ヨハネによる福音書説教01 主の2016年1月3日
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
ヨハネによる福音書第1章1-5節
説教:「神である御言葉」
明けましておめでとうございます。
「リジョイス-主にある喜び-」の1月号は、名古屋教会の木下裕也牧師の「指」という詩を載せています。
「
光が来た
すべての人を照らす
まことの光が
ひとりの人が選ばれ
遣わされた
彼の生涯は
ただひとつのことのためにあった
光の到来を告げ知らせ
光なるお方を指さすこと
光が来た
高いところから
あけぼのの光が訪れた
暗闇と死の陰に座す者たちに
救いと平和をもたらす
まことの光が
これは 神の憐れみの心による
みずからも光をまといつつ
ここに光がある
命がある と
身をもって証しする者たちが
彼に続いてあらわれた
わたしも
あなたも
指である
光を指さす指である
」
木下牧師は、ヨハネによる福音書第1章6、7節の御言葉から、この「指」という詩を紡ぎ出されました。
「光が来た すべての人を照らす まことの光が」。この「光」は、わたしたちの救い主、主イエス・キリストです。
ヨハネによる福音書は、わたしたちに次のような書き出しで、わたしたちの救い主、主イエス・キリストを紹介します。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ1:1-5)。
ヨハネによる福音書は、わたしたちに主イエス・キリストを二つの言葉の象徴を用いて紹介しています。「言」と「光」です。
この福音書の冒頭の「初めに」という言葉を耳にして、わたしたちは旧約聖書の創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という御言葉を思い起こすでしょう。
神はこの世界を創造されました。神は時間と空間を創造されました。
ヨハネによる福音書は、わたしたちに冒頭で「初めに言があった。」と宣言します。神が初めに天地万物を創造された時に、「言」である主イエス・キリストは創造主なる神として存在されていました。
続けてヨハネによる福音書は、わたしたちに「言は神と共にあった。言は神であった。」と宣言します。この「神」は、「父なる神」です。ヨハネによる福音書は、わたしたちに「言」である主イエス・キリストが父なる神と共に永遠に存在されていたと証ししています。そして、続けて「言は神であった」と宣言することで、「言」である主イエス・キリストが「父なる神」と同質、同等の神であると証ししています。
続いてヨハネによる福音書は、わたしたちに「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」と宣言しています。ヨハネによる福音書は、わたしたちに二つのことを述べて、ナザレのイエスが永遠の神であることを証ししました。
すなわち、第1に天地万物の創造以前に、すでに「言」である主イエス・キリストが父なる神と共に永遠から永遠に存在されていました。第2に天地万物のすべてのものが「言」である主イエス・キリストを通して創造されました。その二つの証言によってナザレのイエスが永遠の神であると宣言しています。
要するにヨハネによる福音書は、わたしたちに「言」である主イエス・キリストが天地万物のすべてのものの創造に先立つことを証しすることで、主イエスが永遠の神であると宣言しているのです。
続いてヨハネによる福音書は、わたしたちに「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」と宣言します。
「言」である主イエス・キリストは、天地万物すべてを創造し、それらを存在させるお方です。「言」である主イエス・キリストの内に命があります。この命なくしてわたしたち人間はこの世に存在しえないのです。だからキリストはすべての人を照らす光なのです。
わたしたちは、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」というこの御言葉から、この世にどうしてキリスト教会が存在しているかを教えられます。
今年は、わたしたちの改革派教会が創立70周年を迎えます。今から50年前の創立20周年の時に、記念宣言が出されました。その宣言は、礼拝の項で「教会の生命は礼拝にある」と力強く宣言しました。どうしてか。宣言は続けて、こう述べているのです。「神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」と。
わたしたちは、この宣言で教会の命が礼拝にあることを確信しています。なぜなら、わたしたちの命と信仰を創造し、常に維持する神であるキリストがこの礼拝においてわたしたちと共に臨在されると信じるからです。
どのようにキリストは、わたしたちと共に臨在されているでしょう。キリストは、聖霊と御言葉を通してこの礼拝においてわたしたちと共に臨在されています。聖霊は、この礼拝における聖書朗読とその説き証しである説教をお用いくださり、そしてここに集まりましたわたしたちに、それらを主の御言葉として聞き従うように導くことを通して、キリストがここに臨在されることをわたしたちに確信させてくださるのです。そして、わたしたちがキリストの臨在を信じて、洗礼と聖餐という聖礼典が正しく執行するとき、わたしたちとわたしたちの信仰が強められ、持続されて行きます。こうして礼拝がわたしたちの教会の命となるわけです。
ヨハネによる福音書はわたしたちの教会を通して、今もキリストは世の光として、すべての人々を照らされていると宣言しています。だから、礼拝にあずかるわたしたちは、ここに「光がある。ここに命がある」と、キリストを指し示す指とされているのです。木下牧師が詩を通して証しされているように「わたしも あなたも 指である 光を指さす指である」のです。
しかし、ヨハネによる福音書は、わたしたちに次のように宣言します。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と。この世は、暗闇です。神に背を向けて、神よりも罪を愛する世界です。教会の外は暗闇ですが、教会はこの世に対して福音宣教を通して光であるキリストを伝えています。だから、キリストは、今も世界中で福音宣教を通して光輝かれています。
