ヨハネによる福音書説教06         主の2016年2月21日
 さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
                  ヨハネによる福音書第1章19-28節

 説教:「荒れ野で叫ぶ声」
 わたしたちは、ヨハネによる福音書から次のことを学んできました。初代教会のキリスト者たちが礼拝の中で賛美していたロゴス讃歌を用いて、「神の言」としてイエス・キリストを告白していることです。

  ロゴス讃歌を要約すれば以下の通りです。「神の言」であるキリストは、永遠に神と共に存在し、万物は「神の言」であるイエス・キリストの働きを通して造られました。ですから、「神の言」であるキリストは、命の源であり、人を照らす光でした。また、「神の言」であるキリストは、御使いの姿を通して、あるいは昔の預言者たちの言葉を通して、神の民、すなわち、イスラエル、ユダヤ民族を訪れ、御自身のところに招かれました。しかし、彼らは「神の言」を拒みました。そこで「神の言」であるイエス・キリストは肉体を取り、すなわち、人となり、この世に来られました。そして、イエス・キリストを信じる者たちを神の子とし、キリスト教会に宿ってくださいました。

 そこでヨハネによる福音書は、私たち読者に今朝の1章19節から12章まで受肉してこの世の来られた「神の言」である主イエス・キリストが世に対して行われた啓示の業を証ししています。

 「神の言」は人となり、ナザレのイエスとしてこの世で神の御救いの御業をなされ、多くのしるし、すなわち、奇跡を行われました。しかし、ユダヤ人が代表するこの世によって彼は拒まれ続けます。ヨハネによる福音書はわたしたち読者に12章37節で「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった」と、1章19節から12章までキリストがこの世に対してなされた啓示の業が拒絶されたと、総括しています。

 この福音書は、「神の言」であるキリストを、「命」、「光」としてイメージし、この世を「闇」「暗闇」とイメージしています。ですから、「神の言」であるキリストは、「命」、「光」として闇の世に来られ、1章5節で「光は暗闇の世に輝いている」と証言しています。今、現在もキリストは、光として暗闇のこの世に、今の世界に輝かれているのです。

 そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこう告げているのです。「光である『神の言』であるキリストは、今、あなたがたが読んでいるこの福音書の中に輝き続けている」と。

  ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に過去の出来事を、「神の言」であるキリストが、今輝いている出来事として証言しています。だから、わたしたちは、「神の言」が人となり、この世で輝きを始められた場所と出来事を、この福音書を通して導かれるのです。1章28節で次のように証言しています。「これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアの出来事であった。」
 
  ヨハネによる福音書は、主イエスの公生涯をガリラヤではなく、ベタニアから書き始めているのです。主イエスを登場させる前に、洗礼者ヨハネの証しから書き始めています。そして、1章19節から2章11節まで1週間におけるキリストの証しの出来事を記しています。19節から28節は、一週の最初の日です。
 
  ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネが主イエスに洗礼を授けたことを明確に記していません。むしろ、洗礼者ヨハネが、「神の言」である主イエス・キリストを「わたしより優れている。わたしより先におられたからである」と証しし、「神の小羊」と証しすることに力を込めて記しています。
 
  ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に1章6-7節でヨハネが神からキリストを証しするために、それによって人々がキリストを信じるようになるために遣わされたと伝えてくれました。1章19-34節は、ヨハネがどのようにキリストを証ししていたかを詳細に伝え、35-51節でヨハネの証しでキリストを信じた弟子たちの召しを伝えています。
 
  ベタニアという場所は、「悩みの家」「貧困の家」という意味の場所です。ベタニアはエリコの町の対岸、ヨルダン川の東側にありました。洗礼者ヨハネは、ここで人々に悔い改めを迫り、水で洗礼を授けていました。

 19節の「エルサレムのユダヤ人たち」とは、ユダヤの宗教的指導者たち(サンヘドリンのメンバー)のことです。彼らは、洗礼者ヨハネの活動を警戒していたのでしょう。彼が民衆を扇動し、騒ぎを起こすことを恐れていたのかもしれません。そこで彼らは、祭司たちとレビ人たちを遣わして、ヨハネが何者であるかを探らせたのです。

 祭司とレビ人は、神殿でいけにえをささげ、民に律法を教える者たちであります。神の民を祝福することが彼らの第一の務めでありました。ところが、彼らは、祭司長たちに命じられて、ヨハネが何者であるかを探りに来ていたのです。

