マタイによる福音書説教086           主の201316

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、今朝の聖書の御言葉とその説き明かしである説教を、聞きますわたしたちの心に留めさせてください。そして、わたしたちに信仰の慰めと励ましをお与えください。今年1年もあなたの御言葉によってわたしたちをお導きください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 

                   マタイによる福音書第212832

 

 

 

説教題「神の御心を行う者の幸い」

 

昨年、主イエスがユダヤの指導者たちであります祭司長と長老たちから「何の権威で神殿の中で教え、癒しをしているのか」と質問され、主イエスが逆にユダヤの指導者たちに質問を返されて、「洗礼者ヨハネの権威はどこから来たのか、神からか、それとも人からか」と言われて、ユダヤの指導者たちが民衆たちを恐れて、「分かりません」と答えましたので、そこで主イエスも、彼らに何の権威で御自分が神殿の中で民衆たちに教え、彼らを癒すのか、答えならなかったことを学びました。

 

今朝の御言葉は、その出来事と続いています。主イエスは、ユダヤの指導者たちの心の頑なさを見抜かれて、ふたつのたとえ話を彼らになさいました。それが「二人の息子」のたとえと「ぶどう園の農夫」のたとえです。

 

主イエスは、祭司長と長老たちに「ところで、あなたたちはどう思うか」とお尋ねになり、二人の息子のたとえをお話になりました。

 

「ある人が二人の息子を持っていました。父は、第一の者に近づいて告げました。『子よ、あなたは行け、今日、ぶどう園で働け』と。彼は返事して言いました。『行きたくない』と。しかし、その後心を変えて、彼は行きました。父は、またもう一人に近づいて同様に告げました。彼はそこで返事して言いました。『主よ、わたしは行きます』と。しかし、彼は行きませんでした。二人のうちどちらが父の意志を行ったか。」彼らは言う、「第一の者」と。

 

イエスは彼らに言われます。「アーメン(まことに)わたしはあなたがたに言います。徴税人たちと遊女たちは神の国にあなたがたに先立って行く。なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに義の道を持って来た。そしてあなたがたは信じなかった。しかし、徴税人と遊女たちは彼を信じた。しかし、あなたがたは見ても、その後彼を信じるようになおも心を変えなかった。」

 

主イエスのお話の中心は、心、信仰です。2度イエスは、29節と32節に「後で考え直して」と言われています。「その後心を変えて」という言葉です。ぶどう園を持つ父が二人の息子にぶどう園で働くように命じました。最初に命じられた兄は、「嫌です、行きたくありません」と反抗しました。しかし、その後で心を変えました。そして、父の意志に従い、ぶどう園へ行って働きました。

 

父親は、兄に断られたので、同様に弟のところに行き、同様に命じました。弟は、父の命令を素直に聞きました。そして父に「主よ、わたしは行きます」と言いました。しかし、彼は父と言葉で約束したことを実行しませんでした。

 

主イエスは、ユダヤの指導者たちにふたりのうちどちらが父の意志を行ったのかと質問されました。当然ユダヤの指導者たちは、「兄だ」と答えました。

 

その時に主イエスは、彼らに神の裁きを宣言されました。心頑なゆえに父なる神が遣わされたヨハネが伝える「義の道」、すなわち、神の救いの道を信じようとしない彼らに、神の裁きを告げられました。あなたがたに先立って、徴税人と遊女たちが神の国に入ると。神の律法である、モーセ律法を熱心に守って来たユダヤの指導者たちは、自分たちこそ神が選ばれた民であり、一番に祝福してくださるとおごっていました。そして、徴税人と遊女たちは、モーセ律法を守らない滅びの民であると軽蔑していたのです。ところが主イエスは、彼らに「あなたがたが見下げていた者たちが、ヨハネとわたしを信じて、どんどんと先に神の国に入っている」と宣言されました。

 

今朝の主イエスのたとえ話は、わたしたちに神の義を、神の救いの道を示すことが目的です。そこでわたしたちが第1に認めることは、兄が父に反抗したように、わたしたちも神さまに反抗してきた自分の罪を認めることです。第2は後で考え直して、つまり、心を入れ替えて、キリストを信じることです。

 

父なる神は、洗礼者ヨハネによって罪を悔いて水で洗礼を受け、自分の心を変えてキリストを信じた徴税人と遊女たちを、キリストへの信仰とキリストへの食卓に、そして神の御国へとお招きになりました。

 

そして、ユダヤの指導者たちは、それを見ていました。だが、主イエスが言われるように、彼らは心を頑なにして、その後で心を変えることはありませんでした。

 

