マルコによる福音書説教11 2019年11月10日
イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
マルコによる福音書第2章13-17節
説教題:「罪人を招く主イエス」
今朝は、マルコによる福音書第2章13-17節の御言葉を学びましょう。
前回、主イエスが中風の人を癒された事件を通して、主イエスと律法学者たちの論争を学びました。すなわち、主イエスに人の罪を赦す権威があるのかという論争です。
主イエスは中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言されました(マルコ2:5)。それを聞いた律法学者たちは心の中で非難したのです。人の罪を赦す権威は神だけがお持ちであり、イエスは神を冒涜していると(2:7)。
主イエスは、御自身が神と同等であり、罪を赦す権威を持っていることを、彼らの心を見抜くことと中風の人を癒す奇跡を通して証しされました。
今朝は、主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの第二回目の論争を学びましょう。
主イエスは再びガリラヤ湖のほとりを歩かれ、収税所に座っているレビ、すなわち、マタイによる福音書の著者であるマタイを御覧になりました。収税所がレビの仕事場でした。そこに官吏の詰め所があり、通行人の取り調べと税の徴収を行っていました。
そして、その仕事場でレビはペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ同様に「わたしに従いなさい」(マルコ2:14)と、主イエスに召されました。
レビは主イエスの召しに立ち上がって、即答しました。彼もまた仕事を捨てて。そして主イエスの弟子として、従いました。
その後彼は、彼の家に大勢の徴税人たちや罪人たちを食事に招待しました。主イエスと彼の弟子たちも招かれました。ファリサイ派の律法学者たちはレビの家の食事に同席しませんでした。彼らは、主イエスの為さることを見守っていました。
ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスの弟子たちに「どうしてあなたがたの先生は、宗教的に汚れている徴税人たちや罪人たちと食事をするのか」と質問し、主イエスの行為を非難しました(マルコ2:16)。
すると主イエスは、彼らの非難を聞いて、答えられました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と(マルコ2:17)。
以上が今朝の御言葉の筋であります。
では、もう少し今朝の御言葉を深く学びましょう。
マルコによる福音書は、13節に「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」と記していますね。
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた」という、この文章は1章16節の「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった」という御言葉と関連付けられています。
主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩かれて、漁師のペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネを御覧になり、「わたしに従いなさい」と命じて弟子とされました。同様に主イエスは再びガリラヤ湖のほとりを歩かれて、収税所に座っているレビを御覧になり、「わたしに従いなさい」と命じて弟子とされました。
それだけではありません。ガリラヤ湖のほとりを歩かれる主イエスの後を大勢の群衆たちがついて来て、彼を取り囲みました。「イエスは教えられた」とは、主イエスが大勢の群衆にユダヤ教の律法学者たちのように教えられたということです。しかし、主イエスの教えを聞く群衆たちは、主イエスが律法学者たちのようではなく、権威ある者として教えられるのを聞いて、驚いたことでしょう(マルコ1:27)。
さて、マルコによる福音書を読んでいますと、主イエスが弟子を召されることに一つのパターンがあります。ガリラヤ湖のほとりを歩かれていること、仕事中のペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてレビを御覧になったこと、主イエスは彼らに「わたしについて来なさい」と呼びかけられたこと、主イエスの呼びかけに、弟子たちは無条件に即座に応答し、すべてを捨てて、主イエスに従ったことです。
14節の「イエスに従った」は、主イエスへの信従を表す決まり文句です。誰かの後について行くという意味から、主イエスに信従するというキリスト教用語が生まれました。
マルコによる福音書は、15節で「実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」と、大勢の群衆が主イエスに信従していたことを伝えています。
マルコによる福音書は、12弟子たちだけでなく、大勢の群衆が主イエスに従うことを、信従者たちの群れになることを記しています。3章7節、4章1節にも同様の記述があります。
主イエスは、ガリラヤで福音宣教し、大勢の人々を教え、主イエスに信従する群れを形成されました。これがマルコによる福音書が描いている伝道と教会形成です。
マルコによる福音書は、わたしたち読者にレビが主イエスの弟子に召された事件を通して、二つのことを伝えています。
第一は、主イエスへの信従です。主イエスの「わたしに従いなさい」という招きに無条件で答えて、即座に主イエスに信従する、それが主イエスの弟子です。
第二は主イエスが徴税人たちと罪人たちと食事をされたことです。
マルコによる福音書は、15節でこう記しています。「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」。
レビの家の食事は、主イエスが主人です。主イエスは、徴税人たちと罪人たちを同席されました。そして彼の弟子たちも同席していました。
主イエスと共に食事をするのは、徴税人たちと罪人たちです。徴税人はローマ帝国とガリラヤの領主ヘロデから税金の取り立てを委託された者です。ユダヤ人にとってローマ帝国の皇帝とガリラヤの領主ヘロデは異邦人の支配者です。ユダヤ人にとって異邦人はモーセ律法の食物規定を守らないので罪人であり、宗教的に汚れた者です。
徴税人たちは、その宗教的に汚れた異邦人たちのために働いていました。また、税金を取り立てる時に、水増しをして多く税金を取りたて、私腹を肥やしていたのです。ですからファリサイ派の人々は、彼らを売国奴、罪人と蔑(さげす)み、交わることで、宗教的に汚れることを、嫌いました。
ここでマルコによる福音が「罪人」と呼んでいるのは、モーセ律法を守ることの出来ない人々です。彼らは宗教的に身を汚して、エルサレム神殿の礼拝にあずかれませんでした。
だから、マルコによる福音書は、16節で彼らの主イエスへの非難をこう記しています。「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。」
ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスを心の中で非難することから、弟子たちに質問する形で、主イエスが徴税人や罪人と食事を為さったことを非難しました。
マルコによる福音書は、17節で「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と記しています。
「「医者を必要とするのは、丈夫なひとではなく、病人である。」」は、主イエスの時代の人々の諺であったでしょう。
主イエスは、医師と病人の関係を教える諺を用いられて、ファリサイ派律法学者たちの誤った考えを正そうとされました。
