ヨハネによる福音書説教17 主の2016年7月3日
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
ヨハネによる福音書第3章31-36節
説教:「神の真実を証しする」
前回は栄えるキリストと衰える洗礼者ヨハネについてお話しをしました。
主イエスと彼の弟子たちが、ユダヤ地方で洗礼者ヨハネと同じようにユダヤの群衆に水で洗礼を授けられました。
それを目撃した洗礼者ヨハネの弟子たちが、その事実をヨハネに次のように伝えました。「あなたが証しされたあの方が何と、洗礼を授けています。そしてユダヤの群衆は皆、あの方のところに行っています。」(3:26)。
ヨハネは彼の弟子たちに次のように答えて、証しをしました。第1に彼は、「自分はメシアではない」と証ししました。彼は。神に遣わされて、メシアの道を整えました。第2に彼は、「自分は花婿の介添え人である」と証ししました。メシアであり、教会の花婿であるキリストが来られました。それを彼は喜びました。しかし、彼は同時に神に遣わされた自分の使命が終わったことを理解しました。ですから、ヨハネは彼の弟子たちに「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と証ししました。
さて、今朝の御言葉で、ヨハネによる福音書3章が終わります。3章は主イエスとファリサイ派に属するニコドモとの対話から始まりました。そして、主イエスと彼の弟子たちが洗礼者ヨハネと同じようにユダヤの群衆に洗礼を授け、それを目撃した洗礼者ヨハネの弟子たちがヨハネに知らせて、洗礼者ヨハネは神から遣わされた自分の使命の終わりを理解しました。
その後に今朝の御言葉が続き、3章が閉じられています。このようにこの福音書の3章の筋立ては、今お話ししましたように大体理解できます。
しかし、理解できないこともあります。今朝の御言葉は、一体だれが語っているのでしょうか。洗礼者ヨハネですか。主イエスですか。それともヨハネによる福音書の著者ヨハネですか。
先ほど福音書の筋立ては理解できると申しましたが、さらに福音書の3章の筋立てをもっと理解しやすくすれば、次のように考えることもできるのではありませんか。
わたしは、主イエスとニコデモの対話は3章1-10節までで終わり、後はすべてヨハネによる福音書の著者の文章であると思います。なぜなら、主イエスを「人の子」という三人称で表現しているからです。
わたしは、今朝の御言葉を、3章10節の後に続けて読み、それから3章11-30節を読み、第4章につなぐと、お話の筋立てがすっきりすると思います。今朝の御言葉は誰が語ったのかと迷う必要はないでしょう。
しかし、わたしがお話ししたような筋立てに、ヨハネによる福音書は実際になっておりません。どうして現在のこの形であるのか、そこにこの福音書のどんな意図があるのか、わたしにはよく分かりません。
わたしに分かりますことは、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に主イエスを「先在の神の子」として紹介していることです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1:1)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(1;14)。
ですから主イエス・キリストは、先在の神の子、父なる神の独り子であり、受肉して、「上から」、すなわち、天から来られる方であります。
また、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは一つもなかった。」(1:3)。
だから、上から来られる方である主イエスは、万物の創造者として、「すべてのものの上におられる」、すなわち、主イエスは今現在、万物を支配なさっています。
主イエスは、父の独り子の神として、天と地を支配されています。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、キリストの支配の下で、この世で神の領域に属する者とこの世の領域に属する者がいると教えています。
この世で生まれ、この世の言葉を語る者は、ニコデモのようにこの世のことしか知りえず、神の領域については何も理解できません。
だから、主イエスが神について証しされても、ニコデモのように受け入れることはできません。
ヨハネによる福音書は、主イエスとニコデモとの対話を前提にして、32節で「この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない」と記しています。
主イエスが父なる神と御自身との関係をお話しになっても、この世に属する者はニコデモのように理解できず、受け入れることができないのです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者を次の真理に導こうとしています。キリストの証しを通してでなければ、人はだれも父なる神に到ることはできないのです。
到れないどころか、神が真実であることを確認することもできないのです。すなわち、「神は、その独り子をお与えになったほどにこの世を愛された」という神の真実を確認することはできません。
キリストの証しを受け入れる者は、だれでも「神は、その独り子をお与えになったほどこの世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」という神の真実の愛を、キリストの十字架の救いで確認することができます。
その確認を可能にしているのが、常にキリストと共に、御言葉と共にお働きになる聖霊であります。
わたしは、34節の御言葉は、キリスト教の奥義だと思います。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである」
ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えようとしていることは、次のことです。父なる神が主イエスに無限に聖霊をお与えになることが、主イエスが神の言葉をお話になる根源である、源泉であるということです。
わたしは、この奥義こそ、説教が神の御言葉であるという定義を有効にすると考えます。牧師は、主イエスと同じように、主に遣わされて、御言葉を語ります。その時に主イエスは、遣わされる説教者に、豊かに聖霊を賜り、それによって説教者は神の言葉を語ることが可能とされるのだと思います。
35節に「御父は御子を愛して、その手にすべてを委ねられた。」とありますね。父なる神が主イエスに委ねられたのは、裁きです。すなわち、主イエスが無限に聖霊をいただいて、神の言葉をお話しになり、主イエスの御言葉を聞いて信じる者は、永遠の命を得、信じない者は神の怒りが下されるのです。
父なる神が御子を愛して、すべてを委ねられた背景は、1章18節の御言葉です。「いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
地に属し、地の言葉を語る者は、この世にあって神を知ることはできません。だから、父なる神は愛する独り子である主イエスをこの世にお遣わしになり、彼に豊かに聖霊を与えられて、神の言葉を語らせたのです。わたしたちは、主イエスが語られる神の言葉を受け入れ、父なる神の愛を知らされました。キリストの十字架の福音を通して、神の真実の愛を確認することができるのです。
父なる神は、御子主イエスを受け入れるかどうかで、すべてのことが決まるように、すべてを主イエスにゆだねられました。
ヨハネによる福音書がわたしたち読者に、今伝えることは、次のことです。後にこの福音書の14章8節で、弟子のフィリポが主イエスに「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と要求していますが、わたしたちが父なる神について知り得るのは、主イエスが語られたことのみです。また、主イエスの御言葉とキリストの救いの御業である十字架以外に、神の真実を証しし、確認できるものはありません。
今朝も、全国の改革派教会で、またすべてのキリスト教会で、牧師が、宣教師が、宣教教師が、信徒説教者が主に遣わされて、神の言葉を語ります。キリストを証しします。キリストは道であり、真理であり、命であります。このお方を通してでなければ、だれも父なる神の愛を確認することはできません。
今ここで、わたしたちは、キリストの支配のいずれかに移されるのです。すなわち、キリストの証しを信じるか、信じないかで、救われるか、神の怒りの下に留められるかが決まります。永遠の命を得て、神の御国に入れられるか、この地に属する者として滅ぶかが、今決まります。
ヨハネによる福音書にとって人の救いと滅びは、わたしたちがキリストの言葉を聞いている今、なのです。
不安になる必要はありません。なぜなら、わたしたちは、これから聖餐式の恵みにあずかります。この場こそわたしたちが父なる神の真実を、御子の御言葉と十字架と復活の御業を通して、確認できる場であります。
たとえ、わたしたちは、この世で生まれ、罪に汚れ、神の怒りの下にあるとしても、ここにキリストが一緒にいてくださいます。この世の罪に取り囲まれても、讃美歌205番で賛美するように、「ここにあがないがあり、ここにはなぐさめがあり」ます。キリストの御言葉に清められ、救いの御力にあずかることができるのです。
ですから、わたしたちは、どんな時も絶望することはありません。神の愛はこの聖餐式の上にあるからです。どんなに離れていても、今この聖餐式に集う者に、「上から来られる方は、すべてのものの上におられます」。たとえ今あずかれなくても、今ここにある者は、今キリストの支配の中にあり、永遠にキリストと共にあり、永遠の命の中に置かれています。
この喜びを表現すれば、「みくににていわう日の そのさちや、いかにあらん」という賛美となるでしょう。そして、わたしたちが心から喜び、205番を賛美するなら、わたしたちは、神が真実な方であることを証ししているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、「神の真実を証しする」という題で、ヨハネによる福音書第3章31-36節の御言葉を学ぶことができて、感謝します。
