マタイによる福音書説教095         主の201347

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、キリストの御言葉を語らしてください。わたしたちの信仰の耳と眼をお開きください。今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を聞くことにより、キリストの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

 

 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこでイエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 

               マタイによる福音書第2337節-第242

 

 

 

 説教題:「神殿宗教の終わり」

 

 今朝は、マタイによる福音書の2337節から242節の御言葉を学びましょう。二つの事件を記しています。主イエスがエルサレムの都を嘆かれた事件とエルサレム神殿の崩壊を予告された事件です。

 

 主イエスは、23章においてユダヤの宗教的指導者であるファリサイ派の人々と律法学者たちを裁かれました。そして主イエスは、32節から36節においてユダヤ人たちの歴史が罪の歴史であることを告発されました。すなわち、創世記のアベルから歴代誌のゼカルヤまで預言者たちや神の人たちの無実の血を流したと。主イエスは、今の時代のユダヤ人たちに神の裁きが訪れることを告げられました。

 

今朝の御言葉は、それゆえに主イエスがエルサレムの都を嘆かれた事件を記しています。

 

エルサレムの都は、神が自分たちに遣わされた預言者たちを殺し、神の人たちを石で打ち殺したからです。そしてエルサレムの都は、今救い主イエスを退けます。ゴルゴタの十字架へと。マタイによる福音書は、わたしたち読者にそのしりぞけられた救い主の愛の悲劇を物語るのです。

 

エルサレムの都を、主イエスは「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者」と呼びかけておられます。神の御前に不信仰であり、神の怒りに価し、エルサレムの都は神の裁きによって滅びようとしています。エルサレムの都を愛し、主イエスは嘆かれました。

 

主イエスは「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と嘆かれています。

 

聖書を学ぶ集いにおいて歴代誌を学びました。そこでエルサレムの都において王と家臣と祭司、レビ人、そして民がどんなに罪に罪を重ねて行った歴史かを、学びました。その旧約聖書においてひなを守る親鳥は、主なる神が神の民を守られる愛を教えました。主なる神は、エルサレムの都における数々の罪を忍耐され、ダビデ家の王たちの罪を耐え忍ばれました。王とエルサレムの都に対して預言者たちを遣わして罪を悔い改めさせ、神に立ち帰るように招かれました。しかし、王とエルサレムの都が、主なる神の愛と忍耐に対して愛をもって応えず、罪に罪を重ねて反逆を繰り返しましたので、主なる神はバビロン帝国のネブカドネツァル王を用いて、エルサレムの都と神殿を破壊されました。

 

それと同じことを、主イエスの時代のエルサレムの都も行いました。だから、主イエスは嘆き続けられました。「だが、お前たちは応じようとはしなかった」と。

 

エルサレムの都は、神の愛と忍耐に対して愛をもって応えようと欲しませんでした。なぜなら救い主イエスを、エルサレムの都は退けて、ゴルゴタの十字架へと追いやったからです。

 

その結果、歴代誌と同様にエルサレムの都は、その責任を問われます。主イエスは、嘆きながら、次のように告げられました。「見よ、お前たちの家は見捨てられ荒れ果てる」と。エルサレムの都は、そしてエルサレム神殿は破壊され、荒れ果てると、主イエスは嘆かれました。

 

エルサレムの都は、救い主イエスを退けた罪の責任を問われました。歴史的には主イエスが嘆かれた40年後、すなわち、紀元70年にローマ帝国の軍隊によってエルサレムの都と神殿が破壊されました。

 

主イエスは、言われています。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」

 

 主イエスの愛の訴えは、空しく終わりました。エルサレムの都は、救い主イエスを受け入れませんでした。救いに招かれる主の御手を、自ら拒みました。

 

「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言うのは、キリストの再臨の時です。主イエスは、再臨の時まで彼らの目から消え失せられます。しかし、キリストの再臨のとき、神の栄光に包まれて、主の主、世界の王、審判者として、エルサレムの都に臨まれるのです。

 

さて、次に主イエスが弟子たちにエルサレム神殿の崩壊を予告された事件を学びましょう。

 

