マルコによる福音書説教56              2021314

それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。

『わたしの家は、すべての国の人の

祈りの家と呼ばれるべきである。』

 ところが、あなたたちは

   それを強盗の巣にしてしまった。」

 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

                       マルコによる福音書第111519

 

説教題:「神殿を清める主イエス」

レント(四旬節)の第三主日を迎えました。主の御受難を心に留めつつイースターに備えて行きましょう。

 

マルコによる福音書は、受難週の第二日目、月曜日に主イエスが神殿を清められた出来事を記しています。

 

それが今朝のマルコによる福音書第111519節の御言葉です。

 

マルコによる福音書は、神殿を、ギリシャ語で「ヒエロン」と記しています。これは、「きよい」を意味する形容詞の言葉に由来します。

 

新共同訳聖書が15節と16節で「神殿の境内」「境内」と訳しているように、「ヒエロン」がエルサレム神殿の建物を指すことは稀です。ほとんどの場合は、新共同訳聖書が訳していますように「神殿の境内」のことです。

 

エルサレム神殿の境内は、イスラエルの成人男子が礼拝する内庭、女性が礼拝する婦人の庭、そして異邦人たちが礼拝する外庭があります。

 

マルコによる福音書は1111節で「イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回り」と記し、16節で「境内を通って物を運ぶことも」と記していますね。この神殿の境内は、異邦人が主なる神を礼拝する外庭のことでしょう。

 

外庭は、一般の人々や商売する人々が出入りできました。両替人たちが神殿に巡礼に来た者たちのギリシャやローマの貨幣を、神殿用の古いヘブライの貨幣に両替し、その差額で利益を得ていました。また、商売人たちが巡礼者たちに鳩などの犠牲の動物を売っていました。

 

それだけではなく境内を通り抜けて、物を運び、神殿を汚す者たちがいました。だから、主イエスは境内を通り抜けて、物を運ぶことをお許しになりませんでした。

 

主イエスが神殿を清められたのは、利益を貪る両替人と商人たちから、そして、汚れた物を境内に持ち込んで、神聖な場所を汚す者たちから、神殿の聖なる場所を守るためでした。

 

主イエスは、御自身の神殿を清める行為が主なる神の御心に適うことを、旧約聖書の預言者イザヤとエレミヤの御言葉によってお示しになりました。

 

それが、17節の主イエスの御言葉です。「そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』

ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」

 

預言者イザヤは、旧約聖書のイザヤ書第567節で、エルサレム神殿について、こう預言しています。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

 

預言者イザヤを通して、主なる神は異邦人たちや宦官の救いを約束されました。イザヤ書56章以下の預言者イザヤは無名の預言者です。彼は、紀元前515年前後に、バビロン捕囚の民たちがペルシアの王クロスによって解放され、エルサレムに帰還し、第二神殿を再建した前後に活躍しました。

 

預言者を通して主なる神が「わたしの祈りの家」「すべての民の祈りの家」と呼ばれる第二神殿に、異邦人たちを、また、宦官たちを招き入れると約束されています。

 

異邦人たちは、主なる神が御自身の民イスラエルと自分たちを区別されると嘆きました。宦官たちは、「見よ、わたしは枯れ木にすぎない」と嘆きました。

 

しかし、主なる神は預言者を通して、彼らに安息日と恵みの契約の遵守を条件に、異邦人たちを、宦官たちを、聖なるわたしの山、すなわち、エルサレムの都にある神殿での礼拝に招くと約束されました。

 

主なる神は、異民族であることを理由に、あるいは体に欠陥があることを理由に彼らを主の神殿での礼拝から排除することをしないと約束されました。エルサレム神殿はすべての民が主なる神を礼拝するためのものでした。

 

主なる神が異邦人たちや宦官たちに要求されたのは、「公正を守り、正義を行うこと」「安息日を守ること」「悪に手を貸さないこと」「主なる神との恵みの契約を守ること」でした。主なる神との契約を守ることは、主なる神に服従して生きることです。その目に見えるしるしが安息日を守り、主なる神を礼拝することでした。

 

ところが、預言者エレミヤが活躍しました頃、南ユダ王国は滅亡の危機にありました。主なる神は、バビロニア帝国のネブカドネツァル王を用いてエルサレムの都と神殿を、神の民たちを滅ぼそうとされました。

 

主なる神は預言者エレミヤを通して、旧約聖書のエレミヤ書711節で神の民たちにこう預言されました。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

 

ヨシヤ王が紀元前609年にエジプトのパロ、ネコと戦い、非業の死を遂げました。ヨアハズ王はネコによって廃され、エホヤキムが王に即位しました。しかし、エホヤキム王は、主なる神の戒めを守りませんでした。エルサレムの都は、不義に満ち、王を始め高官たちは弱者を虐げ、主なる神を捨て、偶像礼拝をしました。

 

神の民たちは、主なる神よりも神殿を信頼し、神殿に避けどころを求めました。そして神殿は彼らの不正を守る盾になっていました。だから、泥棒が悪事を働いて、隠れる場所が強盗の巣屈であるように、彼らは自分たちの悪事を隠す場所に神殿を用いていたのです。

 

エレミヤの預言する主なる神は、御自身の御名によって礼拝され、賛美されるお方であるのに、その主なる神を礼拝し、賛美する神殿が悪人の逃れ場となっていたのです。

 

だから、主なる神はエレミヤを通して、昔シロの聖所を破壊したように、エルサレムの都と神殿を破壊するのだと宣言されました。

 

今主イエスの目には、エルサレム神殿がエレミヤの時代の神殿と同じ状況にありました。神殿の動物犠牲は主イエスの十字架の予型であります。神殿は、主イエス・キリストへの信仰を伝える場でありました。

 

