ヨハネによる福音書説教85 主の2018年9月2日
その日、すなわち週の初め日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、許されないまま残る。」
ヨハネによる福音書第20章19-23節
説教題:「聖霊を受けなさい」
ヨハネによる福音書は、20章で、まず主イエスを葬りました墓が空であった事実を記しています。そして、週の第一の日の朝に復活の主イエスがマグダラのマリアに現れたことを記しています。そして、今朝は、週の第一の日の夕方に主イエスが弟子のトマスを除く10人の弟子たちに現れたことを記しています。
さて、ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアが主イエスの弟子たちに「わたしは主を見ました。」と言い、彼女に復活の主が言われたことを告げ知らせたと記しています。
マリアは、主イエスの弟子たちに復活の主イエスの顕現とその復活の主イエスのお言葉を伝えたのです。
彼女が主イエスの弟子たちに伝えた復活の主イエスのお言葉を、ヨハネによる福音書は記していません。
しかし、わたしたちは推測できるでしょう。20章17節で復活の主イエスがマリアに言われたお言葉です。
この復活の主イエスのお言葉で、ヨハネによる福音書は復活の主イエスの昇天を記しているのです。
彼女が主イエスの弟子たちに伝えたのは、復活の主イエスが父なる神の御元に昇天されることです。
だから、マリアの主イエスの弟子たちへのメッセージは、こう言い換えてよいと、わたしは思うのです。
「主イエスは復活された。わたしは復活の主イエスを見ました。そして、復活の主イエスは言われました。『わたしは天の父のところに上って行く。わたしの父はあなたがたにとっても父であり、神である』と」。
だから、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、今朝の御言葉で次のように記しているのです。
「その日、すなわち週の初め日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」(19-20節)。
復活の主イエスは、同じ日の夕方に、すなわち、週報の第一の日、日曜日の夕方に、突然彼の弟子たちの前に現れたのです。しかし、しゅイエスの弟子たちは、それを驚かないし、復活の主イエスが彼らに手とわき腹の傷跡をお見せになると、彼らはマリアのように復活の主イエスを見て、喜んだのです。
十字架の主イエスの御前からヨハネを除いて10人の弟子たちは逃げました。そして、ヨハネを含めて11人の弟子たちは、エルサレムの都ある家を隠れ家にして、ユダヤ人たちの迫害を恐れて隠れていたのです。戸には鍵をかけて。
19節の「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」という文章は、今風です。分かりやすいですが、時代考証がなされていません。「鍵をかけていた」という言葉は、「ケクレイスメノーン」というギリシア語を現代風に訳しています。ギリシア語の「ケレイオー」という動詞の分詞の完了形の受け身です。直訳すると、「閉じられていた」と訳せます。単に家の戸が閉められていたという意味ではありません。「戸にしっかりとかんぬきをかけていた」という意味です。それほど主イエスの弟子たちはユダヤ人の指導者たちが彼らを迫害することを恐れていたのです。
だから、復活の主イエスは、全く閉じ込められた所に、10人の弟子たちがそこにいる真ん中に突然現れたのです。復活の主イエスは彼らの前に立たれました。そして、復活の主イエスは弟子たちに「あなたがたに平安があるように」と告げられました。
そして、復活の主イエスは、彼らに御自身が幽霊でないことを証明するために、御自身の手の釘痕とわき腹の槍の刺し傷を見せられました。
弟子たちは、復活の主イエスを見て、喜びました。この喜びは、ギリシア語の「カイロー」で苦しみの中にあっても喜びが浸みわたっているという意味の言葉です。
復活の主イエスが彼らに現れ、弟子たちの心に永遠の命という平和が与えられました。
復活の主イエスは、21-23節で主イエスの弟子たちを宣教へと遣わされています。
21-23節です。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、許されないまま残る。』」
復活の主イエスは、二度彼の弟子たちのために平和を祈られ、彼らを特別な任務に就かせようとされています。
すなわち、父なる神が御自身をこの世に遣わされたように、11弟子たちをこの世に遣わすことです。
だから、主イエスの弟子たちは、復活の主の現れを見た限り、この家に隠れ続けることは許されません。そこを出て、彼らは復活の主イエスの証人として、この世のあちこちで、マリアのように「わたしたちは復活の主イエスを見ました」と、世の人々に伝えて行かなければなりません。
そのために、復活の主イエスは、彼らに息を吹き入れて言われました。「聖霊を受けよ」と。
これは、単なる神話的表現ではありません。ユダヤ人たちを恐れ、主を裏切り、霊的に死んでいた弟子たちを、復活の主イエスが霊的に生かされたことを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に伝えているのです。
わたしは、ヨハネによる福音書が創世記2章7節の御言葉を前提に復活の主イエスのこの行為を記していると思います。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
主イエスは、彼の弟子たちに聖霊をお与えくださいました。彼らは復活の主イエスに息を吹き入れられて、生きた者となりました。
こうして彼らは、ユダヤ人たちを恐れることなく、この世の人々に復活の主イエスの御救いを伝えるのです。
聖霊を受けて、復活の主イエスの弟子たちは、復活の主イエスから全権を委ねられた使者となるのです。
そして、使者に対して、復活の主イエスは次のように約束されています。
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、許されないまま残る。」
「だれの罪でも」とは、この世の人々はだれでも、主イエスを拒む不信仰の中にいるのです。復活の主イエスは、それを罪と言われています。
だから、弟子たちは、主イエスを拒む不信仰のゆえに、心に平安なく、ユダヤ人たちを恐れて、ある家の中で閉塞的状況に陥っていたのです。
復活の主イエスは、彼らの真ん中に立たれて、彼らに「平和があるように」祈られ、彼らから主イエスを拒んだ不信仰を取り除かれました。そして、彼らをこの世に遣わされるために、聖霊をお与えになりました。
だから、復活の主イエスは、御自身が弟子たちの不信仰を取り除き、彼らの罪を赦されるだけでなく、彼らの宣教を通して、彼らが伝えるキリストを受け入れる者たちのだれもの不信仰を取り除かれ、彼らの罪を赦されます。しかし、弟子たちの宣教を通してキリストを受け入れない者たちのだれもの罪を、主イエスはそのままに止め置かれるのです。
ギリシア語の「ハマルティア」を、わたしたちは「罪」と訳しています。意味は、「的外れ」「かけ離れている」です。
復活の主イエスの現れがわたしたちに示される現実とは、復活の主イエスと共にあるということです。
わたしたち人間は、神に造られ、神と共に生きる者とされましたが、アダムの罪により神と共にある人間が神から離れて行く、この世の悲惨さの中に置かれました。
そのようなこの世の人々に、ヨハネによる福音書が復活の主イエスの現れを伝えることで、次のように喜びの福音を語ろうとしているのです。
すなわち、わたしたち人間は、この世で哀れな罪人であり、常に神から離れて行くけれども、復活の主イエスが現れてくださり、また神のところに戻ることができるという喜びです。
塵で造られ、神の息を吹き入れられた人間は、神から離れるけれども、復活の主イエスはその者に、弟子たちのように命の息を吹き入れて、「聖霊を受けよ」と、永遠の命をお与えくださり、もう一度主イエスと共に生きることができるようにしてくださいます。
目には見えませんが、復活の主イエスは、今わたしたちの目の前に立たれて、「あなたがたに平和があるように」と言われ、「今朝はわたしが与える聖餐にあずかれ」と言われます。
聖餐にわたしたちはあずかるときに、わたしたちは自分たちも主イエスの弟子たちのように聖霊をいただいた恵みを覚えるのです。主イエスを受け入れないで、不信仰に生きて、神から離れていたわたしたちが、この教会に招かれて、説教を通して復活の主イエスがわたしたちから不信仰を取り去り、そして主イエスを信じて、罪を赦され、聖霊をいただいて、復活の主イエスと共に生きる喜びを与えられています。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は復活の主イエスが御自身の弟子たちに現れた出来事を学びました。
マグダラのマリアが主の弟子たちに「わたしは復活の主イエスを見ました」と告げ知らせたように、同じ日の夕方に復活の主イエスは弟子たちの真ん中に現れてお立ちになりました。
そして、復活の主イエスは彼らの不信仰を除き、罪を赦されました。神からかけ離れた弟子たちが、復活の主イエスの現れを通して、再び神と共に生きる者とされたことを学びました。
わたしたちも主の弟子たちと同じように、神からかけ離れた者であり、この世で罪の中にいました。しかし、教会の宣教を通して、主イエスを受け入れ、不信仰を除かれ、罪を赦され、今御言葉と聖餐の恵みにあずかり、神と共に生きる者とされていることを感謝します。
どうか、復活の主イエスよ、あなたの弟子たちのように、わたしたちをこの世に遣わしてください。一人でも多くの方々に復活の主イエスを伝え、この世の人々が主を受け入れ、不信仰を取り除かれ、罪を赦され、わたしたちと共に主イエスを崇め賛美するものとしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教86 主の2018年9月16日
