マルコによる福音書説教46              20201129

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

                 マルコによる福音書第94250

 

説教題:「弟子への道―自己犠牲によるキリストとの一致」

今朝と次週、マルコによる福音書第94250節の御言葉を学びます。

 

今朝は、「弟子への道―自己犠牲によるキリストとの一致」という題を付けました。

 

主イエス・キリストの受難の道は、十字架の道です。それは御自身をわたしたちの罪の身代わりに自己犠牲される道でした。

 

昔、神の民イスラエルは、動物犠牲によって彼らの罪の贖いとしていました。彼らは動物犠牲を携えてエルサレム神殿に行きました。そして、彼らの手を犠牲の動物の頭に置きました。そして、犠牲の動物の血を、祭司が祭壇に振りまいて、神の民の罪を清めたのです。この犠牲の動物こそ、十字架の主イエス・キリストです。

 

主イエス・キリストの十字架の尊い血によって贖われたのが、今朝主イエスが12弟子たちに言われている「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」です。

 

37節で主イエスが12弟子たちに「わたしの名のためにこのような子供の一人」と言われたのと同じ意味です。37節と42節は関連しています。兄弟姉妹を受け入れることとつまずかせないことは、教会の形成と持続にとって重要な事柄です。

 

主イエスは、12弟子たちに「つまずかせる」という言葉をキーワードとして、4247節まで手、足、目という人の機能を用いて3つのつまずきについて語られています。

 

48節は、まとめのお言葉です。

 

そして主イエスは、48節の「火」と4950節の「塩」を、キーワードとして、弟子への道を語られているのです。

 

一読しただけでは、今朝の御言葉は難しいかもしれません。また、わたしたちの心が受けとめられません。正直に始めから「無理、無理」と思ってしまいます。

 

実際教会の中で、一人の兄弟姉妹をもつまずかせないで、信仰生活を全うした者がいるでしょうか。否です。使徒パウロが言うように、正しい者はひとりもいません。つまずかせない者は一人もいないのです。

 

「つまずき」とは、「罠をしかける」という言葉から派生しました。

 

昔猟師が獲物を捕らえるために、獲物を挟む道具を作りました。そこから「わなを仕掛ける」という言葉が生まれました。そしてつまずきという言葉が派生しました。

 

「つまずき」は、聖書の中では信仰と深いつながりがあります。信仰に至るのを妨げることを、また、信仰において誤らせることを、「つまずき」と表現します。

 

弟子への道においてこのつまずきに警戒することは、仕えることと共に大切です。弟子への道は、主イエスに弟子として従う道です。それは、この世では教会形成を通してなされます。具体的には仕える者として、兄弟姉妹をつまずかせない者として、弟子たちは主イエスに信従するのです。

 

そこで主イエスは、12弟子たちに御自身を信じる者の一人を、つまずかせることの大きな罪をこう表現されました。

 

わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。(42)

 

大きな石臼」は、文字通りには「ろばの石臼」です。この石臼は、二枚の石を合わせて使います。人が手で回す小さな石臼ではありません。ろばに二枚重ねた上の石を曳かせて回します。かなり大きくて、重い石です。

 

それをつまずかせた者が首に懸けられて、海に投げ込まれます。この海はガリラヤ湖でしょう。主イエスは、この世の裁きと神の裁きを比較され、前者の方がよいと言われました。

 

さらに続けて主イエスは、手と足と目のつまずきについて、4347節で次のように語られています。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

 

主イエスは、42節の御言葉の基準に合わせて、手足と目のつまずき、すなわち、罪とその処置について語られています。

 

主イエスは言われます。手足と目が罪を犯し、兄弟姉妹につまずきを与えるのなら、罪を犯した片手、片足を切り捨て、片目をえぐり出せと。なぜなら、体が健全でも地獄に投げ込まれるよりは、体が不自由でも永遠の命、すなわち、神の国に入れる方がよいからだと。

 

先ほど、わたしは、主イエスの御言葉を、わたしの心が受け入れられないと申しました。

 

その理由は、主イエスのお言葉を、自分の行いで判断するからだと思います。

 

自分の行いを基準にすれば、教会でもこの世でも兄弟姉妹や隣人をつまずかせないこと、罪を犯さないことは不可能ですね。

 

不可能でなければ、教会に戒規は必要ありません。教会戒規による教会訓練は、不必要です。

 

しかし、実際は、教会の中でわたしたちは、つまずかせたり、つまずかされたりします。この罪から教会もキリスト者も逃れられません。この世で、そして教会の中でわたしたちがつまずきという罪を常に犯しているのです。

 

問題は、わたしたちがその罪の重さを知らないことです。自覚していないことです。それによって弟子への道が妨げられるのです。

 

今朝の主イエスの御言葉は、主イエスが12弟子たちやわたしたちに永遠の命、神の国に入ることと地獄に投げ込まれることと、どちらを選ぶかと選択を迫られているのではありません。

 

弟子への道は、十字架の主イエスに従い、永遠の命、神の御国に入る道です。その道は、12弟子だけの道ではありません。キリスト教会という共同体の道なのです。聖徒の交わりの道です。兄弟姉妹と共に歩む道です。

 

この世の教会は神の御国への途上にある教会です。共に歩む兄弟姉妹が、あるいは今は教会の外にいても主イエスと一緒に歩もうとする者がつまずいて、神の御国に至らない、信仰を誤らせてはならないのです。

 

今朝、先週開催された東部中会の第2回定期会略報を、教会員に配布しました。牧師辞職願を扱っています。そこに至る経過は詳細には分らないでしょう。しかし、つまずきが原因であることは分かります。

 

わたしたちの教会でも何度も牧師の辞職がありました。わたし自身も何度も経験があります。牧師が召された教会を不本意に辞職し、あるいは教会員が教会を去るのはこのつまずきがあるからです。

 

本当に主の御前に不名誉なことです。教会におけるつまずきは、主の御前における大きな罪です。牧師と教会員のどちらが悪いという問題ではありません。

 

十字架の主イエスに牧師も教会員も従えなかったという教会の大きな罪の問題です。

 

本当にこの罪は重くて、わたし一人で負いきれませんでした。

 

しかし、聖徒の堅忍という聖書の教えがわたしにとって慰めとなりました。父なる神は、主イエス・キリストにおいて選ばれた者を、お見捨てになることはありません。また、父なる神は、主イエス・キリストを通して、召された牧師をお見捨てになることはありません。

