マルコによる福音書説教01 2019年7月21日
神の子イエス・キリストの福音の初め。
預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
マルコによる福音書第1章1-8節
説教題:「洗礼者ヨハネ」
本日よりマルコによる福音書を連続講解説教します。
ある牧師はこう述べて、マルコによる福音書の連続講解説教を始めました。「わたしたちは今、福音のはじめのところに立っています。はじめということばに、わたしたちは聖書の中で何度か出会っています。しかし、最も感銘深いのは、聖書の第一ページの第一行目で読むことばでしょう。『はじめに、神は天と地を創造された。』」(渡辺信夫『マルコ福音書講解説教Ⅰ』新教出版社P9)。
旧約聖書の創世記で神が創造されたこの世界の始まりを語るように、マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め。」を語り出します。
マルコによる福音書全体がイエス・キリストの福音です。その福音は洗礼者ヨハネから始まり、彼に洗礼を授けられた主イエスがガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え、エルサレムにおいて十字架刑で死なれ、そして復活し、ガリラヤで弟子たちとお会いになると約束された主イエス・キリストの福音です。
「福音」とは、良い知らせという意味です。それが主イエス・キリストについての福音であります。
初代教会は主イエス・キリストの福音を宣教しました。それは、教会の礼拝の場でありました。使徒たちや彼の弟子たちが説教し、彼らの語る主イエス・キリストの福音は記録され、主イエスの言葉や奇跡の伝承としてまとめられていきました。こうして教会の中に主イエスの受難の物語、主イエスのお言葉を集めた物や奇跡の物語などが保存されました。それらは、マルコによる福音書の著者であるマルコは資料に用い、また、主イエスの生きた姿を描くために、ガリラヤで主イエスを物語る材料を集め、この福音書を書いたのです。
わたしたちにとって福音書という文学形式は珍しいことではありません。新約聖書の4つの福音書があるのは当たり前です。
しかし、初代教会のキリスト者たちにとっては、驚きであったでしょう。ある日、マルコという名の一人のキリスト者がある意図をもって初めて福音書という文学形式で「神の子イエス・キリストの福音」を一冊の書物にしたのです。
彼がこの福音書を書くまで、誰も福音書を書いたことはありませんでした。それまである有名な人物の伝記はありました。しかし、福音書は伝記でありませんでした。なぜなら、この福音書は、偉人伝のように、主イエスの誕生から始めて、彼の生涯の業績を年代順に追って記録していません。
主イエスの生涯は30年、あるいは33年と言われています。しかし、この福音書が記録する主イエスは1年間だけです。
マルコによる福音書の主イエス・キリストの福音は、初代教会のキリスト者たちの信仰から生まれたものです。彼らはメシアである主イエス・キリストとその御業を理解していたでしょう。マルコは、その理解に立って、主イエス・キリストの福音を、しかもこの歴史の中で実際にガリラヤアで生きて働かれた主イエスを、エルサレムで受難し十字架に死なれた主イエスを、葬られた墓が空であった主イエスを、福音書という文学形式をもって描いたのです。
さて、マルコによる福音書は第1章1-13節がこの福音書の前書きであり、福音書の事の始まりです。
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」主イエスは福音をもたらすお方です(マルコ1:15)。同時に主イエスは福音そのものです。
1-8節は、洗礼者ヨハネの記事です。マルコによる福音書の事の始まりは、洗礼者ヨハネの活動から始まります。
初代教会の福音の理解は、何よりも初代教会が主イエス・キリストに関して宣教する良き知らせです。その初代教会の福音宣教の「初め」は、主イエス御自身が彼の人格と御業を通してこの世にもたらされた良き知らせであります。
マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネの活動を通して主イエス・キリストの到来を予告しています。だから、主イエス・キリストの福音は、メシアに先立って遣わされた洗礼者ヨハネの活動から始まっているのです。
マルコによる福音書は、2節で「預言者イザヤの書にこう書いてある。」と、2-3節で次のように旧約聖書の御言葉を引用しています。「「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」」
これは、洗礼者ヨハネの活動がメシアである主イエスの活動に先立つものであることを証明しようとしているのです。
イザヤ書からの引用は3節の御言葉だけです。2節の前半は出エジプト記23章20節前半、後半はマラキ書3章1節からの引用です。これを混合引用と呼んでいます。
2節の「あなた」はメシアであり、「使者」は先駆者です。「あなたの道を準備させよう」はメシアの道を準備することです。
荒れ野で洗礼者ヨハネが活動し、その後主イエスが活動し、神の御国の福音を語る者の声が響く時、主なる神が意志され御計画された福音の時が開始されたのです。
だから、マルコによる福音書は、4節で次のように記しています。「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」
洗礼者ヨハネは、主なる神の御心と御計画に適って、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。
