、本当のことを見えなくしています。しかし、礼拝に来るごとに、主の御言葉をいただき、ここに主イエスがおられ、真実と命があることを確信します。
どうか、わたしの教会が、ホームページを通して、この世の多くの人々にキリストの福音を伝えることができるようにしてください。
教会に聖霊の風を感じています。風が思いのままに吹くように、自由に働き給う聖霊が、わたしたちに信仰をお与えくださるだけではなく、共に礼拝する神の民をこの教会に招き集めてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教29 主の2016年11月6日
さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっているものではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。私は勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人より多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
ヨハネによる福音書第7章25-36節
説教:「今しばらくの間」
前回は、仮庵祭の半ばで主イエスがエルサレム神殿の境内で祭りに来た群衆たちに教えられ、彼らと論争されたことを学びました。
14節でヨハネによる福音書は、「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた」と記し、8章59節で「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」と記しています。ですから、ヨハネによる福音書は、第7章14節から8章59節まで、主イエスが仮庵祭にエルサレム神殿の境内で教え、論争されたことを記しています。
主イエスが論争されたのは、3種類の人々です。第1が群衆です。彼らは仮庵の祭りを祝うためにエルサレムの都に来た巡礼者たちです。第2が25節の「エルサレムの人々」です。エルサレムの都に住む住民たちです。そして、第3が「ユダヤ人たち」です。彼らは主イエスを殺そうと企てていたユダヤ人たちの指導者たちです。
主イエスが仮庵祭の半ばに、エルサレム神殿の境内で公然と巡礼者たちに教えられ、彼らと論争されているのを見て、エルサレムの都の住民たちの中には、都の指導者たちに不信を抱く者たちがいました。
なぜなら、彼らの25-26節の声を聞いて見てください。エルサレムの都の住民たちは、祭司長たちやファリサイ派の律法学者たちが、主イエスを殺そうとしていることを知っていました。
しかし、彼らは、エルサレム神殿の境内で、驚くべき光景を見て、指導者たちに不信の念を覚えたのです。
それは、主イエスが神殿の境内で大勢の巡礼者たちに公然と教え、論争されていても、指導者たちは一言も言わずに黙認しているのです。
そこで彼らの心に疑念が生まれました。サンヘドリンの議員たちは、すなわち、ユダヤの指導者である祭司長たちやファリサイ派律法学者たちは、イエスをメシアと認めたのだろうか、そんなはずはなかろうと。
なぜなら、エルサレムの住民たちは、主イエスがどこの出身であるかを、よく知っていました。だから、彼はこう思いました。「イエスはガリラヤのナザレ出身である。だから、メシアではない。メシアがどこから来るか、だれにも知らされていないのだから」と。
彼らは、主イエスの弟子の一人ナタナエルと同じように「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(1:46)と思っていたのです。
そこで主イエスとエルサレムの住民たちとの論争が始まりました。
主イエスは、彼らが主イエスがガリラヤのナザレの出身であることを知っているという事実に、もう一つの事実を加えて、28-29節でお話になり、御自身がメシアであることを告げられました。
加えられたもう一つの事実とは、主イエスが父なる神さまに遣わされてこの世に来られたということです。
主イエスは、彼らに次のように言われました。「今わたしが神殿の境内にいるのは、自分勝手に、自分の意志でいるのではない。わたしを遣わされた方の御意志でいるのである。」
主イエスは、彼らに「遣わされて来たと言われ、遣わしたお方は真実であり、あなたがたはその方を知らない」と言われました。
エルサレムの住民たちは、主イエスを、「メシアはどこの出身か分からないのだから、ガリラヤのナザレ出身のイエスはメシアではない」と拒みました。
それを、主イエスは批判されたのです。彼らは、自らの考えで主イエスがメシアであることを拒み、真実主イエスを遣わされたお方に対する無知を明らかにしたと。
主イエスがメシアであることを拒む者は、主イエスを遣わされた父なる神を拒み、真実主イエスが何者であるかを知らないし、主イエスを遣わされたお方がだれかも知らないのです。
29節で主イエスは、御自身を遣わされたお方と一体であると言われています。
