マタイによる福音書説教104       主の2013721

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。よみがえりであり、命であり、真理である主イエス・キリストの御声を聞かせてください。わたしたちの羊飼いである主イエス・キリストの御声に導かれて、神の御国へと歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。

 

 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が。「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。

 

 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。イエスはお答になった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエスは裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」

 

                  マタイによる福音書第261425

 

 

 

 説教題:「ユダの裏切り」

 

 前回は、ベタニアの村で一人の婦人が主イエス・キリストの頭に香油を注ぎかけて、葬りの用意をしたことを学びました。

 

 さて、今朝は、主イエスの12弟子たちの一人、イスカリオテのユダの裏切りを学びましょう。

 

 過越の祭と除酵祭(種なしパンの祭)が近づいていました。ユダヤの宗教的指導者たちは、主イエスを殺そうと相談しました。しかし、彼らは、祭の間はユダヤ民衆が騒ぐ恐れがあるのでやめておこうと決めました。ところが、12弟子の一人ユダの裏切りにより、事態が変わりました。

 

 マタイによる福音書は、261416節にユダが裏切りを次のように記しています。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」

 

 なぜ、ユダは、主イエスを裏切ったのでしょうか。マタイによる福音書は、彼が貪欲であったからだと、次のように記しています。ユダは、密かに祭司長たちのところに行き、「あの男を引き渡せば、幾らくれますか」と、あらわにお金を要求しています。

 

 祭司長たちとは、大祭司を助ける祭司たちです。彼らは神殿の奉仕だけでなく、神殿とエルサレムの都の治安を守る責任を負わされていました。

 

 祭司長たちは、ユダの要求にその場で銀貨30枚を置きました。「支払うことにした」という言葉は、本来「置く」という意味の言葉です。ですから、祭司長たちは、ユダの要求に対してその場で銀貨30枚を置きました。

 

銀を量る単位は、シェケルです。銀貨30枚は「30シェケル」です。この金額は、旧約聖書の出エジプト記2132節に、奴隷一人分の賠償額と説明されています。牛が奴隷を角で突いて殺した時、牛の持ち主は、奴隷の主人に「30シェケル」支払わなければなりませんでした。ユダは、主イエスを奴隷の命の値段で、ユダヤの指導者たちに売り渡したのです。

 

しかし、マタイによる福音書がわたしたちに伝えようとしているのは、ユダだけでなく、祭司長たちの悪であります。マタイによる福音書は、旧約聖書のゼカリヤ書の11章の「悪い羊飼い」を、祭司長たちに見立てています。祭司長たちは、主イエスのように見失われた羊を探し、養い、いやすことをしません。羊たちを見捨てる無用の羊飼いです。彼らは、真の羊飼いである主イエスにイスラエルの民たちを導きません。むしろ、真の羊飼いである主イエスを殺すために、裏切り者のユダの前に銀貨30枚を置くのです。

 

ユダは銀貨30枚を手にすると、主イエスをユダヤの指導者たちに引き渡す機会をうかがいました。

 

こうして過越の祭と除酵祭の日がきました。マタイによる福音書は、261719節に主イエスと弟子たちが過越の食事の準備をしたことを記しています。「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか』と言った。イエスは言われた。『都のあの人のところに行ってこう言いなさい。「先生が、『わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする』と言っています。」弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。」

 

「除酵祭の第一日」は、種なしパンの祭の第1日のことです。過越の祭がニサンの月の14日に祝われ、その夕方のニサンの月の15日から一週間、種を入れないパンを食べる祭が祝われました。過越の祭も除酵祭(種を入れないパンの祭)も、ともに出エジプトを思い起こすための祭でした。

 

12弟子たちは、主イエスにニサンの月の14日に「過越の食事の準備を、どこでしましょうか」と尋ねました。主イエスは、弟子たちに「エルサレムの都の『あの人』のところに行って準備しなさい」と言われました。主イエスと「あの人」との間で、あらかじめ打ち合わせができていたようです。

 

その時に主イエスは弟子たちに「わたしの時は近づいている。」と言われていますね。それは、「主イエスの十字架の死の時が近づいている」という意味です。ユダが裏切り、祭司長たちの手に御自身が渡され、殺されることを知りつつ、主イエスは知人の家で過越の食事の準備をされました。 

 

続いてマタイによる福音書は、262025節に主イエスがユダの裏切りを予告されたことを記しています。「夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスはお答になった。『わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』イエスは裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ。』」

 

夕方となり、ニサンの月の15日となり、過越の食事が始まりました。主イエスと12人の弟子たちは、エルサレムの都の「ある人」の家で過越の食事をしました。

 

その食事の席で主イエスは、ユダの裏切りを予告されました。マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスの憐れみとユダの罪深さを伝えています。主イエスは、12弟子たちの目の前で裏切り者の名前を最後まで明かされませんでした。裏切り者のユダに最後まで悔い改めをお求めになったからです。

 