 

教会とわたしたちは、何度も同じ罪を繰り返します。そのたびに弱い立場にある兄弟姉妹と隣人をつまずかせます。しかし、主イエスは御自分の羊たちをご存知です。必ず、つまずいても再びわたしたちの所に戻してくださいます。わたしたちの教会ではなくても、他の教会につながらせてくださいます。

 

だから、父なる神が主イエス・キリストにおいて選ばれた神の民は、必ず十字架の主イエスを信じて、兄弟姉妹と共に神の御国に入るのです。

 

その恵みの感謝の応答が、弱い立場の兄弟姉妹たちや隣人たちをつまずかせない弟子への道を歩むことなのです。

 

十字架の主イエスが自己犠牲の道を歩まれたように、わたしたちも自己犠牲の道を歩むのです。

 

使徒パウロはフィリピの信徒への手紙で、キリストのヘリ下りと従順を模範にせよと勧めています。神の御子キリストが人となってへりくだられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われました。

 

彼はフィリピの教会の信徒たちに次のように勧めています。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行なわせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わず実行しなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つことでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。わたしと一緒に喜びなさい。(フィリピ2:1318)

 

使徒パウロは、キリストへの従順をテーマにして、キリスト者のヘリ下りと従順を勧めています。それは、キリスト者の行いではありません。キリスト者の内に働く神のお働きです。神がわたしたちの内にお働きくださり、わたしたちが十字架のキリストを模範にし、自己犠牲によってキリストと一致して教会を建て上げるのです。

 

パウロ自身も、自己犠牲である殉教を覚悟しています。そして彼は自分の殉教とフィリピ教会の兄弟姉妹たちの苦難を十字架のキリストへの従順として結び合わせています。

 

パウロは彼らと共に永遠の命に入り、御国に入ることを喜ぶのです。

 

わたしは、主イエスが言われる「人は皆、火で塩味をつけられる。」「自分自身の内に塩を持ちなさい。」は、パウロの勧めていることだと思うのです。

 

使徒パウロは、キリストの従順を語る前に、フィリピ教会の信徒たちにこう言っています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 

教会の土台にヘリ下りの主イエスがおられ、主イエスを信じるわたしたちのヘリ下りによって教会が形成され、持続されるのです。

 

だから、マルコによる福音書は、わたしたちに十字架の主イエスとそれに従う12弟子たちに自己犠牲、すなわち、ヘリ下りを見るように、それが弟子への道であると勧めているのではないでしょうか。

 

弟子への道は仕える者の道です。主イエスがへりくだられたように、12弟子たちとわたしたちもへりくだることで、この世の教会は曲がったよこしまな時代の中で持続して行くのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第94250節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝は、弟子への道が自己犠牲のキリストと一致することであることを学びました。

 

主イエスよ、わたしたちは、自分たちの罪を告白します。どうか、つまずかせた罪を御赦しください。

 

十字架のキリストの尊い血によってこの教会は建てられました。兄弟姉妹はキリストの尊い血によってここに集められ、主によって牧師はここに召されました。

 

しかし、わたしたちのつまずきによって、牧師が去り、教会員が去り、求道者が去りました。

 

どうか、その罪を赦してください。

 

今朝の主イエスの御言葉にわたしたちが慰めを得させてください。

 

十字架のヘリ下りの主イエス・キリストとわたしたちが一致し、歩めるように、聖霊なる神よ、聖書と説教の御言葉によってわたしたちを励まし、支えてください。

 

どうか、わたしたちを不平と理屈から解放してください。利己心と虚栄心から解放してください。ヘリ下りという塩味の利いた者としてください。

 

どうか教会の中で兄弟姉妹が互いに愛し合うことを得させてください。隣人に対する思いやりを持たせてください。

 

この世で十字架の主イエスの御救いを、多くの人々に語らせてください。

 

アドベントに入りました。クリスマスに向けて備えさせてください。

 

1220日のクリスマス礼拝を、兄弟姉妹と子供たちと友たちと共に祝わせてください。

 

どうかこの小さな群れをお守りください。この世にあって星のように輝かせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教47              2020126

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるならば、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

                 マルコによる福音書第94250

 

説教題:「罪の誘惑と平和」

今朝は、先週に引き続き、マルコによる福音書第94250節の御言葉を学びましょう。

 

今朝は、「罪の誘惑と平和」という説教題を付けました。

 

主イエスは、12弟子たちにつまずきと平和について教えておられます。

 

新約聖書の中で「つまずかせる」は、29回使われています。その内4つの福音書で26回使われ、マルコによる福音書は8回使っています。

 

つまずかせる」の他に、「罪に誘惑する」、受け身で「つまずく」、その他に「信仰を拒む」、「信仰から離反する」、「罪を犯す」という意味があります。

 

このように「つまずかせる」は、救いを失わせるつまずきに用いられています。

 

信者に対して使われるか否かで、「つまずかせる」の意味が信仰からの離反か、それとも信仰を拒むことかを区別しています。

 

信仰を拒むという意味での「つまずかせる」は、マルコによる福音書の63節で使われています。

 

主イエスが故郷のナザレにお帰りになり、安息日に会堂で教えられました。故郷の人々は主イエスの教えを聞いて、驚かされました。なぜなら彼らは、主イエスと彼の家族をよく知っていたからです。

 

主イエスの父ヨセフは貧しい大工でした。彼の母マリアと兄弟たちを、故郷の人々は良く知っていました。しかし、今彼らは、病人を癒す奇跡を行い、神について教える知恵を持った主イエスを見ているのです。彼らは、主イエスを受け入れることができずにつまずいてしまいました。主イエスがメシアと信じることを拒みました。

 

だから、マルコによる福音書は、彼らの不信仰のゆえに、主イエスはナザレで一人の病人に手を置いて癒す奇跡の他に何もおできにならなかったと記しています。

 

つまずかせる」は、多くは「信仰から離反する」という意味で使われています。主イエスが有名な種蒔きのたとえ話をなさった後で、彼は12弟子たちにその話を説明されました。道端、石だらけの地、茨の中に蒔かれた種は、サタンの誘惑、艱難、この世の患いと富の誘惑につまずき、信仰から離れることだと。

 

ところで、今朝の94247節の「つまずかせる」は、信仰からの離反を促すことです。だから主イエスは、彼らに「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」と言われているのです。

 

わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」は、主イエスの愛を否定するものです。この愛は、主イエス・キリストの十字架の贖罪愛です。

 

使徒パウロが第三回宣教旅行を終えて、エルサレムに帰る途中、エフェソの長老たちに別れの挨拶をしました。その時に彼は、彼らにこう述べております。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」(使徒言行録20:28)。

 

あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」というパウロの勧告の言葉と主イエスが12弟子に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」と言われた勧告は、同じことです。

 

主イエスは、エルサレムに向かわれています。そして主イエスは、御自身の十字架によって贖われる群れを12弟子たちに委ねられるのです。

 

12弟子たちは。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる」ことを、どんなことがあってもすべて阻止しなければなりません。それが弟子への道を歩む彼らの義務でありました。

 

それを主イエスは、12弟子たちに知らせるために、極端な言い方をなさるのです。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(42節)。

 

これは、主イエスが神の裁きと比較して、この世の裁きの方がましであると言われているのです。

 

なぜなら、主なる神は兄弟姉妹をつまずかせた者をゲヘナ、地獄に投げ込むと、主イエスは言われているからです。この世の裁きはどんな厳しい裁きでも一回で終わります。しかし、神の裁きは永遠に続くのです。

 

主イエスは、手と足と目のつまずきについて、4347節で次のように語られています。「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。

 

42節の御言葉の主旨と違う気がします。42節は主にある兄弟姉妹をつまずかせる者についてですが、4347節は自分の手足と目のつまずきについてです。自分のつまずきについて、主イエスはお話しになっています。

 

主イエスは、12弟子たちに信仰につまずくなと命じておられるのですね。

 

主イエスのお話しは極端です。自分の手足を切り捨て、目をくりぬけとは。

 

主イエスは、12弟子たちに絶対につまずいて、わたしから離れるなと言われているのです。

 

ユダヤ人にとって手足と目は、欲望と罪の衝動の座です。人の貪欲の罪は、人の目を通して手足で行われるのです。

 

創世記の3章でエバが罪を犯す場面がありますね。エバは、蛇の誘惑の言葉に欺かれて罪を犯しました。主なる神が食べることを禁じられた善悪を知る木の実を取って食べ、夫アダムにも与えました。

 

創世記は36節で、その場面をこう記しています。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」

 

女は、蛇の誘惑によって善悪を知る木の実が魅力的に見えたのです。主なる神のように賢くなれると、彼女の目が引き付けさせました。それで彼女は歩いて、その木に近づき、手でその実を取って食べました。そして夫のアダムの所に行って、彼に渡しました。彼も食べたのです。二人が犯した罪によって、彼らだけではなく、主なる神が造られた世界に死が入りました。それ以来人類は、永遠の滅びという危機の中に置かれたのです。

 

主イエス・キリストは、その罪とその刑罰である死から、わたしたちを救うためにこの世に来てくださったのです。それが、アドベントです。第一回目のキリストの来臨です。

 

わたしは、アドベントに、今朝の御言葉を瞑想することは意味があると思います。

 

主イエスの弟子、わたしたちキリスト者は、この世に来られた神の御子、主イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、父なる神と和解し、信仰によって義とされ、神の子とされ、神の御国の相続人とされました。わたしたちは、主イエスとの永遠の命の交わりを約束されています。

 

だからこそ、再び信仰につまずくことは許されないのです。この世のサタンの誘惑によって再び罪を犯して、信仰から離れること、主イエスから離れることは、弟子への道において絶対にあってはならないことです。

 

だから、主イエスはこんな極端な言葉で警告されたのです。

 

先週お話ししましたように、今朝の主イエスの御言葉は、12弟子たちやわたしたちが永遠の命、神の国に入ることと地獄に投げ込まれることと、どちらを選ぶかという選択の問題ではありません。

 

弟子への道は、この世において主イエス自身が経験されたサタンの罪の誘惑を避けることはできません。また、12弟子たちのように罪を犯すことを避けることもできません。

 

しかし、幸いなことは、弟子への道が主イエスの愛と憐れみの道なのです。聖霊に導かれて回心する道です。つまずいて、罪を犯し、信仰から離れるのではなく、主イエスへの信仰に留まる道です。わたしたちは、主イエス以外に救いのないことを知っているからです。

 

12弟子たちとわたしたちは、弱い兄弟姉妹を配慮するだけではありません。自分たちが主イエスから離れ、信仰から離れることを断固拒否しなければならないのです。

 

主イエスが言われています「地獄」「ゲヘナ」の言葉の由来は、エルサレムの都の城壁の外にありましたベン・ヒノムの谷です。その谷の高き所にモレクの神の礼拝所がありました。南ユダ王国のアハズ王とマナセ王は、自分たちの子をその神々にささげて、火で焼きました(列王記16:321:6)。

 

ヨシヤ王が行なった宗教改革によって、ベン・ヒノムの谷のモレクの神の礼拝所は取り除かれました。ヨシヤ王はその礼拝所を汚物で汚し、偶像等を火で燃やしました(列王記下23:104)。その時、燃やされた火は中々消えず、汚物から蛆がわきました。それゆえにベン・ヒノムの谷は、神の永遠の刑罰を受ける場所を表わす場所となりました。ゲヘナ(地獄)を表わす場所となりました。

 

主イエスがこのように極端なことを言われているのは、主なる神の裁きを避けるための自己防衛ではありません。わたしたちは、主イエス・キリストの十字架のゆえにすでに神の御国の一員にされ、永遠の命に入れられているのです。だから、どんなことがあっても、主イエスから離れることはできません。この世の誘惑によって自分の信仰を捨てることはできないのです。弟子への道を守り通さなければならないのです。そのことへの真剣さを、主イエスは12弟子たちやわたしたちに求めておられるのです。

 

弟子への道は、「人は皆、火で塩味を付けられる」と、主イエスは言われています。

 

塩は、命にとって大切なものです。食料に味を付ける薬味として、腐敗から守る防腐剤として用いられました。神殿で主なる神に全焼のいけにえを献げる時、穀物のささげものをする時、塩が用いられました。医療や宗教的清めにも用いられました。

 

弟子への道は、火という試練によって清められることを言われているのでしょう。主イエスが受難の道を御自身のヘリ下りによって歩まれたように、12弟子たちとわたしたちキリスト者は、苦難の道をヘリ下りによって歩まなければなりません。ヘリ下りという塩が無ければ、弟子への道は傲慢になるか、自己憐憫に陥ることでしょう。そこには主イエスに信頼して歩む信仰はありません。

