マルコによる福音書説教66              202174

あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

                       マルコによる福音書第13913

 

説教題:「迫害と宣教」

 

今朝は、マルコによる福音書の第1318節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、主イエスの受難週の三日目の出来事を記しています。主イエスがエルサレム神殿を舞台にして、ユダヤ人指導者たちと論争し、問答されたことを記しています。その後主イエスが律法学者の偽善を非難し、貧しいやもめの献金を誉められたことを記しています。そして1312節で主イエスの一人の弟子がエルサレム神殿の壮大さに驚き、感嘆すると、主イエスはその弟子に神殿の崩壊を預言されたことを記しています。

 

すると、主イエスの預言を聞いていた4人の弟子たちが「それは何時起こりますか。そしてそれが実現する時に、どんな徴がありますか」と質問しました。そこで主イエスは彼らに答えて、527節で終わりの時に起こる出来事をお教えになりました。

 

でも、主イエスの説教は、それを理解するために、予備知識が必要です。それは、終りの日としるしについての理解です。

 

「終わりの日」とは、旧約聖書においては主なる神に背信し、バビロンに捕囚された神の民イスラエルが主なる神の恵みによって再びシオン、エルサレムに戻される日、彼らが捕囚から解放される日です。そして、預言者たちは、終わりの日を神の怒りの日、主なる神が諸国民を裁かれる日と告げました。

 

しかし、新約聖書では、終わりの日を主イエスがこの世に来られた日、今、現在であると記しています。主イエス・キリストの受肉、すなわち、第1回目の来臨から、再び主イエス・キリストが再臨されるまでを、終わりの日と言っているのです。

 

ですから、主イエスが13527節でなさった説教は、二つのことを語られています。523節で主イエスは今、現在の終わりの出来事について語られています。2427節で、御自身の再臨し、終わりが来ることを語られています。だから、523節の主イエスの説教は、今現在、わたしたちの世界が終わりの始まりである出来事を、この世における歴史経過の出来事を語られているのです。

 

2427節が主イエスの再臨される終末の出来事です。すなわち、主イエスは御自身のXディーを告げられています。それが、何時なのか、だれにも分かりません。

 

主イエス御自身も、ファリサイ派の人々が天からのしるしを求めても、今の時代には与えられないと言われました(マルコ8:1112)

 

このしるしは、主イエスの奇跡行為ではありません。ファリサイ派の人々は、奇跡をなさる主イエスに、御自身が神の権威によってなされている天からのしるしを求めました。それは、宇宙を激震させるものです。まさにその日天体が崩れ落ちるようなしるしを見せてほしいと、ファリサイ派の人々は求めたのです。主イエスは、彼らに「今の時代には天からのしるしは与えられない」と彼らの求めを斥けられました。

 

ファリサイ派の人々と同様に、4人の主イエスの弟子たちも、天からのしるしを質問したのです。神の民イスラエルにとって、エルサレム神殿の崩壊はまさにこの世の終わりです。その時に彼らは、宇宙を激震させるどんな徴を、わたしたちは見られるでしょうかと、主イエスに尋ねたのです。

 

しかし、主イエスは、彼らに天からのしるしを告げられませんでした。むしろ、わたしたちが知ることができるのは、わたしたちが今生きているこの世界が確実に終わりの日に向けて歩み始めているということです。

 

その世界の歴史的な過程において、主イエスは次のことが起こるのだと語られました。1358節の御言葉です。偽キリストが現れて、「わたしがメシアだ」と人々を惑わす出来事が起こります。戦争と戦争の噂を聞いて、人々が慌てる出来事が起こります。世界のあちこちの地域で紛争が起こります。大きな地震が起こります。飢饉が起こります。

 

しかし、主イエスは、4人の弟子たちにこれらの出来事は、この世界の終わりではないと言われます。むしろ、産みの苦しみの始まりに過ぎないと言われます。

 

主イエスが再臨されるXディーまで、この世界の歴史において何度でも偽キリストが現われ、人々を惑わす出来事が繰り返されます。大きな戦争が幾度となく繰り返され、戦争の噂を聞くごとに、この世の人々は世の終わりだと慌てる出来事が繰り返されます。世界の各地で民族の紛争、人種の紛争があり、大きな地震が起こり、飢饉があります。

 

しかし、主イエスは、4人の弟子たちに8節で「これらは産みの苦しみの始まりである」と言われています。

 

主イエスは、この世の終わりが何時かには、全く関心がありません。この世界の歴史的過程の中で、偽キリストが現れ、人々を惑わそうと、大きな戦争が起こって、人々を慌てさせようと、世界の各地に紛争が起こり、地震や飢餓の自然災害が起ころと、すべては神の摂理の中にあるのです。そして、主イエスが再臨されるまで、教会とキリスト者たちはこの世界における産みの苦しみの中で主に守られるのです。

 

だから、主イエスは、4人の弟子たちに9節で「あなたがたは自分のことに気を付けていなさい」と忠告されました。

 

教会とキリスト者たちは、何時この世が終わるのか、主イエスは何時来られるのかと騒ぐ必要はありません。むしろこの世における迫害とこの世への福音宣教に気を配るべきです。

 

マルコによる福音書は、紀元7080年代に書かれました。初代教会とキリスト者たちは、ローマ帝国の軍隊によってエルサレム神殿が破壊されたことを知っています。

 

そして、迫害と宣教は、初代教会とキリスト者にとって日常の出来事でした。マルコによる福音書は、9節でこう記しています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。

 

使徒言行録を読めば、その通りのことが起こったと記しています。使徒ペトロとヨハネ、使徒パウロたちは、サンヘドリンに引き渡され、ユダヤの王の前に立たされて、自分たちの信仰を弁明しなければなりませんでした。

 

初代教会とキリスト者たちがユダヤ人たちやローマの官憲から迫害を受けていた時代に、マルコによる福音書は作られたのです。だからマルコによる福音書は、彼らの現実を踏まえて、この主イエスの御言葉を記しています。

 

主イエスの関心は、この世の終わりの徴ではありません。教会とキリスト者たちの迫害と福音宣教でした。

 