 マタイによる福音書は、241節に「イエスが神殿の境内を出て行かれると」と記していますね。これは、212節から23章までの主イエスがエルサレム神殿において活動されたことのまとめです。主イエスは、エルサレム神殿においてユダヤの宗教的指導者たちと論争されました。そして彼らに対する裁きを告げられました。そして指導者たちの裁きはエルサレムの都全体の裁きに広がりました。

 

 そして、主イエスがエルサレムの神殿を出て行かれました。マタイによる福音書は、わたしたち読者に主イエスは神殿を捨てられたと述べているのです。ユダヤの指導者たちとエルサレムの都の裁きを告げられた主イエスは、神殿を出て行かれて、近づいた弟子たちに神殿の崩壊を予告されました。

 

 主イエスが神殿を捨てられた時、主イエスに従うのは、主の弟子たちだけでした。民衆たちは主イエスに従わないのです。主イエスを退ける側に残りました。

 

 マタイによる福音書は、わたしたち読者に主の弟子たちは、主イエスに「神殿の建物を指さした」と述べていますね。主イエスの時代ヘロデ大王がエルサレム神殿の拡張工事をしました。それまでの2倍の大きさに神殿を拡張しました。紀元前20年に工事が始まり、ヘロデ大王の死後30年経ても工事が継続していました。弟子たちは、神殿の大きさに驚き、神御自身が宿り、守られる神殿であるので、エルサレム神殿は永遠に続くと思ったでしょう。

 

 ところが、主イエスは弟子たちに言われました。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

 

 エルサレムの都が神に見捨てられる時が来るように、神殿が神に見捨てられる時が来ると、主イエスは弟子たちに宣言されました。神殿が神に見捨てられ、神殿宗教が用をなさない時が来ると予告されました。

 

 主イエスは、エルサレムの都でも神殿でも「今から後、決してわたしを見ることがない」と宣言されているのです。

 

 主イエスを見るとは、主イエスが臨在されることです。主イエスは、肉体を通してわたしたちの前に臨在されることはありません。それは、聖霊を通して、御言葉によって臨在されます。その主イエスを見ることは、信仰による以外にありません。

 

紀元前70年にローマ帝国の軍隊によって神殿が破壊され、主イエスが予告された通り神殿宗教の時代は終わりました。ペンテコステに聖霊が教会に下られ、聖霊の時代、教会の時代が始まりました。そして、キリストが再臨される時までわたしたちは、聖霊と御言葉を通して、キリストがわたしたちのところに臨在されることを、信仰によって受け入れるのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエス・キリストの復活を祝い、長く待ちました春の訪れを迎えております。すべてが命に満ちた季節です。わたしたちの教会の命は、この礼拝にあります。聖霊と御言葉を通して、また聖餐式の恵みを通して復活のキリストがわたしたちと共に居てくださいます。どうか信仰によってキリストを、わたしたちに見させてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教096         主の2013414

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、キリストの御言葉を語らしてください。御言葉を聞くわたしたちの耳をお開きくださり、キリストの御声に聞き従うことができるようにお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 イエスがオリーブ山に座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎやうわさを聞くだろうが慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 

                マタイによる福音書第第24314

 

 

 

 説教題:「この世の終わりのしるし」

 

 今朝は、マタイによる福音書の24314節の御言葉を学びましょう。主イエスが弟子たちにキリストの再臨とこの世の終わりのしるしについてお話しになりました。

 

主イエスは、エルサレム神殿を出て行かれ、オリーブ山に行かれました。オリーブ山はギデロンの谷を隔てて、エルサレムの都の東にある山です。使徒言行録は、112節に安息日にエルサレムの都から歩いていける距離にあると記しています。その距離とはおよそ1キロほどであります。

 

今主イエスはオリーブ山で座られ、弟子たちに教えようとされています。弟子たちは主イエスのところにやって来て、ひそかに主イエスにエルサレム神殿の破壊、そしてキリストの再臨とこの世の終わりのしるしについて尋ねました。

 

3節後半を御覧ください。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴がありますか」。

 

