マタイによる福音書説教078 主の2012年10月7日
聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
マタイによる福音書第19章23-30節
説教題:「神は何でもできる」
今朝は、マタイによる福音書19章23-30節の御言葉を学びましょう。23節に「イエスは、弟子たちに言われた」という文章で始まっています。主イエスが、12弟子たちに大切なことをお教えになりました。
その発端は、先月に学びました金持ちの青年が主イエスに「永遠の命を得るには何をすればよいでしょうか」と尋ねました事件であります。
主イエスは、その青年に「あなたのすべての財産を、貧しい人々に施し、天に宝を積み、身一つで、わたしに従って来なさい」とお命じになりました。
ところが、青年は、主イエスのお招きを断りました。彼は多くの財産を持っていたからです。彼は、富があるゆえに、主イエスに従うことがきませんでした。その結果、彼は悲しみながら、主イエスのもとを去って行きました。
主イエスは、金持ちの青年が自ら求めた永遠の命を得ることに失敗したことを御覧になり、12弟子たちに富の危険を教え、神にのみ信頼するように警告されました。それが、23-26節の御言葉であります。
まずは、23節と24節の主イエスのお言葉を学びましょう。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しい。」
「はっきり言っておく」。主イエスが言われたままに、言いますと、「アーメン(まことに)わたしは言う、あなたがたに」です。
この言い方を、主イエスはマタイによる福音書の中でよくなさっています。主イエスが弟子たちに終末に関する発言をなさった時、この言い方を繰り返されています。終末とは、この世の終わりです。その時人の子であるキリストが再臨されます。そして、神の栄光の座にすわられ、すべての人を裁かれます。
23節と24節は、終末の審判者である人の子、主イエスが弟子たちにお告げになったお言葉です。
主イエスは、12弟子たちにいわれました。「金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しい」と。
25節に12弟子たちが主イエスのお言葉にどのように反応したかを記していますね。弟子たちの耳には金持ちが神の国に入るのは絶対に不可能であると聞こえました。では、わたしたちの耳には何と聞こえていますか。弟子たちと同じですか。違いますか。
聖書に「金持ちが天の国に入るのは難しい」と、主イエスが言われていますね。本当に主イエスは、そのように言われているのでしょうか。ギリシア語の新約聖書は少し表現が違いますね。それをそのまま日本語にしますと、ちょっと意味が変わると思います。「富む人は困難しながら天の国に入るだろう」。
主イエスは、金持ちは絶対に天国に入れないとおしゃっておられません。主イエスは、御自身のもとを去りました金持ちの青年を見送りながら、弟子たちに言われました。「彼は、富があるゆえに困難しながら天の国に入るだろう」。
「天の国」と「神の国」は、神の支配を意味します。先ほどわたしたちは、主の祈りを祈りましたね。「御国を来たらせたまえ」。続いて「御心が天で行われるように、地でも行われますように」と。「天の国」と「神の国」は、単に場所や空間ではありません。神の御支配です。神の御心にわたしたちが従い、それを行うならば、そこは「神の国」です。ところが金持ちの青年は、彼の富が主イエスに従うことを妨げました。それゆえに主イエスは、弟子たちに「富める人は、困難しながら神の支配に入るだろう」と教えられました。
また主イエスは12弟子たちに言われました。「重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、だくらが針の穴を通る方が易しい」。「重ねて言う」とは、「それで再びわたしは言う、あなたがたに」という、主イエスのお言葉です。すなわち、主イエスは、2度繰り返して「はっきり言う」と言われました。富の危険を、12弟子に教えるためです。
続いて主イエスは言われました。「一層容易である。らくだが針の穴を通って入ることは、富める人が神の国に入るよりも」。
らくだは、主イエスの時代のユダヤ人が知っている身近な動物の中で一番大きなものでした。エルサレムの町は、城壁で囲まれていました。門が2つありました。大きな門は商人や通行人が出入りする正門でした。その他に小さくて低く狭い門がありました。正門には見張りが立ち、門限が来ると鍵がかけられました。正門から入れませんので、人々は小さな門を通ってエルサレムの町に入りました。ユダヤ人たちは、その小さな門を「針の穴」と呼びました。その門は人が身を低くしてやっと通れる小さな狭い門で、大きなだくらは通り抜けることができませんでした。そのように金持ちも神の国に入ることは容易ではない。これが主イエスのたとえの意味でした。
どうでしょうか。このように説明しますと、わたしたちの耳に、主イエスのお言葉が「金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るほどに難しい」と聞こえてきませんか。あの金持ちの青年のように、富が主イエスという狭い門を通って、神の国に入ることを困難にしているのです。