30節の御言葉から推察すれば、主イエスは御自分と父なる神は一つであると言われ、それを聞いた人々、この人々はユダヤ人指導者たちです。彼らは、主イエスが神を冒涜したと思い、逮捕しようとしました。
しかし、まだ主イエスの時が来ていませんでした。ヨハネによる福音が「主イエスの時」と言うのは、主イエスの栄光の時です。主イエス御自身が神の御子であることを公になさる栄光の時です。それが十字架の復活の時です。
ところが、祭りに来た巡礼者たちの中には、主イエスを信じる人々がいました。彼らは、主イエスが神殿の境内で彼らに教えるだけでなく、数々の癒しの奇跡をなさるのを目撃し、実際にメシアが現れても、主イエスのように数多くの奇跡を行われるだろうかと言いました。
神殿の境内で教えておられる主イエスについて、群衆たち、エルサレムの都の住民たちはいろいろな反応をしました。そして、分裂が起こりました。
それは、都の治安を守る指導者たちには見過ごしにできないことでした。
だから、エルサレムの都で主イエスについてつぶやく人々の声を耳にした祭司長たちとファリサイ派律法学者たちは、彼らの手下を遣わして主イエスを捕らえようとしました。
ヨハネによる福音書は、これまで主イエスを弾圧し、殺そうとした支配者たちを「ユダヤ人たち」と称してきました。ところが、ここで「ファリサイ派の人々」「祭司長たち」という名が登場します。そして今後頻繁にこの名称が登場します。
33-36節は、この福音書の中で重要な転換点であります。これまでは、主イエスはどこから来られたのかを、カメラのピントを合わせてフォーカスしてきました。主イエスは、父なる神に遣わされて来たことを強調されました。だから、今神殿の境内のここにおられるのです。
しかし、それは「今しばらくの間」であると、主イエスは言われます。今しばらくの間は、この地上にユダヤ人たちと共にいると言われています。
それから主イエスは、御自分を遣わされたお方のところに帰ると言われています。
それは、主イエスにとって栄光の道です。すなわち、御自身の十字架と復活を通して、主イエスは御自身を遣わされたお方のところにお帰りになります。
主イエスが昇天し、御父のところに帰られるので、この地に生きる者はだれも、天に昇ることができません。だから、ユダヤ人たちは、主イエスが行かれるところに行くことはできず、昇天された主イエスを見つけることはできないのです。
ところが、ユダヤ人たちは誤解しました。主イエスがユダヤの国、すなわち、パレスチナを離れて、外国に住むユダヤ人たちのところに行くのだろうと思いました。主イエスがパレスチナの地を離れ、ギリシア語を話すユダヤ人たちやギリシア人たちのところへ行き、彼の教えを広めようとしていると誤解しました。
このように主イエスは、どこに行かれるのかを、カメラのピントを合わせてフォーカスしようとしています。
これまでは、御言である神の御子キリストがこの世に来られた視点で、ヨハネによる福音書は主イエス・キリストを証ししましたが、これからは主イエスが父なる神のところに去って行かれる視点で、福音書は主イエス・キリストを証ししていくのです。
その転換点が「今しばらくの間」です。
まさに「今しばらくの間」、父なる神の御子である主イエス・キリストは、この世に来られ、ユダヤ人たちや弟子たちと共にいてくださいました。聖書の神は、超越したお方ですが、この世界に内在されるお方です。
榊原康夫牧師が今朝の御言葉の説教の中で、次のようなことをお話しになっています。
「聖書の神様は内在の神であり、私たちの内に住み私たちの世界に御臨在されるお方だ、と教えられています。これは、私たちがいつでも平凡な日常生活の中で、“隠れたるメシア”“隠れた神”を見出すように気を付けて生活することを教える教理である」と。
だから、榊原牧師は、東京恩寵教会の礼拝者たちに「きょうーきょうという日の間に、私たちはキリストを見出さなければならない。今、全力投球でメシアを見出さなければならない」と説教されています。
そして、榊原牧師は説教を次のように締めくくられています。「どうか、私たちが、その意味で、『今しばらくの間』にイエス・キリストを救い主として見出すようでありたい、と願うのであります。この機会を逸したら、たとえ私たちがイエスを捜し求めても、彼を見つけることはできないであろう、そういう時がくるのではないか、と恐れるのであります」。
主イエスが地上におられた日は短かったように、教会の礼拝を通して、主イエスが聖霊と御言葉を通していてくださる日も、いつしか終わるのです。それは、今日かもしれません。明日かもしれません。
だからこそ、主イエスの「今しばらくの間」という恵みの御言葉に耳を傾けて、主イエスがわたしたちの罪のために十字架に死なれ、永遠の命の保障として復活されたことを信じ、主イエスをわたしの救い主と告白し、一緒に今朝の聖餐にあずかり、詩編145編の18節の神の約束の御言葉を心に留めましょう。
「主を呼ぶ人すべてに近くいまし まことをもって呼ぶ人すべての近くいまし」
主に近くいていただくためには、わたしたちは「今しばらくの間」自分の罪を忘れてはなりません。自分は神の御前に罪を犯しているという意識を鈍らせてはいけません。
