ヨハネによる福音書説教60 主の2017年11月5日
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父がその業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
ヨハネによる福音書第14章1-14節
説教題:「もっと大きな業とは何か」
前回は、14章4-11節の御言葉を学びました。
主イエスには、二人の弟子がいました。トマスとフィリポです。
トマスは、自分の目で見たことのみを信じるリアリスト、すなわち、現実主義者でした。もう一人の弟子フィリポは神を見たいと願うイデアリスト、すなわち、理想主義者で、現実を軽んじる傾向がありました。
この二人の弟子を含む11弟子たちが主イエスとの最後の晩餐の夜を、不安に過ごしていました。
主イエスが十字架の道を歩む決意をされ、ユダの裏切りを予告され、ペトロの離反を予告されたからです。
動揺する11弟子たちに、主イエスは「心を騒がせるな。わたしを信じよ。わたしはいつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。
そして、主イエスは前回、こう言われました。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(4節)。
主イエスは11弟子たちに「あなたがたはわたしが誰であるか、知っており、どこから来て、どこへ行くのか知っている」と言われたのです。
ところが、トマスは、主イエスに同意できませんでした。
自分の目で見たことしか信じられない彼は、「知っている」と言えませんでした。だから、彼は主イエスに正直に答えました。「主よ、どこへ行かれるのですか。わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
トマスは思ったことでしょう。現実に主イエスがいなくなられたら、自分たち弟子はどこに行けばよいのかと。
主イエスはトマスの問いに真剣に答えられ、リアリストであり、自分の目で見たものしか信じないトマスに、御自分を自己啓示されました。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)。
主イエスのこの宣言は、この語句を一つ一つ理解するよりも、主イエスが11弟子たちに「お前たちは今わたしを見ており、知っておるではないか、それがすべてのことだ」と言われているのだと、わたしたちが感じ取ることが大切です。
主イエスは今トマスに言われるのです。「あなたが自分の目で見ているわたしこそ父なる神に至る道である。」。
主イエスとトマスとの問答を通して、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスを見て、知ることが父なる神に至る道であると伝えているのです。
主イエスは、トマスに「あなたが今目で見ているわたしは、父なる神から遣わされた者であり、父なる神を啓示する者であり、わたしこそ神である」と宣言されました。
だから、主イエスはトマスに続けて次のように宣言されました。「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
主イエスは、トマスに次のように言われたのです。「トマスよ、お前は見たものだけを信じるのか。それなら、今お前はわたしを見ている。わたしは、父なる神に至る唯一の道であるから、お前はわたしを知り、わたしを知る者は父なる神を知る。わたしを見る者は、父を見ているのである」。
この主イエスの教えこそ、ヨハネによる福音書がわたしたち読者に伝えたいことです。
主イエスを知る者は父なる神を知るのです。すなわち、主イエスと父なる神は一体です。そして、11弟子たちは父なる神が遣わされた主イエスを見て、知り、主イエスと一体となるのです。こうして父なる神と主イエスとの永遠の交わりの中に弟子たちは入れられるのです。それが永遠の命です。それを、この福音書はわたしたち読者に伝えているのです。
すると、もう一人の弟子のフィリポが主イエスに言いました。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足します」。
フィリポは、トマスとは反対の人であります。フィリポは父なる神を自分の目で見てみたいと願いました。
しかし、わたしたちが直接に父なる神を見てみたいというのは、人間の願望であっても、現実ではありません。現実のわたしたちに可能なことは、仲保者キリストを通して父なる神に至る道だけです。
だから、主イエスは、フィリポに答えて宣言されました。「わたしと父とは一つであることを信じなさい。わたしの言葉と業は、自分から出たのではない。父がわたしを通して行われているのだ」。
主イエスはフィリポにも御自分と父なる神は一体であることを強調されました。主イエスが11弟子たちやユダヤ人たちに、そして群衆に語られる言葉は父なる神に起源を持ちます。なぜなら主イエスは父なる神に遣わされて、父なる神の御言葉を語られているからです。
「業」は、主イエスが行われるお働きです。特に奇跡です。これまでヨハネによる福音書は、主イエスがなさった7つのしるしを物語って来ました。その7つのしるし、すなわち、奇跡を通して、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に主イエスの神性を、主イエスが主なる神であることを伝えています。
だから、主イエスは、フィリポに次のように告げられたのです。「あなたはわたしがしるしを行なうのを見たではないか。だから、あなたはわたしがしるしを行なう中に、わたしが神であることを見て、わたしを信じなさい。」
主イエスの御言葉を、フィリポは受け入れたのでしょうか。答はありません。トマスもフィリポも、主イエスに答えていません。
答えるのは、二人ではありません。今、この福音書を聞いているわたしたちです。わたしたちこそ、今この福音書を通して語られている主イエスの御言葉を信じなければなりません。もし信じられないなら、主イエスの奇跡そのものによって信じるように、この福音書はわたしたち読者に主イエスの促しを迫っているのです。
ヨハネによる福音書はもう二人の弟子に留まっていません。この福音書を読み、聞く、全世界のすべての人々に、主イエスが次のように宣言されるのを伝えています。
12節の主イエスの「はっきり言っておく」という言葉は、「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなたがたに」という、主イエスの決まり文句です。
主イエスが今から語られることは、真実であり、確かであるという宣言です。
「わたしを信じる者は、わたしが行なう業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(12節)
この主イエスのお言葉を聞いて、本当に、どう表現したら良いでしょうか。
不適切かもしれませんが、息を飲むような、気絶しそうな、主イエスのお言葉です。