上から来られる方がすべてのものの上におられ、その下でわたしたちは御言葉と聖餐の恵みにあずかれたことを感謝します。
わたしたちは、自らの罪を覚え、信仰生活に困難を覚える者です。信じる者は救われ、信じない者は滅びると聞いて、不安を覚える者です。
しかし、信じて洗礼を受けたわたしたちに、「神が真実であることを確認する」ことを許してくださり、感謝します。
今朝も、主はわたしたちをこの教会へと招き、御言葉と聖餐の恵みにあずからせ、わたしたちすべての上にいて、わたしたちを支配され、わたしたちに父なる神の愛を確認させてくださり、ありがとうございます。
キリストを通して以外に、父なる神に到り、神の愛を確認できる道はありませんから、どうか教会の伝道とわたしたちの証しを用いて、この世の人々にキリストを伝えさせてください。
主よ、聖霊を、わたしたちに豊かにお与えくださり、わたしたちの口を通してキリストを証しさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教18 主の2016年7月10日
さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、―洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである。―ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた乾く。しかし、私が与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
イエスが、「行ってあなたの夫をここに呼んできなさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝をしなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話しているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書第4章1-26節
説教:「主イエスとサマリアの女との対話」
前回は、3章の筋立てをお話ししました。主イエスは、ファリサイ派に属するニコデモと対話をされた後、ユダヤ地方に彼の弟子たちと行かれ、洗礼者ヨハネと同じように、ユダヤの民衆たちに水で洗礼を授けられました。洗礼者ヨハネの弟子たちは、その様子を見て、洗礼者ヨハネに報告しました。洗礼者ヨハネは、彼の弟子たちの報告を聞いて、メシアが活動を始められ、神から遣わされた自分の使命が終わったことを悟りました。そこでヨハネは、彼の弟子たちに次のように証ししました。「メシアであるあの方は栄え、わたしは衰える」と。そして、ヨハネによる福音書は、第4章につなぐために「天から来られる方がすべてのものの上におられ、彼に父なる神は豊かな霊を注がれ、彼は神の言葉を話し、彼の言葉を信じる者は救われて、永遠の命を得、信じないで、彼に従わない者は神の怒りが彼の上に留まることを証ししました。
ヨハネによる福音書第4章を学びましょう。今朝は、主イエスがサマリアの女と対話されたことを学びます。
主イエスと彼の弟子たちは、エルサレムでの滞在、ユダヤ地方でユダヤ民衆に水で洗礼を授けることを終えられ、ガリラヤに向けて帰られました。その帰途、どうしてもサマリアを通過しなければなりませんでした。
サマリアは、ユダヤとガリラヤに挟まれた地方です。紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされ、イスラエル人たちはアッシリア帝国に捕囚されました。そして、アッシリア帝国は、滅ぼした北イスラエル王国に異邦人たちを移住させました。サマリア人は、移住した異邦人と残されたイスラエル人とが結婚し、生まれました。南ユダ王国のユダヤ人たちが異邦人の血が混ざったサマリア人たちを憎しみ、交際しませんでしたので、サマリア人たちはサマリア教団を造り、ゲルジム山に神殿を建て、主なる神を礼拝しました。
このような歴史的背景の下で、主イエスとサマリアの女の対話がなされているのです。
主イエスと彼の弟子たちがサマリア地方のシカルの町に入りましたのは、正午ごろでありました。その町に族長ヤコブが掘ったと伝えられている井戸がありました。主イエスは、そこで旅の疲れをとり、休まれました。昼時でしたので、彼の弟子たちは食事の用意をするために、町に出かけて行きました。
主イエスが井戸のそばで休まれていると、サマリアの女が井戸の水を汲みに来ました。主イエスは、彼女に声をおかけになり、井戸の水をお求めになりました。
女は一目で、主イエスがユダヤ人であること見抜きました。そして、驚きました。サマリア人とユダヤ人たちは犬猿の仲であったからです。ユダヤ人たちは、ユダヤ教を造り、エルサレムに神殿を建て、主なる神を礼拝しました。サマリア人たちはサマリア教を造り、ゲリジム山に神殿を建て、主なる神を礼拝しました。そして、ユダヤ人とサマリア人は、近親憎悪の関係にありました。
憎しみ合う関係なのに、主イエスはサマリアの女に声をかけ、彼女が今井戸から水を汲もうとしている、その水を所望されました。
女は驚きました。常日ごろ、互いに憎しみという壁で隔てられているのに、声をかけ、水を求めるとは。ユダヤ人は、サマリア人と交際しないのではないか。女は、主イエスに言いました。「どうしてユダヤ人のあなたがサマリア人のわたしに声をかけ、水を求めるのですか」。
このサマリアの女の驚きから、主イエスとサマリアの女の対話が始まりました。二人の対話の内容は、二つです。第1は「生ける水」(10-15節)であり、第2は「新しい礼拝」(20-26節)であります。
サマリアの女も、ニコデモと同じです。彼女は、主イエス御自身が「永遠の命に至る生ける水である」と言われていることを理解できませんでした。
サマリアの女と交際しようとするユダヤ人の主イエスに驚いた彼女に、10-15節で主イエスは彼女に対話なさりながら、御自身こそ永遠の命に至る水であると証しされました。
サマリアの女はニコデモと同じです。ヤコブの井戸の水のことばかり、考えており、彼女の目の前におられる主イエスこそ、永遠の命に至る水であることに気づきません。
主イエスは、女に10節で彼女の霊的盲目を指摘されます。目の前にメシアが居るのに彼女は気づいていません。気づいていれば、立場が逆転します。彼女の方が主イエスに永遠の命の水を求めるでしょう。
ところが、女はニコデモと同じです。主イエスが言われる水を、ヤコブの井戸の水と思っています。井戸は30メートル以上掘らないと水が出ませんので、ヤコブの井戸は深く掘ってあり、素手の主イエスには汲めるはずがありません。
だから、女は主イエスを小馬鹿にします。そして彼女は言いました。「あなたは族長ヤコブより偉いのか」と。この井戸は、族長ヤコブが掘りあてました。それ以来、およそ2000年、この地方の人々や家畜の命を支えてきたのです。
ところが、主イエスは、女に言われました。「この井戸の水を飲む者は、すぐに喉が渇くではないか。わたしが与える水を飲む者は、彼の内で泉となり、永遠の命に至る水がたえずわき出る」と。
その主イエスの言葉は、彼女の心に響きました。彼女は思いました。「もしこの方が言われる水があるなら、絶対にほしい。そうすれば、わたしは、毎日人目をはばかり、ここに水を汲みに来なくてもよいのだから」と。
女は主イエスに言いました。「あなたが言われる水を、今わたしにください」。
彼女は、主イエスに「水をください」と求める分、ニコデモよりましです。ニコデモは主イエスが語られる言葉を受け入れられませんでしたが、彼女は主イエスが言われる言葉に心動かされて、「喉が渇かなくて、この井戸に水を汲みに来なくてもよい水をください」と、主イエスに求めたのです。
聖書に主イエスがわたしたちにお約束くださいました。信仰の祝福の鉄則です。「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)。
主イエスに水を求めた彼女に、変化が生まれます。主イエスを、ユダヤ人と小馬鹿にしている態度から、主イエスを「主よ」と敬って呼びかけています。彼女は、主イエスがメシアであることに気づいていません。
そこで主イエスは、さらに彼女を御自身の身近に招かれました。16-19節で、主イエスは、どんなに彼女が今悲惨な罪の境遇にあるかを言い当てられました。
主イエスは、女に「あなたの夫を呼んできなさい」と命令されました。女は正直に答えました。「わたしには夫はいません」と。主イエスは、彼女の答が真実であることを認められました。
ユダヤにも、サマリアにも、レビラト婚制度がありました。もし兄が死ねば、弟が兄嫁と結婚し、兄の子をもうけるという制度です。サマリアの女は、その制度に従って5度結婚し、5人の夫を持ちましたが、現在は5人目の夫も死に、嫁ぎ先を追い出されたのでしょう。今は内縁の男と人目をはばかって暮らしていました。
女は、主イエスが今の自分の境遇を言い当てられたので、主イエスが預言者であると思いました。
それによって彼女の心が、この世から主なる神へと向くののです。そして、対話の主題が新しい礼拝に移されています。
彼女は、ユダヤ人とサマリア人が異なる所で同じ主なる神を礼拝していることを知っていました。
そこで彼女は、主イエスの質問したのです。「サマリア人の自分たちは、ゲリジム山で神を礼拝しており、ユダヤ人たちはエルサレムで神を礼拝すべきだと言っているが、サマリア人の宗教とユダヤ人たちの宗教があるのでしょうか。」
同じ主なる神を礼拝しながら、憎しみの壁に隔てられて、サマリア人の宗教とユダヤ人たちの宗教があります。サマリア教とユダヤ教がこの世に存在します。
主イエスは答えられて、女に言われました。「婦人よ、わたしを信じなさい」。宗教問題は、女の魂の救いにとって重要ではありません。重要なのは、女が主イエスを信じることです。彼女が今の罪ある境遇から救われる道は、彼女が今の自分の罪を認めて、主イエスを信じることだけです。
そこで主イエスは、女にゲルジム山でもエルサレムでもない所で、霊から生まれた者たちが父を礼拝する、新しい礼拝の時が来ると言われました。
