マタイによる福音書説教018 主の2010年11月7日
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹きならしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
「断食するときは、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
マタイによる福音書第6章1-6節、16-18節
説教題:「神にのみ心を向ける」
今朝よりマタイによる福音書第6章を学びましょう。主イエスは、弟子たちと多くの群衆にガリラヤの小高い山の上で天の国の福音を語られました。
そのお話の中心は、天の国の義でありました。5章20節です。主イエスは弟子たちにはっきりと告げられました。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」
主イエスの山上の説教は、キリスト者たちが主に恵みによっていただいた義を教えているのです。そこで主イエスは、弟子たちに5章21節以下にモーセ律法と昔の人々の言い伝えを6つほど取り上げられました。ユダヤ人たちは、それらを熱心に守りました。しかし、それは形ばかりで、心から神さまに従ったものではありませんでした。なぜなら、彼らは、ユダヤ人とそれ以外の人々を差別していたからです。自分の仲間は愛しても、敵を憎むように教えていました。主イエスは、弟子たちに敵をも愛して、神のお心に完全に従うように教えられました。
主イエスが弟子たちに、そして、わたしたちにお与えくださった義とは、神のみ心に心から従うことでありました。そして、主イエスご自身が弟子たちに、わたしたちにその模範を示されました。主イエスは、そのご生涯を父なる神のお心に心から従われ、十字架の道に歩まれました。それによって主イエスは、神の敵であるわたしたち罪人を愛されました。主イエスは聖霊に導かれて、父なる神の御心に心から従われました。その義を求められました。弟子たちとわたしたちが聖霊に導かれ、キリストの御後に従い、神のみ心に心から従って生きることを求められました。
さて、6章からは、その義について別の面を学びましょう。この義は、わたしたちの態度に深くかかわっています。なぜなら、わたしたちの動機を、主イエスは問われているからです。信仰によって聖霊を通して与えられた義を、わたしたちは心を誰に、またどこに向けて行っているのでしょうか。
義とは、救われた信者の行いです。改革派教会が創立宣言の中で語ります「善き生活」です。だから、聖書は「善行」と「義」を日本語訳しました。ユダヤ人たちは自分たちの「善き生活」を、一つの形にしました。それが施し、祈り、断食です。
「善き生活」は、わたしたちの神に従う信仰生活の義務です。ユダヤ人たちにとって宗教的義務でした。初代教会は、このユダヤ人たちの宗教的義務、「善き生活」を受け継いでいました。施しと祈りと断食が、キリスト共同体の義務として、日常の生活の中で一つの形をなしていました。
だから、主イエスにこの善き生活の態度を教わる必要がありました。主イエスは、弟子たちに律法学者やファリサイ派の人々の施し、祈り、断食を御覧になられて、ずばり言われました。あなたがたの心が神にのみ向くようにして「善き生活」をしなさいと。
義、すなわち、善き生活は、それを行う動機が神にのみ向けられていれば、祝福です。しかし、自分や人に向けてなされると、それは偽善になり、教会にとって呪いとなるのです。
だから、主イエスは、1節にこう言われています。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」
主イエスは弟子たちに命じられました。「気をつけよ。」と。何を、気をつけるのでしょうか。「あなたがたの正しいことを、人々に見られるために、人前でしないこと」です。主イエスの時代に律法学者たちやファリサイ派の人々にとって、善き生活は人に向けて、あるいは自分の名誉のために行うものでした。そのような善き生活は、神に喜ばれないと、主イエスは言われています。
「天の父に報いをいただく」とは、善い行いをして救われるという意味ではありません。救われた者が神からいただいた信仰と義によって、「善き生活」をし、天の父なる神に「よくやった忠実な僕よ」と誉めていただくことです。それが天国の義です。
