マルコによる福音書説教76 2021年10月3日
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロとヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
マルコによる福音書第14章32-42節
説教題:「ゲツセマネの祈り」
前回マルコによる福音書は、主イエスが11弟子たちに彼らのつまずきを予告されたことを記しました。特に、主イエスは、ペトロに「あなたは今夜、午前三時に鶏が二度鳴く前に三度わたしのことを否認する」と予告された(マルコ14:27-31)ことを記しました。
今朝、マルコによる福音書は主イエスが11弟子たちと共にオリーブ山のゲツセマネという名の場所で祈られたことを記しています。
オリーブ山については、前回詳しくお話ししました。エルサレムの都からキドロンの谷を挟んで、向こう側にあります約800メートルの山です。その山に、主イエスの時代オリーブの木が植えられていました。
その山の麓に「ゲツセマネ」という名の土地がありました。「ゲツセマネ」は「油しぼり」という意味です。その土地でオリーブの実から油を搾り取っていたのでしょう。
この「ゲツセマネ」という名はマルコとマタイによる福音書に記されています。ルカによる福音書は、「いつもの場所に来ると」(ルカ22:40)と記しています。ヨハネによる福音書は「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこに園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた」と記しています。
このように四つの福音書を照らし合わせますと、主イエスと11弟子たちが祈りました場所は、「ゲツセマネ」という名の土地で、その場所は主イエスと12弟子たちがよく祈っていたところで、オリーブの実の搾り機が置かれている場所であったと理解できるでしょう。
主イエスは、裏切り者のユダを除く11弟子たちと共にゲツセマネの園の中に入られると、32節でこう言われました。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と。
主イエスは、一人で祈ろうとされました。主イエスは祈られる時、常に一人でした。
マルコによる福音書は、今朝の箇所で、主イエスの祈りと三人の弟子たちの居眠りを対照的に描いています。主イエスは、ひどく苦しみ祈られます。そして御自身の御心ではなく御父の御心に従おうとされます。ところが三人の弟子たちは睡魔に負けて、寝入っています。彼らは、全く受難の主イエスの祈りを理解していないのです。
さて、主イエスは、一人祈るために、御自身の身近に三人の弟子たちを伴われました。ペトロとヤコブとヨハネです。彼ら三人は、苦しみ祈る主イエスの御姿を目撃したのです。
マルコによる福音書のこの記述に、この三人の目撃証言がどれほど生かされているか、分かりません。
しかし、この三人は、後に初代教会のキリスト者たちに、ゲツセマネの園で主イエスが弟子たちから離れて、一人地に伏され、深く苦しみ祈られたことを伝えたことでしょう。
そして三人の証言は、ゲツセマネの主イエスの祈りとして初代教会に保存され、マルコによる福音書はそれを資料に用いて記しているのです。
ヘブライ人への手紙の記者は、第2章18節で「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」と記しています。これが、初代教会が主イエス・キリストの御受難について、どのように理解していたか知る手がかりです。
初代教会のキリスト者たちは、礼拝でキリストの御受難を聞くたびに、それが今試練の中に置かれている教会とキリスト者たちを、救い主が助けることのできる根拠としていたのです。なぜなら、彼らの苦しみを救い主は思いやることが出来るからです。
だから、マルコによる福音書も、ゲツセマネで苦しみ祈られる主イエスを、神の子イエス・キリストの福音として伝えようとしているのです。
新共同訳聖書は、苦しみ祈られる主イエスを、33節後半でこう記しています。「ひどく恐れてもだえ始め」と。
どうも日本語訳聖書は、この「もだえ」という言葉が好きです。苦しみもだえるのが、深く苦悩する人のイメージだからでしょうか。
マルコによる福音書は、「驚き、困惑し始め」と記しているのです。「驚き」とは、主イエスが驚愕されたということです。大変驚くことです。わたしたちは、身内の者や親しい者たちが事故に遭ったと聞けば、大変驚きます。そのように主イエスは強く驚かれたのです。そして主イエスの心の中に困惑が、不安が広がり始めました。わたしたちが身内の者の事故を聞いて、大変驚くと共に、それがわたしたちの心に恐れを抱かせ、困惑し、不安になるように、主イエスは大変な驚きと困惑の中で祈られたのです。
だから、主イエスは身近に置かれた三人の弟子たちに、御自身の驚きと困惑を隠すことなく、こう言われました。「「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」」(34節)。
「わたし」は「わたしの魂」です。「死ぬばかりに悲しい」は、「死ぬほどにひどく苦しい」ということです。どの日本語訳聖書を見ても「悲しい」と訳しています。
マルコによる福音書は、同じ言葉を6章26節で使っています。ガリラヤの領主ヘロデが家来や来客たちの前で、娘の踊りを称賛し、彼女に望むものは何でもかなえると約束しました。娘は母親にそそのかされ、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せいていただきたい」と願いました。その時ヘロデは「非常に心を痛めた」と記しています。ヘロデが本当にひどく苦しんだからです。
ここは同じように訳すべきです。「わたしの魂」、すなわち、主イエスそのものが、今ゲツセマネの園で死ぬほどに心を痛め、ひどく苦しみ祈られているのです。
マルコによる福音書は、大変驚き、困惑し始めて祈られる主イエスについて、何も説明していません。しなくても、初代教会のキリスト者たちには暗黙の了解があったでしょう。
罪無きお方がこれから神の怒りの刑罰を、ゴルゴタの丘で十字架刑をお受けになろうとしているという。どんなにひどく驚かれたことでしょう。どんなに心の中に恐怖を覚えられ、困惑され、不安になられたことでしょう。まことに主イエスは、地獄の苦しみを味わいながら、「わたしは今死ぬほどにひどく苦しい」と言われているのです。
その主イエスの御苦しみを目撃することこそ、彼ら三人の務めでした。だから、主イエスは、彼ら三人に「目を覚ましていなさい。」と命じられたのです。
35-36節が主イエスのゲツセマネの祈りです。
「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」
主イエスは、三人の弟子たちから少し先に進まれて、一人地にひれ伏し、祈られました。大変驚き、困惑されている主イエスです。当然、「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたのです。
