マルコによる福音書説教41              20201011

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

                 マルコによる福音書9213

 

説教題:「主イエスの姿が変わる」

今朝は、マルコによる福音書第9213節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスが12弟子たちに御自身の受難と死と復活を予告なさり、12弟子たちと群衆たちに「自分の十字架を負ってわたしに従え」と命じられたことを学びました。

 

ペトロの信仰告白と主イエス御自身の受難と死と復活の予告を通して、主イエスはエルサレムへと向かおうとされました。

 

主イエスが御自身の受難と死と復活を、「必ず・・・・することになっている」と予告されました。これは、「聖書の書いてある通り」主イエスの御受難と死と復活が父なる神の御計画であるという意味でした。だから、主イエスは父なる神の御心に従って、これからエルサレムに向けて歩まれるのです。

 

しかし、12弟子たちは主イエスの予告を理解できませんでした。ペトロは、主イエスに「あなたこそメシアである」と告白しました。しかし、彼もほかの2弟子たちも主イエスを受難のメシアとして理解していませんでした。主イエスが旧約聖書に預言された受難のメシアであることに、彼らは全く無理解でした。

 

それゆえ、ペトロは主イエスを戒めたのです。彼は、主イエスの受難の道を妨げようとしました。

 

それこそ、サタンの望むところでした。サタンは、マルコによる福音書11213節で、神の子主イエス・キリストを荒れ野で誘惑しました。主イエスのガリラヤでの神の国の福音宣教を妨げるためです。

 

そして、今サタンは、ペトロを通して主イエスがエルサレムに行かれ、受難し、死なれ、復活されるという神の道を妨げようとしました。

 

主イエスは、ペトロを「サタン」と呼ばれ、「わたしから退け」と命じられました。ペトロを始め、12弟子たちは神が思われることを思わず、人が思うことを思っていました。

 

それこそサタンの思うつぼでした。サタンは、主イエスに荒れ野で父なる神より自分に従えと誘惑したのです。同様にサタンは、12弟子たちに主イエスがこの世の王になられ、彼らが身分の高き者となり、この世での栄華を誇るように求めさせたのです。

 

しかし、受難の道を歩もうとされます主イエスが、12弟子たちと群衆たちに求められたのは、御自身と同様に自らの十字架を背負って御自身に従う殉教の道でありました。

 

主イエス御自身が神の子であられるのに、人の子として身を低くされ、父なる神に服従されて、これからエルサレムに、そして御自分の命を捨てて、受難の道、十字架の道を歩まれるのです。主イエスは、同様に真の主イエスの弟子たちにこの世の栄華を求めるのではなく、むしろ、主イエスに従って、自分の命を捨てて、自分の十字架を担う殉教への道に歩むように勧められました。

 

そして、主イエスは御自分に従う弟子たちの殉教の道にこそ死から命に生かされる祝福があると約束されました。なぜなら、主イエス・キリストにおいて現わされた神の御国が、主イエスのエルサレムへの道によって、近い将来力溢れる形で現れるからです。聖霊降臨によるキリスト教会の誕生であり、そこで神の民たちの礼拝がなされるのです。その礼拝こそ、わたしたち日本改革派教会が創立二十周年宣言で言い表しました教会の命である礼拝です。「キリストにおいて神がひとと共に住みたもう天国の型として存する教会」です。「神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教への聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」ので、わたしたちは主イエスが約束されたように、今朝の礼拝において「神の国が力にあふれて現れるのを見る」のです。

 

さて、今朝の主イエスの有名な山上の変容を学びましょう。

 

これは、主イエスが山上で光り輝かれて、御自身の神性を現わされたという出来事であります。

 

マルコによる福音書は、92節でこの出来事の場所を記しています。「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。」どこの山かは記していません。

 

六日の後」は、マルコによる福音書が主イエスの受難と死と復活の予告とこの出来事を結び付けて記しているのです。

 

また、主イエスの変容の出来事は、主イエスが変わられただけではなく、旧約聖書のモーセとエリヤが現れた出来事でもありました。

 

マルコによる福音書は、次のように主イエスが変わられたこととモーセとエリヤが現れたことを記しています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(マルコ934

 

旧約聖書の出エジプト記24章は、モーセがシナイ山に登り、主なる神にお会いする出来事を記しています。神の栄光がシナイ山に留まり、雲が六日の間山を覆っていました。主なる神は、七日目にモーセに呼びかけて主なる神にお会いし、4040夜山にいました。

 

マルコによる福音書は、その出来事を、主イエスの変容の出来事に重ね合わせていたのかもしれません。

 

預言者エリヤも列王記上の19章で北イスラエル王国のアハブ王と妃のイゼベルに迫害され、神の山、ホレブに逃れます。ホレブ山はシナイ山のことです。エリヤは、ホレブ山の洞窟の中で夜を過ごします。その時に主なる神はエリヤに「何をしているのか」と尋ねられ、バアルにひざまずかない7000人の神の民を残すと約束されました。

 

高い山は主なる神が現れられる場所であります。高い山で主なる神は、御自身をモーセとエリヤに現わされ、主イエスは三人の弟子たちに御自身が主なる神であることを現されました。

 

主イエスが変わられたのは、異なる形を取られたのです。英語ではトランスフギアです。変身するという意味です。主イエスは、本来の主イエスが天上でお持ちの体に変えられました。

 

エルサレムにこれから向かわれる受難の主イエスが三人の弟子たちに御自身の栄光の体を見せられたのです。

 

白い衣を着た人は、義人のたとえです。主イエスが神の御前に正しい人である姿です。

 

受難と死と復活を予告された主イエスは、受難のキリストであり、神の御前に正しい人であったのです。

 

そして、変わられた主イエスは、その時に現れたモーセとエリヤと話し合われました。

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、モーセは主なる神と神の民との仲介者であったこと、エリヤは受難の預言者であったことです。二人と話し合われる主イエスは、人を超えたお方であるということです。

 

するとまたもやペトロが主イエスとモーセとエリヤが話し合われているところに口をはさみます。マルコによる福音書は、次のように記しています。「ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。」(マルコ956)。

 

ペトロは、主イエスに次のように提案しています。主イエスが変わられたこととモーセとエリヤが現れたこと、この輝かしい出来事をいつまでも記念するために、ここに主イエスとモーセとエリヤの小屋を三つ建てましょうと。

 

これは、マルコによる福音書がわたしたちに三人の弟子たちがこの山上の変容という出来事を全く理解できなかったのだと伝えているのです。

 

彼らは、父なる神の御声を聞いたのです。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(マルコ978)。

 