「善行」は、マタイ福音書では「あなたがたの義、あなたがたの正しいこと」ということばです。わたしたち改革派教会は、それを「善き生活」と言っています。主イエスの時代、初代教会は、それが施し、祈り、断食を信者たちの義務として日常の生活の形にあらわされました。
施しは、貧しい人々に金銭を与えることです。旧約聖書の申命記第15章11節に主なる神は、モーセを通してイスラエルの民に次のように施しをお命じになっています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。
貧しい者たちに、多額の施しをなすことは、神に豊かに祝福された証しでした。主イエスの時代の宗教的指導者たち、金持ちたちは、大勢の人々が見ている場所で、会堂や街角で貧しいものたちに施しをしました。
「自分の前でラッパを吹きならしてはならない」とは、自分をアピールすることです。自分がどんなに金持ちであり、神に豊かに祝福されているかを、人々に知らしめることです。
だから、彼らを、主イエスは偽善者と呼ばれます。なぜなら、彼らは口では神を誉め称えます。神殿で礼拝し、神に犠牲をささげ、信仰深いように見せいています。しかし彼らの心の中は、貧しい者に金を施す自分たちを誉め称えているのです。施しを、自分の名声のためにしているのです。彼らの善き生活の動機は、神に心を向けていませんので、だから、神は彼らの施しに「よくやった。忠実な僕よ」と誉められることはありません。
主イエスは、弟子たちに隠れて施しをしなさいとお命じになりました。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」は、あなたの親しい友達にも知らせるなという意味です。施しを、人目を避けて行いなさいと、主イエスはお勧めになりました。言葉通りにせよという命令ではありません。主は、善き生活をする動機を、隠れた神にのみ向けてしなさいと言われたのです。
その者を、父なる神は「よくやった。忠実な僕よ」と誉めてくださると、主イエスは言われています。
次に祈りです。主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々の祈りを取り上げて、あの偽善者たちの祈りを真似ないように警告されました。
大勢の人々が見ている会堂や大通りの角で祈っていたからです。彼ら心を向けていたのは、神ではありません。会堂の中の信者たちや大通りを歩いている通行人たちです。彼らは、神に「よくやった。忠実な僕よ」と誉められないでしょう。神に祈ることより、祈りによって人々に自分たちの信仰の熱心さを証ししていたからです。
主イエスは、弟子たちに隠れて一人で祈るように勧められています。「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈れ」と。主イエスが言われていることは、人前で祈ってはならいという意味ではありません。どこで祈ろうとも、祈りは神に向けてのものであるということです。祈りは神との対話です。神と語るという目的以外の動機で祈ることはすべきではありません。祈りは、わたしたちが祈りますとき、神以外の者に心を向ければ、それは祈りではなくなるのです。大通りで祈らなくても、祈祷会の小人数の中で祈っている時に、人前でうまく祈ってやると思うならば、もうそれは祈りではないと、主イエスは言われています。
ダビデ王は、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」と祈っています(詩編62:1)。
さらに断食です。ユダヤ人たちは断食を重んじました。週に2回行っていました。神の前にへりくだり、神の恵みを得るために、昔からユダヤ人たちは断食をしました。ダビデ王は、バト・シェバとの姦淫によって神の怒りを受けました時に、断食し神にへりくだり、子供が生きている間は、主が子供を憐れみ、生かしてくださると希望を持って祈りました(サムエル記下12:22)。
断食は、イスラエルの共同体の宗教的義務でもありました。贖罪日にイスラエルの共同体全体が断食しました(レビ記16:29、31)。民に苦行、断食が課せられました。断食は、神に向かいへりくだることです。主イエスは、弟子たちにその真実を教えるために、断食を人に見せようとする律法学者やファリサイ派の人々を真似るなと警告されました。