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたたいは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
さて、八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
ヨハネによる福音書第20章24-29節
説教題:「見ないで信じる者は幸い」
今朝は、ヨハネによる福音書第20章24-29節の御言葉を学びましょう。
ヨハネによる福音書20章は、主エスを葬った墓が空であったこと、復活の主イエスが週の初めの日、日曜日の朝にマグダラのマリアに現れ、その夕に10人の彼の弟子たちに現れたことを記しています。
前回と今朝は、復活の主イエスが彼の弟子たちのところにやって来られて、弟子たちの隠れ家に現れたことを記しています。
主イエスの弟子たちはエルサレムのある家に隠れて集まっていました。彼らは、ユダヤ人たちの迫害を恐れて、家の戸口に鍵をかけていました。
すると、復活の主イエスが突然彼らの閉塞状況を打ち破られて、彼らの真ん中に現れて、彼らに言われました。2度も「あなたがたに平和があるように」と。
その時に復活の主イエスは彼の弟子たちに手とわき腹とをお見せになりました。彼の弟子たちは復活の主イエスに出会い、大変喜びました。
そして、復活の主イエスは、彼の弟子たちを祝福し、御自身の復活の体を見せて、彼らに御自分であることを示され、彼らを主イエスの宣教の業に遣わされました。主イエスは、彼の弟子たちを御自身の宣教の業に遣わすために、彼らに聖霊を授けられました。
こうして、復活の主イエスの聖霊を授けられた彼の弟子たちは、復活の主イエスから「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」という権能を与えられて、主イエスの宣教の御業に遣わされるのです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこれがこの世に宣教する教会とキリスト者の力であり、持っている祝福であると伝えているのです。
だから、使徒言行録の3章で使徒ペトロは、「美しい門」と呼ばれるエルサレム神殿の門に座っていた、生まれながらに足の不自由な者に言いました。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。彼は、生まれながらに足の不自由な者に、彼が復活の主イエスから聖霊をいただいて持っている力を、主イエスの聖名による罪の赦しを与えたのです。すると、「美しい門」で巡礼者たちから施しを乞うていた、生まれながら足の不自由な者は罪を赦され、そのしるしとして立ち上がり、歩き出したのです(使徒言行録3:1-10)。
ヨハネによる福音書は、主イエスの御名による罪の赦しを、復活の主イエスが彼の弟子たちを御自身の宣教に遣わすことに結び付けているのです。
さて、今朝の御言葉に目を止めてください。わたしが不思議に思いますのは、主イエスの10人の弟子たちが一週間過ぎてもエルサレムの町の彼らの隠れ家に閉じこもっていることです。
彼らは、復活の主イエスに出会って大変喜びました。彼らは、復活の主イエスを見ただけでなく、復活の主イエスから聖霊を授けられました。そして、復活の主イエスは彼らを御自身の宣教の御業に遣わされ、彼らにだれの不信仰の罪でも赦し、または赦さない力を与えられました。それないのに彼らは行動しないで、隠れ家に閉じこもっているのです。
これは、ヨハネによる福音書が読者であった初代教会のキリスト者たちの閉塞状況を、つまり、主イエスの弟子たちと同様にユダヤ人たちの迫害を恐れ、ローマ帝国の迫害を恐れて、身を隠している初代教会のキリスト者たちを暗示しているのではないでしょうか。
すなわち、いつの時代も教会は伝道の不振に直面するのです。そして、その原因はキリスト者たちが主イエスの弟子たちのように不信仰であるということです。それゆえこの世の迫害を恐れ、内に隠れ、外へと、主イエスの宣教の御業を担おうとしないのです。
だから、その教会とキリスト者たちの不信仰と閉塞状況を打破するために、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に今朝の御言葉を伝えているのです。
24節に「十二人の一人で」の「十二人」は、主イエスの12弟子で、後のキリスト教会の礎となる12使徒のことです。
その一人に「ディディモ」と呼ばれるトマスがいました。「ディディモ」という彼の名は双子という意味です。トマスは双子の兄弟の一人だったのでしょう。彼は勇敢な人でしたね。この福音書の11章16節の御言葉を思い起こしてください。ラザロが死に、主イエスは彼の12弟子たちに、「もう一度ユダヤに行こう」と言われました。12弟子たちは主イエスにユダヤ人たちに迫害されますと言いました。主イエスは彼らに昼歩けば大丈夫と言われました。そして、主イエスは死んだラザロのところは行こうとされました。その時に「ディディモ」と呼ばれるトマスは、勇ましく主イエスと一緒に死のうと言いました。
トマスは、また疑い深いという性格を持っていました。神の律法には、3人の証言があれば、それは真実であると定められています。だから、復活の主イエスを、主イエスの10人の弟子たちが見たと証言したのですから、トマスは彼の仲間たちの証言を真実と受け止めるべきでした。
ところが、トマスは疑い深く不信仰でした。彼は仲間たちが「わたしたちは復活されたイエスを見た」と証言したことを信じませんでした。
それどころか、不信仰で疑い深い彼は言い張りました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
何と心かたくなでしょうか。ヨハネによる福音書は、読者たちにこのトマスはあなただと伝えているのです。
あなたもトマスように、「わたしの目で主イエスの手の釘跡を見、わたしの手で主イエスのわき腹の傷跡を確かめない限り、信じない」と言っていると。
「八日の後」とは一週間後の日曜日のことです。その夕に主イエスの弟子たちが彼らの隠れ家に集まっており、トマスも同席していました。そこに復活の主イエスが突然現れ、弟子たちに「平和があるように」に祝福されました。
そして復活の主イエスはトマスに御自身の手の傷跡、わき腹の傷跡を見せて、彼の目と手で確かめるようにと促されました。そして、主イエスはトマスに言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
復活の主イエスはトマスに「不信仰者となるな。そうではなく、信仰者となれ」と強く命じられました。ギリシア語の「メエ」という否定語が伴う命令文です。
トマスのお話は、不信仰な者が信仰者になったという物語です。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にその出来事が日曜日の教会の集まりで起こったと伝えているのです。
すでに主イエスの10人の弟子たちは、復活の主イエスに出会い、信じていました。トマスはその場にいませんでした。だから、彼は、復活の主イエスを自分の目で見て、自分の手で確かめようとしました。
復活の主イエスは、トマスに現れて、御自身の復活の体を彼に示して、彼の不信仰と疑い深さを打ち破られたのです。
そして、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に、真の信仰とは何かを伝えてくれました。それは、すでに復活の主イエスを信じた者たちの中で、彼らの証しを聞いて信じることです。ヨハネによる福音書の時代の初代教会は、主イエスの弟子たちのように復活の主イエスを見て信仰者になるのではなく、見ないで、むしろ、御言葉を耳で聞いて信仰者となっていました。
トマス同様に「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白していたのです。
ヨハネによる福音書は、1章のプロローグ(1-14節)で、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と述べていますが、まさに復活の主イエスの顕現こそ、父なる神の独り子である神が、御自身がすべての主イエスの弟子たちの「わたしの主、わたしの神」ということを示されたのです。
復活の主イエスは、トマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。」
この「見ないで信じる信仰」こそ、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えたい信仰です。復活の主イエスが昇天された後に、この世にある教会とキリスト者たちが持つべき信仰の在り方です。
ヨハネによる福音書は、復活の主イエスが11弟子たちに現れて後、60年経って書かれました。すでに復活の主イエスは昇天され、地上におられません。ヨハネによる福音書は、読者であるキリスト者たちに、次のように伝えているのです。
誰も復活の主イエスを見て、キリスト者になった者はいません。誰もが初代教会の宣教を通して、また日曜日の礼拝での説教を通して、そしてキリスト者たちが証しするキリストの福音を聞いて、信じるという形で、キリスト者になったのだ。
だから、復活の主イエスは遣わされた者を通して、御自身の御名を知らせられ、聞く者の心に主イエスの対する愛を起こさせて、その者が見ないで主を信じ、愛するようにしてくださるのです。
どうか今朝の御言葉を聞いて、もう一度1章の御言葉に戻ってください。また、主イエスのお別れ説教の17章の最後の御言葉に戻ってください。
その時にわたしたちは、今ここで復活の主イエスに出会い、今ここでわたしたちは主イエスの救いを、主イエスが十字架によってわたしたちの罪を赦され、永遠にわたしたちを愛されていることを知らされるのです。
