マタイによる福音書説教010 主の2010年8月1日
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は幸いである、
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
マタイによる福音書第5章1-12節
説教題:「幸福への招き(2)」
主イエスは、弟子たちと共にガリラヤのある山に登られました。大勢の群衆たちも主イエスと弟子たちに従いました。主イエスは、弟子たちを前に集めて教えられ、大勢の群衆たちが主イエスと弟子たちを取り囲み、主イエスの教えを聞きました。主イエスは、山上の説教を弟子たちに語られましたが、群衆たちも主イエスの教えを聞いていました。
主イエスは、「腰をおろして」、すなわち、座って弟子たちに教えられました。これは、主イエスの時代の教師たちの習慣でした。律法学者たちは、シナゴグ、すなわち、会堂で座って弟子たちや民衆に教えました。
さて、主イエスは、弟子たちに山上の説教を、8つの「幸いだ」というメッセージで始められました。そのメッセージは、「幸いだ」で始まり、「天の国は彼らのものである」で閉じられています。「天の」という言葉は、「神の」という意味です。山上の説教は、天の国、すなわち、神の国をテーマとする主イエスの教えであります。
神の国とは、国や領土のことでありません。神の支配、キリストの支配のことです。主イエスは、ご自身の支配に入れる者は、幸いであると宣言されているのです。
この「幸いだ」というギリシア語は、これに勝る幸いは他にないという意味での幸いであります。
だから、主イエスは弟子たちに、そのような幸いを宣言されるだけでなく、弟子たちを主の恵みによってこれに勝る幸いはないという幸いに造り変えてくださるのです。
幸いな者のリストが、次の人々たちです。第1に「心の貧しい人々」、第2に「悲しむ人々」、第3に柔和な人々、第4に義に飢え渇く人々、第5に憐れみ深い人々、第6に心の清い人々、第7に平和を実現する人々、第8に義のために迫害される人々です。
「心の貧しい人々」は、神にへりくだる人々です。自分自身を無能力な罪人と認めて、神に恵みを乞う者のことです。それがキリスト者という人間の性格です。だから、神の一方的な憐れみにより、キリスト者はキリストの支配のもとに、神の国に入れられています。
第2は悲しんでいる人々に与えられる幸いです。これは、旧約聖書のイザヤ書61章2節に次のように預言者イザヤが預言しています。「嘆いている人々を慰め」。この幸いは、嘆いている人々を慰める幸いです。キリスト者は、この世において神の御国に慰めを得ない限り、この世にあって深い悲しみの中にいる人々です。
第3は、柔和な人々に与えられる幸いです。柔和は、怒ることの反対であります。穏やかさ、親切であるという、人のへりくだりに見られる態度です。キリスト者は、人に親切にするという性格を、神の恵みの賜物として得ています。
第4は、義に飢え渇く人々の幸いです。義は救いと同じ意味です。キリスト者は、心から神に救いを切望しています。神殿の後ろの方で祈りました徴税人のように、ただただ胸を叩き、「罪人のわたしをおゆるしください」と。
以上のことは、前に学びました。7節の御言葉からが、本日の学ぶところです。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」
「憐れみを受ける」とありますが、ギリシア語の新約聖書は、「憐れみを見出す」とあります。主イエスは、第5は、憐れみ深い人々の幸いです。それは、彼らが憐れみを発見する幸いです。聖書の世界では、隣人への憐れみは、神の憐れみが先にあります。月が太陽の光を反射しているように、わたしたちキリスト者の隣人への憐れみは、キリストの十字架を通して神がわたしたちを憐れまれました、その憐れみを映し出しているのです。わたしたちキリスト者が憐れみ深いという性格があるとすれば、神の憐れみに動機付けられているからです。
8節です。「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る。」
第6は、心の清い人々の幸いです。「心の清い人々」とは、ユダヤ人たちが神を敬う人々に名付けた言葉です。詩編73篇1節に主なる神が「心の清い人に対して、恵み深い」と賛美しています。心は、聖書では人間の意志、思考、感情の中心を指す言葉です。清いとは、罪がない、二心がないことです。神への従順な態度を表しています。