ある新約学者が、主イエスのこの御言葉に、次のように記しています。「イエスを信じる者たちの方がイエス自身よりももっと大きな仕事をする、という。ずい分思い切ったことを言うね、という感じ。」「主イエスは、神の子なんだから、そもそも人間とは比較にならない無限大の巨大さのはずである。それなのに、人間である信者の方がイエスよりも大きな仕事をするなどということは、考えられない。」
それが、わたしたちの正直な気持ちではないでしょうか。
だから、この新約学者は、続けて次のように記すのです。「この表現で何を考えているか、などと議論しても無駄である」。
わたしたちは、どうですか。
もう一度、12節の御言葉をギリシャ語の本文通りに、わたしが日本語にして、主イエスのお言葉を伝えましょう。
「アーメン、アーメン、わたしは言う、あなたがたに。わたしを信じる者は、わたしがなす業を、かれもまたなし、わたしが父のところに行くから、これからより大きなことを彼はなす」。
カトリックの本田哲郎神父は、「業」を「生き方」と理解し、次のように日本語に訳されています。
「はっきり言っておく。わたしに信頼して歩みを起こす人は、わたしがしている生き方をするものだ。しかも、もっとすぐれた生き方をするようになる。わたしが父のもとに行くからである」。
本当にすぐれた日本語訳と思います。
「業」にしろ、「生き方」にしろ、わたしたちは、主イエスと同じことをするという、主イエスのお言葉に驚かされ、更に、主イエスが昇天され、父なる神と共にわたしたちに聖霊を遣わしてくださるので、主イエスよりもっと偉大な業を、すぐれた生き方をすることができると、確かに主イエスはわたしたちに約束されています。
その「もっと大きな業」とは、その「よりすぐれた生き方」とは何でしょうか。
先ほどの新約学者は、こう記しています。「イエスの死後、信者たちはキリスト教を世界に広く伝えることをなしたので、その点で『大きい』と言いたいだけなのだろうけれども」と。
そして、これを支持する多くの聖書注解者たちがいます。
確かに、主イエスの伝道は主にガリラヤ伝道で、広くてもパレスチナと呼ばれる地域でした。また、主イエスの宣教活動は短くて一年間、長くても約三年でありました。
しかし、聖霊降臨で、エルサレムにキリスト教会が生まれて、キリスト教は今や世界中に、そして約2000年間宣教活動を続けています。その意味で、主イエスより「もっと大きな業」をするということに、一理あると思います。
聖霊のお働きと、わたしたちキリスト者が、この教会がなす「もっと大きな業」と結びついているように思うのです。
榊原康夫牧師の説教集を読みますと、本当に榊原先生は丁寧にこの「もっと大きいわざをするであろう」ということは何なのかを話されています。
榊原牧師は次のように説明されています。「もっと大きい」とは、不思議さ、奇跡性が大きいという意味ではなく、その業が及ぼす影響が「もっと大きい」という意味ですと。「その業の意義、その業の効果が、生前イエスがなさった奇跡よりもずっと重大であるような業、のことです。」
そして、榊原牧師は、次のように励ましの言葉を語られています。「イエス様が去って行かれたあと弟子たちのいたしました業は、奇跡とか不思議さからいうと必ずしも大きくはありませんが、そのもたらした影響から言いますと、生前のイエス様が三年か四年の間にあちこちでなさった奇跡に比べれば遥かに大きな業なのだ、とおっしゃるのであります。私たちは、今日この時代に、教会を建て、そして教会が真理を宣べ、そしてもろもろの人の実を結ばせております業が、イエス様の御業より『もっと大きなわざ』である、言っていただけるのを、感激して聞かなければならないと思うのです。」
わたしは、榊原牧師の説教が、なぜか、心の中に素直に入りました。
わたしたちの業、すなわち、礼拝、伝道、奉仕等々のことは、聖霊のお働きです。そして、わたしたちの働きを、キリスト者としてのわたしたちの生き方を、主イエスは聖霊のお働きとして、「もっと大きな業」と評価してくださるのです。
わたしたち一人一人が、この主イエスの評価で、今この教会のこの礼拝にいることを許されているのです。
キリスト者は主イエスの食卓に、晩餐に、自分や他人の評価であずかるのではありません。11弟子たちが最後の晩餐にあずかったときに、主イエスが彼らに「もっと大きな業をなす」と評価されたように、わたしたちにも同じ評価を、今朝のヨハネによる福音書の主イエスのお言葉を通してしてくださるのです。
今朝は聖餐式があります。そこで毎回のように自分を吟味するように勧められます。その勧めの時に、わたしたちは信仰の目を自分や隣人に向けるのではありません。この聖餐式の食卓に招かれる主イエス・キリストに向けるのです。
その時、主イエスはわたしたちにわたしたちが想像できないぐらい、わたしたちを高く評価してくださっているのです。
「あなたは、キリスト者として生きるだけで、聖霊に導かれて、礼拝をし、祈り、奉仕し、この教会を建て上げるために自分を献げることで、わたしよりもっと大きな業をしているのだ。」
わたしたちは、今朝の主イエスの御言葉を通して、目には見えませんが、主イエスはここにおられて、わたしたちを受け入れて下さっています。
だから、13節と14節で、主イエスは、11弟子たちに、そして、わたしたちに御自身の名によって祈ることは、何でも聞き届けようと約束されるのです。
主イエスに「わたしより大きな業をなす」と評価され、主イエスが招かれるこの食卓に着くキリスト者は、11弟子たちと同様に、何でも主イエスの名で祈るならば、主イエスは必ず聞き届けてくださるのです。
どうか、主イエスが招かれる聖餐式にあずかることを通して、主イエスの「わたしよりも大きな業をなす」と評価されるキリストの御声を聞き、励まされて、主の御名による祈りの力を信じる者となっていただきたいと思うのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は主イエスの「もっと大きな業を行うようになる」という御言葉を学ぶ機会が与えられ感謝します。
わたしたちは、まことに小さな者です。自分で、そのように自己評価しています。
しかし、今朝、主イエスは、わたしたちに驚くべき御言葉をお与えくださいました。
今朝、主イエスは11弟子たちと同様に、わたしたちを、聖餐式に招いてくださいます。
そして、聖霊の導きを通して、今朝の主イエスがわたしたちに語られたお言葉を信じさせてくださいます。
本当にありがたく、感謝します。わたしたちは、主の御目に尊い者とされ、受け入れられていることを、本当に感謝します。
願わくは、わたしたちが主の御名によって祈る祈りを、主イエスよ、御霊の働きを通して適えて下さい。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教61 主の2017年11月12日
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身を現す。」
イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしがお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行なっていることを、世は知るべきである。さあ、立て、ここから出かけよう。」
ヨハネによる福音書第14章15-31節
説教題:「あなたがたは聖霊を知っている」