22節は、主イエスの御言葉を、初代教会が宣教の言葉として、サマリア人に伝えていたのだと思います。サマリア人は、主なる神を礼拝しました。しかし、だが、主イエス・キリストの父なる神であることを、サマリア人は知らなかったでしょう。また、初代教会はアブラハム、ダビデの子孫よりメシアがこの世に遣わされ、異邦人の救いがユダヤ人から来たことを知っていました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に23-24節でキリスト教会の礼拝がまことの礼拝であると教えています。
教会は、ヨハネによる福音書によれば、「新たに生まれたもの」(3:3)であり、「霊から生まれたもの」(3:6,7)です。だから、教会は「霊と真理をもって父を礼拝する」のです。聖霊と御言葉に導かれて、礼拝をし、教会を形成して行くのです。
ヨハネによる福音が「今がその時である」と記しているのは、主イエスがサマリアの女に語られた今であり、ヨハネによる福音書が書かれた紀元1世紀末の初代教会の今であり、そして、今わたしたちがここで礼拝をしている今でもあります。
毎週の説教題を妻が書いてくれています。妻が看板を書きながら、「今回は説教題と聖書テキストが長いね」と言いました。対話のテーマが二つあるから、一つずつテキストを区切り、説教してもよいのではというアドバイスだったと思います。榊原康夫牧師も、2回に分けて、「永遠の命に至る水」と「まことの礼拝」という説教題で、お話しされています。
わたしは、あえて一つの説教としました。その理由は、主イエスを誰と告白するかということとまことの礼拝をすることを、ヨハネによる福音書は切り離すことなく、主イエスとサマリアの女との対話という形で物語っているからです。
今朝の御言葉のメッセージの中心は、主イエスは何者であるのか、それをわたしたちはどこで具体的・現実的なものとするのかであります。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスを「永遠の生ける命の水」であるとメッセージを伝えています。そのメッセージが具体的・現実的になるのがわたしたちの主の日の礼拝であります。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と、ここでまことの礼拝を定義して語っているのではありません。
「神は霊である」の「霊」は、ヨハネによる福音書の時代の初代教会の礼拝を導かれる「弁護者「真理の霊」です。真理の霊がキリストの御言葉によって、すなわち、聖書によって礼拝を導かれる、それがまことの礼拝です。ヨハネによる福音書によれば、啓示の業を通して、具体的・現実的となった神を、すなわち、父なる神の独り子である主イエス・キリスト、永遠の生ける命の水である主イエス・キリストを、聖霊と御言葉の導きの下で礼拝することであります。
だから、最後にサマリアの女は、主イエスに言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来ることを知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
主イエスは彼女に答えて言われました。「それは、あなたと話しているこのわたしである。」
ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えたいのは、霊によって生まれた者にとって一番大切なことは、主イエス・キリストとまことの礼拝を切り離さないことであります。
主イエスは、いつの時代も礼拝の中で御自身が永遠の生ける命の水であることを証しされます。聖霊と御言葉に導かれた礼拝の中で、わたしは主イエスを救い主と信じて、洗礼を授けられました。この洗礼は、わたしにとりましてキリストがわたしにお与えくださった永遠の生ける命の水でありました。なぜなら、わたしは、この洗礼によってキリストと一つにつながれて、尽きることのない信仰の泉をわたしの内に得ました。
また、主イエスはサマリアの女がメシアについて語りました時に、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と証しされました。
主イエスは、サマリアの女と話されて、御自身がメシアであることを証しされたように、今朝の主の日の礼拝で主イエスはわたしたちに、聖霊と御言葉の導きを通して、御自身こそが真のメシアであることを証ししてくださっています。
主イエスは、彼女に自分をメシアとして証しされただけではありません。彼女の罪を負い、十字架の道を歩まれました。そして、彼女を神の子として受け入れてくださったでしょう。彼女は霊によって生まれ変わり、神の子となり、「アバ父よ」と呼んで神を礼拝したでしょう。これがキリスト教の新しい礼拝として世界中で今もなされているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、「主イエスとサマリアの女との対話」という題で、ヨハネによる福音書第4章1-26節の御言葉を学び、主イエスが永遠の生ける命の水であり、キリスト教の新しい礼拝、まことの礼拝について学ぶことができて、感謝します。
主イエスは、聖霊と御言葉の導きにより、常にこの教会の礼拝で、サマリアの女のように、わたしたちにもお話しくださり、感謝します。
わたしたちは、あまりにもこの世のあふれる言葉の中で、自らを見失っています。どうか毎週の礼拝を通して、主イエスと語らい、自らの罪に心を留めさせてください。主イエスの十字架がわたしたちの罪のためであることを覚え、救われた喜びを心から感謝することができるようにしてください。
信じて洗礼を受けたわたしたちが、キリストと一つにされ、わが内に信仰の泉を得て、永遠の命の喜びに生かされていることを、どうか礼拝ごとに私の心に感じられるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教21 主の2016年8月7日
その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目が見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自文の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。
そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、全を行った者は復活して命を受けるために出て来るのだ。
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしはわたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
ヨハネによる福音書第5章1-30節
説教:「癒しと安息日論争―主イエスは何者か」
前回は、主イエスがガリラヤのカナで、役人の息子を癒された奇跡を学びました。役人の父親は、主イエスに死にかけている息子を助けてもらうために、カファルナウムの町からカナに出かけました。そして、彼は主イエスに彼の家に来て、息子を助けてくださいとお願いしました。
主イエスは、役人に「行きなさい。あなたの息子は生きている」と言われました。役人は、主イエスの言葉を信じて、家に帰りました。そして、途中で彼の僕たちが迎えに来ていて、息子の病気が治ったという良い知らせを伝えてくれました。役人が僕たちに息子の病気が治った時刻を尋ねると、主イエスが役人に「行きなさい。あなたの息子は生きている」と言われたのと同じ時刻でした。そこで役人と彼の家族は皆、主イエスがまことに命を与えられる主であると、こぞって信じました。
これが、主イエスがなさった2番目のしるし(奇跡)でした。
さて、今朝よりヨハネによる福音書の5章に入ります。5章1節に「その後」とあり、場面がガリラヤからエルサレムに移っています。
ヨハネによる福音書は、「ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた」と記しています。主イエスは、エルサレムの都に2回目の上京をされました。
第1回目は、過越祭でした。第7章2節に主イエスが仮庵祭に3度目の上京をなさっていることを記していますので、この5章のユダヤ人の祭りは、過越祭と仮庵祭の間に祝われたユダヤ人の祭りです。
次に主イエスがなされた3つ目のしるし(癒しの奇跡)の場所を、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に紹介しています。エルサレムの都の羊の門の近くにあるベトザタの池であります。
主イエスは、3つ目のしるしを安息日になさいました。そこで主イエスとユダヤ人たちの間で安息日論争が起こりました。
その論争を通して、主イエスはユダヤ人たちに御自身が何者であるかをはっきりと主張されました。それゆえにユダヤ人たちは、主イエスを迫害し始めたと、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えています。
さて、ヨハネによる福音書は、他の福音書とは異なり、何度も主イエスがガリラヤとエルサレムをユダヤの祭りのごとに往復されたことを記しています。
ガリラヤからエルサレムまで、およそ150キロです。徒歩で1日50キロ、ガリラヤからエルサレムの都に上京するのに、3日かかります。
ヨハネによる福音書は、「ユダヤ人の祭り」としか記していません。わたしは、ペンテコステ祭ではないかと考えています。麦の収穫を祝う祭りです。
「ベトザタ」は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アグリッパ1世がエルサレムの都を拡張工事する以前は、都の外にありました。エルサレム神殿の神域の外にありました。ベトザタの池は、「羊の池」とも呼ばれていました。その池を囲むように5つの回廊、すなわち、屋根の付いた廊下がありました。そして、そこに病気の人、目が見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人たちが大勢横たわっていました。
彼らは、その回廊で、自分たちの体が癒されるという奇跡を待ち望んでいました。神のみ使いが池の水を動かすときに、最初に池に入った者が奇跡によって癒されると信じられていました。