雲が現れて三人の弟子たちを覆いました。そして、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩の姿で主イエスのところに来られ、天からこの神の御声が聞こえました(マルコ111)。

 

これは、天から父なる神が神の子としての主イエスの身分を宣言されたのです。そして父なる神は、三人の弟子たちに主イエスが語られる受難と復活について聞き従うようにと命じられたのです。父なる神は、彼らに主イエスの受難の道に従うように促されたのです。

 

しかし、三人の弟子たちは、受難の主イエスを理解しませんでした。だから、彼らは「自分の十字架を負ってわたしに従え」と命じられた主イエスについて行くことができないのです。

 

一同が山を下ります時に、主イエスは三人の弟子たちに御自身が復活するまでこの出来事を話さないように命じられました。

 

すると、三人の弟子たちは死者からの復活について議論を始めました。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに三人の弟子たちの無理解がどうして起こるのかを伝えているのです。主イエスの復活は、主イエスの受難と死を前提にしています。だから、キリストの受難と十字架の死の意味が理解できないと、キリストの復活も理解できないのです。

 

主イエスにとって御自身の受難の死と復活は必然の事実ですが、旧約聖書に書いてある通りに神の永遠の御計画として起こることです。しかし、受難の主イエスがメシアであることを理解できない弟子たちには、旧約聖書の書いてある通りにその受難の主イエスが死者の中から復活されることを理解することはできないのです。

 

三人の弟子たちは、主イエスに「律法学者たちはどうしてメシアが来る前にエリヤが来ると言っているのか」と質問しています。

 

彼らは、主イエスにメシアの先駆者であるエリヤの再来を質問したのです。彼らの質問の背後にあるのは、ユダヤ人たちが主イエスをどう見ているかということです。彼らは、エリヤが再来していないので、主イエスがメシアであるはずがないと主張していたのです。

 

これに対してマルコによる福音書は、主イエスの御言葉によって反論したのです。主イエスは、マラキ書の32324節を引用されて、「エリヤが来て、すべてを元どおりにする」(マルコ912)と言われ、13節で「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」と、主イエスは言われています。

 

12節と13節でマルコによる福音書は、二度「聖書に書いてある」という主イエスの御言葉を記しています。これは、神の御意志の実現を表わす御言葉です。

 

旧約聖書の神の御言葉は、主イエスの受難とメシアである先駆者洗礼者ヨハネがユダヤ人たちに迫害されることによって実現したのだと、マルコによる福音書はわたしたちに主イエスの御言葉で伝えているのです。

 

主イエスがエルサレムへと受難の道を歩まれることは、主なる神が旧約聖書において語られていた通りに実現しているのだと、マルコによる福音書は証言しているのです。

 

主イエスの受難と死も彼の先駆者である洗礼者ヨハネの殉教も、神の御意志として実現したことなのだというのが、マルコによる福音書がわたしたちに伝えようとしていることです。

 

このように受難のメシア、主イエスの死と復活という神の御意志の実現によって、今わたしたちはこの礼拝にいるのです。モーセが主なる神と神の民の仲介者となり、預言者エリヤが残りの神の民7000人のために受難の苦しみを味わったように、主イエスは父なる神とわたしたちの唯一の仲介者となられ、父なる神の選ばれた神の民のために、受難のメシアとして、十字架の上に死なれて、そして死者の中から復活されたのです。わたしたちの罪の身代わりに死なれ、わたしたちの永遠の命の保証として復活してくださったのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第9213節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝は、主イエスの変容の出来事を学び、受難のメシアである主イエスの十字架の死と復活の御業を理解することが許されて感謝します。

 

主イエスは、わたしたちに受難の主イエスに従うように、命じられます。主イエスが受難の道を歩まれるように、わたしたちも洗礼者ヨハネのように受難の道を歩むようにと。

 

主イエスは、御自分の命をわたしたちのためにお捨てになりました。そして復活を通して再び命を得られました。

 

同様にわたしたちも自分たちの十字架を負い、主イエスに従うことのできるようにしてください。そして、主イエスが死者の中から復活されたように、わたしたちも死者の中から復活し、永遠の命を得させてください。

 

その希望が今朝の主イエスの変容の出来事にあることを心に留めさせてください。主イエスが光り輝かれ、人を超えた存在者であり、罪無き義人であることを学びました。そしてわたしたちも終わりの日に主イエスが変わられたように、栄光の体に、罪無き体に復活させられる希望があることを感謝します。

 

この世において苦難の多き信仰の人生です。どうか受難の主イエスと共に歩ませてください。

 

どうか栄光の主イエス・キリストの再臨を待ち望ませてください。

 

わたしたちの死が、復活の主イエスとの永遠の命の入り口であることを信じさせてください。

 

どうか、わたしたちが毎週の礼拝で聖書の御言葉の朗読を聞き、その御言葉の説き明かしである説教を聞き、そして聖餐の恵みに与り、洗礼式の恵みに参列し、この教会においてか神の国の御力が溢れている現われを見させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教42              20201018

一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子の口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「何と信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは群衆が走り寄って来るもを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。イエスが家の中に入られると、弟子たちは密かに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

                 マルコによる福音書91429

 

説教題:「子から悪霊を追い出す」

今朝は、マルコによる福音書第91429節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスの山上の変容を学びました。

 

主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちだけを連れて、ある山に登られました。

 

主イエスは、山上で三人の弟子たちの目の前で光り輝かれて、御自身の神性を現わされました。それだけではなく、旧約聖書のモーセとエリヤが現れ、主イエスと話し合っているのを、三人の弟子たちは目撃したのです。

 

エルサレムにこれから向かわれる主イエスが三人の弟子たちに御自身の栄光の体を見せられたのです。

 

その時に現れたモーセは、主なる神と神の民との仲介者でした。エリヤは受難の預言者でした。その二人と話し合われる主イエスは、人を超えたお方であると、マルコによる福音書はわたしたちに伝えているのです。

 

するとまたもやペトロは、主イエスがモーセとエリヤと話し合われているところに口をはさみます。ペトロは、主イエスに次のように提案しました。主イエスが変わられたこととモーセとエリヤが現れたこと、この輝かしい出来事をいつまでも記念するために、ここに主イエスとモーセとエリヤのために三つの仮小屋を建てましょうと。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに次のように三人の弟子たちの無理解とこの奇跡そのものが人に恐れを生じさせるものであったと伝えています。「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。(マルコ96)

 

まさに主エスがどんな白い布よりも光り輝かれて、変わられた出来事は、主なる神の現れの出来事でした。キリスト教の用語を使いますと、神の顕現です。

 

