マルコによる福音書説教36 2020年8月30日
ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求めて、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろうか。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸に行かれた。
マルコによる福音書8章11-13節
説教題:「どうしてしるしを求めるのか」
今朝は、マルコによる福音書第8章11-13節の御言葉を学びましょう。
前回は、四千人の給食の奇跡を学びました(マルコ8:1-9)。主イエスは、デカポリス地方のガリラヤ湖湖畔で耳が不自由で、話すことの出来ない人を癒された後に、四千人の給食の奇跡をなさいました。マルコによる福音書は、6章の五千人の給食の奇跡(マルコ6:34-44)とは別に、主イエスがこの奇跡をなさったと記しています。五千人の給食の奇跡では裂かれたパンが12籠に溢れ、四千人の給食の奇跡では7つの籠に溢れたと記しています。
しかし、この二つの奇跡には共通点があります。主イエスをしたって群衆が寂しい所、荒れ野までついて行きます。主イエスは民衆を御覧になり、飼う者のいない羊のような有様を憐れまれて、奇跡の食事を与えられました。
主イエスは、12弟子たちに彼らの食事の世話をお命じなりました。しかし、12弟子たちは不可能であると答えます。そこで主イエスは、彼らにパンが幾つあるかを数えさせられ、魚も数匹あるので、12弟子たちに群衆を草の上に座らされました。そして、祈りパンを裂き、魚を裂き、弟子たちに配らされました。民衆たちは食べて満腹しました。そしてこの給食に与った成人男子の数が最後に記されています。
これらの奇跡の背景は、初代教会における愛餐です。初代教会では、聖餐式とは別に、この愛餐がなされていました。これは、主イエスと共に食事をする奇跡です。
教会では愛餐がよくなされます。これは人集めのためにしているのではありません。兄弟姉妹の交流の場ではありません。この愛餐に復活の主イエスが共に居てくださるのです。教会の中で愛餐の食事に、復活の主イエスが共に居てくださるのです。わたしたちを飼い主のいない羊のように憐れまれ、教会で養ってくださるのです。マルコによる福音書は、わたしたちに復活の主イエスに全幅の信頼を寄せるべきであると、伝えようとしています。
しかし、マルコによる福音書は、五千人の給食の奇跡の後に、ガリラヤ湖の湖上を歩かれる奇跡(マルコ6:45-52)を記しています。そこでマルコによる福音書は、主イエスの五千人の給食の奇跡に対して無理解であった12弟子たちの不信仰を記しています。
四千人の給食の奇跡の後も、今朝のファリサイ派の人々が主イエスにしるしを求めた不信仰を記し、その後ファリサイ派の人々とヘロデのパン種の会話が記されて、12弟子たちが主イエスの四千人の給食の奇跡に対して無理解であったことを記しています。
さて、今朝の御言葉の背景は、マルコによる福音書8章10節です。「それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。」
ダルマヌタの地方が今朝の御言葉の出来事が起こった場所です。主イエスと12弟子たちは舟に乗り、ガリラヤ湖の東岸を離れて、西岸のダルマヌタの地方に着きました。
正確な場所は不明です。
ファリサイ派の人々は、宗教的指導者です。しかし、サドカイ派の人々のように神殿に仕える祭司ではありません。民間人です。律法への服従の生活を何よりも大切にしていました。ファリサイ派の律法学者たちは、世襲ではありませんでした。しかし、彼らの律法解釈とそれを生活に応用した生き方に民衆は敬服していたのです。
サドカイ派の祭司たちは神殿中心の生活でしたが、ファリサイ派の人々は各地に住んでおりました。ダルマヌタの地方にもファリサイ派の人々が住んでおり、彼らは宗教的指導者として、シナゴグ、すなわち、会堂で律法を教えていたでしょう。
主イエスと12弟子たちがダルマヌタの地方に来られたという噂を聞いて、ファリサイ派の人々がやって来ました。その目的を、マルコによる福音書は「イエスを試そうとして」と記しています。つまり、マルコによる福音書は、ファリサイ派の人々の不信仰を取り上げているのです。
ファリサイ派の人々は、主イエスに敵対的な問いかけをしました。彼らは、主イエスに「天からのしるしを求め、議論をしかけた」のです。
12弟子たち同様に、ファリサイ派の人々も、主イエスの四千人の給食の奇跡に対して無理解でありました。マルコによる福音書は、12節の主イエスの「今の時代者たち」という言葉で、ファリサイ派の人々を、この世の時代における無理解な者たちの代表として登場させているのです。
「天からのしるし」は、天からの力ある御業です。奇跡のことです。ここでは、旧約聖書の出エジプト記第14-16章で主なる神が奴隷の地エジプトから神の民を救出され、荒れ野において主なる神は天からうずらとマナを降らせられ、神の民を養う奇跡をされたことと関係があると思います。
マルコによる福音書は、主イエスが四千人の給食の奇跡をなさることで、十分御自身が主なる神であると証しされたと信じたでしょう。
ところが、ファリサイ派の人々は主イエスが四千人の給食の奇跡をされたことを聞いても、口の不自由な人を癒された奇跡を聞いても、主イエスを主なる神が遣わされたメシアであると信じませんでした。
彼らは、次のように信じていました。この世の終わりに主なる神がメシアを遣わされ、彼は主なる神のように天からパン、すなわち、マナを降らせると。
そこで荒野でサタンが主イエスを誘惑したように、彼らは主イエスを誘惑して、こう言ったのです。「お前がメシアであるなら、主なる神が天からマナを降らせられたように、お前も天からパンを降らせてみよ。そうすれば、わたしたちはお前を信じよう。」と。
しかし、ファリサイ派の人々は、主イエスを試み、主イエスがメシアか否かを判断するために、主イエスに天からのしるしを求めました。マルコによる福音書は、主イエスが彼らの不信仰を深く嘆かれたと、12節で次のように記しています。
「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろうか。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」」
ファリサイ派の人々は、今のこの世の無理解な人々の代表者です。この世の人々は、目に見える驚くべき奇跡を求めるのです。それによって信仰が生まれると思うのです。
しかし、主なる神は、主イエスの四千人の給食の奇跡を通して、神の力ある御業を現わされました。
だから、主イエスは、「アーメン、わたしは言う」(「わたしははっきりと言う」)と宣言されます。
主イエスは、はっきりとファリサイ派の人々が主イエスを試み、天からのしるしを求めることを、不信仰であると宣言されます。
そして、主イエスは、彼らに御自分がメシアであることを、目に見える形で与えることをきっぱりと拒絶されました。
主イエスは、自ら進んでメシアとして病人を癒され、悪霊につかれた者から悪霊を追い出されます。しかし、この世の人々がファリサイ派の人々のように、主イエスがメシアであることを証明するために奇跡を行うように要求することには、きっぱりと拒絶されるのです。