ヨハネによる福音書の14章に入り、1-14節の御言葉を、3回に分けて学びました。
裏切り者のユダが夜、闇の世界へと去りますと、主イエスは11弟子たちと最後の晩餐を続けられました。そこで主イエスは11弟子たちに13章31節よりお別れの説教を語り始められました。
主イエスのお別れの説教の中心の主題は、主イエスがこの世を去られることです。主イエスは父のもとに帰られ、主イエスの弟子たちが住まう場所を用意すると約束されました。
続いて、主イエスは11弟子たちに「人となった御言葉」である主イエスが彼らを父なる神に導く道であると宣言されました。すなわち、主イエスは、御自分を「わたしは道であり、真理であり、命である」と自己啓示されました。
だから、主イエスは11弟子たちに真理を教え、真の命を与えることで、彼らを父なる神との交わりに入れることを、その道となることを明らかにされました。
主イエスは、御自身の十字架と復活の栄光の時が近いと知っておられます。だから、11弟子たちに「今から、あなたがたは父を知る」と大胆に約束されました。
すなわち、主イエスが十字架で死に、三日目に復活し、御自身の栄光を受けられた後、11弟子たちは聖霊の助けにより、主イエスをさらによく理解し、主イエスを通して父なる神をよく知るようになると。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に「ことばが肉となり」、父なる神にこの世に遣わされた主イエスは、この世で父なる神に選ばれた者がその方のもとに至る道であると伝えています。
主イエスのお別れの説教は、主イエスがこの世を去られた後、主の11弟子たちはどうなるのか、彼らの将来について、主イエスが予告されたものでもあります。
これまで、主イエスは二つのことを言われました。11弟子たちは主イエスと同じ業をし、御自身よりもっと大きな業をするという約束と彼らが主イエスの御名によって祈ることを皆、父なる神はかなえて下さると約束されました。
以上の二つの約束は、主イエスが彼らの救いを約束されたのであり、同時に御自身が受難の道を歩まれるように、11弟子たちも近い将来、この世で苦難と艱難に遭うことを、15-16章で予告されています。
今朝よりヨハネによる福音書14章15-31節の御言葉を5回に分けて学びましょう。
全体としては、主イエスが11弟子たちに、新共同訳聖書の見出しにありますように、聖霊を与えると約束されました。主イエスの弁護者、すなわち、聖霊の到来を予告する御言葉であります。
16節と17節で主イエスは、11弟子たちに近い将来の救いを予告し、聖霊が彼らに到来すると約束し、聖霊を、11弟子たちは知っていると予告されています。
弁護者とは、「助け主」です。弁護は、救いを意味しています。主イエスがこの世を去られ、父なる神の身元に帰られますと、父なる神にお願いして、主イエスとは別の助け主、すなわち、弁護者を父なる神が11弟子たちにお遣わしくださるようにしてくださるのです。
弁護者、すなわち、聖霊は「真理の霊」と呼ばれます。
要するに聖霊は、主イエスがこの世を去られ、父なる神の身元に帰られた後、11弟子たちやキリスト者たちのところに送られてくる聖霊のことであります。
わたしたちキリスト者は、聖霊に呼びかけて祈り、聖書を読み、主イエスの御心を知ろうとします。
聖霊は、わたしたちの祈りに応えて、わたしたちが聖書をどう理解すべきか、主の御心が何かを教えてくださり、わたしたちの信仰生活を支えて下さいます。この世でキリスト者の生活を弁護してくださいます。
11弟子たちにとって、生前の主イエスは、彼らの助け手であり、彼らに聖書の真理を教えて下さり、父なる神のみ心をお示しくださり、真理そのものであられました。
しかし、復活し、昇天された主イエスは、この世に不在となられました。だから、主イエスは父なる神に別の弁護者、すなわち、11弟子たちやわたしたちキリスト者を助ける者をお遣わし下さいとお祈りくださったのです。
11弟子たちとわたしたちキリスト者は、この世で多様な生活をしています。生活だけでも、家庭と学校、職場、老人ホームと多様です。どこに住んでいても、キリスト者にとって聖霊は助け主です。
主イエスが生前11弟子たちと一緒にいて、彼らを助けて下さったように、聖霊がいろんな働きを通して、わたしたちキリスト者を助けてくださいます。
キリスト者は寝る時、目覚める時、食事する時、学校で生活する時、職場で働く時に、聖霊を求めて、助けを祈ります。聖霊は祈りに応えて、わたしたちが学校で、職場で、家庭で、道を歩いている時、車に乗っている時、電車に乗り降りする時、映画館に行くとき、等々、何をする時もわたしたちの祈りに応えて、何をどうすべきか、聖書の御言葉を示し、わたしたちの心の中にある思いを与えて、教えて、助けてくださいます。
だから、聖霊に呼びかけて祈る者は、主イエスが言われるように、「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」という御言葉を、わが身に体験しているのです。
確かに、この世は知識の世界です。目で見て、確かめなければ、受け入れることはできません。
ところが、聖霊は、霊で、人の目には見えず、学校の教科書で教えることはできません。職場でも同僚に見せることはできません。ですから、学校でも会社でも何の価値もなく、この世の人々は知ろうとも、見ようともしません。まして、信じようとも思わないのです。
だが、ヨハネによる福音書は、主イエスのお言葉を通して、わたしたちに聖霊を伝えているのです。
聖霊は、真理の霊で、人の目には見えませんから、人の好奇心の対象とはならないし、人の興味を引くものでもないけれども、キリスト者にとって聖霊は日々体験しているものだと。
キリスト者は、吹く風のように、聖霊をわが身に体験しているのです。
15節で、主イエスは11弟子たちに言われています。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」
「あなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るであろう。」
主イエスの御言葉は、単純で、明快です。何か、他に含む意味もありません。
余りにも、はっきりした主イエスの御言葉に、一体11弟子たちはどんな表情をしたのだろうと、わたしは思うのです。
実際に、この御言葉を前にして、わたしはどんな顔をすればよいのでしょうか。
主イエスが「わたしの掟」と言われているのは、13章34節で主イエスが11弟子たちに与えられた「新しい掟」であり、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という戒めです。
「主イエスを愛し、兄弟姉妹を愛する」、それが、今主イエスが11弟子たちを中心にして造ろうとされている新しい共同体、すなわち、キリスト教会です。
ここ数年来、わたしたちの教会は、「聖書的教会の形成」を教会目標にしています。
それを、ヨハネによる福音書は、主イエスの新しい掟を土台にして、「主イエスを愛し、兄弟姉妹を愛する」共同体の形成することだと教えています。
11弟子たちにとって、この主イエスの御命令は、ハードルが高かったと思います。