「そのことはいつ起こるのですか」という弟子たちの問いは、エルサレム神殿の破壊であります。「あなたが来られて世が終わるときには、どんな徴があるのですか」という弟子たちの問いは、キリストの再臨とこの世の終わり、すなわち、終末についての徴であります。神殿の破壊は、歴史的出来事であり、キリストの再臨と世の終わりの徴は、終末の出来事であります。

 

主イエスは、弟子たちに彼らの第一の問い、神殿の破壊がいつかについては答えられていません。どうしてか。マタイによる福音書の読者たちは、すでにエルサレム神殿が紀元70年にローマ帝国の軍隊によって破壊されたという歴史的出来事を知っていました。マタイによる福音書は紀元80年代に作られました。初代教会とキリスト者たちにとって、エルサレム神殿の破壊は過去の出来事であり、教会とキリスト者たちにとってもはや関心を引くことではありませんでした。ですから、マタイによる福音書は、弟子たちの第一の問いに対する主イエスの答を省きました。

 

マタイによる福音書は、28章の最後に復活の主イエス・キリストが弟子たちに異邦人伝道をお命じになったことを記して、福音書を閉じています。この異邦人伝道がなされた後に、キリストが再臨され、この世の終わり、すなわち、終末がやって来ます。それが主イエスの弟子たちの関心であり、マタイによる福音書とその読者であります初代教会のキリスト者たちの関心でありました。エルサレム神殿の破壊よりも、キリストが再臨され、神の御国が到来し、キリストの支配が確立されることが、キリスト教会とキリスト者たちの一番の関心でありました。

 

初代教会とキリスト者たちは、いつキリストが栄光のうちに再臨されるのか、そして、それまでの間、教会とキリスト者たちは何をすればよいのか、それが主イエスの弟子たちの大きな関心でした。

 

その弟子たちの関心に主イエスは答えて、次のことを教えられました。24414節は、大いなる艱難に先立つ出来事です。1528節は憎むべき者と大きな苦難の予告です。2931節は、栄光を帯びたキリストの再臨です。3244節は、キリストの再臨とこの世の終わりのすべてが起きる時です。2445節から2530節は、忠実に待つことに関する3つのたとえです。そして253146節は、すべての民族(異邦人)に対する審判です。

 

今朝は、大いなる艱難に先立つ出来事について学びましょう。それは、聖書の表題にありますように「終末の徴」です。

 

主イエスは、弟子たちに4節で「人に惑わされないように気をつけなさい」と警告されて、58節において一般的前兆としての出来事を教えられました。5節に偽メシアの出現、6節に戦争と戦争のうわさ、7節に世界各地における民族と国同士の紛争、そして飢饉と地震を、主イエスは一般的な前兆として挙げておられます。

 

しかし、ここで主イエスが弟子たちに教えたいことは、次のことです。これら一般的前兆は、神の必然として、世界に起こります。しかし、世の終わりではないということです。主イエスは、弟子たちに8節に「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と教えておられます。キリストの再臨とこの世の終わりは、まだであると、主イエスは、弟子たちに警告しておられます。

 

大切なことは、わたしたちがこの世の終わりが来たと触れ回る者に惑わされないように警戒することです。なぜならキリストの再臨もこの世の終わりも来ていないからです。

 

いつの世にも、偽メシアが現れます。「わたしがメシアである」と言います。韓国に文鮮明が現れ、メシアと偽り、統一協会を作り、多くの人々を惑わしています。気をつけるべきです。

 

また20世紀と21世紀はまさに戦争の世紀です。第1次、第2次世界大戦があり、その後も朝鮮、ベトナム、アフガン、イラク戦争が次々に起こりました。今も世界中で民族と民族が、国と国が紛争しています。今わたしたちの国は、隣国の北朝鮮のミサイルに脅かされています。そして飢餓と地震が次々と起こっています。こうした出来事は、すべて神の必然的出来事です。「起こるに決まっている」出来事です。しかし、主イエスは、わたしたちに「慌てないように気をつけなさい」と警告されます。終わりではないからと言われています。

 

次に主イエスは、弟子たちに「すべての産みの苦しみの始まり」に教会とキリスト者たちが異邦人に伝道し、教会の内に大きな苦難を受けると予告されています。910節です。 

 