善き生活、すなわち、施しと祈りと断食は、神との正しい関係を、神に救われた神の民の日常生活を、一つの形あるものとすることです。善き生活は信心深い生活、敬虔という言葉に、わたしたちの日常生活の中で一つの形として翻訳できるものです。
マタイが、主イエスの山上の説教を通してわたしたちに求めているものは、キリストの十字架によって罪を赦され、救われて、神の民とされたキリスト者の義の生活、善き生活です。
それは、どこまでも神の御心に従う生活であり、礼拝生活、祈り、施し、断食という日常の一つの形ある宗教的行為を、ただ神にのみ心を向けて行うことであります。これが善き生活です。善き生活は、キリスト者個人の生活に限られません。改革派教会全体の生活です。
預言者ヨエルは、主の民に次のように主の御言葉を告げています。「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。」
改革派教会は、戦後に戦前・戦中の日本キリスト教会とキリスト者たちの罪を悔改め、教団を立ち上げ、主イエスに一つ信仰告白と一つ善き生活を、わたしたちの信仰生活の義務として誓いました。神の御心に心から従って生きることを求めたのです。礼拝するとき、聖餐にあずかるとき、祈る時、献金するとき、断食するとき、この世においてキリスト者として生きる時、人にではなく、神にのみ心を向けることを誓ったのです。
それは、聖霊に導かれてこそ可能となるのですから、主イエスは、山上の説教においてキリスト者の義の生活の中心を祈りに、主の祈りに置かれるのです。わたしたちの善き生活の中心に祈りがあり、主の祈りがあることを、次回に学びましょう。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、ここに集められ、御言葉と聖餐の恵みをいただくことが許され、心より感謝します。願わくは、主の今朝の御言葉に励まされ、わたしたちの善き生活が主なる神にのみ心向け、営まれるものとしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教019 主の2010年11月14日
また、あなたがたが祈りときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だから、こう祈りなさい。
「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように、
御心が行われますように。
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。」
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
マタイによる福音書第6章7-15節
説教題:「主の祈り」
今、わたしたちは、主イエスから「天国の義」について学んでいます。主イエスは、わたしたちにマタイによる福音書5章20節に、「天国の義」を「あなたがたの義」と教えられました。そして6章1節にその義を、「見てもらおうとして、人の前で善行しないように注意しなさい」と教えられました。
「義」とは、神が正しいと認めてくださることですね。律法学者やファリサイ派の人々は、その義を人前で行いました。人に認めてもらおうとしたからです。だから、主イエスは、神が認められる義を、人に認めてもらおうと人まえでするとは何事かと言われました。
ファリサイ派の人々、律法学者たちの施し、祈り、断食は、人の注目を集めるために映画スターが役を演じているのと同じです。天にいます神の報いを得るどころか、人々の拍手喝采で終わってしまうと、主イエスは言われました。それが、6章2節の「彼らは既に報いを受けている」という主イエスのお言葉の意味です。
さて、主イエスは、弟子たちにキリスト者が義を行うこと、キリスト者の善き生活と祈りの関係を教えられました。特に主の祈りとの関係を教えられています。
7節と8節に主イエスは、弟子たちに異邦人の祈りを真似しないように命じられています。「また、あなたがたが祈りときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」
主イエスは、弟子たちにこの世の共通のことから教えておられます。この世の宗教生活は、神や神々への祈りから成り立っています。神や神々に祈らない宗教はありません。人間は神に向けて造られましたから、どんなに堕落しても、神や神々に祈らない人間はいません。祈りは、人間固有のもので、他の動物にはありません。