その言い伝えを信じて、38年間、病気に苦しみながら、回廊に横たわっている者がいました。
6-9節は、主イエスが38年間ベトザタで病気に苦しむ者を見つけて、癒される奇跡物語です。主イエスは、彼に「良くなりたいか」とお尋ねになります。彼は、主イエスに38年間良くなることを望みながら、それがどんなに絶望的であるかを答えます。自力で池に入ることも、池に入れるように助けてくれる人もいませんでした。
38年間は、ほぼ人間の一生でありました。一生涯彼は、病気に苦しみ、それが癒されることに絶望して生きていました。
主イエスは、彼を見つけられて、彼に「良くなりたいか」とお尋ねになりました。そこで彼は主イエスに自分が信じていた御利益信仰の空しさを訴えました。神のみ使いがベトザタの池の水を動かすときに、最初に入った者は癒されることを38年間、待ち望んだが空しかったと。
わたしは、38年間病気に苦しんだ者と自分が重なることに気づきます。わたしがこの人のように長い闘病生活をしたということではありません。この人と同じように先祖伝来の空疎な生活をしていたということです。御利益を求めて、偶像により頼んでいました。一番恐れていたことは死ぬことでした。この恐怖から、自分を自分で助けることも、他人の助けを得ることもできませんでした。この世では、肉なる者はすべて死ぬからです。
38年間、病に苦しんだ者が、主イエスに見出されて、「良くなりたいか」と尋ねられる言葉によって、彼は先祖伝来の空しい生活から解放へと導かれました。
主イエスは、彼に命じられました。役人に命じられたように、彼にも「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と。主イエスの命令の言葉は、この男の祝福として実現しました。38年間病気で、起きて、歩けなかった彼が、起き上がり、床を担いで歩きだしたのです。
彼は、癒され、体の健康を回復しただけでありません。空しい御利益信仰からも解放されました。そして、彼は、神に近づくことが許されました。彼は、エルサレムの城壁の中へと床を担いで歩いていきました。
ところが、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に9節後半で「その日は安息日であった」と記しています。
この「ユダヤ人」たちは、ユダヤの群衆、エルサレムの町の市民ではないと思います。ニコデモと同じ、ユダヤの群衆、エルサレムの町の市民たちの宗教的指導者たちでしょう。
だから、彼らは、安息日に床を担いで歩いている人を見て、「安息日に働いてはならない」という安息日律法に違反していると非難したのです。
それに対して非難された人は、「自分の病気を癒された方が『床を担いで歩け』と命じられた」と答えました。
ユダヤ人たちは、病気を癒された者に、「そのように命じたのは、だれだ」と尋ねました。ところが、病気を癒された者は、主イエスを知りませんでした。主イエスは、彼を癒されると、すぐにその場から居なくなられたからです。
しかし、主イエスは、もう一度彼を見出してくださいました。そして、彼に主イエスは警告されました。「罪を犯してはいけない。あなたの身にさらに不幸が起こらないように」。
この主イエスの御言葉は、わたしたちが主イエスを信じて洗礼を受けました時に与えられる戒めです。祝福の戒めです。主イエスが命じられるこの命令の言葉は、病気を癒された者の現実として実現するのです。
洗礼時に主がわたしたちに命じられた言葉は、わたしたちキリスト者の生活として実現するのです。宗教改革者ルターが95箇条の提題の第1条で述べていますように、キリスト者の生涯は悔い改めの生涯であるという形で、常にキリスト者は日々罪の現実に、罪を犯さないようにと命じられるキリストに立ち帰るように、向き合っているのです。
病気を癒された人は、自分の病気を癒されたキリストを知り、ユダヤ人たちにキリストを証ししました。
その結果、ユダヤ人たちは、主イエスを迫害し始めました。主イエスは彼らが奉じている安息日律法をお守りにならなかったからです。
どうして、主イエスは守られなかったのか。父なる神が安息日にも働いておられたからです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、この安息日論争を通して、主イエスがなさることは父なる神がなされている御業であると教えています。安息日に父なる神がお働きになり、主イエスを通して38年間病気で苦しむ者を癒されたのです。
ユダヤ人たちが主イエスを迫害したのは、主イエスが安息日律法を破られたからであり、それ以上に主イエスが神を御自分の父と呼ばれ、御自分と神とを同等の者とされたからです。
19-30節は、主イエスがユダヤ人に御自分を神と等しい者とされたことを弁明されたのではありません。何度も主イエスは、ユダヤ人たちに「はっきり言っておく」と言われています。主イエスは、彼らに自分が何者で、どんな権威を持つ者であるかを宣言されたのです。
宣言の第1は、19-23節です。主イエスは、御自分と父なる神は等しい者であると宣言されました。主イエスは父なる神のみ心をなさるのです。父と御子の間には愛があります。父なる神がなさるすべてのことは、御子である主イエスに示されています。38年間病気に苦しむ者を癒されたのは、そのことの一例ですが、その癒しの御業よりもさらに大きなことを、父なる神は主イエスを通してなさいます。それが復活、永遠の命を与える御業であり、裁きであります。だから、父なる神を敬う者は、父がお遣わしになった子、主イエスを敬わなければなりません。
宣言の第2は、24節です。主イエスは宣言されます。「わたしの御言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は永遠の命を得る」と。裁かれて、滅びりことなく、死から永遠の命に移されると。
宣言の第3は、25-30節です。主イエスは言われます。死んだ者、すなわち、霊的に死んだ者が神の声を聞く時が来ると。福音宣教の時です。異邦人に、霊的に死んだ者に、キリストの福音が語られ、聞かれる時が来ると、主イエスは言われています。
その声、キリストの福音を聞いた者は、生きるのです。ある牧師が、次のようなことを語っています。「『死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。』と続けています。この個所を読む時に、ルターの言った言葉を思い起こします。ルターは、大変面白い例を使って、『現在生きている人も、すでに死んだ者も、キリストを中心にする同じ円周の上にいる』と説明しています。私たちは、生けるものも死せるものも、ともに神、キリストを中心にあるという、これが永遠のいのちという言葉の非常に大きな意味です」(茂洋『見えること・見えないこと-ヨハネによる福音書講解説教』新教出版社)。
父なる神も子なる神主イエスも、共にわたしたちに命をお与えくださいます。今、わたしたちは、キリストの福音を聞いております。しかし、父なる神が定められた時が来て、キリストが再臨される時、死んだ者は墓から甦らされます。そして、キリストは最後の審判をなさいます。善を行った者、すなわち、キリストを信じて、神に義と認められた者たちは、キリストと共に生きる永遠の命を得るのです。悪を行った者とは、福音宣教を聞いて信じなかった者です。彼らは、キリストに裁かれます。
このキリストの裁きも、父なる神がキリストを通してなさいます。だから、キリストは父なる神のみ心をなされているので、彼の裁きは正しいと宣言されています。
教会の群れが大きいか、小さいかは問題ではありません。毎週の日曜日の礼拝で、わたしたちが「あなたは良くなりたいのか」というキリストの御声を聞くことができたかどうか、であります。「その声を聞いた者は生きる」という主イエスの御言葉に、既に死んだ初代教会のキリスト者たちも、宗教改革の時代のキリスト者たちも、そして、今生きているわたしたちキリスト者たちも、キリストを中心とする、同じ円周の上にいることを、その永遠の命に生かされていることを、今日の礼拝で豊かに体験しているか、そこが今わたしたちに問われていると思うのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスが38年間病気に苦しむ者を癒され、ユダヤ人との間で安息日論争が起こり、そこで主イエスが何者であるかが明らかにされたことを学ぶことができて感謝します。
主イエスと父なる神が同等の者であることを学ぶことができて感謝します。それによって、わたしたちはキリストの十字架が父なる神の愛の御業であることを知らされました。
今朝の礼拝でも、主イエスはわたしたちに38年間病気に苦しんだ者と同じように「良くなりたいか」と尋ねられ、「あなたの罪は赦され、あなたは今この世から永遠の命に移されている。だから、これからは罪を犯してはならない」と命じられています。
どうか、今から聖餐の恵みにあずかります。この礼拝で主の御言葉を聞き、主の晩餐にあずかることのできる恵みを感謝します。
悔いても罪を犯す者ですが、わたしたちの生涯が悔い改めの生涯であり、罪を主に赦された者の祝福の歩みであることを覚えさせてください。
この礼拝において、わたしたちがこの世から永遠の命に移されているという喜びを確信させてくださり、家族と町の人々にその喜びを伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教22 主の2016年8月14日
「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまりわたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしを信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」
ヨハネによる福音書第5章31-47節
説教:「信と不信に応じて、神の裁きが」
前回は、主イエスの第3のしるし、主イエスがベトザタの池で38年間も病気で苦しんでいた人を癒された奇跡を学びました。主イエスは、その病人を見つけ出され、彼に「良くなりたいか」と尋ねて、「起き上がりなさい。床を取り上げなさい。そして、歩きなさい」と命じられました。すると、彼は起き上がり、床を取り上げて、歩き出しました。