これは、人としての主イエスの弱さを表わしています。人間の死に、しかも主なる神の呪いの死に、直面された主イエスの驚きと困惑、そしてひどく苦しんでいる人としての主イエスの弱さを隠さずに、マルコによる福音書は描いているのです。
マルコによる福音書がゲツセマネの主イエスの祈りに、幻滅しているのではありません。むしろ、マルコによる福音書は苦しみ祈る主イエスに、詩編42編の詩人の祈りを見ているのです。
詩編42編の詩人は神を待ち望み、6節でこう歌っています。「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ なぜ呻くのか。神を待ち望め。」
詩人は苦しみの中に居ながらも、ひどく驚き、困惑しながらも、「神を待ち望め」と賛美します。これは、神を信じよという意味です。
主イエスは、詩編42編の詩人のように、大変驚き、困惑し、「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られ、人としての弱さを表されながら、父なる神を待ち望まれるのです。父なる神を信じておられるのです。
だから、主イエスは、続いて父なる神にこう祈られたのです。「「アッパ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」
「「アッパ、父よ」」は、子が父親を無条件で信頼するように、主イエスも父なる神に無条件で信頼されているのです。主イエスは、父なる神の全能の御力にすべてを委ねられています。父なる神が何でもできるというのは、主イエスが父なる神に全幅の信頼をよせておられるということです。
「この杯」は、苦しみの隠れた意味です。十字架の苦しみです。初代教会は聖餐式ごとにパンとぶどう酒によってキリストの十字架の死を覚えたのです。わたしたちも今朝の礼拝において聖餐式に与り、パンと杯、すなわち、ぶどう酒をいただきます。パンとぶどう酒は、十字架で裂かれるキリストの体と流される血を表しています。
「この杯」はわたしたちのために流されるキリストの血です。
主イエスは、父なる神に御自身の苦難を取りのけてくださいと祈られています。それは、人としての弱さを持たれた主イエスの本心でしょう。しかし、主イエスは絶望されているのではありません。父なる神に望みを置かれているのです。父なる神を信じておられるのです。
だから、主イエスは、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られたのです。主イエスは、父なる神を信じて、御自身の受難が父なる神の御意志であれば、御自分の思いよりも父なる神の御意志を行わさせてくださいと祈られたのです。
マルコによる福音書は、この主イエスの祈りを、わたしたちキリスト者の模範として記しているのです。
キリスト者の祈りは、主イエスが父なる神を信じられたように、主イエスを信じて、全幅の信頼を寄せることが前提です。祈りとは自分の願いを実現することではありません。神の御心が行われるように、と祈る事がキリスト者の祈りの本質です。
さて、37-42節は、祈る主イエスと眠る三人の弟子たちを、マルコによる福音書は対照的に描いています。
主イエスは、眠っている三人の弟子たちを御覧になり、ペトロに目を覚まして祈っているように警告されて、こう言われています。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(37-38節)。
ペトロは、睡魔に襲われ、一時も目を覚ましていることが出来ませんでした。新共同訳聖書は、主イエスがペトロに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」と言われたと訳しています。
新改訳聖書2017も、共同訳聖書も同様に訳しています。本田哲郎氏は「目を覚まして祈っていなさい。そうすれば試みにはまることはない。霊はやる気でいても、肉体は弱いものだ」と訳されています。
良い訳だと思います。「心」ではなく、「霊」という言葉です。キリスト者の内には聖霊が宿られます。聖霊はやる気でもと理解するのは少しおかしいでしょうが、「燃えても」という言葉は、「思いがそちらの方向に向かうこと」を意味する言葉です。わたしたちの内に住まわれる霊である聖霊は、わたしたちの思いを神の方向へと、主イエスの方に向けてくださるのです。すると、わたしたちは信仰において元気を得るわけです。それを本田氏は「霊はやる気でも」と訳されたのでしょう。田川健三氏は、「霊は張り切っていても、肉体は弱い」と訳されています。
この主イエスの御言葉に、ペトロを始め、初代教会のキリスト者たちの信仰経験が含まれているのではないでしょうか。マルコによる福音書は、主イエスのペトロへの警告の言葉から次のことを、わたしたちに伝えたいのです。
ペトロを始め、初代教会の多くのキリスト者たちは、常に目を覚まして祈らなかったので、すなわち、主イエスを信じて祈る事の出来ないキリスト者たちは、必ずこの世において試みに遭うだろう。その時、彼らの霊はやる気でも、彼らの肉体は弱くて、ペトロが三度主イエスを否認したように、他の弟子たちが主イエスを見捨てて逃げてしまったように、どんなキリスト者たちも主イエスに背を向けることになるのだと。
しかし、マルコによる福音書は、その警告を、わたしたちの弱さを裁くためにしているのではありません。ヘブライ人への手紙の記者は、試みに遭うわたしたちキリスト者の肉の弱さを、苦難と試みに遭われた主イエスは思いやることのおできになる救いぬスであると述べています。
その主イエスの思いやりを、マルコによる福音書は主イエスが三度眠っている弟子たちを訪れられることで表現していると思います。三度目に来られた主イエスに、睡魔に襲われて眠ってしまった三人の弟子たちは、何と弁明すればよいのか分かりませんでした。
主イエスは、彼らにこう言われました。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(41-42節)。
三度主イエスは来られて、睡魔に襲われて眠っている三人の弟子たちを見て、皮肉を言われたと理解する人もいます。
わたしは、主イエスが人としての苦しみ、試みをよく知られ、どんなキリスト者たちも霊において張り切っていても、彼らの肉体が弱くて、その睡魔に勝てないことをよくご存じだと思うのです。主イエスは、キリスト者であるわたしたちがペトロたちのように人の弱さを持ったままであっても、「もうこれでよい」と受け入れてくださるのです。
この世におけるキリスト者の聖化という目標は遠いのです。教会は、これから長く続いて行くでしょう。だから、わたしたちは、この世でいろいろな苦難に遭い、試みに遭うでしょう。主イエスを信じて、祈り、わたしたちの内にある聖霊に元気を与えられても、失敗し、主イエスに背を向けることもあるかもしれません。しかし、復活の主イエスは何度でもわたしたちを訪れてくださいます。そして、ペトロのように頑張る必要はないのです。主イエスは、わたしを信じているのであれば、それでよいと言ってくださるのです。