同時に主イエスは、弟子たちに異邦人たちの祈りと一線を引かれました。それが、「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」です。そのまま読みますと「つまらぬ繰り返し言葉をあなたがたは言うな、異邦人のように」(6:7)です。
念仏やお経を唱えるように、ぶつぶつと繰り返し分からない言葉を述べ立ててはならないという意味でしょう。
また、主イエスは弟子たちに言われました。異邦人たちは神々の名をたくさん並びたて、長々したお願いし、「言葉数が多ければ」、神が根負けして聞いてくださると思って祈っていると。だから、「異邦人たちの祈りのまねをしてはならない」と6:8)。
そして、主イエスは、弟子たちに彼らが祈る神を、「あなたがたの父」と紹介されました。神は、弟子たち、キリスト者の父です。神とキリスト者は父と子の親しい関係です。主イエスは、弟子たちに祈りを教える前提として、「あなたがたの義」は、父なる神の子としての生活であることをお示しになりました。
弟子たちは、真の神の御子キリストの十字架の贖いによって救われ、義とされ、神の子とされ、聖化されました。だから、救われた者の義の生活は、父なる神と子とされたキリスト者との親しい関係であります。
だから、主イエスは弟子たちに「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」と教えられていますね。祈りは、子が父を信じて願うことだと、教えられました。この世の親たちは、常に子供の将来を考えて、子供に良いと思うものを与えます。魚を欲しがる子に、蛇を与える父はおりません。父なる神も同じです。主イエスは言われました。父なる神は、子であるわたしたちが何を必要としているのかよく知っておられますと。そして、父なる神は、子であるわたしたちにキリストを与え、聖霊を与え、信仰と様々な賜物をお与えくださいました。
だから、父なる神にのみ、信頼して祈りなさいと、主イエスは弟子たちに主の祈りを教えてくださいました。
主の祈りは、主イエスが教えられた祈りという意味です。主イエスは、弟子たちに「だから、こう祈りなさい、あなたがたは」(6:9)と言われました。
「天におられるわたしたちの父よ」。主イエスは、弟子たちに直接に、天にいます神を「父よ」と呼びかけるように教えられました。弟子たちは、キリストを通して、天におられる神を、親しく「父よ」と呼びかける特権を与えられました。
義であり聖である神を、わたしたちが「わたしたちの父よ」と呼びかけることができる、本当に大きな喜びです。すべての罪を赦され、父なる神に義と認められ、聖とされ、神の子にしていただいたのです。キリストを通して、聖なる神を「わたしたちの父よ」と祈り近づくことを許していただきました。それが、今のわたしたちのこの教会の礼拝です。そして信仰生活です。
主イエスは、弟子たちにわたしたちの父なる神に、このように6つの祈りをしなさいと教えられました。前半の3つの祈りは神に対するものであり、後半の3つは弟子たちに対するものです。
第1の祈りは、「御名が崇められますように」です。そのまま読みますと、「聖とされるように、あなたの名が」(6:9)です。
「御名」とは、神ご自身です。神ご自身が聖とされるようにと、主イエスは弟子たちに祈り求めるように教えられました。
この祈りの反対は、神の御名、神ご自身を汚すことです。旧約聖書のレビ記、申命記には、「主なる神は聖であるから、あなたがたも聖となれ」とあり、神の民が罪を犯し、偶像礼拝し、「神の御名を汚し、辱めた」とあります。だから、わたしたちが神の子として父なる神に服従できるようにしてください。誰の目にも父なる神が聖であることを証しできるようにさせてくださいと、主イエスは弟子たちに祈るように教えられました。
第2の祈りは、「御国が来ますように」です。「御国」とは、父なる神の御支配です。父なる神が王権を持って御支配される力強い出来事です。それは、主イエス・キリストを宣べ伝える福音を通して行われています。人々が、キリストを主と信じて、神の子とされ、父なる神に服従することを通して。だから、この祈りは、祈る者を伝道に導きます。なぜなら、「御国が来ますように」と祈る者は、そのために主よ、わたしをお用いくださいと祈るからです(イザヤ書6:8)。