使徒ペトロは、言っています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたの信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(Ⅰペトロ1:8-9)。
どうかいつまでも、この礼拝の集まりの中にとどまってください。ここで10人の復活の主イエスを信じた仲間と共にいたトマスのように、愛する兄弟姉妹たち、そして子供たち、友たちよ、主イエスを信じているわたしたちと一緒にこの教会に居てください。
わたしは、大学生のころに山中良知先生と春名純人先生に導かれて宝塚教会に行きました。その時に教会から、主イエスを信じている群れから離れないことの大切さを教えられました。
わたしもトマスと同じです。この目で見ることしか信じられませんでした。しかし、毎週トマスように主イエスを信じる信仰者一緒に教会で過ごし、説教を聞き続ける中で、復活の主イエスを見ていないのに信じる者とされました。そして、十字架の主イエスはわたしの罪のために死なれ、復活の主イエスはわたしの永遠の命の保証として復活されたと信じました。
そして、信じる信仰によって、初めて神の愛を知りました。わたしの心の内にキリストを通してわたしを愛される神を知らされたのです。
わたしの人生において教会で見ないで主イエスを信じる信仰を得たことこそ幸いであったと思っています。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、どうかわたしたちに見ないで信じる信仰の喜びをお与えください。
愛する兄弟姉妹と子供たちと友たちと共に十字架のキリストを信じさせてください。わたしたちの心に罪を赦された喜びを、父なる神に愛されている喜びで満たしてください。
復活のキリストを、ここで見ないで信じさせてください。そして、わたしたちの心を永遠の命の喜びで満たしてください。
聖霊に導かれ、御言葉に励まされ、わたしたちが信仰から信仰へと歩ませてください。どうか教会という船に次々と乗り込む神の民をお与えください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教87 主の2018年9月30日
このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
ヨハネによる福音書第20章30-31節
説教題:「イエスの名によって命を得る」
今朝は、ヨハネによる福音書第20章30-31節の御言葉を学びましょう。
ヨハネによる福音書20章30-31節は、ヨハネによる福音書全体を閉めくくるエピローグです。すなわち、この福音書の終わりの結びの文章であります。
ヨハネによる福音書は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書、すなわち、共観福音書と呼ばれているものを用いて、福音書を書きました。それだけでなく「しるし資料」(2章、4-6章、9章、11章)と呼ばれる主イエスの奇跡物語を用いて書きました。
ある新約学者は、今朝の御言葉が「しるし資料」の結びの文章であったのではないかと推測しています。
その前提に立てば、主イエスがなされた奇跡物語はたくさんあったでしょう。その奇跡物語の中から「しるし資料」は、ある観点に従い主イエスがなさった奇跡物語を選択し、集録していたでしょう。
ヨハネによる福音書は、そこからまた選択して、この福音書全体で主イエスがなされた御業を、彼が父なる神の独り子であるという栄光をあらわす「しるし(奇跡)」として描こうとしたのです。
この福音書20章で、わたしたちは主イエスが葬られた墓が空であり、復活された主イエスがマグダラのマリアの現れ、エルサレムの都にあるある隠れ家にいた主イエスの11人の弟子たちに現れたことを学びました。
この出来事は「しるし資料」になかったでしょう。復活の主イエスは、しっかりと入口の戸が閉められていたにもかかわらず、家の中にいた彼の11人の弟子たちの真ん中に立たれて、「平和があるように」と言われました。
この復活の主イエスの顕現の奇跡も、主イエスの奇跡の御業として、ヨハネによる福音書は彼の栄光を現わすしるしとして描いているのです。
しかし、ヨハネによる福音書が20章で結論としたことは、見ないで復活の主イエスを信じるものは幸いであるということです。
ヨハネによる福音書は、他の福音書よりも積極的に「しるし資料」を用いて、主イエスの数々の奇跡の御業を記し、あるいは復活の主イエスの顕現の奇跡を記しました。しかし、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に求めているは、主イエスの奇跡を見て、信じる信仰ではありません。むしろ、見ないで復活の主イエスを信じる信仰です。
要するに、マリアや11弟子たちのように復活の主イエスを見たという証言からヨハネによる福音書が生まれるまで、60年の時間が経ているのです。
そして、復活の主イエスを見たと証言したマリアも11弟子たちも、ヨハネによる福音書が書かれた頃には、ほとんどの証人たちがこの世を去っていたでしょう。
だから、ヨハネによる福音書の時代は復活の主イエスを見たというマリアや11弟子たちの証言で、復活の主イエスを信じるということができなくなっていました。
何よりもマリアと11弟子たちに現れてくださった復活の主イエス御自身が昇天され、この世から消え去られ、だれの目にも見えなくなられました。
ヨハネによる福音書は、私たち読者に見なくて復活の主イエスを信じる信仰こそがキリスト者の共同体の信仰なのだと伝えているのです。
さて、30節で、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に、次のように伝えています。「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさたが、それはこの書物に書かれていない。」と。
ヨハネによる福音書はわたしたち読者に、この福音書に書かれた主イエスの奇跡の御業がすべてではない、サンプル、見本にすぎないと伝えています。
要するにヨハネによる福音書は、わたしたち読者にどのようなやり方でこの書物が書かれたかを記しています。他の福音書に比べると多くの奇跡物語を記しています。しかし、ヨハネによる福音書が主イエスの奇跡物語を記していますのは、わたしたち読者に主イエスの奇跡物語を信じさせるためではありません。それならば、この書物以外に主イエスがなされた多くの奇跡があり、それらも記すべきだったでしょう。
だが、ヨハネによる福音書は、この福音書の終わりにそれを要約報告するのです。この福音書を読み終わろうとするわたしたち読者に、この福音書のしるしは、主イエスが父なる神の独り子としての栄光を現わされたサンプルであることを印象付けようとしているのです。
そして、この福音書はわたしたち読者に31節で次のように記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」と。
ヨハネによる福音書はわたしたち読者にこの福音書の目的が何であるかを伝えているのです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に初めから終わりまで主イエスはいったいどういうお方であるかを伝えようとしています。そしてこの福音書の最後に目的を記しています。
ある新約聖書学者は、31節をこう説明します。「ヨハネはそのエピローグを自分の福音書全体を読者(「あなたがた」)が『信じてイエスの名により命を受けるための』の語りかけ、メッセージ(使信)、そう、一つの大きな説教たらしめようとしている。」
ヨハネによる福音書は一つの大きな説教です。初心者に語られる説教ではありません。すでに主イエスが何者であるかを知っている者たちに、キリスト教信仰に入っている者たちに語られる説教であります。
この福音書を説教として聞き、第一に主イエスが神の子であると信じるためです。第二にこのヨハネによる福音書のしるしの出来事を通して示される、すなわち、主イエスの御名により示される永遠の命を受けるためです。
この福音書の目的を聞きますとき、わたしたちは知らされるのです。見ないで復活の主イエスを信じる信仰が成り立つところを、です。
プロローグのこの福音書の1章14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と、キリスト賛歌が歌われておりました。そして、1章18節でも「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とキリスト賛歌を歌っております。
そののちこの福音書は、主イエスのしるし、奇跡の御業を物語り、その主イエスのしるしの出来事を通して、主イエスが神の子であり、彼の御名によって示されている永遠の命を、彼を見ないで信じる信仰によって受け取るように勧めているのです。
今朝の御言葉を読み、わたしが思いますことは、この世においてどんな状況になろうと、また、益々主イエスの十字架と復活の出来事から時間的に遠くなろうとも、このヨハネによる福音書が教会の中で説教される限り、そこに目で見ることの出来ない復活の主イエスが、マグダラのマリアの前におられたように、この世から隠れていた11弟子たちの真ん中に現れて、「平和があるように」と言われたように、復活の主イエスは見ないで主イエスを信じている者たちと共におられるということです。
マリアや11弟子たちと同様に、今ヨハネによる福音書を説教として聞いています21世紀の上諏訪湖畔教会に、復活の主イエスは、神の子として、トマス同様にわたしたちの神、わたしたちの主として共にいてくださるのです。だから、このお方がわたしたちのキリスト、救い主なのです。