ところが、その日は安息日でした。だから、ユダヤ人たちは、床を担いで歩いている人に「安息日律法では、安息日に床を担いで歩くことは許されていない」と非難しました。その人は、ユダヤ人たちに「自分は命じられたからしている」と答えました。ユダヤ人たちは彼に「だれが命じた」と聞きました。ところが病気を癒された人は、主イエスのことを知りませんでした。
また、主イエスは彼を見つけて下さり、彼に「二度と罪を犯さないように。さらに悪いことがあなたの身に起きないために」と命じられました。これは、主イエスが癒された人を祝福されたのです。主イエスの命令は、その通りにその人の身に実現するからです。
癒された人は、ユダヤ人たちに自分の病気を癒して、床を取り上げて、歩けと命じたのが、イエスだと知らせました。
そこで主イエスとユダヤ人たちの間で安息日論争が起こり、そこで主イエスが何者であるかが明らかにされました。すなわち、主イエスが安息日に38年間病気に苦しんでいた人を癒されたのは、父なる神の愛の御業でした。父なる神は安息日でも働かれており、父なる神の独り子の主イエスも安息日に働くと言われました。主イエスは御自分を父なる神に等しい者とユダヤ人たちに宣言されましたので、ユダヤ人たちは主イエスを殺そうとしました。
ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えていることを、宗教改革者ルターは、次のように語りました。「現在生きている人も、すでに死んだ者も、キリストを中心にする同じ円周の上にいる」と。キリストが信じる者に与えられる永遠の命とは、今生きている者も、すでに死んだ者も、共に神、キリストを中心に存在しているということです。ヨハネによる福音書は、それがキリストの共同体、すなわち、キリスト教会であると理解しているのです。
今朝の御言葉は、新共同訳聖書には「イエスについての証し」という見出しが付いています。ヨハネによる福音書は、主イエスの第3のしるしで、安息日論争を通して永遠の命をテーマにしました。今朝の御言葉で一つの結論を、わたしたち読者に伝えようとしています。それは、永遠の命とは、聖書が証ししており、聖書の中の永遠の命とは、主イエス・キリストについて証しするものであるということです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが何を証しされたかを記しながら、それを教会の宣教の言葉として伝えています。
31-40節で主イエスは、ユダヤ人たちにしばしば御自分がメシアである証拠を求められましたので、4つの証拠を挙げられました。
主イエスは、メシアを自称する偽メシアではありません。聖書は、真実を証しするには、2、3人の証人がいると証言します(申命記19:15)。真理は一人の証人によって立証されることはありません。だから、主イエスは、「わたしが自分について証しするなら、その証しは真実ではない」とはっきり言われました。
オウム真理教の浅原彰晃は教祖となり、彼を多くの人々が崇拝し、帰依しました。帰依した人々は、彼が彼自身を証ししたことを信じました。主イエスは、「その証しは真実ではない」と言われました。実際にその通りでした。彼の偽りの証しで、信者たちがサリンを散布し多くの人々の命を奪い、今もサリン事件のために心身に苦しみを覚えている方々がいます。
主イエスは、真のメシアは自分の外に証しする者がいると言われています。すなわち、「わたしについて証しをなさる方」です。主イエスと常に親しい交わりの中にある父なる神と御霊なる神です。父と御霊がキリストについて証しされるので、御自分についての証しは真実であることを、主イエス御自身が知っておられます。
その真実の証しとは、次の4つです。第1に洗礼者ヨハネがキリストについて証ししたことです。第2に主イエスがなさる7つのしるし、すなわち、奇跡です。第3に父なる神がキリストについて証ししてくださることです。第4に聖書の中のキリストについての証しです。
洗礼者ヨハネは、「燃えて輝くともし火」として主イエスが永遠の真理を証しする人であることをユダヤ人たちに伝えました。
主イエスのしるし、すなわち、病人を癒す奇跡は主イエスが父なる神から遣わされた者であるという証しでした。主イエスは、奇跡を通して父なる神の愛の御業をなされました。
父なる神は、主イエスが洗礼者ヨハネから水で洗礼を授けられた時と山上の変貌で主イエスの弟子たちに「わたしの愛する者」とキリストについて証しをされました。
それから、聖書がキリストについて証しをしています。ユダヤ人たちは、聖書の中に永遠の命があると思い、一生懸命聖書を研究しました。主イエスは、「聖書はわたしについて証しをするものである」と言われています。
このように主イエスは、「あなたたち」、すなわち、ユダヤ人たちに、彼らが求める証拠を4つ挙げられました。しかし、ユダヤ人たちは、不信仰のゆえに洗礼者ヨハネを排除し、主イエスのしるしを見ても、主イエスを父なる神が遣わされたメシアとして受け入れず、そして、不信仰のゆえに父なる神を見ることも、その声を聞くこともできませんでした。彼らは、旧約聖書の中に永遠の命があると熱心に研究しても、その聖書がキリストを通して永遠の神の愛の御手を証しするものであることを学びませんでした。
安息日論争で主イエスと敵対したユダヤ人たちだけが、主イエスを受け入れなかったのではありません。ヨハネによる福音書の時代のキリスト教会、すなわち、1世紀末の時代のキリスト教会が伝道していた「あなたたち」、すなわち、ユダヤ人たちも、キリスト教会がこの4つの証拠を示し、彼らに伝道しても、彼らは主イエスをメシアとして受け入れませんでした。
そして、今日も同じであると思います。わたしたちの教会も、このヨハネによる福音書を通して、この4つの証拠を挙げて、主イエスがメシアであると証ししています。しかし、永遠の命を得るために、ここを訪れる者はいません。この教会に、今もわたしたちと共にいますキリストのところに来ようとする者はいないのです。
そこで41-47節で、キリストは、ユダヤ人たちの不信仰を非難されています。しかし、キリストの非難は、わたしたちに主イエスが何を本当に信じられているかを明らかに伝えているのです。
すなわち、主イエスは、人からの誉れを求めておられません。むしろ、唯一の神からの誉れを求めておられます。
主イエスが人からの誉れを求められないのは、この世、神に敵対したこの世の中に生きている人には、神への愛がないからです。それを、主イエスは御存じでした。
わたしには、主イエスの「あなたたちの内には神への愛がないことを、知っている」というお言葉が、心にグッサッときます。わたしは生まれて以来、20歳で教会に行くまで、そこで十字架のキリストに出会うまで、「神への愛」がありませんでした。
「神への愛がない」とは、神と人格的な交わりがないということです。わたしにとっての神は御利益の神で、困った時の神頼みでした。「触らぬ神に祟りなし」という諺がありますように、日常ではできる限り関係を持たないで、遠ざけておき、かかわらないようにと思っていました。
主イエスは、わたしの心の内に神への愛がないことを知っておられました。しかし、主イエスがわたしを見つけてくださいました。だから、わたしは、大学の社会学部の恩師を通して、宝塚教会の礼拝へと誘われました。
もう一つ、主イエスの御言葉で、わたしの心から離れないのは、主イエスが「唯一の神からの誉れを求める」と言われていることです。
神が唯一であることを信じなければ、主イエスを真のメシアとして受け入れることはできません。人間が神になることはできません。そして、神は唯一です。だから、主イエスも神として、わたしたちは信じるのです。
ユダヤ人たちは、旧約聖書が証しする唯一の神を信じていますが、その神が父と子と聖霊の3つの位格を持つことは信じません。だから、安息日論争で主イエスが父なる神と御自分を等しい者とされた時に、唯一の神を冒涜する者として主イエスを殺そうとしました。
ですから、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスは唯一の神であると伝えているのです。
その証拠が、旧約聖書のモーセの教えです。主なる神は、モーセを通して神の民イスラエルに御自身を唯一の神として啓示されました。そして、モーセは、彼の生涯、神の民たちに主なる神が唯一の神であることを証ししました。40年は、人の生涯の年数です。モーセは40年という人の生涯を、荒野で過ごし、約束の地カナンを望みつつ、天に召されました。彼が神の民イスラエルの証しした唯一の神、主が人に唯一の神を信じる信仰を可能にしました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に何を伝えたいのかと言いますと、不信仰は二つのことから成り立つことです。
第1は人からの誉れを求めて、神からの誉れを求めないことです。形は信仰と言えても、その中身は神よりも人間が中心になっているものです。当然その人の心の内には神への愛がありませんので、神が遣わされた主イエスを受け入れることはできません。
第2は、モーセを信じない、すなわち、旧約聖書を信じないことです。聖書は、キリストについて証しするものですから、聖書を信じないで、主イエスをメシアと受け入れることはできません。
だから、毎週の礼拝でなされる説教は、人からの誉れを求めてなされるのではなく、神からの誉れを求めてなされます。すなわち、礼拝の説教では聖書の御言葉が読まれ、解き明かされます。そして、わたしたちは、そこで証しされるキリストを、わたしたちの救い主として受け入れるように、聖霊に説得されます。そうでなければ、本わたしたちの内には神への愛がないのですから、わたしたちがキリストを信じて告白し、神を賛美し、ほめたたえるという礼拝は成り立たないのです。
同時に次のことを心に留めましょう。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に教会の礼拝という現場で起こる真実に目を注いでいるのです。それは、礼拝で聖書の御言葉が読まれ、解き明かされます。聞くわたしたちが信と不信という応答をします。その応答で、今神の裁きがなされます。