マルコによる福音書は、洗礼ヨハネの殉教、主イエスの御受難を記しています。そして主イエスは、弟子たちに御自身のために彼らが迫害を受けることを語られています。

 

10節で、主イエスは、教会とキリスト者の使命を命じられています。「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。

 

初代教会とキリスト者の関心は、キリストの大宣教命令です(マタイ28:1620)。復活の主イエスは、ガリラヤで11弟子たちと多くの弟子たちに世界への宣教をお命じになりました。世界のすべての諸国民に洗礼を授け、キリストの弟子にせよと、お命じになりました。

 

11節で主イエスは、弟子たちに迫害を福音宣教のための苦難であり、その苦難の中で聖霊が彼らを守り、弁明すべき言葉をお与えくださると約束されています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。

 

迫害は、キリスト者の信仰の戦いではない。むしろ、キリスト者の弱さの中で聖霊が働いてくださるのです。だから、迫害に遭うとき、わたしたちは主に身を委ねるだけ良いのです。

 

信仰の決断の時、最大の障害が家族です。最も身近な者が敵となるのです。マルコによる福音書は、13節でこう述べています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

主イエスに忠実に従おうとすれば、わたしたちは、家族と親族から憎まれることを覚悟しなければなりません。

 

日本国憲法のお陰で、親兄弟に殺されることはありませんが、洗礼を受けてキリスト者になると言いますと、良い顔はされません。日本では、一つの信仰、一つの宗教のみを信じると言いますと、心の狭い人と受け取られます。わたしが、大学生の時に聖霊を受けてキリスト者になると、家族に言いました。すると、祖母が反対しました。理由は、いろいろな宗教には良い所があり、一つの宗教にだけ限ると、心が狭くなるという意味のことを言われました。親族は強く反対しませんでしたが、さりとて受け入れたわけではありません。結局、母がわたしたちの所に来て、親族との関係はなくなりました。

 

主イエスは、最後に「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と約束されています。「最後まで」は、迫害に屈することなくという意味です。主イエスは、終末のしるしを求めるのではなく、この世においてはいつまでも続く苦難、迫害を耐え忍ばなければならないと言われているのです。

 

この主イエスの御言葉は、使徒パウロのローマの信徒への手紙535節の御言葉を思い起こさせます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

キリストの十字架と復活によって、わたしたちは、この世から神の御国へと移されえいるのです。これが、わたしたちキリスト者の希望の現実です。わたしたちは、毎週の礼拝ごとに自分の罪に死に、キリストの復活の命に生かされているのです。その信仰体験の積み重ねがキリスト者の鍛錬です。十字架の神の愛は、罪に死ぬわたしたちを救おうとされる父なる神の決意です。わたしたちは、キリストの十字架の愛という神の決意によってこの世から御国へと移されたのです。

 

父なる神がわたしたちをキリストの十字架によって救うと決意されたのです。だから、わたしたちは、この世のいかなる迫害も、苦難にも屈することはありません。十字架のキリストが最後まで苦難を忍ばれたように、わたしたちにも苦難を忍ぶ力をお与えくださいます。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第13913節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

今朝は、御言葉によって、教会とキリスト者のこの世における現実を教えていただき感謝します。

 

この世の終わり、キリストの再臨が何時であるのか、それらが関心を持つよりも、教会とキリスト者の迫害と福音宣教に関心を持たせてください。

 

どうか、この世における迫害が、教会と私たちにとってキリストの福音を宣教する機会としてください。

 

日曜日の礼拝がわたしたちキリスト者の鍛錬の場としてください。わたしたちの信仰の希望を体験する場としてください。

 

どうか、今朝は御言葉と聖餐によって十字架のキリストを仰がせてください。それによって父なる神が罪に沈んでいるわたしたちを救う決意をなさった愛の御力を見させてください。

 

最後まで耐え忍ぶ者は救われると、主イエスは約束してくださいました。毎週礼拝を通して、御国の到来を待ち望ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

マルコによる福音書説教67              2021711

「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たらー読者は悟れー、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。

                       マルコによる福音書第131420

 

説教題:「大きな患難」

 

今朝は、マルコによる福音書の第131420節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、紀元前70年前後に執筆されました。137節の「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」は、その頃のユダヤ人たちやキリスト者たちが体験したことです。ユダヤ戦争(紀元6773)とローマ軍によるエルサレムの都と神殿の破壊(紀元70)が関係しています。

 

今朝の御言葉のテーマである「大きな患難」も、ユダヤ戦争とローマ軍によるエルサレムの都と神殿の破壊が関係しています。

 

ユダヤ戦争はローマ帝国とユダヤとの戦いです。その戦いの中で紀元70年にローマ軍がエルサレムの都を包囲し、陥落させ、神殿を破壊しました。ローマ帝国の軍の司令官ティトスは、神殿が焼け落ちる直前に、大祭司しか入ることのできない至聖所に足を踏み入れました。異邦人が神殿を汚す行為をしたのです。

 

マルコによる福音書は、その出来事を「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たらー読者は悟れー、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」と記しています。

 

憎むべき破壊者」は、旧約聖書のダニエル書927節で預言者ダニエルが「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す」と預言している者です。

 

紀元前168年から167年にシリア・セレウコスユ王朝のアンティオコス4世がエルサレム神殿にゼウスの祭壇を設けて、エルサレム神殿を汚す事件がありました。そして、彼は敬虔なユダヤ人たちを迫害しました。

 

マルコによる福音書は、預言者ダニエルの言葉を用いて、すでに過去の出来事となったことを、まるで預言者が預言をするように記しているのです。

 

ローマ軍がエルサレムの都と神殿を破壊し、そしてローマ軍の司令官が入ってはならない神殿の至聖所に入ったことを、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら」と記しているのです。

 

マルコによる福音書は、1314節で「読者は悟れ」と記しています。大きな患難が起こるのを見たなら、逃げるようにと、主イエスは警告されたと記しています。「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」と。

 

