マルコによる福音書説教16 2020年2月9日
イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を
略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
マルコによる福音書第3章20-30節
説教題:「身内の無理解」
今朝は、マルコによる福音書第3章20-30節の御言葉を学びましょう。
前回は、主イエスが彼の弟子たちの中から12使徒を任命され、派遣されたことを学びました。前々回の主イエスに押し寄せるおびただしい群衆、そして主イエスの12使徒の選び、そして、今朝の主イエスの身内とエルサレムから下って来た律法学者たちによる主イエスへの非難など、いろんな場面を対照的に描きながら、マルコによる福音書は主イエスのガリラヤでの宣教活動を具体的な事実として記しています。
それには、マルコによる福音書の意図があるのです。マルコによる福音書は、主イエスの12使徒の選びに続いて、主イエスの身内のことを、3章21節と31-35節に二つに分けて記しています。そして分けられた中に22-30節に主イエスとエルサレムから下って来た律法学者とのベルゼブル論争を記しています。
これは、マルコによる福音書の記述の特色です。主イエスの身内の無理解と律法学者の主イエスへの非難と主イエスに押し寄せる群衆たち、主イエスの御言葉に耳を傾ける群衆たちを対照的に描いて、マルコによる福音書は新しいイスラエルである教会は、12使徒を土台として建てられ、主イエスの御言葉を聴従する群衆たちによって形成される神の家族であると主張しているのです。
マルコによる福音書は、主イエスを狂人と思う身内と悪霊の頭であるベルゼブルにつかれていると非難する宗教的指導者であるエルサレムの律法学者は、主イエスに対して同じ敵対的意識を持っていると主張するのです。それに対して群衆は、主イエスがガリラヤで神の御国を語られ、病人や悪霊につかれた人々を癒されていると聴き、主イエスに押し寄せ、主イエスを取り囲んで主イエスの御言葉に耳を傾けたのです。そのようにして新しいイスラエル、神の家族である教会が形成されるのだと、マルコによる福音書はわたしたちに伝えようとしているのです。
前々回に主イエスのガリラヤ宣教は成功であったとお話ししました。今朝と次回の御言葉から主イエスのガリラヤ宣教がどういう意味で成功であり、主イエスはどのようにして新しいイスラエル、すなわち、神の家族である教会を建て上げようとされたかを学びたいと思っています。
3章20節の御言葉が3章21-35節の御言葉への導入であります。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」
主イエスは、ガリラヤ湖湖畔からカファルナウムのペトロとアンデレの家に帰られました。主イエスは、その家でペトロの家で彼の姑の病気を癒され、中風の人を癒されました。ですから、主イエスがカファルナウムの町に帰られ、ペトロの家に滞在されているという噂が広まり、おびただしい群衆がペトロの家を訪れ、主イエスと弟子たちは、彼らへの対応に追われ、食事をする暇もありませんでした。
主イエスがガリラヤでなさっていることは、悪い噂としてナザレにいた身内にも伝わりました。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」(22節)。
22節の「身内の人たち」は、曖昧な言葉です。代理人、友人、隣人、親戚という意味の言葉です。マルコによる福音書は31節でこの身うちの人たちを、主イエスの母と兄弟たちと述べていますので、主イエスの家族と考えてよいと思います。
彼らは、人々が「イエスは気が狂った」と噂しているのを聞いて、彼を取り押さえようと、ナザレを出て、カファルナウムに向かったのです。
「気が変になっている」を、イングリシュバイブルは、ヒー ウオズ アウト オグ ヒズ マインドと英訳しています。彼は彼の心の外にいた、彼は彼の心から外れていたという意味でしょう。マルコによる福音書はそのような意味で記しているのです。主イエスの時代、心の病は悪霊につかれていることが原因で起こると信じられていました。だから、身内の者たちは主イエスが悪魔の支配下に置かれて、ガリラヤでいろんなことをしているのだと思ったのでしょう。一刻も早く取り押さえて、ナザレに連れ帰ろうと、ナザレを出たわけです。
身内の無理解とエルサレムから下って来た律法学者と主イエスに対する考え方が同じなので、マルコによる福音書は主イエスと律法学者とのベルゼブル論争をそこに挿入して記しているのです。
「エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(22-27節)。
ユダヤ民衆の宗教的指導者である律法学者たちがエルサレムの都からガリラヤに下って来ました。彼らは、主イエスの癒しの奇跡を悪霊の頭であるベルゼブルの力によってしているのだと非難しました。彼らは、主イエスが超自然的力にとりつかれており、それが悪霊の頭ベルゼブルの力であると診断を下したのです。
ベルゼブルは、主イエスが言われている「サタン」と同義語です。古代パレスチナの神々の名で、本来は「家長」「住居の主」という意味でした。それが、サタンや悪霊の頭の別名で用いられるようになりました。
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。」という御言葉は、マルコによる福音書だけの御言葉です。マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスが律法学者たちを呼び寄せることのできる権威あるお方であると伝えているのです。
マルコによる福音書は、主イエスがたとえを用いて、律法学者たちに語られたと記しています。4章から始まります主イエスのたとえ話への導入になっています。このたとえという言葉は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書にのみ見られるもので、諺、賢い言葉、説明の物語という意味の言葉です。
マルコによる福音書は、主イエスが彼の敵対者にたとえを用いて語られることに注目しているのです。すなわち、主イエスは、分かりやすく説明するために、たとえを用いて語られているのではありません。むしろ、真理を秘密にするという方法で、直接的よりむしろ間接的に語られているのです。
主イエスのたとえは、サタンや国や家が自分自身に反対して、分裂するならば、成り立たないというお話です。内輪もめ、すなわち、自己分裂はどんなものでも自己破滅につながります。だから、主イエスは、彼らに「どうしてサタンは自分自身を追い出すことができるだろう」と反論されたのです。