洗礼者ヨハネは、来るべきメシアの到来を告げ知らせ、彼の裁きから逃れるように自らの罪を捨て、心を変えて神に立ち帰るように勧めました。そして、罪を悔いて来るべきメシアに寄り頼む者たちに悔い改めの洗礼を授けたのです。
マルコによる福音書は、6節で洗礼者ヨハネの姿を次のように描写しています。「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。」。
旧約聖書の列王記下1章8節に預言者エリヤの姿が記されています。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました。」洗礼者ヨハネが自分のことを再来のエリヤと自覚していたかどうかは分かりません。しかし、マルコによる福音書はわたしたち読者に洗礼者ヨハネが預言者エリヤの再来と紹介しているのです。
しかし、マルコによる福音書は、7-8節で洗礼者ヨハネが自分とメシアである主イエスを比較して、自分がメシアより劣った者であると証ししたことを記しています。「彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」」
洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼を授けられた者たちに彼とは比較にならないほど優れたメシアの到来を告げ知らせました。彼は王であるメシアの靴の紐をほどく奴隷でもふさわしくなく、また彼は水で洗礼を授けるが、メシアは聖霊で洗礼を授けられると。
洗礼者ヨハネは、メシアの到来を現在形で予告しています。
マルコによる福音書にとってキリストの到来は現実の事なのです。初代教会は約束のメシアの待望をキリストの福音として宣べ伝えているのではありません。旧約聖書の約束のメシアは来られているのです。それが主イエス・キリストです。
こうしてマルコによる福音書がわたしたちに福音として語ります主イエスは、今ここにわたしたちと共に居てくださるお方です。礼拝における説教を通してわたしたちに己の罪を捨てて、主なる神に立ち帰るように促されるお方です。
礼拝における説教を通して福音として提供される主イエスを信じる者に、洗礼を通して御自身の聖霊を与えて、主イエスと共にこの世にあって生きる者としてくださるお方です。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日よりマルコによる福音書の連続講解説教をします。
どうか初代教会のキリスト者たちが主イエス・キリストの福音を聞いて、ガリラヤを歩まれる主イエス・キリストの生きた姿に触れたように、わたしたちおマルコによる福音書の説教に耳を傾け、福音として提供されている主イエス・キリストが今わたしたちと共に居てくださり、わたしたちの御救いをなされていることを、信仰によって見させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教02 2019年8月4日
そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
マルコによる福音書第1章9-11節
説教題:「主イエスの受洗」
マルコによる福音書には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という表題があります。わたしが時折引用します。「ザ ニューイングリシュ バイブル」の英訳聖書は、「ここに始まる、神の子イエス・キリストの福音」と訳しています。
マルコによる福音書は映画館で映画を見ているようです。最初に映画のタイトルが画面に映し出されます。「神の子イエス・キリストの福音の初め」、続いて物語が始まります。その物語は、福音書という文学形式で表現されています。
エジソンが映写機を発明し、わたしたち現代人は映画という全く新しい芸術文化を手に入れました。歴史を、人間を、信仰を、映像と音声によって物語るという表現方法を手に入れたのです。
それまでは文字で、絵画で、音楽で物語るという表現方法でした。中世から近世、そして近代、多くの書物と絵画と音楽によって、歴史を、人を、そして信仰を物語ってきました。
キリスト教も神の子、主イエス・キリストの福音を文字と絵画と音楽によって物語てきました。
マルコは、初めて福音書という文学形式で主イエス・キリストの受難物語と主イエスの御言葉と行われた行為を、一つの小さな書物に仕上げました。
それは、人物伝、偉人伝などの伝記という文学形式ではありませんでした。前回話しましたように、主イエスという一人の人物を年代順にその生涯の重要な出来事を記録し、彼の心理的成長と発展を記録するものではありませんでした。
また、福音書の中には多くの主イエスの御言葉が収集され、彼の教えが記述されています。しかし、福音書は主イエスの教えを体系化し、後のキリスト教のように主イエスの教えを伝えることが目的でもありません。
ある神学者がこう述べています。「初期キリスト教の信仰の中でイエスの全体像が把握され、その全体像がイエスの実際の生涯の記述を枠づけている。言わば、信仰と歴史とが奇妙な仕方で結合したのが福音書である。」
彼は、世界の中には福音書に似たものがあると言います。しかし、彼は続けて述べています。例えば仏陀の伝記、同じ文学形式で仏陀の生涯を物語っても、この福音書とは違ったものであると。彼はその違いこそが福音書を福音書にしているのであり、それが何かを探ることが福音書誕生の秘密を探ることに他ならないと(田川健三『原始キリスト教史の一断面』P1-2)。