昔から神の民は、大きな患難、すなわち、戦争に負けて、敵がユダヤに攻めこんだ時、山や洞穴に逃げ込んだのです。

 

逃げることは恥ずかしい行為ではありません。実際に初代教会のキリスト者たちは、主イエスの御言葉どおりに行動したのです。紀元前70年に彼らはエルサレムの都を脱出し、ガリラヤへと逃れました。

 

今朝の御言葉は、「危機の時代のユダヤに対する預言者的託宣」という表題が付されています。すでにマルコによる福音が執筆される以前に、初代教会のキリスト者たちの間に、大きな患難に直面した時、どうすべきかを、主イエスがこう勧告されたという文書があったのでしょう。

 

マルコによる福音書は、そうした資料を用いて、この主イエスの大きな患難に対する勧告の説教を記しているのです。

 

宮部みゆきという小説家が、「昨日がなければ、明日はない」という題の小説を書いています。瓜二つの姉妹の物語です。姉の非常識な振る舞いで、妹は幼い時から迷惑し、自分の悲しい過去を消すために、姉を殺します。しかし、どんな悲しく惨めな過去であっても、その過去があるから今の自分があり、明日の自分へとつながるのです。

 

教会やキリスト者の過去も、消し去りたいものです。使徒ペトロと他の使徒たちが主イエスを裏切り、逃げたこと、献金を偽ったこと、弱さのゆえに迫害に耐えられなかったこと、世を愛して、信仰を捨てたこと等です。

 

本当に宗教改革者ルターが「九十五箇条の提題」の第一条で述べていますように、キリスト者の生涯は悔い改めの生涯です。

 

しかし、過去における罪の暗闇を、教会とキリスト者は抱えているので、今日この礼拝でわたしたちは十字架のキリストの御前に立ち、明日御国への希望に生きることができるのではないでしょうか。

 

過去においてエルサレム教会のキリスト者たちは、大きな患難に遭いました。そして、エルサレムの都からガリラヤに逃げました。だから、今マルコによる福音書の読者である教会とキリスト者がいます。そして彼らは明日大きな患難に遭えば、逃げるのです。

 

1518節は、逃げることの緊急性を教えています。わたしたちに、この教会に恐怖が迫りくる前に逃げなければなりません。ユダヤの家は平らです。危険が迫ると、屋根にいる者は、家に入らないで、外階段から逃げなければなりません。畑で農作業している者は、上着を取りに家に入ってはなりません。そんな余裕はありません。妊婦と乳児を抱えた女性は、本当に苦労します。気の毒です。

 

逃げるのは、身体的なことだけではありません。今のわたしたちの時代は心の時代です。キリスト者も心を病みます。そして、現代は、多くの人々がパワハラ、言葉の暴力に苦しんでいます。教会でもこの危機を避けることはできません。

 

これらは、目に見えない大きな患難です。心を病む者だけが経験している苦しみです。

 

大きな患難の中にあるキリスト者は、どこに逃げるべきでしょうか。

 

1920節で、マルコによる福音書は、こう記しています。「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。

 

19節で主イエスは、ダニエル書121節の御言葉をほぼそのままに述べておられます。「その時まで、苦難が続く 国始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう お前の民、あの書に記された人々は。

 

主イエスは、このようにダニエルの御言葉を引用して、終わりの日にわたしたちが今まで経験したこともない大患難が来ると言われています。

 

しかし、主イエスはダニエルと違って、主なる神が大患難の期間を縮めて下さらない限り、だれも救われないと言われています。

 

この大患難は、ダニエルによれば、「一時期、二時期、そして半時期たって(ダニエル書12:7)と言われています。3年半です。

 

今わたしたちは、これまでに経験したこともないコロナウイルスの災禍に、昨年、今年と耐えています。そして、これ以上耐えられない限界に来ているのではないでしょうか。

 

主イエスが言われる大患難が三年半も続けば、弱いわたしたちは、だれも耐えられません。生き残ることは難しいでしょう。だから、主イエスは主なる神がその期間を縮めて下さらない限り、だれも救われないと言われています。

 

しかし、主イエスがわたしたちに伝えたいことは、20節後半の御言葉です。「しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。

 

主イエスは、神の民、わたしたちキリスト者のために、大患難の時期を縮めてくださいます。

 

主イエスがダニエルの預言の御言葉を引用されて、終わりの日の大患難を話されているように、わたしたちには見えるのですが、主イエスの心は別にあるのではないでしょうか。

 

今年も静岡県の熱海市で大きな土砂災害があり、土石流で多くの方々の命が奪われました。そして、放送局のアナウンサーが地元の人々にインタヴューをしていました。住民の方々はこんな災害は生まれて初めてだと答えられていました。

 

大患難は、それを被る人々には常に初めての体験でしょう。わたしたちの場合も、何時教会とわたしたちに迫害という大患難があるか分かりません。主イエスはわたしたちに日々その日に備えるように警告されています。

 

しかし、実際に大患難に出遭うと、わたしたちは土石流で被災された方々と同じように、「こんなことは初めてだ」と慌ててしまうのではないでしょうか。

 

主イエスは、わたしたちに慌てなくてもよいと言われるのです。心配し、不安に陥る必要はないと言われるのです。

 

主イエス御自身がその日を御存じだからです。そして、わたしたちが大患難に出遭ったとき、父なる神が御子主イエス・キリストにおいて選ばれた者たちを守り、御国へと導いてくださり、わたしたちが大患難に耐えられるように、その期間を縮めると約束してくださっているのです。

 

わたしたちの日本キリスト改革派教会は、戦後生まれた教派ですが、過去において現人神である天皇を、宮城遥拝し、その遺影を拝み、偶像礼拝をしたという過去の歴史を背負っています。そして、その過去があるから今のわたしたちがあり、明日わたしたちも同じ大患難に出遭うかもしれません。

 

しかし、今朝のマルコによる福音の主イエスのお言葉によって、わたしたちは励まされます。そのように日本においてわたしたちが危機に出遭うなら、まずは逃げることです。次に逃げられない大患難の時には、すべてを主イエスに委ねることです。主イエスは、わたしたちの教会とわたしたちの過去を御存じだし、今も、そして明日もご存じです。