どうか今から共に主イエスの聖餐の食事に与りましょう。そして、復活の主イエスの「それでよい」という御声を聞こうではありませんか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスのゲツセマネの祈りを学ぶことができて、感謝します。
主イエスのゲツセマネの祈りは、主イエスがとても驚かれ、困惑された中で、死ぬほどに苦しまれて祈られました。
その祈りは、詩編42編の詩人のように、絶望の祈りではなく、神を待ち望む、父なる神を信じ、子が父親を全面的に信頼するような祈りであることを学びました。
どうか、主イエスがペトロに警告されたように、わたしたちは霊においては張り切っていますが、わたしたちの肉体はとても弱いのです。この世の試みに耐える力はありません。
それゆえにどうか主イエスを信じて、わたしたちの思いではなく、主イエスの御心を行わせてくださいと祈らせてください。
睡魔に襲われて、寝入っていた弟子たちに三度訪れられたように、心を曇らされ、この世において何が主の御心なのか、理解できずにいますわたしたちのところに復活の主イエスよ、来て下さい。
復活の主イエスよ、毎週の主の日の礼拝においてわたしたちにも「もう、いいよ」と御声をかけてください。
頑張るキリスト者ではなく、この世の試みに遭うわたしたちをよくご存じである主イエスに、すべて身を委ねることのできる者としてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教77 2021年10月10日
さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け。」と、前もって合図を決めていた。
ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来た。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
マルコによる福音書第14章43-52節
説教題:「主イエスの逮捕」
前回マルコによる福音書は、受難週の5日目、主イエスが11弟子たちを連れて、オリーブ山のふもとにあるゲツセマネの園に入られ、祈られたことを記していました。
主イエスは、まるで地獄の苦しみを体験するかのように祈られました。父なる神に怒りの杯を、すなわち、十字架の死を取りのけてくださいと祈られました。そして主イエスは続いて御自分の意志ではなく父なる神の御意志をなさせてくださいと祈られました。
主イエスは身近に置かれた三人の弟子たちを三度訪れられました。彼らは睡魔に襲われ、眠りこけていました。主イエスは三度目にペトロに言われました。「試みがあなたの中に入らないように、目を覚まして祈っていなさい。あなたの中の霊は張り切っていても、あなたの持つ肉体は弱いから」。そして、主イエスは、最後に三人の弟子たちの弱さを受け入れて、「今は寝なさい。休んでよい。十分だ。」と言われ、「その時が来た。わたしは罪人に引き渡される。見よ、裏切り者が来た。」と言われました。
43節の冒頭は、「そしてすぐに」という言葉で始まっています。ゲツセマネの園における主イエスの逮捕は、初代教会において受難週における主イエスの御受難の一つの出来事として伝わっていました。それを資料にして、マルコによる福音書は主イエスの逮捕を記しているのです。
マルコによる福音書は、主イエスの逮捕の出来事に、12弟子の一人ユダの裏切りと他の弟子たちの逃亡を記しています。そして、おそらく裸で逃げた若者とは、マルコによる福音書の著者マルコ自身のことでしょう。
主イエスが三人の弟子たちと話しておられる時に、12弟子たちの一人ユダがサンヘドリンの手下たちを、ゲツセマネの園で祈られていた主イエスのところに導き入れました。
裏切り者ユダは、あらかじめサンヘドリンの手下たちに主イエスを逮捕する合図を与えて、こう伝えていました。「わたしが接吻する者がイエスだ。あなたがたは捕らえて、確実にサンヘドリンに連れて行け。」(44節)と。
45節の冒頭でも「そしてすぐに」という言葉があります。ゲツセマネの園に来るとユダはすぐに主イエスに近づきました。そして、彼は主イエスを「ラビ(先生)」と呼びかけ、接吻しました。
サンヘドリンの手下たちは、ユダの合図を見ると、すぐに主イエスに手をかけて逮捕しました(46節)。
その時、主イエスの身近にいました者たちの一人が剣を抜いて、大祭司の僕に切りかかりました。そして僕の右耳を切り落としました(47節)。ヨハネによる福音書だけが、シモン・ペトロの仕業であると記しています(ヨハネ18:10)。マルコによる福音書はだれが手下の右耳を剣で切ったのかを知らなかったのでしょう。当然マルコによる福音書を資料に用いたマタイもルカによる福音書も知りません。
さて、48-49節は主イエスの御言葉です。マルコによる福音書は、「そこで主イエスは、彼らに答えて言った」と記しています。「答えて」という動詞は、マルコによる福音書がよく使っています。「吟味する」「査定する」「選別する」という意味の言葉です。或評価に即してよく考えて判断することです。
主イエスは、サンヘドリンの手下たちが剣や棒を持って主イエスを逮捕に来たことに即して、彼らを判断し、次のように言われたのです。彼らは、主イエスの御言葉に対して責任ある決断を求められているのです。
「「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」」(48-49節)。
手下たちが持つ剣と棒は、強盗を捕えるための武器でした。だから、それを御覧になった主イエスは、彼らに「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。」と質問されたのです。彼らは、主イエスを逮捕するのに、強盗に対するように剣と棒という武器を持ってやって来たのです。
主イエスは、エルサレム神殿の異邦人の庭でいつも教えておられました。神殿を警護する大祭司の手下たちは、その場にいたのです。しかし、彼らは主イエスを逮捕しませんでした。
今大祭司の手下たちが剣や棒を持って主イエスを逮捕しに来たのは、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」と、主イエスは言われました。主イエスが宣言されたのです。
マルコによる福音書は、「しかし、聖書が成就されるために」と記しています。聖書は「書物」です。そしてこの聖書という書物は旧約聖書のことです。旧約聖書にはキリストの御受難が預言されていて、今それが主イエスの逮捕によって実現したのだと、マルコによる福音書は記しているのです。
マルコによる福音書は、50-51節で11弟子たちとマルコによる福音書の著者マルコの逃亡を記しています。主イエスは14章27節で旧約聖書のゼカリヤ書13章7節を引用して御自身の弟子たちが逃亡することを預言されました。マルコによる福音書は、その実現を記しているのです。
その実現とは、父なる神の御意志が実現したということです。聖書に書かれているのは神の御意志であり、御計画です。主イエスは、御自分の意志ではなく、神の意志に従い逮捕され、サンヘドリンに連行されました。