医者の仕事は病人の病気を治すことです。だから、健康な人に医者は必要ありません。
主イエスは、命の医者です。罪を赦す権威を持たれた主イエスを、義人、正しい人は必要ありません。神の道から外れた罪人を招いて、その罪を赦し、神との関係を回復するために、主イエスはこの世に来られました。
マルコによる福音書が「罪人」と言うのは、わたしたちの罪人理解と少し違うように感じます。
わたしたちは使徒パウロの罪人理解です。自己の内面における罪意識を認める者のことです。
ところが、マルコによる福音書は、ファリサイ派の人々に対する罪人です。ファリサイ派の律法学者たちはユダヤ民衆の宗教的指導者であり、ユダヤ教という宗教の担い手でした。彼らは、ユダヤの民衆にモーセ律法を遵守させました。彼らは、律法を守らない者たちを罪人と軽蔑したのです。徴税人、売春婦、羊飼いたち、異邦人たちはその代表でした。
主イエスが「わたしが来たのは」と言われたのは、主イエスが父なる神の御心に沿ってなされる御救いの全貌を表しています。神の民なのに神の律法を守れない者、神の律法の下で義人でなく、罪人と蔑まれている者を、御自身のところに招いて、彼らの罪を赦し、彼らを父なる神の子に回復するために、主イエスは神の子イエス・キリストとしてこの世に来られたのです。
だから、主イエスは、罪人である徴税人レビのところに来られました。主イエスは彼を弟子に招かれました。そして彼に家で大勢彼の仲間を招いて食事をされました。彼らは主イエスに罪を赦され、共に食事をし、もう一度神の民として生きる喜びを与えられました。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第2章13-17節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
主イエスは、レビを弟子に召され、彼の家で大勢の徴税人たちと罪人たちと食事されました。
ファリサイ派の律法学者たちは、罪人たちと食事する主イエスを非難しましたが、主イエスは医者が必要なのは健康な人でなく、病人であるように、わたしは正しい人ではなく、罪人を招くために来たと言われました。
主イエスのみがわたしたちの罪を赦すことがおできになり、わたしたちを滅びから命へと救ってくださることを感謝します。
どうか主イエスよ、わたしたちもあなたに召され、あなたの食卓に招かれ、教会という船に乗って、御国へとお運びください。
上諏訪湖畔教会の礼拝において御言葉を聞き、心から救われた喜びを、わたしたちの国籍が天にあることを喜び、賛美させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教12 2019年11月17日
ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継を当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
マルコによる福音書第2章18-22節
説教題:「新しいぶどう酒は新しい革袋に」
今朝は、マルコによる福音書第2章18-22節の御言葉を学びましょう。
前回、主イエスが徴税人レビを弟子に召されたことを学びました。その事件を通して、再び主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの間に論争が起こりました。その論争は、主イエスがレビの家で徴税人たちや罪人たちと一緒に食事をされたことが原因でした。
ファリサイ派の律法学者たちは、ユダヤの民衆にモーセ律法を守らない者たちを罪人と教えていました。罪人の中に徴税人たち、悪霊につかれた者たち、病人たち、売春婦たち、安息日律法を守れない者たちがいました。律法学者たちは民衆たちに罪人たち宗教的に汚れた者たちであると教え、交際を禁じていました。
ところが主イエスは弟子たちを伴い、レビの家で彼らと食事を共にされました。そこでファリサイ派の律法学者たちは、主イエスの弟子たちに「どうして彼は宗教的に汚れた者たちと食事を共にするのか」と言って、主イエスを非難したのです。
彼らの非難を聞かれた主イエスは、彼らにこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。
主イエスが「わたしが来たのは」と言われたのは、主イエスが父なる神の御心に沿ってなされる御救いの全貌を表しています。主イエスは、神の民なのに神の律法を守れない者、神の律法の下で義人でなく、罪人と蔑まれている者を御自身のところに招いて、彼らの罪を赦し、彼らを父なる神の子に回復するために、神の子イエス・キリストとしてこの世に来られたのです。
今朝は、主イエスとファリサイ派の人々との断食論争を学びましょう。18節の「人々はイエスのところに来て言った」という文章は、今までの流れから、ファリサイ派の人々あるいはファリサイ派の律法学者たちと、わたしは推測できると思います。
マルコによる福音書は、「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」と記しています。
「ヨハネの弟子たち」は洗礼者ヨハネの弟子たちです。マルコによる福音書1章4-5節に洗礼者ヨハネの宣教を次のように記しています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」
洗礼者ヨハネは荒れ野で罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を、ユダヤ人たちに施し、彼を中心に弟子たちのグループが形成されていました。弟子たちは、ヨハネから悔い改めの洗礼を受け、断食と清めの要求を守り、また、ヨハネから祈りを教えられていました。
「ファリサイ派の人々」はユダヤ教の一派です。紀元前2世紀ごろハスモン王朝の時代にユダヤ教のファリサイ派が形成されました。その担い手はユダヤ社会の中流から下層の人々でした。ファリサイ派の律法学者たちは熱心に聖書と父祖たちの伝承を研究し、民衆に教えました。上流階級の祭司たちから成るサドカイ派とユダヤ教の宗教界を二分していました。ファリサイ派の人々は、ユダヤ民衆に安息日を守ること、断食、施しを行うこと、宗教的な清めを特に強調しました。律法を守らない罪人たちから自分たちを分離し、自らを敬虔な者と誇っていました。
マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、今も昔も継続して断食をしている。断食を欠かしたことがないと記しているのです。
「断食する」はマルコによる福音書には、18-20節に5回出てきます。ユダヤ教は律法によって断食が命じられていました。その日は贖いの日でありました。これはすべての神の民が守らなければなりませんでした。なぜなら、断食は、敬虔な人々にとって神の契約から神の民が脱落することに対する償いと悲しみを表すものであったからです。
この断食理解を離れては、今朝の主イエスと人々の断食論争は理解できないと、わたしは思います。
さて、マルコによる福音書は、18節後半をこう記しています。「そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」」
「ファリサイ派の弟子たち」は、彼らの教師である律法学者たちから聖書と父祖の伝承について教えを受けていた者たちのことです。
ファリサイ派の弟子たちは、週に二度、月曜日と木曜日に断食していました。ところが、主イエスの弟子たちが断食している所を、この人々は見たことがありませんでした。ファリサイ派の人々にとって断食は、敬虔な者たちの功徳ある善行です。ですから人々は主イエスに「どうしてあなたの弟子たちは、洗礼者ヨハネの弟子たちやわたしたちのように断食しないのか」と非難しました。
主イエスは、人々の質問に次のようにお答えになりました。「イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」」