マルコはわたしたち読者にこの福音書によって「神の子イエス・キリストの福音」を今物語り始めます。彼が信仰によって理解した主イエス・キリストの全体像をこの福音書の設計図にして、ガリラヤで主イエスが語られた御言葉を、なされた御業を、神の御救いの御業を、主イエスの先触れである洗礼者ヨハネから物語り始めるのです。
洗礼者ヨハネの登場から始めて、主イエスの受洗と荒野におけるサタンの試み、そして主イエスのガリラヤ伝道への筋道は、すでに初代教会の礼拝の中で常に説教され、物語られていて、保存されていたでしょう。
マルコは、「神の子イエス・キリストの福音」という一つの構想をもってこの福音書を書きました。わたしたち読者が讃美歌187番にあるように、ガリラヤで福音宣教される主イエスから命の糧を得るために、今も主イエスの生ける御言葉を豊かにいただくために、彼はこの福音書を書き始めました。
わたしたちが主イエスから生ける糧、すなわち、永遠の命を得るために、マルコは、わたしたち読者にメシアの先触れとして神が遣わされた洗礼者ヨハネを紹介しています。
彼は悔い改めの洗礼を神の民に宣べ伝えました。それは、メシアに道を整えるためでした。だから彼は、彼の前に集まるユダヤの群衆に次のように宣言しました。「来られるメシアの道を歩もうとする者は皆、神の御前に自分の罪を告白し、わたしから水で洗礼を受けなければない」と。なぜなら、神に罪を赦されたことを認める者だけが、神の子イエス・キリストの福音を受け入れることができるからです。
9節の冒頭でマルコは、次のように書いています。「また次のことが起こった、それらの日々に」。彼は、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授けられたという出来事を物語ろうとしています。
「そのころ」は、洗礼者ヨハネがヨルダン川の荒野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた日々です。
マルコは、続いて「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」と記しています。
「イエス」は、「神は救い」という意味です。この名は主イエスが何者で、何をなさるのかを暗示しています。主イエスを通して、神は人を救われるのです。
主イエスは、「ガリラヤのナザレから来て」、洗礼者ヨハネから洗礼を授けられました。
「ガリラヤ」は、エルサレムの都から遠く離れた辺境の地であり、異邦人たちが移住した地域で、ユダア人から異邦人たちの汚れた地と思われていました。ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの領地でした。
「ナザレ」は、ガリラヤ地方の村の一つでした。主イエスが人として30年間生活された場所です。彼は大工のヨセフの子として、ナザレで大工の仕事をされていました。土地を所有しない貧しい者の職業でした。マルコによる福音書は、神の子イエスが普通の貧しい人間としてナザレで30年間過ごした後、洗礼者ヨハネのところに来られたと記しているのです」。
「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」。主イエスは、ヨルダン川でヨハネから水に浸されたのです。本田哲郎氏の『小さくされた人々のための福音』という4つの福音書と使徒言行録の翻訳書では、このように訳されています。「そして、ヨハネからヨルダン川に身を沈めてもらった」。
主イエスが洗礼者ヨハネから罪の悔い改めの洗礼を受けられたことは、初代教会にとっては大きなつまずきであったのです。だから、マルコによる福音書の後に書かれたマタイによる福音書では洗礼者ヨハネが主イエスの洗礼を思い止まらせようとしたと記しています。ルカによる福音書は「洗礼者ヨハネから」という記述は省き、「イエスも洗礼を受けて」と簡潔に記しています。ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネが主イエスに洗礼を授けたという表現を省いています。
だから、マルコにとっても、主イエスが洗礼者ヨハネから罪の悔い改めの洗礼を授けられたという出来事は理解に苦しむものであったのではないでしょうか。しかし、彼はわたしたち読者に福音書でそのまま伝えたのです。
しかし、マルコの関心は次の事でした。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」
マルコは、主イエスが誰であるかに関心がありました。ガリラヤのナザレの村で30年間も、普通の人として生きられた主イエスこそ神の御子であることに。
主イエスがヨルダン川でヨハネから身を浸されて、水の中から出られると、天が裂けました。そして、聖霊が鳩の姿で主イエスに降られ、天から神の御声が聞こえてきました。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。「あなたはわたしの子である。愛される者で、あなたでわたしは喜びを得た。」と訳すことも可能です。この天からの神の声は、神の子としての主イエスの身分を宣言するのです。主イエスは、メシア、神の子に他なりません。
主イエスは、普通の人間として、ガリラヤ地方のナザレの村からヨルダン川の荒野にいる洗礼者ヨハネのところに来られました。彼は貧しい家庭に育ち、人から軽蔑される大工の仕事をし、罪人たちの群れに加わられ、彼らと共に罪の悔い改めの洗礼を授けられ、ヨルダン川に身を沈められました。
マルコによる福音書は、その方が洗礼者ヨハネが預言し、旧約聖書の預言者たちが預言したメシアであり、神の子なのだと宣言するのです。