主イエスは「はっきり言っておくが、あなたがたの一人がわたしを裏切ろうとしている」と予告されました。「はっきり言っておく」は、「アーメン、わたしは言う、あなたがたに」という言葉です。今主イエスが12弟子たちにお告げになったことは、確実に起こるのです。12弟子たちの中の一人が、主イエスを裏切ります。

 

それを聞いて、12弟子たちは不安になり、心を痛めて、主イエスに言いました。「主よ、まさかわたしではないでしょうね」と。

 

主イエスは、ユダが悔い改めませんので、さらに続けて12弟子たちに言われました。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。」と。主イエスは、裏切り者の名を明かされないで、御自身のもっとも身近にいる一人の弟子が主イエスを裏切るといわれました。

 

さらに主イエスは弟子たちに「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と言われました。主イエスは、神の御計画どおりに御自身が十字架の上で死なれることを、明らかにされました。人の子である主イエスは、旧約聖書に預言されている通りに十字架に死に、3日目に復活し、そして、地上を去り、天にお帰りになるのです。

 

その後で主イエスは、厳しいお言葉をもってユダに最後の悔い改めを迫られました。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と。

 

「不幸だ」という主イエスのお言葉は、うめき声に似た言葉であるそうです。ギリシャまで留学し、専門的にギリシャ語を学びました一人の牧師、この「不幸だ」という主イエスのお言葉を、「惜しい、悲しい」と訳しています。そして、彼は、この言葉が主イエスの深い悲しみを表していると解釈しています。

 

主イエスは、ユダに「生まれなかった方が、その者のためによかった」という深い悲しみに向かわないように、御自身の十字架の死を示されて、「わたしは、あなたの主であり、あなたにとって無駄なものではない」とお招きになりました。

 

しかし、ユダに、主イエスのお声は届きませんでした。主イエスを裏切ろうとしていたユダは、主イエスに「先生、まさかわたしのことでは」と答えました。ユダにとって主イエスは、主、救い主でありませんでした。ラビ、教師の一人でした。しかも、ユダは、ユダヤの指導者たちに主イエスを引き渡そうとしているのです。貪欲のために、奴隷の命にしか値しないお金で、主イエスを裏切ろうとしています。

 

主イエスは、ユダに最後まで憐れみを示され、罪を離れるように、促されました。しかし、ユダは主イエスに悪意を持って、「先生、まさかわたしではないでしょうね」と答えました。その時、主イエスは、ユダに「それはあなたの言ったことだ」と答えられました。主イエスのお言葉に「それは」はありません。主イエスは、ユダに「あなたは言った」と言われました。

 

主イエスは、ユダに彼の裏切りを止めさせて、罪を悔いるように導かれました。だから、大胆に12弟子たちに「あなたがたの一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げられました。ユダ以外の弟子たちは、主イエスのお言葉に心を痛めました。

 

次に主イエスは、12弟子たちに御自身の死を示されました。十字架の主イエスを見上げるように促されました。

 

ユダの悲劇は、最後までキリスト御自身がお言葉によって示された十字架のキリストを見上げようとしなかったことです。彼は、自分の貪欲を満たすために、最後までキリストを利用しようとしました。ユダの失敗は、自分の罪と共に、キリストの十字架を同時に見なかったことです。貪欲なユダには、この世のお金の価値はわかりましたが、十字架のキリストの罪の赦しの価値は、最後まで分からなかったのです。お祈りします。

 

 

 

 御在天の父なる神よ、今朝は12弟子の一人、ユダの裏切りについて学ぶことができて感謝します。ユダのようにわたしたちも貪欲な者です。お金に執着し、この世の栄華に心を奪われます。そのようなわたしたちに、主は聖霊と御言葉によって御自身の十字架を今日も示されて、あなたもユダのように自分の好き勝手に生きて、滅びの道を歩むのですかと、問いかけられています。

 

 主イエスよ、わたしたちを憐れんでください。教会の礼拝を通して、十字架のキリスト以外に、わたしたちを死と滅びから救われるお方はないことを確信させてください。わたしたちがここに臨在される主イエスと交わり、この世において主イエスに生かされている喜びを悟らせてください。

 

十字架のキリストにつながれているわたしたちの喜びを、わたしたちの家族と知人に、この町の人々に、告げ知らせる勇気をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教105       主の201384

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」

 

                  マタイによる福音書第262630

 

 

 

 説教題:「最後の晩餐」

 

 今朝は、マタイによる福音書の第262630節の御言葉をご一緒に学びましょう。ユダヤの暦のニサンの月の15日、過越の祭の食事が始まりました。その食事において主イエスは、12弟子たちと最後の晩餐をなさいました。

 

 食事は、ユダヤ教の過越の祭の食事でした。食卓に子羊の肉、種を入れないパン、赤いぶどう酒、苦菜、ソースあるいはドレッシングが入った皿が出されました。食事の主人は主イエスです。主人である主イエスが祈り、食事が始まりました。

 

