マルコによる福音書説教31              2020712

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆すべていやされた。

                  マルコによる福音書第65356

 

説教題:「病人を癒される主イエス」

今朝は、マルコによる福音書第65356節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスがガリラヤ湖の湖上を歩かれた奇跡と12弟子たちの無理解について学びました。

 

マルコによる福音書は、映画やテレビドラマにたとえますと、6章で主イエスのガリラヤ宣教のハイライトを描いているのです。この福音書のテーマは、神の子イエス・キリストの福音です。マルコによる福音書は、主イエスが5000人に給食を与えられた奇跡と主イエスが湖の高波の上を歩かれる奇跡を通して力強く証ししているのです。

 

しかし、この福音書にはもう一つのテーマがあります。12弟子たちの無理解です。12弟子たちは、主イエスのパンの奇跡を見て主イエスを神の子と受け入れることができませんでした。それゆえに彼らは、主イエスが湖の高波を歩いて、彼らのところ来られた奇跡を見て、彼らは主イエスを幽霊と思って、心から驚き、恐れました。

 

さて、今朝の御言葉は、マルコによる福音書が新しい段階に移る橋渡しです。

 

マルコによる福音書は、7章で主イエスがファリサイ派の指導者たちを批判され、対立されたことと異邦人の地に行かれて、宣教され、癒しの奇跡をされたことを記しています。

 

主イエスは、5000人の給食の奇跡の後、12弟子たちを強いて舟に乗せられ、ベトサイダに向かわされました。しかし、舟は湖の真ん中で強風に遭い、ベトサイダに向かわず、ゲネサレトにたどり着きました。

 

ゲネサレトは、ガリラヤ湖の北西岸にあるカファルナウムの町から南方にある肥沃で、人口の多い平地です。ベトサイダは、カファルナウムの町からヨルダン川を渡ったところにありました。ヨルダン川はガリラヤ湖の北岸に流れており、その河口の東側にベトサイダの町がありました。

 

ですから主イエスと12弟子たちを乗せた舟は、ベチサイダの向こう岸であるゲネサレトに着いたのです。

 

興味がある方は、聖書地図を後で見てください。福音書が「向こう岸」と言います時、ガリラヤ湖を縦に割って、東岸から見れば、西岸が向こう岸です。東岸にベトサイダがあるので、西岸にゲネサレトがあります。

 

問題は、主イエスのパンの奇跡がベトサイダの近くにある荒れ野でなされたのか、それとも西岸のゲネサレトの近くの荒れ野でなされたのかということです。

 

正解はありません。マルコによる福音書は、主イエスと12弟子たちが舟で、一つの場所から他の場所に渡って行く場合に、決まり文句のように「向こう岸」と言っているのです。だから、聖書地図で主イエスと12弟子たちを辿ると、矛盾していると思われるかもしれません。

 

しかし、マルコによる福音書は、わたしたちにこう伝えたいのです。主イエスと12弟子たちがガリラヤ湖を中心としてガリラヤで福音宣教し、宣教の移動手段として舟を使ったのだということです。

 

マルコによる福音書の奇跡物語は、地名と結びついています。パンの奇跡はベツサイダと、湖を歩かれる主イエスの奇跡はゲネサレトと結びついています。

 

推測ですが、パンの奇跡はマルコによる福音書がベツサイダでの言い伝えを資料として使い、湖の上を歩く主イエスの奇跡はゲネサレトでの言い伝えを資料として使っているのではないでしょうか。

 

そして、今朝の御言葉も、ゲネサレトで言い伝えられていた主イエスの癒しの奇跡を記しているのでしょう。マルコによる福音書は、今朝の御言葉と7123節まではゲネサレトを場所として設定しているのです。

 

今朝の御言葉は、マルコによる福音が主イエスのゲネサレトでの福音宣教と癒しの奇跡をまとめて記しているのです。それは、主イエスのゲネサレトでの福音宣教を記録するためではありません。むしろ、この記述によってマルコによる福音書はわたしたちに主イエスがどんなに民衆たちに人気があったかを伝えようとしています。

 

そして、主イエスがゲネサレトで福音宣教されたとき、多くの群衆たちが主イエスのところに多くの病人たちを運んで来ました。彼らは主イエスに病人たちが主イエスの上着の裾を触れさせてほしいと懇願しました。あの長血を患った女性が主イエスの上着の裾を触って癒されたように(マルコ5:2534)、多くの病人たちが癒されたことを伝えているのです。

 

すぐに人はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。

 

この御言葉を読みますと、主イエスの人気ぶりが分かります。人気歌手を追いかけるフアンの行動とこの群衆たちの行動は似ていると思います。ゲネサレトの地方全体を主イエスは12弟子たちと歩き回られて、福音宣教されました。

 

群衆たちは主イエスと12弟子たちを追っかけたのです。ゲネサレトの地方の町や村や里、どこでもそこに主イエスがおられると噂を聞いたら、彼らは病気で苦しんでいる者たちを床に乗せて、癒してもらうために、主イエスのところに連れて来ました。

 

マルコによる福音書は、主イエスの癒しの奇跡のみに関心があるのではありません。マルコによる福音書は、656節でこう記しています。「村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆すべていやされた。

 

主イエスの奇跡の御力は、群衆たちに信仰を生み出すものではありません。むしろ、群衆たちが主イエスに病人の癒しを懇願し、主イエスは彼らが信じたとおりに癒されました。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに群衆たちが12弟子たちとは対照的であったと伝えています。12弟子たちは主イエスがパンの奇跡をなさっても、主イエスが神の子であることに無理解したが、群衆たちは主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出される力あるお方であると信じ、信頼したのです。

 

マルコによる福音書がわたしたちにどんなに主イエスが群衆たちに人気があったかを伝え、主イエスが群衆たちの懇願を聞かれて、病人たちが主イエスの上着の裾を触ると、皆癒されたと伝えているのには意味があります。