しかし、主イエスの時代の祭司やファリサイ派の律法学者たち、そしてヘロデ党の人々、民衆たちも、主イエス・キリストよりも神殿に信頼しました。祭司たちは神殿の礼拝よりも神殿の境内でなされている両替や動物犠牲の売買で得た利益で自分たちの生活を潤そうとしました。

 

主イエスの目には、預言者エレミヤが見たように、神殿が悪人たちの逃れ場になっていました。

 

だから、主イエスが旧約の預言者たちの御言葉によって神殿が悪人の隠れ家になっていると非難されると、支配者たち、すなわち、祭司長たちや律法学者たちはそれを聞いて、主イエスを殺そうと相談したのです。

 

エレミヤの預言が当時の人々に神殿を冒涜していると思われたように、主イエスの御言葉を聞いた祭司長たちや律法学者たちは主イエスが神殿を冒涜されたと思ったのです。

 

預言者エレミヤの預言が実現したように、主イエスの御言葉も紀元70年に実現します。主イエスが強盗の巣にしていると言われたエルサレム神殿は、ソロモン王が建てた神殿がシロの聖所のように破壊されたように、ローマの軍隊によってエルサレムの都と共に破壊されました。

 

マルコによる福音書が神殿をきよめられた主イエスによってわたしたちに伝えようとすることは、次のことだと思うのです。

 

今神殿は、ありません。神殿はわたしたちです。使徒パウロがコリントの信徒への手紙一3章で神殿はわたしたちであると述べています。そして、神殿であるわたしたちは、主イエスがエルサレム神殿の信仰を試されたように、わたしたちの信仰を試されます。

 

主イエスは言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ6:21)と。

 

今やエルサレム神殿はこの世に存在しません。しかし、キリスト者という神殿が存在しています。この神殿は、キリストの十字架の死によって建っています。キリストの十字架は、わたしたちの罪の身代わりであるという信仰です。

 

しかし、キリストの十字架を、わたしたちの悪の隠れ家にするならば、わたしたちは十字架の主イエスへの信仰より、わたしたちの信仰を信頼し、わたしたちに信仰があるからどんなわたしたちの罪も悪事も赦されると考えるようになるでしょう。

 

そうすると、使徒パウロが言うように、わたしたちの神殿は壊されてしまうでしょう。だから、今朝主エスが語られていることは、わたしたちの信仰の問題なのです。

 

レントのこの時に十字架の主イエスへの確かな信仰に、わたしたちが生きているのかと問われているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第3主日を迎えました。今朝はマルコによる福音書第111519節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は、主イエスが神殿をきよめられた出来事を学びました。

 

レントの今、どうか今朝の御言葉を通して、わたしたちの信仰が真実に主イエス・キリストに対する信仰であるのかを顧みさせてください。

 

空念仏のように、「主よ、主よ」と唱えるだけであれば、わたしたちもこの神殿であるわたしたちを、強盗の巣にしていることになります。

 

自分の安全や豊かな生活のために、信仰、信仰と言うのであれば、主イエスはそれは偽りの信仰であり、いつの日か神殿であるわたしたちも壊れてしまうと、使徒パウロの口を通して警告されています。

 

どうか十字架の主イエス・キリストへと、わたしたちの目を向けさせてください。口だけではなく、心も体も主イエス・キリストへと向けさせてください。

 

どうか、この教会を、わたしたちの悪事の隠れ家とすることなく、ここで兄弟姉妹と共に主イエスの御言葉を聞き、共に主イエスを神として礼拝し、賛美させてください。共に主イエスをわたしたちの救い主と信じ、御国へと歩ませてください。

 

弱いわたしたちです。信仰につまずき、挫折するかもしれません。それでも十字架の主イエス・キリストにわたしたちの目を向かせてください。

 

わたしたちの罪のために十字架に死なれた主イエスに、わたしたちを委ねさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教57              2021321

翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」そこで主イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりなると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

                       マルコによる福音書第112025

 

説教題:「信仰と祈りの力」

レント(四旬節)の第四主日を迎えました。今週も受難の主イエスを心に留めつつ、次週の受難週、そして44日のイースターに備えて行きましょう。

 

今朝は、受難週の第三日目、火曜日の主イエスの受難の出来事を学びましょう。受難週の三日目のマルコによる福音書の記事は、第1120節から1337節までです。

 

マルコによる福音書は、第1112節から14節と2126節で主イエスが実をつけていないいちじくの木を呪われ、根元から枯らされた奇跡とそれに伴う山を移す奇跡の信仰、祈りの確信、罪の赦しについての主イエスの教えを記しています。そして1127節から1244節で主イエスと宗教的指導者たちとの論争を記し、13章で主イエスの終末についての教えを記しています。

 

マルコによる福音書は、主イエスが実のならないいちじくの木を呪われ、枯らされた奇跡の記事で、主イエスがエルサレム神殿を清められた出来事を囲んでいます。

 

このいちじくの木は、不信仰なイスラエルです。主イエスが実のならないいちじくの木を呪って、根元から枯らされた奇跡は、神が不信仰なイスラエルを根元から、エルサレム神殿から裁き、滅ぼされることを意味しているのです。

 

主イエスが実のならないいちじくの木を呪って、根元から枯らされたという奇跡は、実際に起こった出来事です。だから、マルコによる福音書は、112021節で、こう記しているのです。「翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」」。

 

このように主イエスの具体的な活動の記録を残している所に、マルコによる福音書の価値があるのです。

 

マタイによる福音書は、根元から枯れたいちじくの木から主イエスが語られる三つの教訓を記しています。第一に信仰です。第二に祈りです。第三に罪の赦しです。

 

2225節の主イエスの御言葉は、マルコによる福音書の以前に初代教会の中に保存されていたと考えられています。

 

教会は継続されなければなりません。何が教会の力となり、命となるのだろうか。紀元前70年にローマ帝国の軍隊によってエルサレムと神殿が破壊された後に、初代教会のキリスト者たちは考えたでしょう。