誰も想像できませんでした。洗礼者ヨハネでさえ、想像できなかったでしょう。だが、神の子主イエス・キリストは、その洗礼によって共に洗礼を受けた人々と、神の御前に罪人であることを告白し、神の罪の赦しを認めた者たちとひとつに連帯されたのです。
洗礼、すなわち、水の中に身を浸すことは、ある意味でその人の死を意味しています。主イエスがヨルダン川で水の中に身を浸されて、主イエスは同様に身を浸した者たちの罪の中に自分を沈められたのです。
そして、主イエスは、水の中から上がられました。普通の人である主イエスが人々の罪を贖うメシアとなられました。だから、天が裂けました。主イエスによって罪人たちに閉ざされていた御国が開かれたのです。そこから鳩の姿で聖霊が主イエスの上に降られました。神の霊が主イエスと一つになり、主イエスに仕え、主イエスのメシアの働きを助けられるのです。
神の御顔を見ることはできません。神の御声を聞くことはできます。神の御声は、主イエスが神の愛する息子であり、神から限りなく愛される者であり、神は主イエスで迷える罪人を救う喜びを得られると語り掛けているのです。
昔神は、アブラハムと恵みの契約を結ばれ、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束されました。神は、アブラハムに一つの試練を与えられました。約束の子、愛するイサクを神の犠牲に献げよという命令です。アブラハムはモリヤの山に愛する息子イサクを連れて行き、神に献げようとしました。しかし、神はイサクに代わり一匹の雄羊を備えてくださっていました。
その一匹の雄羊こそ神の子主イエス・キリストです。神は、イサクに代わり、神の愛する独り子主イエス・キリストをエルサレムの十字架に献げようとされているのです。
どうか、ここで洗礼が行われるごとに、主イエスの受洗を思い起こしてください。そして神は、わたしたちの罪のために愛する神の息子、神の子イエス・キリストを十字架に犠牲として献げられたことを繰り返し感謝しつつ、世の人々に宣べ伝えてください。
この教会の宣教を通してそれを聞く者たちの心に聖霊を通して信仰が生まれるのです。信仰は聞くことから、マルコによる福音書の神の子イエス・キリストの福音を聞くことから始まるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちにマルコによる福音書を通して、神の子イエス・キリストの福音を聞かせてください。
ガリラヤを歩まれる主イエスのお姿と救いの働きを、この福音書を通して思い起こし、今も福音宣教を通してわたしたちに豊かな命の糧を与えてくださっている恵みを、信仰によって見させてくださり、御言葉と聖礼典を通して味わわせてください。
マルコによる福音書の説教に耳を傾け、今福音としてわたしたちに提供されている主イエス・キリストを、わが救い主と信じ、主と共に今を生きる喜びで、わたしたちの心を満たしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教03 2019年8月11日
それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
マルコによる福音書第1章12-13節
説教題:「主イエスの試み」
今朝は、マルコによる福音書第1章12-13節の御言葉を学びましょう。
神の子主イエス・キリストがサタンから誘惑を受けられた物語です。
12節の冒頭に「それから」という接続詞があります。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を授けられ、天が裂けて、そこから鳩の姿で聖霊が主イエスに降られました。その時に主イエスは天から神の御声をお聞きになりました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)。
神の御子である主イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられ、罪ある者と一つとなられ、罪ある者たちを救う救い主の働きを始められました。
神は御自分の愛する子がこれから十字架の道を歩むことを、喜び、「わたしの心に適う者」と主イエスに呼びかけられました。
主イエスが洗礼を受けられると天が裂け、御国の入口が開かれました。そして、主イエスと同様に水で洗礼を受けた者は主イエスの弟子であり、彼らは主イエス同様に聖霊を授けられて、開かれた御国を相続する神の子とされるのです。
さらに主イエスは、聖霊に導かれて救い主、神の子の働きを始められます。それが、12節の「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」という御言葉です。
この「“霊”」は、ここでは聖霊という意味です。洗礼者ヨハネが主イエスに洗礼を授け、主イエスが天から聖霊を受けられて以来、主イエスの活動は常に聖霊に導かれ、守られ、聖霊の御力によって主イエスは悪霊を追い出され、病気を癒され、奇跡を行われます。
だから、マルコによる福音書は、「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」と記しています。
「送り出した」と過去形ですが、マルコは「送り出す」と、現在形で書いています。マルコは、現在形を用いて活き活きと主イエスの救い主、神の子の御業を描いているのです。
続いて13節前半で、聖霊が主イエスを荒れ野に送り出された目的を、こう記しています。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。」
主イエスは、40日間荒れ野に留まり、サタンから誘惑を受けられました。