 

それは、マルコによる福音書がわたしたちに伝えている神の子イエス・キリストが復活され、今もわたしたちと共に居てくださるお方であるということです。

 

主イエスは、今もこの教会の礼拝にわたしたちと共に居てくださるお方です。このお方にゲネサレトの群衆たちのように、わたしたちも全幅の信頼を寄せるべきであるということです。

 

使徒ペトロがペトロの手紙一第189節でこう述べています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 

聖霊を通して、わたしたちの心に主イエス・キリストに対する信仰を得ているからです。信仰によって、マルコによる福音書がわたしたちに喜びとして語ります神の子イエス・キリストが今わたしたちと共に居てくださり、今のわたしたちの苦しみを癒してくださると、主イエス・キリストに全幅の信頼を置いているのです。

 

それは、すでにわたしたちが主イエス・キリストの十字架によって救われているからです。今、わたしたちは、この世において多くの困難があり、病気で苦しむことがあるでしょう。しかし、主イエスは十字架に死に、復活されました。そして、主イエスは、再びわたしたちのところに来られ、わたしたちは死から解放され、永遠に主イエスと共に御国に生きる希望が与えられています。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第65356節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

どうか今朝の御言葉がわたしたちの希望となりますように、お願いします。

 

何時の時代も、この世は罪の世です。死と病気、自然災害と、困難な状況が続きます。どうか主イエスよ、聖霊と御言葉を通して、わたしたちと共に居てください。

 

どうか、わたしたちの心を鈍くしないでください。聖霊がわたしたちの心を、群衆たちのように主イエスに向けさせてください。

 

どうかわたしたちの心を喜びで満たしてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教32              2020719日

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。—ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。—

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである。』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神のへの供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

                  マルコによる福音書7章1-23節

 

説教題:「人の心を見られる主イエス」

今朝は、マルコによる福音書第7章1-23節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスと12弟子たちが舟でゲネサレトに着き、その地方全体を巡り歩いて、病人たちを癒されたことを学びました。

 

パンの奇跡で主イエスがどなたであるかを理解しない12弟子たちは、ガリラヤ湖の湖上を歩かれる主イエスを見て、心から恐れました。

 

ところが群衆たちは、主イエスが行かれるところへ追いかけて行きました。彼らは主イエスが病人たちを癒してくださると信じていました。だから、ゲネサレト地方の町々、村々に主イエスがおられると聞きますと、主イエスを追いかけて行き、病人たちを一緒に連れて行きました。そして、彼らは、主イエスに懇願しました。病人たちが主イエスの上着の裾に触れるだけでお癒しくださいと。すると、主イエスは、彼らの願い通りにされました。主イエスの上着の裾に触れた病人たちは皆癒され、病の苦しみから救われました。

 

さて、主イエスはゲネサレトで癒しの奇跡だけをなさっていたのではありません。同時に主イエスはエルサレムの都からやって来たファリサイ派の人々と数人の律法学者たちと宗教的清めについて論争し、群衆たちを呼び集められて、たとえ話を語られ、12弟子たちにはそのたとえ話の意味を教えられました。マルコによる福音書は、ここでも12弟子たちが主イエスの教えを理解できなかったと記しています。

 

まずは、主イエスとファリサイ派の人々と数人の律法学者たちとの論争について、見て行きましょう。113節です。

 

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。—ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。—

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである。』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神のへの供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

エルサレムの都からゲネサレトにファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがやって来ました。彼らは、主イエスの敵であります。

 

ファリサイ派の人々と律法学者たちは、神の律法を先祖からの言い伝えによって解釈し、それを生活に厳しく適用し、よく守っていることを誇りにしていました。彼らにとって律法はモーセ律法だけでありませんでした。人間の言い伝えも律法でありました。彼らは敬虔な人々でした。彼らの生活の全体を聖化しようと熱心に励んでいたのです。

 

しかし、主イエスと彼らとは水と油の関係でした。主イエスは、父なる神の御心に従われることによって神の御名を聖とすることが、主イエスの福音宣教の本質でした。他方ファリサイ派の人々と律法学者たちは人間の言い伝えを守ることで信仰の清さを求めようとしていたのです。

 

それが明らかになった出来事が、今朝の清めの論争でありました。

 

エルサレムの都からやって来ましたファリサイ派の人々と数人の律法学者たちの目に留まったのが、主イエスの12弟子たちが手を洗わないで食事をしている事でした。

 

彼らは、宗教的な汚れに目を留めました。なぜなら、彼らもユダヤ人たち皆が、手を洗わないで食事をすることは宗教的に汚れた行為であるとみなしていたからです。

 

だから、マルコによる福音書は、34節で次のようにユダヤ人たちが宗教的清めに熱心であったことを説明しています。彼らは先祖の言い伝えを守って、念入りに手を洗い、食事をしたこと、市場に行き、家に帰った時には水で身を洗ってから食事したこと、食事に使う杯、鉢、銅の器は水で洗って清めて使ったこと、それから寝台も水で清めたことを。彼らは、言い伝えを守って、その他にも多くのことを守っていたのです。

 

要するにユダヤ人たちには、宗教的清めを守るために、食前に手を洗うという習慣がありました。それを主イエスの12弟子たちが知ってか、知らずにか、守らなかったのです。

 

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちがそれを見過ごすはずがありません。彼らは、12弟子たちを非難するのではなく、彼らの師である主イエスに5節で、次のように質問したのです。「「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

 

その質問を主イエスは、2段階に分けて答えられました。68節と913節です。主イエスは、ユダヤ人たちが手を洗って食事をするという習慣の見た目の敬虔とは裏腹に、彼らの心が神の掟である律法を捨て、人間の言い伝えを固く守っているという偽善を見て、旧約聖書の預言者イザヤの御言葉を通して、彼らを批判されました。