 

マルコによる福音書は、呪われたいちじくにではなく、奇跡を行われたキリストに注目しました。それは、初代教会のキリスト者たちが呪われたいちじくにではなく、奇跡を行われた神の子イエス・キリストに注目したからです。

 

わたしたちも受難のキリストに注目しようではありませんか。

 

受難の主イエスは12弟子たちに、22節で「神に対する信仰を持ちなさい」と命令されています。イングリシュバイブルは、「ハブ フェイス イン ゴッド」と英訳しています。日本語訳聖書は、「神を信じなさい」です。

 

主イエスは、12弟子たちに、そしてわたしたちに神に対する信仰を持てとお命じになりました。この信仰は奇跡の信仰です。マルコによる福音書は、23節で、こう主イエスの御言葉を記しています。「そこで主イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりなると信じるならば、そのとおりになる。

 

はっきり言っておく。」は、「アーメン、わたしは言う」という文章です。これは、主イエスが言われていることを、約束として保証するという意味です。

 

この信仰は人が努力して得られるものではありません。神が持たせてくださるのです。聖霊がわたしたちにお与えくださる信仰です。聖霊がわたしたちを神と十字架のキリストへの信仰に導いてくださいます。

 

わたしたちは自らの力に頼み、神に対する信仰を持つことは不可能です。なぜなら、わたしたちの心には不信仰という大きなつまずきがあるからです。例えば、復活の主イエスに出会っても、12弟子のひとりトマスは、信じませんでした。彼は言いました。「復活の主イエスの両手に釘痕を見、わき腹に槍の刺し傷を見るまで信じない」と。

 

このようにわたしたちの心が少しも疑わないという保障はありません。むしろ、わたしたちの心もまた、不信仰があふれ出て来るし、疑いが常に生まれてきます。

 

信仰を持つという保証は、わたしたちにはありません。むしろ、今主イエスが約束してくださっているのです。主イエスは、12弟子たちに信仰を持ちなさいとお命じになり、ペンテコステの日に彼らに聖霊を遣わされて、聖霊を通して神に対する信仰、主イエスに対する信仰をお与えになりました。だから、彼らは信仰を持つために何の努力もしてはいません。聖霊が彼らに信仰を与えられ。彼らの口を通して「アバ、父よ」と呼びかける、神に対する信仰をお与えくださったのです。だから、主イエスが「信仰を持ちなさい」とお命じになる信仰は、神の奇跡の信仰です。

 

そしてこの信仰は、神に、受難の主イエスに寄り頼む信仰です。わたしたちは、神を仰ぎ、十字架の主イエスを仰ぐだけで良いのです。神に期待し、キリストに期待するだけで良いのです。

 

神御自身が成し遂げてくださいます。強い信仰でなくても、神を信じ、主イエスを信じているならば、父なる神と主イエスがわたしたちをこの世から神の国へと移してくださるのです。

 

この信仰がこの世で教会とキリスト者たちを堅く守るのです。

 

そして、信仰は祈りという行動を通して具体的となるのです。主イエスは、24節でこう言われています。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

 

言っておく。」には「アーメン」という言葉はありません。しかし、主イエスが言われることは、わたしたちにとって確かな約束です。

 

ウ小教理問答を読んでみてください。神の恵みの外的手段が御言葉と礼典と祈りであると教えています。

 

聖霊は直接わたしたちの心に働かれて、わたしたちが信仰と罪の悔い改めをなすように導いてくださいます。そしてわたしたちが口で告白した信仰を強めるために、聖霊は礼拝において御言葉と礼典を用いられ、キリストの十字架の贖いをわたしたちに伝えられます。

 

祈りも同じです。祈りを用いて聖霊は、キリストの十字架の贖いの恵みをわたしたちに伝えられます。

 

有名な祈りは、主の祈りです。主イエス御自身が12弟子たちに教えられ、わたしたちに教えてくださった祈りです。

 

そしてこの祈りが信仰を持ってこの世を生きるキリスト者たちの指針となっています。

 

わたしたちは、主の日の礼拝ごとに主の祈りを唱えています。すると、主イエスは今朝のマルコによる福音書の御言葉によって、「主の祈りを祈り求めるあなたがたは、既にすべてを得ていると信じなさい」とお命じになっています。そうすれば、主の祈りの通りになると約束されているのです。

 

主イエスは、このように信仰と祈りを通して、この世の闇の中で教会を光として輝かせてくださっています。

 

教会の輝きの中心は、十字架です。主イエスの十字架によって教会は、神に罪を赦され、神と和解する場所となっただけではありません。わたしたちがキリストの十字架によって罪を赦され、神の子とされました。わたしたちは、神の家族となりました。だからわたしたちは、兄弟姉妹です。互いに十字架によって敵意を除かれました。教会はわたしたちが互いに罪を赦し合ってこそ、十字架の下に立つ教会なのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第4主日を迎えました。今朝はマルコによる福音書第112025節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は、主イエスに呪われて、根から枯れたいちじくの木が不信仰なイスラエルであり、主イエスが清められた神殿であることを学びました。

 

また、呪われ、枯れたいちじくの木に注目するのではなく、受難の主イエスに注目することの重要性を学びました。

 

父なる神と主イエスが聖霊を通してお与えくださる信仰、そして祈りがこの教会とわたしたちを、この世の闇の中で光として輝かせている喜びを知り感謝します。

 

また、毎週の礼拝ごとに主の祈りを祈るごとに、すでに主イエスがこの祈りをかなえて下さっている恵みを知り、感謝します。

 

この教会がキリストの十字架によって、わたしたちとこの世の人々との和解の場としてください。主よ、あなたによって罪を赦されたのですから、兄弟姉妹の罪を、隣人の罪を赦すことができるようにしてください。

 

どうか今週も十字架の主イエス・キリストを瞑想し、次週の受難週へと備えさせてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教58              2021411