だから、主イエスは言われました。「心の貧しい者は幸いである」。「富のない貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものである」。なぜなら、貧しい者は富に煩うことなく、神のみにすがり、主イエスの狭い門を通って神の国に入るのです。
ところが、主イエスのお言葉を聞いた弟子たちは、絶望しました。彼らには主イエスのお言葉は、金持ちは絶対に神の国に入れないと聞こえたからです。
25節に「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるだろうか』と言った。」とありますね。
ギリシア語の新約訳聖書をそのまま読みますと、こうです。「聞いて、そこで弟子たちは非常に驚いて、言うには」です。弟子たちは、主イエスのお言葉を聞きました。そして、非常に驚きました。とてもショックを受けました。それは、彼らの常識が主イエスのお言葉によって、根底から覆されたからです。
わたしにはその経験はありません。あの日本の敗戦という経験です。しかしNHKの朝の連続ドラマは、2年続けて日本の敗戦をドラマの中で放映しました。体験された方々は、あのドラマを御覧になり、自分たちがただただすべてのものに絶望し、人生の根底からひっくり返された、あの大きなショックを思い起こされたでしょう。
弟子たちの常識では、金持ちは神に祝福された存在でした。だから、弟子たちは金持ちの青年が当然神の国に入ることができると思っていました。ところが、主イエスは弟子たちに言われました。「金持ちは、らくだが針の穴を通るより、天国に入ることが難しい」。弟子たちは、主イエスのお言葉に絶望しました。神に祝福された金持ちが天国に入れないのであれば、到底自分たちは救われないと思ったからです。だから、彼らは正直に主イエスに問いかけ、嘆きました。「だれがそれでは救われることができるのか」と。
弟子たちの絶望した姿を、主イエスじぃーっと見つめておられました。26節です。そして、主イエスは弟子たちに言われました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」
「人々にあっては、これは不可能である。しかし、神にあってはすべてのことは可能である。」主イエスは、弟子たちに神にのみ頼りなさいと教えられているのです。
富というものは確かに神の祝福です。しかし、その富があるゆえに、金持ちの青年は、キリストの御命令に従う謙遜な心を持つことができませんでした。彼には、富がキリストに従い、キリストの義を得て、神の国に入ることを困難にしていました。
そして、主イエスは、弟子たちが「それではだれが救われるだろうか」と問うたことに答えられて、「人間にはできないが、神は何でもできる」と答えられました。
主イエスに弟子たちが「それではだれが救われるだろうか」と問うた姿に、わたしは、自分で自分を救えない、罪ある悲しい存在であるわたしたち人間の悲惨さを見ないわけにいきません。
主イエスは、絶望した弟子たちに、自分で自分を救えないわたしたちに、希望を語られました。「神は何でもおできになるのだ」と。わたしたち人間を救うために、神は何でもお出来になるのです。そのことを、神は主イエスを通して証しされました。
すなわち、神は御自身の御子であるキリストを、この世に人として遣わし、わたしたちの罪の身代わりにキリストがエルサレムに行かれ、十字架への道を歩まれて、証しされました。
ところが弟子たちは、主イエスが教えられたことを理解しませんでした。12弟子たちを代表してペトロが、次のように自分を誇りました。27節です。「すると、ペトロがイエスに言った。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』」
ペトロは、主イエスに質問しました。「わたしたちは、あの金持ちの青年とは違います。すべてを捨てて、あなたに従いました。だから、わたしたちに何をいただけるでしょか」。
何と愚かな質問でしょう。だのに主イエスは、ペトロをお叱りになりませんでした。主イエスは、御自身に従えとお命じになった者たちが主イエスに従うのであれば、3つの祝福を与えようと約束されました。28-30節です。
第1にキリストに従う12弟子たちに、人の子が栄光の座に就くときに、御国を栄光のキリストと共に治める権威を与えると約束されました。第2にキリストに従い、親、兄弟姉妹、財産を捨てた者に、御国において百倍の報いを与えると約束されました。第3にこの世で卑しい者が天の国で尊ばれ、この世で偉い者が天の国でいやしめられる。そのように先の者が後になり、後の者が先になると約束されました。
今朝の主イエスの御言葉は、わたしたちに警告と祝福を伝えています。わたしたちが主イエスの招きに従うことを妨げる富の危険に警戒することです。富は、神の祝福です。その祝福を、わたしたちが手に入れたのは、自分たちの功績ではありません。神の恵み、主イエスの恵みです。だから、主イエスが私たちに富を捨てよとお命じになれば、わたしたちは捨てなければなりません。富を捨てたからと言って、わたしたちの永遠の命に影響はありません。むしろ、主イエスは天の国においてこの世の祝福の百倍報いてくださいます。
わたしたちの永遠の命に影響するのは、神御自身です。主イエス御自身です。なぜなら、神だけが、主イエスを通してわたしたちを救い、わたしたちに永遠の命を決定する権威を持たれているからです。