わたしたちが心を変えて、主イエスを信じることは、主イエスの選ばれないとできません。主イエスは、弟子たちに「あなたがたが、わたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」と言われています。主イエスは、御自身が選ばれた者を憐れみ、その者に聖霊と福音をお与えくださり、まず自分たちの罪を知らされます。次に彼の心を方向転換し、キリストの十字架に心を向けられます。それがわたしたちの罪を赦される神の愛であることを知らしてくださり、受け入れるように説得してくださいます。そして主イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊によって、わたしたちの生涯、主イエスを信じ、愛して、神の御心を求めて歩む者とさしてくださいます。

 

それがわたしたちの教会生活であり、礼拝生活であります。その生活を中心として、わたしたちは、この世の生活を、神の御心を求めてします。わたしたちは、神の御国に入るまでは、完全に罪を免れません。ですから、兄のようにある時は「嫌です」と神に反抗しますが、後で考え直し、御心を行わせてくださいと祈ります。信仰生活は、その繰り返しでありますが、主と共に歩む幸いな歩みであると思います。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今年一年、今朝の御言葉を信じて歩ませてください。ルターが、キリスト者の生活は悔い改めの生涯であると言っています。まことにわたしたちは、十字架のキリストゆえに神に罪を赦され、神の子とされた恵みを覚えて感謝します。神に反抗して生きていたわたしたちの心を、主イエス・キリストに向けてくださり、キリストを信じて、今朝もキリストの食卓に、神の御国にお招きいただき感謝します。小さな者でありますが、教会においてわたしに知らされたキリストの福音を、わたしの家族、知人、この町の人々に知らせる勇気をお与えください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教087           主の2013113

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、聖書の御言葉とその説き明かしである説教に、わたしたちの耳を傾けさせてください。キリストの福音を聞きますわたしたちに信仰を与え、心をへりくだり、キリストをわたしたちの救い主と信じ、受け入れることができる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 「もう一つのたとえを聞きなさい。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。また他の僕たちを前より多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。」

 

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。

 

                   マタイによる福音書第213346

 

 

 

説教題「ぶどう園と農夫」

 

主イエスは、受難週の二日目、エルサレム神殿において民衆たちに教え、病人たちをいやされました。そこにユダヤの指導者たちであります祭司長たちと長老たちがやって来て、「何の権威で神殿の中で教え、癒しをしているのか」と質問しました。主イエスは、逆に彼らに質問を返されて言われました。「洗礼者ヨハネの権威はどこから来たのか、神からか、それとも人からか」と。彼らは民衆たちを恐れて、主イエスに「分かりません」と答えました。

 

主イエスは、ユダヤの指導者たちの心の頑なさを見抜かれて、ふたつのたとえ話を彼らになさいました。それが、先週学びました「二人の息子」のたとえと今朝学びます「ぶどう園の農夫」のたとえです。

 

主イエスは、祭司長と長老たちに二人の息子のたとえをお話になり、「あなたがたが神さまとの交わりから締め出している徴税人たちや娼婦たちの方が先に天の国に入る」と宣言されました。

 

そのわけは、ユダヤの指導者たちが受け入れなかった洗礼者ヨハネを、徴税人たちや娼婦たちが受け入れたからです。徴税人たちと娼婦たちは、洗礼者ヨハネを主なる神が遣わされた預言者と信じて、神がヨハネを通して示された「義の道」を受け入れました。

 

義の道とは、神が明らかになさった救いの道です。罪を悔い改めて、神が遣わされるメシアを信じて、救われる道です。洗礼者ヨハネは、民衆に罪を悔いるために、水で洗礼を受けるように招きました。そして彼の後から来られるメシア、主イエスを信じるように促しました。徴税人たちと娼婦たちは、主イエスをメシアと信じて、ユダヤの指導者たちよりも先にどんどん天の国に入っていました。

 

今朝は、主イエスがユダヤの指導者たちになさったもう一つのたとえ話を学びましょう。ぶどう園の悪い農夫たちのたとえ話です。

 

主イエスは、神から遣わされたメシアとして、権威ある口調で、ユダヤの指導者たちにもう一つのたとえを話されました。「もうひとつのたとえを聞きなさい」と。主イエスの言われた口調は、こうです。「ほかのたとえを、あなたがたは聞け」と。主なる神が御自身の民に命じられるように、主イエスは民の指導者たちにお命じになりました。

 

さて、主イエスのたとえ話は、悪い小作人のお話です。今日「小作人」という言葉は、使われなくなりました。日本では戦後農地改革によりこの世から地主という存在がなくなりました。そして、その地主から土地を借りて、米を作る農民もいなくなりました。