なぜなら、12弟子の一人ユダは、主イエスを裏切りました。ペトロは、主イエスが裁判にかけられた時、3度主イエスを知らないと言いました。他の弟子たちも、主イエスがユダヤの官憲に逮捕されると逃げてしまいました。
主イエスの弟子たちだけでありません。迫害を前に、命の危険を前にして、わたしたちも自分を犠牲にして、主イエスを愛しますと告白できるでしょうか。
牧師をしていても、迫害に耐えるという自信がありません。
わたしは迫害に耐えられるかという不安がありました。大学を卒業すれば、田舎に帰り、学校の社会科の教師になりたいと思っていました。しかし、帰ってキリスト者として生活する自信がありませんでした。だから、わたしは、聖霊を求めて、生涯主イエスと共にいさせてくださいと祈ったのです。
もう一つ、「兄弟姉妹を互いに愛する」ことも、11弟子たちのとって高いハードルでした。
なぜなら、彼らは、出世争いをし、互いに妬み合っていたからです。
教会は、外で思うのと、中で見るのとでは、えらい違いでした。誰でも、教会を知らない人は、キリスト教会は清い人が集まる所だと思っています。だから、自分には敷居が高いと思っています。
しかし、中に入れば、主イエスの「兄弟姉妹を互いに愛し合いなさい」にはほど遠い所だと知り、つまずく方がたくさんいます。
だから、年配の牧師たちは、洗礼を受ける者に忠告しました。「教会の中では人を見ないで、十字架のキリストのみを見なさい」と。
宗教改革者ルターは、教会は罪人の集まりであると言いました。
その現実に、15節の主イエスの御言葉は、実にハードルが高くないでしょうか。
しかし、主イエスの15節の御言葉は、不可能だと言う前に、聖書が教えている救い、福音、すなわち、喜びの訪れと呼ばれている救いとは何かと、考えてください。
一体、神は天地を創造し、人間を創造された時に、どんな人間にお造りになったのでしょうか。
神を愛し、人を愛する人間に、男と女に創造されたのではありませんか。
主イエス・キリストの十字架の救いは、堕落し、本来の人間性を失った者に神が創造された本来の人間を回復することでありました。
神も、人も愛せなくなった堕落した人間を、再創造し、主イエスの新しい戒めに生きることができるようにするために、主イエスはわたしたちの罪の身代わりに死なれ、御自身が父なる神への従順を通して得られた義を、わたしたちにお与えくださいました。
主イエスは、御自身の救いを達成するために、今父なる神に聖霊を祈り求められました。
わたしたちの救いを完成するために、わたしたちが主イエスの新しい戒めに生きることができるように、弁護者である聖霊をお遣わし下さいと祈ってくださいました。
だから、今キリスト者であるわたしたちの現実は、自分たちの罪を、弱さを認めないわけにゆきませんけれども、聖霊に助けられて、毎週主を礼拝し、兄弟姉妹が主に在って、互いに祈り合い、助け合い、支え合いながら、主を愛し、兄弟姉妹を愛することを実践しています。
主イエスの新しい戒めを完全に守ることはできませんが、主イエスが再び来られ、そこで主から新しい体と魂をいただき、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」ことを御国で実践できるようにしてくださると信じています。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスより聖霊を与えるという約束を与えられ、心より感謝します。
主イエスは、わたしたちに「あなたがたは聖霊を知っている」と言ってくださいました。
キリスト者の生活のすべてで、わたしたちは聖霊を体験しています。
聖霊よ、家庭で、学校で、職場で、老人ホームで、病院で、刑務所で、わたしたちキリスト者があなたを求めて祈ります時、どうかその祈りに応えて、わたしたちキリスト者に何をどうすべきかを教えて下さり、わたしたちのこの地上における命をお支え下さい。
わたしたちは、罪人です。主を愛することも、兄弟姉妹を愛することも、自らの力や能力でできません。どうか、わたしたちが洗礼を受けた時に、主よ、あなたはわたしたちに聖霊をお与えくださいました。
どうか、あなたの救いを完成へと導き、わたしたちが聖霊に助けられて、主イエスの新しい掟を守り、わたしたちを本来の姿に戻してください。
願わくは、わたしたちが毎週礼拝で祈ります「主の祈り」を、聖霊のお働きを通して、わたしたちの身に実現してください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教62 主の2017年11月19日
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身を現す。」
イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしがお遣わしになった父のものである。
わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行なっていることを、世は知るべきである。さあ、立て、ここから出かけよう。」
ヨハネによる福音書第14章15-31節
説教題:「あなたをみなしごにはしない」
前回よりヨハネによる福音書14章15-31節の御言葉を5回に分けて学び始めました。
学びの中心は、主イエスが11弟子たちに聖霊を与えると約束されたことであります。
主イエスは、聖霊を「弁護者」と呼ばれ、「真理の御霊」と呼ばれます。
16節と17節で主イエスは、11弟子たちに「父なる神にお願いして、聖霊をあなたがたに遣わす」と約束し、その聖霊を、この世は知らないし、知ろうともしないが、11弟子たちは「知っている」と言われました。
弁護者である聖霊は、主イエス同様に「助け主」です。弁護とは「救い」のことです。
主イエスはこの世を去られます。そして、父なる神の身元に帰られます。そこで主イエスは父なる神にお願いして、御自身とは別の助け主、すなわち、弁護者を、父なる神が11弟子たちにお遣わしくださるようにしてくださるのです。
聖霊は、また真理の御霊です。わたしたちが聖書をどう理解すべきか、主の御心が何かを教えてくださり、わたしたちに信仰の賜物を与え、信仰を育み、わたしたちの信仰生活を支えて下さいます。この世に生きるキリスト者の生活を弁護してくださいます。
主イエスは言われました。「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と。
主イエスのこの御言葉の意味は、父なる神と主イエスが遣わされた聖霊を、主イエスの11弟子たちとキリスト者たちはわが身に体験しているということです。
キリストの弟子、キリスト者とは、聖霊がわが身に内在されることを知り、体験し、主イエスと共に生きる喜びを知る者であります。
その喜びの第一は、18節の主イエスの御言葉です。
主イエスが11弟子たち聖霊を与えると約束され、18節で具体的にその約束の喜びを告げられています。
「わたしはあなたがたをみなしごにはしておかない」と。
主イエスは、この世を去られようとしています。だから、11弟子たちは不安の中にいます。
主イエスがこの世を去り、この世からいなくなられたら、11弟子たちは両親を失った孤児と同じになってしまうからです。