43節で主イエスを逮捕するのが「群衆」という言葉で表現されています。マルコによる福音書の「群衆」は主イエスに従い、喜んで主イエスの語る福音の御言葉を聞く者たちでした。主イエスの好意的な人々でした(3:7,9,4:1,6:34等)。
ところが14-15章の「群衆」は、主イエスを逮捕し、裁判で死刑を要求する人々です。主イエスに敵対する人々です。エルサレムの支配者に雇われた人々を、マルコによる福音書は「群衆」と呼んでいます。
主イエスは、12弟子たち、マルコによる福音書の著者であるマルコに見捨てられただけではありません。好意を抱いて主イエスに従っていた群衆たちにも見捨てられたのです。それが、マルコによる福音書が描きます御受難の主イエス・キリストなのです。
12弟子の一人は裏切り、後の11弟子たちは皆逃げてしまいました。そして、一人の若者が素肌に亜麻布を着て、逮捕された主イエスについて行きました。ところが手下たちが彼を見つけて、捕まえようとすると、彼は亜麻布を捨てて、裸で逃げてしまったのです。
「亜麻布」は、その布地で作った上等な上着のことです。若者は、理由は分かりませんが、下着を着ないで、素肌の上から上着を羽織っていたのです。ところが捕まえられそうになり、その上着を捨てて、逃げました。おそらく追いかける者たちが上着に目を奪われている隙に、逃げようとしたのでしょう。
このようにしてマルコによる福音書は、父なる神の御意志に服従し、強盗のように逮捕され、苦しみを身に受けられて、聖書の預言の御言葉を実現されている主イエスとその主イエスを見捨てて逃げる主イエスの弟子たちとマルコによる福音書の著者マルコの恥ずかしい姿をコントラストに、対照的に、描いているのです。
しかし、マルコによる福音書がわたしたち読者に伝えているのは、裸で逃げるマルコによる福音書の著者の姿もまた、主イエスが言われた聖書の御言葉の実現なのです。
預言者アモス、彼は紀元前8世紀に、主イエスが生まれられる700年昔に、北イスラエル王国で活躍した預言者です。彼の名は「重荷」「重荷を負う者」という意味です。羊を飼育し、桑の木を栽培する農夫でした。主なる神は彼を預言者に召されました。
彼は、北イスラエル王国の周りの諸国民に対する神の審判、北イスラエル王国と南ユダ王国の神の民に対する主なる神の審判を預言し、主なる神が神の民を回復し、救済されることを預言しました。
預言者にとって審判の主なる神が神の民を回復し、救われるお方でした。大切なことは、主なる神は生きておられるということでした。生きた神であるがゆえに、神の民を裁かれ、救われるのです。
旧約聖書は、生きた神、今生きて働かれている主なる神の民に対する審判と救いを預言しているのです。マルコによる福音書は、その旧約聖書の預言が逮捕された主イエスにおいて実現し、主エスを見捨てて逃げていた弟子たちや裸で逃げた若者において実現したのだと記しているのです。
アモス書2章16節で預言者アモスは、こう預言しています。「勇者の中の雄々しい者も その日には裸で逃げる、と主は言われる。」
主イエスは逮捕され、弟子たちは逃げ去り、群衆たちは主イエスに好意を抱く者から憎しむ者に変わりました。こうして主イエスの御受難が主イエスを孤独にしたのです。主イエスは、神にも人にも見捨てられて、一人十字架の道を歩まれるのです。
主イエスの御受難をサポートできる弟子もユダヤの民もいません。そして神の民ユダヤ人と異邦人たちが主イエスを裁判にかけ、死刑を宣告し、十字架刑へと向かわせる主役となるのです。
マルコによる福音書は神の子主イエス・キリストの孤独を際立って鮮やかに描いて、聖書が預言する通りにこの神の子主イエス・キリストだけが、わたしたちを罪から救い、永遠の命へと導かれるのだと、告げ知らせているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスの逮捕について学ぶことができて、感謝します。
主イエスは裏切り者のユダが手引きし、ゲツセマネの園で大祭司たちの手下に逮捕されました。
主イエスは、この逮捕が父なる神の御心であることを確信されました。聖書の通りに主イエスが逮捕され、12弟子の一人ユダは裏切り、他の11弟子たちは主イエスを見捨てて逃げていきました。
マルコによる福音書の著者も、旧約聖書の預言者が預言したように裸で逃げて行きました。
主イエスは、12弟子たちに、群衆に、そしてマルコによる福音書の著者にも見捨てられ、全くの孤独な中で父なる神に従われ、御受難の道を歩まれました。
だからこそ主イエス以外に、わたしたちを罪と死から、あらゆる苦難から救い得るお方はいません。
それゆえにどうか主イエスを信じて、歩ませてください。
主イエスよ、どうか生きて働かれ、今わたしたちと共に居て、わたしたちをお救いください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教78 2021年10月17日
人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするため主イエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な証言をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」
大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。
マルコによる福音書第14章53-65節
説教題:「裁かれる主イエス」
マルコによる福音書は、サンヘドリンの裁判で死刑の判決を下される受難の主イエスを物語ります。
十二弟子の一人ユダの裏切りで、主イエスはゲツセマネの園で大祭司の手下たちに逮捕され、大祭司の邸宅に連れて来られました。
53節の「人々」は意訳です。「彼ら」です。大祭司の手下たちです。彼らは、捕らえた主イエスを、大祭司の邸宅に連れて行きました。
そして、マルコによる福音書は大祭司の邸宅に「祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。」と記しています。
彼らはサンヘドリンの構成メンバーです。サンヘドリンは、エルサレムの都にある最高法院のことです。議員数は議長を含めて71名です。サドカイ派の祭司貴族である祭司長たち、信徒貴族である長老たち、そしてファリサイ派の律法学者たちから議員が選ばれました。
サンヘドリンの権限は、次のことです。神の律法の解釈と適応、戦争と講和の決定、裁判、神殿の管理、宗教的実務、すなわち、過越の祭等に関する決定です。
裁判では、異邦人が神殿の聖所に入り、神を冒涜した時、彼を石打の刑に処することが出来ました。
主イエスの時代、サンヘドリンは司法権と警察権を持っていました。だから、サンヘドリンは主イエスを逮捕し、裁判にかけることが出来ました。
マルコによる福音書は、大祭司の邸宅でサンヘドリンが開かれたと記します。
大祭司は、カイアファです。彼は、紀元18-36年まで大祭司の職に就いていました。
55-65節でマルコによる福音書は、サンヘドリンで裁かれた主イエスを物語っているのです。55-64節までが主イエスがサンヘドリンで裁かれた審判の報告の内容です。