そして、この世において教会が福音宣教し、キリストを伝えることで、この世の暗闇がはっきりするのです。キリストをこの世は理解しないで、むしろ退けます。だから、この世に来られたキリストは、十字架への道を歩まれるのです。
こうしてヨハネによる福音書は、わたしたちにこの福音書の初めから終わりまで主イエスが何ものであり、この世とすべての人にとって何を意味するのかを証ししています。
今年は、諏訪地方は御柱祭でにぎわうでしょう。しかし、わたしたちは、毎週の礼拝を守りましょう。聖霊と御言葉を通して、ここに天地万物すべてのものの創造者であり、永遠の神、キリストがいますことを信じましょう。そして、「言」であり、光である主イエス・キリストを、家族に、この町の人々に指し示す指となりましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、新しい年も、礼拝を通して主を崇めさせてください。
世の騒がしさの中で、この教会で心を静め、主の御声を聞かせてください。
わたしたちも、この世の人々にキリストを指し示す指としてください。
礼拝においてキリストが臨在してくださり、わたしたちの教会の命をともし続けてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教02 主の2016年1月10日
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするために、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
ヨハネによる福音書第1章6-9節
説教:「神から遣わされた者」
ヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネを、次のように劇的に登場させています。それを再現するために、わたしなりに6節を文字通りに翻訳します。こうです。「一人の人が現れた、神から遣わされて。その名はヨハネ」。
わたしが「現われた」と訳した動詞を、新共同訳聖書は6節で「いた」としています。実は、この動詞は、すでに3節で出て来ました。「万物は言によって成った」。新共同訳聖書は同じ動詞を、「成った」としています。フランシスコ会訳聖書は、3節を、「すべてのものは、み言葉によってできた」としています。そして、同じ動詞を新共同訳聖書と同様に「いた」としています。「神から遣わされた人がいた。その名はヨハネである」。榊原康夫先生は、6節を直訳で次のように言い表されています。「ひとりの人が神から遣わされて現われた」。またニューイングリシュバイブルも、「ヨハネと名付けられた一人の人が神に遣わされて現われた」と英訳しています。
世界の出来事としては、ある日、ある時、突然にヨハネと名乗る一人の男が神の民ユダヤ人たちの前に現われたのです。後にこの人物は、洗礼者ヨハネと呼ばれます。
ルカによる福音書は、この洗礼者ヨハネの誕生を詳しく記しています。それによれば、彼の父は祭司ザカリアであり、母はエリサベトで、彼女は不妊の女性でした。ところが、天使ガブリエルが父ザカリアに彼の妻の懐妊を告げたとおりに、彼女は身ごもりヨハネを産みました。主イエスの誕生の半年前の出来事でした。父ザカリアは、天使の御告げを信じられず、息子が生まれるまで口がきけなくなりました。ヨハネは、ローマ帝国の皇帝ティベリウスの治世の15年に荒れ野で神の啓示を受けました。彼らは預言者として活躍し、神の民に罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。
ところで、ヨハネによる福音書は、わたしたちに一人の人が現れたと、洗礼者ヨハネを劇的に紹介し、「神から遣わされて」と、彼について説明を加えています。
神がすべての人に光を信じさせるために、このヨハネを神の民に、いわゆるユダヤ人たちに遣わされました。
ですから、ヨハネによる福音書は、わたしたちに7節で次のようにヨハネを紹介しています。「彼は証しをするために来た。光について証しをするために、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」
この人は、証しのためにこの世に生まれたのです。だれでも、人は自分の存在を問いかけます。「自分は何のためにこの世に存在しているのか」と。ヨハネは、自分がこの世の生まれた使命をはっきりと知る者でした。
すなわち、彼は光について証しをし、彼の証しを通してすべての人が光を信じるようになるために、この世に生まれたのです。
この人が世に生まれ、そして、神が彼を預言者として神の民、ユダヤ人たちのところに遣わされたころ、神の民、ユダヤ人たちは異邦人のローマ帝国に支配されていました。神の民、ユダヤ人たちは、彼らを異邦人から解放してくれるメシアを待ち望んでいました。
そのメシアを、ヨハネによる福音書はわたしたちに「光」として紹介してくれています。だから、ヨハネによる福音書は、わたしたちに7節で「その人は光ではない」と言っているのです。ヨハネは、高潔な人物でした。神の民に尊敬される預言者でした。しかし、彼は光ではありません。メシアではありません。光について証しする者でありました。彼は、そのためにだけこの世に生まれ、この世に生きたのです。
先週、名古屋教会の木下裕也牧師が『リジョイス』1月号に寄稿された「指」という詩を紹介しました。木下牧師は、ヨハネを次のように記されています。「ひとりの人が選ばれ 遣わされた 彼の生涯は ただひとつのことのためにあった 光の到来を告げ知らせ 光なるお方を指さすこと 彼の全身が指であった 光を指さす指であった」と。
ヨハネによる福音書と木下牧師の詩を交互に読み続ける内に、わたしの心が何か大切なことに気づかされました。ヨハネは光ではありません。光について証しする者です。彼は光を証しする指です。彼はわたしたちにも「ここに光がある。ここに命がある」と証しする者です。わたしたちは、彼を通して光を信じるように備えられるのです。
わたしは、宝塚教会で自分が求道しているころを思い出しました。木下牧師が記されたように、わたしの周りには光を指さす指がありました。礼拝する方々は、光ではありません。親しく付き合えば、その人の欠点も見えて来ます。だが、宝塚教会の中で共に礼拝をするときに、熱心に牧師の説教に耳を傾けておられ、聖餐式にあずかっておられました。まことに暗い長屋の教会でしたが、誰もが「ここに光がある。命がある」と、身をもって礼拝されていました。小さな子供たちも親たちと一緒に礼拝していました。