主イエスがわたしたちにこのたとえで言われていることは、次のことです。主イエスはガリラヤ宣教で実際に悪霊につかれた者たちから悪霊を追い出されていました。その主イエスと弟子たちの御業は、悪霊の力ではないということです。神の御力で、主イエスと弟子たちは悪霊につかれた者たちから悪霊を追い出されていたということです。
主イエスは彼らにこのたとえで、その真理を隠されて、秘密にして語られているのです。
律法学者たちは、この世における悪霊の力を信じています。主イエスもその事実を認めておられます。それで主イエスは、内輪もめのたとえを用いて、それが破壊につながることを説明し、今もサタンの支配は続いているのであるから、サタンは主イエスを用いて仲間の悪霊たちを追い出すことはしないと言われているのです。だから、主イエスがガリラヤで悪霊につかれた者から悪霊を追い出されているのは、サタンの力ではなく、神の御力によって、聖霊なる神の御力によってであると言われているのです。
「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(27節)
このたとえは、泥棒をすることへの勧めではありません。主イエスのお話です。「強い人」は、洗礼者ヨハネが「わたしよりも優れた方が、後に来られます」(1章7節)と述べています主イエスです。「優れた方」は、より力ある者という意味です。主イエスは、今ガリラヤ宣教においてより力ある者として、神の隠れた御力によって、すなわち、聖霊の御力によって大胆にガリラヤ宣教をなさっています。このガリラヤでの主イエスの宣教を、彼らが止めようとすれば、主イエスを逮捕する以外にありません。
だから、このたとえは主イエスの受難を暗示するものです。
主イエスのたとえは、わたしたちを主イエスのガリラヤ宣教において働いている神の隠された御力、すなわち、聖霊の御力を認める信仰に招こうとしているのです。
だから、主イエスは、わたしたちにはっきりと次のように宣言されるのです。「「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。」
「はっきり言っておく。」は、そのまま文章にしますと、「アーメン、わたしはあなたがたに言う」です。「アーメン」は祈りの結びの言葉です。「忠実である」という意味で、「そうなりますように」という意味で、祈りの結びに唱えられます。だから、主イエスは、わたしたちにこう言われるのです。「わたしは、わたしの語る言葉に対して忠実であり、そこに含まれている約束は実現される」と。
主イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、わたしたちのすべての罪、主イエスに対する冒瀆の言葉も赦されます。しかし、この十字架が神の御力であることを、そしてその十字架の救いが聖霊の御力であることを拒む者たちは、永遠にその罪の赦しを得られません。心を頑なにしてキリストの福音に耳を傾けようとしない者は、永遠に自分の罪に対する神の刑罰を負うことになります。
マルコによる福音書はわたしたちにまずキリストの御言葉を福音として語りかけています。主イエスは、惜しみなくすべての者たちの罪を赦してくださる気前の良いお方であると伝えています。しかし、キリストの福音を拒み、聖霊の御力を嘲る者は、自分の罪が赦されないだけでなく、永遠に罪に対する刑罰を負わなければなりません。
主イエスの身内の者と律法学者たちは、主イエスの御業を悪霊の業であると非難し、彼らの心の頑なさがキリストの福音を聞くことの障碍となりました。
箴言第4章23節に「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」とあります。どうか、この心をお守りください。律法学者たちのように頑なにしてはいけません。わたしたちの心こそ聖霊が働かれるところです。わたしたちに信仰をお与えくださるところです。
聖霊が主権的にわたしたちの心に働きかけてくださり、わたしたちは自分たちの罪を、聖書から知らされます。聖霊がわたしたちをキリストの十字架と復活へと導かれ、わたしたちのすべての罪がキリストによって赦され、わたしたちは神の子とされ、神の御国の相続者であることを信じさせてくださいます。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第3章20-30節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
今朝より主イエスがどのように神の家族を形成されるかを学びます。どうかわたしたちの心をお守りくださり、聖霊が豊かにお働きくださり、主イエスの御救いの恵みを豊かにお与えください。
主イエスは、新しいイスラエル、教会を建て上げるために12使徒たちを選ばれました。そして彼らを中心に主イエスキリストの御言葉を聴く者たちをお集めくださいました。次週はそれが神の家族であることを学びます。どうかわたしたちをその一員にお加えください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教17 2020年2月16日
イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らせると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
マルコによる福音書第3章31-35節
説教題:「神の家族」
今朝は、マルコによる福音書第3章31-35節の御言葉を学びましょう。
前回は、マルコによる福音書第3章20-30節の御言葉を学びました。主イエスの身内の者たちが人々の主イエスは狂人になっているという噂を聞き、ナザレに連れ戻そうとしたこと、同時にエルサレムから律法学者たちが下って来て、主イエスは悪霊の頭であるベルゼブルによって悪霊を追い出していると診断を下して非難し、主イエスと論争になったことを学びました。
マルコによる福音書は、主イエスに押し寄せ、主イエスに従い、主イエスの御言葉に熱心に耳を傾けるガリラヤの群衆と主イエスの身内とエルサレムから下って来た律法学者たちをまるで色を白と黒に鮮やかに識別するように描いています。
そして、マルコによる福音書は、わたしたちに第3章20-35節を通して神の家族は、エルサレムの宗教的権威者によって、あるいは主イエスの身内によって造られるのではないと伝えています。主イエスの御言葉を聴き、神の御心を行う者によって造られると。