神への愛のない人が、主イエスに見出され、御霊の助けによって聖書が証しするキリストを、信じることが可能とされます。十字架のキリストについて聞くとき、わたしたちの心に聖霊が十字架のキリストはあなたの罪の身代わりとなられたと伝えてくださるのです。そして、聖霊がそのキリストを救い主と信じる信仰を与えてくださるのです。
その信仰によって、わたしたちは永遠の命に生かされるのです。わたしたちだけでなく、礼拝の場である教会全体が永遠の命に生かされます。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、キリストについての証しを学ぶことができて感謝します。
この世には偽キリストが現れ、自らを救い主と自称します。その者を教祖と崇め、滅びの道を歩む者が多くおります。
しかし、今朝、主イエスはわたしたちに御自身がまことに救い主であることを証ししてくださいました。
救い主を自称する者の証しは真実でないことを示され、真実の証しは自分の外の者が証しし、キリストには4つの証しがあると教えてくださいました。ヨハネと御自身のしるし、そして父なる神の証言と聖書です。
また、真実の信仰を教えてくださいました。人の誉れを求めず、唯一の神からの誉れを求める者であると。
人の心の内に神への愛のないことを知られる主イエスは、わたしたちを見つけ出して、この礼拝へと集め、神の御言葉である聖書を読み、それを解き明かし、聖霊の御業を通して、わたしたちに主イエスを信じて受け入れる信仰を与えてくださいます。
わたしたちの教会の礼拝の現場は、わたしたちの信と不信の応答でありますが、願わくは、この礼拝において、わたしたちが主イエスを信じる信仰によって永遠の命に生かされ、信仰の場であるこの教会が共に永遠の命に生かされる場としてください。
命の喜びを、わたしたちの家族や隣人に伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教23 主の2016年9月4日
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸にわたられた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦のパンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりで山に退かれた。
ヨハネによる福音書第6章1-15節
説教:「五千人の給食」
前回は、主イエスがユダヤ人たちにメシアである証拠を求められましたので、4つの証拠を挙げられたことを学びました。すなわち、第1に洗礼者ヨハネがキリストについて証ししたこと、第2に主イエスがなさる7つのしるし、すなわち、奇跡、第3に父なる神がキリストについて証ししてくださること、そして、第4に聖書の中のキリストについての証しです。
それから、主イエスがユダヤ人たちの不信仰を非難されたことを学びました。すなわち、主イエスは第1に彼らに神への愛がないこと。第2にモーセ、すなわち、旧約聖書を信じていないことを非難されました。それゆえにユダヤ人たちは、父なる神が遣わされた神の独り子、主イエスをキリストとして受け入れることができなかったことを学びました。
本日よりヨハネによる福音書の第6章に入ります。実は、4章から7章の文章のつながりがよくありません。どうも5章と6章は前後が逆になっているようなのです。6章が4章の終わりに続き、7章が5章18節に続くと、文章の流れがすっきりします。
主イエスがカファルナウムで役人の息子の病気を癒し、数々のしるしをなさったのを、大勢の人々が見ましたので、6章で主イエスと弟子たちがガリラヤ湖、すなわち、別名ティベリア湖を舟で渡って、向こう岸に行かれた時、大勢の人々は主イエスの後を追いかけたのです。
6章では、主イエスが五千人の給食の奇跡をなさったこととガリラヤ湖の上を歩かれた奇跡が組み合わせられて、主イエスの奇跡物語として記されています。これは、他の福音書でも同じで、ヨハネによる福音書は、「しるし資料」と呼ばれる主イエスの奇跡をまとめたものを、この福音書で主イエスのしるしを書くときに利用したと考えられています。
どうしてヨハネによる福音書が5章と6章の文章を前後を逆にしながら、今の形になっているのか、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にどんなことをしても主イエス・キリストにこそ永遠の命があることを伝えたかったのではないでしょうか。
5章では、ベトザトの池で主イエスは38年間も病気で苦しむ者を癒して、彼に真の安息を与え、御自身の内に永遠の命があることを証しされました。
6章では、主イエスが荒野で飢えた五千人を、子供が持って来た弁当で、すなわち、大麦のパン五つと魚二匹で、満腹にされる奇跡をなさり、主イエスこそ命のパンであることが証しされています。
さて、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが弟子たちと山に登り、そこに座られたと伝えています。ガリラヤ湖の周辺には小高い丘はあっても、高い山はヘルモン山しかありません。ある牧師は、これも一つのしるしだと説教しています。
彼は次のように説教します。「モーセは、シナイ山に登って神と出会いました。ですから、福音書の著者が『イエスは山に登り』という言葉を使う時、山とは神と出会う、永遠と出会う場所である、思わなければなりません。この箇所に関しては、それだけではなく、モーセは、シナイ半島で、食糧難にあえいでいた時に、天からマナが与えられることを知らされたことも、思い起こさなければなりません。その関係で次のパンの物語が出てくるのです。」
鋭い指摘であると思います。
また、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが五千人の給食のしるしをされたのが、「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいている」頃であったと伝えています。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが十字架の上で死なれた日が、過越祭のために小羊がほふられた日であると伝えています。だから、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に過越祭が近づいた頃に、主イエスが五千人の給食のしるしなさったことは、主イエスが十字架で流された血とこのしるしが深く関係していることを伝えようとしているのです。
この五千人の給食のしるしは、主イエスが目を上げて、大勢の人々が主イエスの方に来るのを御覧になったことで一つの出来事になりました。
主イエスが大勢の飢えた者たちが御自身のところに来るのを見て、憐れまれたので、主イエスはこの五千人の給食のしるしをなさいました。
その時に主イエスは、御自身のそばにいたフィリポを試みられました。意地悪をなさったのではありません。弟子訓練をされたのです。
フィリポは、ガリラヤ湖の畔にあるベトサイダという町の出でありました。だから、今いる場所についてよく知っていました。
主イエスはフィリポに言われました。「飢えた大勢の人々の腹を満たすために、どうしたらよいだろうね」と。
フィリポは頭の良い弟子です。今会計をあずかるユダの懐にお金がいくらあるか、頭で計算しました。二百デナリオン分のパンが買えるが、成人男性の数だけで五千人、それ以上の人々がいるのだから、一人一人にパンは行きわたらないだろうと判断したので、彼は主イエスに自分の思いを伝えました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスがフィリポの答にどのように応答されたかを伝えてはいません。伝えていないことに意味があるのでしょう。
以前に紹介しましたバックストン先生は、このところで示唆の富む説教をなさっています。「この六節を深く味わいたいものです。主はいつでも私たちに明らかな導きを与えてくださる、というわけではありません。たびたび私たちの心に五節のような問いを起こされます。なぜかというと、ピリポの信仰を起こしその求めに応えるためでした。主はピリポに、人間の力では決してできないと考えさせようとなさいました。主は私たちにこのように思わせ、私たちにこのように感じさせ、それによって神の力に依り頼むように私たちをお導きになります。けれどもピリポにはそういう考えがありません。ピリポはただ目で見たことだけを答えます。」
バックストン先生が私たちに伝えたことは、常にキリスト者は自分たちの弱さを自覚し、神の力に依り頼むようにということでしょう。
ところが、フィリピは、どこまでも人間の可能性を追い求めました。自分が今見ている現実で一番良いこと、最善のことはないかと考えて、冷静に人間ができる可能性から答えたのです。目の前で飢えた大勢の人々を、今のわたしたちは助けられないという結論でした。
そこにもう一人の主イエスの弟子がいました。シモン・ペトロの兄弟アンデレです。彼は、一人の少年が弁当を持っているのを見つけました。そこで彼は、主イエスに言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹持っている少年がいます。とても役にたたないと思いますが」。
五十歩、百歩という故事があります。アンデレはフィリポほど頭の切れる者ではありません。純朴な漁師です。同時に彼は、解決が難しい問題に出会った時のキリスト者の模範であります。
彼は、フィリポのように人間の可能性を追い求めています。ただ彼は、実用的な人です。子供が五つの大麦のパンと二匹の魚を持っていることを見つけました。それがとても役に立たないことは知っています。それでも、何とかしたいと思ったのです。
バックストン先生は、アンデレには芥子だね一粒の信仰があったと説教されています。肉の思いから、人間の可能性だけを追い求める不信仰から、抜け出していませんが。
何よりも、少年が自分の弁当を主イエスに差し出しました。