1年と3カ月、わたしは求道し、宝塚教会の兄弟姉妹たちが礼拝を通して証しするキリストを、わたしの救い主と信じて洗礼を受けました。
ヨハネの証しという準備があって初めて、まことの光が世に来て、すべての人を照らすことができたのです。
今も教会は、ヨハネのように主が再び来られる準備をしています。四旬節とアドベントの待降節です。アドベントに、ある教会はアドベント・クランツを作り、毎週1本ずつ蝋燭を立てて、そして、4本立つと主の御降誕を迎えます。わたしたちは、準備をしてクリスマスを迎えるのです。
同様に、ヨハネは証しして、まことの光が世に来て、すべての人を照らす準備をしました。わたしたちも、ヨハネのようにキリストを指さす指となり、再び主が来られる準備をしましょう。ここで静かに礼拝を守ることで、わたしたちは「ここに光がある。ここに命がある」ことを、今年一年もこの世の人々に証ししましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヨハネがキリストを証ししたように、わたしたちもキリストを証しする者としてください。
世の騒がしさの中で、この教会で心を静め、主の御声を聞き、主を賛美し、主に祈り、聖餐の恵みにあずかり、ここに光がある、ここに命があると証しさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教03 主の2016年1月17日
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った、「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
ヨハネによる福音書第1章10-15節
説教:「人となった神の御言葉」
最初にお話しすべきだったかもしれません。実は、ヨハネによる福音書の1章1-18節の御言葉は、この福音書のプロローグであります。ヨハネによる福音書の事の始まりであります。その始まりを、ヨハネによる福音書は、ロゴス讃歌で始めたのです。この福音書が生まれた頃に初代教会で歌われていたロゴス讃歌を用いたのです。
そのロゴス讃歌は、本来次のようなものであったと考えられています。すなわち、「言」である主イエス・キリストについて、次の3つを主題として賛美していました。すなわち、1-5節が創造以前に存在し、そして世界と人を創造されたロゴスの働きとそのロゴスが人にとってのどんな意義があるかということを賛美しています。次に9-11節は、ロゴス、すなわち、言が、肉体を取り地上に来る前に、彼は主なる神としてご自分の民、すなわち、神の民であるユダヤ民族を招かれましたのに、彼らがロゴスを受け入れなかったことです。そして、15-18節でご自分の民に受け入れられなかったロゴスは、「わたしたち」、すなわち、キリスト共同体の中に初めて、「肉となって、宿られた」と告白し、賛美しています。
そして、ヨハネによる福音書は、ロゴス讃歌を用いてそこに6-8節で洗礼者ヨハネがロゴス、すなわち、言である主イエス・キリストを証しするためにだけ、この世に生まれたことを付け加えたのです。それから、12-13節の御言葉を付け加えました。それによってヨハネによる福音書は、わたしたち読者に次の点を明らかにしようとしました。神の民ユダヤ民族を代表するこの世の不信仰とこの世が受け入れなかったロゴスを受け入れたキリスト共同体の信仰との分裂であります。ナザレのイエスを拒んだこの世の不信仰と「わたしたち」、すなわち、キリスト共同体の信仰との分裂を際立たせたのです。
ヨハネによる福音書は、この分裂を主題としているのです。
プロローグは、本の冒頭にありますが、最後に書かれるものであります。おそらく使徒ヨハネは、この福音書を書き上げた後に、このプロローグを書いたことでしょう。だから、このロゴス讃歌は、この福音書を要約したものとなっているのです。わたしたち読者は、この福音書を読み終わった後に、もう一度このプロローグのロゴス讃歌に戻って来て初めて、このロゴス讃歌を理解することになるでしょう。
この福音書を研究している学者の一人が次のように語っているのです。「ここでは始めと終わりが分かちがたく結びついており、プロローグはいわば同時にエピローグなのである。」(大貫隆『ヨハネによる福音書 世の光イエス』P68 日本基督教団出版局)と。
さて、10節の「言は世にあった」とは、受肉前のキリストのことです。そして、この「世」とは、神の民、イスラエルと呼ばれたユダヤ民族を代表とするこの世、すなわち、ここで福音書が指摘するロゴスを受け入れない不信仰なこの世界であります。
不信仰なこの世界を創造されたのは、ロゴス、すなわち、言である主イエス・キリストです。しかし、この世は、受肉前のキリストを受け入れませんでした。
旧約聖書をお読みになってください。人類の始祖であり、人類の代表者であるアダムが主なる神の御命令に背いて罪を犯して以来、この世に罪が入り、生まれながらの人間はこの世界と人を創造された主を認めず、拒み続けました。主が「わたしの他に神があるはずがない」と言われると、人は主を拒み数々の神々を自ら作り、拝みました。
それでも主は、人類を憐れみ、アブラハムを通して神の民イスラエルを御自分の民として選ばれ、主イエス・キリストが受肉して、この世に来られるまで、彼らと共に歩まれ、多くの預言者たちを遣わして、神の民イスラエルにご自身に立ち帰るように招かれました。しかし、彼らは不信仰によって常に主を拒んでしましました。そして、最後にキリストが受肉し、彼らのところに来られたのです。しかし、ユダヤ人を代表するこの世は彼を拒んでしまいました。
だから、この福音書は、5節で次のように賛美しています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
旧約聖書を通して、ロゴスであるキリストは、光として、暗闇のこの世で輝かれていました。しかし、神の民イスラエルも、彼らに代表されたこの世界も不信仰という暗闇の中で、主を理解しませんでした。