 

主イエスは、旧約聖書のイザヤ書2913節の御言葉を引用して、彼らの偽善を批判されています。「「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

 

彼らは、モーセ律法を守るために人の言い伝えである律法で垣根を設けました。彼らは神の民たちがそれによって戒めに違反しないように配慮しました。だれもが戒めに違反せず、救いを得るようにしようとしたのです。

 

その結果、人々は、うわべでは神の戒めに従っているようですが、彼らの心は主なる神から離れていました。なぜなら、主なる神の戒めではなく、人の言い伝えを固く守っているに過ぎなかったからです。

 

神の御言葉である聖書が重んじられないで、人の言い伝えである人の言葉が重んじられていたのです。それが敬虔な行為とされていたのです。

 

主イエスは、彼らの心が主なる神から離れて、人間中心になっている罪を御覧になられ、預言者イザヤが語りました神の御言葉によって批判されました。

 

それが主イエスの913節でのコルバンの批判であります。

 

主なる神は、神の民に十戒の第五戒で「父母を敬え」と命じられました。ですから、子が両親を敬い、養うことは義務でありました。

 

ところが、人の言い伝えである口伝律法は、抜け穴を設けていました。それが、913節で主イエスが彼らを批判されていることです。

 

更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである。』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神のへの供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

 

主なる神はモーセ律法である十戒の第五戒に違反する神の民に対して死刑に処すべきであると厳しく命じておられます。

 

ところが、彼らは子が両親を扶養するために用いなければならないものを、「これはコルバン、神に供えるものです」と誓約するなら、両親への義務は免除されるという戒めを設けていたのです。

 

ですから「これはコルバンです」と誓約すれば、子は両親に対して何もしなくてよいのです。こうして、人の言い伝えの口伝律法によって、主なる神が神の民に命じられた十戒の第五戒が、主なる神の御言葉が無にされていると、主イエスは彼らを批判されました。

 

主イエスは、「また、これと同じようなことをたくさん行っている。」」と言われています。神の御言葉よりも人間の言葉が重んじられることがユダヤ人たちの中だけでなく、わたしたちの教会の中にもたくさんあるのです。見た目には熱心な信仰に見えて、心は神から離れていることがたくさんあると言われているのです。

 

宗教に清さと汚れは常に付いて回ります。主イエスは、ユダヤ人の手を洗うという習慣から彼らの偽善を見抜かれただけではありません。

 

主イエスはどんな食物を食べようと、人は汚れることはないと宣言されると共に、人を汚すのは食物ではなく、人の心であると宣言されました。1423節です。

 

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」

 

主イエスは群衆を呼び寄せて教えられました。マルコによる福音書は、12弟子たちだけでなく、群衆もまた主イエスの弟子です。

 

主イエスは旧約聖書のレビ記の食物規定を退けられました。人は、食べ物によって宗教的に汚れないと教えられました。何を食べても、人の心を汚すものはありません。さらにこれを延長して考えますと、食べ物で宗教的に汚れた者は誰もいません。

 

だから、この後主イエスは、異邦人の地に行かれています。食べ物で宗教的汚れがないという主イエスの教えこそ、異邦人への伝道に道を開くものでした。

 

さらにもう一つの問題は、主イエスはわたしたちの心を御覧になっているということです。外からわたしたちの内に入る食物は、わたしたちを汚すことはありません。

 

逆にわたしたちの内にある心から外に汚れたものが出て行き、隣人を傷つけて行くのです。そのリストを一つ一つ学ぶことは出来ませんが、次のことは心に留めてほしいと思います。

 

人の心から出る汚れこそ、罪であり、その罪はあらゆる不道徳、汚れとして、自分も隣人も傷つけ、主イエスをゴルゴタの十字架へと向かわせたものだということです。

 

12弟子たちは、彼らの心から出る罪が、主イエスをエルサレムへと、ゴルゴタの十字架へと向かわせることを知りません。

 

神の子イエス・キリストの福音によって新しい人間の生き方が生まれることをしりません。キリストの十字架によって罪を赦された人間の新しい生き方を知らないのです。

 

人の心に罪を宿していることを、主イエスは御覧になり、エルサレムの十字架へと歩まれていることを、マルコによる福音書はわたしたちに伝えようとしているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第7123節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝の御言葉で主イエスは、わたしたちの心を御覧になり、十字架の道を歩まれたことを知りました。

 

何時の時代も、人はうわべだけで生きています。自分の都合の良いように考えています。熱心に振舞いますが、自分の心に罪にあることが見えていません。

 

できれば、都合よく救われたいと思ってしまいます。

 

どうか、わたしたちの心を鈍くしないでください。聖霊が今朝の御言葉を通して、主イエスがわたしたちの心を御覧になり、十字架の道を歩まれたことを覚えさせてください。

 

どうかわたしたちの心を清めてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

マルコによる福音書説教33              202082

イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。  

女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」

                  マルコによる福音書7章2430

 

説教題:「こぼれ落ちる恵み」

今朝は、マルコによる福音書第7章2430節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスがファリサイ派の人々と数人の律法学者たちと宗教的清めについて論争をしたことを学びました。主イエスは、彼らの偽善を見抜かれ、彼らの昔の言い伝えと食物規定について批判されました(マルコ7:123)

 

そして主イエスは、群衆たちを呼び集められ、何が人を汚すのかを教えられました。それは、食事前に手を洗わないことではありません。モーセの律法にある食物規定に違反することでもありません。主イエスは、彼らに人の心にある悪い思いがその人全体を汚すのであると教えられました。そして、主イエスは12弟子たちに人の心から生じる不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、その他の悪徳が人を汚すのであると教えられました。

 

マルコによる福音書は、724節で「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。」と記しています。

 

そこを」は、「そこから」という意味です。主イエスと12弟子たちは、ゲネサレト地方から立ち去られました。ガリラヤを離れて、異邦人の地ティルスの地方に行かれました。

 