一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものであったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば・・・。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」

                       マルコによる福音書第112733

 

説教題:「主イエスの権威」

今朝は、マルコによる福音書の第112733節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、今朝の御言葉から12章の終わりまで主イエスがユダヤの指導者たちと論争されたことを記しています。

 

5つの論争と主イエスがユダヤの指導者たちになさった一つのたとえ話、そして律法学者たちを主イエスが非難されたこと、貧しい婦人の献金を記しています。

 

マルコによる福音書は、1312節で主イエスがエルサレム神殿の崩壊を預言されたことを記しています。

 

マルコによる福音書は、主イエスがいちじくの木を呪われた出来事と主イエスがぶどう園の悪い農夫のたとえ話なさったことを絵画の額縁のようにして、今朝のユダヤの指導者たちが主イエスに何の権威によって神殿を清められ、神殿の境内でユダヤの民衆たちに教えているのかと質問したことを絵にしているのです。

 

その絵は、ユダヤの指導者たちの不信仰を描いています。5つの論争は、まさにユダヤの指導者たちの不信仰を、マルコによる福音書は絵にしているのです。

 

そして彼らの不信仰が受難の主イエスを十字架刑へと導くのをはっきりと描いているのです。それゆえ主イエスは、彼らの不信仰に神の怒りが下り、エルサレム神殿が崩壊することを預言されました。

 

このようにマルコによる福音書は、今朝の御言葉から12章、13章へと進む中で受難の主イエスと論争するユダヤの指導者たちの不信仰と彼らに下される神の裁きを記しているのです。

 

では、マルコによる福音書の1127節を御覧ください。「一行はまたエルサレムに来た。」と、マルコによる福音書は記します。

 

受難週の三日目、火曜日の朝、主イエスと12弟子たち一行は、ベタニアの村からエルサレムの都にやって来ました。

 

そして、「イエスが神殿の境内を歩いておられると」と、マルコによる福音書が記しますように、主イエスはエルサレムの都に来られると、すぐに神殿に行かれました。そして、神殿の境内を、すなわち、庭を歩き回られていたのです。

 

神殿の庭は、外庭と内庭がありました。外庭は異邦人たちが礼拝する場所でした。そこで両替がなされ、犠牲の動物が売り買いされていました。

 

だから、主イエスは両替人と商売人たちをそこから追い出され、神殿を清められたのです。そして、主イエスは、そこで人々に教え続けられ、ユダヤの指導者たちと論争されたのです。

 

だから、マルコによる福音書は、27節で「祭司長、律法学者、長老たちがやって来て」と記しています。

 

この「祭司長と律法学者と長老たち」は、ユダヤの最高議会の構成メンバーたちです。その議会は「サンヘドリン」と呼ばれ、70(71)名の議員で構成されていました。

 

ユダヤ人たちはローマ帝国によって自治を許されていました。最高会議は警察権と裁判権を持っていました。神殿を汚す者たちを捕えて、ユダヤの法で処刑にしました。

 

しかし、彼らが捕らえて、裁判で有罪宣告し、処刑を執行できるのは、神殿において冒涜の罪を犯した者たちだけでした。それ以外は、死刑宣告をし、処刑にする権限はありませんでした。だから、彼らは、主イエスをローマ総督ピラトの裁判に訴えて、政治犯としてピラトに有罪宣告させ、ローマの法によって十字架刑を執行させたのです。

 

これは後の話です。今朝の御言葉に戻りましょう。

 

マルコによる福音書は、主イエスとユダヤの指導者たちとの論争を他にも記しています。2章-3章です。主イエスとユダヤの指導者たちが主イエスの権威について論争したことを記しています。主イエスが中風の者を癒され、彼に罪の赦しを宣言されました。それを見聞きしたユダヤの指導者たちは、神以外に罪を赦す権威を持つ者はいないと、心の中で主イエスに反発しました(マルコ2:112)

 

また主イエスが徴税人レビの家で徴税人たちや罪人たちと一緒に食事をされたとき、彼らは主イエスを罪人たちと食事を共にしていると非難されました。その時主イエスは医者が病人を癒すように、罪人を招き癒すためにこの世に来たと言われました。主イエスは安息日に病人を癒されました。彼らはそれを見て、主イエスが安息日律法に違反されたと非難しました。すると、主イエスは彼らに尋ねられました。「安息日に許されているのは、善をなすことか、悪をなすことか、命を救うことか、殺すことか」と(マルコ2:1317)

 

今や、主イエスと彼らとの論争に決着がつけられます。彼らは、主イエスに28節で、こう質問するからです。「「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」(28)

 

彼らは、主イエスに質問をしました。主イエスが人々に神の国ついて教え、病人を癒し、神殿を清めるすべては、何の権威によってしているのか、だれが主イエスにその権威を与えたのかと。

 

ユダヤの指導者たちの質問は、間接的に彼らが主イエスの権威を認めているのです。実際にユダヤの民衆たちが律法学者の教えとは違って、主イエスの教えには権威があると認めていました(マタイ7:28-29)。彼らは、そのことを知っているのです。

 

主イエスも良くご存じでした。だから、主イエスは、彼らの質問に対して、逆に彼らに質問を返され、彼らに二度主イエスの質問を良く考えて、ひとつの責任のある決断を下すようにとお命じになりました。

 

それが29節と30節です。「イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものであったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」

 

「答えなさい」という言葉は、よく考えた上でどちらを選ぶか、責任のある決断を下しなさいという意味です。とりわけ主イエスに対して、どんな反応をするのかを描くとても重要な言葉なのです。

 

主イエスは、彼らに自分が何の権威で人々に神の国について教え、人々の病気を癒し、神殿を清めているのか、わたしの質問に答えてくれれば教えようと答えられました。

 

そして、主イエスは彼らに一つの質問をされました。「ヨハネの洗礼は天からのものであったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」」と。