 

主イエスの時代には小作人がたくさんいました。ある地主がぶどう園を造りました。自分のぶどう園に垣を巡らせて守り、収穫したぶどう実を絞ってぶどう酒を製造できるように、搾り場を掘りました。そして、見張りやぐらを建てました。この地主が造ったぶどう園を借りたのが、小作人である農夫たちです。

 

さて、ぶどう園の主人は、彼のぶどう園を、農夫たちに貸して、遠い国へ旅に出ました。そして、ぶどうを収穫する時期になりましたので、収穫されたぶどうを受け取るために彼の僕たちを農夫たちのところに遣わしました。

 

ところが、悪い農夫たちは、遣わされた主人の僕たちを捕まえて、ひどい目に遭わせました。一人の僕は半死の目に遭いました。他の僕は殺されました。さらにもう一人の僕も石で打ちました。殺されたのでしょう。ですから、35節に「一人を石で打ち殺した」と訳しています。

 

主人は悪い農夫にたちに対して寛容と忍耐を示し、前よりさらに多くの彼の僕たちを遣わして、農夫たちに収穫したぶどうを受け取ろうとしました。しかし、結果は前と同じでした。

 

そこで主人は、彼の跡取りである息子を、悪い農夫たちのところに遣わしました。「自分の息子なら、彼らが敬ってくれる」と考えたからです。

 

ところが、悪い農夫たちは、彼の息子を見ると、「跡取りだ。あいつを殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と言って、彼らは息子を捕まえて、ぶどう園の外に放り出して、殺してしまいました。

 

主イエスは、ユダヤの指導者たちに「ぶどう園の主人から遠くの国から帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」と質問されました。指導者たちは答えました。「主人は、悪い農夫たちをひどい目に遭わせて、収穫を納める別の農夫たちに貸すにちがいない」と。

 

指導者たちの答えは正しかったでしょう。そして、主イエスは、彼らを聖書の御言葉に向けられました。主イエスは、聖書の専門家であるユダヤの指導者たちに「聖書で、まだあなたがたは読まなかったのか」と言われて、旧約聖書の詩編1182223節の御言葉(旧約P958)をお示しになりました。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。

 

工事中に現場で働く者たちから建物に不適当であるとはねられていた石が、建物が完成の間近になり、建物を支える隅の親石であることが分かりました。

 

そのようにユダヤの指導者たちが十字架に捨てた主イエスを、主なる神さまは救いを完成する土台石とされました。

 

主イエスは、言われました。神の国は、心頑なで、洗礼者ヨハネが示した義の道を信じないで、主イエスを捨てた指導者から取り上げて、主イエスを信じる信仰の実を結ぶすべての民族に与えられるだろう。主イエスという石につまずく者は、滅びることになると宣言されました。

 

そこまで主イエスのお話を聞いたユダヤの指導者たちは、悪い農夫が自分たちであると、主イエスが言われていることに気づきました。

 

彼らは、主イエスを捕らえて、殺したかったでしょう。しかし、民衆たちは、主イエスを主なる神が遣わされた預言者であると敬っていました。ですから、指導者は民衆を恐れて、何もできなかったのです。

 

主イエスは、ユダヤの指導者たちに何をお話になりたかったのでしょうか。ぶどう園とは、何でしょうか。そこで働く農夫とは誰でしょうか。

 

主イエスがこのたとえ話をなさった時に、手本にされた御言葉があります。旧約聖書のイザヤ書5章です。主なる神さまがぶどう畑の歌を歌われました。ぶどう畑とは、イスラエルの神の民です。主なる神は、彼らを奴隷の地エジプトから救い出されて、シナイ山において「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたは祭司の国」となると契約を結ばれました。そして、約束の地カナンに神の民を導かれました。しかし、彼らは主なる神に背向いて、カナンの神々を偶像礼拝し、酸っぱいぶどうの実となりました。そこで主なる神は、御自身とぶどう畑であるイスラエルの神の民との間を裁くと歌われました。民たちは、主なる神の裁きによってアッシリアとバビロンに捕囚されると宣告されました。

 

主イエスは、ぶどう畑のたとえを手本として、ぶどう園である神の民の救いの歴史を語られました。悪い農夫は、シナイ山で主なる神と契約を結びましたイスラエルです。彼らは、ぶどう園の主人である主なる神がお遣わしになった僕たち、預言者たちを次々と迫害しました。その一人である洗礼者ヨハネも殺されました。イスラエルの民の歴史は、主なる神に背いた歴史でした。そして、主なる神は独り子主イエスをお遣わしになりました。しかし、ユダヤの指導者たちはエルサレムの町の郊外で、神の御子である主イエス・キリストを殺しました。