マルコによる福音書は、その目的とその目的が叶わなかったことを次のように記しています。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。(マルコ7:24後半)

 

これは、どういうことなのでしょうか。主イエスは、群衆たちと離れて、しばし12弟子たちと共に休息を取ろうとされたのでしょう。ガリラヤのゲネサレト地方を離れ、異邦人の地ティルス地方に行かれました。これは、主イエスが群衆たちを離れて、寂しい荒れ野に行かれたことと同じです。

 

マルコによる福音書は、既に145節と21節で主イエスのところに大勢の群衆たちが押し寄せて、主イエスが公然とカファルナウムの町に入れなくなったことを記しています。主イエスは数日して、密かに町に入り、ある家に隠れておられました。ところが、すぐに群衆たちに主イエスがその家におられることが知れ渡りました。

 

主イエスがその家におられることを聞きつけて、4人の男が中風の人をその家に運んできました。家の前は人々で塞がれており、彼らはア中風の人をその家の屋根に持ち上げました。そして穴を開けて、病人を主イエスの前につり降ろしました。主イエスは彼らの信仰を見て中風の人を癒されました。

 

同じことが異邦人の地であるティルス地方のある家で起こりました。主イエスは、ある家で12弟子たちだけと過ごそうとされました。人々に知られないようにされました。きっと主イエスは12弟子たちと共に休息を取られようとしたのでしょう。そして主イエスは彼らに教えようとされていたでしょう。

 

ところがティルス地方にも多くのユダヤ人たちが住んでいました。彼らは、主イエスがティルス地方に来られて、ある家におられるという噂を聞きつけました。そこで大勢のユダヤ人たちがその家に押し寄せたのです。当然主イエスは彼らを受け入れられたでしょう。その中に一人のギリシア人の女性がいました。

 

マルコによる福音書は25節と26節で次のようにその女性を紹介し、主イエスへの彼女の願いを記しています。

 

汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。  

女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

 

主イエスのところに来た女性は、シリア・フェニキアで生まれました。彼女はユダヤ人ではありません。ギリシア語を話すギリシア人でした。彼女は結婚しており、幼い娘がおりました。その娘は、悪霊に取りつかれていました。

 

彼女は、主イエスがガリラヤで病人を癒し、悪霊を追い出されている噂を聞いておりました。そして、噂の主イエスがティルス地方に来られました。主イエスはある家におられるという噂を、彼女は耳にしました。すぐに彼女は行動を起こしました。幼い娘を家に残して、一人で主イエスがおられる家までやって来ました。

 

そして、彼女は主イエスの足もとにひれ伏しました。そして彼女は主イエスに懇願しました。「娘から悪霊を追い出してください」と。

 

彼女に、主イエスは次のように答えられました。「「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。」

 

主イエスが「子供たち」と言われたのは、普通はユダヤ人たちのことでしょう。主イエスが「子犬」と呼ばれたのは女性の幼い娘のことでしょう。

 

主イエスが、ガリラヤを離れて、ティルスの地方に来られたのは、休息のためです。

 

これを理解すれば、主イエスがこの御言葉で何を言おうとされたのか、分かると思います。

 

主イエスは「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。」と言われていますね。この「十分食べさせ」るという御言葉は、主イエスが5000人の給食の奇跡をなさった時に、その給食に与った群衆たちが「すべての人が食べて満腹した(マルコ6:42)の「彼らは満腹した」と同じ言葉です。

 

主イエスの御言葉を、文字通りに訳しますと、主イエスはこう言われています。「許せ、まず、子供たちが満腹することを。なぜなら、良くないからである、子供のパンを取って、子犬に投げることは」と。

 

主イエスは、彼女に最初に「許せ」と言われました。今主イエスが必要とされているのは、御自身と12弟子たちの休息です。

 

主イエスは、彼女に「ごめんね、今わたしと12弟子たちはここで休息を必要としている。どうかこれを取り上げないでほしい」と言われているのです。

 

主イエスの御言葉に対して女性は、次のように機知に富んだ返事を返しました。「ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28)

 

彼女は、主イエスを「主よ」と呼びかけます。これはマルコによる福音書にとって信仰者の呼びかけです。彼女は、娘を家で飼われている子犬にたとえました。こう言いました。「子犬は子供が食卓で食べているパンの屑をこぼす時、喜んでそれをなめて食べます。同じように、主よ、わたしの愛する娘も、あなたとお弟子さんたちの休息からこぼれ落ちる恵みをいただきます。」と。

 

このように女性は、主イエスを主と信じて、熱心に娘の癒しを求めました。

 

マルコによる福音書は、次のようにこの物語を結んでいます。「そこで、イエスは言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。」(2930)

 

マルコによる福音書は、娘から悪霊が追い出され、癒されたことより、母親が主イエスの御言葉の通りに娘から悪霊が追い出されたことを発見したことを強調しています。

 

主イエスは、母親の救いへの熱心さとヘリ下りの言葉に感心されました。そして喜ばれました。

 

そしてこう言われて、主イエスは母親に娘の救いを約束されました。「この言葉のゆえに行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った。」

 

それほど言うなら、よろしい。」は意訳です。新改訳聖書は「そこまで言うなら、家に帰りなさい。」と訳し、聖書協会共同訳は「その言葉で十分である。行きなさい。」と訳しています。

 

マルコによる福音書は、一人の母親の信仰によって、悪霊に取りつかれていた彼女の娘から悪霊が追い出されたという奇跡を記しているのです。主イエスは、彼女の信頼の言葉に心を動かされました。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに何を伝えているのでしょうか。ファリサイ派の人々と律法学者たちが人前で見せた熱心さではなく、この女性のように心から神の子イエス・キリストに対して信頼する、そのひたむきさを、主イエスは喜ばれるのだということです。

 