 

ヘブライ人への手紙は、「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方です。」と述べています。わたしたちの罪のために、十字架に死なれて、わたしたちの永遠の命のために、死人の中から復活された主イエス・キリストは、常にわたしたちをこの世の大患難から救い出してくださいます。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第131420節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

今朝は、主イエスの御言葉によって、教会とキリスト者の過去と現在と未来に目を向ける機会が与えられ、感謝します。

 

わたしたちは、この世の終わりの大患難に、心を奪われる者です。しかし、主イエスは、大患難が終わりの日だけではなく、わたしたちが生きる歴史において、また、わたしたちの日常にあると教えてくださいました。

 

その時、何よりも逃げること、また、主イエスは教会とキリスト者たちの大患難を良く御存知で、常にそれからわたしたちを救うためにその期間を縮めてくださると約束してくださっています。

 

どうか、本当に弱いわたしたちです。体と心で受ける患難に耐えさせてください。主イエスという避難所に常に自分たちの身を置かせてください。

 

教会がキリストの福音を宣教すると共に、この世の患難の中にある方々の避難所としてください。

 

この礼拝ごとに、わたしたちの過去の罪を忘れることなく、今のわたしたちを、そして明日御国へと導かれるわたしたちを見させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教68              2021718

「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

                       マルコによる福音書第132123

 

説教題:「偽メシアと偽預言者たち」

 

今朝は、マルコによる福音書の第132123節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、主イエスが為された物語と主イエスが教えられた御言葉(113)、そして主イエスの受難の物語(14168)から成り立っています。

 

マルコによる福音書の113章までは、主イエスがガリラヤからエルサレムまででなされた物語と教えられた御言葉から成っています。

 

さて、わたしの愛唱讃美歌は187番です。この讃美歌を口にしますと、まるで主イエスと共に、わたしもガリラヤにいると思えるのです。

 

教会の礼拝を、わたしは、ガリラヤ湖で主イエスが弟子たちを招かれ、大勢の群衆たちに説教されたところと思えるのです。わたしも、ガリラヤで、そして、エルサレムの都にある神殿の境内で群衆たちと共に主イエスの活ける言葉を聞くことのできる幸いを覚えます。今も主イエスは、聖霊と神の御言葉によって、ここでわたしたちに、わたしたちを永遠の命へと生かす言葉を語られているのです。

 

今朝は、まず、これまでマルコによる福音書の113章の御言葉を学んできましたことを、振り返って見たいと思います。

 

神の子イエス・キリストの福音(マルコ1:1)を、わたしたちは聞き続けて来たのです。

 

主イエスは、ガリラヤで宣教活動を始められました。彼は12弟子たちを召されました。大勢の群衆たちに神の国の福音を語られ、彼らを癒されました。12弟子たちには、神の国の福音の奥義を教えられました。そして、主イエスはファリサイ派の人々、律法学者たち、ヘロデ党の人々と論争されました。マルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスが彼らに殺されることを記しています。

 

主イエスは、ガリラヤを離れて、12弟子たちと共に過ごされました。彼らに弟子教育を施すためです。その教育は、主イエスを、誰と問うことから始まりました。ペトロが代表して「あなたは神の子キリスト」と告白しました。その後主イエスは、彼らに三度御自身の受難と死と復活を予告されました。そして、彼らが御自身のように迫害されることを教えられました。そして、最後まで彼らが主に従うようにと励まされました。

 

主イエスは、12弟子たちを教育した後、エルサレムの都に入られました。そして、神殿を清められ、境内で多くの群衆たちに教えられました。また、ユダヤの宗教的指導者たちと論争されました。その後、13章で主イエスは神殿の崩壊を預言し、今この世の終わりに生きている弟子たちに目を覚まして、気を付けるようにと教えられました。

 

マルコによる福音書は、113章まで主イエスをほとんど現在形で記しています。それによってマルコによる福音書は、過去の主イエスの物語を書こうとしているのではなく、今生きている主イエスを書こうとしているのです。

 

マルコによる福音書(113)の主イエスは、常に12弟子たちと共におられます。

 

マルコによる福音書の113章の物語は、昔の主イエスと12弟子たちとの物語に尽きるのではありません。マルコによる福音書がわたしたちに伝えている神の子イエス・キリストは、復活の主イエス・キリストなのです。だから、復活の主イエスは、今のわたしたちと共に居てくださっているのです。聖霊と神の御言葉を通して、復活の主イエスは、この終わりの世において12弟子たちと同じく、わたしたちと共に居てくださっているのです。

 

終りの世とは、受肉し、人となられた神の子イエス・キリストがこの世に来られてから、再臨される日までです。わたしたちは、終りの世に生きているのです。

 

13章でペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの4人の弟子たちは、主イエスにこの世の終わりにはどんなしるしがあるのかを質問しました。主イエスは彼らの質問に答えて、今世の終わりに生きる彼らの患難を語られ、偽キリストや偽預言者たちに惑わされないように、日々の信仰生活に気を付けて、どんな事態にも慌てないように警告されました。

 

13章で主イエスが語られていることは、この世の終わりのしるしのお話ではありません。むしろ、そのようなしるしはなく、この世に起こる患難や戦争やその噂、そして偽キリストや偽預言者たちの惑わしによって、教会生活、信仰生活が混乱することに気を付けるように警告されたのです。

 

主イエスが12弟子たちに、そして今のわたしたちに伝えたいことは、わたしたちが将来の不安におびえることではありません。むしろ、12弟子たちもわたしたちも、この世がどんな困難にあろうと、突然思いがけない患難が起きようと、偽キリストたちや偽預言者たちが恐ろしい預言をして、その確かなしるしを見せても、驚かないこと、慌てないこと、そして、今のわたしたちの現実の生活を着実に生きることです。

 

次回学びますキリストの再臨以外に、この世の終わりのしるしはありません。そしてキリストが再臨されたなら、もうこの世の終わりのしるしは必要ありません。それがこの世の終わりだからです。

 