マタイによる福音書は、教会とキリスト者たちが主イエスの異邦人伝道命令に従い、異邦人たちに伝道し、その後にキリストの再臨が起こり、この世の終わりが来ると信じています。

 

しかし、キリストが再臨され、この世が終わるまで、異邦人伝道している教会とキリスト者たちは、異邦人たち、ユダヤ人たちに迫害を受け、苦しむのです。主イエスがユダヤ人たちや異邦人たちに迫害され、殺されたように、教会とキリスト者たちは迫害され、殺されます。異邦人伝道する教会とキリスト者たちは、あらゆる国の民に憎まれます。

 

その時に「多くの人」、すなわち、教会とキリスト者たちの中から信仰につまずき、互いに裏切り、憎み合い、背教する者たちが起こります。

 

そして偽預言者たちが大勢現れ、人々を惑わし、この世に不法がはびこります。多くの人々は、神の律法を拒否し、多くの人々の愛が冷えて行くのです。教会も世の影響を受けるでしょうから、背教者が起こり、神の律法を拒み、教会の中から兄弟愛が失われていくでしょう。

 

しかし、主イエスが弟子たちにお告げになりたい真実は、1314節の御言葉です。「最後まで耐え忍ぶ者は救わる」ということ、ユダヤ人と異邦人たちに迫害されたキリストは、十字架の死に至るまで耐え忍ばれて、父なる神に従順に従われました。だから、父なる神は死人の中から主イエスを復活させられました。

 

この世の終わりに向けて、わたしたちがどんな死に方をしようと、迫害という恐ろしい死であろうと、病気という惨めな死であろうと、最後まで主イエスをキリストと信じて、死ぬのであれば、キリストは再臨されます。栄光の王としてすべてのものを支配し、わたしたちを御自身のように死人の中から栄光の体に復活させてくださいます。

 

ですから主イエスは、わたしたちにキリスト教会が異邦人に、世界の民に福音を宣べ伝え、そしてキリストの再臨とこの世の終わりが来ると約束してくださっています。

 

教会とキリスト者の使命は、キリストの再臨に向け、この世の終わりに向けて人々にキリストを伝えて、伝道することです。キリストにあって神に選ばれたすべての者がキリストの福音にあずかった後に、キリストは再臨され、この世は終わり、そして神の御国が来るのです。そしてわたしたちの救いが完成します。

 

ですから全世界の人々に教会がキリストを宣べ伝えることが、実は本当のこの世の終わりのしるしです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、教会は主イエス・キリストに全世界の人々にキリストを伝え、洗礼を施し、キリストの弟子とする使命を与えられています。どうかわたしたちもその伝道の使命を果たす力をお与えください。この町の人々に、わたしたちの家族と親せきに、わたしたちの友だちにキリストを伝える勇気を与えてください。この世は罪の世界ですから、教会とキリスト者たちに多くの困難があり、弱さがあります。どうか最後までキリストを信じて、従う忍耐をお与えください。何よりも主イエスよ、わたしたちのところに来てください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

                

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教097       主の2013421

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「御霊なる神よ、わたしたちの心に御言葉の光を輝かせてください。わたしは命であり、真理であると証しされたキリストの御声を聞かせてください。その御声に従い、今朝の御言葉を理解し、信仰の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者、聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。」

 

                  マタイによる福音書第241528

 

 

 

 説教題:「大きな苦難を覚悟する」

 

 弟子たちが主イエスにエルサレム神殿の建物を誇りました時、主イエスは弟子たちに神殿は確実に破壊されると予告されました(マタイ242)。そして主イエスは、弟子たちとオリーブ山に行かれました。そこで弟子たちは、主イエスに二つの質問をしました。第1の質問は、エルサレム神殿はいつ破壊されるのか、です。第2の質問は、主イエスが再臨され、終わりの時が来るしるしは何か、です。

 

 先週わたしたちは、弟子たちの第2の質問を学びました。今朝は、弟子たちの第1の質問に関係する、主イエスが弟子たちに大きな苦難を予告されたことを学びましょう。

 