この女性からわたしたちが学びますことは、ただこの礼拝に来て、御言葉を聞き、聖餐に与ることが大切なのではないということです。主イエスに期待してこの礼拝に来ること、主イエスは喜ばれるのです。必ずわたしと家族を、またわたしたちが救いを祈り求めている方々を救ってくださると、主イエスに信頼することを、主イエスは喜ばれるのです。

 

主イエスは、わたしたちに今朝もこの礼拝で「家に帰りなさい」とお命じになられています。聖餐式を通して、主イエスはわたしたちを御国へと導いてくださるのです。わたしたちの国籍は天にあるのです。主イエスは、今朝の御言葉を通して「あなたもわたしに信頼するのであれば、もう大丈夫だ。」と言ってくださっているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第72430節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

主イエスは、宣教の働き人に休息が必要であることをよくご存じです。御自身も十分に休息をお求めになりました。

 

しかし、主イエスは、一人の母親の熱心な願いと信仰に心を留められて、彼女の娘に救いの御手を伸ばされました。

 

主イエスは、わたしたちの見せかけではなく、真心を御覧になっています。どうか、この女性のように主イエスへのひたむきな信頼を、わたしたちも持てるようにしてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

マルコによる福音書説教34              202089

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めされた。しかし、イエスが口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そしてすっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

                 マルコによる福音書7章3137

 

説教題:「耳を聞こえるようにされる主イエス」

今朝は、マルコによる福音書第7章3137節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスがガリラヤのゲネサレト地方を離れられ、異邦人の地ティルスの地方に行かれて、ギリシア人の女性の悪霊につかれた娘を癒されたことを学びました。

 

主イエスと12弟子たちは、ティルスの地方のある家に入られ、人に知られないように、隠れておられました。しかし、人々は主イエスがある家におられると知ると、押し寄せてきました。その中にギリシア人で、フェニキア生まれの女性がいました。彼女には娘がおり、悪霊に取りつかれていました。

 

そこでその女性は、主イエスに娘を救ってほしいと切に願いました。主イエスは、答えられました。「ごめんね。今、わたしと12弟子たちには、パン、すなわち、休息が必要である。これを取り上げないでほしい。」。女性は、主イエスに機知に富んだ言葉を返しました。「主よ、食卓の子どもたちがこぼしたパン屑を、子犬もいただきます」と。

 

主イエスは、女性のヘリ下りと御自身への信頼を喜ばれ、娘の救いを約束し、彼女を家に帰されました。女性が家に帰ると、娘から悪霊は出ておりました。

 

さて、マルコによる福音書は、731節で主イエスと12弟子たちの旅を記しています。「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。

 

ティルスの地方を去られた主イエスは、35キロ北上されて、フェニキアのシドンを訪れ、それから引き返されて、デカポリス地方の中へ、ガリラヤ湖湖畔にやって来られました。

 

聖書の後ろに聖書地図があります。その「6」を見てください。新約時代のパレスチナの地図です。上の方に「シドン」、そして「ティルス」があります。下の方に何キロあるか目安となるものがあります。

 

その地図を見て、31節の御言葉を読むと、主イエスと12弟子たちは、ガリラヤを避けて、デカポリス地方に来られたことになります。

 

どうしてマルコによる福音書がこのように記述したのか、一つ理解のヒントになるのは、主イエスが「ガリラヤ湖にやって来られた」ことです。

 

主イエスは、ガリラヤ湖に来られて、福音宣教され、弟子たちを召され、大勢の人々を癒されました。主エスはゲネサレト地方を離れて、異邦人の地ティルス、シドンに行かれ、そして再びデカポリス地方のガリラヤ湖に戻られました。

 

ガリラヤ湖を中心とするガリラヤが、主イエスの活動の拠点でした。マルコによる福音書は、主イエスはガリラヤ湖を離れても、再びガリラヤ湖に来られると記しています。このようにマルコによる福音書にとってガリラヤこそが主イエスの宣教の出発点です。

 

横道にそれたので、今朝の御言葉に戻りましょう。

 

マルコによる福音書は、「デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」と記していますね。文字通りには「シドンを経て、彼はデカポリス地方の中にあるガリラヤの海に来られた。」です。

 

マルコによる福音書は、その目的を、73237節でこのように記しているのです。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めされた。しかし、イエスが口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そしてすっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 

異邦人たちが住むデカポリス地方で、主イエスはガリラヤ湖の湖岸で耳が聞こえず舌の回らない人を癒す奇跡をなさいました。

 

マルコによる福音書は、わたしたち読者に典型的な癒しの奇跡物語を伝えています。すでにマルコによる福音書が書かれた時代、主イエスについて多くの伝承があったでしょう。主イエスの言葉が集められ、主イエスがなされた奇跡物語の伝承があったでしょう。今朝の癒しの奇跡は、デカポリス地方で伝えられていたでしょう。

 

32節前半で、「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て」と、主イエスと病人との出会いを記しています。続いて32節後半で、「その上に手を置いてくださるようにと願った」と、人々が主イエスに病人の癒しを懇願しています。33節前半で「こで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」と、主イエスは病人を人々の前から連れ出されています。主イエスは奇跡行為を人々の目から隠されました。33節後半で「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」と、主イエスの奇跡行為の所作を記しています。34節前半で「そして、天を仰いで深く息をつき」と、主イエスが癒しの奇跡をなさる前の精神的興奮を記しています。34節後半で「その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」と、主イエスの癒しの御言葉を記しています。35節で「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」と、癒しを確かめています。そして、36節前半で「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めされた。」と、主イエスは、この癒しの奇跡を秘密にしておくように命令されています。そして、最後の37節で「そしてすっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」」と、人々の主イエスの癒しの奇跡に対する驚きを記しています。

 