主イエスは結婚式をたとえに挙げられました。結婚式の祝いの席に招待された客たちは断食できるだろうかと、主イエスは人々に尋ねられました。そして、自問自答され、主イエスは婚礼の客は花婿と喜びを共にするのだから、悲しみを表現する断食はできないと答えられました。
また、主イエスは続けて、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」と答えられました。
洗礼者ヨハネが罪の赦しを得させる洗礼を宣べ伝えたのは、ユダヤの民衆たちがメシアに備えるためでした。メシアの審判に備え、彼らが罪を赦され、神の御国に入るためだったでしょう。洗礼者ヨハネがメシアを待ち望んでいたことを考えると、彼の弟子たちが断食するのは、メシアとメシアの国への準備のためだったと、わたしは考えます。
その考えから主イエスの婚礼のたとえを理解してみてください。「イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」
この「婚礼の客」は誰ですか。「花婿」は、誰ですか。婚礼の客は主イエスの弟子たちです。花婿は主イエスです。
結婚は喜びであり、祝福です。だから結婚式のその日に断食する招待客はいません。しかし、花婿である主イエスが奪い去られる日が来ると、主イエスは預言されています。 主イエスは御自身の受難を預言されています。御自身が十字架に死なれる時、弟子たちは悲しみで断食すると。
この主イエスのたとえを、よく考えてください。なぜ、主イエスは婚礼というたとえを用いられたかを。婚礼のたとえで主イエスは、わたしたちにメシア、神の子イエス・キリストがこの世に来られ、新しい事態が起こったということを伝えようとされているのです。
花婿である主イエス・キリストが彼の弟子たちと共に居て下さるインマヌエルという新しい事態が婚礼の場である教会の礼拝で起こったのです。
復活の主イエスは、マタイによる福音書の28章20節で次のように宣言されました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と。
洗礼者ヨハネの弟子たちが断食によって待ち望んでいたメシアは、既に来られたのです。クリスマスの日が来て、神の独り子主イエスは人となられて、この世に来られ、今聖霊と御言葉を通して、主の日の礼拝に臨在され、わたしたちと共に居てくださるのです。だから、断食は、主イエス・キリストの弟子たちには問題にならないのです。
それを、主イエスは、次のたとえでもって説明されたのです。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継を当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
古いと新しいという関係です。古い服の継当てに新しい服の布を使えば、新しい布切れが古い服を引き裂いて台無しにします。だから、新しい服には新しい布切れを継当てに使うべきです。
また、古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、新しいぶどう酒は古い革袋を裂き、ぶどう酒も革袋も台無しにします。だから、新しい革袋に新しいぶどう酒を入れるべきです。
主イエスは断食を否定されているのではありません。今主イエスが来られ、救いの時であり、新しい事態を迎えているということを、主イエスは伝えたかったのです。
ヨハネの弟子たちのように罪を悔い改め、メシアに備える準備をするために断食するということは古くなったのです。
キリスト教の断食は、主イエスが「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」と言われた日に行うようになりました。それは、具体的にはキリストが十字架で死なれた金曜日です。実際に初代教会では、受難週の金曜日に断食をしました。また、ユダヤ教が月曜日と木曜日に断食をしていましたので、初代教会の教会規程である「ディダケー」に、金曜日にキリスト教断食を行うことを定めています。
マルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの断食論争を紹介してくれていますが、実はわたしたちにキリスト教的断食の実践を教えることより、この論争によって主イエスがガリラヤで福音宣教され、そしてエルサレムに向けて御自身の受難の道を、ゴルゴタの十字架への道を歩まれていたことを伝えようとしているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第2章18-22節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
主イエスは、人々が「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は断食しているのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのか」と非難した時に、婚礼に招かれ、花婿と一緒にいる客は断食しないと言われました。
今わたしたちは、目には見えませんが、聖霊と御言葉を通して、ここにわたしたちと共に主イエスが居て下さり、神の救いの時、喜びの時にいることを、今朝の主イエス尾御言葉から教えられ感謝します。
今も熱心に断食する兄弟姉妹がいます。しかし、わたしたちは主イエスの弟子たちのように日常で断食することがありません。病気や体調不良で飲み食いできず、断食することがありますが、それ以外で断食することはありません。
今朝の主イエスの御言葉からわたしたちが今、断食しなくてよい神の救いの時を生きていることに感謝します。また、毎月の聖餐式を通してわたしたちが天国の前味を味わい、神の祝福の中に生かされていることを感謝します。
今は本当に良い時代です。迫害もありません。しかし、戦前の教会の罪、わたしたちの先輩たちが主イエスに服従できなかった罪を忘れることはできません。天皇の代替わりの大嘗祭の儀式が神道でなされ、人が神となる儀式に国費が使われ、日本キリスト改革派教会は抗議しますが、いつの日か主イエスが預言されたように、主イエスが奪い去られ、教会がキリストを礼拝できず、この世の偶像を礼拝させられるときが来れば、断食し、心から罪を悔い、十字架のキリストのみに教会とわたしたちを委ねることができるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教12 2020年1月5日
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」
マルコによる福音書第2章23-28節
説教題:「人の子は安息日の主である」
今朝は、マルコによる福音書第2章23-28節の御言葉を学びましょう。
昨年、12月クリスマス月間で、マルコによる福音書の連続講解説教は1カ月中断しました。
新年より再開します。間が空きましたので、マルコによる福音書の2章を少し復習し、今朝の御言葉を学びましょう。
マルコによる福音書は2章に入り、主イエスとユダヤの宗教的権威者であるファリサイ派の人々との対立が深まって行く様子をはっきりと記しています。
ユダヤの宗教的権威者たちとは、ユダヤの民衆たちの宗教的指導者たちです。ユダヤ教の教派は、三グループありました。その一つのグループがファリサイ派の人々です。紀元前2世紀ごろ、ハスモン王朝時代にファリサイ派とサドカイ派が生まれました。そしてこの二つのグループはユダヤの民衆に大きな影響を与えていました。
律法学者は律法を専門に研究する学者です。彼らはモーセ律法を解釈し、ユダヤの民衆に教える教師でした。彼らはファリサイ派に属し、律法を守ることを厳しくユダヤの民衆に求めていました。
ファリサイ派の人々は、律法を守ること、特に安息日を守ることと断食と施しを行うこと、宗教的な清さを守ることを重んじていました。