主イエスは、大勢の人々を秩序正しく座らせました。成人男子の数だけで五千人、女性や子供を含めれば一万人と推測されています。
主イエスは、大麦のパンを取り、父なる神に感謝の祈りを唱えられました。その後に座っている大勢の人々に弟子たちを通してパンを分かち与えられました。
主イエスは、同じように魚を取り、父なる神に感謝の祈りを唱えられました。その後座っている大勢の人々に弟子たちを通して人々が欲するだけ魚を与えられました。
現代人は科学技術を信じても、歴史の進歩を信じても、人間の可能性を越えた奇跡を信じません。
だから、ある牧師は、次のように説教します。「この物語は、実際にパンが分け与えられていったというのではない、そうではなくて、聖餐にあずかっているという意味になります。」
わたしは、今朝の御言葉が、これからわたしたちがあずかる聖餐式に深く結び付いていると確信しています。しかし、五千人の給食のしるしで主イエスが大勢の人々の腹を満腹されたことを否定するのは間違いだと思います。
なぜなら、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが父なる神の独り子であり、わたしたちに永遠の命を与えてくださる救い主であることを証しするために五千人の給食の物語を記しているのです。
この世にあって無力な教会とキリスト者たちに、ヨハネによる福音書は、神の力に依り頼み、常にわたしたちと共にいてくださるキリストに依り頼むように力づけているのです。
実際にローマ帝国の迫害で初代教会のキリスト者たちは、主イエスが五千人の給食というしるし、奇跡をなさったと信じて、その御力に依り頼み、殉教したのです。
聖書が証しするキリストが真実で、なされたことが真実でなければ、この世に殉教者という証しが存在することはあり得ないのです。
最後に主イエスは、腹を満たされた大勢の人々に、この世に来られた預言者と信じられ、この世の王に祭り上げられそうになったので、一人で山に退かれました。
主イエスがこの世に来られた目的は、この世の王となり、世の人々を支配することではなかったからです。むしろ、主イエスは、十字架の道を歩まれていたのです。
この後わたしたちは、聖餐式にあずかります。今朝も主イエスは、わたしたちを聖餐式に招いてくださいました。牧師のわたしを通して、パンとぶどう酒を取られ、感謝し、長老の配餐を通して分け与えてくださいます。
小さなパンで、少量のぶどう酒です。到底わたしたちの腹を満たすことはできません。しかし、パンを食べ、ぶどう酒を飲み、わたしたちはキリストの体にあずかるのです。
わたしたちも、フィリポやアンデレと同じです。この世で人間の可能性を追い求めて生きています。主はわたしたちに問われます。「アフリカの飢餓に苦しむ大勢の人々をどうすればよいだろうか」。「東日本大震災や熊本大震災、イタリアの大震災に被災された大勢の人々をどうすればよいだろうか」。「台風で被災した大勢の人々をどうしようか」と。
わたしたちは、フィリピやアンデレのように主イエスに答えましょうか。でも主イエスが求めておられる答は、わたしたちの人間の可能性ではありません。
主イエスが今朝の御言葉でわたしたちに求められるのは、わたしたちが主イエスと共にいることではないでしょうか。主イエスが、御覧になり、この教会に招かれ、招いた者に聖霊と御言葉を通して信仰の賜物を与え、その者に洗礼を授け、そして聖餐の恵みにあずからせる、そこにわたしたちがいることを、主イエスは何よりも願われているのではないでしょうか。
聖餐式においてわたしたちが心にかけることは何でしょうか。バックストン先生は次のように説教されています。「私たちに二百デナリのパンがあるかないかというのは心にかけるべきことではありません。パンを与えてくださる方と共にいるかいないかこそ、心にかけるべきことなのです。私たちは、私たちに与えられるものについて考える必要はありません。わたしたちに最も大切なことは、それを与えてくださる方と共にいるかどうかについて考えることなのです。」
そこにわたしたちの心が向くならば、聖餐式で配られるパンとぶどう酒が、わたしたちの腹を満たさないことは問題ではありません。それよりも、ここに主イエスはわたしたちと共にいて、わたしたちは主の祝福にあずかる喜びがあることに、深い慰めと喜びを見出すのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、キリストの五千人の給食のしるしを学ぶことができて感謝します。
この世は飢えた者、生活困難者で満ちています。主イエスは、わたしたちの心に聖霊と御言葉を通して、「そのような者たちをどうすべきか」とわたしたちにも、フィリポのように問いかけられています。
そのたびに、わたしたちは少年の弁当のように、わずかなものを主におささげしています。それを、五千人の給食のしるしをなさった主が豊かに用いてくださると信じます。
今朝も、御言葉と共に聖餐式の恵みにあずかれることを感謝します。
主は、牧師の司式を通して、パンとぶどう酒を祝福し、長老の配餐を通して、わたしたちにキリストの体にあずかる恵みをお与えくださり感謝します。
パンとぶどう酒を飲食し、腹を満たすことよりも、聖霊と御言葉に導きにより主の祝福にあずかる喜びに満たしてください。
そして、何よりも今ここに主イエスは、わたしたちと共にいて下さり、わたしたちは常に人間の可能性よりも、主の御力に依り頼むことの幸いを覚えさせてください。
また、五千人の給食の後でパン屑を集めると、たくさんの食べ物が得られたと、ヨハネによる福音書は証ししています。
わたしたちもこの聖餐式でパンとぶどう酒にあずかり、溢れる主の恵みをいただきました。それを自分だけのものにしないで、家族や知人、自分たちが住んでいる町の人々に分かち、大きな喜びをこの教会に得させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
三人の小さなお客様があり、礼拝説教は上記の完全原稿から離れて、聖霊の導きを信頼し、お話ししました。
どのように変わったか、音声でお聞きください。小さな会衆に御言葉が届くことを祈っています。
ヨハネによる福音書説教24 主の2016年9月11日
夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖が荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようといた。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。
ヨハネによる福音書第6章16-21節
説教:「主イエス、湖の上を歩く」
前回は、主イエスが飢えた五千人を養われた奇跡を学びました。
ユダヤの三大祭の一つ、過越祭が近づいていました。主イエスと彼の弟子たちは、ガリラヤ湖の畔にある山に登られました。大勢の群衆が主イエスの後を追いかけて、ついてきました。
主イエスは、彼らを御覧になり、弟子のフィリポに「この群衆にパンを食べさせるために、どこでパンを買えばよいか」とお尋ねになりました。フィリポの答は、二百デナリオンのお金でパンを買っても、この大勢の群衆の腹を満たすことは不可能であるというものでした。
ところが、もう一人の弟子、ペトロの兄弟アンデレが大麦のパン五つと魚二匹を持っている少年を見つけて、主イエスに報告しました。
主イエスは、少年が差し出した大麦五つのパンと魚二匹で、成人男性の五千人、さらに女性と子供たちを加えると一万人の群衆たちの腹を満たすという奇跡を行われました。
この奇跡の出来事で、わたしたちは、主イエスが弟子のフィリポになさった質問から、神の御力に依り頼む信仰の大切さを学びした。フィリポのように人間の可能性を追い求めるのではなく、主イエスの御力に依り頼むことが大切であると学びました。
さらに、わたしたちが依り頼むべき主イエスは、常にわたしたちと共にいてくださっていることを学びました。主イエスは、フィリポのようにわたしたちにも問われます。「アフリカの飢餓に苦しむ大勢の人々をどうすればよいだろうか」。「東日本大震災や熊本大震災、イタリアの大震災に被災された大勢の人々をどうすればよいだろうか」。「台風で被災した大勢の人々をどうしようか」と。
フィリポに質問された主イエスは、彼のそばにいて、五千人の給食の奇跡をなさいました。同様に主イエスは、わたしたちにも御言葉を通して問いかけられ、そして、主イエスはわたしたちと共にいてくださいます。
この礼拝に主イエスがわたしたちと共にいて、わたしたちは主の祝福にあずかる喜びがあることに、深い慰めと喜びを見出すということを学びました。
今朝は、主イエスがガリラヤ湖の湖の上を歩かれたというしるし、すなわち、主イエスの奇跡を学びましょう。
榊原康夫牧師は、『ヨハネ福音書講解』で、今朝の御言葉を説教され、次のように語り出されています。
「イエスが夕方、『ガリラヤの海、すなわち、テベリヤ湖』を漕ぎ出した弟子たちに、海の上を渡りながら追いついて来られた、有名な奇跡物語でございます」
キリスト教会とキリスト者たちの間では、今朝の御言葉は有名な奇跡物語として知られています。
有名な奇跡物語であるのは、ヨハネによる福音書だけでなく、マタイとマルコによる福音書にも記されているからです。
どちらもヨハネによる福音書と同じで、五千人の給食の奇跡のすぐ後で、続けざまに記されています。主イエスの五千人の給食と主イエスが湖の上を歩く奇跡は、主イエスとは誰であるかを、わたしたち読者に伝えているのです。
わたしは、前回と今回の2回に分けて、説教していますが、ヨハネによる福音書もマタイとマルコによる福音書も前回と今回の御言葉を併せて、主イエスはわたしたち読者にとって誰であると思うかと問いかけているのです。
教理問答になっています。
ヨハネによる福音書とマタイとマルコによる福音書は、ほとんど同じですが、異なる箇所もあります。
ヨハネによる福音書は、次のように記しています。主イエスの五千人の給食の後、夕方になり、主イエスの弟子たちは山を下り、ガリラヤ湖の畔に小舟が一艘あったので、それに乗り込んでガリラヤ湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。
弟子たちが自主的に行動し、小舟でカファルナウムに向かっています。