ガリラヤの民衆は、神の民ユダヤ人です。しかし、彼らはユダヤの国の辺境の地に住み、預言者イザヤがメシア預言で異邦人の地ガリラヤと言うように、神の律法を弁えず、神に救われない異邦人と同様の者たちと、エルサレムの宗教的指導者たちに軽蔑されていたのです。
ところが、マルコによる福音書は、主イエスのところに集まり、熱心に主イエスの御言葉に耳を傾けたのは、ガリラヤの民衆であり、ガリラヤの地の周辺の異邦人たちだったと証言しているのです。
主イエスは、彼の身内の者たちが真の神の家族ではなく、すなわち、新しいイスラエル、神の家族は、主イエスの御言葉を聴き、神の御心を行う者たちによって造られるのだと言われました。
それが今朝の御言葉がわたしたちに伝える主イエスのメッセージです。
今朝は、先に結論を語りました。主イエスはガリラヤでメシアの働きを始められました。ガリラヤで弟子たちを集められました。福音宣教し、病人を癒し、悪霊につかれた者から悪霊を追い出す奇跡をなさいました。ガリラヤでの主イエスの噂は、ガリラヤだけでなく、ユダヤの国、その都エルサレム、そして、ガリラヤの周辺にある異邦人たちの地まで広まりました。
群衆たちは、どこでも主イエスがおられると聞けば、押し寄せました。主イエスは、彼らが連れて来た病人、悪霊につかれた者たちを癒されました。群衆たちは自分たちが連れて来た病人が癒されると立ち去ったのではありません。彼らは主イエスを取り囲んで熱心に主イエスの御言葉に耳を傾けたのです。
そのようなところに狂人になったという噂を聞いて、ナザレから主イエスを連れ戻そうと主イエスの母と兄弟と姉妹たちがやって来たのです。
ここでもマルコによる福音書は、主イエスを取り囲んで熱心に主イエスの御言葉に耳を傾けている群衆とその集まりの外に立っている主イエスの家族の者たちを鮮やかに白黒に色分けして描いています。
主イエスは、主イエスを取り囲んでいる群衆たちの外に立って取り押さえに来た家族よりも、主の御言葉を聴いて、神の御心を行う群衆たちが主イエスの真の家族であると宣言されました。
マルコによる福音書は、わたしたちに癒しを求めて主イエスに押し寄せる群衆こそ真の神の民であると伝えています。なぜなら、押し寄せた群衆は32節で「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」と記しています。彼らは、癒しだけを求めたのではありません。主イエスの御言葉を熱心に聞いたのです。だから、主イエスは、34節で「周りに座っている人々を見回して言われた」のです。主イエスは御言葉を熱心に聴いている群衆たちを見回して、「あなたがたこそわたしの真の家族だ」と。
主イエスは、神の家族は血肉では生まれないし、世の宗教的権力者によっても造られないと言われているのです。主イエスが主権的に招かれ、招かれた者たちが主イエスの御言葉を聴き、神の御心を行うときに、神の家族が生まれます。血肉によってではなく、主イエスの御言葉によって結び付けられた新しい家族が生まれます。
ですから、主イエスは、押し寄せてくる群衆たちを癒されるだけでなく、彼らにいつも御言葉によって教えておられました。主イエスは12弟子たちだけを教えられたのではありません。群衆たちも教えて、神の家族を造ろうとされていたのです。
それがマルコによる福音書がわたしたちに伝えている主イエスのガリラヤ宣教です。
ガリラヤ宣教は主イエスが始められます。そして主イエスは、弟子たちを召され、その中から12使徒を選ばれます。この12使徒たちが新しいイスラエル、すなわちキリスト教会を建て上げていくのです。しかし、マルコによる福音書は、主イエスの弟子たちよりもガリラヤの群衆の方が先に主イエスを人々に伝えていることを記しているのです。
例えばマルコによる福音書は、1章40-45節で主イエスが重い皮膚病の人を癒された奇跡を記しています。癒された人は主イエスの癒しを人々に触れ回ったと記しています。こうして主イエスの癒しが人々に広まり、群衆が主イエスに押し寄せ、彼らは癒しの奇跡だけでなく、熱心に主イエスの御言葉を聴き、神の御心を行うようになったので、主イエスを群衆が囲むサークルが生まれた。それを、主イエスは今朝の御言葉で、ここに居る者こそ「わたしの兄弟、わたしの姉妹、わたしの母である」と言われました。
マルコによる福音書がわたしたちに伝える神の家族は、血肉によるものではありません。第一に主イエスがペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、レビという弟子たちを召されました。大勢の群衆が主イエスに押し寄せたのも、主イエスの招きなくして起こり得ません。神の家族は、主イエスが主権的に招かれた者たちから成るのです。第二に主イエスに招かれた者たちは、熱心に主イエスの御言葉を聴きます。主イエスの弟子たちは、熱心に主イエスの御言葉を聴いて、その教えを受け入れ、弟子として訓練されました。ガリラヤの群衆もしばしば主イエスを取り囲み、座って主イエスの御言葉を熱心に聴きました。そして主イエスを中心としたサークルが生まれました。第三に主イエスの弟子たちも群衆も福音宣教しました。このように福音宣教によってこの世の人々が主イエス・キリストの御救いに与ることこそ神の御心であり、御計画です。それに従事する者が神の家族です。だから、この世の福音宣教を担っているわたしたちの教会は神の家族です。わたしたちは主イエスの兄弟であり、姉妹であり、母です。
マルコによる福音書が描く民衆は主イエスに親しみを持っています。今朝の御言葉でも、主イエスの家族は主イエスのところに来ても、その仲間に入ろうとはしません。外に立って主イエスを呼び出し、捕らえようとします。
ところが群衆たちは、主イエスを取り囲み、座って熱心に主イエスの御言葉に耳を傾けて、主イエスと親しく交わっています。主イエスも彼らを「わたしの兄弟、姉妹、母である」と言われています。
主イエスは12使徒を任命されました。それと同じくらい重要なこととして、主イエスを取り囲み、その御前に座って主イエスの御言葉を熱心に聴いている群衆に、「あなたがたがわたしの兄弟、姉妹、母である」と宣言されました。
だから、わたしたちは、この礼拝に主イエスに招かれて、神の家族として交わるのです。神の家族として、主イエスを愛するように、兄弟姉妹を互いに愛するのです。そして共に神の御言葉を聴き、主イエスの救いの恵みに与る喜びを共にし、この世の人々にキリストの十字架の福音を伝えて行くのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第3章31-35節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