ファリサイという名は、彼らが律法を守らない者から彼らを分離したので、その名で呼ばれました。彼らは、律法を守ることで自分たちが宗教的に敬虔で、熱心な人々であることを証ししました。
マルコによる福音書では、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、主イエスの論敵として登場してきます。それがマルコによる福音書の2章です。
マルコによる福音書は、2章でファリサイ派の人々、律法学者たちがどのように主イエスとの対立を深めて行き、ついには主イエスを殺そうと相談し、そして最後にはエルサレムで主イエスを十字架につけたかをはっきりと記しています。
既にわたしたちは、2章1-12節で主イエスが中風の者を癒された事件において主イエスとファリサイ派の律法学者たちとが主イエスに人の罪を赦す権威があるかを争ったことを学びました。
主イエスが中風の者に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。それを律法学者たちは見ておりました。そして彼らは心の中で人の罪を赦す権威があるのは神のみだと思い、主イエスを非難しました。
主イエスは、彼らに御自身がその神であり、人の罪を赦す権威があることを、彼らの心を見抜くことで、中風の者を癒す奇跡を通して証しされました。
続いてマルコによる福音書は、2章13-17節で主イエスが収税所にいた徴税人レビ、すなわち、後にマタイによる福音書を書いたマタイを弟子に召された事件を記しています。その事件を通して、主イエスとファリサイ派の律法学者たちとの対立は更に激化しました。
レビは主イエスと彼の弟子たちを食事に招待しました。その食事の席に大勢の徴税人たち、罪人と呼ばれている人々も招かれました。
ファリサイ派の律法学者たちはそれを目撃しました。主イエスと徴税人たちや罪人たちが一緒に食事をしている所を。彼らは主イエスが徴税人や罪人たちと交わっておられることを非難しました。それは、ファリサイ派の律法学者たちの目のは、宗教的に汚れた行為であったからです。だから、彼らは、主イエスの弟子たちに「あなたがたの先生はどうして徴税人や罪人たちと食事をしているのか」と告げ口をして、主イエスを間接的に非難しました。
主イエスは、彼らに言われました。「医者が必要なのは健康なものではなく病人である。同じようにわたしを必要とするのは義人ではなく罪人である。だから、わたしは罪人を招くためにこの世に来たのだ」と。
マルコによる福音書は、2章18-22節において主イエスとファリサイ派の人々との対立がさらに深まったことを記しています。ファリサイ派の人々は律法を守ること、特に断食することをとても大切にしていました。
しかし、彼らは主イエスの弟子たちが断食しているところを見たことがありませんでした。そこで彼らは、主イエスに「あなたの弟子たちはなぜ断食をしないのか」と言って、主イエスに面と向かって非難しました。
ファリサイ派の人々と洗礼者ヨハネの弟子たちは熱心に断食をしました。断食と施しは、ユダヤ社会では敬虔な人々の信仰の証しでした。
だから、ファリサイ派の人々は、主イエスの弟子たちが断食しないので非難したのです。
主イエスは彼らに御答えになり、婚礼の客の話をされました。婚礼の客は花婿と一緒にいて断食しないと。同じように彼の弟子たちは今主イエスと共に居て断食しないと。しかし、主イエスが奪われる時には、彼らも断食すると。
マルコによる福音書は、その後で主イエスが継当てとぶどう酒を革袋に入れるお話をされ、新しいものと古いものを一緒にできないことを教えられたと記しています。
主イエスが求められる生活は新しいものであり、宗教的権威者たちが律法を守ろうとしている古い生活には合わないのです。
このようにマルコによる福音書は、主イエスとファリサイ派の人々との対立を通して、まず主イエスとは誰であるかを、わたしたち読者に教えようとしています。
主イエスは人の心を見抜かれる神であり、人の罪を赦す権威を持たれています。主イエスは、律法を良く守る義人ではなく、神の律法を守れない罪人を神の祝いの食事に招くためにこの世に来られました。主イエスは、神の律法を守り、行いによって神の御救にあずかろうとする古い生活を捨てて、主イエス御自身に寄り頼み、主イエスと共に神の祝福に生きる新しい生活を人々に求めるお方です。
さて、今朝と次回の御言葉で、マルコによる福音書は安息日律法を通して主イエスとファリサイ派の人々の対立がさらに深まったことを記しています。ついにはファリサイ派の人々は主イエスを殺す相談までし始めたと。
安息日とは、1週間の第七日目です。週の初めが日曜日ですから、土曜日です。ユダヤ教の安息日は土曜日です。
旧約聖書の出エジプト記は20章で有名なモーセの十戒を記しています。その第四戒が安息日律法です。天地万物を創造された神が六日間で人間と被造世界を創造され、七日目に休まれました。そしてその日を神は、御自身を敬う日として聖別されました。それが安息日です(出エジプト記20:8-11)。
安息日には、労働を休まなければなりません。
主イエスの時代、安息日律法をファリサイ派の律法学者たちは厳密に解釈し、ユダヤ民衆に事細かく安息日にしてはいけない労働を定めました。そして彼らが定めたことを厳格に守る者が神の律法に忠実な者であり、敬虔な信者でありました。
ファリサイ派の律法学者の安息日律法の解釈によれば、安息日に麦の穂を摘んで食べることは、安息日に禁じられた収穫をするという労働でした。
マルコによる福音書は、今朝の御言葉で主イエスとファリサイ派の人々がある安息日に主イエスの弟子たちが麦の穂を摘んで食べた事件を通して対立を更に深めたことを記しています。
「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と言った。」(23-24節)。
安息日は、本来奴隷や家畜にも休息を与える日でした(申命記5:14)。バビロン捕囚後安息日は、神の民にとって神との契約のしるしとされました。神は民と契約を結ばれました。その時に神は彼らに「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束されました。安息日がその契約のしるしとされ、安息日を守らない者たちは神の律法を汚す者として、神の民から排除されたのです。
主イエスの弟子たちは空腹でした。ですから、安息日に麦畑を通り抜けた時に、麦の穂を摘んで食べ始めたのです。
ファリサイ派の人々は、主イエスと彼の弟子たちがすることを終始監視していました。当然主イエスの弟子たちが安息日に彼らが禁じていた労働、すなわち、麦の穂を摘んで食べ始めました。彼らは主イエスに「あなたの弟子たちは、どうして安息日に禁じられている労働をしているのか」と非難しました。
ファリサイ派の人々にとって、安息日に麦の穂を摘むことは、麦を収穫するという労働に相当しました。
主イエスは、彼らが自分たちの安息日律法の解釈によって、むしろ人の命を軽視していることを問題にされました。
「イエスは言われた。『ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。』」」(25-26節)
主イエスは、彼らの律法解釈よりも聖書の御言葉に権威を置かれました。律法学者たちも良く聖書の御言葉を用いた反対質問をしていました。
主イエスは、彼らに旧約聖書のサムエル記上21章2-7節の聖書の御言葉を読んだことがないのかと質問されました。
ダビデは、サウル王に命を狙われ、逃亡していました。空腹のために途中、シロの神の幕屋を尋ねました。そしてノブの祭司アヒメレクから祭司以外に食べることが許されえいない供え物のパンを与えられ、彼と彼の家来たちは食べました。
神の家は神の箱が納められた幕屋のことです。ダビデの時代、神の幕屋はシロにありました。大祭司はアビアタルの父、アビメレクでした。
少し問題がありますが、今日はそれを論じるゆとりがありません。主イエスが何を問題にされたかだけ、お話しします。