第3の祈りは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」です(6:10)。父なる神の御心の実現を祈ります。主イエスは、弟子たちに自分の願いではなく、父なる神の御心が目に見えない世界と見える世界に実現するように祈りなさいと教えられました。父なる神の御心のままにして下さいという祈りです。しかし、この祈りは、わたしたちをこの世の運命と宿命という迷信から救い、この世界に何の意味もないという空しさから、わたしたちを救います。目に見えるものも見えないものも、すべては父なる神の御心です。だから、わたしたちは、日常のささやかな生活も、父なる神が御心に留め、すべてを父なる神の栄光へと導いてくださいと祈るのです。
第4の祈りは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」です(6:11)。主イエスは、弟子たちに、どうして弟子たちのために祈る祈りの最初に「信仰」ではなく「食べ物」を祈るように教えられたのでしょうか。
主の祈りでは、「日用の糧を与えたまえ」と祈りますが、聖書は「必要な糧を今日も与えてください」とあります。今日一日、命に必要な食物を与えてくださいという祈りです。この祈りは、人間の弱さを良く知る者の祈りです。旧約聖書を読みますと、申命記に主なる神がモーセを通してイスラエルの民に祝福と呪いの道を教えています。神の掟に背いて、呪いの道を歩むならば、民たちは外国人に国を奪われ、民たちは物の無い飢餓の中で自分が産んだ子供を食べると、預言しています。そして、アッシリア帝国とバビロン帝国に国が滅ぼされたときに、モーセの預言は実現しました。神の民、神の子といえども、パンが無くては生きていけない悲惨さがこの世にあるのです。主イエスは、それを良く知っておられます。だから、神が荒れ野のイスラエルの民をマナによって支えてくださったように、わたしたちの命に必要な食物を備えてくださって、初めてわたしたちには明日があることを味わわせてくださいという祈りなのです。
第5の祈りは、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」です(6:12)。
赦しの祈り。そこにキリストの教会が立っています。負い目を赦す祈り。そこにキリストの十字架の恵みがあります。だから、主イエスは弟子たちに父なる神があなたがたをわが子としてその罪を赦し続けられるように、あなたがたも兄弟たちの罪を赦し続けることができるように祈りなさいと教えられました。キリストがわたしたちと共に居てくださいますところに神の愛と罪の赦しがあり、兄弟同志の愛と罪の赦しがあります。
第6の祈りは、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」です(6:13)。そのまま読みますと、「導かないように、わたしたちを、試みに、そうではなく救い出してください、わたしたちを、悪い者から」。
主の祈りは、「悪い者」ではなく「悪」です。悪、悪い者、これは、わたしたちを何とかして罪に引きずり込もうとする者、存在です。それを、教会は「サタン」と呼んできました。近代科学の時代に「サタン」を信じるのか。信じるのです。聖書にサタンの存在の証言があり、主イエスご自身がサタンと戦われました。実際に主に救われ、キリスト者とされ、神の子とされたわたしたちを、罪と不信に引き込む力、存在があります。それは、国家権力という姿で教会を迫害しますが、天使の姿で、優しく、甘い言葉によって、親切心を利用し、わたしたちを父なる神から離れさせようとしています。そのような悪い者、悪から救ってくださいと、主イエスは弟子たちに祈るように教えられました。
主の祈りは、わたしたち神の子の生活の中心にある祈りです。この祈りによって、常にわたしたちは、父なる神だけを意識して祈るのです。父なる神との交わりに心を向けて生きる喜びと力を得ます。父なる神を信じて祈ることを訓練されます。主の祈りを通して、わたしたちは、父なる神が子としてのわたしたちのすべての必要を配慮し、罪を赦し、悪と迫害と試練からわたしたちをお守り、御国へと導いてくださっていることを信じることができるのです。
最後に14節と15節は、主の祈りがわたしたちに示し続けるものが、キリストの十字架であることを、祈ることを、隣人愛として実践することを通して学ぶのです。
弟子に要求される義、心からの敬虔と表面的な敬虔の区別(ローマ2:28-29)。教会の祈りとしての主の祈り。これらは、キリストの教会を立たしめるものです。