 

主イエス・キリストに信仰によって結ばれたキリスト者の新しい生き方は、受難の主イエスを模範として、苦しみに耐え、ヘリ下りと奉仕の業をし、兄弟姉妹が互いに平和を保つことです。

 

平和に過ごしなさい」は、平和を保つ、平和に過ごす、平和に暮らすという意味です。主イエスは、12弟子たちに御自身の救いの担い手として、互いに平和を保ち、過ごす共同体を建て上げ、持続するように命じておられるのです。

 

主イエスが受難の道を歩み始められた時、彼らはその旅の途上で誰が弟子たちに中で一番偉いかと争っていたのです。

 

主イエスは、12弟子に言われているのです。御自分に従って弟子の道を歩む者は、互いに争うのではなく、互いに平和を保ち、過ごしなさいと。

 

平和は、シャロームです。神の義が確立し、神との和解によって神との正しい関係の中で、わたしたちが主なる神を信頼し、心に平安があり、兄弟姉妹の間に相互の絆がある状態です。ヘリ下り、主なる神に従う者に、主なる神がお与えくださる神の賜物です。

 

このように弟子への道は、主イエスに従う弟子たち相互の関係を規定するのです。主イエスの苦難とヘリ下りによって、弟子への道が苦難を耐え忍び、ヘリ下りと奉仕の道であることが定められているのです。弟子への道は主の僕への道であるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第94250節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝は、弟子への道が兄弟姉妹に対して配慮し、つまずかせない道であり、自分がつまずいて、主イエスから、信仰から決して離れない道であり、ヘリ下りによって苦難を耐え忍び、兄弟姉妹と平和を保つ道であることを学びました。

 

現実は程遠いですが、聖霊の導きを通してヘリ下り、苦難と誘惑に耐え、兄弟姉妹と共に平和に過ごせるようにしてくださると信じます。

 

どうか、悪からお救いください。人をつまずかせることも、自分がつまずくこともありませんように。

 

上諏訪湖畔教会が、そしてこの世にある教会が十字架のキリストの尊い血によって贖われた群れであることを信じさせてください。

 

どうか、互いに相手を尊び、兄弟姉妹の絆を強めてください。

 

今朝は共に主イエスに招かれて主の晩餐に与ります。共にパンを食し、ぶどう酒を飲み、わたしたちの国籍が天にある事を信じさせてください。

 

アドベントにこの世に生まれられた主イエス・キリストを瞑想させてください。

 

クリスマスへと心を整え、再臨のキリストを待ち望ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教48              20201213

イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫と離縁して他の男を夫とする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

                 マルコによる福音書第10112

 

説教題:「主イエス、離婚について教える」

 

今朝は、マルコによる福音書第10112節の御言葉を学びましょう。

 

マルコによる福音書において主イエスの活動は、三つに分けられます。ガリラヤ地方とその周辺(19)、今朝の10章のペレア(エルサレムへの旅)。そしてエルサレムにおける主エスの活動(1116)です。

 

この区分に従うと、主イエスのガリラヤ宣教は9章で終わりました。再びガリラヤがスポットを浴びるのは、復活の主イエスが11弟子たちとお会いになる時です。

 

さて、マルコによる福音書101節を御覧ください。「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。

 

イエスはそこを立ち去って」とは、主エスがガリラヤ地方のカファルナウムの町を去られたのです。

 

マルコによる福音書は933節で「一行はカファルナウムに来た」と記しています。そこで12弟子たちはだれがいちばん偉い者かを議論していました。それを聞かれた主イエスは彼らにイエスは、12弟子たちに受難の主イエスに従う弟子への道をお教えになりました。

 

さて、主イエスは12弟子たちと共に、カファルナウムの町を去り、エルサレムの都へと向う旅に出られました。

 

その旅の道は、ガリラヤからエルサレムに向けてユダヤ人たちが巡礼する道でありました。ユダヤ人たちは、途中サマリア地方を避けて、ヨルダン川の向こう側、すなわち、ヨルダン川の東にあるペレア地方を通ってエルサレムに行きました。

 

マルコによる福音書は、1032節で「一行がエルサレムへ上って行く途中」と記していますので、主イエスと12弟子たちも同じ道を通ってエルサレムへの旅を続けたでしょう。

 

場所が変わっても、群衆たちが主イエスのところに集まって来るのは変わりません。主イエスがペレア地方のある町に滞在されると、群衆が集まって来ました。

 

 主イエスが癒しの奇跡をなさったかどうかは分かりません。マルコによる福音書は、「群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。(10:1)と記しています。

 

 そこにファリサイ派の人々がやって来ました。主イエスは、彼らと離婚について議論されています。

 

ファリサイ派の人々が近寄って」と、マルコによる福音書が記しています。

実はマルコによる福音書はファリサイ派の人々を主イエスと論争する時にのみ登場させています。

 

また、マルコによる福音書は、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が一緒に主イエスを殺そうとしたことを記しています。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(3:6)。「人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。(12:13)

 

このようにマルコによる福音書は、ファリサイ派の人々を、主イエスを殺そうとする狡猾な者、殺意を持つ者として描いています。

 

だから、今朝の御言葉でもこのように記しています。「ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。(2)

 

イエスを試そうとしたのである。」と、マルコによる福音書はわたしたち読者に説明していますね。ファリサイ派の人々が主イエスを罪に陥れようとしたということです。

 

古代のユダヤ人社会は、男性優位の社会です。ファリサイ派の人々の質問も、夫の立場からなされています。「「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」」と。

 

マルコによる福音書は、ファリサイ派の人々のこの質問を、わたしたちの価値判断を伴う議論として、この福音書の物語の文脈に組み込んでいます。

 

 簡単に言えば、主イエスがファリサイ派の人々と結婚・離婚について議論されていることは、わたしたちの教会生活、キリスト者の生活にとって価値のある重要なことであるということです。

 

 マルコによる福音書はわたしたち読者にそのことを確認させるために、主イエスとファリサイ派の人々の会話を手段として利用しているのです。

 

 ファリサイ派の人々は、主イエスに「夫が妻に離縁状を渡して、去らせることは律法に適っているか」と質問しました。

 

 「適っている」は「許されている」、「自由である」ということです。正しいと言ってもよいでしょう。

 

彼らは、主イエスに夫が妻に離縁状を渡して去らせることは、律法で許されているのかと質問したのです。

 