だから、主イエスは、11弟子たちにはっきりと約束されました。「わたしはあなたがたを孤児にしない。わたしはあなたがたのところに戻ってくる」と。
ギリシア語の新約聖書の原文の18節の主イエスの御言葉は、本当に力強いです。
「わたしは見捨てない、あなたがたを孤児として。わたしはあなたがたのところに来る」。
「みなしごにはしておかない」の「しておかない」は未来形の動詞で、「あなたがたのところに戻って来る」の「来る」は、現在形の動詞です。
「しておかない」という言葉で、すなわち、「わたしは見捨てない」という主イエスの御言葉から、わたしが連想しましたのは、今日の育児放棄の問題です。母親が、あるいは両親が子供の育児を放棄することが、今日大きな社会問題となり、今放映されていますテレビドラマ「コウノドリ」でも、母親が育児放棄したことを扱っています。
主イエスは世を去られますが、11弟子たちに「わたしは、あなたがたを孤児として放棄しない。去って行っても、今すぐにあなたがたのところに戻ってくる」と力強く約束してくださっています。
「戻って来る」の「戻って」という言葉は、ギリシア語新約聖書の原文にはありません。新共同訳聖書の翻訳者がわたしたち読者の理解のために補ってくれた言葉です。
主イエスのこの御言葉から、わたしたちは聖霊が主イエスの霊であることを教えられるのです。
新共同訳聖書の「戻って来る」という言葉は、キリストの再臨をイメージさせます。
しかし、「来る」という動詞は未来形ではなく、現在形です。
だから、わたしは、次のように考えるのです。主イエスは11弟子たちに聖霊を与えると約束されたこととの関連で、聖霊が主イエスの霊として11弟子たちのところに今戻って来られ、彼らの内に主イエスは霊として住まわれて、彼らと今共に生きてくださるので、主イエスは彼らに「わたしはあなたがたを孤児にしない」と力強く約束されていると。
次に第二の喜びは、19節で11弟子とキリスト者たちが主イエスを今見ること、主イエスの復活の命に生かされることを、主イエスは語られています。
主イエスがこの後十字架で死に、復活し、そして天に昇天されます。だから、この世はもはや主イエスを見ることはできないのです。
ところが、11弟子たちとキリスト者たちは、この世にあって、今主イエスを見ているのです。
さらに、復活の主イエスは今生きておられ、11弟子たちとキリスト者たちはその命にあずかって今生きているのです。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこれが、主イエスが11弟子たちに、そしてキリスト教会とキリスト者たちに聖霊を与えると約束されたことの具体的な喜びであると伝えているのです。
聖霊を与えられたこの地上のキリスト教会は、主イエスの昇天後も、今キリスト者たちが主イエスを見て、主イエスと共に生きる喜びにあずかっているのです。
二人の証人の御言葉を聞くだけで、その喜びが真実であると、わたしたちは分かります。
最初の証人は、使徒パウロです。彼は次のように証言しています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)。
わたしたちキリスト者は、まさにパウロのように父なる神と主イエスから聖霊をいただき、主イエスの霊をわたしたちの内に宿して、主イエスの復活の命をいただいて、今この世で主イエスと共に生き、永遠の命に達しようとしているのです。
もう一人の証人は、使徒ペトロです。彼は次のように証言しています。「あなたがたは、キリストを見たことはないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Ⅰペトロ1:8-9)。
この世で教会とキリスト者たちは、11弟子たちと同じように聖霊をいただき、信仰によって愛する主イエスを今見て喜んでいるのです
11弟子たちとキリスト教会、そしてキリスト者たちは、主イエスが父なる神に願われた聖霊を受けて、信仰の命を得たのです。
聖霊によって信仰の命に生きる喜びを得ました。それを、ヨハネによる福音書はわたしたち読者に「あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きる」と伝えているのです。
さらに主イエスは、20節で「かの日には、あなたがたに分かる」と言われています。
「分かる」は「知るであろう」という未来形の動詞です。
主イエスは言われるのです。11弟子たちは、「かの日」、すなわち、「かの日」とは「その日が来たら」という意味で、その日には主イエスが父なる神の内におられ、11弟子たちは主イエスの内におり、主イエスは彼らの内にいることを知るであろうと。
「その日が来たら」の「その日」とは、この世の終わりの「終末の時」ではありません。
わたしは、聖霊が教会に降られるペンテコステの日だと思います。
その日に、教会は父なる神と子なる神の交わりにあずかるのです。教会の中に愛が生まれるのです。
その愛こそヨハネによる福音書が求める永遠の命なのです。
愛が生まれる所に永遠の命があるのです。
だから、主イエスは21節で次のように言われるのです。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身を現す。」
父なる神と子なる神の一体性と主イエスと11弟子たち、キリスト者たちの一体性が、使徒ペトロが証言するように愛で現わされるのです。
今主イエスは、教会の礼拝で、御言葉と礼典を通して、御自身の十字架の愛をわたしたちに現してくださっているのです。
聖餐式は天国の前味であると言われています。
21節の主イエスの御言葉を、その聖餐式に当てはめて、わたしは次のように御言葉を瞑想しました。
わたしたちは、キリストがお命じになられた聖餐式を守ります時、主イエスはわたしたちを、今御自身を愛する者と見てくださいます。そして、今主イエスを愛する者は、主イエスの父なる神によって愛されるだろうと約束してくださり、同時に主イエス自身も愛するだろうと約束してくださいます。そして、その聖餐式において共にパンを食し、共にぶどう酒を飲むわたしたちに御自身を現わすと約束してくださるのです。
だから、聖餐式は単なる教会の儀式ではありません。
ペンテコステの日に聖霊が降り、この地上にキリスト教会が生まれてから、主イエスは毎週教会の礼拝に訪れられ、わたしたちキリスト者を、御自身の食卓に招かれ、共にパンを食し、共にぶどう酒を飲むわたしたちを、父なる神に愛され、御自身に愛される者として受け入れ、永遠の命に生きる者としてくださるのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスより聖霊を与えられた11弟子たちと教会とキリスト者の喜びを学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。
主イエスは、わたしたちを「孤児にしない」と約束し、その通り、キリストの霊である聖霊が教会に降られ、わたしたちキリスト者の内に宿ってくださり、感謝します。
わたしたちは、わたしたちはわが身に聖霊を体験し、御言葉と礼典を通して、十字架のキリストを今見ることができ、復活のキリストの命に生かされていることを感謝します。