教会の歴史の中で、「心の清さ」は次のようにキリスト者たちに理解されてきました。この世のわたしたちの持ち場で、すなわち、生活の場で、「神の語ることを考え、自分自身の考えの代わりに、神の言葉を据えること」と。これが神を敬うキリスト者の日常生活の原則です。聖書において神の御言葉を聞いて、礼拝で神の御言葉を聞いて、聞いた神の御言葉を、自分の持ち場で心に留めて、物事の判断の基準とし、自分の思いではなく、その神の御言葉によって問題に対処する、それが、宗教改革者ルターの「心の清い人々」の理解でした。その者に、神を見ると、主イエスは約束されました。心の清い人々は、自分の持ち場で神の御言葉を通して一心に神を追い求めている人々です。その者たちは、神の御国に入れられたとき、念願の神を見る、永遠の命の幸いを得ると、主イエスは約束されました。
9節です。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
第7は、平和を実現する人々の幸いです。「平和を実現する」は、「平和を作り出す」という意味です。神の国は、神の民の共同体です。それは、平和によって立て上げられます。例えば、教会形成、地域のコミュニティーの形成。それを、キリスト者たちは争わず、話し合いで、そして一致協力して作り上げることを、平和の内に作り上げることを、主イエスに求められています。なぜなら、神の子という身分をキリスト者は与えられているからです。
10節です。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
第8は、義のために迫害される人々の幸いです。この「義のために」は、信仰のためにという意味です。信仰のために迫害される人々、それがキリスト者たちです。使徒たちは、ユダヤの官憲に捕らえられ、裁判にかけられたとき、使徒ペトロははっきりと「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」と言いました(使徒言行録5:29)。
神のために、神の正しさのために、信仰のゆえに迫害を受ける、それがキリスト者であることの証しであります。
だから、主イエスは、11節と12節に次のように迫害を受けるキリスト者たちの祝福を宣言されました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
主の弟子たち、キリスト者たちは、キリストのゆえに世から中傷と迫害を受けることを常に心得ておかなければなりません。昔の預言者たち、洗礼者ヨハネ、そして、主イエスご自身が、中傷と迫害を受けられました。主イエスは弟子たちに、迫害を受ける人々は幸いであると宣言されました。大いに喜べと繰り返し言われました。神の恵みによって、この世とあの世の逆転が起こるからです。この世では迫害という苦しみに、主と同様に遭いますが、終わりの日にキリスト者たちは復活させられ、祝福を得、天の国に入れられます。
わたしたちは、今から聖餐の恵みにあずかります。喜ぼうではありませんか。今朝も主イエスは、わたしたちに御言葉をもって永遠の命を約束してくださいました。そして、主イエスは、わたしたちを主の聖餐の食卓にお招きくださいます。そして、聖餐にあずかるわたしたちに、今朝の主イエスが弟子たちに山上の説教で宣言された幸いが、わたしたちに与えられていることを実感させてくださいます。
山上の説教の主イエスの幸いの説教を聞きまして、わたしは一つ大きな喜びと慰めを得ました。それは、この世における自分の弱さ、悲しみ、不幸な出来事を父なる神が主イエス・キリストを通して受け入れ、「よろしい」と認めてくださっていることであります。そして、祝福してくださっていることです。神の御前にへりくだる以外にない者です。この世に悲しみを多くの持つ者です。力無き者です。不従順な者であり、人に怒ること、早く、争い多い者です。人々に中傷され、迫害を受ける、この世で一番不幸に見える者です。しかし、主イエスは、わたしたちに天国を約束し、悲しみを慰め、神の子の身分をくださり、この世の不幸やみじめさを逆転させて永遠の命の祝福に与らせると約束してくださいました。そして、その保証として聖餐の恵みにあずからせていただくのです。ただただ主に感謝したいと思います。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、主イエスの山上の説教の8つの幸いの説教を通して、わたしたちを神の幸いと祝福にお招きくださり、ありがとうございます。キリストの十字架によってわたしたちの罪が赦されているだけでも、感謝でありますのに、主はわたしたちに神の身分を与え、神にへりくだり、従順に生きることができるようにしてくださり、神の御国にわたしたちをあずからせてくださり、本当にありがとうございます。今から聖餐の恵みにあずかります。今朝の主イエスの私たちへの幸いの約束が真実であることを、この聖餐を通して実感させてください。そして、ここで受けた神の御言葉を、わたしの持ち場で基準として適用し、いただいた祝福の喜びを、家族や近所の方々に証しさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教011 主の2010年8月8日
あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
マタイによる福音書第5章13-16節
説教題:「地の塩、世の光」
主イエスの山上の説教は、5章3-16節が、主イエスの説教の語り出しです。そして、7章13-27節が主イエスの山上の説教の結論であり、結びになっています。
主イエスは、山上の説教を、主イエスの弟子たちに向けて、「幸いだ」と祝福を宣言し、始められました。そして、続けて「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である」と宣言し、説教を続けられました。主イエスの祝福の宣言は、繰り返し教会の礼拝の中で語り続けられました。主の弟子たちは、世代を超えてその御言葉を繰り返し口にしました。そして、主の弟子たちがこの世における自らの生活を観察します時に、主イエスの祝福の宣言は、弟子たちの目に見える形で、明らかになりました。
話は、飛びますが、マタイによる福音書の最後に、復活の主イエス・キリストは11弟子たちに宣教命令を告げられましたね。主イエスは言われました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19,20)。
その中に「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とありますね。主イエスは、弟子たちにそれ以上、その命令をくわしく述べられていませんね。すでに主イエスは弟子たちにくわしく語られていたからです。わたしは、それがこの山上の説教であると思います。
次週より山上の説教の本論を学びます。そこに山上の説教の中心的メッセージを、主イエスは弟子たちに語られます。それは、天国の義であります。すなわち、わたしたちキリスト者の義でありますね。
それを、今朝の主イエスの弟子たちへの祝福の宣言が先取りしているのです。「義」という聖書の言葉は、「義認」、「義とする」、「義と認める」ということだけを言っているのではありません。「救い」ということを言うこともあります。また、次に学びますが、主イエスは弟子たちに「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ」と言われていますね。この「義」という言葉によって、主イエスは弟子たちに「弟子たちである者のあり様、生き様」を問われていると思います。
主イエスは、弟子たちに、ここでも16節に「あなたがたの立派な行い」と言われ、弟子たちの「義」を問われています。後でお話しします。
さて、元に戻りましょう。主イエスは、弟子たちに祝福を宣言されました。「あなたがたは、地の塩です。世の光です」と。これは、主イエスの命令ではありません。主イエスは、弟子たちに「あなたがたは地の塩、世の光になれ」と命じてはおられません。むしろ、主イエスは弟子たちを「地の塩・世の光である」と決めつけておられます。
だから、地の塩、世の光は、キリスト者の神に祝福された性格です。キリスト者である者の姿です。
では、主イエスは、弟子たちを「地の塩、世の光」と決めつけられて、何を語られたのでしょうか。主イエスは、弟子たちに、続いて「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」と言われていますね。主イエスは、塩が料理の味付けをする働きがあることも、物を腐らせない働きをすることも、何も言及されていません。塩が塩気をなくせば、外に捨てられ、人に踏みつけられると言われています。
イエスの時代のユダヤ人たちが使った塩は、岩塩でした。塩気がなくなり、塩としての働きをしなくなれば、ただの石ころとして家の外に捨てられ、家の前の通りを歩く人々の足で踏みつけられました。
主イエスは、11節と12節に続いて、弟子たちに「あなたがたは地の塩・世の光である」と言われました。マタイ福音書の時代、キリストの弟子たち、教会は、この世において迫害を受けていました。人々から悪口を言われ、傷つけられ、命を奪われ、殉教者がでました。しかし、主イエスは弟子たちに「世の迫害を受けても、あなたがたは地の塩・世の光である」と祝福されました。
それは、地の塩と世の光は、この世と同じになりません。この世に同化しないで、しかも、この世のために存在しているのです。主の弟子たちもこの世の人々と生活を同じにしないで、しかも、主と隣人のために存在しているのです。それを、主イエスは弟子たちに祝福されました。だから、主イエスは弟子たちに、使徒パウロがローマ書12章2節に「あなたがたはこの世に倣ってはならない」と言っていることを言われたのです。迫害を受けても、この世のものに隠れるな、同じになるな、あなたがたは地の塩・世の光なのだからと。