ファリサイ派の人々の質問には答が予めありました。それは、モーセ律法です。

 

だから、主イエスは、彼らの質問に答えるのではなく、逆に問い返されたのです。彼らの答を引き出されるためでした。

 

イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。(34)

 

主なる神がイスラエルの指導者、神と民の仲保者モーセを通して神の民に律法を授けてくださったのです。

 

旧約聖書の申命記241節、そこでモーセはこう述べています。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。

 

ファリサイ派の人々は、モーセのこの律法によって「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。

 

許しました」と彼らが答えているように、彼らは夫が妻に離縁状を渡して去らせることは、モーセが許したのだと理解しました。

 

ところが、主イエスは、彼らのように解釈されません。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。(5)

 

主イエスは、彼らに言われました。離婚についてのモーセ律法は神の御意志ではなく、モーセがイスラエルの民の心が頑なで、主なる神に対して素直でなかったから、書いたものだと。

 

以上のようにマルコによる福音書は主イエスとファリサイ派の人々が離婚について議論したことを記しています。

 

わたしたちは、主イエスとファリサイ派の人々の会話を通して、ユダヤ人たちの離婚の問題が扱われているのではなく、教会における、あるいはキリスト者の生活における離婚の問題が扱われているのだという点を見過ごしてはなりません。

 

その点をよく理解しますと、主イエスが創世記127節と224節の御言葉に基づいて、モーセ律法が許可した夫の離婚権を否定されていることがよく分かると思います。

 

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(69)

 

主イエスは、モーセの許可よりも主なる神の創造と秩序を優先されました。

 

マルコによる福音書の時代は、ローマ帝国の支配下にキリスト教会が存在した時代です。現代と同様にマルコによる福音書の時代の異邦人キリスト者たちは、ローマ帝国のギリシャ・ローマ文化に影響されました。特に離婚の問題はキリスト教会において大きな問題でした。

 

この離婚の問題を、どのように教会において、あるいは主イエスの弟子であるキリスト者として解決するのか、その重要性が今朝の御言葉なのです。

 

主イエスは、離婚を否定されています。その根拠は、神の創造と秩序です。神は、人を男と女に創造され、彼らを一つに合わされました。それが結婚です。だから、夫と妻は別々ではありません。神の意志によって一つに合わされた一つの体なのです。まさにキリスト教会が頭であるキリストと一つに合わされた体であるように、夫婦も神が合わされた一つの体であります。

 

だから、主イエスは、次のように命令されます。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。

 

ファリサイ派の人々は、夫の立場に立って、モーセ律法を根拠に夫が妻に離縁状を渡して去らせることを許可しました。主イエスは神の創造と秩序を根拠に、神が合わされた者を離れさせてはならないと命令されました。

 

離婚は主イエスの命令に対する反逆になると、マルコによる福音書はわたしたちに伝えているのです。

 

だから、離婚は、教会にとって夫婦の人間関係の問題だけではありません。主イエスとわたしたちの問題であり、主イエスに従う弟子への道の問題なのです。

 

主エスは、ある家に滞在されていたのでしょう。そこで主イエスは、12弟子たちと離婚について議論され、次のように12弟子たちに言われました。

 

家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫と離縁して他の男を夫とする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(1012)

 

この御言葉は、マルコによる福音書の時代の異邦人教会の状況が反映しています。ローマ帝国時代の異邦人たちはユダヤ人たちとは違い、夫と妻の両者が離婚の権利を持っていました。だから、マルコによる福音書は夫だけではなく、妻にも、主イエスの御言葉を適用しているのです。

 

それは、キリスト教会の中でモーセ律法を超えて、主イエスの御言葉が教会の規範となり、ユダヤ人だけではなく、異邦人キリスト者たちも主イエスの御言葉に基づいて離婚の問題を解決しようとしたことの歴史的証拠であります。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第10112節の御言葉を学ぶ機会を与えられ、感謝します。

 

今朝の主イエスが離婚について教えられた御言葉は、教会における、主イエスの弟子であるキリスト者の生活における問題であり、解決への道です。

 

離婚について、教会とキリスト者が真剣に考えることは、今も重要です。どうか、神の創造の初めから神が男と女を創造し、二人を結び合わされたことを常に心に留めさせてください。

 

主イエスが命じられました神が合わされた者を、人が引き離してはならないという御言葉に従うことができますようにしてください。

 

どうか、次週のクリスマス礼拝で共に御言葉と聖餐の恵みに与らせてください。礼拝後の交わりを祝してください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教49              202113

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

                 マルコによる福音書第101316

 

説教題:「神の国と子供」

 

あけましておめでとうございます。

 

今年もコロナウイルスの災禍は続いています。主に守られて、今年一年共に礼拝に励みましょう。兄弟姉妹の上に、契約の子供たちの上に、そしてご家族や友たちの上に今年のお守りと平安をお祈りします。

 

今年も昨年に続けて、マルコによる福音書を学びましょう。

 

これまでマルコによる福音書の1章から1012節まで学びました。

 

マルコによる福音書は、11節の表題に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とありますように、神の子主イエス・キリストの福音を物語っています。

 

マルコによる福音書は、主イエスがユダヤの荒れ野で洗礼者ヨハネから水で洗礼を授けられた出来事から語り始めました。その時聖霊が鳩の姿で主イエス・キリストの上に降り、天から父なる神の御声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(マルコ1:11)と。これは、父なる神が主イエスを神の子、メシアとして宣言されたのです。

 

マルコによる福音書にとって主イエスは、神の子であり、メシアであります。この世の終わりにおいてわたしたちをお救いくださいます。

 

神の子イエス・キリストは、荒れ野でサタンの誘惑に打ち勝たれて、ガリラヤで福音宣教されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:1415)と。

 

主イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩かれ、四人の漁師たちを弟子に招かれました。ペトロとアンデレ兄弟とヤコブとヨハネ兄弟です(マルコ1:1620)

 

主イエスは、安息日にカファルナウムの町の会堂で福音宣教し、悪霊を追い出し、病人を癒す奇跡をされました。

 

大勢の群衆が主イエスのところにやって来ました。主イエスは彼らにたとえで神の国について話され、彼らが連れて来た悪霊につかれた者たち、病人や体の不自由な者たちを癒されました。

 

そして徴税人のレビを弟子に召され、ユダヤ社会で虐げられ、蔑まれていた人々と共に食事をされました。

 