今神は主イエスを通して、わたしたちを、御言葉と聖餐の恵みへと招かれています。どうか「神はなんでもおできになる」、わたしたちを救うために。すべてを神に委ねましょう。共に「わたしに従いなさい」と呼びかけられる主イエスに従い、御国へと歩んで行きましょう。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちに主イエスに従い、神の御心を行わせてください。わたしたちは、神の御前に罪ある者です。自らを救うことはできません。ただ、わたしたちのために主イエスを十字架に渡し、わたしたちの永遠の命の保証として主イエスを死人の中から甦らされた神には何でもできることを信じます。御言葉と聖餐の恵みを通して、神が主イエスを通して今わたしたちと共に居てくださっている喜びを心より賛美させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教079 主の2012年10月14日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。御言葉を聞きますわたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、福音において提供されています主イエス・キリストを喜びをもってわたしたちの主として受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園へ行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう。』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
マタイによる福音書第20章1-16節
説教題:「後の者が先になる」
今朝よりマタイによる福音書の20章に入ります。
主イエスは、「ぶどう園の労働者」のたとえをお話しになりました。主イエスは、ぶどう園の主人が彼のぶどう園で働く日雇い労働者を雇ったことを、天の国のたとえとしてお話しになりました。
さて、ぶどう園の主人は、ぶどうの収穫期を迎えました。彼は、ぶどうの実を取る多くの日雇い労働者を必要としました。なぜなら、ぶどうを収穫する時が短いからです。およそ一週間以内にぶどう園の主人は、彼のぶどう畑のすべてのぶどうの実を取り入れてしまわなければなりません。だから、ぶどう園の主人は、一人でも多くの日雇い労働者たちを必要としました。主人は日に何度も広場に行き、日雇い労働者を雇ったのです。
そこで主イエスは、ぶどう園の主人が日雇い労働者を雇うために何度も広場に出かけ、多くの日雇い労働者を雇って、彼のぶどう畑に送り込んだことをお話しになりました。1-7節です。
「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園へ行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう。』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。」
主人は、夜が明け、一日が始まると、広場に出かけました。多くの労働者たちが広場に、仕事を求めて集まっていました。主人は、彼らと一日につき一デナリオンの約束で雇い入れ、彼のぶどう園に送りました。
「一デナリオン」と日雇い労働者を雇った賃金の値段が出て来ますね。主イエスの時代の労働賃金は、一日一デナリオンであると、よくお聞きになって来たと思います。わたしはこれまでそのように説教してきました。
その根拠が今朝の主イエスのお話です。ぶどう園の主人が一デナリオンで日雇い労働者を雇ったという、主イエスのお話です。
だが、ぶどう園の主人が日雇い労働者を一日一デナリオンで雇ったのは、破格の賃金でした。日雇い労働者の賃金の中で最高の金額でありました。一日それだけの賃金をいただければ、楽に生活できるという、主イエスの時代の人々が理想にした賃金だったでしょう。だから、夜明けに雇われた日雇い労働者たちは、喜んで彼のぶどう園に行き、働きました。
ところが、日雇い労働者の数が足りません。主人は、朝の9時にもう一度広場に出かけました。何もしないで立っている人たちがいましたので、彼らを日雇い労働者として雇い、彼のぶどう園に送りました。
それでも労働者が足りません。主人は、正午と午後3時にも広場に行きました。そして広場にいた人々を雇い、ぶどう園に送りました。
そして、午後5時に主人が広場に行くと、一日中雇ってもらえない人々がいました。主人は、彼らを雇い、彼のぶどう園に送りました。
続いて、主イエスのお話の後半は、ぶどう園の主人が雇った労働者たちに賃金を支払い、最初の雇われた労働者たちが不満を呟いたお話です。8-16節です。
「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前よさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
夕方の午後6時にぶどう園のぶどうの収穫の仕事が終わりました。主人は、彼のぶどう園の監督を委ねている者を呼び寄せました。そして彼に命じました。「最後に雇った者たちから順に、最初に雇った者たちまで一日の賃金を支払ってやりなさい」と。