使徒言行録の中に使徒パウロがアテネの町で福音宣教しましたとき、パウロは町の至るところに偶像や神々が安置され、拝まれているのを目にし、憤慨しました。しかし、一か所祭壇に「知られざる神に」と刻まれているのを見つけて、アテネの町の人々にそれがキリストであることを証ししました。
パウロは、アテネ伝道で失敗したように思われていますが、このヨハネによる福音書は別の見方をしています。12-13節です。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
パウロの十字架と復活のキリストを聞いて、数人の人々がキリストを信じました。パウロが語る御言葉を通して聖霊が聞く者たちの心にキリストを受け入れるようにお働きくださり、救われる者が起こされました。
言は、どんな状況化であろうと、御自身を受け入れる人々、キリストの御名を信じる者たちに、「神の子となる資格を与えた」のです。
資格とは特権のことです。神の子という資格、特権は、キリスト以外に与えることのできるお方はいません。
ですから、言葉であるキリストは、受肉前には神の民イスラエルの残りの者たちにこの神の子という資格、特権をお与えになり、受肉後には、ユダヤ人ではなくても、すべての人々に信仰によって神の子の特権をお与えになりました。
そして、嬉しいことに、言は今もこの世におられます。キリストの共同体に聖霊と御言葉を通しておられます。ですから、洗礼者ヨハネのようにキリストを証しするキリスト者たちと共におられ、彼らが語ります福音宣教を通して、キリストは御自身を受け入れ、御自身の御名を信じる者たちを神の子とし、彼らに永遠の命をお与えになっているのです。
榊原康夫先生の説教集、『ヨハネによる福音書講解』は、改革派教会の多くの信者たちに読まれています。わたしも説教を準備します時に参考にしています。今回読んでいまして、信仰について目を開かれました。
先生は、キリストを信じるとはわたしたちがキリストを信じ込むことではないとお話しになっています。信仰は「イワシの頭」でも何でも信じ込んで、丸めこんで、自分が安心することではないと、言われています。「イエス・キリストの中に、信じてわたしを入れてしまう信仰である」と言われています。
「イエス・キリストの中に」とは、わたしの信仰体験によると、教会の中にわたしを入れることです。教会の中にわたしを入れ、わたしはそこで礼拝を通してキリストの説教を聞きました。そして、教会の中でキリストを聞き続ける中で、わたしはキリストを自分の救い主と信じて、受け入れました。そして、教会の中で、礼拝において洗礼式で教会員たちの前で信仰を言い表し、洗礼を授けられ、わたしはキリストと一つにされました。こうしてわたしは、キリストを信じて、洗礼を通してキリストの中に自分を入れてしまいました。
その時、わたしの両親は未信者でした。自分からキリストを選んだのではありませんでした。わたしは、どうしても大学に入りたかったのです。だからパウロが憤った偶像の神々にお願いしました。しかし、主がわたしを選んで、宝塚教会へと、大学の恩師を通して導いてくださったのです。自分を含めて誰も、わたしがキリスト者になったらよいと願っていた者はありません。求道を始めてから宝塚教会の兄弟姉妹たちは祈ってくださっていたでしょう。それ以上に言であるキリストがわたしをご自身の中に入れてくださり、信仰を与えて神の子としての特権にわたしをあずからせてくださったので、わたしは今キリスト者としてこの世に存在しており、この恵みに心から感謝しております。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、あなたがキリストを通して、わたしたちを創造し、恵みによりわたしたちにキリストを信じる信仰を与えて、神の子としての特権をお与えくださり感謝します。
この世は、暗闇の世界ですが、この教会に人に光を照らすキリストが居てくださることを感謝します。
どうか、日々わたしたちの目の前には悲しみの出来事があり、その度ごとにあなたをこの世は拒みます。しかし、主よ、ここにあなたの永遠の命があることを、世の人々に証しさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教04 主の2016年2月7日
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしより先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
ヨハネによる福音書第1章10-15節
説教:「神の独り子としての栄光」
ヨハネによる福音書は、初代教会で賛美されていたロゴス讃歌を用いて人間となった神のみ言葉を告白しています。
言とは、ロゴスです。ヨハネによる福音書は、この「言」、ロゴスを、受肉した神の言としての主イエス・キリストを表現しています。
注意して、ヨハネによる福音書が語ることを聞いて下さい。繰り返しヨハネによる福音書は、1節で言である主イエス・キリストは、神と、すなわち、父なる神と共に存在されたと宣言しています。言である主イエス・キリストは、クリスマスに初めてこの世に現われたのではありません。神と共に永遠から存在され、神は言、すなわち、主イエス・キリストを通してわたしたちの世界を創造されたのです。
ですから、10節でヨハネによる福音書は繰り返し「言は世にあった。世は言によって成った」と記すのです。ロゴスであるキリストは、父なる神と共に永遠から存在し、わたしたちの世界を創造されたお方であると、ヨハネによる福音書はわたしたちに語りかけているのです。
しかし、この世界のわたしたちは言である主イエス・キリストをわたしたちの造り主と認めませんでした。今もこの世は主イエス・キリストを造り主と認めてはいません。これが、ヨハネによる福音書が10節で語ることです。
驚くべきことは、旧約聖書の中で、そして旧約の時代に、ロゴスである主イエス・キリストは、さまざまに顕現され、神の民イスラエルをご自身に招かれていました。たとえば、ヘブライ人への手紙1章1節です。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」と証言があります。キリストは肉体をまとわずにわたしたちの世界にやって来られて「自分の民」、イスラエル、ヨハネによる福音書の言い方ではユダヤ民族を招かれていたのに、彼らは数々の預言者たちを迫害し、彼らが預言する神のみ言葉を拒んで、ロゴスであるキリストを受け入れませんでした。それがヨハネによる福音書が12節で語っていることです。