マルコによる福音書は、主イエスが「はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と言われた言葉を、初代教会のキリスト者たちに伝えているのです。
主イエスをメシアであると証明することは、今日奇跡によって証明する必要はありません。天からのマナの奇跡が今の時代に与えられることはありません。なぜなら、今や聖書が完成し、聖書の証言だけで、わたしたちは主イエスがメシアであり、主なる神であることを信じることができるからです。
マルコによる福音書にとって、今も主イエスの奇跡が見られることよりも、神の子イエス・キリストの福音が語られ、聞かれる教会で共に愛餐するときに、復活の主イエスがわたしたちと共に居てくださり、わたしたちは神の子イエス・キリストを信じることこそ、最も重要なことなのです。
13節は、マルコによる福音書の編集句です。次の出来事へとつなぐ文章です。マルコによる福音書は、主イエスと12弟子たちがファリサイ派の人々とヘロデのパン種に気を付ける会話をしたことと、12弟子たちが四千人の給食の奇跡について無理解であったことを記しています。次週は、そのことを学びましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第8章11-13節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
どうか主イエスが今日も、礼拝において御言葉が語られ、聞かれる時に、わたしたちと共に居てくださり、わたしたちを憐れみ、この世の罪の世界からわたしたちを救われていることを信じさせてください。
わたしたちが不信仰にも、主イエスを試み、天からのしるしを求めることがないようにしてください。
どうかコロナウイルスの災禍からわたしたちをお救いください。次週、教会で聖餐式をします。御言葉と聖餐を通して、わたしたちの教会とわたしたちと共に居てくださる主イエスの恵みと慈しみを覚えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教37 2020年9月6日
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。一行はベトサイダに着いた。
マルコによる福音書8章14-22節a
説教題:「どうして理解できないのか」
今朝は、マルコによる福音書第8章14-22節前半の御言葉を学びましょう。
前回は、ファリサイ派の人々が主イエスを試みて、天からのしるしを求めたことを学びました。
主イエスは心の中で嘆かれて、彼らに答えられました。「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」(マルコ8:12)と。
「しるし」とは、「天からのパン」です。主イエスが神の子キリストであるという身分を証しするために、神が与えられる奇跡的な事柄であります。ユダヤ人たちの民間信仰において神が世の終わりにメシアを遣わされて、神は彼を通して天からのしるしを与えることが期待されていたのです。具体的には、ファリサイ派の人々は、主エスが出エジプト記のように天からマナを降らせて、御自身がメシアであることを証明することを望んだのです。
しかし、主イエスは、ファリサイ派の人々の不信仰を見抜かれて、彼らの要求を拒否されました。そして、主イエスは彼らを残して、弟子たちと共に舟に乗られ、ダルマヌタの地方を去られました。
今朝の御言葉は、主イエスと12弟子たちが舟でダルマヌタの地方からベツサイダに渡られる中での主イエスと12弟子たちとの会話であります。
22節前半に「一行はベトサイダに着いた」と、マルコによる福音書が記していますので、ベツサイダに着くまでの舟の中で主イエスと12弟子たちが議論したことが物語られています。
見出しに「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種」と付されています。この見出しは15節の主イエスの御言葉から取られています。
14節は、主イエスと12弟子たちが議論することになった出来事を記しています。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」
主イエスと共に舟に乗りました12弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまいました。舟の中にパン一つがあるだけでした。
「そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。」(15節)。
「パン種」は悪い意味で使われています。人の悪、悪意、偽り、偽善の意味で使われています。またその影響を意味します。
「ファリサイ派の人々のパン種」とは、彼らの見せかけの信仰深さです。彼らは、神の律法を守ることを強調しました。しかし、それは見せかけのものでした。だから、隣人愛に欠けていました。隣人を愛するよりも、律法で隣人を裁きました。そのように彼らが律法によってユダヤ民衆を裁くので、民衆は飼い主のいない憐れな存在となっていました。彼らの見せかけの敬虔が神の御前に多くの罪人を作っていました。
他方「ヘロデのパン種」とは、世俗の権力の乱用のことです。それによって民衆たちは搾取されていました。この「ヘロデ」は人名ですが、主イエスは政治的野心の意味で使われています。政治的野心から人々は、世俗の権力を乱用します。そして神が愛されている民を、彼らは傲慢にも、搾取し、虐げるのです。
このように主イエスは、12弟子に彼らの諸々の悪に気を付けるように警告されたのです。
ところが、12弟子たちは、16節でパンを持って来るのを忘れ、そのことで互いに心配そうに議論していました。マルコによる福音書は、こう記しています。「弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。」
それに気づかれた主イエスは、彼らに17節前半で「「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか」」と言われました。
以上が、マルコによる福音書以前に初代教会に伝わっていたものでしょう。主イエスは、12弟子たちに御自身と共にいるのであるから、一切思い煩う必要はないことを教えようとされたのでしょう。
ところが、マルコによる福音書は、わたしたち読者に12弟子たちの無理解を伝えようとしたのです。
そのために12弟子たちがパンを持って来るのを忘れ、舟の中にパンが一つしかない状況を設定しました。次に主イエスが12弟子たちにファリサイ派の人々とヘロデのパン種を警戒せよと言われると、12弟子たちは自分たちがパンを持ってこなかったからだと、全く的外れなことを論じ合っていることを記しました。
そして、主イエスが彼らの議論に気づかれて「「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか」」と言われ、17節後半から18節で「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」と言われ、12弟子たちの無理解を暴露されました。