「荒れ野」は、ヨルダン川低地の荒野です。主イエスの公生涯、すなわち、福音宣教は、荒れ野で始まります。聖霊に導かれて主イエスは、40日間ヨルダン川沿いの低地の荒れ野で過ごされ、サタンから誘惑を受けられました。
預言者イザヤは、「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ40:3)と預言し、洗礼者ヨハネがメシアの道を、荒れ野に備えました。
主イエスは洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼によってメシアの道を備えた荒れ野で救い主の働きを始められたのです。
それが、主イエスが洗礼を授けられた出来事に続いて、主イエスがサタンから誘惑されたという出来事でありました。
マルコによる福音書は、サタンが主イエスをどのように誘惑したかという内容は記していません(マタイ4:1-11,ルカ4:1-13)。
しかし、荒れ野が人の肉体にとって困窮の場所であることとサタンから誘惑を受けられたのが主イエスであることは明白です。
マルコは、初代教会の主イエスについてのこの短い物語伝承を用いて主イエスがサタンの誘惑に勝利されたことを伝えようとしているのです。
サタンの誘惑の目的は、神が愛する子、心に適う者と言われた主イエスを、神に不従順な者に誘惑すること、それによって主イエスの救い主としての資格をはく奪することでした。
主イエスは、サタンの誘惑を退けられることで、天が裂かれ、御国の入口が開かれ、わたしたちをその御国の相続人として入れるようにしてくださったのです。
ここにはっきりと書いていないので、わたしたちは推測する以外にありません。旧約聖書の創世記第3章で人類の代表者であるアダムとその妻エバが蛇、すなわち、サタンから誘惑を受けて、主なる神が禁じられた善悪を知る木の実を取って食べました。彼らの不従順によって人類は堕落し、御国の入口が閉ざされました。
しかし、主イエスがサタンからの誘惑を退けられたので、主イエスを信じるすべての者たちに御国の入口が開かれ、御国へと招かれるのです(マルコ1:14-15)。
その喜びの象徴が13節後半の御言葉です。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」
主イエスは獣と共存されていました。神が世界を造られ、人間や獣を造られた時、アダムとエバは獣たちと共存していました。
そして天使たちは、荒れ野で主イエスに仕えていました。
「仕える」は、本来食卓の世話をすることです。給仕の仕事です。それが広く生計のために配慮するという意味となり、一般に仕えるという意味になりました。奴隷が主人に仕えるという従属関係ではなく、誰それの利益を図ってなされる奉仕という意味です。
天使たちは、荒れ野で主イエスの食事を世話し、主イエスに仕えていたのです。
さて、今朝の御言葉から「試みられる」ことと「仕える」ことを思い巡らせて、わたしたちの今の信仰を、主イエスの弟子としての歩みを顧みたいと思います。
主イエスがサタンから誘惑を受けられたのは、救い主の使命を果たすためでありました。しかし、主イエスが洗礼を受けられて、わたしたち罪人とひとつに連帯されたように、主イエスがサタンから誘惑され、父なる神に十字架の死に至るまで従順を示されたのは、洗礼を授けられ、聖霊をいただき、聖化の道を歩むわたしたちのためでもありました。
主イエスが父なる神に仕えて、十字架の道を歩まれたように、わたしたちも主に仕えて、御国への道を歩むのです。わたしたちにとってこの世は荒れ野です。主に従い、主に仕えて、聖化の道を歩もうとするならば、わたしたちも主イエスのように試練に向けて備えなければなりません。謙虚に聖霊に依り頼み、サタンからの誘惑、この世からの誘惑に対して備えていなければなりません。
御国に至るまでには、この世でわたしたちは多くの苦難を、試みを経なければならないでしょう。サタンとこの世からの誘惑に打ち勝てる道は一つです。主イエスのように聖霊に依り頼むことです。
次に仕えることは、主イエスによって方向付けられているキリスト者の大切な態度です。
わたしたちにとって奉仕は、神の愛と恵みに対する応答です。だから、奉仕は自分のために、自分の利益のためにするのではありません。隣人の益のために、神を愛するゆえに奉仕するのです。
主イエスは御自身の命をわたしたちに献げて、わたしたちに仕えられました。今もこの礼拝を通して、主イエスは御言葉と礼典によってわたしたちの救いのために仕えてくださっています。わたしたちは主に愛されたから、主と隣人を愛するのです。それをわたしたちの生活で表現するならば、奉仕であると思います。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第1章12-13節の御言葉を学び機会を与えられ、感謝します。
サタンから誘惑された主イエスは、聖霊に依り頼まれて、サタンに打ち勝たれました。
わたしたちも聖霊に依り頼み、聖化の道を歩み、サタンとこの世の誘惑に備えさせてください。
天使たちが主イエスに仕えたように、わたしたちも神の愛と主イエスの恵みに応えて隣人の益のために仕えることができるように導いてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教04 2019年8月18日
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
マルコによる福音書第1章14-15節
説教題:「主イエス、ガリラヤで伝道開始」
今朝は、マルコによる福音書第1章14-15節の御言葉を学びましょう。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(14、15節)。