神の民イスラエルに拒絶される定めであったロゴスである主イエス・キリストは、今主イエス・キリストを救い主と信じている者たちの群れ、すなわち、キリスト教会の中で、初めて「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた」と、ヨハネによる福音書は告白しているのです。
さて、ヨハネによる福音書は、ロゴスを、ナザレのイエスの言葉と公の生涯の出来事として表現しています。だから、この福音書は、キリストの言葉と公の生涯、すなわち、ガリラヤ伝道と受難と十字架と復活の出来事から成り立っているのです。そして、ヨハネによる福音書にとって、ロゴスこそその御名を信じる者を神の子とし、永遠の命を授ける霊的命そのものなのです。だから、ヨハネによる福音書は、主イエスが6章63節で「命を与えるのは〝霊〟である」と言われたことを語り、この方を信じる以外に永遠の命が与えられないことを証言しているのです。
キリスト教会とキリスト者というこの世の存在は、ロゴスである主イエス・キリストが御自身の御名を信じる者に与えられた資格です。「資格」とは、「力」のことです。キリストが御自身を今信じている者に、神の子となる力を授けられたのです。
具体的には、教会の礼拝の中でなされている洗礼式、聖餐です。洗礼はキリストと一体となる儀式です。神の御子キリストと結び合されて、わたしたちは神の子とされました。そして、キリストが招かれる聖なる食卓、すなわち、聖餐式にあずかり、キリストの体であるパンを食べ、キリストの血であるぶどう酒を飲み、十字架と復活のキリストに結び合されて、わたしたちは御国の喜びにあずかるのです。この喜びは、人によって、人の意志によって、人の欲によっても実現することはできません。神がロゴスであるキリストを通してお選びになられた者だけに、ヨハネによる福音書の表現では「神によって生まれた」者だけに許されているのです。
ヨハネによる福音書は、ロゴス讃歌を用いて、わたしたちの集まりであるこの教会の喜びを告白しています。
すなわち、永遠から存在する言が、わたしたち、つまり、主イエス・キリストを救い主と今信じている者たちの集い、主の日の礼拝の共同体の中に、初めてキリストは肉体を取って、宿られたと告白しています。
人間となられたキリストは、彼をメシアと信じている弟子たちの間に宿られ、彼らは父なる神の独り子、キリストの十字架と復活という栄光を見ました。キリストの十字架を通して父なる神が人の罪を赦され、キリストの復活を通して主イエスの御名を信じる者が永遠の命を得るという恵みと真理を見たのです。
わたしたちも、今信仰によってキリストを受け入れ、これから聖餐式にあずかります。そこで肉体を取られたキリストは天におられますが、聖霊を通してキリストは御言葉と共に今ここに臨在されていると、わたしたちは信じています。
ですから、わたしは、リジョイスの2月号に載せられている木下裕也牧師の詩を紹介したいと思います。今から聖餐にあずかりますので、この詩はこの恵みを受けるわたしたちに助けとなると思います。「祝宴」という題の詩です。カナの婚礼の場面のみ言葉を瞑想したものです。
「何を求めるのかと
あなたは問われます
わたしたちが求めるのは
主よ あなたです
古い人を葬り去り
新しい命に生かす
大いなる力をお持ちの方は
主よ あなたおひとりです
主は水をぶどう酒に変えられた
人間の祝いでしかなかった場所を
神の祝宴に変えられた
取って食べよ
これはわたしの体である
この杯から飲め
これはわたしの血 契約の血である
そこに天国が開かれた
カナの婚礼につらなっていた者たちは
その目で見た
神が人と共にいて
その目の涙を
ことごとくぬぐい取ってくださる
終わりの日のすばらしい喜びを
甦られ
生きておられる方が
わたしたちとともにおられる
飢え渇く世界が真に求めるべき
命の恵みがここにある 」
まさにここに現代の洗礼者ヨハネがいます。木下裕也牧師のことではありません。今わたしたちと共に主イエスが招かれる食卓にあずかる者たちのことです。わたしたちは、洗礼者ヨハネです。
声を張り上げて、この世の人々に「ここに生けるキリストがおられる」と証言するのです。証言していると言う方が正しいでしょう。
洗礼者ヨハネは、人間となられた神のロゴスを指さして、証言しました。「わたしより後から来られる方は、わたしよりも偉大である。永遠から存在されているからだ。」
ヨハネによる福音書説教05 主の2016年2月14日
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネによる福音書第1章16-18節
説教:「キリストによる神啓示」
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にロゴス讃歌を用いてキリストの福音を物語り始めます。ロゴス讃歌は、1-5節で神であるみ言葉を賛美しています。6-9節で洗礼者ヨハネの使命を賛美しています。10-14節で人間となったみ言葉を賛美しています。15節で洗礼者ヨハネの証しを賛美しています。そして、今朝の16-18節で恵みと真理をもたらしたみ言葉、神を啓示したキリストを賛美しています。
このロゴス讃歌を、初代教会のキリスト者たちは礼拝の中でよく賛美していたでしょう。彼らは、このロゴス讃歌で、永遠から父なる神と共にいまし、こ
の世界と人間を創造されたみ言葉を賛美していました。また、キリストがみ言葉として、人間となる前にも神の民イスラエルを訪れ、民に拒まれたことを賛美していました。そして、彼らは人間となってこの世に来られ、十字架と復活を通して神の独り子としての栄光を現され、今は聖霊と御言葉を通して教会の主として臨在しておられるみ言葉を賛美していました。