罪に慣れ、キリストに魅力を見出さなくなるほど、キリストに無関心になり、神の存在を忘れて、この世のみに心を奪われてはなりません。
なぜならば、そのような生活の中で聖書は必要でなくなり、キリストの十字架に心の目を向けることもなく、自然とわたしたちはキリストを求めることができなくなるでしょう。当然、求めなくなれば、見出すこともありません。
キリストを見出せなければ、わたしたちに永遠の命の希望はありません。
キリストを見出さない者には、今しばらく間、この世での栄華があるかもしれませんが、この世の花が枯れるように、やがて永遠の暗闇の時が訪れるでしょう。
だから、主イエスは、言われるのです。「あなたがたはわたしを必要と自覚するのがあまりにも遅すぎる」と。どうか、主イエスの御声にあなたがたの耳を近づけてください。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝も、主イエスが仮庵祭にエルサレム神殿の境内で教えられ、ユダヤ人たちと論争されたことを学びました。
主イエスは、ユダヤ人たちに言われました。「今しばらくの間、わたしはあなたがたと共にいる。」と。どうか、この礼拝で今しばらくの間、わたしたちと共にいてください。
主よ、あなたは、ユダヤ人たちと同じように「あなたがたはわたしを必要と自覚するのがあまりにも遅すぎる」と警告されています。
どうか御霊の導きをいただき、わたしたちの罪を深く覚えさせてくださり、今朝のあなたの御言葉とこれからあずかる聖餐の恵みに心を留め、主イエス以外に救いのないことを深く心に留めさせてください。
主イエスに背を向けている人々、無関心の人々を憐れみ、わたしたちの教会の宣教を祝福し、クリスマス月間に多くの方々を礼拝に集わせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教30 主の2016年11月13日
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
ヨハネによる福音書第7章37-39節
説教:「今しばらくの間」
前回は、主イエスが神殿の境内で教えておられたのに、ユダヤの指導者たちが沈黙しているのを見て、エルサレムの都に住む住民たちのある者たちが彼らはイエスをメシアと認めたのではないだろうかと疑念を持ったことを学びました。
エルサレムの都に住む住民たちのある者たちは、ガリラヤ出身のイエスをメシアと認めることを拒みました。なぜなら、メシアはどこから現れるか、だれも知らされていないからです。
主イエスは彼らに御自分が父なる神から遣わされたことを語られ、父なる神と御自分が一つであると証言されました。
その証言を聞いたユダヤ人たち、すなわち、祭司長たちとファリサイ派の人々は、彼らの手下を遣わして、主イエスを、神を冒涜した者として逮捕しようとしました。
主イエスは、やって来た手下たちに「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとに帰る。」と言われました。
その言葉を、ユダヤ人たちは誤解しました。彼らは、主イエスが外国に住むユダヤ人たちのところに行き、外国にいるユダヤ人たちや外国人たちに教えに行くつもりなのかと思ったのです。
主イエスは、今しばらくは、この世におられるが、十字架と復活を通して父なる神のところに帰ると言われたのです。
さて、今朝は、仮庵祭のエルサレム神殿の境内を舞台にして、ヨハネ福音書がわたしたち読者に主イエスを、何者であると伝えようとしているのかを学びましょう。
主イエスは、エルサレムの都に住む住民たちに御自分は父なる神が遣わされた者であると証言されました。
そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に今朝の御言葉で、主イエスを次のように証ししています。
すなわち、父なる神から遣わされて、この世にやって来られた主イエスは、渇く者にとっての「生きた水」であると。
渇く者とは主イエスを信じる者であり、その者にとって主イエスは、生きた水の流れです。
仮庵祭が最も盛大に祝われる終わりの日に、主イエスは、エルサレム神殿の境内で立ち上がり、大声で大勢の巡礼者たちを御自身のもとにお招きになりました。
仮庵祭は一週間祝われました。だから、この終わりの日とは七日目であるのか、それとも次の安息日の八日目に祝われた日であるのか、定まってはいません。
ヨハネによる福音書がこの祭で注目しているのは、この祭の全期間に神殿の祭壇でワインと共に、近くのシロアムの池から祭司が黄金の瓶で運んだ水が注がれたことです。これがこの祭のハイライトでした。
「終わりの時」にエルサレムの都が世界の中心になり、エルサレム神殿から泉のように水がわき出て、世界に流れ出すだろうと、ユダヤ人たちは信じていました。
預言者イザヤがイザヤ書55章1節で主なる神が神の民イスラエルを招かれて、「渇きを覚えいる者は皆、水のところに来るがよい」と言われた御言葉を預言しています。