ダビデは人の命のために、祭儀律法で祭司以外に食べることが禁じられた供え物のパンを食べました。供え物のパンは、安息日ごとに神の幕屋のテーブルに供えられ、祭司によって聖域である幕屋内で食べられました。12個の焼き立てのパンでした(レビ記24:5-9)。
主イエスは、ファリサイ派の人々に空腹のダビデが祭司以外に食べられないパンを食べたという聖書の事例を挙げて、人間にとって命の必要性が祭儀律法に優先すると言われているのです。
同じように主イエスの弟子たちは空腹であり、彼らの命にとって、麦の穂は必要なものでした。だから、律法学者たちの安息日律法の解釈である「安息日に麦の穂を摘むことはできない」に優先するのだと。
マルコによる福音書は、わたしたち読者に人間の必要性が安息日を守ることに優先するのだと教えようとしているのではありません。
安息日を守ることは、神の御意志です。だから、主イエスはそれに服されています。主イエスは安息日ごとに会堂で礼拝を守られています。父なる神を敬い、何よりも神の御心を為されています。神が御自身のかたちに創造された人の命を尊び、人の作った戒めよりも優先されています。そうする自由な精神をお持ちです。
主イエスは自由な精神で、こう言われました。「『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。』」(27-28節)
安息日は、創造主が人のために設けて下さったのです。休息の日であり、神を礼拝する日であり、永遠の休息を約束する日でもあります。人が心身ともに自由とされる日です。
ところが、ファリサイ派の人々は、安息日を守るために事細かな規則を作り、それをユダヤ民衆に厳しく守らせて、人を安息日律法の奴隷にしていたのです。神の民たちは、安息日を喜び楽しむことより守ることだけに心をすり減らしていたのです。
しかし、マルコによる福音書は、わたしたちに主イエス御自身が「人の子は安息日の主でもある」と宣言されたことを伝えています。
マルコによる福音書は、わたしたちにユダヤ教安息日は廃されたと、主イエスの口を通して語っているのです。初代教会は、ユダヤ教安息日を放棄して、主イエス・キリストが復活された主の日に礼拝を始めました。
主イエス・キリスト御自身が日曜日を主の日として、キリスト教会に臨在され、ファリサイ派の律法学者たちの事細かな安息律法に代わってキリスト御自身が神の意志の現れとなられたのです。
今わたしたちは、キリスト教安息日に安息日に関する諸々の規則に縛られてはおりません。聖霊に導かれて、自由にこの教会の礼拝に集い、自由に今神の御言葉である説教を聴いています。
このようにキリストの霊である聖霊の導きは、わたしたちを宗教的規則で縛り付けることはしません。むしろ、この世の諸々の宗教的規則から、また諸々の諸霊の縛りからわたしたちを解放してくれます。
自由に喜んで主イエスは神であると、わたしたちの口を通して神賛美へと導くのです。それは、主イエス・キリストが十字架を通して、わたしたちを滅びの子から神の子へと移してくださったからです。永遠の命の源であられるからです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、新年が始まりました。今年もマルコによる福音書の学びをお導きください。
第2章23-28節の御言葉を、今朝は学ぶ機会を与えられ、感謝します。
神がわたしたち人間のために設けて下さった安息日を、心から楽しむことよりも、安息日を守らなければという思いに縛られて、本来の安息日を忘れていることに、今日は気づかせていただき感謝します。
人の命ために人に必要とされることが、人が作った規則に優先することを、主イエスはダビデを通して教えてくださいました。
また、神の御意志に従うことは、キリスト者として義務ですが、どのように従うかを、主イエスから教えられ、自由の精神で従うことを教えられ、感謝します。
この世は、いろんな規則で人を縛ろうとしますが、神の御支配は、人を規則で縛ることではなく、むしろそれから解放し、自由に主イエスを神と告白し、賛美させてくださることを感謝します。
今わたしたちが聖霊と御言葉を通して、ここに主イエスがわたしたちと共にいて、わたしたちを聖餐の恵みへとお招きくださることを感謝します。
今年一年、わたしたちが主の日ごとに自由に喜びをもって主を礼拝できるようにお導きください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教13 2020年1月12日
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
マルコによる福音書第3章1-6節
説教題:「安息日に律法で許されていること」
今朝は、マルコによる福音書第3章1-6節の御言葉を学びましょう。
今朝の御言葉は、マルコによる福音書第2章1節から3章6節まで主イエスとファリサイ派の人々との対立を細やかに描写してきましたが、その終わりです。
マルコによる福音書は、先週に続いて主イエスとファリサイ派の人々との安息日論争を記しています。
マルコによる福音書は、主イエスとファリサイ派の人々が論争した場所を記しています。会堂です。主イエスは、ユダヤ人の習慣に従い、安息日に会堂に入られました。
マルコによる福音書は、3章1節で、次のように記しています。「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。」(1節)
マルコによる福音書は、「そこに片手の萎えた人がいた」と記し、ある安息日に会堂で主イエスが片手の萎えた男を癒す奇跡をなさったという事件が起こったことを伝えています。
会堂に集まった人々の中で、主イエスは片手が不自由な男を癒されました。しかし、マルコによる福音書が注目しているのは、イエスの奇跡の御業ではありません。安息日律法に関わることを問題にしているのです。
だからマルコによる福音書は、続いて2節で次のように記しています。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」
この「人々」は、マルコによる福音書によると、6節で「ファリサイ派の人々は出て行き」と記していますファリサイ派の人々です。
ファリサイ派の人々が安息日に会堂にいて、主イエスが安息日律法を破られるかどうかを監視していたのです。彼らは主イエスが安息日に癒しの奇跡を行い、禁じられている労働をしたと、サンヘドリンに訴えようとにしていたのです。
サンヘドリンは、ユダヤ人の最高法廷で、最高行政機関でした。後にサンヘドリンは、主イエスが神を冒涜したと死刑を宣告し、主イエスをローマの法律で政治犯として死刑に処しました。
彼らが監視を続けている中で、主イエスは、片手の萎えた男に言われました。「「真ん中に立ちなさい」と」。主イエスは、監視している人々によく見えるように、会堂の中にいる人々の真ん中に立たせられました。
そして主イエスは会堂の中で監視している人々に向かって、4節でこう言われました。「「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」」
主イエスは、御自身を監視している人々に、何を主なる神は安息日に求めておられるのかをお示しになりました。
安息日に人々は、主イエスが癒しの奇跡を行われ、その労働によって安息日律法を破られたことをサンヘドリンに訴えようとしました。
しかし、主イエスの関心は、安息日に律法で許されていることでした。律法は神の御意志でもあります。
安息日に彼の弟子たちが麦の穂を積んで食べた時、ファリサイ派の人々は主イエスに「あなたの弟子たちは収穫の労働をしている」と非難しました。主イエスは、彼らにダビデが安息日に祭司以外食べられない献げ物のパンを食べ、彼の家来にも与えたことを話されました。そして安息日が人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではないと言われました。
安息日は、神の民が主なる神の御前に出る日です。そこで主なる神は、善をなしたか、悪をなしたか、命を救ったか、殺したかを問われるのです。