わたしたちが神に近づき、神の御心を知ることができますのは、啓示という神の一方的行為を通してのみです。神が御自身をわたしたちに知らせてくださることを通してのみです。その中心が主イエス・キリストです。このお方を通して、わたしは主なる神を父なる神、子なる神であるキリスト、そして父なる神と子なる神キリストがわたしたちに遣わされた聖霊なる神を、唯一の神として知るのです。

 

だから、彼らは、キリストの臨在を通して、父なる神の御声を聞いたのです。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。」(マルコ978)。

 

マルコによる福音書は、天から父なる神が三人の弟子たちに主イエスを父なる神の子と宣言されたことを伝えています。そして父なる神は、三人の弟子たちに主イエスが語られる受難と復活について聞き従うようにと命じられ、彼らに主イエスの受難の道に従うように促されたことを伝えているのです。

 

一同が山を下ります時に、主イエスは三人の弟子たちに御自身が復活するまでこの出来事を話さないように命じられました。すると、三人の弟子たちは死者からの復活について議論を始めました。そして、彼らは、主イエスに「どうして律法学者たちはメシアに先立ってエリヤが現れると言っているのか」と質問しました。

 

律法学者たちは、エリヤはまだ再来していないので、イエスがメシアであるはずがないと主張していたのです。

 

これに対してマルコによる福音書は、主イエスの御言葉によって反論しました。主イエスは、マラキ書の32324節を引用されて、次のように言われました。「エリヤが来て、すべてを元どおりにする」(マルコ912)と言われ、13節で「しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」と。

 

マルコによる福音書は、主イエスが二度「聖書に書いてある」と言われたことを記しています。それは、神の御意志の実現を表わす御言葉です。

 

主イエスは、旧約聖書の神の御言葉が御自身の受難とメシアである先駆者洗礼者ヨハネがユダヤ人たちに迫害されたことによって実現したのだと言われました。

 

こうしてマルコによる福音書は、わたしたちに次のことを伝えているのです。主イエスがこれから山を下りられ、エルサレムへと受難の道を歩まれることは、主なる神が旧約聖書において語られていた通りに実現しているのだと。

 

さて、今朝は、山を下りられた主イエスがある父親の息子から悪霊を追い出す奇跡をなさったことを学びましょう。

 

マルコによる福音書は、奇跡物語を記していますが、その中心は主イエスへの信仰、信頼です。不信仰な今の世においてあなたがたは、この父親のように主イエスをキリストとして信じ、信頼することができるのかと、マルコによる福音書はわたしたちに信仰の決断を迫っているのです。

 

今朝は、結論から話しますが、その結論に至るまでに、マルコによる福音書は、山の麓に残された弟子たちが悪霊を追い出すことに失敗したことから、今朝の奇跡物語を記しています。

 

主イエスと三人の弟子たちが山を下りると、大勢の群衆たちに囲まれて主イエスの弟子たちと律法学者たちが激しく議論していました。弟子たちが子供から悪霊を追い出すことに失敗し、律法学者たちから辛辣な言葉を投げかけられていたのでしょう。そしてそれを取り囲む群衆たちは、律法学者たちの言葉に味方していたかもしれません。

 

群衆たちは、主イエスを見つけて、非常に驚きました。そして彼らは、主イエスのところに駆け寄り、主イエスに挨拶をしました。

 

ユダヤ人の挨拶は、「シャローム」です。健康、幸福、祝福、平和などの含む挨拶の言葉です。そして、この挨拶は相手にこれらを望むだけではなく、それらを現実化させるものです。だから、群衆たちが主イエスに挨拶するだけでなく、奇跡をなさる主イエスがその挨拶を実現されると信じているのです。主イエスと群衆たちの間にはこの挨拶を通して信頼関係があります。

 

主イエスは、「何を議論しているのか」と質問されました。

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者にある重要な事柄を知らせるために、主イエスが質問し、相手が答えるという会話を用いています。その重要な事柄が主イエスへの信仰であり、信頼なのです。

 

主イエスの質問に答えたのは、群衆の中の一人の男でした。彼は、悪霊につかれた息子がおりました。

 

それで彼は、主イエスに次のように事情を説明しました。息子を主イエスのところに連れて来た。

 

息子には悪霊が取りつき、息子から言葉を奪い、聞く能力を奪った。そして、悪霊は息子を地面に倒し、息子の口から泡を吹かせ、歯ぎしりさせ、体をこわばらせたと。

 

だから、主イエスの弟子たちのところに連れて行き、息子から悪霊を追い出してくださいと頼んだと。しかし、主イエスの弟子たちは、息子から悪霊を追い出すことに失敗したと。

 

父親の説明を聞かれて、主イエスは、今のこの世の不信仰を嘆かれました。その不信仰とは、主イエスへの信頼がないことです。主イエスの弟子たちも群衆たちも、疑っているのです。

 

主イエス・キリストがこの世に来られ、神の子として数々の奇跡を通して今神の御国が来ていることを証しさました。しかし、主イエスの弟子たちも群衆も、主イエスに信頼してはいません。むしろ、主イエスがキリストであることを疑っているのです。

 

そして、今主イエスは、エルサレムへと受難の道を歩まれます。この世に主イエスが残された時間は少ないのです。一緒に12弟子たちと群衆たちといることはできません。

 

主イエスは、息子を連れて来なさいと命じられました。人々が息子を主イエスのところに連れて行きました。すると、悪霊は、主イエスを見て、父親が主イエスに話した通りのことをしました。息子は悪霊によって、地面に倒れさせられ、口から泡を吹いて転げまわりました。

 

主イエスは、父親に息子が悪霊につかれたのはいつごろかと質問されました。父親は主イエスに幼少のころからですと答えました。そして、彼はこれまでの息子の悲惨な状態を訴えました。悪霊は、息子を滅ぼそうとし、火の中、水の中に投げ込んだと。

 

そして、彼は、主イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」とお願いしました。彼は、主イエスに全幅の信頼を寄せていません。弟子たちも息子から悪霊を追い出せなかったのです。だから、主イエスが何かできるなら、わたしたちを助けてくださいと願ったのです。

 

主イエスは、父親の不信仰を見抜かれました。だから、主イエスは、彼に言われました。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と。

 

主イエスは父親の不信仰を指摘され、神を信じる者にはすべてができるとお答えになりました。

 

この「信じる者」とは、誰でしょうか。本来は主イエスのことではないでしょうか。主イエスは、父なる神を全く信頼して歩まれ、何事もなされたのです。だから、主イエスに不可能なことはありませんでした。

 