荒れ野で罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに逮捕され、牢に入れられた後に、主イエスは、荒れ野からヘロデ・アンティパスの領地であるガリラヤ地方に行かれて、伝道を開始されました。
マルコによる福音書は、主イエスがガリラヤで宣教活動された基本方針を簡潔にまとめて記しています。それが14節と15節の御言葉です。
「捕らえられた」は、引き渡すという言葉です。洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスが兄弟の妻であったヘロデアを妻に娶ったことを不義として非難しました。マルコによる福音書は、6章14節から29節に洗礼者ヨハネが殉教したことを記しています。
後に主イエスも洗礼者ヨハネと同じように、ヘロデ・アンティパスとエルサレムの権力者たち、そしてローマ総督ポンティオ・ピラトらに迫害され、十字架への受難の道を歩まれます。
マルコによる福音書は、洗礼者ヨハネが捕らえられた後に、主イエスがガリラヤ伝道を始められ、同じ道をたどられることを暗示しているのです。
マルコによる福音書は、主イエスが「ガリラヤに行き」と、主イエスが主に宣教活動をされた場所を記しています。
「行き」という言葉は、「来る」とも訳せます。主イエス・キリストが来ることと神の国が来ることは同じ意味です。主イエスがガリラヤに来られたと同時に、ガリラヤに神の国が来たのです。
マルコによる福音書は、主イエスがガラテヤに行かれたのは、「神の福音を宣べ伝え」るためであったと記します。
神の福音の宣教こそ、マルコによる福音書の要です。「福音」は、神に関する、あるいは神から来る良き知らせという意味です。それがキリストに結び付けられて、キリストに関する、あるいはキリストから来る良き知らせという意味になりました。
マルコによる福音書は、「神の福音を宣べ伝える」という言葉をこの福音書で7回用いています。マルコによる福音書は初代教会で用いられていた表現をそのまま用いています。
しかし、マルコによる福音書が独特なことは、主イエスを神の福音の宣教者としていることです。1章1節の「神の子イエス・キリストの福音」を、マルコによる福音書は、神の子イエス・キリストによる福音と理解しているのです。
だから、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とは、マルコによる福音書が初代教会のキリストについての福音宣教からキリストによる福音宣教に立ち帰ったということです。過去の出来事である主イエス・キリストが福音宣教されたことを、教会の在り方の規範にしようと試みたのです。
だから、過去において主イエスがどんな福音宣教をされたか、それを知識として知る事が大切なことではありません。むしろ、今ここで聖霊を通して復活の主イエスがわたしたちにマルコによる福音書を通して語られることに、どのように応答するのかを問いかけられているのです。それがキリストの福音宣教に対する教会の在り方です。
主イエスは言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。文字通りには、「満ちた、時は、そして近づいた、神の国は。あなたがたは悔い改めよ、そして、福音において信ぜよ」。
主イエスが言われたのは、時が満ちたことだけでありません。むしろ、神の国が近づいたという告知です。
マルコによる福音書は、14節と15節で主イエスの福音宣教を総括しています。神が御計画された時が今ガリラヤで主イエスが福音宣教されることで実現されました。主イエスはガリラヤで神の御救いを開始されました。
しかし、主イエスがガリラヤに現れて、神の国は現在のものとなりましたが、なお将来のことです。「近づいた」は、戸口に来たということです。主イエスは、今や神の国が戸口のすぐそこに来ていると言われました。
主イエスが言われる神の国は、福音宣教を聞いている人々の心の扉をたたいているが、実現してはいません。だから、主イエスは、福音宣教を聞く者たちに悔い改めと福音を信じるように命じておられます。
「悔い改める」は、心の向きを変えることです。今の状況から離れて、出発点に戻ることです。主なる神との元来の関係へと立ち戻ることです。
それゆえに洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させる洗礼を宣べ伝えた」(1:4)のです。罪からの離反を求めました。人間が為す行いによる救いをすべて捨て、ただ罪の赦しの洗礼にあずかれと、洗礼者ヨハネは人々に伝えました。
主イエスは、悔い改めて、福音においてわたしを信じなさいと命じられました。それは、わたしたちが罪に満ちたすべての過去を捨てることです。キリストの十字架の福音においてキリストをわたしたちの救い主と信じることです。そして、神の国、すなわち、神の恵みの支配にわたしたちの身を委ねて生きることです。
マルコによる福音書にとって神の国の実現は、キリストの再臨の時です。
しかし、今のわたしたちにとって重要なことは、神の国が到来していることでも、将来到来するということでもありません。
今この教会の礼拝で語られている説教を通して、また、教会の伝道、信徒一人一人伝道によってわたしたちの家族やこの町の人々、そして日本中、世界中の人々が今や主イエスとの出会いを通して神の国、神の御支配が心の扉をたたいているということです。
今日、日本中で、世界中で教会は福音宣教をし、説教を聞く者に、福音宣教を聞く者に、キリストに対する態度決定が迫られているのです。それが悔い改めと福音においてキリストを信じることなのです。