マルコによる福音書は55節でサンヘドリンがどういう目的で主イエスを審問したかを記しています。「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするため主イエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。」
マルコによる福音書は、55-64節で沈黙される主イエスと主イエスの死刑の理由を記しています。
サンヘドリンは主イエスに不利な証言をする者たちを集めて、証言させました。しかし、彼らの証言は食い違っていたと、マルコによる福音書は記しています。56節と59節の「食い違っていた」は、彼らの証言が一致しなかったという意味です。
偽りの証言をする者たちもいました。58-59節です。「「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。」
ある者たちは主イエスが神殿を冒涜するのを聞いたと偽りの証言をしました。しかし、この証言も一致しませんでした。
マルコによる福音書は、サンヘドリンは人々の証言によって主イエスを有罪とすることが出来なかったと記しています。
そこで大祭司カイアファは立ち上がり、法廷の真ん中に進み出て、直接主イエスの言葉尻を捕えて、有罪にしようとしました。
彼は主イエスに巧妙に尋問しました。最初に主イエスにどうして沈黙しているのかと尋ねました。
サンヘドリンで人々が主イエスにとって不利な証言をしているのです。普通であれば、その証言に対して主イエスは弁明されるべきでしょう。ところが、主イエスは終始沈黙されています。
沈黙される主イエスに大祭司カイアファは、次にこう尋問しました。「「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と」(61節)。
主イエスは、彼にこう答えられました。「「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」」(62節)。
「ほむべき方」とは、主なる神です。ユダヤ人たちは、主なる神の御名を口にすることをはばかりました。それで主なる神の御名に代えて、「ほむべき方」と言い換えました。
大祭司は、主イエスに「お前は主なる神の子、メシアであるのか」と尋問したのです。
主イエスは、彼の尋問に「エゴー エイミー」と答えられました。本田哲郎氏は、「わたしだ」と訳されています。これは、神の顕現を表わす定式の言葉です。
「そうです。」は、主イエスが大祭司の尋問を肯定したと理解する訳です。主イエスが自分は神の子、キリストと告白されたという理解です。
しかし、田川健三氏は、別の写本を採用し、「それはあなたが言っておいでのことだ。」と訳されています。テキストの本文を変えられているのです。そうする根拠があり、今日田川氏のように翻訳する者がいます。
田川氏の立場に立てば、主イエスは、尋問するカイアファに「わたしが神の子メシアである」と言うのは、あなたが言っていることだとなります。主イエスの告白ではなく、サンヘドリンの側が言っていることだとなります。
わたしにはどちらが正しいと判断することはできません。将来マルコによる福音書の本文が変われば、それに従って理解するでしょう。
現在のマルコによる福音書の本文に従えば、本田哲郎氏の訳が良いと、わたしは思います。主イエス御自身がキリスト告白されなくても、終始裁判で沈黙されていた主イエスは、まさに御自身が主なる神としてそこにおられたのです。
だから、主イエスは続けてこう言われました。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」と。
「人の子」はわたしという意味です。「全能の神」は「力」です。主イエスはこう言われました。「あなたがたはわたしが力の右に座し、天の雲と共に来るのを見るであろう」と。主イエスの再臨を言われているのです。
マルコによる福音書は、6章50節で主イエスが湖で嵐を静める奇跡をなさったことを記しています。小舟の中で嵐を恐れていた弟子たちに、主イエスは「エゴー エイミー」と言われて、嵐を静める奇跡をされました。主イエスは御自身主なる神として、弟子たちと共に居てくださいました。
サンヘドリンで裁かれている主イエスは「エゴー エイミー」と言われて、御自身が主なる神として、今ここにいることを現わされており、主イエスを裁いているサンヘドリンの大祭司たちは、将来再臨のキリストが主なる神であることを見るだろうと言われているのです。
主イエスの沈黙は、旧約聖書の預言者イザヤが苦難の神の僕を預言しました時に、こう預言しました。「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:7)。
旧約聖書の預言者の預言がサンヘドリンで裁かれる主イエスにおいて実現したと、マルコによる福音書はわたしたちに伝えているのです。
預言者イザヤは続けてこう預言しています。「捕らえられて、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(イザヤ53:8)。
大祭司は主イエスの言葉を聞いて、衣服を裂きました。これは、大祭司が神を冒涜する言葉を聞いたという行為です。だから、彼はサンヘドリンに「これ以上の証言はいらない。皆さんは、神を冒涜する言葉を聞いただろう。どう思うか」と言いました。そして、彼は彼らに主イエスを死刑にするという裁定を下すように促したのです。
その結果、サンヘドリンは一致して、主イエスに死刑にするという裁定を下しました。
こうしてサンヘドリンで裁かれた主イエスは、沈黙されて、受難に耐えられました。預言者イザヤが預言した通りに、人々に嘲られ、辱めを受けられました。
「それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。」
マルコによる福音書は、唾を吐きかけ、目隠しをし、こぶしで殴りつけ、言ったという4つの動詞で、主イエスの御苦しみを記しています。
どこの国でも裁かれて、罪人になると、人々から侮辱されます。唾を吐きかけるは、侮辱する行為です。目隠しをし、打ち叩き、何か預言して見ろと、人々は主イエスを嘲りました。
主イエスは、再び大祭司の手下たちに引き渡されました。彼らは、主イエスを強く殴りつけて、サンヘドリンから受け取りました。
主イエスの沈黙と主イエスが人々に嘲笑される姿を、マルコによる福音書はわたしたちに伝えています。
しかし、マルコによる福音書がわたしたちに今朝の御言葉から伝えたいことは、人の目には虐げられる主イエスが、沈黙されている主イエスが、神の子主イエス・キリストとして、「エゴー エイミー」である主なる神として、そこにおられるということです。そのお方を、わたしたちは将来、再臨のキリストとして見るという約束であります。
その約束のゆえに、今この世にあるキリスト教会とわたしたちキリスト者は、コロナウイルスの災禍の中にあっても、あるいは迫害の災いの中にあろうとも、また、病やこの世の煩いの中に居ても、失望することはありません。