そこでぶどう園の監督は、午後5時に雇った労働者たちに一デナリオンを支払いました。そして、午後3時、正午、午前9時に雇った労働者たちにも一デナリオンを支払いました。
朝6時から雇われた労働者たちは、丸一日働いたのだから、午後5時に雇われて一時間しか働かなかった者たちよりも多くの賃金をいただけると期待しました。ところが支払われたのは、同じ一デナリオンでした。
最初に雇われた者たちは、ぶどう園の主人に不平を述べました。一日働いた自分たちと一時間しか働かなかった者の賃金が同じであったからです。
主人は、彼らの一人に答えました。「わたしは不正をしていない。あなたがたとわたしがした契約は、一日一デナリオンではないか。その賃金を受け取って、帰りなさい。わたしは最後に雇った者たちにも一日一デナリオン支払ってやりたいのだ。自分のものを自分の思いのままにしてはいけないのか。それともわたしの気前よさを、あなたがたは妬むのか」。
ぶどう園の主人は、彼のぶどう畑のぶどうを収穫するために多くの日雇い労働者たちを必要としました。そして、一日一デナリオンという破格の賃金を、労働者たちに約束して、雇いました。最初に雇われた者たちは、ぶどう園の主人が最後に雇った者たちに自分たちと同じ賃金を支払ったので、不平・不満を述べました。「自分たちは、一日暑さを辛抱して働いたのに、一時間しか働かない者と同じ賃金とは」と。
しかし、ぶどう園の主人は、彼らの一人に答えました。主人は、第1に彼らとの約束を破ってはいません。約束通り、一日の賃金として一デナリオンを支払いました。第2に主人の恵みです。主人は、最初の者たちと破格の一日一デナリオンの賃金で労働契約を結んだだけではありません。最後に雇った者も同じ値段で雇いました。要するにぶどう園の主人と日雇い労働者の関係は、主人の恵みによって労働者たちは彼のぶどう園に雇われたのです。主人は、「わたしの気前よさを、あなたがたは妬むのか」と問いかけていますね。主人が労働者に示した破格の恵みが、このお話のテーマです。
主イエスのぶどう園の主人が日雇い労働者を雇うお話は、実は主イエスの弟子ペトロの問いかけから来ています。19章1-30節に主イエスと金持ちの青年のお話があります。金持ちの青年は、多くの財産を持っていたので、それらを捨てて、主イエスの「わたしに従え」というご命令に従えませんでした。彼は悲しみながら、主イエスのもとを去りました。その後で主イエスに、弟子のペトロが次のように問いかけました。「わたしたちはあの青年とは違います。すべてを捨てて、あなたに従っています。わたしたちには何をいただけるでしょうか。」
主イエスはペトロに主に従う者の12弟子たちに3つの祝福を約束されました。第1に神の御国で12弟子たちは主イエスと共に支配することです。第2にこの世において捨てたものの百倍もの祝福を得ることです。第3に永遠の命を受け継ぐことです。
そして、主イエスは、ペトロに最後に「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と警告されました。主イエスは、この警告の言葉によって、天の国の祝福は、人間の功績によって、神がその人間を評価されるのではなく、どんなに人の目には不公平に見えても、神の恵みによるのであると教えられたのです。
この真理を、12弟子たちに理解させるために、主イエスは、今朝のお話をされました。ぶどう園は天の国です。ぶどう園の主人は神さまです。ぶどう園の主人がぶどう園で働く労働者を雇うことは、神の救いであります。
ぶどう園の主人に最初に雇われた労働者たちは、ユダヤ人でしょう。最後に雇われた者たちは異邦人キリスト者たちでしょう。
マタイによる福音書はわたしたちにこの主イエスのお話を通して、二つの真理を教えています。第1に神さまは人の功績によって人を評価し、天の御国に入れるという報いをお与えになるのではありません。第2に神さまの救いは、神さまの全く自由な恵みです。神さまは、ぶどう園の主人のように、自分のものを自分の思うままになさり、神さまがわたしたちにお与えになる報いは、全くわたしたちのどんな行いにも左右されることはありません。
ぶどう園の主人は、広場に行くごとに何もしないで広場に立っている者、一日中何もしないでいる者たちを彼のぶどう園の労働者たちに雇いました。そして破格の賃金を報酬として与えました。主イエスは、わたしたちにこれが神の恵みの救いの本質であると教えておられます。
主イエスは、このぶどう園の主人のように大きな恵みによってわたしたちをお招きくださいます。今朝のお話は、人生を終える手前に教会に来られた方には恵みのメッセージではないでしょうか。あなたは、午後5時に雇われた労働者です。一日中、いやあなたの人生のすべてにおいてあなたは神さまのために何もしないで過ごして来たのです。でも主イエスは、ぶどう園の主人のように気前の良いお方です。御自身の十字架において一人の強盗を、彼に何の功績もなかったのに、御自身の御国に彼が入ることを許されました。