「まだ、分からないのか。」という主イエスの最初の問いは、これまでマルコによる福音書が記して来た12弟子たちの無理解を前提にした主イエスの問いです。4章13節と7章18節の主イエスの御言葉のように、問いを重ねる形で主イエスは、ここでも12弟子たちを叱責されています。これは、マルコによる福音書の文学的手法です。それによってわたしたち読者にどんなに12弟子たちが主イエスに対して無理解であったかを強調しているのです。
そして、マルコによる福音書は、わたしたち読者にどうして12弟子たちは無理解であるのかを伝えようとしているのです。それは、まだ主イエスを通して神の御国の存在と力が現されていないからです。主イエスが神の子イエス・キリストであることが秘密にされています。隠されているのです。
主イエスは、彼らに「心がかたくなっているのか。」と言われていますね。心を固くすることは、理解できないでいるという意味です。わたしたちが自分の心を頑なにしますので、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」という状態になるのです。
わたしたちは、既にマルコによる福音書の7章31-37節で主イエスが耳の聞こえない、そして口がきけない人を癒された奇跡物語を学びました。そして、次週に8章22節b-26節で主イエスが目の不自由な人を癒される奇跡物語を学びます。
その間に今朝の主イエスの12弟子たちが主イエスに対して無理解であったという記事があるのです。
ですから、この12弟子の無理解というマルコによる福音書の視点から、その二つの奇跡物語を読み直すときに、マルコによる福音書から次のメッセージが聞こえてこないでしょうか。主イエスに癒された人は、まさにわたしたちなのだというメッセージです。わたしたちは身体的には目が見えています。耳も聞こえています。しかし、霊的な耳と目は不自由な者たちであります。
主イエスがわたしたちの霊の目と耳を開いてくださらないと、わたしたちは主イエスを神の子イエス・キリストと信じ、受け入れることはできません。
わたしたちは、心を固くする霊的に目が見えない者であり、霊的耳で聞くことの出来ないものです。だからこそ、毎週日曜日の礼拝ごとに十字架の御言葉を聞き続けるのです。聖霊がわたしたちの石の心を肉の心に変えてくださり、キリストに由り頼む信仰をいただかない限り、わたしたちは心を固くし、主イエスを、主イエス・キリストの福音を理解できないのです。
今朝は、この後聖餐式の恵みにあずかります。
次の主イエスの御言葉から聖餐の恵みを覚えましょう。「覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。」(18-20節)。
「覚えていないのか」は、文字通りには「あなたがたは覚えていないのか」です。これは、宣教されたイエス・キリストを記憶に留めていないのかという意味です。
主イエスは、12弟子たちが御自身を記憶に留めるために、二つのパンの奇跡を、彼らに思い起こさせられました。それらの奇跡を、彼らが思い起こせば、彼らは主イエスが誰であるかを深く理解できるに違いないと、主イエスは思われたのです。
教会で礼拝説教を聞き続けることは、常に心が固くなっているわたしたちがキリストの十字架によって罪を赦され、信仰を得て命に至るために必要です。
そして、礼拝における聖餐式と教会における愛餐は、主イエスが常にわたしたちと共にいてくださることを確信し、主イエスとの交わりに生きる信仰を強めるために必要です。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第1章3-4節でこう述べています。「肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中から復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」
使徒パウロは、ダビデの子孫から生まれ、死人の中から甦られた主イエス・キリストを聖餐式ごとに覚えておきなさい。わたしたちの教会で語られているキリストの福音にしたがってと述べているのです。
どうか神の子イエス・キリストの福音を、毎週日曜日の礼拝ごとに聞き続けてください。また聞き続けている宣教された主イエス・キリストを、聖餐式ごとに記憶に留めてください。そうすれば、わたしたちは、主イエスや12弟子たちの時代から2千年以上離れていても、無理解な12弟子たち以上に深い霊的な理解を得ることができるに違いありません。信仰を強めて、御国の到来を希望を持ち待ち続けることができるに違いありません。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第8章14-22節aの御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
今朝は、12弟子たちの主イエスに対する無理解を学べて感謝します。わたしたちも12弟子たちと同じように、心が固くて、主イエス・キリストを理解できない者です。しかし、毎週の日曜日の礼拝において御言葉が語られ、聞かれる時に、わたしたちは聖霊を通して石の心を肉の心に変えていただき、キリストの十字架によって罪を赦され、信仰による義と命をいただき、聖餐式ごとにキリストの十字架と復活を記念し、御国への希望に生かされ、信仰を強めていただき感謝します。
どうか、コロナウイルスと台風十号の災禍の中で礼拝を守っています。主イエスよ、わたしたちと共に居てください。わたしたちを憐れみ、この世の罪の世界からわたしたちを解放してください。御国の一員として永遠の命の希望に生かしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教38 2020年9月13日
人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何が見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
マルコによる福音書8章22節b-26 節a
説教題:「何が見えるか」
今朝は、マルコによる福音書第8章22節後半-26節の御言葉を学びましょう。
前回は、12弟子たちが主エスに対して無理解であったことを学びました。
主イエスと12弟子たちは、舟に乗り、ゲルマヌタの地方を離れられ、ベトサイダに向かわれました。12弟子たちはパンを持って来るのを忘れました。舟の中にはパンが一つしかありませんでした。
舟の中で主イエスは12弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められました(15節)。
ところが、12弟子たちは、主イエスのお言葉を自分たちがパンを忘れたからだと勘違いし、パンのことで互いに心配そうに議論していました。
それに気づかれた主イエスは、彼らに「「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか」」(17節前半)と言われました。
主イエスは気づかれたのです。彼らが全く的外れなことを議論したからです。彼らは主イエスを全く理解していませんでした。
だから、主イエスは彼らを叱責されました。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」(17節後半—18節)と。
主イエスは、問いを重ねておられます。それによって主イエスは、どんなに12弟子たちが主イエスに対して無理解であったかを強調されています。