だから、主の弟子たちと教会は、第一に地の塩であるのです。キリスト者の塩気、塩味、教会の塩気、塩味とは、何でしょうか。それは神礼拝です。パウロも「あなたがたのなすべき礼拝である」と言っていますね。この世が、キリスト者と教会をどんなに迫害しても、神礼拝を止めないことです。神礼拝を止めれば、キリスト者と教会は、現実にこの世からなくなります。
主の弟子、キリスト者と教会は神礼拝の喜びに生きるものです。神を礼拝しない教会、キリスト者は、塩気を無くした岩塩です。主の役に立ちません。だから、主イエスが弟子たちに「外へ投げ捨てられる」「踏みにじられる」と言われましたのは、神礼拝という塩気をなくしたキリスト者と教会への神の裁きの宣告です。
世の光は、主の弟子の任務です。教会の任務です。それは、福音の光を伝えることです。主の弟子たちは、この世において迫害を受けても、世の光として、世の人々に福音を伝えることが、主の弟子としての、教会の務めです。
福音の光を世に伝える教会は、山の上にある町のようなものです。誰の目からもよく見えます。世に福音宣教する教会は、山の上にある町のように、隠れることができません。どんなに迫害を受け、キリスト者が地下に潜っても、世の人々に福音を伝えようとすれば、誰の目にも教会が、キリスト者の姿が見えてしまいます。
昔ユダヤ人たちは、夜ランプの明かりで部屋の中で生活をしていました。窓のない密閉された部屋でしたので、ランプを消す時に、升の下にランプを入れました。キリストの教会は、闇の世に福音の光を輝かすランプです。教会が福音の光を消して、闇の世に光を輝かせないことはあり得ないことです。そして、教会とキリスト者がこの世の人々に伝える福音の光は、この世界全体を輝かすに十分なのです。
「あなたがたは、地の塩・世の光」と主イエスに祝福された教会とキリスト者は、神礼拝の喜びに生き、その喜びをこの世のすべての人々に伝えます。こうして罪の世界、闇の世界の中にあって、教会とキリスト者は神に祝福された地の塩・世の光として存在します。
さらに主イエスは、弟子たちに16節に次のように命じられています。キリスト者と教会の任務を命じておられます。世の人々の前でキリスト者の光、教会の光を輝かせよと。
わたしたちの聖書は、そのように読めないでしょうか。しかし、ギリシア語の新約聖書を見ますと、「そのように人々の前であなたがたの光が輝け」とも読めるのです。その目的は、世の人々があなたがたの良き業を見て、天にいます父なる神を賛美するためです。
主イエスの命令は、わたしたちに自分たちで福音の光を輝かせよと命じられてはいません。主エスの命令は、わたしたちの内にある光に向けられています。礼拝の喜びに向けられています。わたしたちの教会の礼拝の喜びが、この世への光となり、輝くように、と主イエスは命じられています。
主イエスが言われる「立派な行い」とは、何でしょうか。ギリシア語新約聖書には「良き行い」とあります。マタイ福音書は、これを、キリスト者の義、天国の義と呼んでいます、
主イエスが弟子たちに「あなたがたは地の塩・世の光」と告げられるとき、祝福されるとき、弟子たちはキリストの救いの中に入れられているのです。彼は、キリストの十字架によって罪赦された喜びの中に、神を礼拝する喜びの中に生きる者たちです。そして、この喜びに、この世の人々を招き入れることが、教会とキリスト者の伝道の務めです。それは、福音の光をこの世界に輝かせ、天にいます父なる神を賛美するように、この世の人々を招く働きであります。そのために主の弟子たちは、日常生活の中でキリストを証しして生きるのです。キリストの命令に従い、聖霊に導かれて、神を礼拝し、御言葉と聖餐にあずかり、神に救われた喜びを神に感謝して、神の御名が誉められ、称えられるように神を愛し、隣人を愛して生きるのです。それがキリスト者の良き行いです。
マタイによる福音書は、主イエスの命令を通して、わたしたちキリスト者に、そしてわたしたちの教会に、この世におけるキリスト者と教会の生活が神礼拝と宣教を通して神の喜びを輝かせ、天の父なる神を世の人々が賛美することに貢献することを目指しています。礼拝における神の喜び、キリストの救われた喜びは、わたしたちの日常生活の信仰の証しという形を取り、この世の人々に光輝くのです。