どうかわたしたちを、聖餐式で兄弟姉妹と共にパンを食し、ぶどう酒を飲み、共に主に愛される者として、永遠の命である、父子御霊なる神の命の交わりに入れられている喜びで満たしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教63 主の2018年1月7日
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」
ヨハネによる福音書第15章1-11節
説教題:「わたしはまことのぶどうの木」
明けましておめでとうございます。
今年も昨年に引き続き、主の日の礼拝で、ヨハネによる福音書を学びたいと思います。
昨年は、ヨハネによる福音書第7章53節から14章31節までを学びました。
ヨハネによる福音書の13章31節から17章までに主イエスの告別説教と最後の祈りが記されています。その学びの途中で12月のクリスマス月間に入りました。それで、ヨハネによる福音書は中断されました。
今朝は、ヨハネによる福音書の第15章から学びを再開したいと思います。
13章31節から14章31節までが、主イエスの第1告別説教です。
主イエスを裏切りましたユダが、主イエスの最後の晩餐の席から夜の闇の中に出て行きました(13章30節)。
主イエスは、残された11弟子たちに第1告別説教を話し始められました。そのお話しの中心は、主イエスが退去されることでした。すなわち、主イエスはこの世を去られます。十字架で死なれ、復活し、天に御帰りなるのです。
そこで主イエスは、11弟子たちに第1に次のように語られました。主イエスはユダヤ人たちに話されたように11弟子たちに「わたしが行く所にあなたがたは来ることができない」と語られ、続いて「あなたがた新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。」と命じられました。
第2に主イエスは11弟子たちに14章で「心を騒がせるな」と戒められました。主イエスは父なる神のところに行かれて、弟子たちのために住む所、場所を備え、彼らに聖霊を与えると約束されました。
聖霊を、主イエスは「真理の霊」であり、「弁護者」と呼ばれ、聖霊が弟子たちに御自身とその救いの御業のすべてを教え、主イエスが話されたことを彼らに思い起こさせることを伝えられました。
第3に主イエスはこの世の残された弟子たちに「わたしの平和を与える」と約束されました。主イエスはこの世に残される弟子たちに「わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る」と言われ、「心騒がせるな」と戒められました。
主イエスと11弟子たちに、この世の権力者たちの迫害が迫っていました。だから、主イエスは第1告別説教を終えられると、11弟子たちに「さあ、立て。ここから出かけよう。」と言われました(14章31節)。
だから、自然に考えれば、主イエスは11弟子たちと御一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた」と、18章1節の御言葉に続くはずです。
ところが、ヨハネによる福音書は、主イエスが最後の晩餐の席を立たれずに、11弟子たちに延々と15章と16章で第2告別説教を語られ、17章で最後の祈りをされた後に、主イエスと11弟子たちは一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれたと、18章1節の御言葉につないでいるのです。
第1告別説教から第2告別説教へとつながれているのは、主イエスが15章11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と言われていますように、主イエスはこの世に残された11弟子たちを御自身と同様に、この世の権力者からどんな迫害や艱難を受けようと、主イエスの喜びが彼らの内にあり、弟子たちの喜びが満たされるようにするためでした。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの告別説教を通して次のことを伝えたいのです。
父の家にある住む所、場所で復活の主イエスと共にいることこそ、この地上の教会のキリスト者たちにとって、この世で生き、信仰の旅をする究極の目標であると。
「言」である永遠の父なる神の独り子キリストが「肉となり、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)というクリスマスの喜び以上に、主イエスを信じる者、すなわち、「神の子となる資格を与えられた」(ヨハネ1:12)者が、逆に父なる神とその独り子であるキリストとのつながりに結び付けられて、豊かな永遠の命の恵みにあずかるという喜びです。
これこそ主イエスがこの世に来られ、この世を去られることで得られた喜びです。
その喜びが神の子の資格を与えられた弟子たちの内にあり、その喜びをさらに満たすために主イエスは、11弟子たちに「わたしはまことのぶどうの木である」というお話をされました。
「わたしは・・・である」という定型句は、「わたし章句」と呼ばれ、ヨハネによる福音書は、それを用いて主イエスの様々な自己啓示を描いています。
ここでは、主イエスは御自分を「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と知らされています。
続いて15章5節でも主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と御自分を知らせ、主イエスのみがこの世を、この世のわたしたちを救い、そして父なる神につないで、主イエスを信じる者に永遠の命の豊かな実を結びつける者であることを伝えられています。
ヨハネによる福音書は、7章28-29節で主イエスが次のように言われたことを記しています。
「わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」。
この世は、父なる神を知りません。だから、父なる神の独り子主イエスは受肉し、この世に来られて、この世に父なる神を知らされたのです。
主イエスはこの世に父なる神を知らされただけではなく、御自身を通してこの世を父なる神につながらせ、豊かな命にあずからせてくださるのです。
この世に生きるわたしたちは、主イエスが御自分を知らせられなかったら、命のパンも真理も生ける水も復活も世の光も知らなかったのです。
父なる神に至る道も父なる神の愛と御心も知らなかったのです。
しかし、主イエスが御自分は「まことのぶどうの木」であり、「わたしの父は農夫である。」と知らせてくださったので、農夫がぶどう園を計画し、ぶどうの木を植え、ぶどうの木が実を結ぶように、手入れし世話をします。
主イエスのこのたとえでは、農夫である父なる神は、ぶどうの木の枝が豊かな実を結ぶようによく手入れをし、よく世話をされます。
主イエスは「まことのぶどうの木」です。主イエスは、命の唯一の源泉であるからです。
わたしたち人間は死んだら、終わりです。ところが主イエスは十字架で死なれて、3日目に復活されました。
その命を、主イエスは御自身につながる者に与えてくださるのです。
父なる神がぶどうの木の枝として、わたしたちがぶどうの木である主イエスにつながるように、そして豊かな実がなるようにしてくださるのです。