 その食事の中で、主イエスは後にわたしたちの教会が聖餐式として守っている行為を行われました。主イエスはパンを取って祝福し、それを裂いて12弟子たちに分かち、またぶどう酒の杯を取り、祝福して、12弟子に渡されました。

 

 主イエスは、最初に種、すなわち、酵母の入ってないパンをお取りになり、「賛美の祈りを唱えて」、パンを裂いて、12弟子たちにお分かちになりました。

 

「賛美の祈りを唱えて」とは、「祝福して」という言葉です。ユダヤの食卓の習慣は、食事の時に主人が祝福していただきました。つまり、この祝福は「神を称えて感謝する」ことです。食事のときに家の主人が「神は祝された」と賛美の祈りを唱えて後、家族は共に食事をいただきました。

 

 主イエスは、12弟子たちの目の前でパンを取られ、「神は祝された」と賛美の祈りを唱えて、そのパンを裂かれ、弟子たちにお分かちになりました。

 

そして、裂かれたパンを弟子たちは、ソースあるいはドレッシングの入った皿に浸して食べました。2623節に主イエスは、だれが御自分を裏切るかをお示しになりしたときに、「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が」と言われていますね。

 

主イエスは、パンを取り祝福して、そのパンを裂き、12弟子たちにお分かちになり、26節後半に次のように言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

 

主イエスは、御自身が手に取り、それを神が祝されて、裂かれたパンと「わたしの体」を同一視し、12弟子たちに食べよとお命じになりました。

 

これは、信仰の象徴的行為です。主イエスが取って、それを裂き、12弟子たちに与えられたパンは、実はこれから主イエスが十字架の上で裂かれる御自身の体を象徴しているのです。

 

すなわち、主イエス・キリストが御自身の体を裂いてまでも、12弟子たちにお与えになりたかったものを、12弟子たちが自分の恵みとしていただくのです。裂かれたパンを受け取り、口に入れ、噛み、そして胃の中に入れる。同時に十字架の主イエス・キリストは、わたしの罪の身代わりに死なれたということを、信仰によって12弟子たちが受け取るのです。そのときに主イエス・キリストは、12弟子たちにとって「わたしの命のパン」となられるのです。

 

さらに主イエスは、ぶどう酒の杯を取り、感謝の祈りを唱えて、すなわち、主イエスは「神が祝された」と感謝の祈りを唱えて、12弟子たちに渡されました。

 

その時に主イエスは、12弟子たちに2729節に次のように言われています。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 

マタイによる福音書は、マルコによる福音書を手本にして、キリストの教会とは何かを、わたしたちに知らせる目的をもって書かれています。ですからマルコによる福音書の142425節に主イエスが12弟子たちに言われた御言葉と見てください(新約聖書P92)。マタイによる福音書には、「罪が赦されるように」という主イエスの御言葉が加わっています。わたしには、マタイによる福音書がわたしたちに伝えたかったことは、キリストの十字架がわたしたちの罪の赦しのためであるという喜びです。

 

主イエスが手に取り、神に祝され、12弟子たちに渡された赤いぶどう酒は、主イエス・キリスト御自身が十字架の上で流された血と同一視されています。その時に主イエスは、「わたしの血」「契約の血である」と言われています。

 

赤いぶどう酒は、十字架の上で流された主イエス・キリストの血を示すと同時に、「契約の血」でもあります。

 

昔主なる神がイスラエルの民を奴隷の地エジプトから救い出されたときに、シナイ山に導かれました。民の指導者モーセが主なる神に召されて、シナイ山に登り、十戒の石の板を受け取る間に、ふもとにいたイスラエルの民は金の子牛を造って拝み、偶像礼拝の罪を犯しました。そこで出エジプト記24章に主なる神がモーセを通してイスラエルの民と再度契約を結んでくださいました。その時に契約書を作り、それを主なる神の御前で読み、イスラエルの民はそれを聞いて、すべて主なる神の御前で行うことを誓いました。その時に雄牛の犠牲がささげられ、その血をモーセは取り、半分を祭壇に、もう半分を民たちに振りかけました。そして、モーセは、犠牲の血を振りかけた民たちに「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたがたと結ばれた契約の血である」と言いました(出エジプト記248、旧約聖書P134)

 

この「契約の血」とは、神の絶対意志による裁量を保証する血でもあるという意味です。主なる神は、シナイ山で金の子牛を偶像礼拝する罪を犯したイスラエルの民たちを、御自身の絶対意志によって罪を赦すと判断し、再び民と契約を結び、雄牛の犠牲の血を祭壇と民たちに振りかけて、民たちの罪の処置をされました。それが契約の血でした。

 

同様に神は、絶対的な意志によって、12弟子たちが代表するキリスト教会のすべての主の民たちの罪を赦すと判断され、そして、キリストが十字架の上で流される血によって、罪を赦す処置をなされたのです。

 