 

ヨハネの洗礼」とは、洗礼者ヨハネがユダヤの荒れ野のヨルダン川でユダヤの民衆たちに施していた罪の赦しを得させるための洗礼です(マルコ1:4-5)。要するに主イエスは、洗礼者ヨハネがしていた預言者活動は、「天から」、すなわち、神からのものであるのか、それとも人からのものなのかと、質問されました。

 

ユダヤの指導者たちは、主イエスのこの二者択一の質問に答えられませんでした。

 

3133節前半です。「彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし、『人からのものだ』と言えば・・・。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。

 

ユダヤの指導者たちは、主イエスの質問に対してジレンマに陥りました。彼らが不信仰であったからです。

 

ユダヤの指導者たちは、主イエスにどう答えるべきか熱心に議論しました(31)。その意味では彼らはよく熟慮して答えようとしたわけです。しかし、彼らは主イエスに責任のある決断を下せませんでした(33節前半)。不信仰であったからです。

 

彼らは洗礼者ヨハネの罪の赦しを得させる洗礼が「神から来ている」と答えると、主イエスが「どうして洗礼者ヨハネを信じなかったのか」と質問すると考えました。そして、彼らは主イエスに「人からだ」と答えることで、ユダヤの民衆が彼らに対してどんな反発をするかが怖かったのです。ユダヤの民衆たちは、洗礼者ヨハネを神から遣わされた預言者であると信じていたからです(31-32)

 

彼らは、主イエスの質問に対してジレンマに陥り、彼らの不信仰を露わにしたのです。神よりも人を恐れ、主イエスに責任のある決断をする勇気がありませんでした。彼らは、主イエスに「分かりません」と答えました。

 

そのように責任ある決断ができなかった指導者たちの不信仰に対して主イエスは、御自分が父なる神から遣わされた神の御子であると、答えることを拒否されました(33節後半)

 

こうして不信仰なユダヤの指導者たちは、彼らの目の前に神の子主イエス・キリストが立っておられるのに、主イエスを神の子と信じる責任のある信仰的応答ができませんでした。

 

しかし、キリスト者は、洗礼者ヨハネを神から遣わされた預言者と信じているのです。だから、彼が神の小羊と指し示す主イエス・キリストを自分たちの贖い主と信じるのです。

 

中世の祭壇画に洗礼者ヨハネが十字架のキリストを神の小羊と指し示す絵があります。洗礼者ヨハネを神が遣わされた預言者と信じる者は、主イエスをわたしたちの罪を赦す救い主と信じることができるのです。

 

まさしく洗礼者ヨハネは、わたしたちを十字架の主イエスへと導いてくれる者なのです。

 

洗礼者ヨハネが指示した神の小羊、十字架の主イエス以外にわたしたちを罪から救ってくれる救い主はいないと、マルコによる福音書はわたしたちに語りかけているのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、先週はイースター礼拝の恵みに与ることができて感謝します。

 

主イエスは復活されました。今朝主イエスはマルコによる福音書第112733節の御言葉と共に、わたしたちのところにいてくださいます。主イエスよ、感謝します。

 

今朝、主イエスが御自身のように、この教会に御言葉を語る牧師を遣わしてくださり感謝します。

 

洗礼者ヨハネが神の小羊である十字架の主イエス・キリストを指示したように、主が遣わされた牧師が語る御言葉を通して、十字架の主イエスを、わたしたちを罪から救う救い主と信じる信仰を与えられ感謝します。

 

そして、主イエスの復活によって、わたしたちも将来、復活の希望が与えられています。

 

どうか毎週の礼拝ごとに十字架と復活の主イエス・キリストの恵みに与らせてください。

 

どうか礼拝のオンライン化を用いて多くの人々に主イエス・キリストの福音を伝えることができるようにしてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

マルコによる福音書説教58              2021418

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし,搾り場を掘り、見張りやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。

『家を建てる者の捨てた石、

これが隅の親石となった。

これは、主がなさったことで、

わたしたちの目には不思議に見える。』」

彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

                       マルコによる福音書第12112

 

説教題:「ぶどう園と農夫たち」

今朝は、マルコによる福音書の第12112節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、121節で「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。」と記しています。主イエスは、エルサレム神殿の境内でたとえを語り始められました。

 

マルコによる福音書が記す「彼らに」とは誰でしょうか。この一文では、だれであるか判断が難しいでしょう。12弟子たちであるか、ユダヤの指導者たちであるか、それとも群衆たちであるか。

 

しかし、マルコによる福音が1212節で主イエスがたとえを語られた結末を次のように記しています。「彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

 

祭司長、律法学者、長老たち、すなわち、ユダヤの支配階層の者たちは、主イエスが語られたたとえが自分たちに向けてのものであることを理解しました。当然彼らは主イエスを捕えようと思ったでしょう。しかし、神殿の境内には多くの群衆がいて、イエスを洗礼者ヨハネ同様に神から遣わされたお方と信じていたのです。

 

だから、指導者たちは民衆たちを恐れて、主イエスに何もできず、神殿の境内を立ち去ったのです。

 

主イエスは、神殿の境内で多くの群衆にどんなたとえを話し始められたのでしょうか。

 

少し長いですが、マルコによる福音書の121節後半から9節の主イエスのたとえを読んでみましょう。

 

「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし,搾り場を掘り、見張りやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外に放り出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」

 

マルコによる福音書は121節前半で、主イエスが神殿の境内で多くの群衆にたとえを語り始められたという設定を記しています。

 

そして、121節後半から9節は、主イエスが語られたたとえの内容です。主イエスは、彼らにぶどう園の悪い農夫たちのたとえをお話しになりました。

 

主イエスのたとえのあらましは、こうです。普段は外国に住んでいますある人が、ユダヤの国でぶどう園を造りました。ぶどうの収穫し、それを搾ってぶどう酒にする施設と働く農夫たちが休憩し、ぶどう園を見張る矢倉を建てました。そして、彼は、農夫たちにぶどう園を貸して、外国に行きました。