今朝の主イエスの癒しの奇跡で、わたしたちが目を向ける所はここです。どうして主イエスは人々の目から隠してこの癒しの奇跡を行われるのでしょう。その動機はどこにあるのでしょう。

 

これまでマルコによる福音書は、540節で主イエスが死んだ少女を生き返らせる奇跡を行われた時に、少女の両親と12弟子の中でペトロ、ヤコブ、ヨハネ以外の者を少女の部屋に入れられませんでした。

 

主イエスが人々に癒しの奇跡を秘密にしなさいと命令されたのには、意味があります。それは、主イエスの奇跡行為は彼がメシアであることを明らかに知らしめる神の啓示であるからです。

 

主イエスは、耳が聞こえずしゃべることの出来ない人を癒すために、人目を避けてなさいました。主イエスは、彼の耳に指を差し入れ、彼の舌に御自身の唾を塗られ、天に向かってため息をつかれ、彼に向って「開け」と言われました。

 

主イエスは、魔術師とは異なり、明確な言葉で癒しの奇跡をなさいました。呪文を唱えることなく、主イエスが病人に「開け」と言われると、彼の病はすぐに癒されました。

 

旧約聖書の創世記1章をお読みになられると、そこに神の創造が物語られています。神が世界を造られた時、闇が覆っていました。神が「光あれ」と言われると、闇に覆われていた世界に光が存在しました(創世記1:12)

 

同様に耳が聞こえず、舌が回らない人は悪霊につかれて、闇の中に覆われていました。主イエスが彼に「開け」と呼びかけられると、彼の中に光が射しこみ、彼は死んだ状態から光あふれた生きた状態に変えられました。

 

主イエスの癒しの奇跡行為は、常に同じ行為ではありません。主イエスが人々の前でなさる癒しの奇跡、悪霊を追い出す奇跡があります。しかし、今朝の奇跡のように、また主イエスが死んだ少女を生き返らされた奇跡のように、人々の目から隠してなされる奇跡行為があります。それを秘密になさる奇跡行為があります。その動機は、より効果が表れるためだと考えられます。また、それを隠すことによって、奇跡行為者への畏れを表現することだったかもしれません。

 

マルコによる福音書は、今朝の主イエスの癒しの奇跡に神の子イエス・キリストの福音を見たのです。初代教会が福音宣教する神の子イエス・キリストは、ガリラヤ湖を中心に福音宣教され、人々を病と悪霊から救われただけではなく、今も教会の福音宣教を通して救いの御業をなされているメシアであることを伝えているのです。

 

マルコによる福音書は、主イエスが人々に「秘密にせよ」と命じられれば命じられるほど、人々は主イエスの癒しの奇跡を言い広めたと記していますね。これは、いかに主イエスがガリラヤの群衆に受け入れられたかを伝えているのです。

 

人々は、主イエスに驚きました。主イエスがなされたような奇跡を、これまで彼らは見たことがないと、主イエスを褒め称えました。

 

マルコによる福音書は、わたしたちにこう語りかけてくれています。37節です。「そしてすっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 

愛する兄弟姉妹、求道者たち、今朝この御言葉を聞かれた方々、あなたがたも、この人々の喜びの中にいるのですか。

 

説教を聞くことに、規則はありません。楽な姿勢でお聞きになるとよいのです。今は、黙想の時です。マリアが天使ガブリエルから聖霊による受胎を知らされた時に、彼女は、これは何の事だろうと思いを巡らせました。そして彼女は、その身に主イエスという神の無償の賜物をいただいたのです。

 

礼拝は、神を礼拝し、賛美し、御言葉を聞き、身をささげる所です。しかし、しばしこの世を離れて憩う場所でもあります。神の御前にこの世のすべての患いを忘れ、リラックスできる場所です。現代人の病であるストレスから解放される場所です。そこでわたしたちは、主なる神の無償の賜物を御言葉と聖餐を通していただくのです。

 

その恵みを得るためには、聖霊はわたしたちにこの働きを備えてくださいます。それは、わたしたちの心を動かすことです。

 

今朝の御言葉を読まれ、わたしの説教をお聞きになり、聖霊がわたしたちの心を動かしてくださるのです。

 

礼拝ごとに主イエスはわたしたちのところに来てくださいます。ティルスからシドン、そしてデカポリス地方のガリラヤ湖の湖岸にやって来られた主イエスは、わたしたちのところにも来てくださるのです。

 

目には見えないお方ですが、わたしたちの心を通して、今ここでお会いできるお方なのです。聖霊が礼拝を通して、説教を通して、洗礼と聖餐を通して、主に在る兄弟姉妹や友との交わりを通して、主イエスとの出会いを、わたしたちの心に働きかけてくださるのです。

 

だから、重要なことは、わたしたちの心が今ここにやって来られた主イエスと出会うことなのです。そして、主イエスは、悪霊につかれて聞くことも話すこともできない人を癒されたように、神の存在を見ることも、その喜びを話すこともできないわたしたちに向かって、「聖書を開け」「あなたの眠っている心を目覚めさせでなさい」と呼びかけてくださるのです。

 

平凡で、何の価値も見いだせない日々を過ごすわたしたちです。500年昔の宗教改革の時代、交通、通信、生活の不便な時代、わたしたちの先輩たちは、主イエスを身近に感じて生き、神の御国は喜びの希望でした。

 

しかし、今、わたしたちは科学技術によって便利で、お金があれば豊かな生活のできる時代に生きています。物質的に豊かな生活の中で、その恩恵にあずかれない者たちは豊さを求める者たちの犠牲となり、多くの人々は機械の部品のように、役に立たなければ会社でも、どこでも交換され、破棄されます。それは「希望退職」という美名のもとでなされます。

 

しかし、教会は、耳の聞こえない、話せない者を捨てることなく、主イエスのところに連れて来る人々の群れです。希望がなく、暗闇に生きる人々を、「開け」と希望の光を与えられる主イエスのところに連れて行くところです。