この見ないで信じる信仰によって、すでにわたしたちは、主イエスの御名によって、すなわち、この主イエスのおかげでわたしたちは永遠の命を得ているのです。だから、わたしたちはこの教会で、毎月第一主の日に、クリスマスに、イースターに、ペンテコステに、宗教改革記念礼拝で、そして、わたしたちの教会の創立70周年記念礼拝で、天国の前味である聖餐式にあずかるのです。
この聖餐式を真に喜びとするのは、復活の主イエスを見ないで信じる信仰であります。
見ないで主イエスを信じる者がこの礼拝に集います時、永遠の命を得た者たちが復活の主イエスと共にいるのです。そして、世の人々に「わたしたちは復活の主と共にいる」と証ししているのです。それが、主の日の礼拝です。
世界は変わります。文化も生活も社会も人も変わります。この世の価値観も変わります。どんどん変わっていきます。変化するこの世の現実を否定することはできません。
しかし、見ないで復活の主イエスを信じる信仰はかわりません。そして、その信仰が成り立つために教会の礼拝で聖書が読まれ、説教され、洗礼式がなされ、聖餐式がなされ、神の御言葉が語られることは変わらないのです。
この世にキリスト教会は主イエスの御名によって永遠の命を持つために存在しているのです。だから、教会が大きい、小さいは関係がありません。教会に若者が多いか、高齢者が多いか関係がありません。
教会に命があるか、ないかが問題です。一人の命が、見ないで信じる信仰によって、復活の主イエスと共にあるならば、教会はこの世の暗闇に光を放つことができるでしょう。そして、教会に10人の命が見ないで信じる信仰によって、主と共にいるならば、さらに大きな光がこの世に輝くことでしょう。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの世の教会こそ見ないで信じる信仰によって、復活の主イエスとの永遠の交わりに生きることができると証しているのです。
その証しが真実であることを、どうか御自身の見ないで信じる信仰によって、上諏訪湖畔教会の礼拝での復活の主イエスとの交わりを通して、確認してみてください。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヨハネによる福音書を学べる喜びを感謝します。
2000年の時間の隔たりがありますのに、わたしたちに見ないで復活の主イエスを信じる信仰をお与えくださり、感謝します。
この世は変化し、わたしたちも子供たちも変化の目まぐるしい時代に生きています。わたしたちと子供たちとでは明確に価値観が異なります。
しかし、この世に教会という存在があることを感謝します。聖書が読まれ、説教がなされ、聖礼典が行われていることを感謝します。聖霊と御言葉によって復活の主イエスが今わたしたちと共にいてくださると信じることができることを感謝します。
どうか、毎週の礼拝で、また、聖礼典がなされるときに、見ないで信じる信仰によって、ここに復活の主イエスが共にいてくださることを信じさせてください。そして、ヨハネによる福音書がわたしたちに約束します主イエスの御名によってわたしたちを、そして、この教会を永遠の命の喜びで満たしてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教88
主の2018年10月7日
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、
ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
ヨハネによる福音書第21章1-14節
説教題:「復活の主、七人の弟子たちに現れる」
今朝は、ヨハネによる福音書第21章1-14節の御言葉を学びましょう。
ヨハネによる福音書は、20章で終わっていたと思います。だから、21章はこの福音書の付録と呼ばれ、補遺と呼ばれています。付録とは、本文に付け足して書かれたもので、補遺とは漏れたものを、後から補うことです。
だから、21章は後から付け加えられた文章であります。
誰が書いたのか、今日では分かりません。
新約聖書の専門家たちは、ヨハネによる福音書の1-20章と21章を比較して、1-20章で使われていない語彙が21章に出て来ると指摘しています。
語彙はことばの集まりです。ヨハネによる福音書の一定の範囲に用いられる単語の総体です。
今朝の御言葉で言えば、3節の「漁に行く」、6節と7節の「網」、7節の「裸」、「朝の食事をしなさい」等は、21章にしか出てきません。他にもいろいろあります。
語彙を調べますと、21章は1-20章とは別の人物が書いたと推測できるのです。
しかし、21章を書いた人物は、1-20章で主が愛された弟子がヨハネによる福音書を書き、主イエスは神の子メシアであることを証言したと、24節で書いています。そして、彼は「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と書いています。
21章の無名の福音書記者は、1-20章を書きました使徒ヨハネに付け加えて、また、書き漏らした証しを書きました。
ある牧師がどうしてこの21章が書き加えられたのか、次のようにその背景を説明しています。
「ヨハネによる福音書の著者は、主とともに生きる信仰、永遠のいのちに生きる信仰を主張してきました。そのしるしとして、復活の主と出会うことを記しました。マグダラのマリアを、描きながら、『わたしは主を見ました』と言い、イエスの弟子たちを描きながら、『わたしたちは主を見ました』と語らせました。『主とともに生きる信仰』が、エペソの教会の中で広がっていました。」
この牧師によると、そのエフェソ教会で二つの問題が生じたのです。第一にキリスト教会の基礎を築きました使徒ペトロが殉教したことです。それをどのように受けとめるかという問題です。
第二の問題は、主イエスが愛された弟子、使徒ヨハネが100歳近い年齢で亡くなりました。初代教会の中に一つの噂があり、信じられていました。それは、主イエスが愛された弟子ヨハネは死なないという噂です。しかし、使徒ヨハネは死にました。この問題をどのように受けとめるかが初代教会の中で大きな問題となり、この21章がヨハネによる福音書に付け加えられたというのです。
さて、21章は、復活の主イエスがエルサレムではなく、ガリラヤで7人の主イエスの弟子たちに現れ、徹夜で漁をしても一匹の魚も取れなかった弟子たちに大漁をもたらしたという奇跡を物語っています。
この物語も、わたしたち読者に次のことを伝えています。ヨハネによる福音書の20章が見ないのに復活の主イエスを信じる信仰の幸いとその信仰による永遠の命の喜びを伝えていることです。
復活の主イエスの現れたのは、エルサレムとガリラヤです。21章は、わたしたち読者に復活の主イエスがガリラヤに現れたことを伝えています。
1節の「ティベリアス湖畔」は、ガリラヤ湖の別名です。復活の主イエスは、エルサレムで2度主イエスの弟子たちに現れました。
その後、主イエスの弟子たちがガリラヤに帰りましたので、3度目に彼らに現れてくださいました。
21章は、次のように仕方で復活の主イエスが彼らに現れてくださったと証しします。
ガリラヤ湖の近くにあるシモン・ペトロの家に、ペトロを含めて7人の主イエスの弟子たちが集まっていました。「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた」のです。
「ほかの二人の弟子」は、だれか分かりません。12使徒たちの一人かどうかもわかりません。
使徒ペトロは漁師でした。ガリラヤに帰り、一緒に漁をしながら、生計を立てていたのでしょう。
ペトロが「漁に行く」というと、他の6人の主イエスの弟子たちも一緒についていきました。
彼らは舟に乗り込み沖に出て、一晩徹夜で漁をしました。しかし、不漁で何も取れませんでした。
夜が明けていました。すると、復活の主イエスがガリラヤ湖の岸辺に現れ、立っておられました。
しかし、弟子たちは復活の主イエスと気づきませんでした。マグダラのマリアが気づかなかったように、7人の弟子たちも気づきませんでした。
復活の主イエスが岸辺から弟子たちに声をかけられました。「子たちよ、主食のパンに添えるおかずはありますか」と。すなわち、「魚は取れたのですか」と、主イエスは弟子たちに問いかけられたのです。
一晩徹夜で漁をしたのに、不漁でした。弟子たちは岸辺から「魚は取れたか」と問われた主イエスに、おそらく不機嫌で、ぶっきらぼうに返事をしたことでしょう。5節の「ありません」は、ギリシア語の「オウ」、「ない」という意味です。この言葉は、「ない」という否定を期待する問いへの答えです。
復活の主イエスは、弟子たちが否定で答えることを期待されて、「パンに添える魚は取れましたか」と尋ねられました。弟子たちは復活の主イエスの問いかけに不機嫌で、ぶっきらぼうに「ない」と答えました。
復活の主イエスは、弟子たちに言われました。「舟の右側に網を投げよ。そうすれば、あなたがたは見出す」と。新共同訳聖書は「そうすれば取れるはずだ」と訳しています。
主イエスは、弟子たちに「見つかる」と言われたので、弟子たちは主イエスのお言葉に従い、網を投げました。すると、網に魚がたくさん取れました。彼らは網を引き上げることができませんでした。
復活の主イエスに最初に気づいたのは、主イエスが愛された弟子、ヨハネでした。ヨハネはペトロに言いました。「主だ」と。ペトロは、ヨハネが「主だ」と言う声を聞いて、自分が裸だったので、上着をまといガリラヤ湖に身を投げました。
他の弟子たちは舟がガリラヤ湖の岸辺から90メートル離れていたので、小舟で網を岸辺まで引っ張ってきました。
弟子たちが上陸すると、炭火がおこされ、朝の食事の用意ができていました。パンと魚が用意されていました。主イエスは弟子たちに取れた魚を持って来なさいと命じられました。
ペトロが網を陸に引き上げますと、取れた魚を数えると、153匹でした。だが、網は裂けませんでした。
網が裂けないことも、取れた魚の数も、何か象徴的な意味があるのではありません。ただ主イエスがなされた奇跡を、21章を書いた主イエスの弟子は、神の子メシアの奇跡として、描いているのです。