人々は、主イエスの質問に沈黙しました。しかし、安息日が人のためにあるのであれば、目の前の片手の不自由な男を癒すことは、善を行うことであり、片手が不自由で仕事ができず、生活に困窮する彼を救うことです。
主イエスは、自らの振る舞いによって安息日に主イエスが癒しの奇跡をなさるのを傍観し、主イエスを非難するだけで、目の前の助けが必要である彼らの隣人を見捨てている彼らを非難なさったのです。
神の御心は、いつでも善を行うこと、目の前に助けを必要とする者がいれば、彼を救うことです。安息日であっても、人々は自分が所有する家畜が川に溺れていれば助けるのです。助けても、彼らは安息日に労働をしたと非難しないでしょう。
しかし、今安息日に会堂に一人の体の不自由な男がいます。仕事がなく、物乞いで一日一日を生きています。彼に何もしないで、見過ごせば、神の御意志である律法を破ったことにならないでしょう。律法の全体は神を愛し、隣人を愛せよ、です。
主イエスは、安息日にこの男を癒されることを通して、彼らに問いかけられたのです。「今あなたがたの真ん中に立つこの男は、あなたがたの兄弟ではないか。兄弟は今片手が萎えて、生活に困窮しているではないか。無力の状態にあり、あなたがたの助けを必要としているではないか。しかし、あなたがたはこの男を無視して、わたしを殺すために、わたしが安息日にこの男に癒しの業をするかどうかを見守っている。一人の困窮する兄弟に何も行わないことは、悪であり、その兄弟を殺すことであり、神の御前で咎められることではないのか」。
その主イエスの問いかけに、「彼らは黙っていた」とマルコによる福音書は記しています。人々は、主イエスが彼らの悪意を見抜かれたと知って、沈黙しているのではありません。
主イエスは彼らの態度に、5節で次のようにリアクションされました。「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」
主イエスもわたしたちと同じ人間です。わたしたち同様に怒りと悲しみの感情をお持ちです。主イエスは怒りをもって人々を見回され、彼らの「心のかたくなであることを」悲しまれました。
心がかたくなであるとは、感覚が鈍いということよりも、理解の欠如とか、愚かであることを意味しています。心が石のようになっている状態です。主イエスは、同じ神の民であり、彼らの兄弟である男を見ても、人々はその男の苦しみを理解しないことに、怒りを覚えられました。
また、安息日に主イエスがなさる癒しん奇跡の御業を通して、主なる神は人々に安息日の喜びを知らされているのに、人々は理解しないことに悲しみを覚えられました。
わたしたちも同じです。主の日ごとに礼拝で、福音が語られていても、わたしたちが心の頑なさであることによって今ここに主イエスの救いの喜びがあることを悟れなければ、主イエスの霊である聖霊を悲しませることになるのではありませんか。
マルコによる福音書がわたしたちに伝えたことは、こうです。安息日、すなわち、主の日こそ、片手の萎えた男のように、苦しみを持つ人が解放される日であるということです。
主イエスは、人の苦しみを軽重で量られません。わたしたちは、彼の片手の癒しは、今日でなくとも、明日でもよいのではないかと思わないでしょうか。わざわざ安息日に癒しの業をして、騒動を起こさなくても、明日の平日に主イエスが癒されたら、彼らは何も問題にしなかったのではないかと。
しかし、神は主イエスの安息日の癒しの奇跡を通して、安息日が苦しみを持つ人々の解放の日であり、喜びの日であることを告げられたのです。
ヨハネの黙示録14章13節でヨハネは、次のように述べています。「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。』「『今から後、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである』」と。“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。』」。
永遠のこの安息のしるしとして、主イエスは、片手の萎えた男に「手を伸ばせ」と言われて、彼の手を癒され、彼を苦しみから解放されました。
マルコによる福音書は、6節で次のように記しています。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」
ファリサイ派の人々は、会堂から出て行き、ヘロデ派の人々と手を組み、主イエスをどのように殺そうかを相談しました。ヘロデ派の人々とはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きの人々です。ユダヤ教の一派ではありません。政党のようなものでしょう。マルコによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、宗教者たちが世俗の人々と手を組んで、主イエスを殺そうと相談をしたということです。こうして主イエスはエルサレムで十字架の刑によって死なれることになったということです。マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスの受難と十字架の死によって、安息日はわたしたちが主イエスによって苦しみから解放される日になったことを伝えているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第3章1-6節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
安息日が人を苦しみから解放する日であることを学ぶことができて感謝します。
わたしたちが心の頑なさであることで、今ここで共に礼拝する兄弟姉妹の苦しみを理解できず、主を悲しませているならば、お赦しください。
どうか、御霊よ、わたしたちが神の御意志に従い、善をなし、隣人の助けとなるようにお導きください。
どうかわたしたちが主の日ごとにキリストの福音を聞き、喜びの中に生かされていることを感謝させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教14 2020年1月19日
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
マルコによる福音書第3章7-12節
説教題:「押し寄せる群衆」
今朝は、マルコによる福音書第3章7-12節の御言葉を学びましょう。
マルコによる福音書は、1章16節から主イエスが弟子たちを召されて、ガリラヤで説教を始められたことを記しています。その結果を、先週学びましたように、主イエスが宗教的権威者であるファリサイ派の人々、律法学者たちと対立し、彼らはヘロデ党の人々と手を結び主イエスを殺そうと相談したと記しています。こうしてマルコによる福音書は、後半の主イエスの御受難と十字架の死を暗示しています。
さらにマルコによる福音書は、今朝の御言葉で主イエスのガリラヤ宣教が成功したことを、要約して記しています。主イエスが宣教されたのは、ユダヤの国の辺境の地、ガリラヤです。しかし、主イエスが病人を癒され、悪霊を追い出されたという噂は、ユダヤの国の首都であるエルサレム、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの異邦人の地まで広まりました。そして主イエスの癒しの奇跡を聞いて、そこにおびただしい群衆がガリラヤ湖の主イエスのところに押し寄せました。
それが、7-8節です。「また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」
これらの地名は、主イエスがこれから福音宣教し、癒しの奇跡をなさるところです。
イドマヤはエドムのことです。死海の南方でエソウの子孫であるエドム人が居住した地です。そこに主イエスが行かれて宣教された記録はありませんが、エドムの人々も主イエスがガリラヤで病人を癒す奇跡をなさっているという噂を聞いて、ガリラヤ湖の主イエスのおられるところに来たのです。