 

だから、コロナウイルスの災禍の中でも、教会は門を開いておくべきであると思うのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第73137節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

主イエスは、耳が聞こえず、話すこともできない人を癒されました。

 

悪霊によって闇の中に閉じ込められていた人に、「開け」とお命じになられ、闇から光へと導かれました。

 

どうか、聖霊よ、わたしたちを主イエスと出会わせてください。どうか、この教会に主イエスよ、来てください。

 

教会とわたしたちは、この世に働く悪霊によって、神の子イエス・キリストの福音を聞くことも、人々に語ることもできません。

 

どうか、耳が聞こえず、口がきけない人に、主イエスは「開けよ」とお命じになりました。彼は悪霊から解放され、主イエスの御言葉を聞き、その喜びを語れる者に変えられました。

 

どうか、わたしたちにも同じ恵みで満たしてください。

 

どうかわたしたちの教会を世の光、地の塩としてください。ストレスに満ちたこの世において礼拝が憩いの場、主との出会いの場としてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

マルコによる福音書説教35              2020816

そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。

                 マルコによる福音書8110

 

説教題:「四千人の給食の奇跡」

今朝は、マルコによる福音書第8110節の御言葉を学びましょう。

 

前回は、主イエスがデカポリス地方のガリラヤ湖湖畔で耳が不自由で、話すことの出来ない人を癒された奇跡を学びました。

 

ガリラヤ湖湖畔で主イエスと病人が出会いました。群衆たちが病人を主イエスのところに連れて来ました。そして、「彼に手を置いてほしい」と、癒しを懇願しました。主イエスは、病人を連れ出されました。そして人々の目から隠して、彼を癒されました。その後、主イエスは、人々にだれにも話さないようにと、命じられました。ところが、人々は主イエスの癒しの奇跡に驚き、主イエスを褒め称え、言い広めました。

 

わたしたちは、主イエスの癒しの奇跡を通して、主イエスが創造者なる神であることを学びました。

 

主イエスが病人に「エファッタ」、「開け」と言われると、彼の目は闇の中に光が射しこみました。

 

旧約聖書の創世記1章で神が世界を造られた時、闇が覆っていました。神が「光あれ」と言われると、闇に覆われていた世界に光が存在しました(創世記1:12)

 

主イエスは、今もわたしたちと共に居てくださり、わたしたちに向かって「エファッタ」と呼びかけてくださり、わたしたちの闇に閉ざされた心に希望の光を差し入れてくださるのです。

 

さて、マルコによる福音書は今朝より8章に入ります。

 

1節の冒頭に「そのころ」とあります。文字通りには「それらの日々に」という言葉です。この福音書を舞台にたとえますと、場面は変わってとなります。

 

ひとつの奇跡物語が終わり、新たな奇跡物語が始まります。主イエスの四千人の給食の奇跡です。

 

12節でこの奇跡の発端を記しています。どうして主イエスがこの奇跡をなさったのかを記しています。「また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」

 

ガリラヤ湖の湖畔の寂しい所、荒れ野で、主イエスは四千人の給食の奇跡をなさいました。その動機は、主イエスが為さった五千人の給食の奇跡(マルコ6:3044)と似ています。

 

6章の五千人の給食の奇跡においては、主イエスは大勢の群衆が飼い主のいない羊の有様であるのを御覧になり、憐れまれて、五つのパンと二匹の魚で大人の成人男子の数だけで五千人に給食をお与えになりました。

 

今朝のところでも、主イエスはついてきた大勢の群衆たちが三日も食事せず空腹であるのを御覧になりました。そして主イエスは心を痛められました。なぜなら、彼らを解散させて、家まで帰すと、彼らは途中で倒れてしまうと思われたからです。

 

そこで主イエスは、12弟子たちを呼び寄せられて、お話しになりました。

 

まるで12弟子たちは、主イエスが五千人の給食の奇跡をなさったことを知らないかのように、4節でこう答えています。「「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

 

五千人の給食の奇跡と四千人の給食の奇跡は、同じ奇跡が二通りに言い伝えられたと考えられています。二つの奇跡物語は、奇跡がなされた背景、動機が重なります。主イエスと12弟子の会話があり、12弟子たちの主イエスへの無理解を記しています。そして給食にパンと魚が用いられます。群衆たちは座らされます。主イエスは感謝の祈りを唱えてパンと魚を裂き、弟子たちがパンと魚を配分しました。人々は満腹し、パン屑が集められました。最後にこの奇跡に与った人々の数が記録されています。

 

異なる箇所は幾つもありますが、奇跡物語の構成と筋はほぼ同じです。

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えたいメッセージがあるのです。

 

その一つは、12弟子が主イエスに対して無理解であったことです。

 

12弟子たちは、主イエスが五千人の給食の奇跡をなさった後、湖上を歩かれる主イエスを見て、幽霊だと恐れました。給食の奇跡で主イエスを、旧約聖書の出エジプト記と民数記において荒れ野の神の民イスラエルをマナで養われた主なる神であると、彼らは信じていなかったからです。

 

81421節でマルコによる福音書は、12弟子たちがパンの論争をし、この奇跡を理解せず、主イエスに対する無理解を暴露したことを記しています。

 

マルコによる福音書が五千人の給食と四千人の給食の奇跡を物語る動機は、主イエスが群衆を「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ(マルコ6:348:2群衆がかわいそうだ)まれたからです。

 

実は、「飼い主のいない羊」は「イスラエルの家の失われた羊」のことです(マタイ10:6)。旧約聖書も旧約外典も神の民イスラエルを表しています。神の民イスラエルは、主なる神が遣わされた羊飼い、王(牧者)が必要であるという意味でした。

 

ところが、マルコによる福音書は、主イエスが群衆を飼い主のいない羊として憐れまれたと記しているのです。イスラエルの民、ユダヤ人、あるいは異邦人と区別することなく、群衆一般を、主イエスは飼い主のいない羊として憐れまれたのです。