しかし、マルコによる福音書がわたしたちに伝えようとしているのは、神の子主イエス・キリストの福音です。だから、マルコによる福音書は、この「信じる者」を、神の子イエス・キリストを信じる者と理解しているでしょう。

 

父親は、主イエスに不信仰を指摘され、「わたしは信じます。不信仰なわたしをお助けください」と叫びました。

 

そして、この父親の不信仰な信仰、おかしな表現ですが、それによって主イエスは、息子から悪霊を追い出す奇跡を行われたのです。

 

マルコによる福音書は、わたしたちにこの奇跡物語を通して、息子から悪霊を追い出された主イエスは、息子の父親をこの世の不信仰からも救われたと伝えているのです。

 

罪のこの世において、不信仰なこの世にあって、わたしたちの信仰もこの父親の信仰と変わらないのです。「わたしは信じます。不信仰なわたしを助けてください」。これが、この世におけるわたしたちの信仰なのです。

 

立派な信仰とか、確信のある信仰とか、改革派信仰とか、わたしたちは口にしても、この父親のように、どこかで主イエスに対して、できれば助けてくださいと思っているのです。

 

この世においては、わたしたちの信仰は完全ではありません。主イエスへの信頼も完ぺきではありません。わたしたちの信仰には常に不信仰が付きまとっています。あの主イエスの12弟子のトマスのように、自分の目で主イエスの槍痕、釘痕を見るまで主イエスの復活を信じないという不信仰と疑いが同居しているのです。

 

12弟子たちは、主イエスと共にある家に入り、主イエスにどうして自分たちは悪霊の追い出しに失敗したのかと尋ねました。すると、主イエスは、彼らにこの種の悪霊の追い出しは、祈りに依らなければできないと言われました。

 

主イエスは、12弟子たちに熱心な祈りを要求されたのではありません。信仰はまずわたしたちの不信仰を知ることから始まるのです。だから、この父親のように、わたしたちも「わたしは信じます。不信仰なわたしを助けてください」と祈ることから、わたしたちのキリスト者としての歩みが始まるのです。

 

わたしたちの生身の信仰は、不信、不信仰、疑いとの、日々戦いです。その戦いに日々敗れる情けない信仰です。

 

しかし、この不信仰な父親を見捨てられないで憐れまれた主イエスは、日々不信仰と疑いに自分の信仰が攻撃されている弱いわたしたちをお見捨てにはなりません。むしろ、父親を憐れみ、彼の不信仰に腹を痛めるほどに、彼を愛されたのです。それが、主イエスがこれからエルサレムへと向かわれ、十字架の死へと向かわれる意味であるからです。

 

ボロボロに破れたわたしたちの信仰ですが、その信仰を、十字架の主イエスが毎週この礼拝を通して受け取ってくださるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第91429節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝は、主イエスが悪霊につかれた息子の父親の不信仰を救われ、息子から悪霊を追い出された奇跡を学びました。

 

主イエスは、父親の不信仰の信仰を、御自身の十字架の御苦しみを通して受け入れてくださいました。どうかわたしたちの不信仰の信仰をも受け入れてください。

 

どうかわたしたちもこの父親のように「わたしは信じます。不信仰なわたしをお助けください」と心から祈ることができるようにお導きください。

 

彼が主イエスに不信仰を赦され、信仰を主イエスに与えられ、その信仰によって主イエスが彼の息子を救われましたように、どうか不信仰なわたしたちをお赦しくださり、わたしたちに信仰をお与えくださり、わたしたちの家族をお救いください。

 

わたしたちの教会が主イエスの十字架の上に立てられていることを信じさせてください。そして、諏訪地方に、松本地方や伊那地方にいる神の民を、この教会へとお集めください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教43              2020111

一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

                 マルコによる福音書第93032

 

説教題:「戸惑い恐れる12弟子たち」

今朝は、マルコによる福音書第93032節の御言葉を学びましょう。

 

主イエスは、12弟子たちに三度御自身の受難と死と復活を予告されました(831931103334)。今朝の御言葉は、第二回目の予告です。この予告によって主イエスは、十字架という神の必然を公に言い表されてエルサレムへと旅されているのです。

 

前回は、悪霊に取りつかれた息子の父親の「不信仰な信仰」(91429)を学びました。

 

主イエスは、ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子たちを連れて、ある山を下りて来られました。

 

そこで主イエスが目にされたのは、群衆に取り囲まれて主イエスの弟子たちが律法学者たちと激しい議論している光景でした。

 

群衆たちが主イエスを見つけて、駆け寄り挨拶しました。主イエスは、質問をされました。「何を議論しているのか」と。

 

すると、一人の男が答えました。彼は、悪霊につかれた息子の父親でした。彼は、主イエスに自分の息子から悪霊を追い出してほしいと願って、主イエスのところに息子を連れて来ました。

 

ところが、主イエスは不在でした。

 

そこで父親は、主イエスに言いました。「悪霊はわたしの息子から言葉を奪い、耳を塞ぎました。そして、息子を引き倒し、金縛りにしています。そこでわたしは、あなたの弟子たちに息子から悪霊を追い出してくださるようにとお願いしました。ところがお弟子さんたちは悪霊を追い出せませんでした。」(91718)

 

それをお聞きになり、主イエスはお嘆きになりました。そして、言われました。「何と信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいることができようか。また、わたしはいつまであなたがたに我慢すればよいのか(919)と。

 

主イエスの嘆きは、御自身の御受難が迫っているからです。

 

この世は主イエスを信じません。その代表者の一人が悪霊に取りつかれた息子の父親です。

 

主イエスの御受難の道は、不信仰なこの世を見捨てる道ではありません。この世の不信仰の中で、主イエスは受難の道の途上でこの不信仰な父親に信じる道を開らかれるのです。

 

だから、主イエスは、父親に命じられました。「あなたの息子を、わたしのところに連れて来なさい(919)と。

 

悪霊は、主イエスの目の前で彼の息子を、地面に押し倒し、金縛りにし、地面を転げまわらせ、口から泡を吹き出させました(920)

 

それを御覧になって主イエスは、父親に尋ねられました。「いつ頃からあなたの息子はこのような状態なのか」(921)と。

 

父親は主イエスに答えました。「幼い時からです。悪霊は、息子を殺そうと何度も火の中、水の中に息子を投げ込みました。」(92122)と。

 

主イエスは、父親との問答で彼の不信仰を引き出されました。だから、父親は、主イエスのこう言いました。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい(922)と。

 

主イエスは、父親の不信仰を見抜かれ、こう言われたのです。「『できれば』と言うのか。信じる者には何でもできる(923)と。

 