そして、復活の主イエスは、7人の彼の弟子たちを、朝の食事に招かれました。「さあ来て、食事をしなさい」と。
共に食事をした弟子たちは、復活の主イエスに向かって、「あなたはどなたですか」とあえて確かめようとはしませんでした。彼らは、復活の主が彼らと共にいてくださることを知っていたからです。
主イエスは、パンを取り弟子たちに与えられ、同じように魚を取り弟子たちに与えられました。
復活の主イエスが弟子たちに現れたのは、これで三度目でした。
復活の主イエスとの食事は、見ないのに主イエスを信じるために大切な交わりの場でありました。
この食事は、教会の礼拝で行われる聖餐であります。今朝、わたしたちは、この後聖餐式をします。21章は、その原型を描いています。
弟子たちが主イエスと共に食事をすることこそ、復活の主イエスが現れ、弟子たちと共にいてくださることを意味しているのです。
ペトロたちが漁に出ることは、この世の日常であります。そこに復活の主イエスが現れてくださいました。そして、復活の主イエスは、彼らとの食事を用意され、共に食事をされました。
これは、わたしたちがこの世から主イエスにこの教会の礼拝に招かれて、聖餐の食事をすることの原型であります。
見えないのに、初代教会は、復活の主イエスを信じました。その信仰に大いに貢献したのが、主の日の礼拝でなされる聖餐式でした。
見えないのに、初代教会のキリスト者たちは、教会の礼拝で復活の主イエスが招かれる聖餐式にあずかりました。聖餐式でパンを食べ、ぶどう酒を飲み、食事することが復活の主イエスと共にいることを意味したのです。
見えないのに、わたしたちが復活の主イエスと共にいることを、初代教会以来2000年間、キリスト教会は御言葉と聖餐を通して証ししてきたのです。
ベツレヘムでギリシア語聖書をラテン語に翻訳した教父、ヒエロニムスは、11節の取れた魚の数「百五十三匹」を次のように理解しました。これは当時数えられる魚の種類であり、「すべてを意味する」と。教会で聖餐式にあずかる人すべて、復活の主と共にあることを、魚の数が象徴していると。
わたしたちは、ペトロたちのように、「漁に行く」というこの世に生きているのです。この世界で生活しているのです。そして、この世界に神の独り子主イエスは、来られました。そして、人間の罪を御自身が負われて、十字架の道を歩まれました。
だが、主イエスを納めた墓は空であり、主イエスは復活し、マグダラのマリアに現れ、弟子たちに三度現れてくださいました。
復活の主と共に生きることが、わたしたちの信仰の歩みです。そのために、教会は不可欠なのです。なぜなら、わたしたちは、見ないのに復活の主イエスを信じることができるのは、教会の礼拝で説教を聞き、主の聖餐にあずかるからです。
聖餐にあるかるごとに、わたしたちは、復活の主イエスを見ていないのに、主イエスの御声を聞き、主イエスと共に生きていることを、そのしるしである聖餐式にあずかることで、毎回確かめているのです。
見ないのに、わたしたちは主イエスを神の子メシアと信じ、この教会を通してこの世で主と共に生きています。目には見えませんが、主イエスがこの礼拝に現れてくださる、臨在されているということが、その見えないのに復活の主イエスは、ここにいてくださり、わたしたちは主イエスと共に生きているということが、わたしたちの信仰を支え、この教会を支えているということを、わたしたちは聖餐式にあずかるたびに、それを確認しているのです。
だから、再臨のキリストが来られるまで、ここに上諏訪湖畔教会があり、たとえ集まりは少なくても、常に毎週の礼拝で御言葉が語られ、聞かれ、聖餐式がなされて、わたしたちが、わたしたちの子たちが、それにあずかり、信仰によって復活の主イエスを見、主と共にこの世界で生き続ける限り、教会は持続するのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヨハネによる福音書21章を学べる喜びを感謝します。
どうか、わたしたちも、マグダラのマリアや主イエスの弟子たちのように、「わたしたちは主イエスを見た」と証しさせてください。。
わたしたちを、この教会で復活の主と共に生きることができるようにしてください。
わたしたちは、この世に生きています。そして、この世に教会が存在しています。そこにわたしたちは、招かれ、礼拝で聖書が読まれ、説教がなされ、聖礼典が行われ、わたしたちは今朝聖餐式にあずかります。見ないのに、復活の主イエスを信じさせてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教89 主の2018年10月21日
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの羊を世話しなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロはイエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書第21章15-19節
創立70周年記念礼拝説教題:「わたしを愛するか」
今朝は、創立(伝道開始)70周年記念礼拝を守ります。いつも礼拝のように賛美し、祈り、御言葉を語り、聖餐式を執行し、献金をし、主をほめたたえましょう。礼拝後70周年記念の祝会をし、共に食事と交わりの時を持ちましょう。
日本改革派教会は、一昨年に創立70周年を祝いました。仙台市で盛大にイベントを行いました。2011年に東日本大震災で多大な被害を受けられた東北中会の愛する兄弟姉妹たちの苦しみに寄り添い、共に礼拝で御言葉を聞き、聖餐にあずかり、そして改革派教会創立70周年宣言を宣言しました。心に残る信徒大会でした。
あの時、目には見えませんでしたが、わたしは確かに主イエスがここにいてくださると思いました。そして、今朝の御言葉で、復活の主イエスがペトロに三度「わたしを愛するか」と言われたように、主イエスは信徒大会に集まりました全国の改革派牧師、長老、執事たちだけでなく、信徒たち皆に言ってくださったのです。礼拝説教を通して、共にあずかった聖餐式を通して、そして、創立70周年記念宣言を宣言したことを通して、三度わたしたちに主イエスは「わたしを愛するか」と。
今も仙台市のミッションスクール、東北学院の大きな講堂でなされた信徒大会における信仰体験が忘れられません。
話は変わりますが、今、わたしは、本を読んでいます。今年3月に岩波書店が刊行した新書です。著者は黒崎真氏です。本の題名は『マーティン・ルーサー・キング―非暴力の闘士』です。
キング牧師が暗殺されて、今年で50年目です。その年にわたしたちの教会は70周年を祝います。何か、わたしは神の恵みの摂理を感じています。
今朝は、キング牧師のことをお話しするのは、次のことが理由です。
教会のテーマと言いますか、課題に関係があります。
2009年に小会が設立されました。毎年わたしは小会で長老たちと次のことを決議しています。その年の聖句を聖書から選び、その年の教会目標を決め、そしてその年の実施項目です。そして、毎年会員総会で小会はそれらを提案し、承認を得て、その年に実施するように努めてきました。
そのようにして、10年目です。とても成功したと言えません。むしろ、実行できず、協議すらできないものもあります。自らの指導不足を痛感しています。目に見える成果は乏しくても、前を向いて歩みたいと思います。
そのように前を向けるのは、次の復活の主イエスが使徒パウロに言われた御言葉に励まされているからです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)。
わたしは主の御言葉の恵みを、一人の兄弟がこの教会で洗礼を受けられた時に感じました。高齢の姉妹の受洗の時に感じました。長く教会から遠ざかっていたこの教会の創立メンバーの一人が主の憐れみによって戻ってきてくださった時に感じました。そのたびにわたしたちの教会は70年間、わたしたちの弱さの中で主が恵みの御力を発揮してくださったから、今があると思います。
わたしは、上諏訪湖畔教会の70年間は神の奇跡の御業であると思います。
少し話がそれたので、元に戻します。
毎年聖句を選び、教会の目標を決め、そしてその年の実施項目を実施する努力の中で、わたしは一つのこの教会のテーマ、課題が現れてきたと思っています。
それが、愛する兄弟姉妹がよく耳にされます「教会の持続」です。
ここ数年、このために毎年何を実施すべきかと、牧師と長老たちが頭を悩まし、協議を重ねています。結論は出ておりません。
わたしは、「教会の持続」は大切なことであると思っています。そして、大げさに言えば、日夜考えています。わたしの頭から「教会の持続」が離れません。おそらく、わたしが教師を引退し、この教会の牧師を辞任しても、頭から離れないと思います。
それほど、大きな問題で、難しい問題です。それ以上に魅力のある問題だと思います。
さて、「教会の持続」と言うと、わたしたちは未来を考えないでしょうか。そして、わたしたちは必ずこう思います。今自分の目で見て、こんな少ない人数で、いつまでも中会の援助に頼れないだろう、だから、教会の今後の持続は厳しいだろうと。
その不安と諦めが、わたしたちの教会の活力を奪うと思います。そして、今、他中会の小さな教会と伝道所が閉鎖されています。わたしたちの教会もいつか無くなるのではないだろうか。そう思われていないでしょうか。
正直に、わたしも、自分の目で見たことを信じるのであれば、そう思います。
しかし、わたしたちは、およそ2年かけて、ヨハネによる福音書を学びました。そして、20章で、復活の主の御言葉を聞きました。復活の主イエスが弟子のトマスに語られた御言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)。
ああ、この御言葉に、わたしは頭を殴られる思いでした。
あのトマスが、自分の目で復活の主イエスを見て、「わが主、わが神よ」と信仰告白したのです。
その彼に、復活の主イエスは言われたのです。「わたしの目に幸いな人は、わたしを自分の目で見ないのに信じる人だ」。