彼らの無理解の原因は、彼らの心が固かったからです。だから、主イエスは「心がかたくなっているのか。」と問いかけられています。心を固くすることは、理解できないでいるという意味です。12弟子たちの心が固いので、彼らは「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」という状態でした。全く主イエスを理解していませんでした。
そこで主イエスは、彼らにパンの奇跡を思い起こさせようとされました。五千人と四千人を五つのパンと七つのパンで養う奇跡をなさった主イエスを、彼らが思い起こすように促されました。
主イエスは、それらの奇跡を、彼らが思い起こせば、彼らは主イエスが誰であるかを深く理解できるに違いないと思われたのです。
こうして主イエスと12弟子たちは、ベトサイダに着きました。すると、人々が主イエスのところにやって来ました。
マルコによる福音書は、22節後半でその様子を次のように描いています。「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。」
マルコによる福音書は、7章31-37節で主イエスが耳の聞こえない、そしてしゃべれない人を癒された奇跡を記していましたね。その記述と今朝の御言葉とがよく似ております。違いは結末に人々の賞賛があるかないかです。
マルコによる福音書は、主イエスの癒しの奇跡を、定まった形式で描いています。まず主イエスが登場されます。次に人々が病人を連れて来ます。そして主イエスに手で触れて、癒してくださいと懇願します。主イエスは病人を人々の外に、あるいは村の外に連れ出されます。そして主イエスは癒しを行われます。それから主イエスは病人が癒されたことを確認されます。その後主イエスは癒された者にこの癒しの奇跡を秘密にせよと命令されます。
しかし、この二つの奇跡物語は先ほどお話ししましたように結末が異なっています。前者は主イエスの秘密保持の命令にもかかわらず、主イエスの癒しの奇跡は人々の目にさらされ、人々の賞賛を得ます。後者の今朝の御言葉は主イエスが癒された者を人々のところに戻さないで、彼の家に遣わされています。
今朝の御言葉の癒しの奇跡の面白さは、主イエスが癒しを段階的になさっている事です。一回の癒しでなく、二回にわたって癒しの奇跡をなさっています。
ある解説書は、「魔術の方法を記した古代のパピルスにおいても、むずかしい治療は段階的に行われている。」(川島貞雄『福音書のイエス・キリスト2 マルコによる福音書』日本キリスト教団出版局 P139)と記しています。
では主イエスの段階的な治療を見てみましょう。
「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何が見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」(23—25節)
主イエスは、目の不自由な人の手を取り、村の外に連れ出されました。12弟子たちはついて来たでしょう。
主イエスは第一回目の治療をされ、彼の両目に唾をつけて、主イエスの両手をその人の上に置かれました。
そして主イエスは盲人に言われました。「何か見えるか」と。すると盲人はぼんやりと見えるようになりました。「「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」」と答えました。
イングリシュバイブルは、次のように英訳しています。「男の視力が戻り始めた。そして彼は言った。『わたしは人が見える。彼らが木のように見える。しかも、彼らは歩き回っている。』」
それから主イエスは、第二回目の癒しをなさいます。主イエスは、もう一度両手を彼の目に当てられました。すると、盲人の目は癒されて、よく見えるようになりました。マルコによる福音書は、「何でもはっきり見えるようになった。」と記しています。盲人は今癒されて、何でもはっきりと見ることができるようになりました。
マルコによる福音書がこのように主イエスの癒しの奇跡を段階的に描いていますことから、わたしたちは次のことを理解すべきでしょう。
第一に古代において盲人の治療がどんなに困難であったかということです。それは、まさに奇跡に等しいことであったということです。
だから、第二に旧約聖書のイザヤ書においてはこうした癒しの奇跡は終末の約束でありました。預言者イザヤは、次のように終末の約束として、癒しの奇跡を預言しています。
「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉すら聞き取り 盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる」(イザヤ29:18)、「そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く」(イザヤ35:5)と。
マルコによる福音書は、まさに「その日」「そのとき」に、今主イエスがガリラヤにおいて目と耳の不自由な人を癒す奇跡をなさっているのだと証言しているのです。
しかし、マルコによる福音書がわたしたち読者に伝えたいことは、この奇跡を通して読者であるわたしたちもまた、12弟子たちと同様に主イエスに対して無理解なものであるということです。
だから、先週お話ししましたように、12弟子たちとわたしたちの無理解という視点から二つの癒しの奇跡を読み直す必要があります。
マルコによる福音書は、そのような視点で、先週の12弟子たちの無理解という出来事を、この二つの奇跡物語でサンドイッチにして描いています。
ですから、今朝の盲人の癒しの奇跡物語は、12弟子たちの無理解と関連付けられているのです。
この盲人と耳が聞こえない人は、霊的な目で見られない人、霊的な耳で聞けない人をたとえているのです。
12弟子たちとわたしたちは、目が見え、耳が聞こえます。しかし、主イエスのことを理解していません。霊的目と耳は不自由です。
それゆえにこそ、マルコによる福音書は、わたしたちの霊の目がこの盲人のように主イエスの御言葉、すなわち、神の啓示に対して開かれなければならないと述べているのです。
マルコによる福音書は、次のことをわたしたちに伝えたいのです。この盲人のように12弟子たちとわたしたちの霊的盲目も、主イエスによって段階的に癒されるということです。
12弟子たちとわたしたちの霊的な目が開くのは、この盲人のように主イエスの御言葉によるのです。主イエスは盲人に「何が見えるのか」と問いかけられます。同じように主イエスは、これから12弟子たちに「人々はわたしを何者と言っているか」と問いかけられます。こうしてペトロが12弟子たちを代表して「メシア」ですと答えます。
しかし、ペトロも他の弟子たちも、主イエスをぼんやりと見ているのです。だから、主イエスがその後受難予告なさると、ペトロは自分の無理解を公にしています。それでも主イエスは、あきらめないで山上の変貌の奇跡を通して、再びカファルナウムに戻り、弟子たちを教育することを通して、彼らの無理解を克服しようとされます。そして10章から主イエスと12弟子たちのエルサレムへの旅が始まるのです。
わたしたちも12弟子たちと同じです。主イエスは、わたしたちを、この教会の礼拝へと招かれます。そしてここでわたしたちは12弟子たちと同じように、主イエスの御言葉を聞き続けるのです。