主イエスがどのように神の家族を形成されるかを学びました。神の家族、神の御国は、血肉によって生まれ、受け継ぐことができないことを学びました。
主イエスの招きなくして、わたしたちは神の家族の一員になることはできません。しかし、今わたしたちは主に招かれ、神の御言葉を聴き、ガリラヤの群衆だけでなく、わたしたちも主イエスの兄弟、姉妹、母であると言っていただき、心から感謝します。
神の家族の一員として、ガリラヤの群衆たちのように、主イエスの御救いの恵みを、この世の人々に、わたしたちの家族に伝えることができるようにしてください。
どうかわたしたちの教会に神の家族を増やしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教18 2020年3月1日
イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろ教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。またほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。
マルコによる福音書第4章1-9節
説教題:「期待以上の神の恵み」
今朝は、マルコによる福音書第4章1-9節の御言葉を学びましょう。
前回は、マルコによる福音書第3章31-35節の御言葉を学びました。主イエスの母と兄弟たちがやって来て、狂人になっていると人々が噂していた主イエスを捕えようとしました。彼らは、主イエスを取り囲み、熱心に主イエスの御言葉を聴いていた群衆たちの外に立っていました。エルサレムから下って来て、主イエスが悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出していると非難したファリサイ派の律法学者たちと同様に、主イエスに敵対していたと、マルコによる福音書は証言しました。
そして、マルコによる福音は、わたしたちに次のように証言しました。群衆たちのように熱心に主イエスの御言葉を聴く者たちこそ神の御心を行う者であり、主イエスの真の兄弟姉妹、母であると、主イエスは言われると。
本日よりマルコによる福音書の第4章に入ります。
マルコによる福音書は、主イエスの受難物語を別にしますと、ほとんどが主イエスの教え(言葉)と行動です。教えは、今朝の御言葉のように場所が設定されている場合とされてない場合があります。場所が設定されている箇所は、この4章のように大きなたとえ話集としてまとめられています。
さて、4章1-34節は、主イエスのたとえ話集です。後で学びます7章14-23節と4章1-20節は、文章の構成が似ています。これはマルコによる福音書がわざと似た構成にしているのです。
すなわち、第一に主イエスがたとえ話を語られること(4:1-9と7:14-15)、第二に弟子たちがたとえ話の説明を求めること(4:10と7:17)、第三に主イエスが弟子たちの無理解を叱ること(4:12と7:18)、第四に主イエスがもう一度たとえ話を分かりやすく解説されること(4:14-20と7:19-23)です。
4章10-12節の御言葉が7章のところに見当たりません。どうして主イエスがたとえ話をなさるのか、7章で主イエスは弟子たちに説明されていません。
マルコによる福音書は、4章1-2節で主イエスがたとえ話をなさった場所を設定しています。
「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろ教えられ、その中で次のように言われた。」
主イエスは、再びガリラヤ湖のほとりで、主イエスに押し迫ったおびただしい群衆に教えを始められます。主イエスは舟に乗り、岸辺にいる群衆たちにたとえ話をされました。
ところが10節を読みますと、群衆たちの姿は消えてしまい、主イエスと弟子たちだけになっています。
そして21節と24節で主イエスは「また、彼らに言われた」と、マルコによる福音書は記しています。なぜかわかりませんが、新共同訳聖書は21節の「彼らに」を訳していません。
マルコによる福音書の21節と24節の「彼らに」は弟子たちだけに限定できません。というのは、主イエスのたとえ話の結語である33節と34節を読みますと、主イエスのたとえ話が群衆に向けて語られたことを、マルコによる福音書は証言しているからです。
4章の主イエスのたとえ話集の流れの中で、わたしたちはマルコによる福音書が次の二つのことを指摘していることに気づかされます。第一に主イエスが弟子たちの無理解を、彼らが主イエスの御言葉を聴いても理解していないことを指摘されています。
そして、第二に今主イエスの御言葉を聴くわたしたちの姿勢を、聖霊と御言葉を通して復活の主イエスが問われているという指摘です。
だから、主イエスのたとえ話を聞いた群衆たちと弟子たちと共に、今主イエスのたとえ話を聞いているわたしたちも、復活の主イエスは「よく聞きなさい」と呼びかけられ、「聞く耳のある者は聞きなさい。」と呼びかけられているのです。
マルコによる福音書でたとえ話をされている主イエスは、どこに向かわれているのでしょうか。ガリラヤからエルサレムへ、ゴルゴタの十字架へと向かわれているのです。そして主イエスは復活され、御国に帰られます。聖霊に導かれて主イエスのたとえ話を聞いて理解した者は、主イエスのたとえ話が神の御国、神の御支配のお話であると理解するのです。その者は、わが身を主イエスに委ね、主に導かれて神の御国へと歩み出すのです。
だから、主イエスは押し迫る群衆に、彼らが分かる範囲で、彼らの日常生活をたとえて、神の御国、神の御支配をお話になりました。
主イエスにとって押し迫る群衆たちは、主イエスの教えを熱心に聴く、真の神の家族です。主イエスは、彼らに御自身のたとえ話を理解できないようにされたのではありません。むしろ、彼らの理解力の小ささに合わせられて、彼らに理解できるたとえ話をされました。
主イエスは弟子たちには更に深く理解できるように、御自身がたとえ話をされる意義を説明され、そのたとえ話を解説されました。
そういう意味で弟子たちは恵まれた立場にいました。しかし、彼らは、主イエスのたとえ話が彼らの生きる本質を方向付けることを理解できませんでした。
ですから、彼らは主イエスに教えられたことを記憶していましたが、主イエスのたとえ話の本質を理解できませんでした。
マルコによる福音書は、主イエスがガリラヤに行かれ、神の福音を宣教され、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたことを記しています。
神の子主イエス・キリストがこの世に来られたのです。同時に神の御国、すなわち、神の御支配が始まったのです。そのしるしとして、主イエスは悪霊を追い出す奇跡をなさいました。そして、この4章で神の御国のたとえ話をされました。