それゆえに主イエスは、ユダヤの宗教的指導者たち、すなわち、サドカイ派の人々、ファリサイ派の人々、律法学者たちとから憎しみを買いました。彼らは主イエスを悪霊のかしらによって悪霊を追い出していると非難し、殺そうと相談しました。

 

主イエスは、ガリラヤとその周辺の異邦人たちの地で数々の奇跡をされました。嵐を静め、湖の上を歩く奇跡をされました。そして5000人と4000人をパンで養う奇跡をされました。しかし、12弟子たちは主イエスがメシアであることを理解することができませんでした。

 

主イエスは、12弟子たちに御自身の権能を授けられました。そしてガリラヤ宣教に遣わされました。

 

それゆえにガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの目にも止まるようになりました。

彼は、主イエスを彼が殺した洗礼者ヨハネが生き返ったと思いました。

 

ヘロデのように世の人々は、主イエスについていろいろと噂しました。洗礼者ヨハネが生き返ったとか、昔の預言者の一人だとかと。

 

主イエスは、12弟子たちだけを連れて、ピリポ・カイザリア地方に行かれました。そこで12弟子のひとり、ペトロが主イエスを「あなたは、メシアです」信仰告白しました(マルコ8:2730)

 

しかし、ペトロは主イエスについて無理解でした。だから、主イエスが第1回目の受難予告をなさると、彼は主イエスのエルサレム行きを反対しました。

 

その後、主イエスはペトロとヤコブとヨハネを連れて、ある山に登られました。そこで主イエスはモーセと預言者のエリヤと会見されました。そして主イエスの姿が変容しました。

 

山の麓では残された弟子たちが悪霊につかれた子から悪霊を追い出せずにいました。主イエスは、その子の父親を不信仰から救われ、その子から悪霊を追い出されました。

 

主イエスは、ピリポ・カイザリアからガリラヤのカファルナウムを経て、ユダヤの地であるペレアに入られました。

 

エルサレムへの旅の途中で、主イエスは彼らに第二回目の受難予告をされました(マルコ9:3031)。そして弟子への道を教え、弟子訓練をされました(マルコ9:3350)

 

マルコによる福音書の10章からは、後半に入ります。主イエスと12弟子たちのエルサレムへの旅を記しています。

 

主イエスは12弟子たちに離婚と結婚について、子供と神の国、金持ちと神の国について教えられます。

 

12弟子たちは、主イエスの教えを理解できません。彼らはこの世における出世に心を奪われているからです。

 

大まかに復習しました。学びを深めるには、頭を整理することが大切です。何を学んで来たのか、御自分で整理してみてください。

 

マルコによる福音書のテーマは、「神の子イエス・キリストの福音」です。主イエスが語られ、教えられた神の国です。

 

マルコによる福音書は、わたしたちに主イエスがガリラヤ宣教を始められたとき、神の国は到来したと告げています。

 

主イエスは悪霊を言葉で叱られ、悪霊につかれた者たちから悪霊を追い出されました。サタンの支配が主イエスによって克服され、神の国の到来のしるしを示されたのです。

 

神の国は、現在来ていますが、完成は未来のことです。だから、マルコによる福音書は、神の子主イエスを、この世の終わりにおいてわたしたちを救うメシアとして告げ知らせているのです。

 

マルコによる福音書の主イエスが告げられる神の国は、神の愛と同じです。神の国は神の支配という領域ですが、それ以上に神の愛という表現がぴったりします。

 

無制限な神の愛です。

 

子供と神の国について、主イエスの御言葉と教えを聞いてみましょう。

 

聖書の後ろに聖書地図が付録としてあります。聖書地図の6番目が新約聖書の時代のパレスチナです。それを参考にして、主イエスと12弟子たちのエルサレムへの旅を辿ってみてください。ピリポ・カイザリアからカファルナウムを経て、ヨルダン川の東側のペレアを通って、エルサレムの都に行かれます。

 

ペレアの地方でも主イエスが滞在されている噂を聞きつけて、大勢の群衆が押し寄せてきました。

 

マルコによる福音書は、「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。(13)と記しています。

 

大勢の群衆たちは、自分たちの子供たちを連れて来ました。その目的は、主イエスに彼らの子供たちを触れていただくためです。

 

触れるという行為で、マルコによる福音書は二つ意味を示しています。第一は病を癒す行為です。長血を患っていた女性は、主イエスに触れて癒されました。逆に主イエスが病人に触れて癒しの奇跡をされています。第二は、16節のように主イエスが子供たちの頭に手を置かれて祝福されることです。

 

今朝の御言葉は、大勢の群衆たちが自分たちの子供たちを主イエスのところに連れて来て、主イエスの祝福を願ったのでしょう。

 

ところが、12弟子たちは、親たちの行為を叱りました。「弟子たちはこの人々を叱った。(13)。「叱った」は主イエスが悪霊に「黙れ」と叱られた言葉と同じです。言葉で強く命令することです。

 

12弟子たちにとって子供たちは邪魔な存在でした。だから、彼らは、主イエスのところに子供たちを連れて来る人々に強い言葉で叱って、連れて来るなと命令したのです。

 

主イエスは12弟子たちの振る舞いを見て、憤られました。そして主イエスは、彼らに次のように言われました。「「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(1415)

 

子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」という主イエスの御言葉が、今朝の御言葉の中心です。

 

妨げてはならない」という主イエスの御言葉は、マタイによる福音書で主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとされた時に、出てきます。洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けることを躊躇します。その時に主イエスはヨハネに「止めないでほしい」と言われています。それが「妨げてはならない」という言葉です。

 

この言葉は、人が神の救済の御計画に反対して持ち出すいろいろな障害を言い表す言葉として使われています。

 

子供たちが主イエスの所に来て、主イエスから祝福されることは、神の救済の御計画なのです。それを12弟子たちは、子供たちを邪魔者扱いして、主イエスから遠ざけようとしたのです。

 

主イエスの「神の国はこのような者たちのものである」は、「神の愛はこのような者たちのものである」という意味です。主イエスは、親たちが連れて来た子供たちを祝福しようとされました。実際に16節でマルコによる福音書は、そのように記しています。

 

主イエスが告げ知らされる神の国は、無制限な神の愛と同じものです。神の一方的な恵みの愛であります。

 

だから、主イエスは、無条件に「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われるのです。

 