主の祈りはマタイの時代、初代教会の中で信徒たちが共に唱える共通の祈りになっていました。主イエスは、父なる神に赦しを求めることと隣人関係において兄弟を赦す和解を成り立たせることが教会の交わりと教えられました。後にも家令のたとえ話をなさり、十字架の主の恵みに与る者は、兄弟の罪を赦すように勧められました。
イエス・キリストの父なる神よ、主の祈りを学ぶことができて感謝します。願わくは、主の祈りがわたしたちの教会生活と信仰生活を支え、教会の交わりを祝福されたものとして常に導いてくれるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教020 主の2010年11月21日
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
マタイによる福音書第6章19-34節
説教題:「神と富」
今朝は、マタイによる福音書第6章19-34節の御言葉を学びましょう。主イエスは弟子たちに一つのことを、神と富について教えられました。
この世において教会とキリスト者たちは、常に神と富の問題に直面しています。主イエスは、弟子たちに24節においてはっきりと言われました。「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
教会とキリスト者たちは、神と富についてどのように考えるべきでしょうか。
そこで、19-24節において主イエスは弟子たちに、富を蓄えるお話、澄んだ目と濁った目のお話、神と富の二人の主人に仕えることはできないというお話をされました。
最初のお話は、「富を積む」、「宝を蓄える」というお話です。主イエスは弟子たちに、富は二つあり、天上の富と地上の富をお示しになり、「富は天に積みなさい」とお命じになりました。
富は、わたしたちの大切なもの、一番欲しいもののことです。主イエスは、弟子たちに「地上に富を積んではならない」とお命じになりました。その理由は、虫に食われ、さび付き、盗人に盗み出されるからです。
主イエスの時代、女性たちにとって富は衣服でした。衣服は虫に食われ、穴だらけになります。ユダヤ人たちは、お金、金銀、宝石という富を、土の中に埋めました。あるいは家に隠しました。だから、さびでボロボロになりました。また、泥棒が家の壁に穴をあけて、盗み出しました。
だから、主イエスは、弟子たちにそのような空しくはかない富を地上に貯えないで、「富は天に積みなさい」と命じられました。主イエスは弟子たちにその理由を言われました。富を天に蓄えるならば、虫に食われ、さびが付き、泥棒に盗まれることはないと。地上の富のように、天に積まれた富は朽ちることがありません。
主イエスが弟子たちに教えようとされたのは、富を地上に積むことより天上に積むことがどんなに得かというお話ではありません。この主イエスのお話の大切な点は、教会とキリスト者たちは神の前でどのように生きるべきかであります。
だから、このお話の最後に主イエスは弟子たちに「富のあるところにあなたの心もあるからだ」と言われました。
「あなたの心」は、「あなたの感情」とか、「あなたの気持」という意味ではありません。旧約聖書の箴言に主なる神は「あなたの心を守れ」と言われています。「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」(4:23)。心は、わたしという人間全体を方向づける羅針盤です。わたしの心が地上の富に向けられると、わたしはそれに引き付けられ、わたしという人間のすべてがこの世の富に向き、神との交わりから切り離されるのです。
「富のあるところ」とは、わたしが一番に大切であると思っているものです。そして、わたしの心は、それに向くのです。だから、わたしたちの心を寄せるもの、それがわたしの一番大切だと思うものです。
わたしの心が、お金が一番大切だと思うならば、わたしは人生をお金のためにだけ生き、お金のことだけを考えていきるでしょう。スポーツが一番だと思えば、わたしの人生をスポーツにかけるでしょう。こうしてわたしは、神の交わりから離れてしまうでしょう。
だから、主イエスはわたしに「富は、天に積みなさい」とお命じになります。わたしが神さまに功徳を積むことを、主イエスがお命じになられているのではありません。たとえばわたしが教会に一杯献金すれば、天に富を積むことになると、主イエスは言われているのではありません。わたしが隣人に善い行いをし、天国に富を積むように、主イエスはお命じになったのではありません。