 祭司たちとレビ人たちは、主に2つの質問をしています。第一は、何者であるかという質問です。

  それに対してヨハネは、隠すことなくはっきりと、「わたしはメシアではない」と答えました。続いて彼らがエリヤか、あるいは他の預言者かと尋ねると、彼は「エリヤや他の預言者」たちの再来でもないと答えています。自分は預言者イザヤが預言している「荒れ野で叫ぶ声」であると力強く宣言しました。
 
  ヨハネは、公に告知したのです。自分はメシアではない、イスラエルの偉大な預言者でもない、自分は荒れ野で叫ぶ声であると。自分の役割は、主の道をまっすぐにすることだ、すなわち、神が天からこの地上の神の民たちのところに来られる道をまっすぐにすることだ、と。要するにヨハネは、自分の後から来られるキリストを証しし、人々に信じさせることが自分の使命だと言っているのです。
 
  それを聞いた祭司たちとレビ人は、第二の質問をしました。メシアでも預言者でもない者がなぜ洗礼を授けているのかと。
 
  ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に24節で質問した者たちがファリサイ派に属していたと説明しています。「神の言」であるキリストのこの世に対する啓示の業に最も強く敵対するのがファリサイ派の律法主義でありました。ですから、彼らはキリストを証しするヨハネに敵対し、厳しくヨハネを問いただして、メシアでも預言者でもないものが、なぜ民衆に洗礼を授けているのか、そんな資格はないだろうと。
 
  それに対してヨハネは、自己弁明するのではなく、自分の後に来られるキリストを次のように証ししました。「自分は水で洗礼を授けているが、今、わたしには見える。あなたがたのただ中に、わたしが証しするお方がおられる。あなたがたの知らないお方だ。わたしはそのお方の靴の紐を解く資格、すなわち、奴隷となって、奴隷がする一番低い仕事をする資格もない」と。
 
  ヨハネの証言を耳にしていますと、ヨハネはキリストを証しすることに徹すると共に、自分をキリストより下位に、低く置いています。使徒言行録の19章に使徒パウロが洗礼者ヨハネの弟子たちをキリスト信仰に導いたという記事があります。初代教会の初期の時代、ユダヤ教とキリスト教、それと洗礼者ヨハネの弟子たちがいました。そこでパウロが洗礼者ヨハネの弟子たちをキリスト教信仰に導くために「ヨハネは、自分の後から来られる方、つまり、イエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けていたのです」(使徒言行録19:4)と述べています。ヨハネによる福音書も同じ目的で、今朝のみ言葉を記しているのだと思います。洗礼者ヨハネの弟子団がこの福音書が書かれた1世紀末にも存在しており、彼らをキリスト教会に導くために、福音書はヨハネの証しを書いたのでしょう。
 
  今朝の説教を準備しながら、聖書のテキストを読み、ギリシア語新約聖書のヨハネによる福音書を読み、何人かの牧師の説教集を読みました。そして、洗礼者ヨハネのように「荒れ野で叫ぶ声」に、すなわち、声を出して、キリストを証しすることに心が留まりました。
 
  わたしが諏訪に来まして、一人の牧師に出会いました。菅原威牧師です。夏の花火大会の頃に諏訪を訪れ、自動車で町を回られ、スピーカーで聖書のみ言葉を語られます。正直、迷惑だと思うことがありました。
 
  しかし、その思いを反省しました。榊原康夫先生が今朝のみ言葉を説教され、秋田の町での経験を語られていたからです。秋田のある教会が先生を特伝の講師に招きました。そこで教会は市内中に車を回して、伝道集会の案内をしたそうです。すると、車にスピーカーを付けて、伝道する団体に出会われました。先生はその町に一週間滞在され、彼らがスピーカーから語る聖書のみ言葉の声を聞き続けられたそうです。そこで榊原先生が正直に次のように述べておられます。「私はその宣教師の人々は知りませんし、その団体はあまり私たちと性の合わないミッションかもしれませんが、でも、御言葉の力というものに強く心を打たれたのを覚えております。」
 
  そこで榊原先生が次のようなことをおしゃっています。読んだわたしの理解ですが。こうです。わたしたちの伝道は上品で、人前で声を出さず、職場ではまじめに働き、人前ではまじめに生活し、自分はキリスト者であることを証しすることが良き証しだと考えている。「まじめなわたしを見てくれ」ではなく、この洗礼者ヨハネのように「荒れ野で叫ぶ声」として、声を出してキリストを証しすることが、聖書が語るキリストの証しなのではないか。そこで榊原先生は、わたしは、ただ声に過ぎないが、永遠のみ言葉を聞いてくださいと証しする人になりたいと思うと言われていました。
 