 

ぶどう園の主人は不在の地主でした。主イエスの時代、外国人が所有するガリラヤの土地がありました。ガリラヤの農夫たちは、外国人の地主と収穫の分け前を約束した賃金契約を結びました。しかし、農夫たちは不在の外国人地主に反抗的な態度を取ることがしばしばありました。

 

主イエスは、当時の社会的な状況を踏まえて、このたとえを語られています。

 

ぶどう園が収穫の季節を迎えました。外国に住むぶどう園の主人は、しもべを遣わして農夫たちから収穫の半分を回収しようとしました。ところが、悪い農夫たちは、主人が遣わしたしもべに反抗し、暴力を振るいました。主人のしもべを袋叩きし、空手で帰しました。そこで主人は別のしもべを遣わしました。農夫たちはそのしもべの頭を殴り、彼を侮辱しました。主人は、さらに別のしもべを遣わしました。農夫たちは、今度はしもべを殺しました。主人がしもべを遣わすほど、農夫たちの反抗と暴力は過激になりました。

 

主人には愛する一人息子がいました。彼は、一人息子を敬ってくれると思い、遣わしました。悪い農夫たちは、一人息子を見て、「あれは跡取りだ。やつを殺して、ぶどう園を自分たちのものにしよう」と言いました。そして彼らは主人の愛する一人息子を殺して、その亡骸をぶどう園の外に捨ててしまいました。

 

主イエスは、たとえを聞いていた群衆たちに尋ねられました。「ぶどう園の主人は、悪い農夫たちをどうするだろうか」と。そして御自身で、こう答えられました。「戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるに違いない。」」と。

 

マルコによる福音書は、「ぶどう園の悪い農夫たち」のたとえをどう理解しているのでしょうか。

 

そのカギは、マルコによる福音書の1212節に記しています。祭司長、律法学者、長老たち、すなわち、ユダヤの指導者たちは、主イエスが自分たちに向けて、このたとえを語ったと。

 

どうして彼らがそのように思ったのか、マルコによる福音書は、121011節で主イエスが詩編1182223節の御言葉を引用して、次のようにこのたとえを締め括られたからです。「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。

 

詩編118編の詩人は、主の懲らしめを受けた人です。彼は死の淵をさ迷いました。この世おいて迫害を受け、苦難を味わった人です。彼は、苦しみの中で主の助けを得ました。主の御前に低くされた詩人が、エルサレム神殿の主の義の門を入って、主なる神を自分の救い主と告白し、賛美しているのです。

 

詩人は、その喜びを、大工が捨てた石が隅の親石になったことだと、歌っています。人の目には不思議なことです。それが主の御業です。救いの奇跡です。

 

マルコによる福音書は、詩編1182223節の御言葉の成就を、主イエスの御受難と十字架に見出したのです。

 

隅の親石は、家の隅を支える切り石のことです。あるいは玄関のアーチを飾る、建築上の最後の石のことです。その石のように、主イエスは、主なる神が罪人であるわたしたちを救われる最後の石、わたしたちの救いを支える石となってくださったのです。

 

マルコによる福音書は、主イエスがなさった「ぶどう園の悪い農夫たち」のたとえから主なる神の救いの御業を読み取ったのです。主なる神は、神の民イスラエルに、すなわち、ぶどう園に次々と預言者たちを遣わされました。

 

主なる神が遣わされた預言者たちの最後が洗礼者ヨハネでした。しかし、ユダヤの指導者たちは、洗礼者ヨハネが神から遣わされた預言者であることを認めませんでした。ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスが殺すのを容認したのです(マルコ6:1429)

 

主イエスは、今朝のこの「ぶどう園の悪い農夫たち」のたとえで、次のように言われるのです。祭司長、律法学者、長老たち、すなわち、ユダヤの支配者階級の人々、ユダヤの指導者たちは主なる神が遣わされた預言者たちを受け入れないで、次々と迫害し、殺しただけではなく、神の愛する一人子主イエスを殺してしまうと言われています。

 

マルコによる福音書がわたしたちにこの主イエスのたとえを伝えている意図は、第一にユダヤの指導者たちは主イエスの御受難と十字架の死に対して責任があるということです。

 

第二にマルコによる福音書は、わたしたち読者に次のことを福音として伝えようとしているのです。神の愛する一人子、神の子主イエス・キリストの十字架の死によってわたしたちの罪は完全に贖われ、復活の主イエスによってわたしたちは死に勝利したのであると。 

 

最後に主イエスは、ぶどう園の主人がユダヤに戻って来て、悪い農夫たちを裁き、ぶどう園をほかの人たちに与えると言われました。

 

この「ほかの人たち」とはだれでしょうか。主イエスは不信仰なユダヤ人たちを捨て、異邦人たちを神の民に選ばれたのだと、考えるのも一つに理解でしょう。

 

しかし、主イエスがこのたとえで非難されたのはユダヤの指導者たちであって、ユダヤ人たちではありません。

 

ほかの人たち」は、主の御前に低くなる者のことではないでしょうか。

 

マルコによる福音書は、主イエスが洗礼者ヨハネの権威について言及されたすぐ後で、この主イエスがたとえを語られたと記しています。

 

その意図は、第一にユダヤの指導者たちの不信仰を非難することでしょう。第二にわたしたち罪人が神の義を得るという主イエスの十字架の奇跡を見ることです。

 

神の恩寵を見る他の人たちがいるのです。主なる神の御前に自らを低くした詩編118編の詩人です。この世の苦難の中で自らを主に懲らしめられた者として、実を低くする者はユダヤ人であろうと異邦人であろうと、受難の主イエスに、十字架の主イエスに罪人であるわたしが主なる神に義とされる奇跡を見ることができるのです。主イエスの復活に、自分が死に勝利する奇跡を見ることができるのです。その者こそが主なる神のぶどう園、御国の真の相続者となるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第12112節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