ヨルダン川の向こう側はデカポリス地方です。主イエスは弟子たちと共にこの異邦人の地に足を踏み入れ、悪霊につかれた者を癒されました。ティルスやシドンも異邦人たちの地です。主イエスは、その地を訪れ、悪霊につかれた女の子を癒されました。マルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの宣教が神の民ユダヤ人だけでなく、異邦人たちにも及んだと証ししています。
後にマルコによる福音書は、主イエスが弟子たちに終末のしるしを告げられた時に、この世の終わりが来る前に「福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない」と言われたことを記しています(マルコ13:10)。
マルコによる福音書は、今朝の御言葉で主イエスのガリラヤでの宣教の特色を要約しているのです。
それは、主イエスの宣教の場がユダヤ人の会堂ではなく、ガリラヤ湖湖畔であり、荒れ野であったということです。
7節に「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。」と、マルコによる福音書は記していますね。当然わたしたちは、次のように思います。主イエスの受難の時が来ていなかったので、主イエスは弟子たちを連れて、ガリラヤ湖湖畔に立ち退かれたと。そうすることでこれ以上ファリサイ派の人々との対立を深めることを避けられたのだと。
マルコによる福音書を、主イエスの伝記として読めば、そのように考えることが正しいと思われます。しかし、マルコによる福音書の意図は違います。主イエスが弟子たちを連れ、ガリラヤ湖湖畔に退かれたのは、ファリサイ派の人々から逃げるためではありません。むしろ、おびただしい民衆たちに福音宣教し、彼らが連れて来た病人たちや悪霊につかれた者たちを癒すためでした。
マルコによる福音書にとって湖は、主イエスがペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、4人の漁師たちを弟子に召された場所であり、今朝の御言葉のように主イエスのガリラヤ宣教が成功した場所です。
主イエスのガリラヤ宣教の成功を、マルコによる福音書は、7節で「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った」と記しています。ガリラヤ地方のおびただしい群衆が主イエスの弟子たちのように主イエスに従いました。主イエスの弟子となりました。
ユダヤの国、エルサレムに住むユダヤ人たちも、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンに住む異邦人たちも、ガリラヤで主イエスがなさる癒しの奇跡を聞いて、主イエスがおられるガリラヤ湖に集まりました。
あまりにも大勢で群衆が主イエスに向けて押し寄せますので、主イエスは身の危険を感じられたのでしょう。9節で「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。」と、マルコによる福音書は記しています。それほど多くの人々が主イエスのところに集まり、ガリラヤ宣教は成功しました。
おびただしい群衆が主イエスに向かって押し寄せたのは、病人たちや悪霊につかれた者たちが皆、我も我もと、主イエスに触れて癒されようとしたからです。
ファリサイ派の人々、律法学者たちは主イエスが人の罪を赦す権威を持たれていることを否定しました。ところが、汚れた霊は主イエスを見て、ひれ伏し、「あなたは神の子だ」と言いました。
汚れた霊の言葉を、マルコによる福音書は信仰告白と理解していません。むしろ、主イエスは汚れた霊に御自分のことを言いふらさないようにと警告されたことを記しています。
汚れた霊である悪霊は完全に人に乗り移り、その人を支配しました。しかし、主イエスは、神の御子の権威によって汚れた霊である悪霊をその人から追い出されました。悪霊は、主イエスの持たれている神の御力によって屈服させられました。そしてあたかもその人が語るように、その人の口を通して主イエスに「あなたは神の子だ」と、悪霊が言いました。
主イエスは、御自身が誰であるか、告げ知らせる時が来ていませんでしたので、すなわち、十字架と復活によって主イエスが神の子であることを告げ知らせる時が来ていませんでしたので、悪霊に沈黙を命じられたのです。
主イエスは、ユダヤの宗教的権威者たちや世俗の権威者からは拒否されました。会堂と神殿は主イエスが人々を救う場所でありませんでした。むしろ、主イエスとファリサイ派の人々、サドカイ派の人々との論争の場所でした。
しかし、ユダヤの民衆と異邦人たちは、主イエスのなされた癒しの奇跡を聞いて、主エスに従い、主イエスのところに集まりました。そして主イエスは、湖で、荒れ野でおびただしい群衆の病気を癒され、彼らから悪霊を追い出されました。
このようにマルコによる福音書は、主イエスのガリラヤ宣教を要約しながら、わたしたち読者に次のことを伝えようとしているのです。それは、この福音書の最初の御言葉、この福音書の主題である「神の子イエス・キリストの福音」は、ファリサイ派の人々や律法学者たち、そしてヘロデ党の人々が主イエスに敵対しても、主イエスと共に妨げられることなく進んでいくという事実です。神の子イエス・キリストの福音がガリラヤから異邦人へとどのように広まって行ったかを証ししているのです。
今ここでマルコによる福音書を通して宣べ伝えられている神の子イエス・キリストの福音は、この世の教会がどのように迫害を受けようと、あるいはキリスト者たちがこの世でいろんなところから敵対され、困窮に陥っても、彼らが福音宣教するキリストを、だれも、悪霊でさえ妨げることはできないのです。そして、その神の子主イエス・キリストの福音を聴く者たちは、聖霊と御言葉を通してキリストが臨在されるところへと集められるのです。それが、今わたしたちがいるこの教会であるということです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第3章7-12節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
この世では宗教的権威者であると認められえいたファリサイ派の人々や律法学者たちは主イエスを拒みました。しかし、ユダヤの民衆、異邦人たちは主イエスを受け入れ、主イエスに病を癒してほしいと願って、押し寄せました。
民衆たちは、主イエスがガリラヤでなされている癒しの奇跡を聞いて、主イエスのところに集まりました。
神の子主イエス・キリストの福音は、この世のどんな敵対があろうと妨げることはできません。福音を聴いた者は、主イエスが臨在される教会の礼拝に集まります。
その真実を、わたしたちにも見せてください。この教会とわたしたちキリスト者にはこの世において様々の敵対があり、困難があり、困窮があり、失望があります。しかし、わたしたちが宣べ伝える神の子主イエス・キリストの福音を妨げる者はありません。必ず福音を聞いた者は、キリストが臨在されるところに集められます。
どうかわたしたちの教会に神の民をお集めください。そして、マルコによる福音がわたしたちに証ししますことが真実であることを、わたしたちに見せてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教15 2020年2月2日
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名をつけられた。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた。アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
マルコによる福音書第3章13-19節
説教題:「十二人使徒の任命と派遣」