このロゴス讃歌で、わたしたちは教会の礼拝の中で初代教会のキリスト者たちがどんな喜びに満たされていたか、推測することができます。16節で「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と、彼らは告白しています。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に過去のキリストを語ります。彼と彼の救いを語ります。同時に語られたキリストは、死んで甦られ、今教会の主として、この福音書の読者たちの教会の礼拝にいます。だから、ロゴス讃歌でもって初代教会のキリスト者たちは、「われわれはみな、生きてここにいますキリストの完全な豊かさの中から、充分な恵みを受けてきた」と告白しています。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に今、こう伝えようとしているのです。人間となったみ言葉は、過去にガリラヤでナザレのイエスとして御国を宣べ伝え、人々を救い、癒された。今、復活の主キリストとして、聖霊とみ言葉を通して、われわれに語りかけ、われわれの救いの働きをなさっておられる、と。だから、初代教会のキリスト者たちは、彼らの教会の礼拝において「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」と告白しているのです。
「この方の満ちあふれる豊かさ」とは、キリストの完全な豊かさのことです。永遠から父なる神と共におられ、世界と人間を創造し、そして、十字架と復活を通して父なる神の独り子としての栄光を現された、キリストの完全な豊かさのことです。わたしは、この福音書がわたしたちに伝えている永遠の命の豊かさだと思います。
そのキリストの完全な豊かさは、この世にではなく、この教会の中に、復活の主がわたしたちと共にいますこの礼拝の中にあるのです。だから、このロゴス讃歌を歌った者たちは、「わたしたちは皆、そのキリストの完全な豊かさをただ恵みによって受けたのだ」と証言しているのです。
さて、ヨハネによる福音書がナザレのイエスを通して、神の栄光が現されたと語りますのは、十字架と復活のキリストのことであります。そこでキリストは父の独り子としての栄光をわたしたちに啓示してくださったのです。
人となったみ言葉であるナザレのイエスがみ父の御旨を実現するために、すなわち、み父がこの世を愛されたその愛を実現するために、十字架の道を歩まれたのです。そして、復活されることで、その愛を実現されました。
この世も神の民も、神に背を向けて、人となったみ言葉を受け入れませんでした。しかし、父なる神はそれでもこの世を愛され、御子を十字架に渡され、この十字架のキリストをわが主と信じる者を神の子とし、永遠の命の恵みを与えられました。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこの真理によって、わたしたちは罪と死の支配から自由にされ、この恵みによって、神がわたしたちに何の条件も資格もなしに、ただ一方的に愛してくださったと伝えているのです。
ですから、キリストの十字架と復活を通して、わたしたちはナザレのイエスに神の独り子としての栄光を見たのです。神の豊かな真理と恵みを見たのです。罪の赦しという真理と恵みを見ました。罪の刑罰としての死からの解放という真理と恵みを見ました。
この世の闇の中に生きるわたしたちは、生まれながらに神に背を向けて生きてきたのです。わたしたちの生きるこの世は罪と死が支配しています。わたしたちは、その奴隷でありました。しかし、闇の世に神は光となり、愛を輝かされました。それが神の独り子であるキリストの十字架と復活でありました。それを通して、わたしたちは罪と死から解放され、自由にされました。それが、教会の礼拝における喜びであり、そして、この礼拝は、わたしたちにとっては恵みに満ち満ちた御国の入り口であります。
ヨハネによる福音書は、わたしたち読者にこのロゴス讃歌を用いてどんなに今の教会が出エジプトした神の民イスラエルに比べて、喜びに満ちたところかを、17節で告白します。
旧約聖書の出エジプトの出来事は、キリストの十字架と復活の出来事の影であります。エジプトで奴隷生活をしていた神の民を、主なる神は指導者モーセを通して救われました。主なる神は、アブラハムとの契約を覚えておられました。だから、彼の子孫たちを奴隷の地エジプトから救われ、彼らを自由にし、神の民とされました。そして、主なる神は、彼らをシナイ山に導かれ、モーセを通して律法、すなわち、十戒を彼らに授けられました。
主なる神は、彼らが主に感謝し、十戒を守り、神の祝福の道を歩むことを願われました。しかし、彼らと彼らの子孫たち、すなわち、神の民イスラエルは律法を守ることができませんでした。
モーセはキリストの影でした。彼は神と民の仲保者として、神の言葉を民に語り、民の罪の執成しの祈りを神にささげました。
しかし、ナザレのイエスを通して、父なる神は無条件にわたしたちに恵みと真理を示されました。父なる神は、一方的にわたしたちを愛されました。そして、ナザレのイエスを、わたしたちの神と告白し、信じる者たちのために、父なる神は、ナザレのイエスを神の独り子なる神として現されました。すなわち、主イエスが十字架の道を歩まれ、わたしたちのために神の律法を完全に守り、そしてわたしたちの罪の身代わりとして死に、わたしたちを罪と死から解放し、わたしたちが永遠に父なる神の子として生きる保証として、復活されました。
出エジプト記の神の民たちは、主にシナイ山に集められ、主にお会いしました。主が厚い雲と雷の中から民に語られました。その時民は非常な恐怖に襲われました。人間が神を見ると死ぬと考えられていたからです。実際に神は超越したお方であり、人間は神を見たり、触れたりすることはできません。だから、ロゴス讃歌も「神を見た者は、いまだかつて一人もいない」と歌っているのです。
ところが、教会は父の独り子であるキリストを通して、神を見ることを許されています。キリスト御自身も「わたしを見た者は、父を見たのである」と言われています。教会は、独り子なる神イエスによって、神を啓示されました。教会は、ナザレのイエスを神と告白するところであると、ヨハネによる福音書は、わたしたち読者に伝えようとしているのです。
ヨハネによる福音書は、わたしたちに独り子なる神キリストは、今父なる神のふところにおられると、ロゴス讃歌で告白しています。人となった神のみ言葉はナザレのイエスであり、今は天にお帰りになられ、父なる神のふところにおられるキリストなのだと告白しているのです。教会は、ナザレのイエスをわたしたちの神と告白し、再びこの世に来られ、このお方によって実現される御国を祈り求めているところであります。