すると、父親は自分の不信仰を知ったのです。父親は、自分こそ主イエスに助けられなければならない者だと知りました。だから、主イエスに心から憐れみを請うたのです。彼は「信じます。信仰のないわたしをお助けください(924)と言いました。

 

その時主イエスは父親の不信仰な信仰を受け入れて、彼の息子から悪霊を追い出されたのです(92527)

 

その後主イエスは12弟子たちと共にある家に入られました。そこで12弟子たちは、主イエスに「どうしてわたしたちは悪霊を追い出すのに失敗したのか」と尋ねました(928)

 

主イエスは、彼らに悪霊を追い出すことに失敗した原因を不信仰にあると言われたのです。彼らは己の力に頼り、神の恵みの力を祈り求めていませんでした。その不信仰によって悪霊を追い出せなかったのです(929)

 

神の恵みの御力によらなければ、主イエスの弟子たちは何もできません。それは、わたしたちキリスト者も同じです。

 

何時の時代も、この世は不信仰なのです。主イエスがこの世に来られたのは、この父親のようにわたしたちが自分の不信仰に気づき、この父親と同じように「わたしは信じます。不信仰なわたしを助けてください」と、主イエスの恵みの御力に寄り頼むためなのです。それがキリストの十字架なのです。

 

 さて、30節に「一行はそこを去って」と、マルコによる福音書は記していますね。これは、「彼らはそこの場所を出て行って」という意味です。主イエスと12弟子たちは、ある家に滞在されていました。そして、今主イエスと12弟子たちはそこを出て行かれました。そしてガリラヤを通り抜けられました。

 

イングリシュバイブルは、「彼らは今ある地域を去って、ガリラヤを通り抜けて旅をした」と英訳しています。

 

 その旅の途上で、すなわち、ガリラヤを通り抜ける旅の途上で主イエスは12弟子たちに第二回目の御自身の受難と死と復活の予告をされました。

 

 第一回目の受難と死と復活の予告は、主イエスが12弟子たち共にフィリポ・カイサリア地方に行かれる途上でされました(831)12弟子たちがペトロに代表される「あなたは、メシアです」と信仰告白した後です(829)

 

 マルコによる福音書は、30節後半で「しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。」と記しています。

 

主イエスは、ガリラヤを通り抜けてエルサレムへと旅することを、秘密にすべきであると思われていたようです。

 

その理由は、二つあります。主イエスは、これから受難の道を歩もうとされていたことと12弟子たち対して集中して弟子教育をしようとされたからです。

 

そのために主イエスは群衆たちから去って、12弟子たちを連れてフィリポ・カイサリア地方へと行かれました(827)。その旅の途上主イエスは彼らに御自分が誰であるかを問われました。彼らは、主イエスをメシアと告白しました。

 

また、今主イエスは群衆たちから去って、12弟子たちと共にガリラヤを通り抜けてエルサレムへと旅をされました。そこで主イエスは彼らに弟子への道を集中して教え始められました。

 

主イエスは、第二回目の受難と死と復活の予告を、主イエスが主に宣教活動されたガリラヤでなされました。

 

マルコによる福音書は、三度主イエスの受難と死と復活の予告を記していますが、次の事に注目してほしいと思うのです。主イエスは12弟子たちにこの予告をなされるたびに、フィリポ・カイサリア地方からガリラヤを通り抜けられて、エルサレムへと近づいて行かれるということです。

 

マルコによる福音書は、今主イエスがフィリポ・カイサリア地方からガリラヤ・カファルナウム、そしてユダヤ・ペレアを通り抜けて、エルサレムへと受難の道を向かわれる姿を生き生きと描いているのです。

 

こうしてマルコによる福音書は、ハイライトである11章から15章でのキリストの受難物語へと展開していくのです。

 

同時に主イエスは、エルサレムへの旅の途上で12弟子たち対して集中して弟子への道を教育され、訓練されているのです。

 

主イエスが12弟子たちに対して教育と訓練なされる中心は、彼らの信仰告白です。これは、キリストの教会を建て上げる土台であるからです。

 

12弟子たちは、主イエスがメシアであると告白しましたが、主イエスが受難のメシアであるという秘密を十分に理解してはいません。

 

だから、主イエスは、12弟子たちが信仰告白した後に、続けて三度の御自身の受難と死と復活の予告されたのです。これは、主イエスが12弟子たちに御自身の秘密を御教えになったのです。

 

メシアは、この世の王でも、支配者でもありません。彼は人の子であり、神の子です。何よりも受難のメシアなのです。主イエスは、これを三度予告することで明らかにされました。そして主イエスは御自身の身をもって実現するために、今12弟子たちと共にエルサレムに向かわれるのです。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスが御自身の受難と死と復活を予告され、その後に12弟子たちに弟子への道を教えられたことを伝えて、次のことを教えようとします。

 

それは、主イエスの受難の道は、12弟子たちの殉教の道であるということです。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに受難の主イエスを証しするだけでなく、主イエスの弟子たちの道が殉教の道であることを証ししているのです。

 

主イエスが御自身の受難と死と復活を、御自身の身をもって実現されるように、12弟子たちもまた主イエスと同じように殉教の道を、彼らの受難と死と復活の道を歩まなければなりません。

 

しかし、今朝の御言葉では、マルコによる福音書は次のように32節に記しています。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

 

この言葉とは、31節の主イエスの御言葉です。「「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」

 

12弟子たちは、主イエスの受難と死と復活の予告を理解できませんでした。メシアの秘密が理解できなかったのです。

 

だから、彼らは、主イエスの口から「受難」、「死」、「復活」という言葉を聞いても戸惑うほかありませんでした。尋ねることすら、恐ろしかったのです。

 

そして、マルコによる福音書は、わたしたちに次週に学びます33節以下で次のことを伝えようとしているのです。

 

それは、こういうことです。12弟子たちは主イエスの受難と死と復活の予告を通して、主イエスが受難のメシアであることを理解しませんでした。その結果、彼らは受難の主イエスに従うことができませんでした。むしろ、主イエスの受難と死と復活に希望を持つよりも、この世の出世争いに腐心することになったのです。そして彼らは、主イエスへの信従の道を閉ざしてしまうのです。

 

主イエスの受難と死と復活というメシアの秘密を理解できない者は、結局受難の主イエスと関係し、十字架の主イエスと関係し、復活の主イエスと関係して生きることができません。

 