さて、3-8節は、主イエスの種蒔きのたとえ話です。「「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐに芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。またほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」」
主イエスのお話のアクセントは、種を蒔く農夫ではなく、農夫が蒔いた種にあります。
パレスチナの農法は、農夫が土地に最初に種を蒔き、地を耕します。だから、主イエスのこのたとえ話のポイントは、種を蒔く農夫ではなく、蒔かれた種にあります。
種がまかれるパレスチナの土地は、人が通る小道があり、地表のすぐ下が石灰岩層のところがあり、茨に覆われたやせた地がありました。
それゆえ主イエスは種を蒔く農夫を一言も非難されていません。良い農夫が種蒔けば、多くの収穫を得、悪い農夫が種蒔けば収穫がないと話されていません。種蒔きは農夫の知恵と能力に依りません。
種が地のどこに落ちるかが問われています。小道に落ちれば、鳥の餌になり、収穫を得ることはできません。石灰岩層の地に落ちれば、種の成長は早いですが、日照りで地が乾燥し、種が芽生えても、根が張れないので、枯れてしまいます。茨に覆われた痩せた地に種が落ちると、茨の方が早く成長し、種が芽生えても、成長することができません。しかし、種が不毛の地ではなく、良い地に落ちれば、その種は30倍、60倍、100倍の実を結ぶことができます。
たとえ話の原型を復元することは難しいでしょう。しかし、この種蒔きのたとえ話は、次のような主イエスのメッセージを伝えていたのではないでしょうか。すなわち、期待以上の神の恵みがあるということです。
パレスチナの農夫の種蒔きと同様に、主イエスのガリラヤ宣教はキリストの十字架の死で終わりました。弟子たちには絶望だけが残りました。しかし、彼らの期待以上に、神は恵みによってキリストを復活させ、聖霊を教会に与え、神の御国のという豊かな恵みに与らせてくださいました。
この世の教会は、時が良くても悪くても福音宣教をしなければなりません。その時蒔かれた福音の種は、人々の心に植え付けられます。教会は福音宣教の度に多くの人々が信仰を持ち、教会が大きくなることを期待します。しかし、その期待は裏切られ、教会の伝道は失敗し、教会とキリスト者たちはこの世にあって多くの伝道の困難にぶつかり、人々の心の頑なさに出会います。
教会もキリスト者も、いろいろと伝道を試み、失望することが多いのです。しかし、主イエスは、言われるのです。人の心を良い地になさるのは、主御自身であると。
聖霊が人の心を良い地に変えて下されば、その心に福音の種が落ちれば、教会もキリスト者も期待以上の神の恵みを見ることになります。
何よりも、わたしたちが目にする教会と神の御国は違います。目に見えない神の国は、今ここにあり、わたしたちの期待以上の神の恵みによって多くの者たちが入ろうとしているのです。
神の御国は、農夫が蒔いた種のように地に隠されて、人の目に見えない形で成長します。同じように福音の種も、人の目に覆われた心の中で成長するのです。聖霊が人の心に蒔かれた福音の種を成長させてくださいます。
だから、主イエスは、言われるのです。「聞く耳のある人は聞きなさい」と。
「あなたがたは、福音の種蒔きに行く。それ以上のものは何もないかもしれない。しかし、神は人の心を良き地に耕し、福音の種を30倍、60倍、100倍に実らせてくださる。神の御国にはあなたがたの期待以上の神の恵みによって数知れない者たちが入れられている」と。
あなたは、この教会を出て行って、家族の者に、近隣の人々に、友人たちに、キリストのことを、福音の種を蒔きに出て行くだけでよいのです。後は神があなたの期待以上の恵みによってこの世の教会が、キリスト者たちが蒔きます福音の種を、神は人の心を良い地に耕し、30倍、60倍、100倍にしてくださると、主イエスはこのたとえ話で約束されているのです。
わたしたちは、この主イエスの約束を信じて、いろんな困難に出会っても、主イエスにわが身を委ねて、主イエスの御後を追い続けましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第4章1-9節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
主イエスの種蒔きのたとえ話をとおして、期待以上の神の恵みについて学びました。
どうか、わたしたちが目に見えるものではなく、見えないものに、主イエスの御言葉の約束にわたしたちの心を堅く結びつけることができるように、信仰の恵みと力をお与えください。
教会の現実は常にパレスチナの農夫と同じように、厳しい現実です。成果なく、むしろ、危機が迫っています。しかし、主イエスは、パレスチナの農夫のように、福音の種を蒔くだけで善いと言われます。
神が人の心を耕し、その良い地に福音の種を30倍、60倍、100倍にすると、主イエスは約束してくださいました。
どうか、わたしたちに、見た目以上の、期待以上の神の恵みを見させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教19 2020年3月8日
イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
マルコによる福音書第4章10-12節
説教題:「神秘を理解する恵みは神から」
今朝は、マルコによる福音書第4章10-12節の御言葉を学びましょう。
前回は、マルコによる福音書第4章1-9節の御言葉を学びました。主イエスは再び12弟子たちと一緒にガリラヤ湖の湖畔に行かれました。押し迫る群衆を避けて、舟で沖に出られ、湖畔に集まりました群衆たちに種蒔きのたとえをお話になりました。
たとえ話は、主イエスが神の国の福音を、具体的な日常の言葉で教える方法です。マルコによる福音書では、今朝の4章11節で主イエスが「神の国の秘密」をたとえ話で語ると言われています。主イエスのたとえ話は、聞く者によっては「秘密」の話です。謎の言葉です。
たとえ話は、主イエスの聴衆の日常の世界から話の教材が得られています。種蒔きのたとえ話は、パレスチナの自然と土地と農夫の種蒔きから話の教材を得ています。
主イエスがたとえ話をされる目的は、聴衆を慰めることと彼らに要求するためです。主イエスはたとえ話で聴衆である12弟子たちや押し寄せる群衆たちを変革しようとなさっているのです。