ですからマタイによる福音書は、主イエスが「契約の血である」と言われた「契約」という言葉を、ギリシャ語の「ディアテーケー」という言葉を用いています。それは「裁量」という日本語に訳すことができます。「神の契約の血である」とは、神が絶対的な意志によって、わたしたちの罪を赦すと判断し、キリストの十字架の血によって処置をされたことを意味するのです。

 

こうして主イエスは、12弟子たちに御自身の十字架の死が迫っていることをお告げになり、次のように言われました。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」

 

この主イエスのお言葉は、神が絶対的な意志によって罪を赦すと判断され、キリストの十字架によってその者たちの罪を処置された者は、再び主イエスと御国のおいて交わりことができるという希望のお言葉です。

 

わたしたちは、この後聖餐式にあずかります。後に中世の教会は、パンとぶどう酒が、キリストのお体、御血潮に変わると信じました。それは間違いです。主イエスは、サマリアの女性に次のように言われました。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ42324)

 

神は、わたしたちの目には見えません。だから、神をわたしたちの目に見える形で礼拝するのではなく、真理によって、聖書の御言葉の真理によって神と人格的に交わり、神を礼拝すべきです。

 

わたしたちは、今から目に見えない主イエスに招かれて、聖餐式にあずかります。パンにあずかり、ぶどう酒にあずかります。大切なことは、わたしたちの目には見えない信仰です。

 

この聖餐式は、「アーメン、主よ、これはまさにわたしのためにくださった恵みです。」と、心から主に感謝しようではありませんか。

 

牧師が手に取り、感謝して、裂き、長老の手を通して一人一人に配られるパンは、「父なる神が主イエス・キリストを通してわたしたちを生かしてくださる神の裁量です。」父なる神は、絶対的な意志によって、わたしたちの罪を赦すことを判断し、十字架の上でキリストの体を裂くことで、わたしたちの罪が赦される処置をしてくださったのです。その恵みを、どうかパンを受け取り、手で口に入れ、よく噛み、そして胃の中に入れて、味わってください。

 

また牧師が手に取り、感謝して、長老の手を通して一人一人に配られる杯も、パンと同様です。どうかぶどうジュースに、イエスの血があなたの罪の赦しのために流されたことに思いを向けてください。十字架の上で御血潮を流された主イエス御自身を、あなたの罪を赦すために、父なる神が絶対的な意志によって判断し、処置されたことであると、素直に受け入れてください。

 

自らの罪の重荷のゆえに、この聖餐式にあずかることを戸惑う方もいるでしょう。しかし、神の裁量は、裏切り者のユダを排除してはいません。主イエスは、ユダに最後まで自らの罪を悔いて、主に立ち帰るように促されました。

 

マタイによる福音書が、わたしたちに聖餐式において覚えてほしことは、父なる神は、絶対的な意志によって、わたしたちの罪を赦すことを判断し、キリストの十字架の死によって処置されたということです。だから、教会は、この喜びを世のすべての人々に伝えるために、ここに存在しているのです。

 

ダビデのように「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。」と、心から主を賛美しましょう。お祈りします。

 

 

 

 御在天の父なる神よ、主イエスと12弟子たちの最後の晩餐を学びました。聖餐式の恵みを学ぶ機会が与えられ感謝します。どうか聖餐式にあずかり、今朝の主イエスの御言葉を通して、父なる神の裁量に思いを向けて、聖餐式にあずからせてください。キリストの十字架を仰ぎ、わたしたちの罪の赦しのためであり、処置であったことを、信仰によって確信させてください。教会は、わたしたちの罪の赦しのために存在していることを、世の人々に伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教106       主の2013811

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。

 

 『わたしは羊飼いを打つ。

 

すると、羊の群れは散ってしまう。』

 

と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」

 

 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。

 

イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 

                  マタイによる福音書第263135

 

 

 

 説教題:「悲しい予告」

 

 今朝は、マタイによる福音書の第263135節の御言葉をご一緒に学びましょう。先週は、主イエスと12弟子たちの最後の晩餐を学びました。

 

その最後の晩餐の後、マタイによる福音書は2630節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」と記しています。

 

一同は、詩編115篇から118篇の御言葉に節をつけて賛美しました。それがユダヤの過越の食事の習慣でした。そして、その賛美は、最後に「ハレルヤ」という言葉で結ばれました。

 

マタイによる福音書は、「一同は賛美の歌を歌った」と記し、刻一刻と十字架の道を歩まれる主イエスの御姿を追い求めています。そして主イエスの十字架によって神の御救いが実現するのを、「ハレルヤ」と賛美しているのです。

 

ところで、マタイによる福音書は、いつ裏切り者のユダが主イエスを離れたかを記していません。主イエスが弟子たちと一緒にオリーブ山に出かけられた時、彼はいなかったでしょう。主イエスと一緒にオリーブ山に出かけたのは、ユダを除く11弟子たちでした。

 