そうすると、その者が追い求めるのはこの世のものです。そしてこの世の不信仰に呑み込まれる以外にありません。その結果、12弟子たちは誰が弟子の中で一番偉いかという、この世の人々が願う出世争いをするようになるのです。また、お金とこの世の名誉を得ることに腐心するようになるのです。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに次のことを教えようとします。主イエスの受難と死と復活を理解する時、真実に主イエスの弟子としての道を生きることができると。そしてその道がたとえ殉教の道であっても、主イエスが死から復活されたように、自分たちも死から命に甦るという信仰に生きる喜びを伝えようとしているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第93032節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝は、主イエスが12弟子たちに第二回目の御自身の受難と死と復活の予告をされたことを学びました。

 

主イエスは、12弟子たちにその予告を通して御自身のメシアの秘密を教えられ、それを実現するためにエルサレムに向けて歩まれました。

 

どうか聖霊よ、今朝の神の御言葉を、わたしたちが理解し、主イエスの受難と死と復活に、わたしたちを深く結び付けてください。

 

受難の主イエスの御後を歩み、殉教の道を恐れる恐怖に、復活の主イエスに寄り頼み、打ち勝つ信仰を与えてください。

 

十字架の主イエスに信頼し、父なる神との和解の道を歩ませてください。

 

今から聖餐の恵みにあずかります。キリストの十字架と復活のゆえに、わたしたちが父なる神によって罪を赦され、永遠の命の希望に生かされていることを確信させてください。

 

どうかわたしたちの教会が主イエスの十字架の上に立てられていることを信じさせてください。どうかわたしたちの家族に、この町の人々に、十字架のキリストの福音を伝えさせてください。

 

小さな群れをお守りください。主イエスへの信仰を強めてください。上諏訪湖畔教会をお守りください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

マルコによる福音書説教44              2020118

一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

                 マルコによる福音書第93337

 

説教題:「弟子への道―仕える者」

今朝は、マルコによる福音書第93032節の御言葉を学びましょう。

 

主イエスは、12弟子たちに三度御自身の受難と死と復活を予告されました(831931103334)

 

それを聞いた12弟子たちは理解できませんでした。それゆえペトロは、主イエスの受難の道を妨害しました。主イエスは彼に「サタンよ、退け」と叱られました。

 

そして、先週主イエスの第二回目の受難と死と復活の予告を学びました。12弟子たちは、それを聞いて理解できず、恐ろしくなりました。だから、彼らは主イエスにあえて尋ねようとはしませんでした。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスが御自身の受難と死と復活を予告されることとその後に主イエスが12弟子たちに弟子への道を教えられたことを結び付けて伝えています。

 

その理由は、わたしたちが主イエスの受難の道と12弟子たちの殉教の道を理解するためです。

 

マルコによる福音書が描く主イエスの弟子の姿は、第一に主イエスの召された者です(1:16202:1314)。第二に主イエスと共にいて、従う者です。12弟子の他にガリラヤの群衆たちです。彼らは主イエスのところに押し迫り、主イエスの御言葉を聴き、主イエスと共いいて、従いました。

 

それだけではありません。主イエスの受難と死と復活の予告と12弟子たちの無理解によって、今朝は、主イエスの弟子は自らをへりくだらせて、すべての人々に仕える者であることが明らかとなります。

 

先週、わたしたちは、12弟子たちが主イエスの受難と死と復活の予告を通して、主イエスが受難のメシアであることを理解できなかったことを学びました。

 

彼らは無理解の結果、受難の主イエスに最後まで従うことができませんでした。むしろ、無理解のゆえに、彼らの関心がこの世のものでありました。この世の人々と同じように、出世争いに心を奪われていました。

 

だから、先週わたしは、こう断言したのです。「主イエスの受難と死と復活というメシアの秘密を理解できない者は、結局受難の主イエスと関係し、十字架の主イエスと関係し、復活の主イエスと関係して生きることができません」。

 

主イエスと12弟子たちは、カファルナウムの町に着きました。この町は、主イエスのガリラヤ宣教の拠点でした。ペトロとアンデレ兄弟の生まれた町で、彼らの生家がありました(1:29)。主イエスは、12弟子たちと共にその家に入られました。

 

この家が主イエスの12弟子たちを教育訓練する場所でした。

 

人に気づかれることを好まれなかった主イエスは、12弟子たちと共にこの家に入られました。それによって群衆たちからは隔離されました。

 

主イエスは、12弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねられました。彼らは主イエスの質問に、口を堅くし沈黙しました。恥ずかしくて言えなかったのです。

 

だれがいちばん偉いかと議論し合っていたからです」。

 

12弟子たちの関心は、この世でした。この世での出世、弟子たち同士の競争でした。12弟子たちの中で一番争いをしていたのです。

 

主イエスは、彼らの愚かさを阻止し、まことの弟子について教えようとされたのです。

 

35節の「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」は、主イエスの時代のラビが弟子たちを教える習慣です。教える者が座り、学ぶ者たちも座りました。主イエスは座って、12弟子たちを招き、説教されました。それが、3537節の御言葉です。

 

主イエスは、言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。(35)

 

主イエスは、12弟子たちにこの世における価値の転換を説かれました。それが、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり」ということです。

 

今この世における世界の注目はアメリカの大統領選挙です。まさにこの選挙は、この世界を支配するアメリカで誰がいちばんであるかを決めようとしているのです。

 

そのために巨額の金が使われ、情報と宣伝が駆使され、人間の醜い欲望がマスメディアにさらけ出されています。

 

ところが神の子主イエス・キリストは、誰がいちばん偉いかという出世争いから、一番遠い存在です。

 

人の出世争いという上昇志向と人とこの世界を支配しようという欲望に無縁のお方です。

 

後に10章で主イエスは、12弟子たちに第三度目の受難と死と復活の予告をされます。それを理解できなかった弟子のヤコブとヨハネが主イエスにこの世での出世をお願いします。そこで主イエスは12弟子たちを呼び集めて言われます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい(10:4344)と。

 

その根拠は、受難のメシアである主イエス・キリストです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。(10:45)

 

主イエスは、出世争いする12弟子たちにこう答えられました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になれ」、「すべての人に仕える者となれ」と。

 

まさに主イエスが受難のメシア、苦難の僕として、父なる神の御心を実現するために、エルサレムへと旅されていました。十字架の道を歩まれていたのです。それは、神の御子が人の子となり、御自身の命でわたしたちの罪を贖われるという道でした。

 

人に仕える者」は、食卓の給仕をする者です。そこから生計のために配慮する者、一般に仕える者という意味に発展しました。特に主イエスの受難に方向づけられて、人に仕えるキリスト者の態度を表わすものとなりました。

 

牧師、長老、執事が「人に仕える者」と教会の中で呼ばれるようになりました。また教会の慈善活動をする者たちも「人に仕える者」と呼ばれました。

 