わたしたち人間の業は、すべて先行する神の御業に基礎付けられなければなりません。その真理を、今朝の主イエスのたとえから学べる機会を得たことを感謝します。

 

主イエスが受難の苦しみを味わわれたゆえに、わたしたちもこの世において苦しみを味わうことを、主の懲らしめとして受け入れ、わが身を主の御前に低くできるようにしてください、

 

この世における苦しみの中で、詩編118編の詩人のように、わが身を低くし、十字架の主イエスの御救いの栄光を見させてください。復活の主イエスと共に死に勝利したわたしたちの真の姿を見させてください。

 

不信仰と疑いのこの世の迷路から、わたしたちを解放してください。

 

コロナウイルスの災禍の中で、教会もわたしたちの生活も、日々危機の中にあります。死の不安と恐れが世界を覆っています。だからこそ、わたしたちの教会がこの世界に向けて主イエスが復活されたことを伝えることができるようにしてください。

 

この世界の人々に、死がこの世界の終わりではなく、聖書が告げているように復活の主イエス・キリストの再臨と御国の実現があることを、わたしたちの世界の希望として伝えさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

マルコによる福音書説教60              202152

さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか。」イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

                       マルコによる福音書第121317

 

説教題:「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」

今朝は、マルコによる福音書の第121317節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書は、1120節から1337節まで主イエスの受難週の三日目、火曜日の出来事を記しています。

 

受難週の二日目、月曜日の朝早く、主イエスはベタニアの村からエルサレムの都に向かわれました。途中主イエスは空腹になられました。道端にいちじくの木がありました。主イエスは、その木に実がないかと御覧になりました。しかし、ありませんでした。主イエスは、いちじくの木に向かって「今から後、お前から実を食べる者がないように」と言って、呪われました。

 

翌朝、12弟子たちが見ると、いちじくの木は枯れていました。弟子のペトロが主イエスにそれを知らせました。

 

その時主イエスは、12弟子たちに「神を信じなさい」と命じて、信仰と祈りの重要性を教えられました。そして、主イエスは彼らに祈るとき、誰かを恨んでいれば、その人の罪を赦すようにお命じになりました。そして主イエスは彼らにこう約束されました。人の罪を赦す者は主なる神が罪を赦してくださると。

 

それから主イエスと12弟子たち一行は、エルサレム神殿の境内に入りました。そして主イエスはユダヤの最高議会のメンバーである祭司長、律法学者、長老たちと御自身が何の権威によって御言葉を語り、癒しの奇跡をなさるのかを論争されました。そして主イエスは境内に集まりました大勢の群衆たちにぶどう園の悪い農夫たちのたとえをお話しになりました。

 

そのたとえを聞きました祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスが自分たちの事を話していると気づきました。その場で彼らは主イエスを捕えようとしました。しかし、彼らは主イエスを逮捕できませんでした。主イエスのたとえを熱心に聴いていた民衆たちが騒ぎを起こすことを恐れたからです。彼らは、その場を立ち去りました。

 

祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスのところにファリサイ派とヘロデ派の人々を数人遣わしました。

 

この人々は、安息日に主イエスが病人を癒され、安息日律法を破られるのを見ました。その時に主イエスは、彼らにこう言われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、殺すことか」と。彼らは、主イエスの問いかけに黙っていました。主イエスは、彼らの頑なな心を悲しみながら、病人を癒されました。

 

ファリサイ派の人々とヘロデ党の人々は、その場を去り、主イエスをどのようにして殺そうかと相談しました(マルコ3:6)

 

こうしてファリサイ派とヘロデ派の人々は、主イエスにローマ皇帝に税金を納めるべきであるか、納めるべきでないかを質問し、主イエスがイエスと答えても、ノーと答えてもユダヤ人たちから反感と憎しみを買うようにしようとしました。

 

さて、ファリサイ派の人々は、祭司長たちやサドカイ派の人々のように専門の宗教人ではありません。普段はこの世で手仕事をしている人です。そして神の律法を熱心に研究している人です。彼らは律法を厳格に解釈し、忠実に実行しようとしました。また神の律法と共に先祖の言い伝えも熱心に守りました。その反面、彼らは新しい時代に適応しようとしました。

 

ヘロデ党の人々はヘロデ・アンティパスの手先です。ヘロデがユダヤの王になることを支持する人々です。

 

主イエスは、12弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種をよくよく警戒しなさい(マルコ8:15)と言われました。

 

ヘロデ党の人々は、ファリサイ派の人々と手を結びました。そして彼らの共通の敵である主イエスを殺そうと相談し、計画を練りました。

 

今や彼らは互いに主イエスを殺そうと相談したことを、実行に移しました。彼らは、主イエスに向かってうわべは丁寧に、しかし、とても陰湿な質問をしました。

 

彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないでしょうか。」(14)

 

これは、彼らが主イエスにイエスか、ノーかと、二者択一を迫る質問です。彼らが主イエスを殺そうと相談し、練り上げた策略は、主イエスがどちらを選んでもユダヤ人たちから反感と憎しみを買うようにすることでした。

 

彼らは、主イエスにお世辞を述べて、質問しました。「先生、あなたは神の民の正しい指導者です。だから、皇帝に税金を納めることが民にとって正しいことか、間違ったことかをよくご存じです。率直に答えてください。皇帝に税金を納めることは正しいでしょうか、間違っているでしょうか。納めるべきですか、納めてはいけませんか。」

 

マルコによる福音書は、彼らが主イエスに質問したユダヤの歴史的背景を知っています。どうして紀元70年にエルサレムの都がローマ帝国の軍隊によって破壊され、ユダヤ人たちが母国を失ったかを知っています。

 