わたしは、1976年のクリスマスに、大学3年生の時にトマスように主イエスを「わたしの主、わたしの神よ」と信じ、告白し、宝塚教会で洗礼を受けました。あれから42年目に、わたしはトマス同様に、主イエスのお言葉に衝撃を受けました。
わたしもトマスように、自分の目で教会を見て、教会員を見て、そして、主イエスを信じ続けていたと思いました。
どうしても、トマス同様に、信仰において自分の目で見るという障害を、わたしたちは持っています。わたしの目で見て、信じるということは、自分を信じているということの裏返しではないでしょうか。
それは、自己中心であるという罪です。何事も自分だけが正しいと思っているのです。だから、教会につまずき、兄弟姉妹を見てつまずくことになります。
つまずくだけでなく、自分が目に見て、自分が正しいと思っているのですから、教会を裁き、兄弟姉妹を裁きます。
だが、復活の主イエスは、わたしたち読者にこのヨハネによる福音書で新しい戒めを授けてくださいました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)と。
見ないのに信じる信仰は、人の中からは生まれません。信仰は神の賜物です。人の才能から生まれるものではありません。
先ほどの黒崎真氏の『マーティン・ルーサー・キング』という本を読むと、「コーヒーカップの上の祈り」という見出しの付いた文章に出会います。
キング牧師が公民権運動中に自宅を爆破されるという事件がありました。キング牧師は自宅のキッチンで、コーヒーを入れ、テーブルにつき、椅子に腰かけて、祈りました。本当に恐ろしかったのです。彼は両手で頭を抱え込み、自分の恐怖を主に告白し、祈りました。
その時にキング牧師は彼の内に主イエスの御声を聞き取りました。「マーティン・ルーサーよ、大義のために立て、正義のために立て、真理のために立て、見よ、私はお前と共にいる。世の終わりまでもお前と共にいる」。
このようにキング牧師は、初めて主イエスが臨在されるという信仰体験をしました。それによって彼は死の恐怖から解放されました。それからはどんな暴力とも立ち向かう心を与えられました。そして暗殺されるまで公民権運動を続けたのです。
このように教会の持続のためには、わたしたちの目に見えるものではなく、目に見えないものが必要なのです。それが、キング牧師が信仰体験した。主が共にいますという信仰体験です。
10月17日の信毎に元民主党の議員で、元官房長官だった仙谷由人氏の死を報じていました。そして彼の評伝を掲載していました。その中で仙谷氏がこう言っていました。「見えるものを信じるか、見えないものを信じるか。政治家はいつも突き付けられて悩む。ただ真面目に取り組んどったら必ず日の目を見る」と。
わたしは、政治は程遠いといつも思ていますが、仙谷氏の言葉に政治を身近に感じました。
教会であろうと政治であろうと。継続という課題の前に、人は誰でも、信仰が問われるのです。わたしの見えるものだけを信じるのか、それともわたしの目に見えないものを信じるのかと。
70年前、わたしたちの先輩たちは、自分たちの目で見たものではなく、見えない主イエスを信じて、1948年に日本基督教団諏訪教会を離脱したのです。
群れは小さくなりましたが、主イエスが共に居てくださると信じて、離脱し、日本基督改革派教会に加入しました。松尾智恵子先生と25名の信者たちは離脱し、礼拝を始めました。
それから70年経ました今日も、離脱した25名から始まったわたしたちの教会の礼拝は続けられています。
主イエスは彼らと共に居てくださったから、わたしたちの教会は教団諏訪教会から離脱して、西部中会に属していた時代も、次にCRCミッションの所属伝道所になった時代も、それから、東部中会の所属伝道所になった時代も、そして2009年に教会設立してから現在に至るまで、70年間、主は共に居てくださったのです。
70年間、わたしたちの先輩たちが目で見て不安がなかった時代はありません。しかし、主イエスは共に居てくださいました。
だから、森居先生、飯田先生、辻先生、馬場先生、わたしと次々と伝道者を、この教会にお与えくださり、わたしたちの教会の礼拝を継続し、次々に神の民を集めてくださいました。
わたしたちの目には見えない主イエスの臨在こそ、ここに上諏訪教会が存在する根拠であり、礼拝が続けられ、教会が持続する理由です。
今朝、わたしたちがこの教会の70周年を祝える喜びは、聖書の神がアブラハムに、モーセに、そして復活の主イエスを通して、使徒たちに約束された共にいてくださる、永遠に共にいてくださるということです。
この信仰がある限り、この上諏訪の地にわたしたちの教会は立ち続け、継続するでしょう。
そして、礼拝ごとに、臨在される主イエスは、ここに集まるわたしたちの心に、ペトロ同様に「わたしを愛するか」と尋ね続けてくださることでしょう。ペトロのように、わたしたちも弱い者です。「あなたがよくご存知です」と答えるだけでしょう。
それでも、わたしたちは、心から喜びましょう。ここで一緒に礼拝ができることを、共に御言葉が聞けることを、共に聖餐の恵みにあずかれることを、そして、共に祝会をし、愛餐会ができることを、そして共に奉仕し、学び、祈りあえることを、その中に常に主イエスが目には見えませんが、わたしたちと共にいてくださっていることを。
だから、わたしたちは主に感謝しましょう。自分たちの罪が赦されていることを。罪を赦されただけではなく、兄弟姉妹を愛せることを、世の人々に神の愛を伝えられることを、そしてわたしたちにとってこの世がすべてではないことを、主イエスはわたしたちのために永遠の御国を用意してくださっていることを、これから造ります教会の墓地が天国への入り口であることを。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝はわたしたちの教会の創立70周年を覚えて、ヨハネによる福音書の御言葉から、今わたしたちにとって大切なことを学べる喜びが与えられ感謝します。
ヨハネによる福音書の学びも、後一回で終わります。どうか、トマスに、ペトロに語りかけて下さった復活の主イエスよ、この教会の礼拝ごとに、わたしたちの心に語り掛けてください。
マグダラのマリアや主イエスの11弟子たちは、「わたしは、わたしたちは主イエスを見た」と証しできました。しかし、今のわたしたちは自分の目で主イエスを見ることはできません。
どうか、主イエスよ、わたしたちに御霊をお与えください。御霊が与えてくださる信仰により、見ないで信じる信仰を得させてください。
どうか、ペトロの手紙一の1章8節の御言葉がわたしたちの礼拝の姿としてください。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」
どうか、わたしたちを、この教会で復活の主と共に生きることができるようにしてください。
わたしたちが、主に礼拝に招かれ、聖書が読まれ、説教がなされ、聖礼典が行われ、わたしたちが共にあずかれるよう見してください。そして、この喜びに加わるものを起こしてくださり、この教会を持続させてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教89 主の2018年10月21日
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの羊を世話しなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロはイエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
ヨハネによる福音書第21章15-19節
創立70周年記念礼拝説教題:「わたしを愛するか」
今朝は、創立(伝道開始)70周年記念礼拝を守ります。いつも礼拝のように賛美し、祈り、御言葉を語り、聖餐式を執行し、献金をし、主をほめたたえましょう。礼拝後70周年記念の祝会をし、共に食事と交わりの時を持ちましょう。
日本改革派教会は、一昨年に創立70周年を祝いました。仙台市で盛大にイベントを行いました。2011年に東日本大震災で多大な被害を受けられた東北中会の愛する兄弟姉妹たちの苦しみに寄り添い、共に礼拝で御言葉を聞き、聖餐にあずかり、そして改革派教会創立70周年宣言を宣言しました。心に残る信徒大会でした。
あの時、目には見えませんでしたが、わたしは確かに主イエスがここにいてくださると思いました。そして、今朝の御言葉で、復活の主イエスがペトロに三度「わたしを愛するか」と言われたように、主イエスは信徒大会に集まりました全国の改革派牧師、長老、執事たちだけでなく、信徒たち皆に言ってくださったのです。礼拝説教を通して、共にあずかった聖餐式を通して、そして、創立70周年記念宣言を宣言したことを通して、三度わたしたちに主イエスは「わたしを愛するか」と。
今も仙台市のミッションスクール、東北学院の大きな講堂でなされた信徒大会における信仰体験が忘れられません。
話は変わりますが、今、わたしは、本を読んでいます。今年3月に岩波書店が刊行した新書です。著者は黒崎真氏です。本の題名は『マーティン・ルーサー・キング―非暴力の闘士』です。
キング牧師が暗殺されて、今年で50年目です。その年にわたしたちの教会は70周年を祝います。何か、わたしは神の恵みの摂理を感じています。
今朝は、キング牧師のことをお話しするのは、次のことが理由です。
教会のテーマと言いますか、課題に関係があります。
2009年に小会が設立されました。毎年わたしは小会で長老たちと次のことを決議しています。その年の聖句を聖書から選び、その年の教会目標を決め、そしてその年の実施項目です。そして、毎年会員総会で小会はそれらを提案し、承認を得て、その年に実施するように努めてきました。
そのようにして、10年目です。とても成功したと言えません。むしろ、実行できず、協議すらできないものもあります。自らの指導不足を痛感しています。目に見える成果は乏しくても、前を向いて歩みたいと思います。