主イエスにつながるとは、洗礼です。主イエスを信じて、神の子の資格を与えられた者は、そのしるしとして洗礼を授けられます。
そして、さら信仰から信仰へと成長するのです。そして永遠の命の豊かな恵みにあずかるのです。
3節の「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と、主イエスは言われていますね。主イエスの話された言葉は教会の宣教の言葉です。
毎週日曜日に教会の礼拝で聖書の朗読と説教を聴きます。それを通してわたしたちは清められます。
聖人になるのではありません。この世のものから神のものに分離されるのです。
教会の礼拝で聖書の御言葉と説教を聴き続けることで、わたしたちは主イエスを信じて、洗礼を受け、キリストにつながれて、この世のものから神のものとされ、神が聖なるお方であるように、神のものとされたわたしたちも聖なる者みなされるのです。
つながるととどまるは、同じ「メノー」というギリシャ語が使われています。ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に「つながる」「とどまる」という言葉を使って、こう伝えたいのです。
主イエスが常に父なる神につながり、とどまられて、一体となって歩まれ、大きな御業をなされたように、あなたがたも主イエスにつながり、とどまり、主イエスと一体となることで、豊かな信仰の実を結ぶことができると。
その豊かな信仰の実は、わたしたちの行いから得られません。主イエスが与えてくださる賜物です。
実を結ばない者、つながれていない人は神の裁きを避けられません。信仰のない者です。
信仰がないと判断し、裁かれるのは神です。だから、むやみに恐れず、すべて主に委ねる他ありません。
今、わたしたちがすべきことは、主イエスのお言葉を信じることです。
今、この世でわたしたちは生きているのです。それぞれ事情が異なる中にいます。
信仰の強い人もいれば、弱い人もいます。教会の礼拝に出られる者がいれば、出られない者もいます。病気の人がいれば、健康な人もいます。生活の格差の時代です。豊かな人がいれば、貧しい人もいます。
幸い日本は平和な国です。迫害もありません。しかし、生活苦のある人がいますし、孤独な老人や若者がいます。
そうした中で主イエスにつながり、とどまるとは、主イエスの弟子でいることです。
教会の礼拝に出られないなら、個人礼拝を、家庭礼拝を続けてください。聖霊の学校で、すなわち、聖霊に導かれて毎日聖書を読み続けてください。
宗教改革者ルターは、信仰の試みに遭うたびに、自分は洗礼を受けている、キリストと一つにされていることを繰り返し自己確認しました。
さらに主イエスは、愛にとどまれと命令されています。
互いに兄弟姉妹を愛することです。
主イエスに愛され、主イエスを愛する者は、互いに愛し合うでしょう。その愛の中に主イエスはいてくださるのです。
その具体的な形が教会における聖餐と愛餐です。
聖餐式も愛餐も、大切なことは「共にある」、「そこに共に住む」ということです。
共に食事をすることは、皆がそこに共に住むことです。
聖餐式は、わたしたちが共に御国の前味をあじわう行為です。
主イエスが御国でわたしたちが共に住める住まいと場所を用意されています。
これから聖餐式にあずかります。これがこの地上でわたしたちが主イエスの愛にとどまっている、つながれていることを示す証拠です。
我らの国籍が天にあることの希望です。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今年最初の礼拝を感謝します。
今年もヨハネによる福音書の学びを通して、主イエスの臨在を覚え、主の御言葉と恵みの中を歩ませてください。
主イエスは、「わたしはまことのぶどうの木」と自らを知らせてくださいました。どうか、わたしたちがその枝であることを覚え、常に主イエスと信仰によってつながり、キリストの体なる教会にとどまらせてください。
どうか、主イエスが遣わされた聖霊のお働きを通して、わたしたちを信仰の豊かな実にあずからせてください。
今朝は、御言葉の恵みだけではなく、聖餐の恵みにあずかり、天国の前味を味わう機会を得ましたことを感謝します。
今年一年間、わたしたちが信仰によって主イエスにつながり、とどまることができるようにしてください。
どうか、聖餐式で兄弟姉妹と共にパンを食し、ぶどう酒を飲み、共に主の愛の中に生かされている喜びで満たしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教64 主の2018年1月14日
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」
ヨハネによる福音書第15章1-11節
説教題:「わたしにつながる」
前回よりヨハネによる福音書の15章を学び始めました。
主イエスの第2告別説教を学び始めました。主イエスは、15章11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」と言われています。
主イエスはこの世に残される11弟子たちが御自身と同様に、この世の権力者からどんな迫害や艱難を受けようと、御自身の喜びが彼らの内にあり、彼らの喜びが満たされるようにするために、第2告別説教を語られました。
ヨハネによる福音書がわたしたち読者に主イエスのこの告別説教を通して伝えたいことは、次のことです。
復活の主イエスと共にいることこそ、この地上の教会のキリスト者たちにとって、この世で生き、信仰の旅をする究極の目標であると。
主イエスはわたしたちに御自分を「わたしはまことのぶどうの木」(1節)とお知らせくださいました。
続いて主イエスはわたしたちに御自分を「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と知らせくださり、主イエスとわたしたちの関係を明らかにされました。主イエスは、わたしたちにとって唯一の命の源泉であられます。主イエスは、わたしたちを御自身に結び付けて、わたしたちに永遠の命という豊かな実を結ばせてくださるからです。
主イエスは御自分を「まことのぶどうの木」と言われ、「わたしの父は農夫である。」とお知らせくださり、農夫である父がぶどうの木を植えて、わたしたちがキリストにつながり、永遠の命の実を結ぶように計画し、世話して下さっていることを教えてくださっています。
前回主イエスにつながるとは、洗礼であるとお話ししました。主イエスを信じて、神の子の資格を与えられた者は、そのしるしとして洗礼を授けられます。
そして、その者はさら信仰から信仰へと成長し、永遠の命の豊かな恵みにあずかるのです。
それを実際に可能にしているのが、主イエスの「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)という御言葉です。
わたしたちが毎週日曜日にこの教会の礼拝で聖書の朗読と説教を聴きます。キリストの言葉を聴いているのです。それを通してわたしたちは清められます。
清められるとは、わたしたちがこの世のものから神のものに分離されることです。