 この大きな苦難は、エルサレム神殿の破壊と関係していました。神殿だけでなく、エルサレムの都が破壊されるという大きな苦難が来ることを、主イエスは弟子たちに旧約聖書の預言者ダニエルの預言を通して予告されました。

 

 ダニエルは、バビロンに捕囚されたユダヤの民であります。彼はユダ族の王族の出身で、紀元前605年にバビロン帝国のネブカドネツアル王がエルサレムを侵略した時に、バビロンにつれて行かれました。そして他の3人の若者と共にバビロンの王に仕える者となる訓練を受けました。そして彼はネブカドネツアル王、息子のベルシャツァル王、そしてメディアのダレイオス王とペルシアのキュロス王に仕えました。彼は、幻を見て、その真実を説き明かす賜物がありました。

 

 ダニエル書は、全部で12章あり、前半の16章がダニエルと3人の若者の信仰と迫害にかかわる出来事を記しています。そして後半の712章が預言であります。

 

主なる神はダニエルに「おまえは愛されている者だ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ」と告げられました。その中に次の3つの御言葉があります。

 

ダニエル書927節「憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。」ダニエル書1031節「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち、聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものである。」ダニエル書1211節「日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。」

 

 15節の「預言者ダニエルが言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」という御言葉は、上の3つの御言葉の要約であります。

 

 「読者は悟れ」という挿入の言葉があります。これは、二通りの理解があります。第1は、主イエスが聴き手に注意を促されたという理解です。第2は、マタイによる福音書がわたしたち読者に注意を促しているという理解です。わたしは第2の理解の方が良いのではないかと思っています。

 

 預言者ダニエルが預言した「憎むべき破壊者」とは、誰か、はっきりとは分かりません。シリア・セレウコス王朝のアンティオコス・エピファネスではないかと考えられています。

 

彼は、紀元前168年にユダヤ人たちを迫害しました。ギリシャの宗教をユダヤ人たちに強制し、エルサレム神殿にゼウス神のために祭壇を設けて、豚の肉を献げて、神を冒涜しました。彼は、計画的にユダヤ教をこの世界から消そうとしました。そのとき主なる神は、ユダ・マカバイとその兄弟たちを起こし、翌年の紀元前167年にマカバイの反乱によってシリアから独立し、エルサレム神殿を清めました。

 

 主イエスが弟子たちに「憎むべき破壊者が聖なる場所に立つのを見たら」と言われたのは、完全な破壊のしるしとして、です。

 

「聖なる場所に立つ」とは、聖なる場所を汚すという意味です。その意味について、次の二つの解釈があります。第1は、紀元68年に熱心党の者たちがローマ帝国と戦うためにエルサレム神殿を要塞化し、汚しました。第2は、旧約聖書の時代からパレスナは、神の約束の土地、聖なる場所でありました。そこに紀元69年にローマ帝国の軍隊が押し寄せて来ました。聖なる場所が異邦人に汚され、紀元70年にエルサレム神殿とエルサレムの都を完全に破壊されました。マタイによる福音書は、第2の立場を支持していると思います。

 

主イエスは、弟子たちに「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と警告されました。切迫しているエルサレム神殿とエルサレムの都の滅亡に際して、1622節において逃げることを何よりも優先するように警告されています。

 

そして、この大きな苦難をエルサレム教会は、紀元70年に体験したのです。マタイによる福音書は、それを踏まえてわたしたちに語っているのです。

 

エウセビオスという古代の教会史家が書きました『教会史』に依りますと、ローマ軍がパレスチナに入りますと、ユダヤとエルサレムに住んでいたキリスト者たちは、今朝の主イエスのお言葉の通りに、エルサレムの町を捨てて、実際にトランス・ヨルダンの山の中にありますベラという町に逃げました。距離にして160キロ、ガリラヤ湖から25キロ離れた町です。

 

エルサレム教会のキリスト者たちは、主イエスが弟子たちに警告されたお言葉を忠実に守り、ただ逃げました。早く逃げなければならなかったので、妊娠している女性と乳飲み子を持つ母親は、160キロの道なき山道を逃げなければならかったので、本当に気の毒だったとお思います。