この光は、十字架のキリストによってわたしたちの心に神がわたしたちを愛し、罪を赦された喜びとして輝いています。だから、わたしたちを、神を礼拝し、神を喜び賛美し、神に感謝せずにいられなくする光です。わたしたちを、良い行いへと駆り立てる光です。自分のために生きるのではなく、神と隣人のために生きるように促す光です。その光が教会の中に、そして、わたしたちの生活の中に輝く限り、この諏訪の地にわたしたちの教会は立ち続けることができるのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちが神の永遠の御手の救いにより、地の塩・世の光として神の祝福の中に生きることが許され、今朝も神を礼拝する喜びにあずかり、その喜びをこの諏訪の人々に伝える務めを与えられていることに、心より感謝します。小さな者ですが、わたしたちの心に灯された十字架のキリストの神の愛と罪の赦しの喜びを、家族やこの町の人々に、自らの内に輝く福音の光によって証しできるように、お導きください。イエス・キリストの御名によって祈ります。ア-メン。
マタイによる福音書説教012 主の2010年8月15日
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと、人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」
マタイによる福音書第5章17-20節
説教題:「キリスト者の義」
今朝は、マタイによる福音書第5章17-20節の御言葉を学びましょう。
主イエスは、ガリラヤのある山に登られ、そこに腰を下ろして、弟子たちや群衆に山上の説教をされました。その説教は、天の国の王の就任演説でもありました。主イエスは、天の国の王として、弟子たちや群衆たちに8つの幸いを宣言し、ご自身の民がどのように生きるべきか、天国の義、すなわち、キリスト者の義を告げられました。
天の国は、キリストのご支配のことです。主イエスは、天の国の王として神の法の下で民たちを治められます。神の法とは、神の律法のことです。それは、旧約時代にイスラエルの民が、指導者モーセを通して、主なる神よりシナイ山で授かったものです。
預言者たちは、そのモーセ律法に従ってイスラエルの民たちに神の掟を守るように教えました。教えると共に、彼らは民たちに天の国の王、メシアが来られることを告げていました。
そして、今、約束のメシアは来られました。山上の説教は、主イエスがメシアであることを、そのことの大切さを強く述べています。
例えば山上の説教の終わりに群衆たちの驚きが物語られています。7章29節と30節です。主イエスの山上の説教を聞いた群衆たちの驚きを、マタイ福音書は鮮やかに物語ります。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。山上の説教を聞きました群衆たちは、主イエスをメシア、天の国の王と認めたのです。
今朝の御言葉の17節は、メシア、天の国の王、主イエスがこの世に来られた目的を語られます。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
主イエスが天国の義、キリスト者の義をお語りになる第一声が、「思ってはならない」でした。ギリシア語新約聖書をそのまま読みますと、こうです。「思うな。わたしが来たと。律法、あるいは預言者を廃するために。廃するために来たのではなく、かえって成就するために。」
この世のでは、新しい王が最初にすることは、前の法を廃して、新しい法を定めることです。しかし、メシア、主イエスは天の国の王となられたことを宣言されましたが、主イエスは弟子たちと民衆に、そして今ここで山上の説教を聞いていますわたしたちに「思うな」ととても強く言われました。主イエスがこの世に来られ、天の国の王となられたのは、「律法と預言者を廃止するためだ」と。
主イエスは、モーセ律法を無にし、その律法に従って民たちに神の掟を守るように教えた預言者たちを用無しにするために、この世に来られたのではありません。
「律法と預言者」とは、わたしたちにとっては旧約聖書を表す名でもありますね。だから、今ここで主イエスの山上の説教を聞きますわたしたちに、主イエスは「旧約聖書を廃するために、わたしが世に来たと思うな」と言われているのです。なぜなら、初代教会の異邦人キリスト者たちの中にモーセ律法がキリストによって無効にされたと強く言う者たちがいたのです。そして、マルキオンのように、旧約聖書を用無しであると強く言う者たちが現れました。
わたしたちの聖書には、主イエスが「廃止するためではなく、完成するためである」と言われていますね。「廃止する」とは、主イエスが天の国の王として新しい律法と取り替えてモーセ律法を無効にすることです。「完成する」は、口語訳聖書は「成就する」と訳していました。使徒パウロは、「律法を全うする」という意味で、この言葉を使用しています。主イエスは、旧約聖書を用無しにするために来られたのではありません。むしろ、旧約聖書の神の御言葉に生き、従うために来られました。何よりも主イエスは、わたしたちに「わたしは、旧約聖書の中に預言されていることの成就である」と宣言されているのです。