わたしは、未信者の家庭に生まれ、キリストと無縁の者でした。しかし、大学生のころに宝塚教会の礼拝で聖書の御言葉と説教を聴き続けることで、わたしは主イエスをわたしの救い主と信じました。そして、洗礼を受けました。その時からわたしは、キリストにつながれました。この世のものから神のものとされました。神が聖なるお方であり、神のものとされたわたしも聖なる者と神にみなしていただきました。
この世にある限りは、わたしは罪を赦された罪人です。神に聖なる者と見なされた自分の醜さを、弱さを日々の罪を覚えないわけにはいきません。しかし、主イエスはわたしに「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」と宣言してくださるのです。
キリスト教の救いは、人の行いや努力によるのではありません。「わたしは、あなたの罪を赦す」と宣言される主イエスを通して示された神の憐れみによるのです。
さて、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次のように主イエスの御言葉を伝えています。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」
2011年の東日本大震災以来、「きずな」という言葉がわたしたち日本人の心に深く刻みつけられました。
主イエスの「わたしにつながっていなさい」というお言葉に、わたしはその「きずな」を思い起こしました。
「きずな」とは「動物をつなぐ綱」のことです。そこから「肉親間の絶ちがたいつながり」を意味する言葉となりました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの「わたしにつながれ」、「わたしの愛にとどまれ」という言葉を伝えることで、どんなにキリスト者にとってキリストとの絆が大切であり、キリストの愛の中に自らの居場所を見出すことが大切であるかを伝えようとしているのです。
わたしたちキリスト者は、主イエスとのつながりを離れては存在の意味がありません。
だから、主イエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われています。
本当にその通りなのです。キリストとつながっているから、キリスト者は信仰から信仰へと成長し、信仰生活という実を結ぶのです。
パウロは、それを「霊の結ぶ実」と呼んでいます。「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22-23)です。
わたしたちはキリスト者としての生活の中で、神を礼拝し、聖書を読み、祈り、賛美し、隣人にキリストを伝え、霊の結ぶ実によってキリスト者としてこの世に生きているのです。
一見、キリスト者として当たり前と思うかもしれませんが、わたしたちがキリストから離れると、それらの生活は跡形もなくなるのです。
わたしたちは、キリストにつながっているからキリスト者なのです。
キリスト者は人間の資質ではありません。キリスト者は善い人間ではないのです。キリストによって力を与えられ、励まされ、慰められて、キリストのお働きを継続しているのです。
わたしは、創世記2章7節に「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記されている御言葉は、真実だと思います。
牧師として人間の死に際に立ち会わせていただくことがありますが、死に際に人の中から息が出るという瞬間を見させられることがあります。その後もう生きた人ではなく、そこに命のないものが横たわっています。遺体は石のように冷たくなり、先ほど言葉を交わしたのに、永遠に言葉は届かないとおもわされます。
キリストを離れたキリスト者も同じです。霊的には死んだ者となり、彼にはキリストの言葉は聞こえなくなり、この世の人々の言葉の中で生きるようになります。神を礼拝することも聖書を読むことも祈ることもなくなります。キリストとつながっていたから、そのようにし続けていたからです。
反対にキリストにつながるキリスト者は、確かに彼、彼女の内にキリストが生きておられます。
わたしはキリスト者となり、祈る中で、この主イエスのお言葉は真実であると体験しました。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(7節)。
聖書を読み、説教を聴き、わたしたちがキリストの言葉として信じ、祈るならば、確かにキリストは、わたしたちの祈りを聞き届けてくださいます。
わたしが本当にうれしいと思うことは、主イエスが「望むものを何でも願いなさい」と言ってくださっていることです。
日常生活の中で些細なことに、わたしたちは悩む者です。財布をどこに置いたか忘れて、家の中で大騒ぎをしました。お金だけでなく、カードや車の免許も入っているので、失くしたと思い、パニック状態になりました。
そうした時にわたしは、瞬間の祈りをします。「主よ、憐み給え、財布が見つかりますように」と。すると、しばらくして見つかります。
日常の些細なところに、復活の主イエスは祈るわたしと共にいてくださると、そのときに思うのです。
キリストとつながり、キリストと共に生きている。それがキリスト者の日常であると信じることができれば、わたしたちのキリスト者としての日々は喜びで満たされるのではないでしょうか。
わたしたちの教会は小さな教会かもしれません。お金持ちはいないかもしれません。むしろ、人もものもなく、将来続くのか不安でしょう。
しかし、今朝主イエスは、わたしたちに命じられます。「わたしにつながっていなさい」と。そして、約束されます。「望むものは何でもねがいなさい」と。
この教会の現実は、貧しいのでしょうか。むしろ、主イエスのお言葉を聴いているわたしたちの目の前には、目に見えなくても豊かなあふれるばかりの神の恵みがあり、毎週わたしたちはこの礼拝でわたしたちの貧しさを嘆くのではなく、わたしたちのためにしてくださった神の溢れる恵みを感謝することこそわたしたちキリスト者の特権であると思うのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、ヨハネによる福音書の学びを通して、主イエスが我らと共にいて下さり、我らが主イエスにつながれて、主を礼拝できる喜びを感謝します。
主イエスは、わたしたちに「わたしにつながっていなさい」と命じられました。どうか、わたしたちがまことのぶどうの木である主イエスにつながる枝々としてください。
主イエスはわたしたちに「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と約束してくださいました。わたしたちは日常生活の些細なことに悩む者です。どうか、些細な悩みであっても、わたしたちと共にいてくださる主イエスに助けを願えば、その祈りをかなえて下さい。そして、わたしたちの日常生活に主イエスの溢れる恵みがあることを教えてください。
どうか、毎週の礼拝で主イエスの溢れる恵みを心から感謝できる喜びをお与えください。
今寒い冬ですが、教会には温かい太陽の光が射しているように感じさせる喜びの雰囲気をお与えください。礼拝に集まる者に、心を喜び立たせる信仰をお与えください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。