  正直に言うと、わたしにとっても声を出してキリストを証しすることは、勇気のいることです。昔は路傍伝道がありました。わたし自身、声を出して、キリストを証しするという伝道を、1度だけ、神学生の頃に板宿教会の伝道集会でした経験があります。ハンドマイクを持ち、教会の近隣を巡り歩きました。すると、近くの別の教会の方々が、ギターを奏でて賛美し、その後キリストを証しし、路傍伝道されました。ハンドマイクでがなり立てているわたしたちとは違い、本当に神戸の街に似合った伝道をされると感心したことを、今も覚えております。
 
  最期にわたしは、聖霊に助けを祈り求め、「主よ、わたしたちも、洗礼者ヨハネ同様に荒れ野で叫ぶ声にしてください」と祈りたいと思います。「どうか、主よ、わたしたちをあなたを証しする声にしてください。」
 
  お祈りします。
 
 イエス・キリストの父なる神よ、「荒れ野で叫ぶ声」という題で、今朝のみ言葉を語る機会が与えられ、心より感謝します。

 わたしたちは、まじめに生活し、まじめに職場で働き、自分がキリスト者であることを証しすることが良き証しであると考えております。しかし、今朝、洗礼者ヨハネを通して、主が求められる証しとは、声を出してキリストを証しすることであると教えられました。

 わたしにとって勇気のいることですが、どうか、主よ、聖霊に依り頼み、声を出してキリストを証しさせてください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 ヨハネによる福音書説教07         主の201636

 

 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現われるために、わたしは、水で洗礼を授けて来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上に留まるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授けるひとである』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 

                  ヨハネによる福音書第12934

 

 

 

 説教:「神の小羊キリスト」

 

 3月に入り、どこの教会でも受難週とイースターに備えようとしています。わたしたちの教会でも327日のイースターに伝道集会を計画しています。そして、本日の礼拝報告時よりそれを覚えてお祈りをします。

 

 

 

 受難週は、今年は320日から始まります。キリストの最期の一週間の歩みを教会が記憶し、記念する営みであります。新約聖書の4つの福音書にキリストの受難の記事があります。それに従い日曜日から金曜日までキリストの受難、十字架と死をたどります。週報に記載します御言葉に従い、日曜日から金曜日までキリストの御受難を瞑想してください。キリストの御受難を瞑想しつつ、イースター礼拝に備えてください。

 

 

 

 さて、今朝の御言葉に注目しましょう。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に御受難のキリストを最初に証しした人物を紹介してくれています。洗礼者のヨハネです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、119節から211節まで、キリストの一週間の出来事を記しています。そこで洗礼者ヨハネがファリサイ派の人々と問答し、彼の弟子たちにキリストを証し、そして、キリストが弟子たちを召され、カナの婚礼でキリストが水をぶどう酒に変える奇跡をなさる一週間を記しています。

 

 

 

 榊原康夫牧師は、この一週間を、次のように言われています。「この一週間は、イエスが救い主であることを指す証の一週間だと言って宜しいと思います」と。わたしもその通りであると思います。

 

 

 

 一週間の第一日は、すでに学びました。1928節です。洗礼者ヨハネとエルサレムのサンヘドリンの宗教的指導者たちが派遣したファリサイ派の人々との問答を記し、ヨハネが彼の後から来るメシアを証ししたことを学びました。

 

 

 

 今朝の御言葉は、第2日の出来事です。洗礼者ヨハネと主イエスとの最初の出会いを記しています。洗礼者ヨハネがファリサイ派の人々と問答した翌日に、ヨハネは彼が証しした主イエスに初めて出会いました。

 

 

 

 主イエスが洗礼者ヨハネのところにやって来られるのです。それをヨハネは見ているのです。そして、ヨハネは言うのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。これは驚きの言葉です。

 

 

 

ヨハネは、この驚きの言葉を誰に証ししたのでしょう。ヨハネが証しする相手を、ヨハネによる福音書は記していません。しかし、3551節のキリストが弟子を召された記事を読みますと、洗礼者ヨハネは彼の弟子たちに証ししたと推測できます。

 

 

 