主イエスは、「あなたの富のあるところ」と言われています。わたしの富は得たものではなく与えられたものです。わたしにとって一番大切なものは、わたしの命ですが、この世の命も天の国の永遠の命も、すでに父なる神がわたしに備えてくださっています。天の父なる神が子供であるわたしに用意してくださっているのです。
天の父なる神は、天地万物の創造者です。この世界のすべてのものは、父なる神がわたしたちに備えてくださった富であります。さらに父なる神は、わたしの永遠の命のために、御子キリストを備え、十字架の罪の赦しを備え、天国を備えてくださっています。それを、わたしの心を通して見て、わたしの一番大切な宝とすることを、主イエスは弟子たちに「富を天に積みなさい」と言われました。
主イエスは、弟子たちに目のお話をされました。22節です。
この「目」は、この顔の目ではありません。「人の心、魂」を指しています。「目が澄んでいる」とは、「気前の良い」「惜しまず施す」という意味です(箴言11:25、ローマ12:8)。人の振る舞いを指しています。そこから、神への従順さに対する「誠実さと正直さ」という人の振る舞いを指し、神への一途の忠誠を指すようになりました。
23節は、「澄んだ目」と反対の「濁った目」のお話です。「しかし、あなたの目が悪いならば、あなたのうちの光が暗くあるならば、その暗さはどれほど。」。
「濁っている」は「悪い」という意味であります。それは、嫉妬に満ちた貪欲な目という意味です。そのためにこの世の富のみを追求し、神に仕えようとしない振る舞いを指しています。
主イエスは弟子たちに「あなたの中の光が消えれば、その暗さはどれほど。」と言われました。
「光」とは父なる神の愛と憐れみでしょう。わたしの心の中から、神の愛と憐れみが消えれば、わたしの心から光であるキリストが消えれば、わたしは自分の罪に気づかず、神に心を向けることもなく、救いの希望も無い心の闇に閉ざされ続けるでしょう。
24節は、人は二人の主人、神と富に兼ね仕えることはできないというお話です。主イエスは、弟子たちに神と富に兼ね仕えてはならないと禁じられたのではありません。「誰にもできない」という事実、現実を告げておられます。
わたしたちは、奴隷を知りません。奴隷社会を知りません。だから、主イエスのこのお話を聞いた弟子たちや群衆たちがどんな反応を示したか、思い描くことができませんね。ある牧師の説教を読みました。牧師は主イエスのお話を聞いた弟子たちや群衆は大笑いしたはずだと言っています。この世に二人の主人に仕える奴隷は存在しないからです。奴隷自体が一人の主人の所有物です。奴隷は、一人の主人にひたすら仕えました。
神と富との二人の主人に兼ね仕える奴隷は、二心を持つ者です。主人に不忠実な奴隷です。主イエスが言われます。その奴隷はどちらか一方の主人を愛し、他方の主人を憎むでしょう。一方の主人と親しくなり、他方の主人を軽んじるでしょう。
「愛する」とは「優先する」ことです。「憎む」とは、「後回しにする」ことです。だから、主イエスは弟子たちに「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われました。
この世において人に服従を求めるのは、神と富です。神とマモンです。しかし、教会とキリスト者たちは、キリストの血によって贖われ、父なる神に神の子とされました。だから、天の父なる神を何よりも優先する者とされました。だから、富は神よりも後回しにすべきであり、神より富を偶像礼拝することを捨てるようにと、主イエスは弟子たちに教えられているのです。
神への一途の忠誠、これが主イエスがわたしたちに3つのお話によってお語りになりたかったことです。二心のなく、ただ神にのみ仕えて、生きよ。そう主イエスはわたしたちにお勧めになりました。
だから、25-34節は、神への一途の忠誠のために、この世における日常の煩い、思い悩みを放棄するように、主イエスは弟子たちにお話しになりました。
ただ思い煩うなというお話ではありません。わたしたちの心と体の創造者である父なる神についての、主イエスの福音です。神に信頼することの喜びのメッセージです。
主イエスは、弟子たちに天の父なる神がわたしたちの父として、わたしたちのために思い煩い、心配してくださるので、あなたがたは父なる神を心から信頼し、安心して明日を思い煩うことなく、今日一日を神にすべてを委ねて生きなさいと言われました。