 さて、オリーブ山は、ギデロンの谷を隔てて、エルサレムの都の東にあります。安息日に歩くことが許されている場所にありました。エルサレムから1キロのところです。昔はその山にオリーブの木が茂っていたので、その名が付けられました。

 

このオリーブ山で、主イエスは12弟子たちにマタイによる福音書の24章と25章において世の終わりについての教えをなさいました(マタイ2425)

 

 オリーブ山のふもとにゲツセマネの園がありました。次回に学びますように主イエスは、11弟子たちを連れて、そこで祈るために、オリーブ山に出かけられました。

 

今朝の御言葉は、その途上における主イエスがなさった、弟子たちにとって悲しい予告の出来事を記しています。主イエスは、オリーブ山に向かわれる途中で突然、11弟子たちに彼らが御自身につまずくことを予告されました。

 

 31節です。「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。」と書いてあるからだ。』」。

 

 主イエスのお言葉を聞いた11弟子たちは、どんなに驚いたことでしょう。突然主イエスが11弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と予告されたからです。

 

 「つまずく」とは、主イエスから離れ去るという意味です。

 

主イエスが11弟子たちに予告されたことが実現する根拠は、主なる神の御言葉でした。それを、マタイによる福音書はわたしたちに次のように伝えています。主イエスは11弟子たちに言われました。「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう。』と書いてあるからだ。」と。

 

「書いてあるからだ」とは、主イエスが「聖書に書いてあるからだ」と言われているのです。それは、旧約聖書の中にすでに主なる神に遣わされた預言者が神の御言葉を民に伝えていました。旧約聖書のゼカリヤ書137節の御言葉です。「万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。」

 

少し表現が違いますが、主イエスは、預言者ゼカリヤを通して預言された主なる神の御言葉が御自身の受難を予告されていると読み取られました。

 

「わたしは羊飼いを打つ」の「わたし」は、父なる神です。「羊飼い」は、主イエス御自身です。そして、「散らされる羊の群れ」は11弟子たちです。

 

これから羊飼いである主イエスは、裏切り者のユダに導かれたユダヤの官憲の手先たちに捕えられます。そして、ユダヤの最高法院の裁判にかけられ、死刑判決を受けられます。さらにローマ総督ピラトに引き渡され、ローマ人たちの手で十字架刑に処せられます。この一連の流れは、わたしたちの目には「主イエスが人の手にかかって殺される」ように見えるでしょう。しかし、そうではありません。主イエスは言われます。「本当は、父なる神が羊飼いである主イエスが十字架に殺されることを許しておられ、主イエスが十字架に死に11弟子たちがつまずいて、主イエスから離れ、ばらばらになることを、神が許しておられる」と。

 

11弟子たちは、主イエスの弱さを見て、つまずくのです。11弟子たちが信じたのは、メシア、ユダヤの王となられる主イエスです。しかし、主イエスは、今夜ユダヤの官憲に捕えられ、ゴルゴタの十字架の死に至るまでこの世の権力者に従われました。その主イエスの弱さを見て、11弟子たちはつまずくのです。そして、彼らは主イエスを捨てて、逃げ去り、散々になるのです。

 

しかし、主イエスが11弟子たちにこの悲しい予告を語られたのは、彼らを失望させるためではありませんでした。御自身の十字架の死と彼らのつまずきが父なる神の御意志であることを証しするためでした。

 

そして、主イエスは、御自身の復活を予告し、11弟子たちにガリラヤで再び会うことを、次のように約束されました。32節です。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と。主イエスは、これから御受難の後に十字架の上で死なれても、羊飼いの務めをお捨てになりません。むしろ、「わたしは復活した後」、すなわち、「わたしは死に勝利した後」、「先にガリラヤに行き、11弟子たちを待ち受けるぞ」と宣言されました。

 

主イエスは、11弟子たちも、裏切り者のユダと同様に御自身につまずき、裏切ることをよく御存知でした。主イエスは、知った上で、彼らの罪をお赦しになり、再び御自身の羊たちとすることを約束されました。

 

本来であれば、この主イエスの愛のお言葉に11弟子たちが感激して当然と思われませんか。わたしならば、「主イエスよ、感謝します」と言うだろうと思われませんか。

 

ところがマタイによる福音書は、ペトロの驚くべき行動を記しています。ペトロは、主イエスのお言葉に反発しました。33節です。「するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った。」

 

何とペトロの勇ましい言葉でしょう。ペトロは、主イエスに誓いを立てるように言い切りました。「わたしのこの仲間がすべて、あなたにつまずいて、捨て去っても、わたしだけはどこまでもあなたのお伴をします」と。

 

ペトロは、ある意味で正義感の強い人です。正直で、愛すべき人間です。しかし、彼には、罪という暗闇が見えていません。「欲する善をなさず、欲せぬ悪をなす」という人間の心の弱さを知りません。人は、だれでも、自分が気に入らないと、すぐに愛想づかしをするのです。それなのにペトロは、大見えを切りました。「他の仲間たちが皆裏切っても、わたしのあなたにたいする思いだけは変わりません」と。