 今朝の御言葉で、ヨハネは、次の3つのことを証ししています。第129節です。「世の罪を取り除く神の小羊だ」。第2は、3031節です。「キリストは彼より先におられた」という証しです。第3は、3233節です。「聖霊によって洗礼を授ける方」という証しです。そして、34節でヨハネは、主イエスを神の子と証しします。

 

 

 

 洗礼者ヨハネは、敬虔で、謙遜な人です。自分を隠し、彼の声はキリストのことのみです。自分をキリストより下に置き、次のように証しします。30節で「自分よりまさる」と言い、2度「わたしはこの方のことを知らなかった」と言っています。そのようにヨハネは言うことで、自分がメシアであることを否定し、後から現れた主イエスこそメシアであると証しするのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は、私たち読者にヨハネの証しを紹介すると共に、ヨハネの役割を紹介します。それが31節です。「この方がイスラエルに現われるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」。

 

 

 

ヨハネが罪を悔い改めたユダヤ人たちに水で洗礼を授けるのは、彼が神から遣わされた任務を果たすためです。それは、今、公に現われていないメシアがイスラエルに現われるために、彼は水で洗礼を授け、預言者イザヤが預言した「荒れ野の声」となり、メシアの道を整えようとしました。

 

 

 

 今朝の御言葉から、わたしは、まずヨハネが証しした「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という御言葉に心を留めたいと思います。この証しは、36節でも繰り返されています。

 

 

 

 このヨハネの証しは、後の教会に大きな影響を与えました。祭壇画のテーマとなりました。祭壇画家たちは十字架のキリストを指さすヨハネを描き、十字架に小羊を描きました。

 

 

 

 このヨハネの証しに、わたしはヨハネによる福音書の十字架の理解があると思います。この福音書は、イエスの死をニサンの14日、すなわち、ユダヤの過越の祭の準備の日の午後と記しています。それは、旧約聖書の出エジプト記で過越の小羊がほふられる日時と重なります。十字架のキリストは、過越の祭にほふられた過越の小羊と同じ時刻に、その成就として死なれました。ですから、十字架の処刑では死刑囚の死を少しでも早めるために、彼の足の骨を折りました。ところが、出エジプト記1246節で、神は過越の小羊の足の骨を折ることを禁じておられます。ですから、十字架のキリストの足の骨は折られませんでした。

 

 

 

 洗礼者ヨハネは、自分の方に来られる主イエスを見て、彼は聖霊によって十字架のキリストを見るのです、世の罪を取り除く小羊として。世とは、神の民であるユダヤ人を含めたこの世です。神に背を向け、キリストを拒む世です。ヨハネが見る主イエスは、この世の人々の罪を取り除くお方でした。

 

 

 

 過越の小羊は、神の民の罪の身代わりの犠牲でした。神の民に代わって、神の刑罰を受けました。そのために神の民は、犠牲にする小羊の頭に自分の手を置きました。罪を負った小羊は黙って、ほふられました。ですから、旧約の預言者イザヤは、苦難のしもべを、この小羊にたとえました。ヨハネが見るキリストは、神の小羊として、苦難のしもべとして、わたしたちの罪の身代わりのために、十字架という神の呪いの刑罰を受けてくださるのです。

 

 

 

 次にヨハネは、主イエスを「わたしより先におられ、わたしより優れたお方である」と。彼は、キリストの神性を証ししているのです。これは、ユダヤ人の理解なのです。ユダヤ人は、本質的にすぐれた存在を、時間的に先にある存在と表現するのです。主イエスが創造に先立つ存在であるということは、彼が永遠の神であるということです。だから、ヨハネは、主イエスを、自分よりすぐれた永遠の神の子であると証しするのです。

 

 

 

 さらにヨハネは、主イエスに聖霊が鳩のように天から降って、この方の上に留まるのを見たと証ししています。これは、次のことを証ししています。ヨハネより先におられた神の子キリストは、人となられ、地上の生涯常に聖霊と共に歩まれると。

 

 

 

そして、ヨハネは、自分は水で洗礼を授けたが、主イエスは聖霊で洗礼を授けられると証しします。

 

 

 

洗礼という行為は、二つの面があります。罪を洗い流すという面と新しい命に生まれるという面です。わたしたちは、水で洗礼を受けることで、次の二つの面を持つのです。今までのわたしたちのすべての罪、今後犯すであろうすべての罪が十字架のキリストによって赦されたということです。また、洗礼によってわたしたちは、キリストに結ばれ新しい命に生かされているということです。創造に先立つキリストにわたしたちは結ばれ、永遠の命に生きる者とされているのです。