サンヘドリンで裁かれる主イエスが、将来栄光あるキリストとして再臨されるからです。すべての苦しみを知る主イエスこそわたしたちに本当の慰めをお与えくださるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、サンヘドリンで裁かれる主イエスを学ぶことができて、感謝します。
主イエスは、屠り場に連れて行かれる羊のように、沈黙され、十字架への受難の道を歩まれました。
裁かれた主イエスは、罪無きお方でした。まさに主イエスが主なる神であることを、裁きの中で現わされ、御自身の再臨を約束してくださいました。
その約束によって、今わたしたちはこの世の苦難の中でも、再臨のキリストを待ち望むという希望を与えられています。
この希望に生きる喜びを、家族と知人に伝えさせてください。
主イエスよ、どうか毎週の礼拝ごとに、わたしたちに「エゴー エイミー」と語りかけてください。今ここに主なる神である、主イエスの臨在を、わたしたちの心に留めさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教79(宗教改革記念日礼拝説教)
2021年10月31日
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。
マルコによる福音書第14章66-72節
説教題:「ペトロの否認」
本日の礼拝は、宗教改革記念日礼拝です。
1517年10月31日にマルチン・ルターは、ヴィッテンベルク城教会の扉に「九十五箇条の提題」を貼りだしました。この出来事から宗教改革運動が起こり、ヨーロッパに広まり、プロテスタント教会が生まれたと、一般には理解されています。
歴史はその通りでしょう。しかし、わたしたちは、宗教改革を青年ルターが自分の救いの問題に悩み、聖書を読むことから始まったと理解しています。
宗教改革運動は、ルターが一人で聖書を読むことから始まりました。彼は修道院の中で自らの救いに悩みながら、聖書を読みました。そこで彼は、神の義が彼を裁くものではなく、神が罪人である彼を救うものであることを発見したのです。喜ばしき福音を再発見しました。
ルターが言う喜ばしき交換です。わたしたちの罪をキリストが身代わりになられ、キリストが十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われて得られた義を、わたしたちが信仰を通して得るという喜びです。
こうしてルターは、聖書を読み再発見した福音の喜びを人々に分かち合おうと、教会の礼拝において民衆に説教しました。たとえば彼は民衆にザアカイの話をし、キリストお一人のお働きで彼が救われたことを語りました。
こうして先ほど言いましたヴィッテンベルク城教会の扉にルターが『九十五箇条の提題』を貼りだすという事件が起こりました。
当時ローマカトリック教会は、免罪符を販売し信者に罪を償うことができると教えていたのです。しかし、ルターが聖書から再発見した福音は、罪を救うことができるのはキリストただ一人です。
聖書の教えと教会の教えが相反するならば、ルターは聖書に従うのです。
そこで彼は、聖書の教える信仰とは、罪とは、罪の赦しとは、信仰者の愛とは何かを問うために、『九十五箇条の提題』を一枚の紙に書いて、貼りだしたのです。
その第1条で彼は、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『あなたがたは悔い改めなさい』と記しています。
この世から主イエスに方向転換することが悔い改めです。この世の教会が売る免罪符に罪の赦しがあるのではなく、ルターが教会の礼拝で説教している十字架の言葉に、キリストによる神の罪の赦しがあるのです。
ある方のマルチン・ルターの伝記を読みますと、ルターが再発見した聖書の福音のメッセージの中心を一文にすると、こうであると記されていました。「神お一人が恵みにより、イエス・キリストにおいて、私たち人間の罪、存在の底にあるどす黒いものを赦して、私たち罪人を救い、生まれ変わらせてくださった。」
こうしてルターは死ぬまで彼が聖書から再発見した福音のメッセージを語り続け、その福音に生きたのです。何度も命の危険に出くわしました。そして彼は、主イエスのようにドイツ皇帝の裁きの場に立ちました。そこで彼は、皇帝たちを恐れることなく「我ここに立つ」と言いました。常にキリストの御前に立って生きると。
宗教改革者ルターと今朝の御言葉とがどんな関係にあるのでしょうか。それを、わたしは今朝の説教を準備しながら、思い巡らせたのです。
マルコによる福音書は、主イエス・キリストの受難の出来事を、事実として記しています。その出来事の中でペトロが主イエスを三度否認したという事実を記しています。
主イエスは、12弟子たちと最後の食事をされた後に、12弟子たちが受難の主イエスにつまずくことを、旧約聖書の御言葉の実現として語られました。
それに一番強く反対したのが、ペトロでした。他の11弟子たちが主を見捨てても、彼は最後まで主について行くと言い張りました。
だから、ペトロは大祭司の邸宅で裁判にかけられた主イエスについて行きました。そして大祭司の中庭で焚火に暖まっていたのです。
その時に大祭司の家の召使が、ペトロを見ました。彼女は彼をじっと観察し、「ナザレのイエスと一緒に居ましたね」と言いました。ペトロは、彼女の言葉を聞いて、「わたしは彼を知らないし、あなたの言うことが分からない」と否定しました。
彼は、大祭司の中庭から邸宅の門に向かって出て行こうとしました。すると、鶏が一度目の鳴き声をあげました。
しかし、召使はペトロをずっと見続けていたのです。彼女は周りの人々に、「この人はあの人の仲間です」と言いました。ペトロは再度彼女の言葉を打ち消して、主イエスを否認しました。
おそらく大祭司の邸宅に居合わせた人々は、彼女の言葉に刺激されたのでしょう。ペトロが否定する言葉がガリラヤの人々の訛りがあることに気づきました。だから、彼らはペトロに言いました。「本当だ。お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの出身者であるから。」
ペトロは、周りの人々に取り囲まれて、彼らに主イエスの仲間だと言われ、心から恐れたことでしょう。ユダヤ人が自分の話すことが真実であることを証しするときに、呪いの言葉を口にし、誓うことをします。ペトロは、「あなたがたが言っているそんな人は知らない。」と強く否定しまして、自分と主イエスとの関係を消し去ろうとしました。
すると、鶏が二度目に鳴きました。
ペトロが「とんでもない」と周りの人々に三度目の主イエスを否認する言葉を告げ始めると、鶏が二度目の鳴き声をあげたのです。
すると、ペトロは思い出しました。主イエスがゲツセマネの園に行く途中、彼に「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(マルコ14:30)と言われたことを、です。
ペトロは、「イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。」と、マルコによる福音書は記しています。
これは、新共同訳聖書が意訳しています。ギリシャ語の本文は、「そして身を投げ出し泣いた。」です。イングリシュバイブルは、「彼は突然泣き出した」と英訳しています。