このように受難の主イエスと同様に、主イエスの弟子たちも人に仕える者たちです。

 

これを最も鮮やかに表わす生活の座が、教会における聖餐の場なのです。そこでわたしたちは、食卓の主人である主イエスがわたしたちに仕えてくださるのを、パンを食べ、ぶどう酒を飲むことで信仰体験するのです。

 

同様にその聖餐の場で牧師は司式によって仕える者となり、長老たちは配餐によって仕える者となるのです。

 

さて、主イエスは、12弟子たちにその真理を教える実物教材として、一人の子供を彼らの真ん中に立たせられました。

 

そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(3637)

 

主イエスが子供を腕で抱きあげるというのは、ここと1016節でもう一度出てきます。主イエスにとって子供たちは、神の祝福を受ける権利があります。だから、主イエスは子供たちと共に居てくださり、常に主イエスは彼らを祝福されます。12弟子たちは子供たちに仕えるべきです。

 

そして教会の中で子供たちは、弱い立場です。未熟な人間です。小さな者たちです。

 

受難の道を歩まれる主イエスは、子供を祝福し、これらの小さき者を受け入れられました。同様に12弟子たちも受け入れなければなりません。

 

文字通り子供だけを、教会は受け入れるのではありません。子供のように無視される兄弟姉妹を受け入れるのです。主イエスは弱い立場にあり、力なき者を教会の聖餐の食卓にお招きになります。彼らと共に主の恵みに与ることで、わたしたちは人に仕える主イエスの弟子として生きるのです。

 

まさにそこに、復活の主イエスが居てくださいます。父なる神の愛と恵みが溢れているのです。そして、この世では考えられない永遠の命を喜ぶ者たちがいるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第93337節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝は、12弟子たちが出世争いすることを通して、主イエスがどのように弟子の道を教えられたかを学ぶことができて感謝します。

 

主イエスは、12弟子たちにこの世における価値の転換を求められました。

 

この世は、小さいときから誰がいちばんかを争っています。勝ち組と負け組があり、勝ち続け、誰よりも先になり、上昇志向の中で人を支配することに喜びを見いだしています。

 

しかし、神の子主イエス・キリストは、ヘリ下り、受難のメシアとして十字架の道を歩まれました。人に仕えられるより、人に仕えて、自らの命を、わたしたちの罪の身代わりに献げてくださいました。

 

そして、今主イエスは、今朝の御言葉を通して、わたしたちにも人に仕える道を歩むように教えてくださっています。

 

どうか、わたしたちが受難の主イエスの御後を歩み、人に仕える道を歩めるようにしてください。

 

人を支配するのではなく、弱い立場の者たちと共に歩み、共に御言葉と聖餐の恵みに与らせてください。

 

どうかこの小さな群れをお守りください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教45              20201115

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

                 マルコによる福音書第93841

 

説教題:「弟子への道―教会の外にいる弟子」

今朝は、マルコによる福音書第93841節の御言葉を学びましょう。

 

先週は、12弟子たちが自分たちの中で誰がいちばん偉いかを議論していたことを、主イエスが知られて、「わたしの弟子は仕える者である」と教えられたことを学びました。

 

12弟子たちは、弟子たち同士で誰がいちばん偉いかと競争していました。

 

主イエスは12弟子たちにこう言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。(35)

 

主イエスは、12弟子たちの真ん中に幼子を立たせて、こう言われました。「「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(3637)

 

主イエスが12弟子たちに弟子への道を教えられました。それは、人と競争する道ではなく、人に仕える者となる道でした。

 

そして幼子を受け入れる道でした。この世において弱い立場にあり、未熟な人間として軽蔑されている者を受け入れる道でした。

 

今朝の御言葉は、主イエスが12弟子たちに彼らの外にいる主イエスの弟子たちについて教えておられます。

 

12弟子のひとり、ヨハネが主イエスに自慢してこう言いました。「「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたがが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」(38)

 

ヨハネがいつ、どこで見たのか、詳しくは記されていません。事実だけが報告されています。

 

ヨハネは、イエスの名によって悪霊を追い出すことができるのは、12弟子たちだけの特権だと思っていたのでしょう。だから、ヨハネはイエスの名を用いて悪霊を追い出している者に、「わたしたちの仲間にならないか」と誘ったのでしょう。

 

ところが、彼はヨハネの誘いを断ったのです。それで、ヨハネはその者にこう言ったのでしょう。「イエスの御名によって悪霊を追い出すことを許されているのはわたしたちだけである。わたしたちの仲間にならないなら、イエスの名を使って悪霊を追い出すことはやめなさい」と。

 

ヨハネが主イエスにこのことを報告したのは、自分のことを誉めてもらおうと思ったでしょう。

 

ところが、主イエスのお答えは、ヨハネには想定外でした。思いもよらないものでした。

 

主イエスはヨハネに言われました。「「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(3940)

 

主イエスは、ヨハネに彼がイエスの名によって悪霊を追い出すのを止めてはならないと命じられました。その理由は、イエスの名を使って悪霊を追い出す者が、そのすぐ後でイエスの悪口を言えないからです。イエスの名によって悪霊祓いをしている者は、イエスの味方なのです。

 

主イエスの弟子は、12弟子たちだけではありません。彼らのように「イエスはメシアである」と信仰告白し、常にその側に共におり、従う者だけが主イエスの弟子なのではありません。

 

主イエスにとって、ガリラヤの群衆たちも主イエスの弟子であり、主イエスの家族なのです(マルコ3:3135)。イエスの御名を使えば悪霊を追い出すことができると信じて、癒しの奇跡をしていた者も、主イエスは御自分の味方であると言われました。

 

主イエスがヨハネに教えられたことは、12弟子たちだけが主イエスの弟子ではないということです。

 

主イエスは、御自分の弟子たちを身内の12人の弟子たちに限定されませんでした。

 

ところが、ヨハネは12弟子たちの仲間でない者たちを、彼らの外にいる者たちを排除しようとしたのです。

 

このお話しは、マルコによる福音書が作られる前から初代教会の中で知られていたでしょう。マルコによる福音書は、このお話を主イエスの弟子への道を考える材料に用いているのです。

 

教会の外にいる主イエスに好意を持つ人々を、教会はどのように接するべきであるかという問題です。つまり、信仰告白し、洗礼を授けられた者だけが、教会員だけが主イエスの弟子なのか、そのように線引きしてよいのだろうかという問題です。

 

主イエスは、ヨハネを代表とする12弟子たちに、こう諭されたのです。「わたしの弟子はもっと外に開かれている。ヨハネたちよ、もっと寛容な心を持ちなさい。」と。

 