 

 

 

聖霊の洗礼とは、わたしたちが神の中にどっぷりとつかり、神の力に満たされることです。それを、ヨハネによる福音書は、116節で、こう言っています。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」。主イエスがわたしたちに聖霊を授けてくださるので、わたしたちは信仰を与えられ、数々の奉仕の賜物を与えられ、神の力に満たされて、罪の力に打ち勝つことを得させていただけるのです。

 

 

 

世の罪を取り除く神の小羊は、復活し、聖霊を通して今わたしたちの教会におられます。そして、今朝はわたしたちを聖餐の食卓にお招きくださいます。今キリストは、洗礼者ヨハネが証ししたように、聖餐式を執行する牧師の声を用いて、「今もわたしはこの世の罪を取り除く小羊だ」と言われます。キリストは、罪の力を、あの十字架によって滅ぼしてくださり、今も罪を滅ぼし、わたしたちを永遠に罪から解放し、救う者であると宣言されています。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今月は受難週とイースターを迎えます。そのことを覚えつつ、今朝のみ言葉を聞く恵みが与えられ、感謝します。

 

 

 

 「見よ、この世の罪を取り除く神の小羊だ」。どうか、わたしたち目にも、小羊キリストを見させてください。色々な罪に苦しむ者がここにいます。わたしたちを罪の力から解放してください。

 

 

 

 世の罪を取り除くキリストよ、わたしたちに聖霊の洗礼を豊かに注いでくださり、罪に打ち勝つ信仰を強め、罪の世においてこの世に染まることなく、キリストを証しできるようにしてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 ヨハネによる福音書説教08         主の2016年3月13日
 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが留まっておられるのかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア―『油注がれた者』と言う意味―に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」と言われた。
                  ヨハネによる福音書第1章35-42節

 説教:「弟子の召命-人生の転換点」
 ヨハネによる福音書は、1章1-18節で初代教会が賛美していたキリスト讃歌を用いてイエス・キリストの永遠の神たることを高らかに賛美しました。続いて、1章19節から2章11節までヨルダン川の向こう側のベタニアの洗礼者ヨハネから始まり、ガリラヤでのカナの婚礼までの一週間の出来事を記しています。

 ヨハネによる福音書を読んでいますと、この福音書独自の記述に出会います。何処かと言えば、洗礼者ヨハネと主イエスの出会いです。ヨハネによる福音書には、主イエスがヨハネから洗礼を受けられた記述はありません。むしろ、主イエスは、ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕えられる前から、ヨハネと並んで公の活動を始めておられます。ですから、ヨハネは主イエスの活動を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししているのです。

 1章19節から2章11節まで、一週間の出来事を記しています。第1日目の19-28節は、洗礼者ヨハネとエルサレムのサンヘドリンの宗教的指導者たちが遣わしたユダヤ人たちとの対話です。29-34節が第2日目です。29節に「その翌日」とあり、ヨハネと主イエスとの最初の出会い出会いです。ヨハネが主イエスを見て「先におられた神の小羊」と証ししています。

 第3日目と4日目が今朝の御言葉です。35-40節が第3日目です。41-42節が第4日目です。弟子の召命の記事です。そして、43-51節が第5日目です。ここも弟子の召命の記事です。そして、第6日目の記述がなく、2章1-11節で第7日目のガリラヤのカナの婚礼の出来事を記しています。

 ヨハネによる福音書の弟子の召命の記事の特色は、その召命が間接的であることです。共観福音書、すなわち、マタイ、マルコ、ルカによる福音書の弟子の召命の記事のように、主イエスが直接に弟子たちを召されていません。

 今朝の35-40節と41-42節の御言葉をお読みになりますと、洗礼者ヨハネが二人の弟子に、主イエスを「見よ、神の小羊だ」と証しし、二人の弟子たちは主イエスのところへ行き、弟子となりました。40節に記しているように、ヨハネの証しの言葉を聞いて、主イエスに従い、主イエスの弟子となりました。

 ペトロの召命の場合も同じです。ペトロは兄弟アンデレが「わたしはメシアを見た」という証しを聞いて、アンデレに導かれて主イエスのところに行き、主イエスに従い、弟子となりました。このようにヨハネによる福音書は、弟子たちの召命を、主イエスの間接的な召しとして描いています。