天の父なる神は、創造主です。わたしたちの命を創造されました。また、わたしたちの父です。親はわが子の命を守り育てます。喜んで子供に必要なものをすべて与えます。わが子のために心配し思い煩います。親はわが子の必要なものをよく知り、食べ物、飲み物、着る物すべてに気を配ります。
天の父なる神は、同じことを教会とキリスト者たちに配慮して下さいます。主イエスは、弟子たちに空の鳥を見なさい、野の花を見なさいとお命じになりました。
それは、空の鳥と野の花を見て、それに学ぶためではありません。人は鳥や野の花よりも、優れた存在です。人だけが神に向けて創造され、神と交わり、対話し、神をわたしたちの父として知ることが許されています。
主イエスは、弟子たちに空の鳥と野の花に見よとお命じになられたのは、空の鳥や野の花が自らの命のために思い煩い、心配しなくて済むように、空の鳥や野の花のために父なるがすべてを備え、養ってくださることです。
そこで主イエスは、弟子たちに思い煩いを捨て、地上に富を積む生き方をきっぱりと断つことを教えられました。父なる神の御前に空の鳥や野の花のように手ぶらで生き、すべてを神に委ねるように。
「心配するな」「思い煩うな」。ある事柄に心労することです。生活する中で心労する、不安に思う、痛みを覚えることです。わたしが人生の拠り所を、この地上の富に置くのであれば、自らの力で、努力でその富を得なければなりません。そこに、思い煩いが必然的に生まれます。
しかし、主イエスは、弟子たちに空の鳥と野の花を示され、地上の富に頼ることを捨て、思い煩いから解放されて、天の父なる神の配慮に全面的に信頼するようにお命じになりました。天の父なる神が空の鳥を養われ、野の花を美しく装われました。まして人間は神に向けて創造されたもの、神の子たちです。さらに配慮してくださらないはずはありません。
主イエスは、思い煩う弟子たちに「信仰の小さい者たちよ。」と言われています。「信仰の小さな者」とは、旧約聖書の荒野において安息日にマナやウズラを集めようとした不十分な信仰を持ったイスラエルの民たちのことでした。彼らのように教会とキリスト者たちも信仰と不信仰の間に立ち、疑いの中にあって、嵐の舟の中で主イエスの力により再び助けてもらう必要がありました(マタイ8:26)。
しかし、主イエスは、弟子たちに言われます。天のあなたがたの父は、あなたがたが必要とすることを、これらのすべてを。よく知っておられると。
教会とキリスト者たちがいまだに祈らない前に教会とキリスト者たちが何を必要とするか知っている者を、教会とキリスト者は天の父として持っています。これが、わたしたちが異邦人のようにこの地上の富に頼って思い煩うことから解放されている理由です。
33節。「あなたがたは求めよ、しかし、まず神の国と彼の義を。するとこれらすべてはくわえられる、あなたがたに。」
何よりも父なる神に知っていただいて、支配していただくように、主イエスは弟子たちにお勧めになりました。罪人であるわたしたちを、神が御支配してくださり、罪を清めてくださるように。神の義によって、罪人であるわたしたちを聖とし、罪に死んでいたわたしたちを義に生かすてくださるように。汚れたわたしたちを清めてくださるように。
主イエスは、それを可能とするために神であられたのに、人なり、この世に来られました。わたしたちの罪の身代わりに十字架に死なれ、永遠の命をわたしたちに与えるために甦られました。
だから、わたしたちは明日の心配をする必要はありません。父なる神が、わたしたちの今日という一日を配慮し、すべての良きものを、主イエスを通して備えていてくださっているからです。
主イエスは言われます。「だから、あなたがたは心配するな、明日を。なぜなら、明日は、自分で心配するから、十分である、その日で、その日の労苦は。」
すべてを父なる神に御委ねし、一日一日を父なる神の子として生きようではありませんか。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、心を守り、父なる神の愛と憐れみに、キリストの十字架の罪の赦しに、永久の命に、心を向けてください。空の鳥、野の花のように父なる神の配慮に信頼し、すべての思い煩いから解放してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。