主イエスは、天と地の一切を御支配されています。キリストの再臨まで12弟子たちやわたしたちがこの世においてどんな患難に、迫害に遭うかご存知です。だからこの世においてわたしたちが患難に遭えば、その期間を縮めると約束して下さました。耐えられないような試練に遭わせないと、約束してくださったのです。

 

そのお方が、今、わたしたちと共に居てくださる復活の主イエスです。

 

新約の時代の年表を見ますと、今朝の主イエスの御言葉の重要性に気づかされます。

 

紀元前4年に主イエス・キリストは生まれられました。キリストの誕生が紀元前と紀元後の分かれ目です。主イエスは、紀元30年にローマの十字架刑で死なれました。その後三日目に復活されました。50日目に聖霊が降臨され、エルサレムにキリスト教会が生まれました。使徒パウロの回心は紀元32年頃です。48年にエルサレム会議が開かれ、異邦人伝道が認められます。4856年までパウロは三度伝道旅行し、ヨーロッパまで異邦人に福音宣教し、異邦人教会を次々と建てました。54年にローマ帝国の皇帝にネロが即位します。60年にパウロはローマで殉教します。62年に主イエスの弟、ヤコブがエルサレムで殉教します。64年にローマ帝国の首都ローマが大火となります。ネロ帝はキリスト者に責任を負わせて迫害します。ペトロがローマで殉教します。6673年にローマ帝国とユダヤの戦争が起こります。70年にローマ帝国の軍隊によってエルサレムの都と神殿が破壊されます。エルサレム教会のキリスト者たちは、戦乱を避けてベレアに退去します。

 

主イエスの御言葉どおりに、エルサレムにキリスト教会が生まれてから40年間、エルサレムの都と神殿が破壊されるまで、次々とこの世においては出来事が起こりました。キリスト教会とキリスト者たちはローマ帝国の官憲によって迫害され、ネロ帝はローマの大火の罪をキリスト者たちに被せ、迫害しました。ユダヤの国は、偽キリストが現れ、ユダヤの民たちを惑わし、ローマ帝国と無謀な戦争をしました。多くの神の民たちの命、土地と財産が奪われ、彼らの心の支えであった都と神殿は破壊されてしまいました。

 

そうした中でエルサレム教会のキリスト者たちは、戦争とその噂におびえることなく、対処し、ベレアに退去しました。また、選ばれた者たちは、キリスト者たちのことです。彼らは、偽キリストと偽預言者に惑わされないで、彼らの信仰生活を守りました。

 

日本も1990年代、阪神大震災が起こり、オウム真理教の浅原彰晃がこの世を終わりにするために、教団がサリンを地下鉄や松本市の住宅地にまくという事件がありました。多くの方々の命が奪われ、今も後遺症に苦しまれている方々があります。また、えん罪も生まれました。

 

教会が大震災やサリン事件にどのように対処したのか、検証することは大切です。わたしが覚えている限り、改革派教会は大震災に対しては執事活動委員会を中心にして、被災された教会と信徒たちに見舞金を、そして、実際被災地にボランティア奉仕するという形で援助しました。神戸改革派神学校は、移転前でしたが、避難所として地域の方々を助けました。

 

他方、サリン事件については、教会は沈黙したのではないでしょうか。この世の終わりという聖書の教えは、キリスト者がこの世の一般の方々に理解できるように教えるのは難しいでしょう。

 

オウム真理教が起こしたサリン事件を、マルコによる福音書の13章の主イエスの教えから批判した者は、いなかったと思います。

 

幸いなことに、教会もキリスト者たちも、偽キリストや偽預言者たち、すなわち、浅原彰晃やオウム真理教団に惑わされることなく、自分たちの信仰生活に励んでいたと思います。

 

これからもエホバの証人のようにキリストの再臨を叫ぶ者たちが起こるでしょう。統一協会の文鮮明のようにキリストと称する者がいるでしょう。核戦争が終末のしるしだと叫ぶ者がおり、世界第三次大戦が起こると噂する者も起こるでしょう。東日本大震災よりも更に巨大な地震が起こるでしょう。今コロナウイルスがパンデミックとして世界中の人々を恐怖に陥れています。また、日本社会は、地震、集中豪雨、台風、コロナウイルスと複合的な自然災害によって、また高齢化社会によって社会も教会も混乱し、いろんな面で力を失っています。だから、わたしたちの目の見えない所で貧困に苦しんでいる方々がいます。

 

社会が増々不安になり、将来を見通せなくなっています。そして、この世の終わりが続く限り、主イエスが言われるように、今の苦しみは苦しみの始まりに過ぎません。だから、主イエスは、わたしたちに警告されます。おびえたり、慌てたりしないように、偽キリストと偽預言者に惑わされないようにと。迫害も患難も、再臨のキリストが来られるまで、この世の終わりに生きる教会とキリスト者は耐えなければなりません。そして、その日を、主イエスは縮めてくださいます。

 

マルコによる福音書にとって、この世の終わりに生きる教会とキリスト者たちは、今を大切にし、落ち着いてこの世の動きを見て、この世に教会と家庭を定着させるために、知恵を尽くすべきだと述べているのです。

 

コロナウイルスのパンデミックは、人と人との直接の接触を困難にしました。しかし、インターネットという技術が、オンラインを通して人と人をつなぐことを可能としました。完全に教会の礼拝を回復できませんが、主にある交わりをオンラインが阻害することはありません。オンラインで礼拝は可能であり、上諏訪湖畔教会のように、地方の小さな教会は、これによって大きな主の恵みに与れるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第132123節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

今朝は、これまでも学びを振り返る機会を得られ、感謝します。

 

わたしたちが、マルコによる福音書の113章を振り返ることで、わたしたちと復活の主エスとの関りが、これまで以上に身近に感じられて嬉しく思います。

 

また、初代教会の40年間を振り返り、キリストの福音がエルサレムからローマまで、そして、アジアからヨーロッパまでキリストの教会が建てられ、多くの異邦人たちがキリストの福音を聞いて、救われたことを本当に感謝します。

 