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者を意識して、この主イエスが弟子たちを召されることを、間接的に記しています。主イエスの弟子の召命という事実は、動かしがたいものです。しかし、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にその事実を新聞記事のように伝えたいわけではありません。

 ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの弟子の召命の事実が、今のわたしたちにどのように可能であるかを伝えようとしています。だから、わたしたちは、同時性でもって、今朝の御言葉を読む必要があります。すなわち、わたしたちがキリスト者に召された事実に、今朝の御言葉を照らし合わせるということです。

 ヨハネによる福音書は、主イエスが天に昇られ、聖霊が降り地上にキリスト教会が生まれて、おそらく60年後に書かれました。1世紀末の教会のキリスト者たちがこの福音書の読者たちです。彼らは、主イエスの生前の弟子たちのように直接に召しを受けて、従うことはできません。そのような読者たちに、ヨハネによる福音書は今日どのように主に召され、主に従うことが可能であるのかを明らかにし、主の生前の弟子たちと今のわたしたちとに価値の差はなく、同じ主の召しにあずかり、主に従い、主の弟子となったことを明らかにしようとしています。

 このように聖書は、事実をただ新聞のように伝えるのではなく、生前の主に直接に召された弟子たちも、今のわたしたちのように間接に召された者も、同じ主の弟子であることを伝えるために、このように弟子の召命の記事を記しているのです。

 だから、弟子の召命の記事は、ヨハネによる福音書がよく考えた上で、しかも今のわたしたち読者に配慮して記しているのです。

 ヨハネによる福音書の中で洗礼者ヨハネの役割は、「先におられた」すなわち、「永遠の神である神の小羊」イエスを証しすることに尽きています。ヨハネが二人の弟子と共に立っていると、目の前で主イエスが歩いておられます。ヨハネは、ヒマワリが太陽を追いかけるようにじっと主イエスを見て、言います。「見るがよい。神の小羊」と。

 二人の弟子たちは、彼らの先生が証しするのを聞いて、主イエスに従いました。主イエスの弟子になったのです。

 その時に、二人が主イエスのところに来たときに、主イエスは、振り返って二人をご覧になりました。そして、主の弟子になることを志願する二人に、主は「何を求めているのか」と問われます。こうして二人は、主に召され、主との結びつきを持てるようにされます。

 しかし、主に出会った二人にとって、主イエスは「ラビ(先生)」でした。ヨハネより偉い先生に過ぎません。彼らは、主イエスの住まいを尋ねます。それが、主イエスの「何を求めているか」の答でした。

 誰でも、何かを求めているから、主イエスのところに来るのです。主は、わたしたちに「求めよ、そうすれば与えられる」と約束してくださるお方です。二人が求めているのは、主の弟子になることでした。だから、彼らは、主に住まいを尋ねたのです。

 主イエスは、彼らをお自分の弟子に招かれ、「来なさい。そうすれば分かる」と言ってくださいました。39節の「来なさい。そうすれば分かる」という言葉は、そのままギリシャ語の言葉を読みますと、「来たれ。そうすればあなたがたは見るであろう」です。だから、二人は主イエスが宿泊されているところを見たのです。そして、その日は主イエスが宿泊されているところに、彼らも泊まり、一晩主イエスと語り合ったのではないでしょうか。

 翌日、第4日目、主イエスの弟子になった二人のうちの一人、シモン・ペトロの兄弟アンデレは、ヨハネの証しを聞いて、もう一人の者と共に主イエスを尋ね、弟子になりました。そして、彼は、主イエスの御言葉を聞き、イエスをメシアと信じました。メシアとは油注がれた者という意味です。一晩でアンデレは、主イエスを偉い先生からメシア、救い主と信じたのです。

 アンデレは、旧約聖書に約束されたメシアを求めていました。彼は、メシアがナザレのイエスであると確信し、兄弟のシモン・ペトロに「わたしはメシアに出会った」と証ししました。アンデレは、兄弟に「わたしたちはメシアがいるのを見出した」と証ししました。そして彼はペトロを今います主イエスのところに連れて行きました。

 主イエスは、連れてこられたペトロを見つめられて、「あなたはヨハネの子シモンである。これからは「ペトロ(岩)」と呼ばれるであろうと言われました。
名前が人を変えるのではありません。主イエスがペトロの人生を変えられるので、彼の名が変わりました。