マルコによる福音書が生まれた世界は、キリスト者にとっては異教の社会です。キリスト者は少数でした。ユダヤ教とローマ帝国の官憲に迫害されていました。それゆえに初代教会のキリスト者たちは信仰の仲間と強く結びつき、教会の外の者に対して壁を作っていたかもしれません。

 

それゆえ教会の外にいる者がどんなに主イエスに好意を持とうと排除していたのでないでしょうか。極端に言えば、仲間でない教会の外の者は敵だと。

 

しかし、受難の主イエスは、12弟子たちのためだけではなく、ガリラヤの群衆たちのために、そして12弟子たちの仲間にならないけれども、主イエスの名を用いて悪霊を追い出している教会の外の者のためにも、十字架の道を歩まれているのです。

 

更に主イエスは、ヨハネを代表とする12弟子たちにこう言われました。「「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」(41)

 

(はっきり言っておく」は、「アーメン レゴー ヒユミン」と言われたのです。文字通りに言うと、「まことにわたしは、あなたがたに言う」です。

 

これは、キリストの宣言です。強いお言葉です。

 

ヨハネが代表する12弟子たちは、彼らに従わない者を、主イエスの弟子に認めようとしませんでした。

 

これは、今も同じですね。教会は、キリストの権能によって誰を教会員と認め、認めないかを決めています。それは、主イエスを救い主と告白し、共に歩む者です。

 

小会に誰を教会員とするかということが、主イエスから委ねられています。だから、小会は、洗礼志願者に信仰試問をします。そして志願者が教会員に相応しいと判断するのです。そして、小会は彼に洗礼を授けることを認めて、教会員の名簿に彼の名を加えるのです。

 

しかし、中には主イエスは好きだけれど、教会員にはなりませんと言う者がいるのです。

 

その者たち、わたしたちの信仰の仲間にならない者たち、12弟子たちの権威に従わないように、教会の権威に従わない者たちを、ヨハネのように排除してよいのだろうか。

 

これがマルコによる福音書がわたしたちに投げかける問いであります。

 

主イエスは、その問いに否と答えられました。

 

教会の外にいて、主イエスに好意を持つ者に、開放と寛容の心を持って、と命じておられます。

 

今御受難の道を歩まれている主イエスにとって、敵対しない者は主イエスの味方です。そして、主イエスの弟子であるという理由で、わたしたちに水一杯をくれる者、すなわち、わたしたちに親切にしてくれる者を、主イエスは報いる、祝福すると言われているのです。

 

ある学者は、このキリスト者に水の一杯をくれる者を、教会員ではないが、キリストとのかかわりで生きている者と解説しています。

 

主イエスの弟子を、教会員に限定すれば、上諏訪湖畔教会は会員名簿に載る20数人の群れです。この先、高齢化により、さらに人数は減る一方でしょう。この先を考えると、わたしたちは失望するかもしれません。

 

これは今に限りません。昔のパレスチナにある初代教会の現実だったのではないでしょうか。エルサレム教会は貧しい教会でした。使徒パウロたちが開拓伝道した小アジアやギリシャの異邦人教会から多額の援助を受けなければなりませんでした。ましてや他の教会はどうだったでしょうか。

 

わたしたちの教会も東部中会の諸教会から祈りと援助で支えられています。

 

それだけではありません。この世にある教会は、決してこの世との関わりなしに存在できません。この世の人々の好意の中で存在しているのです。使徒言行録の中にエルサレム教会が生まれた時、教会員にならなくても、多くの人々が教会に好意をもっていたと記しています。

 

教会の礼拝には来られませんが、聖書を買って読む日本人は多いでしょう。ギデオン協会が中高生に英訳の新約聖書を配布し、多くの人々が聖書を持っています。教会には行かないが、イエスさまは好きだという人は案外多いと思います。

 

また、わたしたちの教会でも、教会員になられなくても、クリスマス、イースターに礼拝に来てくださる方々がいます。共に奉仕をしてくださるご家族がいます。教会とわたしたちに親切にしてくださる人々はたくさんおられます。

 

上諏訪湖畔教会がこの諏訪地方で存在し続けたのは、礼拝するわたしたちがいただけでなく、この教会とわたしたちに親切にしてくださった人々がいたからです。

 

主イエスは、宣言され、約束されました。洗礼を受けていなくても、この教会の名簿に名が無くても、その者がキリストとのかかわりで生きているのであれば、御自分の味方であり、御自分から祝福を受ける弟子であると。

 

主イエスの今朝のお言葉に、わたしたちのような地方にある小さな教会は大きな慰めを得ないでしょうか。ここにこの教会があることが、どんなに小さな教会であろうと、大きな祝福です。なぜなら、主イエスは御自分に好意を持つ者を、わたしたちキリスト者に親切にしてくれる者を祝福してくださるからです。

 

主イエスの御言葉の約束の中で、この教会に一度だけ訪れた者も、教会とわたしたちに親切にしてくださった方々もわたしたちと共に主イエスの祝福の中にあるのです。

 

小さな教会であっても、世に存在する限り、主イエスの祝福の光となり、わたしたちキリスト者もどこに置かれても、世の光として、わたしたちに親切にしてくれる人々の祝福とされているのです。

 

わたしたちの主イエスの弟子への道は、教会の外にいる人々が主の祝福にあずかる道なのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第93841節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝は、ヨハネが12弟子たちの仲間にならない者がイエスの名によって悪霊を追い出していたことを止めさせたことを、主イエスに報告すると、主イエスはヨハネに彼を寛容の心で受け入れるように教えられたことを学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちは、ヨハネを代表する12弟子たちのように、本当に閉鎖的です。洗礼を受けて、教会員になった者たちだけを、主イエスの弟子たちとして受け入れています。主イエスに好意を持ち、教会やわたしたちに親切にしてくれる人々を中々受け入れることができません。

 

しかし、今朝主イエスは、御自分に敵対しない者は味方であり、わたしたちに水の一杯をくれる者を祝福すると約束してくださいました。

 

今、わたしたちの教会は、高齢化で、礼拝人数が減っております。この先を考えると、厳しいものがあります。しかし、主イエスは、今朝の御言葉を通して、わたしたちに慰めと希望を与えてくださり感謝します。

 

どうか、わたしたちと教会がこの世の人々の光となっていることを信じさせてください。教会の外でキリストと関わって生きる人々とわたしたちと教会が良き関係を持てるようにしてください。

 

12月のクリスマスに、いつものように案内を出します。一緒にクリスマスを楽しみ、共に喜び合えるようにしてください。

 

どうかこの小さな群れをお守りください。祝福してください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。