さて、マルコによる福音書は、10節で「イエスがひとりになられたとき」と記しています。これは、主イエスが押し寄せる群衆たちから離れられたという意味でしょう。
おそらく主イエスは、いろいろなたとえ話を終えられると、舟を岸辺に着けて、群衆たちから離れられました。
マルコによる福音書は、続けて10節後半でこう記しています。「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。」
今朝の御言葉は、主イエスが一つの振る舞いによって、たとえ話がどういうものかを実際にたとえ話について質問した12弟子と主イエスを取り囲み熱心にたとえ話を聞いていた人々に解説されているのです。
主イエスのたとえ話の秘密を解解明できるのは、今主イエスにたとえ話について質問している12弟子たちと主イエスを取り囲み熱心にたとえ話を聞いている人々であると、マルコによる福音書はわたしたちに証言しているのです。
「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」とは、主イエスが復活された後に、聖霊降臨により生まれる初代教会です。マルコによる福音書は、9節で主イエスが種蒔きのたとえ話を終えられた時に、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたことを記しています。マルコによる福音書は、知っているのです。主イエスのたとえ話は、熱心に聞き入る聴衆にのみ、主が説き明かしてくださるのです。
これは、わたしたちが今ここで礼拝説教である神の御言葉を聴くことにもつながっていると思うのです。
次週で学びますが、マルコによる福音書が主イエスの種蒔きのたとえ話を、初代教会がどのように聴いたかを伝えています。主イエスは12使徒たちと彼を取り囲み熱心にたとえ話を聞いた人々に4章13節から20節でたとえ話の秘密を解説されました。それは、初代教会が聞いた主イエスの御言葉です。
初代教会は、主エスのたとえ話を、初代教会が置かれている状況の中で聞いたのです。主イエスは聖霊を通して、初代教会の新しい聴衆に、新しい解釈をお与えになりました。
こうして11節前半で「イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」」という主イエスの約束は、実現したのです。
だから、毎週礼拝を通して、わたしたちは神の御言葉である聖書の説き明かし、説教を聴き続けます。それは、聖霊を通して主イエスがわたしたちに神の国の奥義を解説してくださっていることなのです。
主イエスは、12弟子と共に集まって熱心に神の御言葉を聴く者たちに、そして続いて、現在のキリスト教会で神の御言葉を聴き続けるわたしたちに、聖霊を通してその時、その時代に聖書の神の御言葉を、主イエスの御言葉を、神の国の奥義の解明を託されているのです。
だから、教会の中で、交わりが大切です。その交わりは、主イエスがこの教会に託された神の恵みに分かち合いから始まるのです。
神の恵みを分かち合うことができれば、わたしたちはそれぞれ大変な状況の中に置かれ、教会も危機的な状況に置かれていても、常に主イエスから慰めを得、主イエスが今のわたしたちにどう生きてほしいのかを理解し、聖霊の導きで主イエスの御前に常に生きることができるのではないでしょうか。
ところが、主イエスは、御自身のたとえ話を理解できないようにされている人々がいると言われています。
11節後半から12節です。「外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、
『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、
こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」」
主イエスは「外の人々には」主イエスのたとえ話は謎のままであると言われているのです。
マルコによる福音書が言う「外の人々」とは、ファリサイ派の人々、律法学者たち、主イエスの肉親たちです。主イエスを取り囲み、主イエスの御言葉に熱心に耳を傾けない人々です。
「すべてがたとえで示される」とは、主イエスの言葉が謎のままに残るということです。この礼拝で説教を聴いて、理解することは、神の恵みです。
何よりも聖霊がわたしたちの心を開かれなければ、生まれながらの罪人であるわたしたちの心は頑ななままです。今朝の御言葉が自分の命を左右するかもしれません。しかし、無関心のままです。聞いても心は頑迷です。すなわち、今神の恵みによって父なる神がどんなにわたしたちを愛して、御子イエスをこの世に遣わされ、わたしたちを永遠の滅びから救われたか、その神の愛の道理を理解することができません。
だから、主イエスは、預言者イザヤの御言葉を引用されて、神の恵みの外にいる人々に、こう言われました。「『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」
主なる神は、ウジア王が亡くなった年に、イザヤを預言者に召されました。そして主なる神は、彼に神の民たちの心を頑なにする主なる神のメッセージを語るように命じられました。
「主は言われた。『行け、この民に言うがよい よく聞け、しかし理解するな よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく その心で理解することなく 悔い改めていやされることのないために。』」(イザヤ6:9-10)。
「よく聞け」「よく見よ」は、聞き続けよ、見続けよ、と、動作の連続と繰り返しが強調されています。預言者イザヤは、エルサレム神殿で聖なる神と出会い、罪の赦しの体験をし、神の民たちに証ししました。しかし、彼の体験の証しを聞いても、神の民たちの心はさらに頑なになりました。
神の民たちは、出エジプトの後に曠野の40年間主なる神に反抗し、心を頑なにしました。そして、時代が変わっても、神の民たちの心の頑なさは変わりませんでした。
申命記29章2-3節で主なる神は、モーセを通して神の民たちに次のように語られました。「あなたはその目であの大いなる試みとしるしと大いなる奇跡を見た。主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」
このように聖書は一貫して、神の民は神の御業を体験し、その体験は彼らの礼拝で聞き続けられ、見続けられたにもかかわらず、主なる神は彼らに悟る心を与えられませんでした。だから、彼らは、神殿で主なる神を礼拝し続けていたのに、今彼らに与えられている神の恵みを聞いて、あるいは見て、主なる神と共に生きることができませんでした。