子供のように」とは、小さな者、邪魔扱いされる者、貧しい者、人々に蔑まれている者たちです。彼らは、親が主イエスのところに連れて来た子供たちのように、ただ主イエスに愛され、祝福され、神の御国に入るのです。

 

主イエスは、マタイによる福音書の第5章で8つの幸いを教えられました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

 

主イエスの愛が心の貧しい人々に向けられているのです。だから、心の貧しい人々は神の国に、神の愛の中に入れるのです。

 

主イエスが子供に向けられている無条件の愛が子供たちを神の御国に、神の愛の中に入れているのです。

 

ヨハネによる福音書の主イエスの御言葉で表現するのであれば、こう主イエスは言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。(ヨハネ15:12)

 

神の国は神の愛です。主イエスの愛です。主イエスに愛された者が、子供たちのように無条件で神の国に、神の愛の中に入るのです。

 

貧しい人であろうと、女性であろうと、老人であろうと、この世で蔑まれ、社会的格差の中で苦しんでいる者であろうと、病人であろうと、主イエスは愛してくださいます。

 

そして、神の救いの御計画の中にある者たちは、子供たちのように主イエスのところに来るのです。

 

教会の毎週の礼拝は、主イエスのところに集まることです。そこで今朝の御言葉によって主イエスは、わたしたちを愛すると言ってくださるのです。

 

教会が伝えている喜びの福音です。キリストの十字架の愛です。神の国に入るとは、主イエスの愛の中に入ることです。主イエス・キリストの十字架によってわたしたちは、罪を赦され、キリストの復活によって永遠の命をいただくのです。

 

今朝の主イエスは子供と神の国のお話をなさり、わたしたちを新しい振舞に導かれているのです。

 

どうか主イエスに注目してください。

 

主イエスは無条件に子供たちが御自身の所に来ることを認めてくださっています。それは、主イエスが子供たちを無条件に愛されているからです。

 

主イエスは、子供たちを愛され、子供たちを抱き上げ、彼らの頭に手を置かれ、彼らを祝福されました。

 

今主イエスの御言葉を聞いているあなたがたにも、主イエスは同じことをしてくださるのです。主イエスはあなたがたを愛してくださいます。この礼拝であなたがたの罪を赦し、永遠の命を得る機会をお与えくださいます。

 

だから、この礼拝においてあなたがたは主イエスの愛をいただく好機の中にいるのです。今あなたがたは主イエスの愛の中に、今ある神の国の中に、そして、来るべき神の永遠の愛の中にいるのです。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、昨年に続き、新年にマルコによる福音書を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝の主イエスの神の国と子供のお話を通して、主イエスの愛と神の国との関係を知ることができて感謝します。

 

どうかマルコによる福音書の群衆たちのように、わたしたちも熱心に主イエスのところに、この礼拝へと集まらせてください。

 

どうか、わたしたちの子供たちも一緒に礼拝に与らせてください。

 

主イエスは、常に神の救いの御計画に従い、わたしたちに御自身の十字架の愛を向けてくださり、わたしたちを子供たちのように無条件に神の御国に入れてくださる事を感謝します。

 

どうか、今年一年間、主に愛された者として、互いに愛し合い、主に在る交わりを深めさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

マルコによる福音書説教50              2021110

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる者が先になる。」

                 マルコによる福音書第101731

 

説教題:「金持ちと神の国」

 

マルコによる福音書は、第10章から後半に入ります。主イエスと12弟子たちのエルサレムへの旅を記し、その途上における出来事を記しています。

 

その出来事とは主イエスが12弟子たちを教育し、訓練されたのです。主イエスは、彼らに離婚と結婚について、子供と神の国について教えられました。

 

今朝は、金持ちと神の国について教えられています。

 

マルコによる福音書は、一つの場面を設定しています。17節前半です。「イエスが旅に出ようとされると」。主イエスと12弟子たちはエルサレムに向けて旅に出ました。

 

すると、「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。」一人の男が主イエスに走り寄って来て、跪きました。彼が主エスに対して跪いたのは、彼が主イエスを深く尊敬していたからです。彼は主イエスに尋ねたいことがありました。

 

前にもお話ししましたが、「尋ねた」という言葉は、価値判断を伴う議論を物語の文脈に組み込むための重要な文体的手段です。そのためにマルコによる福音書は、主イエスとある一人の男との会話を用いているのです。

 

この男の主イエスへの質問は、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」です。

 

この男は金持ちでした。しかし、彼が大切であると思っていたのは、永遠の命を受け継ぐことでありました。彼は、この世の終わりに神の審判があることを知っています。だから、彼は主イエスに何をすればわたしは神からの報酬として永遠の命を受けることができるでしょうかと尋ねたのです。

 

19節と20節の主イエスと彼の問答を読みますと、彼は子供の時から神の十戒を守っていました。神の律法を遵守してこれまで生きて来たのです。使徒パウロが「律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3:6)と告白しているのを思い起こします。彼も律法の求めることを忠実に守り行なっていたのです。

 

しかし、彼はなお神の審判の前に立てば、神の報酬としての永遠の命、神の御国に入るに、何かが欠けているのではないかと思ったのでしょう。

 

主イエスは彼の望みに答えられました。

 

そこで「イエスは言われた。「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

 

善い」という形容詞は、第一義的に神の無比な善き在り方を示す言葉です。

 

昨日小会がありました。詩編1196572節の御言葉を読みました。詩人は68節で「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」と神賛美しています。

 

他の翻訳聖書を見ますと、「あなたは恵み深く、恵んでくださる方」と訳しているものもあります。新共同訳聖書も、この「善い」という形容詞を他の箇所では「恵み深く」と訳しています。詩編258節です。ダビデは、「主は恵み深く正しくいまし 罪人に道を示してくださいます。」と神賛美しています。

 

このように主なる神は恵み深く、慈しみ深いお方です。

 

旧約聖書は、主なる神を善きお方として証ししています。アブラハム、イサク、ヤコブの族長たちの歴史を通して、モーセの時代の出エジプトや荒れ野の生活、カナンの地の相続の歴史を通して、主なる神は慈しみと恵みに富むお方であることを証ししています。

 

主イエスは、彼を善いお方に導こうされました。ただ無条件にアブラハムを、モーセを、ダビデを神の国に入れられたお方に、彼を招こうとされました。

 

そこで主イエスは、神の律法の義について落ち度のない彼を御覧になり、慈しまれてこう言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。(21)

 