そのように前を向けるのは、次の復活の主イエスが使徒パウロに言われた御言葉に励まされているからです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)。
わたしは主の御言葉の恵みを、一人の兄弟がこの教会で洗礼を受けられた時に感じました。高齢の姉妹の受洗の時に感じました。長く教会から遠ざかっていたこの教会の創立メンバーの一人が主の憐れみによって戻ってきてくださった時に感じました。そのたびにわたしたちの教会は70年間、わたしたちの弱さの中で主が恵みの御力を発揮してくださったから、今があると思います。
わたしは、上諏訪湖畔教会の70年間は神の奇跡の御業であると思います。
少し話がそれたので、元に戻します。
毎年聖句を選び、教会の目標を決め、そしてその年の実施項目を実施する努力の中で、わたしは一つのこの教会のテーマ、課題が現れてきたと思っています。
それが、愛する兄弟姉妹がよく耳にされます「教会の持続」です。
ここ数年、このために毎年何を実施すべきかと、牧師と長老たちが頭を悩まし、協議を重ねています。結論は出ておりません。
わたしは、「教会の持続」は大切なことであると思っています。そして、大げさに言えば、日夜考えています。わたしの頭から「教会の持続」が離れません。おそらく、わたしが教師を引退し、この教会の牧師を辞任しても、頭から離れないと思います。
それほど、大きな問題で、難しい問題です。それ以上に魅力のある問題だと思います。
さて、「教会の持続」と言うと、わたしたちは未来を考えないでしょうか。そして、わたしたちは必ずこう思います。今自分の目で見て、こんな少ない人数で、いつまでも中会の援助に頼れないだろう、だから、教会の今後の持続は厳しいだろうと。
その不安と諦めが、わたしたちの教会の活力を奪うと思います。そして、今、他中会の小さな教会と伝道所が閉鎖されています。わたしたちの教会もいつか無くなるのではないだろうか。そう思われていないでしょうか。
正直に、わたしも、自分の目で見たことを信じるのであれば、そう思います。
しかし、わたしたちは、およそ2年かけて、ヨハネによる福音書を学びました。そして、20章で、復活の主の御言葉を聞きました。復活の主イエスが弟子のトマスに語られた御言葉です。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)。
ああ、この御言葉に、わたしは頭を殴られる思いでした。
あのトマスが、自分の目で復活の主イエスを見て、「わが主、わが神よ」と信仰告白したのです。
その彼に、復活の主イエスは言われたのです。「わたしの目に幸いな人は、わたしを自分の目で見ないのに信じる人だ」。
わたしは、1976年のクリスマスに、大学3年生の時にトマスように主イエスを「わたしの主、わたしの神よ」と信じ、告白し、宝塚教会で洗礼を受けました。あれから42年目に、わたしはトマス同様に、主イエスのお言葉に衝撃を受けました。
わたしもトマスように、自分の目で教会を見て、教会員を見て、そして、主イエスを信じ続けていたと思いました。
どうしても、トマス同様に、信仰において自分の目で見るという障害を、わたしたちは持っています。わたしの目で見て、信じるということは、自分を信じているということの裏返しではないでしょうか。
それは、自己中心であるという罪です。何事も自分だけが正しいと思っているのです。だから、教会につまずき、兄弟姉妹を見てつまずくことになります。
つまずくだけでなく、自分が目に見て、自分が正しいと思っているのですから、教会を裁き、兄弟姉妹を裁きます。
だが、復活の主イエスは、わたしたち読者にこのヨハネによる福音書で新しい戒めを授けてくださいました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)と。
見ないのに信じる信仰は、人の中からは生まれません。信仰は神の賜物です。人の才能から生まれるものではありません。
先ほどの黒崎真氏の『マーティン・ルーサー・キング』という本を読むと、「コーヒーカップの上の祈り」という見出しの付いた文章に出会います。
キング牧師が公民権運動中に自宅を爆破されるという事件がありました。キング牧師は自宅のキッチンで、コーヒーを入れ、テーブルにつき、椅子に腰かけて、祈りました。本当に恐ろしかったのです。彼は両手で頭を抱え込み、自分の恐怖を主に告白し、祈りました。
その時にキング牧師は彼の内に主イエスの御声を聞き取りました。「マーティン・ルーサーよ、大義のために立て、正義のために立て、真理のために立て、見よ、私はお前と共にいる。世の終わりまでもお前と共にいる」。
このようにキング牧師は、初めて主イエスが臨在されるという信仰体験をしました。それによって彼は死の恐怖から解放されました。それからはどんな暴力とも立ち向かう心を与えられました。そして暗殺されるまで公民権運動を続けたのです。
このように教会の持続のためには、わたしたちの目に見えるものではなく、目に見えないものが必要なのです。それが、キング牧師が信仰体験した。主が共にいますという信仰体験です。
10月17日の信毎に元民主党の議員で、元官房長官だった仙谷由人氏の死を報じていました。そして彼の評伝を掲載していました。その中で仙谷氏がこう言っていました。「見えるものを信じるか、見えないものを信じるか。政治家はいつも突き付けられて悩む。ただ真面目に取り組んどったら必ず日の目を見る」と。
わたしは、政治は程遠いといつも思ていますが、仙谷氏の言葉に政治を身近に感じました。
教会であろうと政治であろうと。継続という課題の前に、人は誰でも、信仰が問われるのです。わたしの見えるものだけを信じるのか、それともわたしの目に見えないものを信じるのかと。
70年前、わたしたちの先輩たちは、自分たちの目で見たものではなく、見えない主イエスを信じて、1948年に日本基督教団諏訪教会を離脱したのです。
群れは小さくなりましたが、主イエスが共に居てくださると信じて、離脱し、日本基督改革派教会に加入しました。松尾智恵子先生と25名の信者たちは離脱し、礼拝を始めました。
それから70年経ました今日も、離脱した25名から始まったわたしたちの教会の礼拝は続けられています。
主イエスは彼らと共に居てくださったから、わたしたちの教会は教団諏訪教会から離脱して、西部中会に属していた時代も、次にCRCミッションの所属伝道所になった時代も、それから、東部中会の所属伝道所になった時代も、そして2009年に教会設立してから現在に至るまで、70年間、主は共に居てくださったのです。
70年間、わたしたちの先輩たちが目で見て不安がなかった時代はありません。しかし、主イエスは共に居てくださいました。
だから、森居先生、飯田先生、辻先生、馬場先生、わたしと次々と伝道者を、この教会にお与えくださり、わたしたちの教会の礼拝を継続し、次々に神の民を集めてくださいました。
わたしたちの目には見えない主イエスの臨在こそ、ここに上諏訪教会が存在する根拠であり、礼拝が続けられ、教会が持続する理由です。
今朝、わたしたちがこの教会の70周年を祝える喜びは、聖書の神がアブラハムに、モーセに、そして復活の主イエスを通して、使徒たちに約束された共にいてくださる、永遠に共にいてくださるということです。
この信仰がある限り、この上諏訪の地にわたしたちの教会は立ち続け、継続するでしょう。
そして、礼拝ごとに、臨在される主イエスは、ここに集まるわたしたちの心に、ペトロ同様に「わたしを愛するか」と尋ね続けてくださることでしょう。ペトロのように、わたしたちも弱い者です。「あなたがよくご存知です」と答えるだけでしょう。
それでも、わたしたちは、心から喜びましょう。ここで一緒に礼拝ができることを、共に御言葉が聞けることを、共に聖餐の恵みにあずかれることを、そして、共に祝会をし、愛餐会ができることを、そして共に奉仕し、学び、祈りあえることを、その中に常に主イエスが目には見えませんが、わたしたちと共にいてくださっていることを。
だから、わたしたちは主に感謝しましょう。自分たちの罪が赦されていることを。罪を赦されただけではなく、兄弟姉妹を愛せることを、世の人々に神の愛を伝えられることを、そしてわたしたちにとってこの世がすべてではないことを、主イエスはわたしたちのために永遠の御国を用意してくださっていることを、これから造ります教会の墓地が天国への入り口であることを。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝はわたしたちの教会の創立70周年を覚えて、ヨハネによる福音書の御言葉から、今わたしたちにとって大切なことを学べる喜びが与えられ感謝します。
ヨハネによる福音書の学びも、後一回で終わります。どうか、トマスに、ペトロに語りかけて下さった復活の主イエスよ、この教会の礼拝ごとに、わたしたちの心に語り掛けてください。
マグダラのマリアや主イエスの11弟子たちは、「わたしは、わたしたちは主イエスを見た」と証しできました。しかし、今のわたしたちは自分の目で主イエスを見ることはできません。
どうか、主イエスよ、わたしたちに御霊をお与えください。御霊が与えてくださる信仰により、見ないで信じる信仰を得させてください。
どうか、ペトロの手紙一の1章8節の御言葉がわたしたちの礼拝の姿としてください。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」
どうか、わたしたちを、この教会で復活の主と共に生きることができるようにしてください。
わたしたちが、主に礼拝に招かれ、聖書が読まれ、説教がなされ、聖礼典が行われ、わたしたちが共にあずかれるよう見してください。そして、この喜びに加わるものを起こしてくださり、この教会を持続させてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教90 主の2018年11月4日