 

ペトロに主イエスは、答えられました。34節です。「イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」

 

「はっきり言っておく」とは、「アーメン、わたしは言う」という主イエスのお言葉です。主イエスがお語りになることは、確実なこととして現実となるという意味です。聖書は、主なる神のお言葉、そして、主イエスのお言葉は、神が語られたお言葉として、わたしたちの世界において必ず現実となり、出来事となると証ししています。それは、今夜ペトロが、鶏が鳴く前に人の前で3度主イエスを知らないと証言するという出来事が必ず起こると、主イエスは言われました。

 

「三度」という言葉は、ペトロが人前で主イエスを徹底して否認するという意味です。要するに大見えを切ったペトロに、主イエスは言われました。「あなたは、取り返しがつかいないほどに、完全にわたしを知らないと言うだろう」と。

 

このように主イエスから言われれば、わたしなら、「主イエスよ、不信仰なわたしをお救いください。助けてください」と言うのにと、思うのです。

 

ところが、ペトロも、他の10人の弟子たちも、口をそろえて、絶対に主イエスが言われることは間違っていると、声を大にして、次のように言いました。35節です。「ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った。」

 

この弟子たちの罪に対する鈍感さ。人の罪と弱さを見て、批判し、非難しても、自分の罪と弱さを見ることができないという、人の悲しい現実。ペトロを代表する主イエスの弟子たちの愚かさに、わたしたち自身を重ねてみなさい。これがマタイによる福音書のメッセージではないでしょうか。

 

それは、マタイによる福音書がわたしたちに「ペトロや10人の弟子たちのように、あなたがたもどうにもならない罪人ですよ」と告げるためではありません。

 

主イエスは、自分たちの罪を見ようとしない弟子たちに、「わたしは、復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く」と言われました。主イエスは、11弟子たちに「わたしはガリラヤで待っていよう。わたしの復活の命でもう一度あなたがたを生かして上げよう」と約束されました。

 

要するに主イエスの罪の赦しの中で、11弟子たちの罪が描かれています。ペトロの取り返しのつかない罪が描かれます。すごいことだと思われませんか。主イエスは、これからとんでもない罪を犯す11弟子たちに、その罪を犯す前に彼らの罪を御自身の十字架のゆえに赦され、彼らに主イエスと再び交わることのできる永遠の命を約束されています。

 

これが、マタイによる福音書がわたしたちに伝えようとする教会です。使徒信条に「聖なる教会、聖徒の交わり、罪の赦し、永遠の命を信ず」とあります。

 

教会には、ペトロや他の10弟子たちのような罪ある者が、主イエスに招かれます。そして、主イエスを信じる前に、主イエスより罪の赦しと永遠の命を約束されます。今、主イエスは、先に天国に行かれ、わたしたちをお待ちです。わたしたちは、主イエスを救い主と信じても、ペトロたちのように取り返しのつかいない罪を犯すことがあるでしょう。しかし、主イエスは、天国でわたしたちを待ってくださっています。

 

今わたしたちの教会は、高齢のために、そして体を弱めて、家族を介護するために、教会の礼拝に出席できない方々が増えています。その現実に、わたしたちは何もできないという悲しみを覚えています。わたし自身も、無力さを覚えています。しかし、今朝のマタイによる福音書の主イエスのお言葉が、わたしたちに慰めを与えてくれないでしょうか。

 

主イエスは、罪と弱さの中にいるわたしたちに「わたしは、すでに自らの十字架によってあなたがたの罪を赦し、復活し、あなたがたより先に御国に行き、あなたがたを待っている」と約束してくださっています。

 

どうか、聖霊に導かれて、主イエスのお言葉を喜び、心から「主イエスよ、感謝します。すべてを、あなたに委ねることができますように」と、日々祈らせてください。お祈りします。

 

 

 

 御在天の父なる神よ、主イエスが11弟子たちになされた「悲しい予告」の出来事を学びました。主イエスは、11弟子たちが主イエスにつまずき、取り返しのつかない罪を犯す前に、御自身の十字架により彼らの罪を赦し、またガリラヤに先に行かれて、弟子たちを待ち、新しい命に行かされたように、今御自身の十字架によってわたしたちの罪を赦し、復活されて、わたしたちの先に天に行かれて、この地上におけるわたしたちのすべての罪を赦してくださり、天国に迎え入れてくださることを心より感謝します。

 

わたしたちの教会は、今いろいろな困難の中にいる兄弟姉妹がいます。今朝の御言葉がわたしたちの慰めと希望となりますようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教107       主の2013818

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしはよみがえりであり、命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、御国へと信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」

 

それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうに行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

 

再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。

 

それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。わたしを裏切る者が来た。」

 

                  マタイによる福音書第263646

 

 

 

 説教題:「ゲツセマネの祈り」

 

 今朝は、マタイによる福音書の第263646節の「主イエスのゲツセマネの祈り」についての御言葉を、ご一緒に学びましょう。

 