ゼーロータイというユダヤの指導者がローマ帝国に起こした反乱があります。紀元66年にゼーロータイと彼を支持するユダヤ人たちは、ローマ帝国に反乱を起こしました。ユダヤ戦争と呼ばれています。

 

ゼーロータイたちは、ローマ皇帝を王と呼ぶことが十戒の第一戒違反であると主張し、ローマ皇帝に税を納めることが主なる神から離反することであると主張しました。こうしてユダヤ人たちはローマ帝国と戦争したのです。

 

すでに主イエスの時代、ゼーロータイのように考えるユダヤ人たちと祭司長やサドカイ派の人々のように親ローマ帝国側のユダヤ人たちが国を二分していました。

 

ファリサイ派とヘロデ党の人々は、この国を二分する対立を利用して、主イエスを陥れようとしたのです。

 

ところが、主イエスは彼らの下心を見抜いておられました。

 

イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(1517a)

 

彼らの下心」は、単なる偽善ではありません。質問者の背信的悪意を意味する言葉です。彼らの税金についての質問は、まるでサタンが主イエスを誘惑する邪悪なものでありました。彼らは、神の子主イエス・キリストを殺そうと思って質問したのです。

 

だから、主イエスは、荒野で誘惑したサタンに答えるように、彼らに答えられました。「なぜ、わたしを試そうとするのか。」と。

 

サタンが彼らを用いて主イエスを誘惑したのかもしれません。彼らの質問に答えて、主イエスが皇帝に税金を納めるべきだと答えると、ユダヤの民衆たちが一斉に主イエスに反感し、憎しむことでしょう。逆に納めるべきでないと答えると、親ローマ帝国側のユダヤの指導者たちが主イエスに反感し、憎しみ、彼らは主イエスをローマ帝国の反逆者に仕立て上げるでしょう。

 

ところが、主イエスは彼らに「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」と命令されました。この命令が事態を一変させました。主導権が彼らから主イエスに変わった瞬間です。

 

デナリオン銀貨は、紀元前209年から紀元215年までローマ帝国の標準銀貨でした。紀元前44年に銀貨の表側に皇帝の頭が刻まれました。

 

彼らが主イエスのところに持って来た銀貨の表側には、ティベリウス帝の頭が刻まれていました。

 

主イエスは、彼らに「これは、だれの肖像と銘か」と質問されました。彼らは、主イエスに「皇帝のものです」と答えました。

 

銀貨にはローマ皇帝ティベリウスの肖像と、銀貨の裏側に次のような銘が刻まれていたでしょう。「皇帝ティベリウス、神君アウグストゥスの子、アウグストゥス」。

 

銀貨がローマ帝国とその植民地の国で通用することが、ローマ皇帝が支配している証拠でした。だから支配者の権力が「彼の貨幣」と呼ばれました。

 

彼らが主イエスのところに持って来たデナリオン銀貨は、ローマ帝国の銀貨であり、ローマ皇帝が所有するものです。ですから、彼らは、主イエスに「皇帝のものです」と答えました。

 

すると、主イエスは、彼らに命じられました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 

ユダヤ人たちが日常で使っているデナリオン銀貨は、ローマ皇帝が所有するものです。だから、ユダヤ人たちは、税金という形でローマ皇帝のものであるデナリオン銀貨を皇帝に返しているのです。

 

しかし、皇帝のものを皇帝に返すよりも、人間はもっと大切なことがあります。

 

この世においてローマ皇帝は、永遠に人を支配することはできません。デナリオン銀貨が永遠に通用することはありません。

 

ローマ皇帝の支配は、主なる神の委任によるものです。この世から過ぎ去る時が来るのです。

 

神のもの」とは、わたしは神の形に創造された人間のことであると思います。

 

しかし、神の形に創造された人間は、罪によって堕落しました。それゆえに神は、堕落した人間が喪失した神の形を回復するために、この世に神の子主イエス・キリストを遣わされました。キリストは十字架の死と復活の御業によってわたしたちを罪と死から解放してくださいました。そして、聖霊によってわたしたちの内に神の形を再創造してくださいました。

 

だから、銀貨は納税という形で元の所有者に返せるでしょう。

 

神のもの」、主なる神に神の形に創造された人間、そしてキリストの十字架の贖いによって神の形に新しく再創造されたキリスト者は、キリストの所有、神に所有として、御身を、神礼拝、神賛美という形で、神に返さなければなりません。

 

この世の皇帝の支配には終わりが来ます。神の子イエス・キリストの支配には終わりがありません。

 

キリストが来られて、神の御国の支配が始まりました。そしてこの世における教会がキリストの福音を世の人々に宣べ伝えることで、神の御国は進展しているのです。

 

復活されたキリストが再び来られます。わたしたちは復活の体を得て、キリストと共に永遠に生きるのです。

 

マタイによる福音書はわたしたちに主イエスの17節の御言葉によって、次のことを教えようとしているのです。わたしたちは、主イエスの所有、神のものであり、わたしたちは、この世にあって御国を目指して生きる神の民であると。そしてわたしたちは、毎週の主日礼拝を通して、この身を主イエスに明け渡しているのだと。それがこの世における教会の礼拝の姿なのだと。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、マルコによる福音書第121317節の御言葉を学べる機会を得ましたことを感謝します。

 

わたしたちは、この世と御国の間に生きている者です。キリストの十字架の贖いのゆえに、わたしたちはこの世にあって、この世のものではなく、主イエスのもの、神のものとされた者です。

 

この世においてわたしたちも、主イエス・キリストか、この世の支配者か、という二者択一の選択を迫られることがあるかもしれません。

 

どうかその時、わたしたちはキリストの所有であり、神のものであると告白させてください。そして、毎週の礼拝を通して、わたしたが神のものを神に返せるようにさせてください。

 

どうか来るべき御国の到来を、キリストの再臨を、待ち望ませてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。