今はこの世の終わりの時代です。いつ主イエスが再臨されても不思議ではありません。5時に雇われた者とは、今の時代に生きるすべての者たちでもあります。わたしたちの教会は生れておよそ70年の歴史です。イスラエルの民がアブラハムから4000年、そして西洋のキリスト教会が2000年の歴史があることを思えば、一日中なにもしていない者に等しいものです。それでも、主イエスは毎週礼拝を通してわたしたちを天の御国に入るようにお招きくださり、わたしたちのために天の御国に住まう永遠の家を用意してくださっています。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、主イエス御自身が天国のぶどう園の主人としてわたしたちを恵みによって、天の御国にお招きくださっていることを感謝します。神の御前に何の功績もない者ですが、主イエスをわたしの救い主と信じて、ただ主イエスのお約束の御国を希望し、わたしたちの残された人生を歩ませてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教080 主の2012年11月4日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。御言葉を聞きますわたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、福音において提供されています主イエス・キリストを、わたしたちの主として受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
イエスはエルサレムに上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人のが、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されているのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
マタイによる福音書第20章17-28節
説教題:「受難の主と母たちの願い」
主イエスは、エルサレムの都に向かって歩まれていました。それは、十字架への道でありました。主イエスの十字架への道は、主イエスの運命でも、敗北の道でもありません。むしろ主イエスにとって栄光の道でありました。主イエスはエルサレムの都に入られ、数々の受難を受けられ、そして十字架の上で殺され、そして、3日目に復活されます。それは神の栄光の王座に着かれ、この世の終わりにすべての者たちを裁かれるためです。これがマタイによる福音書がわたしたちに伝えている受難の、人の子イエス・キリストです。
さて、エルサレムの都にお着きになることが目前に迫ったある日、主イエスはエルサレムへの途上において12弟子たちだけを呼び寄せられました。そして、主イエスは12弟子たちに3度目の御自身の受難と復活を予告されました。
第1回目は、16章21節です。ペトロを代表する12弟子たちが主イエスをキリストと信仰告白した後、主イエスが12弟子たちに御自身の受難と復活を語られました。第2回目は17章22-23節です。ガリラヤにおいて主イエスは弟子たちをお集めになり、御自分の受難と復活を予告されました。それを聞いた弟子たちは、とても悲しみました。
そして、今朝の御言葉が3度目です。今まで以上に主イエスは12弟子に御自分の受難と復活をはっきりとお語りになりました。主イエスは、エルサレムで祭司長たちや律法学者たちに逮捕され、死刑の判決を受けられ、異邦人たちの手に引き渡されます。そして、異邦人たちが死刑囚である主イエスを侮辱し、鞭打ち、そして、主イエスを十字架刑によって処刑にします。主イエスは、御自身を異邦人に引き渡した祭司長たちや律法学者たちに、彼らに罪があることをはっきりとお語りになりました。そして、主イエスは12弟子たちに確信を持ち「人の子であるわたしは、三日後に復活する」と告げられました。
主イエスは、12弟子たちに御自身の死と復活の確信をお告げになり、エルサレムへと向けて進まれました。
マタイによる福音書がわたしたちに伝えています主イエスは、この世の終わりにわたしたちすべての人間を裁かれる人の子として、神の栄光の座に着くために十字架の道を歩まれるメシアであります。
ですから、主イエスは、19章28節において御自身に従う12弟子たちに、御自身が栄光の座に着かれる時に、12弟子たちも12の座に座って、イスラエルの12部族を支配すると約束されました。この主イエスのお約束が、12弟子のヤコブとヨハネ兄弟と彼らの母に間違った望みを抱かせたのでしょう。
今朝のお話は、ヤコブとヨハネの母の願いであります。今朝の説教題に「受難の主と母たちの願い」としました。他の弟子たちの母たちも同じ願いをしたという意味ではありません。実は、今朝の福音書のお話は、マルコによる福音書にもあります。そこではヤコブとヨハネ兄弟が主イエスに自分たちをナンバー2とナンバー3にしてくださいとお願いしています。
しかし、ここでは「ゼベダイの息子たちの母」が二人の息子と共に主イエスを尋ねて、母が主イエスに王座に着かれたら、二人の息子をナンバー2とナンバー3にしてくださいとお願いしています。
わたしは、「母たち」によってこの3人を表そうと思いました。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを出し抜いて、自分たちが主イエスと親戚関係であることを利用して母にお願いさせたのではないかと思いました。
ヤコブとヨハネの母は、主イエスの母マリアの姉妹でした。だから、彼らの母の願いは、主イエスの親戚の者として当然の願いでした。