 

主なる神は、洗礼者ヨハネと御子主イエスによって御自身がお示しになった義の道をユダヤの指導者たちが拒みましたので、彼らとユダヤ教をお捨てになり、十字架のキリストを救い主と信じる信仰を持つ民族に、すなわち、キリスト教会に御国を委ねられました。

 

十字架のキリスト、ユダヤの指導者たちが捨てた石が、キリスト教会の信仰の中心となり、世界のすべての人々がこのキリストによって救われ、裁かれるのです。すなわち、キリスト教会が伝えるキリストの福音、十字架のキリストを救い主と信しる者は、どんどん天国に入れられ、信じない者は滅びへと至るのです。

 

主イエスは、これがこの世において神がなされた救いの御業であり、人の目には不思議に見えると、聖書に書かれていると言われました。

 

今主イエスのお言葉は、わたしたちの生活の中で事実となり、教会は十字架のキリストを宣べ伝えています。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、信じるわたしたちには神の力で」あります。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、十字架のキリストを、わたしの救い主と信じる信仰をお与えくださり、神の御国に入る喜びを与えられ、感謝します。小さな者でありますが、教会においてわたしたちに知らされたキリストの福音を、わたしの家族、知人、この町の人々に知らせ、信仰の実を結ぶ者をお与えください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教088           主の2013120

 

 

 

 聖霊の照明を求めてお祈りします。「聖霊なる神よ、聖書の御言葉とその説き明かしである説教に、わたしたちの耳を傾けさせてください。キリストの福音を聞きますわたしたちに信仰を与え、心をへりくだり、キリストをわたしたちの救い主と信じ、受け入れることができる者とならせてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。」

 

 

 

 イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでてください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいにになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 

                マタイによる福音書第22114

 

 

 

説教題「婚宴のたとえ」

 

先週主イエスは、ユダヤの指導者たちに「ぶどう園と農夫」のたとえ話をされました。主イエスは、ユダヤの指導者たちにそのたとえを用いてイスラエルの滅びと教会の選びという、神の救いの歴史を話されました。イスラエルは、主なる神に奴隷の地エジプトから救われて、シナイ山において十戒を授けられ、神の民、祭司の国とされました。彼らは、世界の諸国民に神の救いを伝える務めを与えられました。しかし、彼らは主なる神がお遣わしになった預言者たちを迫害し、そして今神の一人息子である主イエスを殺そうとしています。主イエスは、ユダヤの指導者たちにはっきりと宣言されました。ユダヤの指導者たちが自分たちに必要ないとエルサレムの郊外のゴルゴタの丘の上で十字架刑にして、殺した主イエスを、主なる神が神の国の土台の石とされたと。主イエスが神の救いの中心とされましたと。 

 

主イエスは、すべての人々を救いと滅びに分かつ石です。主イエスを信じる者は神の国に入り、信じない者は滅びの裁きを受けるのです。そして、イスラエルに代わって異邦人たちの教会が、十字架の主イエス・キリストを救い主と信じて、神の国に入れるという喜びの世界の人々に知らせる務めを担うのです。

 

今朝の「婚宴のたとえ」は、「ぶどう園と農夫」のたとえと同じ話です。主イエスは、神の救いの歴史を話されています。

 

このたとえ話の鍵となる言葉は、1つは「天の国」です。次に王が息子の婚宴に人々を招待することです。3つ目は婚宴の用意ができていることです。4つ目は資格があると思われる人々は拒み、資格のない人々が招かれたことです。そして、最後に婚宴に出席するためにふさわしい服装というのがあります。

 

お話の筋を述べますと、次の通りです。これは、天の国についてのたとえ話です。すなわち、神の救いの歴史をお話になりました。

 

ある王さまがいました。王は、彼の後継者である王子の婚宴を催しました。そして、王の家来たちを遣わして、あらかじめ結婚式の披露宴に招いておいた人々を招待しました。しかし、人々は王の招待を拒みました。

 

王は、別の家来たちを遣わして、「結婚式の披露宴の用意ができています。豪華な食事も用意しました。披露宴に来てください」と招待しました。しかし、人々は王の招待を無視しました。無視した人々の一人は、畑仕事に行きました。さらに無視した人々の一人は商売に出かけました。さらに無視した他の人々は、王が遣わした家来たちを殺してしまいました。それを知りました王様は怒りました。王様の招待を拒みました人々に軍隊を送り、家来たちを殺した人々を殺し、彼らの町を滅ぼしました。