マルコによる福音書は、後に初代教会の代表者となるペトロの不信仰、失敗の事実をありのまま記しています。
この事実に初代教会のキリスト者たちは、どんな反応をしたのか、分かりません。
しかし、わたしは次のように想像します。彼は、主イエスを三度否認しました。三度目の彼の否認で、彼は自分が神に呪われても、わたしと主イエスとは関係がないと誓いました。これほど大きな罪があるでしょうか。
しかし、神の子主イエス・キリストは、前もってペトロが三度御自身を否認するという事実を知られ、彼に予告され、彼がその通りの罪を犯したにもかかわらず、彼を愛して、彼の罪を赦し、キリスト教会の使徒として彼が働くことを許されたのです。
昔からこのペトロの主イエスを三度否認するという話の出所が、使徒ペトロの説教を通してだと伝えられてきました。
幾度もペトロは初代教会のキリスト者たちに自分が主イエスを三度否認したという失敗談と主イエスがそれにもかかわらず彼を愛し、彼の罪を赦されたことを語り続けたという話がキリスト教会の中で伝えられて来たのです。
ルターも聞いたでしょう。ペトロは主イエスに愛され、罪を赦された喜びだけではなく、聖霊によって古い自分から新たしい自分に変えられたことも話したでしょう。
ルターは、キリストの十字架の下にペトロのように愛され、罪を赦され、聖霊によって新たにされた自分を見出したのではないでしょうか。
ペトロのように、わたしたちもキリスト者となる前に、人には言えないまことに暗黒の部分が人生においてあるのです。
普通ならば、そのような人間がキリスト者として生きていることは恥だと言われます。自分でもそう思うでしょう。
しかし、神の義は三度主イエスを否認したペトロを裁かず、キリストの十字架による罪の赦しと神の愛へと導きました。
ペトロだけではありません。多くのキリスト者が、また、福音の宣教者たちがペトロのように導かれてきたのです。
彼らは、十字架のキリストによって自分たちがどのように神に愛され、罪を赦されて、また、聖霊によって新しい人にされたかを証ししました。
教会の伝道は、主イエスの12弟子たちが正しく、清く生きたので、成功したのではありません。12弟子たちのように失敗し、不信仰の罪を犯し、一時は主イエスとの関係を否定しても、父なる神の愛によって、主イエス・キリストの愛と寛容によって、悪を善に変えられる神によって、わたしたちは罪のゆえに、愚かに失敗するという自分たちの恥のゆえに、ペトロのように十字架のキリストへと引き寄せられたのです。
バークレーという聖書学者がマルコによる福音書の今朝の御言葉を解説し、最後に使徒ペトロが人々にこう説教していたと、想像する文章を記しています。
「わたしはイエスを傷つけた。わたしはこれほどイエスを失望させた。それでもなお、イエスはわたしを愛し、ゆるし下さった―またイエスはあなたがたにも、同じようになさることができるのだ」と。
このバークレーの言葉は、だれかの言葉の引用かもしれません。しかし、今この教会で、あるいはオンライン礼拝を通してこの礼拝に参加しているキリスト者のありのままの姿ではないでしょうか。
ルターが『九十五箇条の提題』の第一条で述べたように、キリスト者の生涯は悔い改めの生涯です。ルターも死の間際に「わたしは乞食である」と言いました。彼は、生涯、死の間際まで主イエスの恵みに生きることに、彼の心を向け続けたのです。
どうかルターのように一人聖書を読まれ、共にその恵みを分け合う礼拝の説教と聖餐の恵みに与ろうではありませんか。
そして共に十字架のキリストの救いの恵みのみに、わたしたちの心を向けて、今の世の混迷した中で、神の御言葉という御国の道を照らす光に導かれて、共に歩みましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、宗教改革記念日礼拝を共に守ることが出来て、感謝します。そして聖餐の恵みに与れることを感謝します。
毎年10月31日の宗教改革記念日を覚えて、その日に一番近い主の日に宗教改革記念日礼拝を行っています。
どうか宗教改革者ルターを覚えて、聖書を読み、説教を通して共に聖書の恵みを分かち合い、十字架の主イエス・キリストの恵みの下に歩ませてください。
使徒ペトロのようにわたしたちも多くの罪を犯し、失敗をし、主イエスを傷つけるものです。しかし、預言者イザヤが預言しましたように、主イエスはわたしたちの罪を負われ、わたしたちの罪の刑罰の身代わりとして死んでくださいました。また、御自身罪無きお方であり、父なる神様に従順に従われて、得られた義をわたしたちにお与えくださいました。
ルターが言うこの喜ばしき交換によって、わたしたちは信仰によって神の義を得て、罪を赦され、神の子とされ、御国に相続人としていただきました。
どうか、十字架のキリストの愛を、家族と知人に伝えさせてください。
三度主イエスを否認したペトロを、主イエスは愛し、罪を赦し、救われました。この喜びの福音がわたしたちの所にも来ていると、この世の人々にオンライン礼拝を通して伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教80 2021年11月7日
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき 人殺しをして、投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ。茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
マルコによる福音書第15章1-20節
説教題:「主イエスの裁判」
今朝は、マルコによる福音書第15章1-20節の御言葉を学びましょう。
マルコによる福音書は、主イエスがポンティオ・ピラトの裁判に就かれた次第を、こう記しています。「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。」(マルコ15:1)。
夜が明けるとすぐに、最高法院は会議を開きました。祭司長、長老、律法学者たちの全議員が協議し、主イエスをピラトに引き渡すことを決定しました。そして、彼らは主イエスを縛り、強制連行し、ピラトに引き渡しました。
ユダヤの最高法院には、主イエスを処刑にする権限がありませんでした。ですから、彼らは、主イエスをローマ帝国の反逆者として、ローマ総督ポンティオ・ピラトに引き渡したのです。
ピラトは、裁判に就いた主イエスに次のように尋問しました。「ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。」
「ユダヤ人の王」という称号は、ローマ皇帝に対する反逆者として、ローマ帝国において処罰の対象となりました。ピラトは、主イエスに「お前はユダヤを支配する王となろうとして、政治的扇動をする者か」と尋問したのです。
ピラトの尋問に、主イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。
ピラトの裁判でユダヤの指導者たちは口々に主イエスがユダヤの王であると言い、民衆を扇動したと訴えたでしょう。