食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と言うと、イエスは、「わたしの羊を世話しなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロはイエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を納めきれないであろう。
ヨハネによる福音書第21章15-25節
説教題:「終わり良ければ」
今朝は、ヨハネによる福音書の21章15-25節の御言葉を学びましょう。
21章はヨハネによる福音書の付録であり、補遺であります。この福音書は本来20章で終わりでした。しかし、21章24節で、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」と記した人物によって付け加えられ、足りないところを補われたのです。
「この弟子である」とは、ヨハネによる福音書の中でよく出てくる「イエスの愛しておられた弟子」(13:23,21:7,20)のことです。使徒ヨハネです。この福音書の著者は使徒ヨハネです。21章の編集者は、そのことを知り、彼の証しを聞いて、真実であると信じていました。彼はヨハネの弟子と考えられます。
彼は、3つのことを付け加え、福音書を補いました。第一に復活の主イエスがガリラヤで7人の弟子たちに現れたことです。21章1-14節です。このところはすでに学んでいますので、今朝は省略します。
今朝は、21章15-25節の御言葉を、21章の編集者が付け加え、補った第二と三のことを学びましょう。
さて、ガリラヤで復活の主イエスが湖で漁をしていた7人の弟子たちに現れ、朝の食事を彼らと共にされました。
そして、食事が終わりました。
すると、復活の主イエスは、シモン・ペトロだけに質問されました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)と。
ペトロは、主イエスに答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」(15節)。すると、主イエスは彼に命じられました。「わたしの羊を飼いなさい」(15節)と。
主イエスは、ペトロに二度目に同じことを質問されました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」(16節)。ペトロは答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」(16節)と。主イエスは彼に命じて言われました。「わたしの羊を世話しなさい」(16節)と。
主イエスは、ペトロに三度目も同じように質問されました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と。ペトロは主イエスが「わたしを愛しているか」(17節)と、三度も同じ質問なさるので、悲しくなりました。
このペトロの悲しみは、大祭司が主イエスを裁判したとき、その場に彼が居て、三度彼が主イエスを知らないと否認したことを思い出したからです(18:17,25-27)。
だから、ペトロの心は打ち震え、主イエスに答えたのです。「主よ、あなたは何もかもご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」(17節)。
主イエスは、三度ペトロに命じられました。「わたしの羊を飼いなさい」(17節)と。
どうしても、21章の編集者は、この問答によって、ペトロは復活の主イエスに、彼が三度主イエスを否認した罪を赦され、伝道と教会形成の使命を委ねられたことを記そうとしているのです。
「飼いなさい」は、口語訳聖書では「養いなさい」と訳されていました。羊はキリスト者であり、教会員です。「飼いなさい」とは、羊に餌を与えることです。復活の主イエスはペトロに御言葉によって教会員を、キリスト者たちを養いなさいと命じられました。説教者の務めを命じられました。
「世話しなさい」とは、羊飼いが羊を野獣や泥棒から守り、水場や牧草地に導くことです。主イエスがたとえで話されたように、羊飼いは自分の羊のためなら命を捨てます。
教会の真の羊飼いは、復活の主イエスです。ペトロは罪を赦され、主イエスの代理として、羊飼いに任ぜられました。
だから、彼は教会のリーダーであり、権威ある者です。
しかし、復活の主イエスは、ペトロに直接「お前を教会のリーダーにする」とか、「お前を教会の中で牧師とし、権威ある者とする」と言われませんでした。
むしろ、復活の主イエスは彼に三度「わたしを愛するか」と質問されました。復活の主イエスは、三度ペトロに「わたしを愛するか」と質問されて、彼に問いかけられたのです。「お前は今、わたしを愛する者に変わったのか」と。
ペトロは復活の主イエスに出会い、自分の命を愛する者から、十字架で自分のために命を捨てられた主イエスを愛する者に変えられました。
だから、ペトロはこの世の支配者ではありません。権力を自分のために使いません。愛する主イエスのために使います。
教会のリーダー、牧師・長老であるペトロは、教会の群れを自分の意志に服従させ、支配するのではありません。むしろ、彼は反対に主イエスが彼を愛されたように、教会の群れを愛し、仕えるのです。
更に主イエスは、ペトロに彼の殉教を預言されました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(18節)。
19節は、18節の主イエスの預言を、21章の編集者が解き明かしているのです。
彼はヨハネの弟子です。師のヨハネが死んだことも、使徒ペトロが殉教していることも知っていたでしょう。
だから、彼は初代教会のキリスト者たちが教会の指導者であるペトロが殉教したことに失望しないように、ペトロの殉教は復活の主イエスの御心に適うことであり、神の栄光を表すことなんだということを示唆するために、この記事を書き加え、ヨハネによる福音書の終わりに補ったのです。
復活の主イエスがペトロに彼の未来を預言されたので、ペトロは主イエスが愛されているヨハネのことが気になりました。
ペトロとヨハネには心の通じ合う仲間同士でした。主イエスの最後の晩餐で、主イエスは裏切る者がいると言われました。ペトロは主イエスのそばにいたヨハネに「だれだ」と合図しました。だから、ヨハネは主イエスに「主よ、裏切るのはだれですか」と尋ねたのです。
ペトロは自分よりもヨハネの将来が気になりました。だから、主イエスに尋ねました。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と。
すると、主イエスは、ペトロに「あなたと関係がない。あなたはわたしに従いなさい」と命じられたのです。
しかし、主イエスの言い方が微妙であったのです。「わたしが来るときまで、彼が生きていることを、わたしが望んだとしても」と。
この主イエスのお言葉を誤解した初代教会のキリスト者たちの中に、ヨハネはキリストが再臨される時まで死なないと噂する者たちが現れました。
そこで21章の編集者は、23節後半から次のように述べて、その噂を訂正しました。「しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである。」と。
要するに、編集者はこう言います。「主イエスは、ヨハネが御自身の再臨の時まで生きると言われていない。主イエスがそう望まれても、ペトロには関係がないことだと言われているのだ」と。
編集者が21章を記したころ、すでにヨハネは死んでいたでしょう。最後にヨハネが伝道牧会した教会はエフェソ教会でした。その教会の教会員たちを動揺させないために、この記事を加え、補ったのでしょう。
そして、24-25節が編集者の結びであります。編集者は、結びで二つのことを述べています。第一にこの福音書はヨハネが証ししたものであり、その証しは真実であるということです。
第二に復活の主イエスがなさった奇跡は他にもたくさんあり、一冊の書物に収まり切れないと。
その収まり切れない復活の主イエスの御業の一つに、この上諏訪湖畔教会の70年の歴史を付け加えることができます。
わたしたちの教会は、聖霊によって、すなわち、復活の主イエスが奇跡によって、この諏訪大社のひざ元に偶像礼拝の満ちる地域に、主イエスが遣わされた者たちの御言葉によって建てられ、維持され、今日も主を崇めて、主を賛美しているのです。
そして、今から聖餐にあずかります。
21章の編集者はわたしたち読者に、次のことを伝えたかったでしょう。この世の人生がペトロのように殉教の道であっても、ヨハネのようにキリストの再臨の時まで生きられないとしても、共に復活の主イエスは、共にいてくださると。
永遠に主イエスはわたしたちと共にいてくださる、この終わりが良ければ、キリスト者のこの世の人生は苦難の道であっても、幸いなものではないでしょうか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝で3年間のヨハネによる福音書の講解説教を終えることができて感謝します。
ヨハネによる福音書の学びを通して、今も復活の主イエスはわたしたちと共にいてくださることを覚えて、感謝します。
願わくは、わたしたちも自分たちの終わりが永遠の主イエスと共にあることを確信し、人生が終わるまで「わたしに従え」とペトロに命じられた復活の主イエスの従わせてください。
聖餐の恵みにあずかります。どうか、信仰によってマグダラのマリアや主イエスの11弟子たち同様に、「わたしは、わたしたちは主イエスを見た」と証しさせてください。
どうか、復活の主イエスが70年間、この教会と共に歩まれたことを確信させてください。
どうか、主イエスよ、クリスマス月間に、わたしたちの家族や知人、諏訪地方の人々を、松本や伊那の人々をお誘いし、共にクリスマスを祝わせてください。
この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。