 

よく五千人の給食の奇跡はユダヤ人たちに対して、四千人の給食の奇跡は異邦人たちに対してなされたと言われることがあります。

 

マルコによる福音書は、ユダヤ人と異邦人という区別には関心がありません。マルコによる福音書が描く群衆は、ユダヤ人でも異邦人でもどこの国の人でもありません。名もない群衆です。貧しく空腹な群衆です。

 

カトリック教会の司祭である本田哲郎氏が大阪の釜ヶ崎の日雇い労働者から学びつつ、四福音書と使徒言行録を翻訳されて、「小さくされた人々のための福音」と題して、出版されています。今朝の聖書箇所には、「痛みの共感から、わずかな食べものを分けあって、四千人が満ち足りる」という表題を付されています。

 

本田氏は、主イエスの2節の御言葉、「群衆がかわいそうだ」を、「この群衆にははらわたをつき動かされる」と訳されています。

 

この言葉を、マルコによる福音書が主イエスの行為として用いる時、「かわいそうだ」は、十分に主イエスを伝えていないと思います。

 

主イエスは、私たちのように悲惨な人々を見て、「かわいそうだね」とただ同情し、涙する方ではありません。苦しんでいる人々を見て、心揺すぶられ、彼らを憐れみ、受け入れ、助けてくださるお方です。

 

主イエスは、三日も食事していない群衆たちの痛みに共感され、彼らを助けよとされました。そこで主イエスは、12弟子たちに痛みを共感してほしいと思われ、「群衆たちは何も食べていない。空腹で帰宅途中で倒れてしまう」と言われました。

 

しかし、12弟子たちには、主イエスの思いは伝わりませんでした。彼らはリアリストでした。現実主義者でした。ありのまま見た現実を受け入れていたのです。「群衆は空腹でかわいそうかもしれない。しかし、この荒れ野で、何もないこの所で、どうしてパンを手に入れて、彼らに食べさせられるだろうか。」

 

ああ、わたしたちも12弟子たちと同じように、リアリストです。常にこの世の現実だけを見ています。そして、苦しんでいる人々を見て、かわいそうだと思うでしょう。しかし、この小さな教会が彼らのために何をできるだろうか。小さなわたしたちで、何ができるだろうか。そう思わないでしょうか。

 

この世で見えるものだけを信頼する者は、この世に挫折せざるをえません。12弟子たちは、自分の目が見るものではなく、主イエスに目を注ぐべきでした。主イエスに頼るべきでした。

 

主イエスは、12弟子たちに尋ねられました。「パンは幾つあるか」と。弟子たちは、「七つあります」と答えました。

 

そこで主イエスは、群衆たちを地面に座るように命じられました。そして、七つのパンを取られ、彼らの前で感謝の祈りを唱え、そしてパンを裂かれました。弟子たちに群衆に配るように命じられました。魚も配られました。パンと魚を食べた群衆たちは、満腹しました。

 

パン屑とは、主イエスが裂かれたパンです。残されたパンを集めると、七籠になりました。

 

この五千人と四千人の給食の奇跡で、マルコによる福音書がわたしたちに伝えている事は、群衆と共にいる主イエス、12弟子たちと共にいる主イエスです。

 

この奇跡は、よく礼拝の聖餐式と関係づけられてきました。パウロがコリントの信徒への手紙一11章で伝えている聖餐式とは違います。

 

ここではキリストの死とパンを食べることが関係していません。感謝の食事として、この奇跡はなされています。

 

普通わたしたちの教会の礼拝における聖餐式は、主イエスの十字架の死を記念してなされます。ところが、それとは別に共同の食事が初代教会では祝われていました。愛餐です。聖餐式というよりも、共に主イエスと食事をし、共に主イエスの祝福にあるかる食事です。

 

イースターやクリスマスの祝会、愛餐会です。そこに復活の主イエスがわたしたちと共に居て食事をしてくださるのです。

 

マタイによる福音書でしたら、「インマヌエル(神我らと共にいます)」と言うと思います。

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、教会とキリスト者はリアリストではないということです。預言者ヨエルがペンテコステを預言した時に、「老人は夢を見、若者は幻を見る」と預言しました(ヨエル書3:1)

 

ペンテコステの日にヨエルの預言は実現し、今教会は聖霊に支配され、神の御言葉が語られ、聞かれています。この世の現実がどんなに絶望であろうと、悲惨であろうと、老人は苦しんでいる者を救われる主イエスに望みを置いていますし、若者は共に居てくださる主イエスに、この世で生きる力と希望を得ているのです。

 

マルコによる福音書は、この世の現実を見て、何かを自分たちで得よう、対策を立てようとしません。どんなに自分たちが見る現実が絶望的であっても、自分たちでは何もできないようであっても、飼い主のいないわたしたちを見てくださる主イエスが共に居てくださると伝えています。わたしたちと共に居てくださる主イエスは、わたしたちの痛みに共感してくださいます。そして、同情ではなく苦しみの中からわたしたちを助けてくださいます。

 

教会とわたしたちと共に居てくださる主イエスに信頼することだけが、この世に生きる者の希望となるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第8110節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

主イエスは、飼い主のいないわたしたちを憐れみ、わたしたちの痛みに共感し、その苦しみからわたしたちを救うために、いつもここに共に居てくださることを学ぶことができて感謝します。

 

コロナウイルスが世界中で感染し、社会も教会も混乱の中にあります。この現実に、わたしたちが自らの無力さに打ち負けてしまうのではなく、むしろ、主イエスに希望を持てるようにしてください。

 

主イエスが共にわたしたちの教会と共に居てくださり、わたしたちの弱さや罪を御覧になり、心痛めて共感され、わたしたちを苦しみから助けようとされていることを信じさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。