しかし、主イエスはこの世の王になるためにエルサレムに向かわれているのではありません。キリストの王国である天の国とこの世の王国は、王国でありますが、似て非なるものです。だから、主イエスは、ヤコブとヨハネ兄弟と彼らの母に「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。
なぜなら、ヤコブとヨハネと彼らの母は、主イエスがこの世の王国の王座に着くと信じていたからです。昔のダビデ王がイスラエル王国の王座に着いたように、主イエスもイスラエル王国の王になると信じていたのです。その時にヤコブとヨハネは、宰相、大臣にしてほしかったのです。彼らの母も、主イエスに息子たちに名誉のある座を与えてほしいと願ったのです。
だが、主イエスは、3人の願いを、そして、母親の願いを厳しく拒否されませんでした。むしろ、主イエスは弟子教育の機会とされました。主イエスに従うとは、どういうことか、主イエスが御支配される天の国は、どのようにこの世の王国と異なるか、主イエスにとって偉い物とは、どのような生き方をするものであるのか。そして、最後に主イエスは何のために十字架への道を歩むのかを、彼らに教えられました。
第1に主イエスは、ヤコブとヨハネに「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。それは、苦難の杯です。後に主イエスは、十字架にかかられる前の夜、ゲツセマネの園で父なる神に祈られます。その時に「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。この「杯を飲む」とは、十字架の死の苦しみを受けることです。主イエスは、ヤコブとヨハネに「わたしのために苦難を受ける覚悟があるか」と問われたのです。二人は「できます」と答えました。そして、ヤコブは主イエスのために殉教し、ヨハネも多くの苦難を受けました。そのことを、主イエスは御存知でした。使徒パウロが、「わたしたちが神の国に至るためには、多くの苦難を経なければならない」と言っています。そのことを、主イエスは、彼らに教えられました。
第2に神の御心に従うことです。主イエス御自身が父なる神に服従されました。主イエスの生涯はすべて、御自身で決められたのではありません。父なる神の御心です。12弟子を召されたのも、父なる神の御心でした。だから、主イエスは「わたしの決めることではない。それはわたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と言われました。主イエスは、二人に神の御心に従って生きることの大切さを教えられました。
ヤコブとヨハネの抜け駆けを知った他の弟子たちは、彼らのことで腹を立てました。そこでも主イエスは、12弟子たちの出世争いの醜さを非難されませんでした。むしろ、主イエスは天の国とこの世の王国がどんなに異なるかを明らかにされました。そして、偉い者の基準がこの世と天の国、そして教会では似て非なるものであることを明らかにされました。
この世の王国は、支配する者支配される者で成り立ちます。この世の偉い者たちは、支配者です。この世の王は人を支配し、人に苦難を与えます。しかし、主イエスの王国、天の国は、苦難と奉仕によって成り立っています。それが、神の御子が人の子となり、この地上を歩まれた道でありました。主イエスは、王です。支配者です。しかし、彼はこの世の王のように支配権力を行使されません。多くの人の命を贖い、神の御国の住民とするために、彼は力、権力を行使されません。多くの苦難を受け、人々に奉仕し、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われました。
だから、主イエスは、12弟子たちに次のように教えられたのです。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
主イエスが多くの人々の命を救うために、十字架の上で贖いの死を遂げられたことが、主イエスに従う12弟子たちが天国で偉い者となりたいと願った最高の手本であると、マタイによる福音書は、主イエスのお言葉によってわたしたちに伝えているのです。
今からわたしたちは、主イエスに聖餐の恵みへと招かれています。今も主イエスは、聖霊と御言葉によってわたしたちに仕えてくださっています。そしてわたしたちが飲む杯を通して、今もキリストはわたしたちの命を贖うために、十字架の死を遂げられたことを教えてくださいます。わたしたちも、主イエスをキリストと信じて、神の御子キリストと一つにされました。だからわたしたちは、キリストの人性にあずかり、この世で多くの苦しみを受けつつ、互いに仕え合って歩みます。それをキリストの神性が守ってくださいます。それが、信仰によってキリストに結び合わされたわたしたちのこの世における教会生活なのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、主イエス御自身が十字架の道を歩まれ、わたしたちの命を贖ってくださり、感謝します。またこの世と天国がどんなに異なるものか、教えていただき感謝します。この世の教会生活が苦難と奉仕によって成り立っていることを教えていただきました。この世で苦難を受けないキリスト者はいません。奉仕に与らないキリスト者もいません。わたしたちは、十字架の主イエスの御前に皆尊ぶべき者であることを教えられ感謝します。