キリストの絆につながるのが、教会です。礼拝につながり、説教につながり、洗礼を通してキリストにつながり、そして、聖餐を通してキリストと御国につながる。このつながりによって、わたしたちは、「いまだかつて、神を見た者はいない」のですが、この教会の主、キリストとのつながりによって、わたしたちは「父のふところにいる独り子である神、この方がわたしたちに神を啓示されたのである」、だから、キリストを通してわたしたちは神を見ることが許されているのです。復活のキリストは、マグダラのマリアに言われました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところにわたしは上る」と。わたしたちは、この教会でキリストの父なる神を、わたしたちの父なる神として啓示され、キリストの神をわたしたちの神として啓示されたのです。ですから、わたしたちは、この教会でキリストをわたしたちの神、キリストの父なる神を、わたしたちの父なる神と信じることが許されているのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、ナザレのイエスを、わたしたちの神と信じる信仰を与えられ、心より感謝します。
わたしたちは、キリストを神と告白し、唯一の神に、父と子と聖霊という3つの人格があり、しかも一人の神であることを信じることができることを感謝します。
今ここに甦られ生きておられる主よ、聖霊とみ言葉を通してわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの心をあなたに救われた喜びで満たしてください。罪を赦され、罪と死から解放されて、自由にしていただいている喜びで満たしてください。
どうか、主よ、教会であなたがわたしたちに啓示された神を、この世の人々に証しさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヨハネによる福音書説教09 主の2016年4月3日
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするために、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った、「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしより先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現われるために、わたしは、水で洗礼を授けて来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上に留まるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが留まっておられるのかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア―『油注がれた者』と言う意味―に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」と言われた。
その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたとき、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」
ヨハネによる福音書第1章1-51節
説教:「言葉が受肉し、天と地をつなぐ」
今朝は、1章全体を朗読しました。復習しては、前に進み、この福音書の理解を深めていきたいと願っています。
ある牧師は、この1章全体を、プロローグと見ています。プロローグとは、物事の始まりという意味です。普通小説とか、演劇、あるいは映画には、初めにプロローグがあり、終わりにエピローグがあります。物語というものには物事の始まりがあり、物事の終わりがあります。
わたしは、聖書も同じであると思います。聖書の最初の書である旧約聖書の創世記は、物事の始まりを記しており、聖書の終わりの新約聖書のヨハネの黙示録は物事の終わりを記しております。そして、聖書は、物事の始まりと終わりの間で、旧約聖書においてはキリストを預言し、新約聖書においてはその預言の成就により、神の偉大な救いの御業がなされたことを物語っています。
また、ヨハネによる福音書も同じです。1章に物事の始まりがあり、21章には物事の終わりがあります。そして、この福音書は、その間にナザレの主イエス・キリストのしるしによる活動と最後のしるしである受難と復活を物語っています。すなわち、ナザレの主イエスの受肉と贖罪の死と復活を物語っています。
次に1-18節のキリスト讃歌で、この福音書の主題が語られています。「言は神であった」(1節)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。「それは父のふところにいる独り子である神」イエスあり、「この方が神を示されたのである」(18節)と。
要するにヨハネによる福音書は、わたしたち読者を「言は神であった」、「言は受肉したイエスである」、だから、「イエスは神である」と説得しようとしています。これがこの福音書の主題です。
さらにイエスは神であるので、「言は神と共にあった」(1節)、「万物は言によって成った」(3節)、「言の内に命」があり、その「命は人を照らす光であった」(4節)と、この福音書は証しています。
すなわち、受肉した言であるナザレのイエスは、神が天地を創造された前からおられ、神の天地の創造の御業に共に参与され、それゆえに、神に創造されたわたしたち人間は、この言の内にある命なしには存在できないと、この福音書はわたしたち読者に言いたいのです。
また、なぜこの福音書は書かれたのでしょう。わたしたち読者がこの福音書の20章までを読んで、ナザレのイエスを使徒トマスと共に「わが主、わが神よ」と信仰告白に至らせるためであります。
そのためには、この福音書の良き訪れを人々に伝えなければなりません。そこで、この福音書はわたしたち読者に言である主イエスを最初に証しした人物を紹介します。洗礼者ヨハネです。彼は、メシアではありません。彼は、メシアの道を整える荒れ野の声です。神は、言が受肉したナザレのイエスこそ来るべきメシアであると人々に証しさせるために、この世にヨハネ遣わされました。彼は、彼の弟子たちに主イエスを指さして、「見よ、神の小羊」と証ししました。