今朝は、マルコによる福音書第3章13-19節の御言葉を学びましょう。
前回は、マルコによる福音書第3章7-12節を学びました。主イエスのガリラヤでの宣教は成功したとお話ししました。イングリシュバイブルは、ガリラヤ湖湖畔におられた主イエスを大勢の群衆が押し寄せたことを、7節後半で「ガリラヤ、ユダヤとエルサレム、イドマヤとヨルダン川の東側、そして隣のティルスとシドンからグレートナンバーズが、彼がなさっていることを聞いて、彼を見に来た」と英訳しています。
7節後半の「従った」という言葉を、「彼が行っていたことを聞いて、彼を見に来た」と意訳しています。主イエスのガリラヤ宣教は、ユダヤの辺境の地ガリラヤに限られていたのではありません。主イエスが神の国を宣教し、病人たちを癒し、悪霊を追い出しておられることは、ユダヤのガリラヤ地方だけに知られていたのではありません。ユダヤの国とその首都であるエルサレムだけでなく、エドム人たちの住むイドマヤ、ヨルダン川の東側にある異邦人たちの地域に、そして隣国のティルスやシドンまで知れ渡っていたのです。
だから、おびただしい数の人々が主イエスとそのなさった奇跡のことを聞いて、一目主イエスを見よう、主イエスに癒していただこうと、押し寄せてきたのです。
13-19節は、ガリラヤ湖湖畔から主イエスは退かれて、ある山に登られています。山は、聖書では主なる神がいますところです。有名なのは、出エジプト記のシナイ山です。そこに主なる神が臨在され、イスラエルの民の指導者モーセは、シナイ山に登り、主なる神にお会いし、主なる神から十戒の板を授かりました。
福音書では、山は主イエスが父なる神に祈られる場所です。主イエスが変容された場所でもあります。マルコによる福音書は、主イエスが弟子たちにオリーブ山で終末について教えられたことを記しています。
今朝の御言葉は、主イエスがある山に登られ、御自分が欲する者たちを呼び寄せられ、彼の弟子たちの中から12使徒を選ばれ、彼らをこの世に派遣されたことを記しています。
「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」(13-15節)。
主イエスが12使徒を任命し派遣されたことを記しています。そして、12弟子を任命し、使徒名付けられた理由を3つ挙げています。
「使徒」は、使者、大使です。主イエスから特別な使命を与えられて、派遣された者です。主イエスに直接に12人の弟子に選ばれた、任命された者たちです。主イエス御自身がこの12人の弟子たちを「使徒」と名付けられました。
12使徒たちは、後に主イエスの復活の証人となり、全世界にキリストの福音を宣教するために、弟子造り、すなわい、キリスト教共同体を形成しました。
このように使徒は、直接主イエスが任命され、派遣された者たちです。
マルコによる福音書3章13節は、そのまま日本語にすると、こうです。「そして彼は山に登る。そして自分の欲していた者を呼び寄せる。そして彼らは彼のところに来た。」
山は丘という方が適切でしょう。小高い山です。今主イエスはその山に登られました。
主イエスは心の中でこの者たちを12使徒に選ぼうと思われる弟子たちがいました。その12弟子たちを一緒に山に連れて行かれました。これからは、主イエスと彼らは一体です。常に主イエスと彼らは一つです。だから、彼らは、主イエスと共に福音宣教し、主イエスは彼らに病人を癒し、悪霊を追い出す権威を授けられました。
16-19節前半は、12使徒のリストです。これは、マルコによる福音書の著者マルコが手に入れていた資料を用いているのです。初代教会に伝わり、保存されていたでしょう。そのリストを用いて、マルコによる福音書は、主イエスの12使徒の任命と派遣を記しているのです。
12使徒たちは、直接に主イエスに任命され、派遣されました。ですからマルコによる福音書がわたしたちに伝えたいことは、主イエスの12弟子、すなわち、12使徒は主イエスの主権的選びであったということです。
主イエスは、最初に12弟子たちの資質、才能、人格を吟味されて、12弟子に、12使徒に任命されたのではありません。最初から彼らを欲せられたのです。主イエスの側の一方的な選びでした。
次に彼らは、主イエスの代理人として、主イエスの福音宣教を受け継ぎ、主イエスから権威を授かり、主イエスのように人を支配するのではなく、人に仕えて病人を癒し、悪霊を追い出すのです。彼らに与えられた権威は、主イエスの御業をなすことであり、人に仕えてそれを為すのです。
これがマルコによる福音書の12使徒の理念であり、後の教会役員の理念とされるのです。
さて、12使徒のリストは、各福音書にあります。名前の順序が違ったり、名前が違ったりしています。それを議論することに、わたしは益を覚えません。むしろ、主イエスが旧約のイスラエルが12部族を中心に形成されたように、新約の教会、新しいイスラエルは12使徒を中心に形成されたということを覚えることが益であると思います。旧約のイスラエルと新約の教会は同じ神の民なのです。
リストの名前の説明も今日は省きます。ただマルコによる福音書がこのリストを載せて、19節の最後に「このユダがイエスを裏切ったのである。」と記していることは、重要であると思います。
主イエスが欲せられた12弟子たちの中に主イエスの裏切り者がいたという謎は、わたしたちの好奇心の的です。誰もがどうしてだろうと思うはずです。
しかし、マルコによる福音書は、わたしたちが持つ好奇心にはまるで関心がありません。
「このユダがイエスを裏切ったのである。」という翻訳が問題です。間違っている訳ではありません。そのまま日本語にすると、こうです。「そしてイスカリオテのユダ、この者が彼を渡した。」
イスカリオテのユダが、ただ一度過去において主イエスを「渡しました」。「渡しました」とは、主イエスを十字架に渡したのです。だから、裏切ったと意訳されているのです。読者の理解を得るには「裏切った」という訳は適切です。
しかし、マルコによる福音書が「ユダが主イエスを渡した」と記すのは、ユダの裏切りをわたしたちに伝えたいのではありません。主イエスがユダによって十字架の死へと渡された、主イエスの受難を知らせたいのです。
わたしたちにとってユダが主イエスを裏切ったと聞いても、それは福音ではありません。テレビやインターネット、そして新聞の報道と同じです。
しかし、ユダが主イエスを十字架の渡したと聞くなら、それは福音です。なぜなら、主イエスはわたしたちの罪のために十字架に死なれたからです。そのために主イエスはユダを12使徒に欲せられました。彼が主イエスを十字架に渡すという使命を果たすことで、わたしたち異邦人が滅びから永遠の命へと入れるようになったからであります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第3章13-19節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。
今朝は主イエスが12使徒を任命し、派遣されたことを学ぶことができて感謝します。
主イエスの御救いが12使徒たちに引き継がれ、そして今この教会に引き継がれています。今も復活の主イエスは、一方的な選びによってこの教会の牧師を召し、長老たちを召し、福音宣教を導かれ、キリストの弟子たちをお造りになり、キリストの共同体を形成されています。そのために毎週日曜日にわたしたちをこの所にお集めくださり感謝します。
また、今朝は、12使徒のひとりイスカリオテのユダの裏切りの意味を教えていただき感謝します。好奇心によって聖書を読むのではなく、聖霊に導かれて聖書を読み、その解き証しである説教を聴き、わたしたちの耳に神の福音を聞かせてください。
そして、マルコによる福音が「イスカリオテのユダが主イエスを渡した」という御言葉がわたしたちの罪のために死なれたキリストの恵みを思い起こさせ、この一週間の歩みにおいて慰めとなり、信仰の力となるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。