先週は、主イエスと11弟子たちがオリーブ山に向けて夜道を歩きながら、主イエスが11弟子たちに悲しい予告とうれしい約束をなさったことを学びました。主イエスは11弟子たちが御自分につまずくことをお告げになりました。そして、主イエスは、続けて11弟子たちに「わたしは復活し、あなたがたより先にガリラヤに行き、あなたがたを待っている」とうれしい約束をされました。そこからわたしたちは、わたしたちの教会生活の恵みを学びました。わたしたちは洗礼を受けて、主イエスに罪を赦され、教会員になりましたが、なおこの地上の生涯において11弟子たちのように信仰につまずくのです。しかし、11弟子たちの先にガリラヤに行かれて、弟子たちを待たれた主イエスは、復活し、昇天し、わたしたちより先に御国に行かれて、わたしたちを待ってくださっています。その喜びを学びました。

 

今朝は、ゲツセマネの主イエスの祈りを学びましょう。主イエスと11弟子たちは、一緒にオリーブ山に来ました。

 

マタイによる福音書の2636節をご覧ください。「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。」

 

「ゲツセマネという所」は、オリーブ山の斜面にあります。オリーブ山のオリーブの木の実を搾る所です。大きな車輪のような石臼を回してオリーブの木の実を潰し油をとりました。その所で主イエスは、しばしば12弟子たちと一緒に祈られました。

 

ですから主イエスは、ゲツセマネに行かれると、すぐに11弟子たちに「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」とお命じになりました。主イエスと弟子たちは、祈るためにゲツセマネに来た時は、いつもそのようにしていたからです。主イエスは、11弟子たちと共に祈るためにゲツセマネに来られただけでなく、主イエスは11弟子たちが目覚めて御自分と共に祈ることを願われていました。

 

次に37節をご覧ください。「ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。」

 

主イエスは、11弟子たちの中からペトロと「ゼベダイの子二人」、すなわち、ヤコブとヨハネ兄弟を伴って、この3人の弟子たちを近くにおいて父なる神に祈られました。

 

マタイによる福音書は、主イエスの祈りを、「そのとき、悲しみもだえ始められた」と描いていますね。主イエスがゲツセマネにおいて父なる神に必死に祈られている姿を、マタイによる福音書は描いているのです。

 

なぜなら、主イエスは御存知でした。御自身がユダヤの官憲に捕えられ、裁判にかけられ、そして異邦人の手に引き渡されて、十字架の上で死なれることを。ですから、主イエスは、父なる神に必死で「十字架のみがわたしが取るべき唯一の道でしょうか。他にないでしょうか」と祈られました。

 

 それがどんなに苦しい祈りであったでしょう。それは、主イエスがただの人間であれば、到底耐えられなかったでしょう。

 

 だから、主イエスは、38節で身近に伴われた3人の弟子たちに次のように言われたのです。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」

 

 「わたしは死ぬばかりに悲しい」とは、主イエスの時代のユダヤの人々が耐えがたい悲しみを表現するときによく使った言葉です。主イエスは、「わたしの魂は深い悲しみで死に瀕している」と言われました。十字架の死という深い悲しみが人間イエスの忍耐の限界を超えようとしているのです。人である主イエスは、弟子のペトロとヤコブとヨハネに、御自分の魂の深い悲しみを一緒にしてほしいと願われ、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」とお命じになられました。主イエスといえども、人として、十字架の死という御自身の魂の深い悲しみに、孤独の中で耐えられませんでした。

 

 わたしたちも自分の魂に深い悲しみがあれば、だれかに自分の悲しみの経験を共感してほしいと思いませんか。共感できなければ、見守ってほしいと思いませんか。

 

 主イエスは、御自身の魂の深い悲しみの中で、3人の弟子たちに御自身の悲しみの一部でも共感してほしいと願われました。できなければ、祈っているわたしを見守るだけでよいと思われました。それほどゲツセマネの主イエスの祈りは、人としての主イエスの忍耐の限界にありました。

 

 39節に37節に「悲しみもだえ始められた」主イエスが父なる神に祈られた内容を、マタイによる福音書が記しています。「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」

 

 主イエスは、身近に伴った3人の弟子たちから少し離れて、顔を地面に伏せて、祈られました。主イエスは、父なる神に必死に祈られました。「父なる神が可能であれば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と。

 

 「この杯」とは、キリストの十字架の死です。マタイによる福音書の202028節において弟子のヤコブとヨハネ、そして彼らの母親が主イエスに主イエスが都に上られて、王に即位されたら、ヤコブとヨハネを大臣に取り立ててくださいとお願いした事件がありましたね。そこにおいて主イエスは、弟子のヤコブとヨハネに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。「杯を飲む」とは、割り当てられた、苦しい運命に甘んじるという意味があります。

 