主イエスは、今も同じだと言われるのです。教会で礼拝が続けられ、そこに目には見えない主イエスがおられます。主イエスは、聖霊と御言葉を通して今もわたしたちを救われています。わたしたちは、毎週その場に居合わせ、この目で見て、この耳で主イエスの御言葉と救いの御業を見ているのです。
ウェストミンスター小教理にキリストは預言者、祭司、王の職務を果たして、わたしたちの救いを為されていることを告白しています。
しかし、わたしたちは、礼拝においてその主イエスの救いのお働きを、目で見て、耳で聞いていますのに、実際にそれを信仰によって理解しているでしょうか。
この礼拝を通して、そこでわたしたちが見ているものによって、あるいは聞いているものによって、今ここに主イエスが居てくださると、今その喜びをわたしの心は感じていると、そして、ここで今わたしに語られる主イエスに従おうとしないのであれば、マルコによる福音書はわたしたちのこの礼拝は見かけだけのものとなり、祝福はないというのです。すなわち、わたしたちが神の民たちのように神に立ち帰ることができず、罪を赦されることもないというのです。
マルコによる福音書の「外の人たち」は、ファリサイ派の人々や律法学者たちのように不信仰な人々、不敬虔な人々のことです。心を頑なにして、主イエスの御言葉に耳を傾けない人々です。
その人々は、教会の礼拝で神の御言葉を聴く心の頑なわたしたちでないでしょか。最初から神の御言葉に心を閉ざすなら、それはあなたにとって礼拝が無意味であるということです。
神の恵みゆえに、わたしたちは、ここで神の御言葉を聴くことができ、隠された神の真理を理解できるように導かれるのです。
また、神の恵みと憐れみなくして、わたしたちは神の御言葉を聴いて、神に立ち帰り、罪を赦されることはありません。
だから、今こうして礼拝し、神の御言葉を聴き、聖餐の恵みに与れることを、洗礼の恵みに立ち会えることを、心から喜ぼうではありませんか。
確かにわたしたちは、神の御言葉を聴くことで、キリストの十字架によってわたしたちの罪が赦され、復活によって永遠の命が保証されているという祝福をいただくことができるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第4章10-12節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
どうか、わたしたちを憐れみ、わたしたちの心を頑なにしないでください。
素直に主イエスの御言葉を聴く耳をお与えください。聖餐の恵み、洗礼の恵みを通して、今ここに臨在される主イエスがわたしたちを救われていることを見させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教20 2020年3月15日
また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらく続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
マルコによる福音書第4章13-20節
説教題:「福音宣教の困難さの中に隠された神の恵み」
今朝は、マルコによる福音書第4章13-20節の御言葉を学びましょう。
前回は、マルコによる福音書第4章10-12節の御言葉を学びました。主イエスは12弟子たちと彼を取り囲み熱心に御言葉を聞く者たちに、どうしてたとえでお語りになるかを説明されました。
たとえは、謎の言葉という意味です。だから、神の恵みによって聞く者が主イエスのたとえ話を理解し、解釈できるように導かれなければなりません。
マルコによる福音書は、4章2節から32節まで主イエスが種に関する3つのたとえ話を語られた後に、33-34節でこういうに記しているからです。「イエスは人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」
マルコによる福音書がわたしたちに伝えようとしていますのは、次のことです。主イエスのたとえ話を聞く者は、それを無にすることなく、彼らの生活の中で豊かに実を結ぶようにしなければならないということです。だから、キリスト教会を建て上げる中心となる12弟子たちに、主イエスはひそかにたとえ話をすべて解釈し、説明されました。
その実例の一つが、今朝学びます14-20節の御言葉です。
その御言葉を学ぶ前に、もう少しマルコによる福音書の主イエスのたとえ話集が今の形になる過程についてお話ししたいと思います。
マルコによる福音書が福音書という形で最初に作られました。エルサレムの都と神殿がローマ軍によって破壊され、滅亡した紀元70年代に作られたと考えられています。
マタイによる福音書は、「また、イエスは言われた。」という文章で、種に関する3つのたとえ話をつないでいます。そして、4章1節に主イエスがこの3つのたとえ話をされた背景を記しています。
それから主イエスは種蒔きのたとえを語られます(2-8節)。
主イエスは、話し終えると、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われ、押し迫る群衆から離れた所に行かれます。主イエスは、主イエスのたとえ話を聞く者たちの責任を問われて、その場を離れられます。
その時に12弟子たちと主イエスを取り囲み熱心にたとえ話を聞いていた者たちがそのたとえについて質問し、主イエスは彼らにたとえで語る理由と語られたたとえについて説明をされています。それが、今朝の御言葉です。
このようにマルコによる福音書を見て行きますと、たとえ話は、主イエスが語られる神の国の福音の御言葉であり、何よりも主イエスの語られる福音を聞くことの重要性を教えられます。
わたしたちは、この礼拝に備えて祈って来たでしょう。牧師の説教のために祈ってくださったでしょう。「今朝聖書の御言葉を説き明かす牧師の説教を、主イエスよ、あなたが語られる福音として聞き、受け入れ、その御言葉によってこの一週間を歩ませてください」と。
このように主イエスの御言葉を、神の御言葉を聞くことは、わたしたちの責任です。「聞く耳のある者は聞きなさい」という主イエスの命令は、たとえ話を聞く12弟子たちや群衆たちだけでなく、今ここに居るわたしたちにも聞くという責任を問われているのです。
そしてこの聞くという責任を、わたしたちが果たすならば、教会とわたしたちキリスト者のこの世における宣教がどんなに困難であろうと、見た目には絶望と思えても、必ず主イエスは、豊かな実を結ばせる神の恵みをお与えくださるのです。
主イエスの種を蒔く人のたとえ話は、主イエスの宣教が多くの困難があろうと、神の驚くべき恵みによって神の国が実現し、異邦人を含む多くの神の民が招かれるという話だったのではないかと、わたしは想像するのです。