ピラトは、主イエスの口から「わたしはユダヤの王である」と言うのを聞くだけでよかったのです。
主イエスは、ピラトの尋問に、「それはあなたの言っていることだ」と答えられました。これは、主イエスがピラトの尋問を容認されたのか、あるいは否認されたのか、よく分かりません。
主イエスは、最高法院の裁判において沈黙されたように、ピラトの裁判でも沈黙されたのです。主イエスは、ピラトの尋問に、「今しゃべっているのはあなただ」と言われて、ピラトの尋問に対して本当のところは沈黙されたのです。
ピラトの前で沈黙された主イエスを、祭司長たちがいろいろ訴えました。しかし、主イエスは何も反論されず、沈黙を守られました。
裁判で沈黙を守られる主イエスを見て、「ピラトは不思議に思った」のです。
さて、マルコによる福音書は、沈黙の主イエスがユダヤ人の王として処刑されることを記しています。
「ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき 人殺しをして、投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」(マルコ15:6-15)
ピラトがバラバを釈放して、ユダヤ人の王である主イエスを、祭司長たちやユダヤの民衆たちの要求に従って、有罪宣告し鞭打ちと十字架の刑に処するために、ローマの兵士たちに引き渡しました。
過越祭には、一人の囚人に対して恩赦を与えて、釈放する習わしがありました。
この恩赦に与った囚人の名はバラバです。マルコによる福音書は、彼を「暴動のとき 人殺しをして、投獄されていた暴徒たち」の一人として紹介しています。
マルコによる福音書は、ピラトの裁判をありのまま描いているのでしょう。「群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始め」ました。
このピラトの裁判に押しかけて来た群衆は、6日前に主イエスが王としてエルサレムに入城された時に、上着やシロの木の枝を道に敷いて、歓迎した多くの者たちと同じではありません。
マルコによる福音書14章43節で、ゲツセマネの園の主イエスを捕えに来た祭司長たちの手下たちでしょう。彼らはここでも祭司長たちに呼び集められ、主イエスを十字架につけよと歓呼するために動員されたのです。
群衆はエルサレムの丘の高い所にあったピラトが住む屋敷まで上って来て、祭司長たちが指図する通りに、「イエスを十字架につけろ」と叫び続けたのです。
マルコによる福音書は、次のように記していますね。ピラトは祭司長たちが主イエスを妬んで殺そうとしていることを知っていたと。その一文でマルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの無罪性と主イエスを殺そうとする祭司長たちの動機を知らせているのです。
ピラトは自己保身に走る官僚です。一応彼は、主イエスを擁護します。彼はお前たちのユダヤ人の王ではないか、バラバのように悪事を働くことをしていないではないかと。
ピラトは、祭司長たちに扇動された群衆たちの「イエスを十字架につけろ」という要求の声が更に大きくなると、彼は群衆を満足させようとして、バラバを釈放し、主イエスを鞭打ちと十字架の刑に処するためにローマの兵士たちに引き渡したのです。
沈黙されている主イエスがローマの兵士たちに引き渡され、侮辱されたことを、マルコによる福音書は次のように記しています。
「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ。茨の冠を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。」(マルコ15:16-20)。
ローマの兵士たちは、ユダヤ人の王、主イエスを侮辱しました。ローマの兵士たちは、ピラトの住む官邸の中庭の中に主イエスを連れて行きました。
イタリア部隊は、イタリアで召集され、カイザリヤに600人の兵士たちが駐屯していました。百人隊長の指揮の下に兵士たちがピラトの官邸で働いていたのではないでしょうか。その兵士全員が中庭に集められました。
主イエスを侮辱するところを彼らに見物させるためでした。主イエスは、兵士たちが身につけていた深紅の上着を着せられました。そして茨で作った冠を頭に被せられました。そして、兵士たち全員が主イエスに向かって「ユダヤ人の王、万歳」と歓声をあげました。これは、彼らがローマ皇帝に向かって「カエサル、万歳」と歓呼したことのパロディ―です。
彼らは、主イエスに対する鞭打ちの刑を、ユダヤ人の王である主イエスを侮辱する機会としました。そして日頃のうっ憤を吐き出す場としたのです。何度も葦の棒で彼らは、主イエスの頭をたたきました。葦の棒は王の権力を表わす王笏の代用物だったでしょう。兵士たちは、ユダヤの王である主イエスの頭に王冠を被せて、手に葦の棒を持たせたでしょう。そして彼らは、ローマ皇帝を礼拝するように、主イエスに向かって礼拝をしたのです。そして彼らは、主イエスを王に仕立てて、笑い物にしたのです。
主イエスは、エルサレムの都を目指して旅されているとき、三度目の御自身の受難予告をされました。「異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」(マルコ10:34)と。
そのお言葉のとおりに主イエスは、十字架への受難の道を歩まれたのです。屠殺場に引かれて行く子牛のように、主イエスは沈黙し、ゴルゴタの丘にある十字架刑場に向かわれました。
讃美歌二編の16番は、ローマの兵士たちに侮辱され、沈黙の主イエスが十字架の道を歩まれることを歌っています。この讃美歌は、由木康牧師が訳されたものです。そして、訳した牧師の信仰だと思います。
「讃美歌21」に元々の讃美歌があります。しかし、この讃美歌ほどインパクトはありません。
主イエスの十字架で負われた深い御傷、御苦しみこそ、わたしの救いだと、兵士たちに辱められ、主イエスの辱めこそ、わたしの力だと、そして、十字架の上で神と人に見捨てられた主イエスの絶望の死こそ、わたしの希望だと歌う、この讃美こそわたしたちの教会がこの世の人々に、そして愛するわたしたちの家族に伝えたい福音であります。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、主イエスの裁判と辱めを学べる機会が与えられ、感謝します。そしてその御言葉に導かれて、聖餐の恵みに与れることを感謝します。
讃美歌二編16番を、わたしの信仰告白として、主イエスよ、受け入れてください。
どうか十字架の主イエス・キリストの恵みの下に、信仰から信仰へと、この地上の世界から神の御国へと歩ませてください。
沈黙の主イエスよ、あなたは今も沈黙されています。しかし、あなたが沈黙され、辱められることによって、十字架の御救いに与るわたしたちの口に賛美が与えられ、この世に生きるわたしたちに聖餐の恵みによる神の御国の希望が与えられています。ありがとうございます。
どうか讃美歌二編の16番を、私たちの信仰として、愛する家族に、知人に伝えさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。