今朝の御言葉において主イエスは、わたしたちにも「何が見えるか」と尋ねられます。わたしたちはぼんやりと主イエスを見ているのです。
顔と顔を合わせて、御国では主イエスと出会うでしょう。しかし、今はおぼろに見ているのです。
わたしたちは、ペトロのように信仰告白し、洗礼を受けて、教会員となりました。でも今ここにわたしたちと共に居てくださる主イエスを見ることができるでしょうか。
実際に肉の目で見ることではありません。信仰の喜びに溢れて、わたしたちが信仰の実りとしての魂の救いを確信している事です。
使徒ペトロがペトロの手紙一の1章8-9節で、こう述べています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
癒しの奇跡そのものは、素晴らしいことですが、それが福音なのではありません。福音は、主イエス・キリストを伝えることです。だから、マルコによる福音書は、神の子イエス・キリストの福音を伝えるために書かれたのです。
福音は、主イエス・キリストの素晴らしさを、言い尽くせない喜びを、人々に伝えることです。それは、伝えるわたしたちがペトロの言うように、主イエス・キリストによって「信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。
この喜びは、この礼拝で主イエス・キリストの福音を聞き続ける中で生まれるものです。主イエス・キリストの霊である聖霊が説教の御言葉と共に働いて起こしてくださる奇跡です。
ここで十字架のキリストの御言葉が語られ、聞かれます時に、聖霊がわたしたちの心の盲目を癒してくださるのです。そして聖霊は、キリストの十字架がわたしたちの罪のためであることを説得し、わたしたちの心が罪を悔い、主イエスを信じて、主イエスに従うようにしてくださるのです。
本来神に背を向けて生きるのが、この世における人間の真の姿です。しかし、この教会に、またこの教会と同じような小さな教会で、わたしたちと同じように主イエスに礼拝に招かれ、礼拝でキリストの福音が語られ、聞かれ、主イエスを目で見てはいないのに、言い尽くせない喜びに満たされた者たちがいるのです。
彼らは、盲人のように主イエスに教会から家に遣わされます。そして主イエス・キリストの福音を家族に喜びをもって伝えるでしょう。言葉にしなくても、態度で表すでしょう。これこそが、わたしたちの身に起こっている奇跡なのです。
この現代の無神論と科学至上主義の時代にあって、神よりもお金が力あると拝金主義の人々が満ちている世にあって、主イエスを信じている群れが存在している事、神の子イエス・キリストの福音を伝えるキリスト者がいること、これこそが奇跡そのものであります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第8章22節後半-26節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
今朝は、主イエスが盲人の目を癒された奇跡を学ぶことができて感謝します。
わたしたちは12弟子たちと同じように、肉の目は見えても、霊の目を開き、主イエス・キリストをはっきりと見て、理解できない者です。
しかし、今朝の御言葉によって、毎週の日曜日の礼拝において神の御言葉を聞き続けることが、大切であることを学ぶことができて感謝します。
どうか、主イエスよ、わたしたちの石の心を、肉の心に変えてください。御霊の導きにより、聖書を通して、わたしたちの罪を、キリストの十字架によって罪を赦され、信仰による義と命をいただく恵みを見させてください。
わたしたちがキリストの福音を伝える者であることが神の奇跡であることを信じさせてください。
何時の時代も、この世は困難な中にあります。どうか、コロナウイルスの災禍の中で今日も礼拝を守り、キリストの福音を聞く機会が与えられ、この恵みを感謝します。
どうか、主イエスよ、わたしたちと共に居てください。わたしたちにあなたを見ていなくても、あなたの福音を通して神の愛と恵みの喜びに見たいしてください。
今から我が家に帰ります。どうか、わたしたちもこの盲人のように、主イエスよ、我が家に遣わしてください。家族に主イエス・キリストを信じる喜びを伝えることができるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教39 2020年9月20日
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者と言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『預言者の一人だ』という人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
マルコによる福音書8章27-30節
説教題:「ペトロの信仰告白」
今朝は、マルコによる福音書第8章27-30節の御言葉を学びましょう。
前回は、主エスがベトサイダで一人の盲人を癒された奇跡を学びました。
主イエスと12弟子たちが舟でベトサイダに着きますと、人々が一人の盲人を連れて来て、主イエスに触れていただきたいと懇願しました。そこで主イエスは、盲人を村の外に連れ出されました。
そして、主イエスは、彼を二度の治癒行為によって癒されました。最初主イエスは、彼の目に唾を塗られ、両手を彼に置かれました。主イエスが彼に「何が見えるか」とお尋ねになると、盲人は「木のように見えます。人々が歩き回っています」と答えました。
そこで主イエスは両手を盲人の両目に当てられました。すると、盲人の目ははっきりと見えるようになり、彼は癒されました。
主イエスは、癒された盲人に「村に入るな」と命じて、彼を彼の家に帰されました。
わたしたちは、主イエスの癒しの奇跡物語を、12弟子たちの主イエスに対する無理解という視点から読み直しました。そこで盲人は、主イエスに対して無理解である12弟子たちやわたしたちであることを教えられました。
マルコによる福音書は、次のことをわたしたちに伝えていたことを学びました。この盲人のように12弟子たちとわたしたちの霊的盲目も、主イエスによって段階的に癒されるということです。
だから、わたしたちは、12弟子たちと同じように、主イエスの御言葉を何度も聞き続けなければなりません。
わたしたちが毎週の日曜日に繰り返しこの礼拝で十字架のキリストの福音を聞きます時に、聖霊である主イエスがわたしたちの心の盲目を癒してくださるのです。そして聖霊である主イエスは、御自身の十字架がわたしたちの罪のためであることを説得し、わたしたちの心が罪を悔い、主イエスを信じて、主イエスに従うようにと、導いてくださるのです。
さて、今朝は、ペトロの信仰告白について学びましょう。
マルコによる福音書は、8章27節で「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。」と記しています。
主イエスは、12弟子たちと一緒にベトサイダを離れて、フィリポ・カイサリア地方に出かけて行かれました。
そこはヘルモン山の麓、ヨルダン川の水源にありました。ヘロデ大王の息子フィリポの支配する地域でした。多産の神パンの聖所があり、その近くにヘロデ大王がローマ皇帝アウグストゥスの神殿を建てていました。フィリポが町を建てて、ローマ皇帝に敬意を払い、町の名をカイサリアと名付けました。同じ名の町が地中海沿岸にありますので、自分の名を加えて、フィリポ・カイザリアと呼んでいました。