ヨハネの証しを聞いて、ペトロの兄弟アンデレともう一人の人物が主イエスの泊まられている家を尋ねました。そして、主イエスと宿を共にし、主イエスと交わり、二人は主イエスをメシアと信じました。
アンデレは兄弟ペトロに「わたしたちはメシアに会った」と伝えました。そして、アンデレはペトロを主イエスのところまで連れて行きました。主イエスは、ペトロを「シモン」という名から「ケファ(岩)」という名に変えられました。そして、ペトロは主イエスの弟子になりました。
もう一つ、この福音書は、主イエスが御自身の弟子を召されたことを証ししています。43-51節の御言葉です。
主イエスは、ガリラヤに行こうとされました。その途上で主は、フィリポに出会われました。そして、主イエスは、直接フィリポを弟子に召されました。「わたしに従いなさい」と。
フィリポはアンデレとペトロ兄弟たちと同じガリラヤ湖の畔にあるベトサイダという町の出身です。彼は、主イエスを見て信じました。この福音書は、フィリピを通してわたしたちに信じない者ではなく、信じる者となりなさいと進めているのです。
主イエスを信じたフィリポが最初にしたことは、ナタナエルのところに行き、旧約聖書が預言するメシアに出会ったことを伝えることでした。主イエスは、ガリラヤでは「ナザレのイエス」、「ヨセフの子イエス」として知られていました。
ナタナエルは、フィリポより聖書に詳しかったようです。彼はフィリポに「ナザレの村からは何のよきものも出ない」と言いました。旧約聖書の預言者たちは、預言していました。メシアが現れるのはガリラヤではなく、ユダヤであり、ベツレヘムに生まれると。むしろ、大預言者イザヤはガリラヤを異邦人の地と呼んでおり、ナタナエルにはガリラヤから何もよいものが現れないと確信じていたのです。
ところが、フィリポはあきらめません。彼は、ナタナエルに「来て見なさい」と呼びかけました。ナタナエルは、フィリポに誘われて主イエスのところに行きました。すると、主イエスは初めてナタナエルに会われたのに、彼についてよくご存じでした。
ナタナエルは、驚き、主イエスに尋ねました。「どうしてわたしを知っておられるのか」と。すると、主は彼に「わたしはあなたに出会う前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」と言われました。
「ラビ」とは「先生」という意味です。ナタナエルは、主イエスが初対面であるのに自分を言い当て、そして、出会わない先から自分の居場所まで言い当てたので、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白したのです。
主イエスは、ナタナエルがいちじくの木の下でラビから律法を熱心に学び、常に彼は学んだ律法に忠実に生きようと努力しているのをよくご存じでした。だから、主イエスは彼に「あなたは真のイスラエルだ」と言われました。真の神の民イスラエルとは、熱心にモーセ律法を学び、そして、その律法に生きる者でありました。
ナタナエルにとって、人の心を知り、言い当てる者は、主なる神以外にありません。だから、彼はナザレのイエスを「あなたは神の子、イスラエルの王」と告白しました。主イエスは神であり、神の民イスラエルを真に支配されている王であるという意味です。
すると、主イエスは、彼に「『わたしがあなたを、いちじくの木の下にいるのを見た』と言ったので、信じるのか」と言われました。そして、主イエスは彼にさらに偉大なことを見るようになると約束されました。天が開けて、天使たちが天と地を昇り降りする姿を、彼が見ると。
これはユダヤ人たちには、馴染みのお話です。昔、彼らの先祖である族長ヤコブが、兄エサウの迫害を逃れ、叔父のラバンのところに行く途中、ベテルで石を枕にして眠りました。そのとき天使たちが天と地を結ぶ梯子を昇り降りしている夢を見ました(創世記28:12)。
主イエスは、受肉し、天と地をつなぐ梯子となられました。だから、主イエスはナタナエルとフィリポに向かって、「あなたがたは、わたしを通して天と地が繋がれ、天使たちが昇り降りするのを見るであろう」と約束されました。
ヨハネによる福音書1章全体を読むことで、わたしが得た恵みは、言葉が受肉し、天と地をつなぐという大きな恵みを、誰もがこの教会で見られる喜びを、この福音書がわたしたち読者に伝えているのだということを理解できたことです。
今朝は共に聖餐の恵みにあずかります。パンは天からのパン、言葉が受肉したキリストの体です。ぶどう酒はキリストの血です。キリストの受肉の恵みを、ある牧師は、次のように述べています。「イエス・キリストの受肉の出来事において『天』が『地』にその豊かさを分け与える出来事が起こったという認識に他なりません」(上田光正『日本伝道を考える 1 -日本人の宗教性とキリスト教』P39)と。
受肉した言葉であるキリストは、聖霊と御言葉を通してこの教会に今宿っておられます。そして、使徒トマスやナタナエルのように、マルタのようにキリストを主、神と告白する者たちに聖霊によって洗礼を授け、御自身が受肉によって開かれた天に受け入れてくださっています。キリストは地にいるわたしたちを天に引き上げ、今キリストの永遠の命は受肉により、この地に降り、キリストの体である教会でキリストに結ばれて生きているわたしたちに与えられているのです。だから、今日は、キリスト者にとって恵みの日であり、救いの時であります。
この喜びの交わりに、わたしたちの家族を、この町の人々をお誘いしましょう。どうか、主よ、わたしたちをアンデレやフィリポのように、あなたの器としてお用いください。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、長い冬が過ぎ、春を迎え、先週はイースターの祝福にあずかることができて感謝します。
今朝の御言葉を通して、主よ、あなたの受肉の恵みを覚えることができて感謝します。わたしたちもアンデレやフィリピのように、身近な者に教会に誘われ、礼拝の説教を通して、キリストの臨在に導かれました。
どうか、今度はわたしたちをアンデレとフィリポとして、身近な者たちのところにお遣わしくださり、キリストを証しさせ、この教会に誘えるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。