今御言葉だけでなく、聖餐の恵みによって天の御国にお招きくださっていることを感謝します。神の御前に何の功績もない者ですが、主イエスをわたしの救い主と信じ、ただ主イエスのお約束の御国を希望し、これからのわたしたちに残された人生を歩ませてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教081 主の2012年11月11日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。御言葉を聞きますわたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、福音において提供されています主イエス・キリストを、わたしたちの主として受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
マタイによる福音書第20章29-34節
説教題:「闇から光に導かれる主イエス」
わたしの好きな聖書の一つに、『ザニューイングリシュバイブル』があります。1970年に出版された英語の聖書です。
新共同訳聖書と同じように見出しが付いています。マタイによる福音書の20章17節から23章までに「チャレンジツージェルサレム」、「エルサレムへのチャレンジ」という見出しが付いています。
主イエスは、神の子、人の子、そして、ダビデの息子、天の国の王として、エルサレムに向けて十字架への道を歩まれます。主イエスは、天の御国の王の座に就くためにエルサレムに、そして十字架への道を歩まれます。そして、エルサレムにおいて民の指導者である祭司たちや律法学者たちと様々な論争されます。それに「ザニューイングリシュバイブル」は、「エルサレムへのチャレンジ」という見出しを付けています。
わたしは、主イエスが12弟子たちに3度目の受難と復活予告をされたことが、主イエスのエルサレムへのチャレンジ宣言だと思います。
主イエスは、エルサレムへのチャレンジの最初に12弟子たちだけに「あなたがたはわたしに何を求めるのか」とチャレンジされました。12弟子たちは皆、この世における支配者になることを求めました。主イエスはヤコブとヨハネと彼らの母に「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と答えられました(マタイ20:22)。そして、主イエスは、12弟子たちに御自身の受難を示して、苦難と奉仕こそが神のしもべであるあなたがたの求めるものであることをお教えになりました。
次に主イエスは、主イエスに従う大勢の群衆たちに「あなたがたは本当に何をわたしに求めているのか」とチャレンジされました。
それは、一つの出来事によって引き起こされました。主イエスは、エルサレムに向けて歩まれていました。そのためにエリコの町を通り過ぎなくてはなりません。主イエスは12弟子たちを連れて、エリコの町を出て、エルサレムの都に向って歩いて行かれました。大勢の群衆たちも、主イエスの後に従いました。それはとても大きな群れの人々でした。マタイによる福音書は、それをキリスト教会の姿と理解しています。キリスト教会は、主イエスの御後に従う共同体です。
その教会の囲いの外に、二人の目の不自由な人が、主イエスが通られる道端に座っておりました。彼らは、道を通る商人たち、巡礼者たち、そして町の人々に施しを乞い、日々生活をしていました。現代のように社会保障はありません。体が不自由で、目が見えない二人の人は、道端に座って、人々に物乞いし、毎日を生きていました。
主イエスの時代の敬虔な人々は、祈りと施しを大切にしました。旧約聖書のモーセ律法は、「寡婦と孤児」に、夫を亡くした婦人と両親を失った子供への施しを、イスラエルの民たちに義務付けています。施しは、信仰深い神の民の義務でした。
ところが体の不自由な者への施しは、モーセ律法の中に命じられていません。むしろ、昔ダビデ王が、エブス人からエルサレムの都を奪いました時に、エブス人がダビデ王に「目の見えない者、体の不自由な者でもお前を追い払える」と侮辱しました。そのためにダビデ王は、イスラエルの民に「目の見えない者、体の不自由な者が神殿に入ってはならない」と命じました(サムエル記下5:6-8)。以来、ユダヤの国の中で目の見えない者、体の不自由な者たちは、神殿の中に入れませんでした。神の共同体から疎外されていました。彼らは、主なる神に見捨てられていると、ユダヤ人たちに烙印を押されている者たちでした。
主イエスがエリコの町を出られた時に、道端に座って、通行人たちから物乞いをしていた二人の目の不自由な者たちが、道を通られる主イエスに大声で、救いを求めました。
彼らは、道端で通行人から物乞いをし、通行人たちが噂するガリラヤの主イエスのことを知っていました。今、噂の救い主が自分たちの前を通り過ぎて行かれるのを、大勢の群衆たちの声によって、知りました。彼らは、ガリラヤにおいて目を癒された者たちと同じように、自分たちの目が見えるようにされ、救い主を自分たちの目で見たいと願ったのです。
だから、二人は、力の限り大きな声で、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びました。