主イエスは、12弟子たちと一緒にその地方の村々を訪れようとされていました。その途上で一つの事件が起こりました。
27節後半から28節です。「その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者と言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『預言者の一人だ』という人もいます。」」
きっと主イエスと12弟子たちは歩きながら、会話されていたでしょう。主イエスは、12弟子たちに「人々は、わたしのことを何者と言っているか」とお尋ねになりました。12弟子たちは、主イエスにすぐに次のように答えました。「「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』という人も、『預言者の一人だ』という人もいます。」」。
これは、すでにマルコによる福音書の6章14-16節に記されています。主イエスのガリラヤ宣教がガリラヤ中の人々に知れ渡りました。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの耳にも入りました。
マルコによる福音書は、次のように記しています。「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。『洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。』そのほかにも、『彼はエリヤだ』と言う人もいれば、『昔の預言者のような預言者だ』と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」
12弟子たちの答も同じです。彼らは、次のように答えたのです。人々は言っています、洗礼者ヨハネの再来であると、また預言者エリヤの再来であると、そして預言者の一人が再来したのだと。
そこで主イエスは、12弟子たちが主イエスをどう見ているのかを尋ねられて、29節で次のように言われています。「「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」」
ペトロが12弟子たちを代表して、次のように答えます。「「あなたは、メシアです。」」
主イエスと12弟子たちの問答は、初代教会において何度も議論されたでしょう。まさにキリスト教会は、主イエスとは誰であるかを繰り返し信仰告白し続けてきているのです。
そして教会の中で主イエスを、洗礼者ヨハネの再来か、預言者エリヤの再来か、あるいは他の預言者の一人が再来したのかと当てはめてみたのでしょう。要するにユダヤ人たちが待望していた方を、主イエスに当てはめたのです。
ペトロは、12弟子たちを代表して、すなわち、初代教会は主イエスを、メシアであると信仰告白しました。主イエスを、旧約の神の民たちが待ち望んだメシア、すなわち、キリストに当てはめました。
ところが、不思議なことに、主イエスはペトロの信仰告白を誉められません。主イエスは、彼らに「よく言った」と。
むしろ、マルコによる福音書は30節で次のように記しています。「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」
イングリシュバイブルは、そこを次のように英訳しています。「その時彼は、彼らに彼について誰にも告げないように、厳しく命令した。」
主イエスは、12弟子たちに対して御自分のことを、御自分がキリストであることを、誰にも告げるなと、とても厳しい口調で沈黙するように命令されたのです。
この不自然さを、後にマタイによる福音書は修正しています。ペトロの信仰告白を、主イエスはお誉めになり、祝福されて、彼に「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とお答えになっています(マタイ16:17)。
マタイによる福音書の方が自然の流れだと思うのです。福音書が信仰教育の役割を持つことを考えるならば、です。
どうしてマルコによる福音書は、マタイによる福音書のように記していないのでしょうか。主イエスは、ペトロの信仰告白に対して「わたしのことをメシアと、人々に告げるな」と厳しい沈黙の命令をされたのでしょうか。
この30節の御言葉を理解することこそ、マルコによる福音書を理解するカギなのだと、わたしは思うのです。
この30節の御言葉に立って、この福音書の中でキリスト告白しているところを見てみますと、3章11-12節で悪霊が主イエスを「あなたは神の子だ」と叫んだ時に、主イエスは「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」と、マルコによる福音書は記しています。
また先ほどの6章14-16節でヘロデ・アンティパスが主イエスを告白しているところも、マルコによる福音書は好意的に記してはいません。
どうもマルコによる福音書は、主イエスを既成の称号に当てはめることに違和感を覚えているのです。すなわち、「主イエスは人の子である」、「主イエスはダビデの子である」、「主イエスは良き師である」。こうした主イエスを誰と定義するのかということに、マルコによる福音書は、違和感を覚えていると思います。
どう表現するとよいのでしょうか。ペトロの信仰告白は、正しいです。しかし、今日流の言い方をすれば、マルコによる福音書にとって、それは観念にすぎません。ただの言葉にすぎないのです。
その証拠に、これから主イエスは、12弟子たちに三度受難予告をされます。そして主イエスは12弟子たちに御自身の十字架を負うて従うように、命じられます。すると、「あなたはメシアです」と信仰告白したペトロは、真っ先に主イエスを戒めて反対するのです。
マルコによる福音書は、ある意味で正しい信仰告白がペトロのように、あるいは他の11弟子たちのように、ある人生の岐路に立った時、困難に出会ったとき、役に立たないことを知っているのではないでしょうか。
こう考えて見てください。わたしたち日本改革派教会は、ウェストミンスター信条という立派な信仰告白を持っています。そして熱心に学んでいます。それ以外にもハイデルベルク信仰問答、ジュネーブ信仰問答を、信仰教育のために学んでいます。
どんなに学んでも、生きた主イエスに出会わなければ、意味がないのではありませんか。だから、マルコによる福音書は、他の福音書とは違い、生きたキリスト、生きてガリラヤで宣教され、多くの病人たちを癒されるキリストを、数々の奇跡をなさるキリストを描こうとしているのです。今このわたしたちが生きる世界に生きられたキリストを、わたしたちと同じようにこの世界に生きて、十字架の道を歩まれた主イエスを描こうとしているのです。
わたしの一番好きな讃美歌、187番、ここにマルコによる福音書に描かれた主イエス・キリストが歌われています。ガリラヤで説教され、癒された主イエスが、教会の礼拝で語られるキリストとして、わたしたちのところに来てくださり、わたしたちにも生きる命をお与えくださいます。毎週の礼拝でわたしたちは、礼拝説教で語られる神の御言葉を通してガリラヤで生きて働かれたキリストが、今ここでわたしたちに罪の赦しと永遠の命の御言葉を、わたしたちの霊的な糧としてお与えくださるのです。