だから、主イエスが来られても、旧約聖書はこの世界が滅びるまで、一文字も消え去ることはないと、主イエスは宣言されました。18節です。
「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」
「はっきり言っておく」は、「なぜなら、アーメン、わたしは言う、あなたがたに。」です。どうしてわたしは、あなたがたにそのように言うのかと、主イエスはとても力を込めて言われています。それは、モーセ律法は神の律法であり、預言者の言葉は神の言葉です。旧約聖書は神の啓示です。だから、「天と地が過ぎ去るまで」「すべてが成るまで」、すなわち、キリストが再臨し、新しい天と新しい地となり、天の国が完成するまで、一文字の一点一画も、消え去ることはないからです。「一点」は、ヘブル語の最も小さい文字イオタです。「一画」は鉤かっこの文字のことです。わたしたちが無くてもよいと思うものでも、消え去ることはないと、主イエスは力を込めていわれました。
注意してほしいことがあります。神の律法と神の御言葉は、永遠に無効になることはありません。主イエスが、「天と地が過ぎ去るまで」「すべてが成るまで」と言われた時、主イエスは、天の国が実現すれば、聖書は無用になると言われているのではないのです。そうではなく、主イエスは神さまの思いというものがすべてご自身において成し遂げられることを願って言われているのです。
だから、主イエスは弟子たちに次のように弟子たちの聖書に対する振る舞いを注意されています。19節です。「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと、人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」
実は、この主イエスのお言葉を、弟子たちは笑いながら聞いたと、わたしは思うのです。それは、天の国に小さな者と大いなる者がいると言われたからでありません。主イエスご自身が、律法学者たちやファリサイ派の人々、すなわち、主イエスの時代に民衆たちから偉い先生たちと呼ばれた者たちから神の律法を破る者と非難されておられたからです。「イエスは安息日の律法を破っている。」「イエスは罪人たちと食事して、神の清めの律法を破っている。」と言われておられました。
主イエスは、彼らの非難を逆手に取られて、弟子たちの振る舞いを諭されたのです。主イエスのお言葉に笑っていた弟子たちは、自分たちもユダヤの偉い先生たちと同じ過ちを犯していたことに気づかされたでしょう。
この主イエスのお言葉が分かるポイントは、神の律法、すなわち、聖書の理解です。ユダヤの偉い先生たちは、神の律法を大切ではない軽い戒めと大切な重い戒めに区別しました。この考えをある弟子たちが、聖書に当てはめていたらどうでしょうか。弟子たちは聖書には、大切ではない軽いところと、大切な重いところがあり、軽いと思われるものは、信徒たちに守る必要はないと教えているのです。主イエスは、その弟子は天の国では小さな者と称されると言われました。
聖書を神の御言葉、神の律法としてすべてを尊び、信徒たちに聖書のすべてを守るように教える弟子たちは、天の国において大いなる者と称されると、主は言われました。
天の国は、大いなる者と小さな者と称される者たちが含まれるということが、大切な点ではありません。大切な点は、二つです。第1に聖書の御言葉のすべてを重んじることです。第2に弟子であるわたしたちは主の教えを間違えて教えるという点です。また、主イエスの行いの反対を行うという誤りがあるという点です。
しかし、主の弟子たちは皆天の国に入れられます。メシアであるキリストの義のゆえにです。キリストは、神の律法のすべてを行われました。神に従順に従うという行いを通して、神の義を得られました。その義によって、主の弟子たち、すなわち、わたしたちキリスト者は皆、天の国に入れられています。
ところで、20節に主イエスは、主の弟子たちにとても力を込めて言われます。「言っておくが」と。「なぜなら、わたしは言う、あなたがたに」。18節の「アーメン(まことに)」という言葉はありません。しかし、17節同様に主イエスが弟子たちに、力を込めて語られています。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない。」
主イエスは、弟子たちに、群衆に、そして今ここで山上の説教を聞いていますわたしたちキリスト者に「義」を求められました。律法学者やファリサイ派の人々に勝る「義」を求められました。その義がなければ、天の国に入れないと、主ははっきりと、力を込めて宣言されました。