 

王子の結婚式の披露宴は用意できているのです。しかし、王があらかじめ招待した人々はふさわしくありませんでした。王は、家来たちに「誰でも良いから大通りを歩いている人々を、見かけた人は誰でも招きなさい」命じました。その結果、結婚式の披露宴には、善人も悪人も皆集まりました。披露宴は客で満員になりました。

 

王は満足したでしょう。ところが王が客の一人を見ますと、婚礼の礼服を着ていない者がいました。王の招きを受けて、披露宴に出席した人々を、王様は自分の友であると喜びました。しかし、その一人が王様の招きに対してふさわしい服装で出席しませんでした。王様はその人に理由を尋ねましたが、その者は答えませんでした。王様はその者を婚宴の席から追放しました。主イエスは、その時に追放された者は後悔するだろう。でも時はすでに遅いと言われました。そして主イエスは、ユダヤの指導者たちに「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と告げられました。

 

王様は、主なる神さまのことです。婚宴、結婚式の披露宴は、天の国、神の国です。王様の家来たちは預言者たちと主イエスの弟子たちです。王様の招待を拒んだ人々とは、ユダヤ人指導者たちとユダヤ人たちです。彼らは、預言者たちや主イエスの弟子たちを迫害し、殺しました。何よりも神の御子主イエス・キリストが父なる神に遣わされて、彼らを神の国に招きましたのに、殺してしまいました。

 

ですから王である主なる神は怒り、ユダヤの国にローマの軍隊を送り、紀元70年にユダヤの国とエルサレムの町を滅ぼされました。

 

そして、その後王である神さまは教会の宣教を通して、ユダヤ人と異邦人を区別せず、善人と悪人を区別せず、通りを歩いているすべての人々を、神の国に招かれています。

 

こうして世界中の教会に多くの人々が集まっています。しかし、王である神の天国の招きに与るためには、それにふさわしい婚礼の服装が必要です。神に招かれて、教会に来る人々を、神は御自身の友と呼ばれます。教会は、神の友、兄弟姉妹と呼ばれる者たちの集まりです。そして、王である神さまは、御自身の友として、御自身の祝宴にお招きくださいます。悪人であれ、貧しいものであれ、病気の者であれ、体や心に重荷がある者であれ、日本人であれ、外国人であれ、神さまは、わたしたちを教会に友として招かれます。しかし、招かれた者は「婚礼の服装」が必要です。それが信仰です。王の王子、神の御子キリストに対する信仰が必要です。信仰がなければ、最後は神の裁きの下に置かれます。

 

主イエスは、婚宴のたとえ話を用いて、わたしたちの教会のお話をされました。神さまの救いは、教会の宣教を通してなされています。教会の伝道集会だけが宣教ではありません。礼拝を通して、わたしたちが日常生活の中でキリストを証しすることを通して今も神さまは、この世のすべての人々を神の御国に招かれています。

 

主イエスは、弟子たちに十字架にかかられる前に次のようにお話しになりました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ1413

 

キリストが復活し、天に昇られ、御国は用意されました。そして、天国に帰られたキリストは、聖霊を通して、教会の宣教を通して、この世のすべての人々を天の国に招かれています。しかし、この招きに信仰が必要です。キリストをわたしの救い主と信じなければ、天の国に入ることはできません。

 

毎月、そして、ペンテコステとクリスマスに行われます聖餐式は、キリストがわたしたちを天国の祝宴にお招きくださる恵みです。この恵みはだれもが招かれています。しかし、あずかるためには、信仰が必要です。キリストをわたしの救い主と信じ、洗礼を受けて、キリストの義という衣服を着て、わたしたちはキリストが招かれる天国の祝宴、聖餐に与ります。

 

このように主イエスは、教会の伝道、宣教を通してすべての人を招かれます。主イエスは、わたしたちに出会うすべての人々に声をかけなさいと命じておられます。教会に来られませんか。聖書を読まれませんか。そして、主イエスは招かれた者を、さらに選別されます。信仰によってです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、主イエスは今もわたしたちの教会の宣教を通して、わたしたちの伝道を通して、この世のすべての人々を神の御国へとお招きくださり、感謝します。また、招くだけでなく、わたしたちにキリストの福音を知らせ、主イエスをわたしたちの救い主と信じさせてくださり、天国の前味である聖餐の恵みにあずからせてくださって感謝します。どうか、わたしの家族、知人、この町の人々がわたしたち同様に信仰の実を結び、天国の祝福にあずからせてください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。