わたしたちは、聖書を持っている事、信条を持っている事、毎週の礼拝でその聖書の説き明かしである神の御言葉を聞き、教理を学べる事に感謝しましょう。
いつの時代でも、生けるキリストに出会った信仰の先輩たちがいます。今も生けるキリストに出会っている仲間がいます。
マルコによる福音書が描く神の子イエス・キリストは、ガリラヤにおいて生きられたように、今この世において聖霊と御言葉を通してわたしたちと共に生きてくださるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第8章27-30節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
今朝は、ペトロの信仰告白を学ぶことができて感謝します。
わたしたちは、ペトロのように「主イエスはキリストである」と信仰告白しました。しかし、マルコによる福音書が指摘しますように、生きたキリストに出会わなければ、その信仰告白に力と慰めがないことを実感する者です。
同じように信仰告白しながら、この教会を離れた方々を覚えるものです。また、わたしたちも教会を離れるという弱さを知る者です。
どうか、聖書の御言葉に、教理の学びにわたしたちが慰めと力を得るために、聖霊をお与えください。主イエスよ、聖霊と御言葉を通して、今この世に生きるわたしたちと共にいてください。
どうか、毎週の日曜日の礼拝において神の御言葉を聞き続け、日々の中に主イエスの恵みと助けを見させてください。
どうか、御霊をお与えくださり、聖書を通して、キリストの御救いを見させてください。わたしたちの罪がキリストの十字架によって赦され、キリストを信じる信仰によって義とされ、神の子とされ、永遠の命のいただいている恵みを見させてください。
どうか、わたしたちがこの教会から離れることなく、主イエスと共に、御国への旅を続けさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教40 2020年10月4日
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」
マルコによる福音書8章31節‐9章1節
説教題:「主イエスの死と復活の予告」
今朝は、マルコによる福音書第8章31節-9章1節の御言葉を学びましょう。
前回は、ペトロの信仰告白を学びました。
実は、マルコによる福音書はペトロの信仰告白から新たな展開を始めております。主エスは、12弟子たちに御自身の受難と死と復活を予告されます。
マルコによる福音書の目が主イエスのガリラヤ宣教から、主イエスがエルサレムに行かれ、そこで受難と死と復活をなさることへと方向を変えています。
マルコによる福音書は、1-9章で主イエスのガリラヤ宣教をなさったことを物語りました。そして10-16章で主エスがエルサレムへと行かれて、そこで主イエスの受難と死と復活の出来事を物語ります。
マルコによる福音書は、8章27節から10章で、主イエスがガリラヤからエルサレムへと方向転換されるいろいろな出来事を記しています。その最初がペトロの信仰告白の出来事です。それはペトロ個人ではなく、12弟子たちの信仰告白でした。
主イエスは、12弟子たちに人々が主イエスのことを何と言っているかと質問されました。その後で主イエスは12弟子に向かって「あなたがたはわたしを誰と言うのか」と質問されました。その時ペトロが「あなたはキリストです」と、12弟子たちを代表して答えました。
続いてマルコによる福音書は、主イエスが御自身の受難と死と復活を予告されたことを記します。ところが、ペトロは主イエスを弟子たちのところから連れ出して、主イエスと戒めたと、マルコによる福音書は記しています。
ペトロも他の弟子たちも、主イエスが受難のメシアであることが理解できませんでした。彼らは主イエスを政治的メシアであると思っていたのです。主イエスがこの世の王になられると思っていたのです。
だから、ペトロは主イエスにあんな予告はしないでくださいと、激しい口調で戒めたのです。ところが主イエスは、彼だけでなく、他の弟子たちを振り返りながら、ペトロを厳しく叱責されました。
ペトロは、主イエスに「サタン」と呼びかけられて叱責されています。その理由は、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」からです。
以上のマルコによる福音書の記述を理解するカギは、31節の御言葉にあります。「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」
このところにギリシャ語の「デイ」という言葉が使われています。「必ず・・・ことになっている」と訳されていることばです。
イングリシュバイブルは、31節を次のように英訳しています。「彼は彼らに教え始められた。『人の子は大受難を受けなければならない。そして、長老たちと祭司長たち、そして律法学者たちに拒絶され、死に、その後三日目に復活しなければない。』」
この「しなければならない」がギリシャ語の「デイ」という言葉です。この言葉は無制約的必然を表わしています。
マルコによる福音書が記す主イエスの「人の子は必ず多くの苦しみを受け・・」という御言葉は、「聖書に書いてある通り」に即応する言葉として、初代教会の中で定着していました。
主イエスが言われる「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」という予告の御言葉は、「旧約聖書に書いてある通り」に神の道の在り方に基礎付けられています。父なる神の永遠の御計画なのです。
先週、詩編118編の御言葉を学びましたね。詩人は、118編の22節でこう賛美していますね。「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった」と。これは、同盟軍のエドム人らから神の民イスラエルは捨てられ、バビロンに捕囚されました。しかし、主なる神はバビロンの捕囚から神の民を帰還させて、神殿とエルサレムの城壁を再建させて、世界中から神の民を集められました。
初代教会は、この「隅の親石」を主イエス・キリストに当てはめました。主イエスがお語りになったように、主イエスは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、墓に葬られました。ところが父なる神は主イエスを復活させられ、このキリストによって世界の民を救われたのです。
それだけではありません。この親石は、主イエス・キリストの弟子たちです。彼らは、ユダヤ人たちや異邦人たちから、そしてこの世から迫害され、殺されました。キリストの十字架の血と彼らが流した殉教の血によってこの世にキリスト教会が立てられ、世界の民たちの救いとなりました。
それゆえにマルコによる福音書は、主イエス・キリストがガリラヤからエルサレムへと歩まれた道、エルサレムでの御受難と死と復活を、旧約聖書で神が御言葉で約束されたことの成就であると理解しているのです。主イエスは、父なる神がご計画された通りに、ガリラヤからエルサレムへと歩まれ、必ず御受難と死と復活をなさることになっているのです。
マルコによる福音書は、「しかも、そのことをはっきりとお話しになった。」(32節前半)と、主イエスの御受難と死と復活の予告を記しています。