 さらに旧約聖書を見ますと、杯にもう一つの意味があります。預言者エレミヤが次のように主なる神の御言葉を預言しています。「それゆえ、イスラエルの神、主はわたしにこう言われる。『わたしの手から怒りの酒の杯を取り、わたしがあなたに遣わすすべての国々にそれを飲ませよ。彼らは飲んでよろめき、わたしが彼らの中に剣を送るとき、恐怖にもだえる。』」(エレミヤ書251516)。主なる神の怒りの杯を飲まされることは、主の裁きを受けて滅びることだと、預言者エレミヤを通して主なる神は語られました。

 

 主イエスは、十字架の死、すなわち、父なる神の怒りの杯を飲まれなくてはなりませんでした。それが父なる神が永遠から定められたことでした。そして、父なる神の怒りの杯を主イエスが飲まれることは、父なる神の裁きを受けて、滅びることでした。主イエスは、人として、御自身の魂の深みまで父なる神の怒りの杯を飲むことの恐怖を経験されました。 

 

 確かに神の御子主イエス・キリストは、その杯を飲むために、人となり、この世に来られました。しかし、人としての主イエスが、その杯、十字架の死を目の前にされたとき、罪人に対する神の裁きと滅びの恐ろしさを、御自身の魂に経験された時、主イエスの魂は、悲しみもだえ始めました。

 

 主イエスは、父なる神の怒りの杯を飲むことの恐ろしさを、御自身の魂に限界まで経験されながら、御自分の願いを通すのではなく、父なる神の御心に御自分をお委ねになり、次のように祈られたのです。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と。

 

 そのように主イエスが父なる神に必死に祈られていた時、主の身近に伴われた3人の弟子たちは何をしていたのでしょう。眠っていたのです。4041節です。「それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』」

 

 弟子たちの不名誉が記されています。ペトロも他の弟子たちも、主イエスが御自分につまずくと予告された時、反発して「一緒に死なねばならないとしても」と覚悟はできていると言い張りました。ところが実際はどうでしょう。3人の弟子たちは、主イエスが必死に父なる神に祈られているときに眠ってしまいました。

 

 主イエスは、眠ってしまった弟子たちを非難されませんでした。むしろ、同情されています。人である主イエス御自身が、十字架に恐怖を覚えられたのです。だから主イエスが、3人の弟子たちに「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われたのは、御自身に向けての励ましの言葉であったかもしれません。

 

さらに主イエスは、2度、3度と祈られました。4244節です。「更に、二度目に向こうに行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。」

 

 主イエスが父なる神に服従された祈りを、マタイによる福音書は、わたしたちに紹介しています。主なる神は、わたしたち罪人に代わって父なる神の怒りの杯を飲むためにこの世に人となり、来てくださったのです。キリストの十字架は、父なる神が永遠に決定し、御計画されたものです。主イエスは、父なる神の御意志に従うと祈られました。

 

 そして、再び3人の弟子たちのところに行かれますと、3人の弟子たちは眠っていました。マタイによる福音書は、3人の弟子たちはとても眠かったからと記しています。3人の弟子たちは、せめて主イエスの祈りを見守ろうと思ったでしょう。しかし、彼らの体は、眠りの誘惑に勝てませんでした。

 

主イエスは、3人の弟子たちが眠っているままにさせ、3度祈られました。2度目の祈りを繰り返されました。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに主イエスのゲツセマネの祈りについて、一つの大切なメッセージを伝えています。それは、主イエスが主なる神に必死に祈られ、御自身の願いを通されたのではなく、父なる神の御意志に服従されたことです。

 

主イエスのゲツセマネの祈りがわたしたちに教える祈りは、わたしたちが涙を流して祈り、わたしたちの魂の深い悲しみに耐えて、自分たちの願いを必死に神に訴え続けながら、最後に神の御意志に自分たちの意志を従わせていくことです。祈りは、神への信頼と神への服従の苦闘であると、主イエスはゲツセマネの祈りを通して、教えてくださっています。

 

主イエスは、33人の弟子たちのところに戻られました。そして、主イエスは彼らに言われました。4546節です。「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。わたしを裏切る者が来た。』」

 

主イエスは、眠っている3人の弟子たちを起こして、言われました。「十字架の時が来た。わたしは罪人である異邦人たちに引き渡される。立て、十字架に向けて行こう。裏切り者が来た。」

 

主イエスは、父なる神の御意志に服従して、十字架の道を歩むと宣言されました。お祈りします。

 

 

 

 御在天の父なる神よ、主イエスのゲツセマネの祈りを学びました。わたしたちも主イエスに従って、祈る時、たといわたしたちの魂に深い悲しみがあり、自分の願いを、主に訴えましても、最後には、主の御心だけを行わせてくださいと祈らせてください。

 

わたしたちの肉体は、罪の誘惑に弱いですから、主イエスよ、わたしたちをお守りください。この世におけるわたしたちへの誘惑からわたしたちの目を離れさせて、わたしたちのすべての罪を赦し、御国に迎え入れてくださる主イエスに信仰の目を向かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。