日本キリスト改革派教会とその一員である上諏訪湖畔教会も、70年間復活の主イエスによって支えられ、この異教の地に本で福音宣教し続ける恵みを得て感謝します。

 

今後が見通せない今の世でありませんが、恐れることなく、慌てることなく、この世に何が起ころうと、キリスト者の生活を着実になせるようにしてください。

 

常に復活の主イエスがわたしたちと共に居てくださり、わたしたちの弱さを知って、患難の時を縮めてくださることを心に留めさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教69              202181

「それらの日には、このような苦難の後、

太陽は暗くなり、

月は光を放たず、

星は空から落ち、

天体は揺り動かされる。

その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

                       マルコによる福音書第132427

 

説教題:「キリストの再臨」

 

今朝は、マルコによる福音書の第132427節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書の13章において主イエスは、エルサレム神殿の崩壊を預言されました(12)。彼の弟子たちは、主イエスに「それが何時起こるのか。そのしるしは何か」と質問しました(34)。すると、主イエスは彼らに135節から長い説教を始められました。

 

135節から37節までの主イエスの長い説教は、紀元前66年から始まり、最終的に74年に終わったユダヤ戦争を背景にしています。エルサレム教会は、この危機に直面し、紀元70年にエルサレムからペレアに逃れました。

 

マルコによる福音書は、その時にエルサレム教会が残した主イエスの黙示的説教を資料に用いて、この13章の主イエスの説教を編集しました。

 

前にもお話ししました。マルコによる福音書は81112節でファリサイ派の人々が主イエスに天的なしるしを求めたことを記しています。主イエスは彼らを批判されました。「今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と。

 

同様に主イエスはエルサレム神殿の崩壊を預言し(12)、主イエスの四人の弟子たちが終末の時とその前兆についての質問し34)、主イエスが彼らに答えるように、次ように説教されたことを記しています(537)

 

主イエスは彼らに産みの苦しみの初めについて(58)、迫害と宣教について(913)、最後の患難について(1420)、偽キリストと偽預言者について(2123)、人の子の到来について(2427)、終末の時について(2832)、終末への備えについて(3337)

 

主イエスは、彼らに5節で「人に惑わされないように気をつけなさい」と注意されました。7節で戦争と戦争の噂を聞いても「慌ててはいけない」と注意されました。何度も大きな患難を経験しても「これらは産みの苦しみの始まりである」と言われました。9節で「あなたがたは自分のことに気をつけなさい」と注意されました。そして、主イエスは彼らに23節で「だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく」と言われました。主イエスは彼らに33節と37節で「目を覚ましていなさい」と注意されました。

 

これらの主イエスの注意は、彼の四人の弟子たちが天的しるしを求める態度を批判されているのです。

 

マルコによる福音書にとって、四人の弟子たちが主イエスに天的しるしについて質問したことは、まさにある意味で初代教会のキリスト者たちの質問でもありました。だから、マルコによる福音書は、主イエスのこの説教を通して、初代教会のキリスト者たちが終末の日がいつ来るのか、その天的しるしは何かと騒いでいるのを批判しているのです。

 

マルコによる福音書は、初代教会のキリスト者たちに目を覚ましていなさいと警告し、彼らが終末に熱狂し、メシアの到来を夢想し、偽キリストや偽預言者たちに欺かれ、戦争やその噂に騒ぎ立てて、教会を混乱させないように、守ろうとしたのです。

 

5節から23節で主イエスが説教なさったことは、この世の終わりに起こるしるしではありません。この世の歴史において起こる出来事であります。523節で主イエスが説教されている出来事はすべて、この世の歴史において起こる出来事であり、教会とキリスト者たちが経験する出来事であります。

 

だから、主イエスは、この世における戦争とその噂から、偽キリストと偽預言者から、迫害や宣教、そしてこの世の患難から間違ったしるしを見て、騒がないように警告されました。

 

この世の終末は誰にも分かりません。この世において教会とキリスト者たちは、幾度となく戦争とその噂、地震と飢餓、そして迫害と患難を経験するでしょう。そして偽キリストと偽預言者たちが現れて、この世の終わりが来たと言って、キリスト者たちを惑わすでしょう。しかし、この世の終わりを示す天的しるしはありません。

 

むしろ、突然に人の子が来て、この世は終わるのです。それが、今朝の御言葉です。終末は確実の来るのです。そして、マルコによる福音書は、主イエスの説教によって2427節に終末そのものを、人の子主イエスの再臨を記しているのです。

 

天的しるし、すなわち、「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」という出来事は、終りの時の始まりを告げる出来事ではありません。人の子主イエス・キリストの再臨そのものが、この世の終わりの出来事なのです。

 

人の子の到来の日が、この世における日々が変わる日です。この世において教会とキリスト者たちが数限りない苦難を経た後に、突然にキリストが再臨され、この宇宙は滅びるのです。太陽と月が、この世の光を失い、星が天体から落ち、人を支配していた諸霊が、再臨のキリストの裁きによって滅びるのです。

 

再臨のキリストは、ダニエル書713節が「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て」と預言しているように、突然この世に再臨され、すべてのものを支配し、裁かれるのです。

 

主イエスの説教をよく吟味してください。

 

主イエスは、この世が増々悪くなることを語られています。この世はサタンと諸霊の支配下に置かれ、教会とキリスト者たちは迫害と患難を経験します。しかし、この世は、何時キリストが再臨され、終りを迎えるのかは、だれも分かりません。

 

しかし、主イエスは、今朝の御言葉によって御自身が突然にこの世に再臨され、この世が終わると約束してくださっているのです。

 

人の目に、この世は増々悪くなります。教会とキリスト者たちは、この世で迫害と患難を幾度も経験し、宣教に励みます。戦争とその噂も絶えません。地球温暖化は進み、自然災害が頻繁に起こり、地震、台風、豪雨、飢饉が毎年繰り返されます。ますます自然環境が破壊されていくでしょう。

 

しかし、主イエスが復活され、昇天され、父なる神の右に座されて以来、主イエス・キリストの御支配は始まっているのです。この世におけるサタンと諸霊の支配は、主イエスの再臨と共に終わりを迎えるのです。