ロイドジョンズは、次のように説教します。「今私たちの直面している問題である。私たちは義の生活をすべきであるということである。キリスト者の生活を要約する一語は、義である。私たちの生活に現わされるべき義とは何か」。
ユダヤのお偉方、律法学者は律法の専門家です。誰よりも正しく神の律法を知ろうと努力している者です。ファリサイ派の人々は、神の律法を誰よりも熱心に守り、生活の中で自らを汚れたものから分け隔てている者たちです。それに勝る義とは、何でしょうか。
ファリサイ派の人々は、義人、敬虔な人と呼ばれていました。彼らは、生活の中で神の律法を守るために多くの細かい規則を作り、その規則を一つ一つ守り、神の律法を踏み外さないように努力しました。
そうするには、彼らに理由がありました。彼らと神との関係です。彼らにとって神と信仰者との関係は、貸主と借り手の関係でした。主イエスのたとえ話に莫大な借金を、主人からしたしもべが、主人からお金を返すように取り立てられるお話があります。律法学者とファリサイ派の人々は、神と人間の関係を莫大な金を貸す貸主と借り手のしもべとみました。だから、主なる神は、彼らに厳しい取り立てをされます。彼らは、神に一生懸命良きことを行い、借金を神に払います。しかし、一向に減りません。だから、彼らの義は、借金の取り立てに、さんざん苦しみ返していく神への借金であります。
それに勝る義は、人の行いによる義ではありません。それとは、質的に違う義であります。なぜなら、キリスト者の生活は、苦しみの生活ではありません。世の光です。神から受けた喜びを、この世に輝かす生活です。
メシア、主イエスがこの世に来られた目的は、神の律法を成就するためでした。主イエスは、神への従順によって、神の律法を一点一画も破ることなく、忠実に守られて、神の義を得てくださいました。その故にキリスト者は、自分で神の律法を守らなくても、天の国に入れる義を得ました。律法を完全に成就された義なるキリストとの交わりを通して、わたしたちキリスト者は天の国に入ることのできる義を得ました。
その義は、キリストの義です。キリストがこの世に来られて、神の御前に従順に歩まれ、神の律法を完全に守られて得られた義であります。その義を、主イエスは無償で、ただ恵みによりわたしたちにお与えくださり、それをわたしたちは、この教会におけるキリストとの交わりにおいていただきました。礼拝の説教を通して、聖霊に信仰を与えられて、洗礼を受けてキリストの弟子となり、聖餐に与ることを通して、キリストの義をいただいた喜びを感謝しています。
キリスト者にとって、義はキリストとの交わりなしにあり得ないのです。そして、キリスト者の義は、キリストの交わりに生きることです。聖霊と御言葉を通して義なるキリストがわたしたちの内に生きてくださるのです。だから、わたしたちは、肉において罪を犯しますが、義なるキリストがわたしたちの内に生きてくださり、わたしたちを天の国に入れてくださるのです。
大切なことは、今主イエスの御声を聞かれました、愛する兄弟姉妹たち、己により頼むことを捨ててください。主イエスは来てくだしました。神のすべての律法を守り、神の義を得て、復活し、今天におられ、聖霊と御言葉を通してわたしたちの内におられます。そして、ご自身の義を礼拝ごとに差し出されています。「主よ、感謝します。わたしのために罪の身代わりに死んでくださり、罪を赦してくださっただけなく、義をもくださり、天の国に入れてくださり、ありがとうございます。」これが、礼拝の喜びです。キリスト者の義の生活は、この喜びから始まります。そして、この世の終わりの希望に、キリストとの永遠の交わる喜びに向かうのです。
そのキリスト者の義の喜びの生活を、ロイドジョンズは、次のように説教しています。「キリストがわたしの内に住んでいて、神の聖霊がわたしの中にいるということである。新しく生まれた人、神の性質を内に持つ人は、義の人であり、その義はパリサイ人、律法学者の義に勝る」。主よ、本当にありがとうございます。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、あなたが御子キリストをこの世にお遣わしくださり、御子が神の律法を従順に守り、神の義を得てくださり、わたしたちの罪の身代わりに死に、罪を赦すだけでなく、ご自身の義をお与えくださり、今もわたしたちの内に生きて、ご自身の義の交わりにわたしたちを与らせ、永遠の命の喜びに導いてくださっていることを感謝します。この素晴らしい喜びに、一人でも多くの人々を招くために、教会に多くの人々が訪れるようにお導きください。この山上の説教の素晴らしい恵みを、この町の人々に伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。