福音において提供されるキリストを、これからマルコによる福音書を通して、聖霊に導かれて謙虚に受け入れる者とされたいと願うのです。なぜなら、ここにキリストが再臨された時に信じる者に与えられる終末時の永遠の命が約束されているからです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第1章14-15節の御言葉を学び機会を与えられ、感謝します。
主イエスはガリラヤに行かれたように、今朝この礼拝に来てくださったことを感謝します。
わたしたちは、今朝、主イエスはわたしたちをここに招かれ、聖霊と御言葉によってわたしたちに神の国が近づいていることを告げられました。どうか、わたしたちに神の国が、主イエス御自身がわたしたちの心の扉をたたかれていることを受け入れ、悔い改めと信仰によって主イエスを救い主と受け入れ、主イエスの御後に従う弟子としてください。
どうか、わたしたちが家族に、この町の人々にキリストの福音を伝えて、多くの方々がキリストに出会える機会としてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マルコによる福音書説教05 2019年9月1日
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行った。
マルコによる福音書第1章16-20節
説教題:「人間を取る漁師」
今朝は、マルコによる福音書第1章16-20節の御言葉を学びましょう。
主イエスはガリラヤ伝道を始められました。
マルコによる福音書は、その様子を次のように記しています。
「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(14、15節)。
これは、主イエスがガリラヤで宣教活動された内容を簡潔にまとめたものです。
それに続いてマルコによる福音書は、具体的に主イエスがどのようにガリラヤで福音宣教をなされたかを物語り始めます。
まず主イエスは、弟子たちを召されました。
マルコによる福音書は、その出来事を、次のような描写で記しています。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた」(16節)。
主イエスは、ガリラヤ湖の岸辺に沿って通り過ぎられていたのです。その時主イエスの目に二人の人物が見えました。ペトロとその兄弟アンデレです。
彼らはガリラヤ湖の岸辺で投げ網を打って、魚を取っていました。彼らは漁師でした。
「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」
主イエスは、二人を見て、「わたしについて来なさい」と、お声をかけられました。そして、主イエスは彼らに「人間をとる漁師にしよう」とお約束になりました。
すると、主イエスに呼びかけに、ペトロとその兄弟アンデレが「すぐに投げ網を捨てて従い」ました。
これが、マルコによる福音書の主イエスの弟子召命の記事です。
ペトロとその兄弟アンデレは、漁師たちです。毎日ガリラヤ湖で投げ網を打って、魚を捕り、生活をしていました。
ところが、ある日突然主イエスが彼らの職場に現れ、「わたしについて来なさい」とお言葉をかけられました。彼らにとって主イエスは、見知らぬ人です。しかし、彼らは、その主イエスの一声で彼らの生活の手段である投げ網を捨てて、主イエスについて行きました。
何と驚くべき出来事でしょう。躊躇することなく、考えることもなく、彼らは主イエスの後にこの世のものをすべて捨ててついて行きました。
読者であるわたしたちの目に、今朝の二組の兄弟たちが主イエスに弟子として召され、すぐにすべてのものを捨ててついて行ったというこの記事がどのように見えているのでしょうか。
マルコによる福音書は、わたしたち読者にこの簡潔な文章を通して、主イエスは神の子キリストであることを伝えようとしています。
なぜなら、主イエスの御言葉に、力があり、権威があるからです。それゆえにペトロとアンデレは主イエスの御言葉を聞いて、すぐに行動したのです。主イエスについて行ったのです。
マルコによる福音書は、わたしたち読者にこの記事で次のことを伝えようとしています。彼らは、主イエスに出会うまで、この世で漁師という環境に縛られ、生きていました。しかし、主イエスの御言葉が彼らをこの世の束縛から主イエスへの服従へと導き、彼らは主イエスについて行き、主イエスと共に神の御国の福音を伝えるという生き方に、人生を方向転換させられました。これが神の子主イエス・キリストの御言葉の力であり、権威です。
次にマルコによる福音書は、わたしたち読者に主イエスの「わたしについて来なさい」という御言葉に注目するように促しています。
この御言葉は、全く新しい言葉でした。マルコによる福音書にとって「従う(ついて行く)」は、主イエスの弟子であるという専門用語です。
この時代、ラビという律法学者がいました。彼らは、自分で自分の弟子を見つけて、召し出すことはありませんでした。ラビは、彼を求めてくる者を弟子にしたからです。
ところが、マルコによる福音書はわたしたち読者に、主イエスが自ら弟子を選び、選ばれた者たちは生涯主イエスについて行きます。そして、彼の弟子たちは主イエスを越える者とはならず、生涯主イエスから教えを学び、彼について行くものとなるのです。これがキリスト者です。
主イエスは、御自身の弟子に選ばれたペトロとアンデレに、「人間を取る漁師にしよう」と約束されました。