 

主イエスは、弟子たちにこの大きな苦難が寒い冬や安息日に起きないように祈りなさいと警告されました。準備して逃げられませんので、冬になれば、着る服もありませんので、避難民たちは凍死してしまうでしょう。

 

また安息日は、使徒言行録の112節に記されていますように、ユダヤ人たちの律法に従えば、エルサレムの町からオリーブ山までの1キロほどしか歩くことが許されていません。エルサレム教会のキリスト者たちは、安息日の律法を厳粛に守っていました。だから、ローマ帝国の軍隊が安息日にエルサレムに攻めて来たら、遠くに逃げられなかったでしょう。

 

エルサレム教会のキリスト者たちは、主イエスが弟子たちに21節において「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」と予告し、逃げるように警告された、この大きな苦難を、ローマ帝国の軍隊がエルサレムに攻めて来て、神殿と都を破壊した出来事と理解しました。

 

最後に主イエスは、弟子たちに次のように予告されました。「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。」

 

 マタイによる福音書は、この御言葉によってローマ帝国の軍隊は、エルサレムの町を包囲し、抵抗する町の人々が餓死する戦術を取ったことを教えています。この戦いは、歴史上もっとも悲惨な戦いの一つになりました。なぜなら、ユダヤの人々は、主イエスの「山に逃れよ」という警告に従わないで、多くの者たちが次々エルサレムの町に入り、飢餓を大きくし、深刻にしたのです。

 

ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、ユダヤ戦記という書物の中で次のようにその悲惨さを記録しています。「やがて飢饉が広がり、家と家族をのみ尽くした。二階の部屋は餓死する女、子供で満ち、町の小道には老人の死体がうず高く積まれ、子供も若者も影のように広場をさまよい、いたるところで倒れていった。死体を埋めようとしても病人にはその力なく、元気な者も、あまりにも死体の数が多いのと、自分もいつ死ぬかわからないのとで手をつける者がなかった。他人を埋めながら自分も死んでいく者、死ぬ前に自分で棺入る者も多かった。この惨状の中で悲しむ者もなく、泣く者もなかった。死を前にして人々は、先に死んでいった人たちを見て泣く涙もなく、語る言葉もなかった。重苦しい沈黙と死の夜が町全体を包んでいた。そして、死んでいく者の目はみな、神殿をじっーと見つめていた。」もちろん飢餓の中で親は子を食べたのです。

 

 戦争に略奪はつきものですが、エルサレムに入りましたローマ軍は、あまりの悲惨さに家々に入り物を盗ることができませんでした。この戦争によって百十万人が死に、九万七千人がローマ軍の捕虜になったと、ヨセフスは証言しています。戦争が長引いていれば、捕虜になった人々も皆、死んだことでしょう。そして、その捕虜たちの中にマタイによる福音書は、父なる神が主イエス・キリストを通して選ばれた神の民たちがいたこと証ししています。

 

 マタイによる福音書は、主イエスが弟子たちに予告された大きな苦難を回想しています。そして、読者に二つのことを教えてくれています。第1は、大きな苦難に出会った時、一番に優先するのは、主イエスの御言葉に従うことです。第2は、この世においてわたしたちが大きな苦難に巻き込まれた時、父なる神は主イエスを通して選ばれた神の民が一人も滅びないように、苦難の時を縮めてくださるという主イエスの約束です。教会が迫害という大きな苦難を受けたとき、神は、神の民を救いためにそのときを縮めてくださいます。

 

 主イエスに心から信頼して、人生を歩みたいと思います。お祈りします。

 

 御在天の父なる神よ、わたしたちがこの世においてまことに平安を得ることができるのは、わたしたちが、いつ主イエスが再び再臨されるのか、その予定表を持っているからではありません。主イエスの御言葉に信頼し、どんな大きな苦難があっても、わたしたちをお守りくださると信頼しているからです。あなたは、「戻って来て、わたしのところにあなたがたを住まわせる」と約束してくださいました。どうか御国に至るまでこの地上におけるわたしたちの信仰をお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。