今朝の31節は、第一回目の主イエスの受難と死と復活予告です。この後9章30-31節で、10章32-34節で主イエスは後二度この予告を繰り返されています。
マルコによる福音書がペトロの信仰告白と主イエスの受難と死と復活の予告を組み合わせて物語ったのです。
その目的は、今朝の御言葉を読んでいますと、三つあります。第一に12弟子たちが主イエスを受難のメシアとして理解できなかったからです。第二にマルコによる福音書は、主イエスのこの予告によって主イエスの敵対者を明らかに述べています。「長老、祭司長、律法学者たち」、すなわち、エルサレムの最高法院を構成するメンバーたちが主イエスを排斥し、殺したのです。そして、第三にマルコによる福音書は、主イエスが弟子たちの真の姿を明らかになさったことを述べています。それは、主イエスの御後に信従する弟子たちです。彼らも、主イエス同様に自分の十字架を負う者です。彼らの殉教の道です。
マルコによる福音書は、34節と35節で、次のように主イエスの御言葉を伝えています。「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
マルコによる福音書にとっては、主イエスの12弟子たちだけが主イエスの御後に従う弟子なのではありません。名も無き群衆たちもまた、主イエスの御後に従う弟子たちなのです。
だから、主イエスは彼らにも、御自身の御後に従うように、お勧めになるのです。主イエスは、これから御自分を捨てて、御自分の十字架を背負い、死への道を歩まれます。主イエスは、群衆たちにも同様に自分の十字架を背負って、御自分の後に従えと勧められています。それは、殉教の死です。
主イエスの御後に従う弟子たちは、主イエスのために、教会が宣教していますキリストの福音のために、自分の十字架、すなわち、殉教の死を恐れないで、主イエスの御後に従って歩まなければならないのです。
そして、主イエスの弟子たちの殉教の死は、主イエス同様に、肉体の死です。しかし、父なる神が主イエスを復活させてくださったように、主イエスの御後に従う弟子たちを、主イエスは死から新しい命に復活させてくださるのです。
それが主イエスを死人の中から復活させられた父なる神の思いなのです。主イエスは、父なる神が思われ続けておられることを思い続けてくださるのです。
サタンは、主イエスとわたしたちをこの世へと目を向けさせます。神が思われていることではなく、人が思っていることへと向けさせようとします。
この世に生きる人は、限りない欲望に身を委ねて生きるのです。極端に言えば、お金が人生です。それを手に入れるために、多くの人々が労苦しています。人生の成功者になろうとしています。
しかし、死が訪れると、どんなに全世界を手に入れても、無に帰します。諺に「命有っての物種」という言葉があります。生きていてこそ、何事もできるという意味です。命が一番大切だという意味です。
わたしの命、この世で限りのあるひとつの命です。失われれば、もうわたしはこの世に存在しないのです。だから、自分の命がこの世からなくなれば、わたしもこの世から消え、何の得も、益もありません。
更に、一度失われた命は、誰も取り戻すことができないのです。自分の愛するわが子の命と自分の命を交換することはできません。誰も人は、身代わりに死ぬことはできません。また、どんなにお金で命の代価を支払おうとしても、死んだ人の命を生き返らせることはできないのです。
ところが一人だけ、例外があります。主イエス・キリストです。彼は、自らの十字架の横木を担って、ゴルゴタの丘へと歩まれました。そして十字架刑によって殺され、墓に葬られました。しかし、父なる神は、彼を死人の中から復活させられたのです。そして復活の主イエスは、命の君となり、わたしたちのために命を得られたのです。
マルコによる福音書は、主イエスの御後に従う弟子たちの歩みを、キリストの再臨の日まで望み見ています。それが38節と9章1節の主イエスの御言葉です。
ここでこの世の罪深い世界と神の国の力強い現われが対照的に描かれています。
地の国と神の国の対比だと思います。
地の国であるこの世は、罪深い世界であり、人々は神に背を向けて生きています。力が褒め称えられ、成功が賛美されます。メシア、キリストが十字架で死ぬことは、弱さであり、愚かさであります。だから、人々は力なきキリストを、愚かだと、恥じるのです。人々は十字架のキリストを見て頭と首を振り、軽蔑しました。だから、主イエスは、御自身が父なる神の栄光を伴って、聖なる天使たちと一緒に再臨されるときに、御自身と十字架の福音を恥じる者たちを恥じると言われました。
反対に主イエスの御後に従う弟子たちと群衆に、次のように祝福の御言葉を告げられました。「ここに一緒にいる人々の中に」と、主イエスは、わたしたちのこの日曜日の礼拝の集まりを祝福されています。
主イエスは、わたしたちに「神の国が力にあふれて現れるのを見る」と言われて、主日礼拝の中でわたしたちは神の国が力溢れて現れているを見ることができると約束されています。
この主イエスの御言葉から、わたしは日本キリスト改革派教会の二十周年記念宣言の次の言葉を思い起こします。「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう。」
今朝の礼拝においてわたしたちが礼拝において朗読される聖書の御言葉を聞き、解き明かされる説教を聞き、そして聖餐式の恵みに与ります時に、キリストの臨在される神の御国が力溢れる姿で現れているのです。主イエスは、それを見るまで死なない者がこの中にいると、約束してくださいました。
主イエスの御後に従う弟子たちは、この後主イエスが復活し、昇天され、聖霊降臨によってキリスト教会が誕生する出来事に出会うでしょう。聖霊をいただき、信仰による命に生かされ、神の御国の喜びをキリスト教会の礼拝を通して味わうのです。
どうか主の日の礼拝を通して神の御国が力溢れる姿で現れていることを、わたしたちの信仰によって味わってほしいと思います。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第8章31節-第9章1節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
今朝は、主イエスの受難と死と復活の予告を学び、ペトロと弟子たちが受難のメシアに無理解であり、信仰告白だけでは、キリスト者として不十分であり、主イエスの御後に従い、殉教の死をも恐れないことの重要性を学ぶことができて感謝します。
わたしたちは、ペトロのように「主イエスはキリストである」と信仰告白しました。しかし、マルコによる福音書はわたしたちに主イエスの御後に従い、殉教の死にいたるまで歩むように励ましています。
死は、わたしたちにとって恐れですが、復活の主イエスが永遠の命に生かしてくださいます。復活のキリストの命に生きるのが、この世での礼拝です。
どうか、わたしたちが毎週の礼拝で聖書の御言葉の朗読を聞き、その御言葉の説き明かしである説教を聞き、そして聖餐の恵みに与り、この教会の礼拝において神の御国が溢れる御力を表わすのを見させてください。
これから聖餐式の恵みにあずかります。臨在の主イエスよ、わたしたちの主人として、パンとぶどう酒に与らせ、わたしたちの信仰を強めてくださり、この世から御国に至るまで主イエスの御後に従うことができるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。