しかし、13節で主イエスは、12弟子たちにこう言われています。「「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」」
主イエスのたとえ話を、弟子たちは主イエスの説明なしに理解できませんでした。
そこでマルコによる福音書は、わたしたちに主イエスが弟子たちに種蒔きのたとえ話を説明されるという形で、初代教会がこのたとえ話を、今主イエスの福音を聞く者の態度について教えるものとして理解したことを伝えています。
マルコによる福音書は、初代教会の福音宣教という状況からこのたとえを理解したのです。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(14節)。「神の御言葉」は教会の福音宣教を表す専門用語です。教会の福音宣教がたとえられているのです。種を蒔く人は福音宣教者、伝道者です。種は、彼らが語る使信です。その使信とは、主イエスが宣教した神の御国の福音です。
そして福音宣教を聞く者たちに、4つのタイプがあるというのです。道端に蒔かれた人々、石だらけの所に蒔かれた人々、茨の中に蒔かれた人々、そして良い土地に蒔かれた人々です。
「神の御言葉」を、本田哲郎神父は「神を告げるできごと」と意訳されています。教会はキリストの十字架と復活の福音を伝えているのです。
神が神の子イエス・キリストの十字架を通してわたしたち罪人を愛し、救われたという喜びを伝えています。
道端に蒔かれた人々とは、教会と宣教者が福音宣教しても、サタンが来て、使信を奪われる人々のことです。サタンはキリストを妨害し、その御救いを無効にしようとしたように、教会と宣教者たちの福音宣教を妨害しようとします。サタンはキリストの使信が人の心に届かないようにしようとしているのです。サタンは、教会の福音宣教の最大の敵として活動を続けているのです。教会とキリスト者たちは、サタンによってキリストの福音を頑なに受け入れようとしない人々に出会うのです。
第2と第3のタイプは、改宗者たちに対する教会の宣教の体験を背景にしています。第2と第3のタイプの人々に、教会と宣教者たちは繰り返し福音宣教するのです。
第2の石だらけの所に蒔かれた人々は、最初は喜んで聞くのです。ところが、彼らが聞いた御言葉に忠実に従おうとすると、この世において迫害があり、艱難があります。彼らの心に福音の種が根づかないので、彼らは迫害や艱難に出会うと、教会から離れてしまうのです。
第3のタイプの人々は、茨の中に蒔かれた人々です。教会と宣教者は繰り返し彼らにキリストの使信を語ります。しかし、彼らの心を占めるのは福音ではありません。この世の思い煩いであり、欲望です。お金や出世、この世の名誉が彼らの心を占めており、何度福音を聞いても、彼らの心はキリストに向かうことはありません。
このように教会の福音宣教は、この世にあっては困難と失望の連続です。
その困難さの中で、マルコによる福音書は神の恵みを見続けたのです。神は、神の御国を実現しようとなさるだけでなく、そこに入る者たちを備えてくださるのです。
良い土地に蒔かれた者たちを、神は常に、いつの時代にも備えていてくださるのです。
彼らは、過去にキリストの福音を聞いたのです。神が彼らの心を開いてくださり、祝福してくださり、彼らの心の畑に福音の種は、信仰の芽を出し、育ち、そして今豊かな実りを結んでいるのです。
彼らは、神の恵みの御力によって聞いた福音に、すなわち、キリストの十字架と復活の出来事に感謝をもって応答するのです。信仰という実を結ぶのです。そしてどんな迫害や困難があり、この世界が変化しても、金や名誉というこの世の誘惑があっても、教会で礼拝を続け、神の御言葉を聞き続けるのです。そして、彼らは家族や隣人、知人にキリストの福音を証しします。それによって次から次へとキリストの福音の種が人々の心に蒔かれていくのです。
そして、マルコによる福音書は、わたしたちにこのようにして教会の福音宣教を通して、ナザレのイエスこそ神の子イエス・キリストであることが世の人々に伝えられていくことを伝えているのです。
今この世界に伝えられているのは、新型肺炎、コロナウィールスの脅威です。その脅威で教会の礼拝を閉じている所もあります。神の子イエス・キリストの福音が語られることを、今もサタンは妨害しようとしているのです。
コロナウィールスが世界中に蔓延し、世界の政治と経済を混乱させ、人々の心は感染を恐れ、この世での命と富と名誉が失われることを恐れています。
だからこそ、今教会は神の国の福音を世の人々に告げ知らせなければなりません。礼拝を続け、御言葉を聞き続け、キリストの十字架と復活の御業を世の人々に伝えなければなりません。
教会は、福音宣教を通して世の人々に神の恵みを伝えるのです。キリストの十字架によって罪が赦されており、キリストの復活によってわたしたちは死から永遠の命の喜びに移されていることを伝えなければなりません。
死人の中から復活された主イエスこそ、わたしたちをコロナウィールスの恐怖から解放してくださると。
マルコによる福音書がわたしたちに伝えようとしている大切なことは、教会は常にこの世において福音宣教という使命を与えられていますから、どんな状況にあってもキリストの福音を聞いただけでは十分ではありません。教会の困難さの中にある神の恵みの力を見なければなりません。その神の恵みに信頼し、今置かれた状況に中で聞いた福音を生かさなければなりません。
あなたの信じているキリストは、あなたの生活の中で生きて働かれ、このコロナウィールスの災いの中でも、あなたを守り、あなたとあなたの家族、隣人と友人の救いのために、上諏訪湖畔教会とあなたをキリストの福音を伝える器として用いてくださっていますか。その神の恵みを今見ていますか。
これがマルコによる福音書の、今のわたしたちへのメッセージです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第4章13-20節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
どうか、わたしたちに教会とわたしたちの福音宣教をとおして神の恵みの御力を見せてください。
ガリラヤで働かれた主イエスが、今も生きて、この教会とわたしたちのために救いの御業を為されていることを、信仰によって見させてください。
礼拝で神の御言葉を聞き続け、聖餐と洗礼の恵みを通して、今ここに臨在される主イエスがわたしたちを救われていることを見させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。