主なる神は、荒野で渇きに苦しむ神の民イスラエルに生きた水を与えて、彼らの渇きを癒されました。
その時に主なる神はモーセに岩に向かって水を出せと命じなさいと言われました。ところがモーセは杖で2度岩を打つと、岩から水がほとばしり出ました(民数記20:1-13)。
荒野で神の民イスラエルは、主なる神から生きた水をいただき、喉を潤したのです。
使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の10章4節でこの出来事を語り、、「この岩こそキリストだったのです」と証言しています。
これらを踏まえて、次の主イエスの御言葉を読む時、主イエスが旧約聖書に約束されているメシアであると、わたしたち読者は確信させられるのです。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」
主イエス自身が命の水であられます。主なる神と同様に主イエスは、御自身の救い主と信じる者に生きた水をお与えくださいます。
だから、主イエスを信じる者も、主イエスと一つとなり、生きた水が川となってあふれ出るのです。
聖書に書いてあるとおりに、例えばエゼキエル書47章に神殿の敷居の下から水がわき出ている幻を、預言者エゼキエルは預言しています。エゼキエルは神殿から命の水が流れ出るのを見たのです。
そのように主イエスを信じて、彼と一つにされた者の内から生きた水が川のように流れ出ると、主イエスは御自身のところに招かれた者たちに約束されました。
39節は、ヨハネ福音書が38節の主イエスの御言葉を解き明かしているのです。
ヨハネ福音書は、この生ける水を、「“霊”」であると理解しています。聖霊です。聖霊は、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活し、天に昇られて、十日目に降臨されました。ペンテコステの出来事です。
主イエスを源として、聖霊が豊かにわたしたちに注がれました。だから、わたしたちは、心から喜び、多くの人々に言葉でキリストを証しします。
これこそが、主イエスが約束された「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という主イエスの祝福の出来事です。
12月は、「クリスマス月間」として、聖書のクリスマスメッセージを多くの人々に伝えたいと思います。
そのために今礼拝の報告時に、「クリスマス月間」を覚えて祈ります。
わたしたちも主イエスのように、大きな声で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と教会に招こうではありませんか。
榊原康夫牧師が今朝の御言葉の説教で、実に示唆に富むことを語られています。
「わたしたちは今日、その意味で、特別伝道集会を控えて、“さあ、やりましょう”というふうに力みかえるのではなく、本当にわたしがイエスのもとに来ているだろうか、本当にわたしはイエスを飲んだだろうかーこの事をまず問い直さなければならない、と思うのです。」と。
わたしも説教でよく、毎週日曜日に教会に来ると言ってしまいますが、そうではなく、主イエスのところに招かれて来るのです。
そして、キリストの言葉と共に聖餐式でパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。
だが、わたしたちが目に見えるパンとぶどう酒を飲食することが目的ではありません。
わたしたちは、信仰をもって主イエスを食べ、飲むのです。そして、わたしたちの内にキリストが内在され、わたしたちの内に内在されたキリストからわたしたちの内に生ける御言葉が溢れ流れ出てきます。その御言葉をもって、わたしたちは人々にキリストに救われた喜びを伝えるのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスが仮庵祭で渇ける者を、御自身のところに招かれたことを学びました。
主イエスは、わたしたちを招いて言われました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と。
どうか、主イエスよ、あなたがわたしたちにお与えくださった聖霊を通して、わたしたちの内に内在し、わたしたちにあなたの生ける水をください。
どうか、主よ、聖霊によって、わたしたちの内に御言葉を溢れさせ、わたしたちの家族に、この町の人々にキリストに救われた喜びを証しさせてください。
どうか、主よ、この世は砂漠です。わたしたちは御言葉に飢え渇いています。今朝のあなたの御言葉によってわたしたちの心を潤してください。
御言葉をいただくだけでなく、毎月の聖餐の恵みにあずかり、主イエスを食べ、飲ませてください。
わたしたちの霊の命を支え、わたしたちの内に常に永遠の命に至る水が流れ出るようにしてください。
教会の宣教を祝福し、クリスマス月間に多くの方にクリスマスメッセージを伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。