 

だから、マルコによる福音書は、次のように主イエスの説教を記しているのです。「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。(2627)

 

人の子である主イエスがすべてのものを裁く御力と栄光を持って再臨されるのを、人々は見るのです。そして、父なる神が御子イエスにおいて選ばれた神の民たちが栄光の主イエスの御前に集められるのです。

 

主イエスが遣わされた御使いが主なる神が創造された世界から、そして御支配されているすべての領域から神の民を集めて来るのです。その時生きているすべてのキリスト者たちを、既に死んだキリスト者たちも集めて来るのです。

 

このようにマルコによる福音書が記す主イエスの説教は、この世の終わりの日付を教えることでも、そのしるしを教えることでもありません。

 

むしろ、教会とキリスト者たちは今生きているこの世において、その迫害と患難の中に隠されている主イエスの栄光を、そして教会とキリスト者たちに約束されている神の国の希望を、マルコによる福音書はわたしたちにキリストの再臨を通して明らかにしようとしているのです。

 

主イエスを信じて、キリスト者になり、教会生活を始めますと、この日本の国においてはいろいろと困難があるでしょう。不利益も少なくありません。誤解されることも多いでしょう。しかし、マルコによる福音書は、わたしたちにこう語りかけて、わたしたちの喜びと祝福を、主イエスの御言葉によって約束するのです。

 

それらの日には、このような苦難の後、」主イエスは再臨されます。この世は主イエスの大いなる御力によって滅ぼされ、主イエスによって救われたわたしたちは、栄光の主イエスのところに集められるのです。

 

その喜びの日を、わたしたちはこの目に見られるかもしれません。主イエスは、こう約束されています。「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。

 

「それらは見られるであろう」と、主イエスは言われています。

 

60年代から70年代に生きたガリラヤの初代教会とキリスト者たちは、主イエスのこの御言葉に、彼らの希望を見出したでしょう。

 

実際、2000年後の今も、主イエスは再臨されていません。しかし、何時の時代もキリスト教会とキリスト者たちは、彼らがこの世において大きな患難を経験した後に、今の終末の時に生き残って、キリストの再臨を目にできると思い続けて来たのです。わたしたちも同じ希望に生きています。

 

今朝のマルコによる福音書の主イエスの御言葉を、わたしたちの希望として受けとめようではありませんか。今のコロナウイルスの災禍の後に、わたしたちは再臨のキリストを見られるという主イエスの御言葉の約束に生きようではありませんか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第132427節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

今朝は、キリストの再臨について学ぶことができて、感謝します。

 

わたしたちは、キリストの再臨が何時であるか、その日付に心を奪われることがあります。しかし、マルコによる福音書は主イエスの説教を通して、その誤りを教えてくれました。

 

今、わたしたちは、終りの時を生きています。主イエスが支配される時を生きています。

 

わたしたちの目には、この世は増々悪くなっています。わたしたちは、この世においていろいろな困難に出会っています。サタンと諸霊が偶像礼拝という形で、この世の人々を支配しています。

 

しかし、主イエスは、今朝の御言葉によって、わたしたちに希望を約束してくださいました。

 

わたしたちのこの世における患難の後に、主イエスは突然再臨してくださると。わたしたちは、再臨の主イエスに向けて生きているのです。

 

今朝も主イエスは、聖霊によってわたしたちをこの教会に集めてくださり、共に聖餐の恵みに与らせてくださいました。

 

どうかわたしたちに主イエスと御国の栄光を見させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教70              202188

「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。

 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

                       マルコによる福音書第132831

 

説教題:「いちじくの木の教え」

 

今朝は、マルコによる福音書の第132831節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、13章において主イエスの長い説教を記しました。それは、黙示文学的説教と呼ばれているものです。

 

主イエスは、四人の弟子たちが「この世の終わりが始まるしるしは何ですか」と尋ねたことに対して、この長い説教をなさいました。そして、主イエスは、彼らにこの世に起こる患難、迫害について語られ、「だれにも惑わされないように気を付け、常に目を覚ましていなさい」と警告されました。

 

主イエスは、彼らにこの世の終わりが御自身の到来によって、すなわち、再臨によって必ず来ると言われました。しかし、それは、何か人がしるしを見て、その日、その時に備える形で来るのではありません。まさに突然来るのです。

 

13523節において主イエスが説教された出来事はすべて、この世の歴史において起こる出来事であり、教会とキリスト者たちが経験している出来事です。何度も言いますが、この世の終わりを示す天的しるしではありません。

 

先週学びましたように、突然に人の子が来て、この世は終わるのです。それが、主イエスが語られていることです。

 

その時に天的しるしが明らかとなります。主イエスは、2425節でこう言われました。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。

 

これは、宇宙的、天体的終わりの出来事です。

 

人の子主イエス・キリストの再臨そのものが、この世の終わりの出来事なのです。

 

主イエスは、彼らに旧約聖書のダニエル書713節の御言葉を引用され、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」と宣言されました。

 

マルコによる福音書がわたしたちに伝えたい人の子の到来、主イエス・キリストの再臨は、キリスト教会の完成です。この世における教会の宣教が終わる日です。再臨の主イエス御自身が神の御使いたちを遣わされ、神の民たちを集められるからです。

 

人の子である主イエスがすべてのものを裁く御力と栄光を持って再臨されるのを、人々は見ます。そして、人々は父なる神が御子イエスにおいて選ばれた神の民たちを、再臨の主イエスが御前に集められるのを見るのです。

 

今朝、主イエスは、四人の弟子たちに「いちじくの木から教えを学びなさい。」と命じておられます。「教え」は「たとえ」のことです。

 

マルコによる福音書はわたしたち読者に、こう伝えているのです。「いちじくの木から教えを学びなさい。」主イエスの四人の弟子たちへの勧告は、わたしたちキリストの弟子である者たちの生活に大きな意味があると。キリストへの信従は、この学びなしにはあり得ないからです。

 

では、主イエスは四人の弟子たちにいちじくの木からどんなたとえを学べと言われるのでしょうか。

 

枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。(28)。春の初めにいちじくの木は、樹液が流れ出し、固くなっていた枝が柔らかくなります。そして枝の葉が大きくなります。この時期にいちじくの木に最初の実がなり始めます。

 

 実は、幹や枝に直接付きます。他の果実よりも早く実をつけ、ほとんど一年中実を付けています。

 

 さて、主イエスは、彼らに「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。」と言われていますね。そして、主イエスは、彼らに続けて「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と言われています。

 

 いちじくの木の教えは、この世の終わりのしるしについてのお話ではありません。まさに主イエスは、彼らにいちじくの木のたとえで御自身の到来、すなわちこの世の終わりを教えられているのです。

 

 いちじくの木に実がなるのを、人々が見れば夏が来たことが分かります。いちじくの木が葉を茂らせ、実をつけることは、夏が来ることのしるしではなく、夏の到来を告げているのです。

 

 同様に「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら」と主イエスは言われています。これは、二通り考えられます。527節と2427節を、人々が見たらです。

 

 いずれにせよ、「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら」は、この世の終わりに先立つしるしを、人々が見たらという意味に受け取られるかもしれません。

 

 しかし、マルコによる福音書は、主イエスの御言葉をそのように理解してはいないと思います。

 

 主イエスは、彼らに「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」と言われています。おそらく主イエスは、2427節の人の子の再臨の出来事を言われているのです。

 

人の子が戸口に近づいている」は、ある空間的な出来事を表わすように見えますが、この表現で緊急の事態を表わすのです。その時が今迫っているのです。

 

 使徒言行録は5章でアナニアとサフィラ夫婦が献金をごまかした事件を記しています。使徒ペトロは、夫アナニアに聖霊を、神を欺いた罪を指摘しました。ペトロの言葉を聞いて、アナニアは倒れて息絶えました。

彼の遺体を運び出した後、ペトロはアナニアの妻サフィラに土地を売った代金を献金したかと尋ねました。サフィラは嘘を告げました。すると、ペトロは彼女に夫と共に主の霊を試すとは何事かと叱責し、言いました。「見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」(使徒言行録5:9)。すると、サフィラは倒れて息絶えました。

 

人の子が戸口に近づいている」は、人の子の来臨のしるしを述べているのではなく、来臨そのものを述べているのです。

 

いちじくの木から譬えを学ぶのは、いちじくの木が葉を茂らせ、実をつければ、夏の到来を告げているのであり、この世に起きる出来事のすべてにキリストの到来が告げられており、実際に人の子主イエスが来られると、この世は終わるのです。

 

だから、マルコによる福音書は、3031節で主イエスが彼らにこう宣言されたと記しています。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

 

はっきり言っておく」は、「まことにわたしは、あなたがたに言う」という文章です。主イエスが全権をもって宣言されるのです。主イエスが言われることは、間違いなくそうなるのです。

 

すなわち、主イエスが再臨されるまで、「この時代は滅びない」のです。「滅びる」とは、過ぎ去ることです。今の世は、主イエスの再臨まで過ぎ去りません。

 

天地は滅びる」とは、主なる神が創造された天と地、すなわち、宇宙、万物は過ぎ去ります。永遠ではありません。

 

しかし、主イエスは彼らに「わたしの言葉は決して滅びない。」と宣言されました。主イエスの語られた御言葉は、過ぎ去りません。永遠にとどまるのです。

 

主イエスが四人の弟子たちに、そしてわたしたちに伝いたいことはこうであります。わたしたちが生きていますこの世界、この時代は、常に悪くなるでしょう。わたしたちは、今日のコロナウイルスの世界的流行のように、命の危険に陥る出来事に遭遇しています。

 

その時に偽キリストや偽預言者が現れ、この世の終わりのしるしだと騒ぐかもしれません。しかし、主イエスは。わたしたちにこの世界は過ぎ去るが、わたしの御言葉は過ぎ去ることはないと告げられているのです。

 

だから、マルコによる福音書はわたしたちに、こう忠告するのです。主イエスの御言葉を良く学び、誤ったしるしに気をつけなさいと。このコロナウイルスの世界的流行の中でも、目を覚まして主イエスの御言葉を自分たちの生活の基盤、糧として歩みなさいと。

 

常に目を覚まし、日々の生活を大切にして生きるように、これがマルコによる福音書がわたしたちに伝えたいメッセージです。

 

キリストの十字架の言葉だけがこの世に生きるわたしたちの希望です。なぜなら、わたしたちは、主イエスが受難週の二日目に呪われた実をつけていないいちじくの木と同じだからです。わたしたちは、永遠の命という実を持っていません。滅ぶべきものです。しかし、キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちは神に罪を赦され、死から永遠の命に生きる者とされました。

 

今わたしたちは、過ぎ去るこの世界に、滅ぶべきこの世界に生きつつ、神の国の到来を待ち望んでいるのです。

 

主イエスは、世の終わりまでわたしたちと共にいると約束してくださいました。

 

だから、わたしたちは、毎週の礼拝ごとにわたしたちのところに聖霊として来られる主イエスを、そして、この世の終わりに人の子として栄光の内の来られる主イエスを待ち望もうではありませんか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第132831節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

今朝は、いちじくの木の教えからキリストの再臨について学ぶことができて、感謝します。

 

わたしたちが、キリストの弟子として、毎週日曜日の礼拝で聖書の御言葉を学べる事を感謝します。どうか、今朝の学びを通して、わたしたちが生活の中で正しく主イエスの再臨を待ち望ませてください。

 

マルコによる福音書がわたしたちに教えるように、わたしたちの生きるこの世界は過ぎ去ります。しかし、主イエスの御言葉は過ぎ去ることがありません。どうか、主イエスの御言葉を、わたしたちの生活の支えとし、希望とさせてください。

 

コロナウイルスとこの世の誘惑からわたしたちをお守りください。

 

どうか、わたしたちを、再臨の主イエスに向けて生かしてください。

 

どうかわたしたちに主イエスと御国の栄光を見させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。