マタイによる福音書の14章45節には、主イエスが弟子たちに小舟に乗り込むように命じられていますが、行く先は記していません。マルコによる福音書の6章45節は、主イエスが弟子たちに舟に乗り込むように命じられ、行く先はベトサイダと記しています。ヨハネによる福音書と真逆です。
一般に考えられているのは、ヨハネによる福音書は、マルコによる福音書を資料にして、先週の主イエスの五千人の給食と今朝の主イエスがガリラヤ湖の湖の上を歩くという奇跡を記しました。
ヨハネによる福音書は、マタイとマルコによる福音書とは異なり、主イエスが五千人の給食の後に群衆が主イエスをこの世の王にしようとしたので、一人山に登り、祈られたと記しています。
だから、弟子たちは自分たちで判断し、一艘の小舟に乗り、カファルナウムに行こうとしたのです。
それから、行先の違いですが、ヨハネによる福音書は、主イエスが飢えた大勢の群衆を見て、フィリポにどこでパンを買おうかと質問されたことを記しています。マタイとマルコによる福音書では弟子たちが飢えた大勢の群衆を心配し、主イエスが弟子たちに彼らの腹を満たせと命じられ、フィリポのように答えています。ヨハネによる福音書は、主イエスがベトサイダ出身のフィリポに質問することで、ここがフィリポの良く知るベトサイダの近くにある荒野であると暗示していると、わたしは思います。
聖書の後ろにある聖書地図6「新約時代のパレスチナ」を見ていただくと、ベトサイダの向こう側はカファルナウムです。
さて、弟子たちは小舟に乗りました。主イエスはおられません。夕方で、暗闇が覆い、急にガリラヤ湖の天候が変わり、湖が荒れ始めました。
舟を漕いで、「二十五ないし三十スタディオン」とは、弟子たちが舟を漕いで五、六キロ進んだという意味です。
ある牧師は、次のように説教しています。「18節に、『強い風が吹いて、湖は荒れ始めた』とあります。これは一見すると、大変不思議な気がします。しかし、私も前にこのティベリヤから対岸に行く定期便に乗ってみました。愛空でとっても美しい日だったのですが、ちょうど湖の真ん中まで来た時に、突然嵐が起こって、舟の中に水が入って来ました。それほど揺れて来るのです。それを通り過ぎると、また、青い空になって非常に静かになって対岸に着きました」。
だから、牧師はヨハネによる福音書のガリラヤ湖に嵐が起こったという記事は事実であろうと言うのです。不思議な作り話でないと言うのです。
ヨハネによる福音書では、舟に乗っていた弟子たちが、ガリラヤ湖が荒れ始めることを問題にはしていません。
彼らが見て驚いたのは、心から恐れたのは、「イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見」たからです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にまず弟子たちが湖の上を歩かれて、彼らのところに来られる主イエスを見て、恐れたことを伝えています。
「見て、彼らは恐れた」とは、聖書のある場面での決まり文句です。超自然的出来事を、聖書が描く時に、よくこの表現を使います。たとえば、ルカによる福音書1章12節です。神殿の務めをしていた祭司ゼカリヤ、彼は洗礼者ヨハネの父ですが、神殿に天使が現れたのを見ました。ルカによる福音書は「ザカリヤはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた」と記しています。
すると、主イエスは、弟子たちに次のようにお答えになりました。20節です。「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」
「わたしだ」、「わたしである」という言葉です。この主イエスのお言葉は、モーセが初めて主なる神にお会いした場面を思い起こさせます。「主」という神の御名の起源を、です。パロの手から逃れたモーセは、40歳から80歳までミディアンの地で羊飼いをしていました。主なる神はモーセを召されて、御自身の名を彼に告げられました。「わたしはある」と。
今、主イエスは、その御名を弟子たちに告げられました。祭司ゼカリヤのように、超自然的出来事を見て、不安になり、恐怖の念に襲われた弟子たちに、主イエスは「恐れるな」と命じて、御自身が「主」であると宣言されました。
わたしたちが手にします新共同訳聖書は、わたしたち読者にいろいろ便宜をはかってくれています。付録に「読むためのガイド」を付してくれています。利用されている方がほとんどでしょうが、先ほどの「聖書地図」だけではありません。「用語解説」があります。そこで「主」という用語を御覧になりますと、今朝の御言葉を理解する大きな鍵があります。
途中から引用しますと、こう記しています。「空虚な神々と違って実際に『現存する者』,行動的に人々とともにいて,彼らに援助を与え,『現存する者』という意味が最も重要であると思われる」。
主イエスとは、わたしたちにとって誰であるのか。ヨハネによる福音書は、主イエス御自身の口を通して、「わたしはある」、すなわち、「わたしこそ真に主なる神である」と宣言されたのです。
偶像の神々とは異なり、五千人の給食で飢えた群衆の腹を満たすという行動で、また、ガリラヤ湖の湖の上を歩くという行動で、人々と弟子たちと共にいて、彼らに援助を与え、舟の中で嵐に遭う弟子たちを助け、「現存する者」であられます。
ヨハネによる福音書は、先週と今朝の御言葉によって、主イエスこそ主であると信仰告白しているのです。
先週の御言葉と今朝の御言葉は、一つにつながり、主イエスはキリストとわたしたち読者に伝えてくれています。
ですから、今主イエスが見に見えなくても、不安はありません。礼拝を通して、今も主イエスはわたしたちと共にいてくださいます。わたしたちが祈ります時、主イエスは聖霊と御言葉を通して、わたしたちと共にいてくださいます。
わたしたちは、この世でガリラヤ湖の嵐のように、突然人生で困難に出会うことがあります。
その度ごとに主イエスは、わたしたちに「恐れることはない。わたしだ」と言われます。
この礼拝が終わります時に、主はこの世に出て行くわたしたちを祝福してくださいます。毎月聖餐にあずかり、礼拝終わりの祝福の宣言はマタイによる福音書の28章20節です。そこで主イエスは、この世が終わるまで、わたしたちと共にいると約束し、この世に遣わされたわたしたちの生活を祝福してくださいます。
わたしも、愛する兄弟姉妹たちも、人生60年以上生きて来て、日常生活でいろいろと問題を抱えて、心苦しみ、何度「主よ、お助け下さい」と祈ったことでしょう。
キリスト者が作った詩に、「二つの足あと」があります。人生の砂漠に二つの足跡が続いていました。敬虔なキリスト者の足跡です。彼は主イエスに言いました。「人生で一番苦しかった時、あなたはどこにおられたのです」と。主は答えられました。「わたしがあなたを背負っていたから、二つの足跡しかないのだ」と。
わたしは、その通りであると思います。欠けの多い者ですから、いろいろと失敗をし、家内に迷惑をかけ、愛する兄弟姉妹たちにも迷惑をかける者ですが、主は預言者イザヤを通して、約束してくださいました。
「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ46:4)。
主イエスがわたしたちと共にいてくださいます。どんな困難がわたしたちの人生に、そしてこの教会にあろうと、主イエスは、弟子たちと同じことをわたしちとこの教会にしてくださいます。
それは、21節の御言葉です。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」という主の祝福です。
ヨハネによる福音書は、この最後の御言葉を記した時に、詩編107編の御言葉を賛美しながら記したのではないでしょうか。
「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。主に感謝せよ。主は慈しみ深く 人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。主は渇いた魂を飽かせ 飢えた魂を良いもので満たしてくださった。」(詩編107:6-9)。
「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから導き出された。主は嵐に働きかけて沈黙させられたので 波はおさまった。彼らは波が静まったので喜び祝い 望みの港に導かれて行った。」(詩編107:28-30)。
詩編107編のメシア預言の成就を、ヨハネによる福音書は、五千人の給食と湖の上を歩かれた主イエス・キリストに見ました。そして、十字架の栄光を通して、「恐れるな。わたしだ」と宣言された主イエスが、弟子たちとわたしたちを目指す地、御国に着かしてくれることを心から確信しました。
どうか、先週と今朝の御言葉が、愛する兄弟姉妹と子供たちの上にも、主イエスが共にいて実現してくださいますように、祈ります。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスの湖の上を歩かれる奇跡を学ぶことができて感謝します。
この世でわたしたちが生きることは、ガリラヤ湖で主イエスの弟子たちが嵐に遭うのと同じです。
わたしたちの主イエスは、嵐の舟の中に弟子たちと共にいて、彼らを目指す地に着かせてくださいました。同じように今も主イエスは、聖霊と御言葉を通してわたしたちと共にいて、この礼拝に集まります一人一人の者たちのこの世における苦しみの中に共にいて下さり、御自身の十字架と復活の栄光の御業を通して、わたしたちを御国という望みの地に導いてくださいます。心より感謝します。
どうか、主イエスがわたしたちと共にいてくだされば、どんな困難があろうと、主は必ずわたしたちを目指す地に着かして下さると信じさせてください。
そして、わたしたちが今朝の主の御言葉を信じると共に、わたしたちの家族にも、わたしたちが住む町の友達、人々にも主イエスと共に生きる喜びを伝えさせてください。身近に人生に困難を覚える者、飢えたる者、様々な苦しみを持つ者がいれば、主よ、あなたが彼らの友となり、そして、わたしたちとこの教会の友としてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。