 主イエスは、ペトロを召し、漁師から福音宣教者に変えられました。自分のために生きていた人生から神のため、主のために生きる人生に変えられたので、彼の名を、変えられたのです。

 今朝の御言葉を聞きまして、自らを省みることを、この福音書はわたしたち読者に求めていると思うのです。

 わたしも大学生のとき、大学の恩師に教会に行くように勧められ、主イエスが泊まっておられる宝塚教会に導かれました。そこでここと同じように毎週教会の礼拝で説教を聞き、聖餐にあずかれませんでしたが、聖餐式に出ました。そして、1年と3カ月求道し、主イエスをキリストと信じて、洗礼を授けられ、キリスト者になりました。

 その時わたしの人生の転換期となりました。自分のために生きる人生から、神のために生きる人生に変えられました。イエスはキリストと信仰告白することと伝道者になることがわたしにとって一つとされました。主は、わたしから田舎に帰って学校の教師になる道を閉ざされ、大学院に進む道を閉ざされ、就職する道を閉ざされました。主がわたしに残された道は、神学校へ行くことでした。宝塚教会の牧師が語るキリストに従う道でした。

 主は、わたしに二人の弟子たちのように「何を求めているのか」と尋ねてくださり、わたしは「神学校に入り、もっとキリスト教が知りたいです」と答えました。

 すると、主はわたしが神学校に入ると、宝塚教会の白井長老を通して励ましのメッセージをお与えくださいました。白井長老は、わたしの「足立正範」という名で、次のように励ましてくださいました。「わが足は、神の言葉の上に立ち、正しく歩みて、人の範たらん」と。以来、この励ましの言葉を忘れたことはありません。神学校を卒業し、今年で35年になります。主イエスは、白井長老の励ましの言葉通りに、わたしを伝道者として今日まで導いてくださいました。

 今朝の御言葉は、わたしに信仰告白と伝道者という人生の転換期を、主イエスの恵みとして思い起こさせてくれました。

 もう一つのことを付け加えて終わりましょう。榊原康夫牧師が今朝の御言葉を説教し、スタンレー・ジョーンズという年老いた伝道者の言葉を紹介されています。「伝道とは、ひとりの乞食がもうひとりの乞食に向かって、わしは、きょう、どこからパンを得たかを、告げることである」。

  この年老いた伝道者の言葉を紹介し、榊原牧師は次のように教会員に語られています。「私たちが何かをするのではありません。私たちは、まことに欠けの多い、乏しい、貧しい、乞食であります。が、その私たちは今日、この糧をどこで手に入れたか、どなたからいただいたかを、ただ同僚の飢えさらぼえた乞食たちに伝える、それが伝道です。」

 「わたしは乞食です」と神の御前で信仰告白したのは、宗教改革者のルターです。以来、キリスト者を乞食にたとえるようになりました。乞食は相手の施しを信じて、施しを願います。同様にわたしたちも、ただ主イエスを信じて、キリストの十字架の罪の赦しと復活による永遠の命を乞います。そして、わたしたちが信じるイエスは、ヨハネによる福音書が「イエスが泊まっておられる所を見た」と記しますように、この教会におられる主イエスです。わたしたちは、信仰によって、御言葉を通して常に主のみ声を聞き、聖餐を通してこの教会にわたしたちと共にいます主イエスを見たという信仰体験をしているのです。ヨハネによる福音書は、わたしたちの信仰体験と生前の主イエスに出会った弟子たちの信仰体験は同じであると証ししています。だから、わたしたちは、アンデレのようにこの教会で信仰によってキリストを見たこと、恵みを受けたことを身近な者たちに告げようではありませんか。

 お祈りします。
 
 イエス・キリストの父なる神よ、イースター伝道集会の案内チラシを地域に配布します。一枚のチラシ案内を用いて、神の民をわたしたちのところにお導き下さい。

 今朝の御言葉を通して、主よ、あなたの召しを覚えることができて感謝します。わたしたちもアンデレのように、身近な者に教会に誘われ、礼拝の説教と聖餐を通して、わたしたちと共におられるキリストに導かれました。

 キリストを信仰告白した時、わたしたちの人生の転換期となりました。自分のために生きていた人生から、神のために生きる人生に変えられたことを感謝します。この地上で終わる人生がキリストと共に神の永遠の命に入れられ、完成する人生に変えられたことを感謝します。

 どうか、わたしたちをアンデレとして、身近な者たちにキリストを証しさせてください。

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。