主イエスは、金持ちの男が自分には何か欠けていると思っていた物を具合的に指摘されました。

 

主イエスは、彼を非難されているのではありません。救おうとされているのです。主イエスは彼に愛のまなざしを向けられました。前回神の国と子供のお話で学びましたように、神の国と主イエスの愛は同じです。子供たちは主イエスの愛の眼差しに身を委ね、主イエスの腕に抱かれて、主イエスの祝福を受け、神の国に入れられました。

 

この金持ちの青年も主イエスの愛の眼差しの中に入れられました。彼は主イエスの愛の中にいました。彼は自分が願っていた神の国の中にいたのです。

 

だから、主イエスは彼の願いを叶えられました。彼がすべきことは、一つです。それは、感謝の応答です。

 

主イエスは彼を弟子に招かれました。その召しに応える道は、一つのです。彼は今すぐに家に帰り、彼の持ち物すべてを売り払い、それを貧しい者たちに施して、エルサレムへと旅されている主イエスに従うことです。

 

主イエスと金持ちの青年の会話を通して、マルコによる福音書はわたしたちに本当に価値あるものが何かを教えているのです。「天に富を積むこと」です。

 

それは具体的に言うと、主イエスの弟子となり、善いお方の恵みの中に生きることです。「天に富を積むこと」は、わたしたちの良き行いを述べているのではありません。善いお方の永続する恵みと慈しみを言っているのです。

 

しかし、主イエスの愛の御言葉は、金持ちの青年の心に届きません。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

彼は、主イエスとの会話を通して、本当に価値あるものを選ぶ決断ができませんでした。この世で多くの財産を持っているという、金持ちの価値観を捨てることができませんでした。この世で生きているという命を捨てて、永遠の命に、神の御国に主イエスと共に生きるということができませんでした。

 

金持ちは、主イエスが招かれた善いお方の無限の恵みを受ける自由よりも、この世で多くの財産を持つ方を選び、悲しみながら主イエスの元から去りました。

 

そこで主イエスは、12弟子たちを見回されて言われました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。

 

この金持ちのように、この世の多くの富を持つ者は、この世における富の力、お金の力に囚われて、主イエスの愛を自由に受けることができません。だから、主イエスは、財産ある者が神の国に入るのは難しいと言われるのです。

 

しかし、主イエスの12弟子たちは、主イエスのお言葉が理解できません。なぜなら、ユダヤ人たちは金持ちは神の恵みを豊かに受けている者と考えていたからです。確かにアブラハム、イサク、ヤコブという族長たちは、神の恵みによってこの世で豊かな財産を得ました。だから、弟子たちは金持ちは神の恵みを豊かな受けている幸いな人と思っており、彼らは神の国に入れる者だと思っていたでしょう。

 

ところが主イエスは違います。金持ちのように神と人の間の障害物となるのです。

 

更に主イエスは12弟子たちに語り続けられます。「子たちよ、神の国に入るのは、何と難しいことか。」主イエスは、弟子たちに神の国に入ることの困難さを述べておられます。

 

金持ちのように、人が神の国に入ろうとすることは不可能なのです。それを、主イエスはわたしたちに伝えるために、このようなたとえを語られます。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」主イエスは、金持ちのように人間が自分たちの思いや熱心さで、神の国に入ろうとすることは不可能であると伝えるために。誇張したたとえを話されたのです。

 

だから。12弟子たちの反応は絶望的であります。誰も救われないと、主イエスは言われたと受け止めました。

 

この光景を、わたしたちも体験しているのではありませんか。金持ちのように、あるいは12弟子たちのように、わたしたちも自分たちの熱心さで、一生懸命奉仕し、献金し、善いキリスト者になろうと思います。そこで主イエスがわたしたちに「人が神の国に入ろうとすることは難しいんだよ」と言われると、がっかりし、絶望しないでしょうか。

 

しかし、絶望した12弟子たちを、主イエスが愛の眼差しで見つめておられます。絶望したわたしたちを救うのは、この主イエスの愛の眼差しです。

 

そして、主イエスは、善いお方の愛と恵みを差し出してくださるのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。

 

人には神の国に入ることも、救いも不可能です。しかし、善いお方である神は、恵み深く、人に恵みをお与えくださるお方です。主イエス・キリストの十字架を通して、神はわたしたちの罪を赦し、御自身と和解させ、わたしたちを神の子とし、神の御国を相続させることがおできになるのです。

 

わたしたちは、ただ神を善いお方と信じるだけでよいのです。

 

ところが、またしてもペトロが、主イエスに自分のことを誇るのです。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。(28)。ペトロは言いました。「わたしたちは、金持ちと違う。見てください。わたしたちは、すべての持ち物を捨てて、あなたに従っています」。

 

ペトロに答えて、主イエスは次のように言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる者が先になる。(2931)

 

わたしのためまた福音のために」は、主イエスのエルサレムへの旅を前提にしています。神の子主イエス・キリストの福音です。主イエスは、十字架の道を歩まれました。その主イエスの御後に従い続けることが主イエスの弟子の道であり、「わたしのためまた福音のために」であります。それは殉教への道であります。

 

十字架の主イエスに従い、この世においてすべてを捨てる者は、主イエスが復活されたように復活し、神の御国においてすべてのものを得るのです。

 

そして主イエスは、今の世においても弟子たちや主イエスに従った女性たちのように、主イエスに従って永遠の命を得る者たちが、神の御国に入れられている者たちがたくさんいると言われています。

 

わたしたちもその一人に加ええいただけることを共に感謝しようではありませんか。

 

お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第101731節の御言葉を学べる機会をお与えくださり感謝します。

 

今朝は金持ちと神の国について学べましたことを感謝します。

 

聖書の神が善いお方であり、主イエス・キリストの十字架を通して、わたしたちに恵み深く、豊かな恵みをお与えくださるお方であることを学ぶことができて感謝します。。

 

どうか、わたしたちが主イエスの愛の眼差しの中にあることを心に留めさせてください。

 

わたしたちは、罪人であり、滅ぶべきものです。暗闇の中に絶望したものです。しかし、善いお方は、主イエスを通してわたしたちを愛の光に照らされ、恵みのうちに御国へと導いてくださいます。

 

どうか金持ちのようにこの世に心を向けるのではなく、主イエスの愛の眼差しに、わたしたちの信仰の目を向けさせてください。わたしたちを主エスの愛の中におらせてください。この教会の礼拝を通して御国に至る希望に生かしてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。