今聖書を学ぶ集いで旧約聖書のエレミヤ書を学んでいます。エレミヤ書の中に主なる神がエレミヤの口を通して神の民イスラエルに漁師たちを遣わすと言われています。主なる神は、神の民イスラエルに漁師たちを遣わして、釣り上げさせ、神の民が犯している悪を、主の目に隠せない悪を裁くと宣告されています。
だから、漁師のたとえは旧約聖書では主なる神の裁きに用いられました。
ところが、主イエスは、二人を「人間を取る漁師にしよう」と言われました。御自身の裁きのために二人をガリラヤに遣わそうとされているのではありません。
むしろ逆です。
ガリラヤは、異邦人の地、この世の暗闇の地です。ガリラヤ湖は海にたとえられています。まさにガリラヤ湖の嵐は、漁師たちにとって命の危険がありました。まるで人々はガリラヤの海の中で罪に溺れ、永遠の滅びの中にありました。
主イエスは、そこにこの二人を、人間を取る漁師として遣わそうとされました。この世の罪の荒波におぼれて、滅びようとする神の民たちや異邦人たちを裁かせるためではなく、彼らを来るべき神の御国へと招くために。
神の御国を待ち望むキリストの仲間に、ガリラヤの罪人たちを、徴税人たちを、悪霊につかれた者たちを、病気に苦しむ者たちを、羊飼いや身分の低い者たちを取り入れるために、釣り上げるために、主イエスは彼らを「人間を取る漁師しよう」と約束されました。
マルコによる福音書は、主イエスに呼びかられ、弟子に招かれた者たちは、ペトロとアンデレだけでなく、デベダイの子のヤコブとヨハネも即座に主イエスについて行きます。
ヤコブとヨハネは、ペトロとアンデレよりも豊かな漁師でした。舟を持ち、雇人がいました。彼らも主イエスが弟子に召されると、父に相談せず、何の躊躇もなく、彼らは父も雇人も大きな網も捨てて、主イエスについて行きました。
この世の家族もお金も名誉も捨てて、主イエスについて行き、彼らは新しい家族を造るのです。教会という家族を、神の御国の家族を造るのです。
そのために彼らは、主イエスについて行き、ガリラヤで神の御国の福音宣教を通して教会という新しい共同体を造るのです。
今朝の弟子の召命記事で、わたしたちは、キリスト者とは主イエスに呼びかけられ、この世の家族のつながり、命のつながりを捨てて、主イエスについて行き、神の御国へと、永遠の命へと歩む者であることを教えられるのです。
だから、主イエスの「わたしについて来なさい」という呼びかけは、神の御国への呼びかけなのです。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、主イエスの呼びかけに従いました。これが信仰です。
マルコによる福音書にとって信仰は、主イエスの「わたしについて来なさい」という呼びかけに、すぐに従う行為です。これは、呼びかけられた者以外に行動することはできません。
マルコによる福音書は、ある意味でキリスト者の本質をこの弟子の召命記事を通して描き出しているのです。実際は、わたしたちの経験の方が真実に近いでしょう。
主イエスについて行く、キリスト者の歩みは、非常に多くの困難を伴うからです。親を捨て、職場を捨てて、主イエスに従うことが、即座にできるものはむしろ稀です。わたしを含めて多くのキリスト者たちは、躊躇し、ためらい、中々決心できず、むしろ、教会から離れ、まことにゆっくりとした信仰の歩みでしょう。
マルコによる福音書は、多くのキリスト者たちが主イエスについて行きことが遅々とした歩みであることを知っています。しかし、マルコによる福音書はわたしたち読者に伝えたいのです。キリスト者の本質は主イエスについて行くことだと。この世のものを捨て、来るべき神の御国とつながる人生であることを。
だから、キリスト者は主イエスを信じ、主イエスについて行き、悔い改めて、心をこの世からキリストへ、十字架のキリストを通して神の御国へと方向転換するのです。
キリスト者の信仰は、神の存在を信じればよいというものではありません。主イエスについて行かなければなりません。十字架の主イエスと結びつき、その主イエスの愛につながれた者の仲間とならなければなりません。
今から聖餐の恵みに共にあずかりましょう。パンとぶどう酒をいただき、主イエスの十字架の愛を味わいましょう。この教会で主イエスを愛すること、それが神の御国の入口です。永遠の命を得ることなのです。
その喜びに、この世の罪の嵐の中で滅びゆく人々をこの教会に、主イエスの御前に導くことが、主イエスについて行くキリスト者の務めです。わたしたちもペトロとアンデレのように、人間を取る漁師なのです。この世の人々を永遠の滅びから永遠の命へと導かれる主イエスの御後に従い、わたしたちも神の御国の福音宣教に携わろうではありませんか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、マルコによる福音書第1章16-20節の御言葉を学び機会を与えられ、感謝します。
主イエスは、ペトロとアンデレを、ヤコブとヨハネを弟子に召されたように、わたしたちを弟子に召されて、人間を取る漁師にしてあげようと約束してくださいました。
どうか、わたしたちが今朝、主イエスに弟子に招かれ、主イエスについて行くことができるように、聖霊に依り頼ませてください。
どうか、わたしたちがこの世で主イエスについて行き、この世のものに心を奪われず、来るべき神の国に心を向けて歩ませてください。
今から聖餐の恵みにあずかります。わたしたちの弱い信仰を強めてください。この聖餐の愛の交わりを通して、わたしたちの心が主を愛する思いを強め、この世からますます来るべき神の御国へと向かわせてください。
どうか、わたしたちが家族に、この町の人々にキリストの福音を伝えて、多くの方々がキリストに出会える機会としてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。