二人は、主イエスに出会う前に、日々通行人たちがガリラヤの主イエスの噂をするのを聞いていたのでしょう。そして、その噂は、彼らにとって福音であり、喜びでした。なぜなら、彼らにとってナザレのイエスは、ダビデの子である主であり、メシアであるので、目の見えない者の目を見えるようにしてくださることができるのです。日々、目が見えず闇に閉ざされ、神を礼拝する道を閉ざされた彼らに、主イエスは闇から光へと導くことができます。主イエスは、神を礼拝する道を閉ざされた彼らに、栄光の神を礼拝する道を開くことがお出来になります。二人は、今主イエスに従っている大勢の群衆たちと共にエルサレムの都に行き、過越の祭りを祝うことができるのです。
それは、ダビデの子、主なる神である主イエスが、彼らを憐れみ、彼らの目を癒してくだされば、です。
しかし、彼らを、主イエスから妨げたのは、主イエスに従う大勢の群衆でした。主イエスに従う教会だったのです。群衆は、主イエスに憐れみを乞う二人を、黙らせようとしました。叱りつけました。
群衆たちは、巡礼していたでしょう。声をそろえて賛美し、主イエスに従っていたでしょう。それを、この二人が大きな声を出して、壊しました。もしこの教会の礼拝の中でわたしたちが声を合わせて、主を賛美している中に、ある者が大きな声を出したら、わたしたちは、その者を黙らせようとするでしょう。その者が礼拝の秩序を乱すと、わたしは牧師として、その者を叱るでしょう。
しかし、二人はさらに前よりも大声を出して、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び続けました。
その時に見よ、驚くべき奇跡が起こりました。そして、この二人の目の見えない者たちを通して、主イエスは御自身に従う群衆に、すなわち、わたしたちの教会にチャレンジされました。
二人は、主イエスに大声で叫びました。「ダビデの子である救い主よ、わたしたちを憐れんでください。」彼らは、主イエスのみに神の慈悲を求めました。憐れみとは、神の慈悲です。旧約聖の中に、特に詩編の中に「主よ、憐れみ給え」という祈りが出て来ます。ダビデ王は、彼の家来の妻バト・シュバと姦淫の罪を犯し、詩編の51篇に次のように神に祈ります。「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって 背きの罪をぬぐってください」(3節)。
ダビデ王は、主なる神にしか頼ることのできない者として、自分が犯した罪から主なる神がご慈悲をもって憐れみ、罪を赦してくださるように、切実な祈りをしています。
この二人もダビデ王と同じように、彼らは主イエス以外に頼る者がありません。主なる神である主イエスのご慈悲をもって、彼らを憐れみ、彼らの見えない目を見えるようにして下さいと、切実な祈りをしているのです。
主イエスは、道端に座って物乞いしていた目の見えない二人の者の切実な祈りを受け止めてくださいました。主イエスに従う大勢の群衆たちの中に加わることも許されず、教会の囲いの外にいた二人の名もない小さな者たちの祈りを受け止めてくださいました。
そして主イエスは、二人を御下に呼び寄せて、お尋ねになりました。「何をしてほしいのか」と。彼らは主イエスに答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです」と。
主イエスは、二人を深く憐れまれ、二人の者の目を御自身の手でお触りになり、癒されました。
すると、二人の者の見えなかった目が、すぐさま、見えるようになりました。そして二人は、心から願っていたことを実行しました。彼らが救い主であると信じた主イエスに従うことです。大勢の群衆たちの中に入り、共に巡礼の歌を賛美し、主イエスと共にエルサレムに向かって歩み、エルサレムの神殿において主なる神を礼拝することです。
この二人の目の見えなかった者たちの目を見えるようにされた主イエスは、今、ここにいるわたしたちに、教会にチャレンジされています。「あなたは、わたしに何がしてほしいのか」と。
愛する兄弟姉妹たち、何とお答えになりますか。主イエスは、エリコの町を出て、道端に座っていた二人の目の見えない者たちの前を通り過ぎられたように、今聖霊と御言葉を通して目には見えませんがわたしたちの前を通り過ぎられています。わたしたちは、キリストの遍在性を信じています。天にいますキリストは、同時に今ここに居てくださいます。過去において目の見えない二人の者に、「あなたはわたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた主イエスは、今わたしたちに同じ問いをされています。
主イエスのチャレンジは、わたしたちは主イエスをわたしの救い主と信じて、主イエスに何をしてほしいと願っているのかということです。あなたには、この二人の目の見えない者たちと同じように、主イエスにしか頼れない苦しみ、切実な祈りがあるのかという、主イエスのチャレンジです。
わたしは、この主イエスの「何をしてほしいのか」という問いかけに、自分の38年間の信仰生活を反省しました。主イエスは、主イエスをわたしの救い主であると信じたわたしに、「あなたはわたしに何をしてほしいのか」と尋ねられました。わたしは、主に「もっとキリスト教を学び、生涯キリストから離れないようにしてください」と祈りました。主イエスは、わたしに牧師の道を開かれ、田舎の偶像に満ちた闇の生活から光であるキリストへと導いてくださいました。今母も共に牧師館で生活をしていますが、信仰を持った大学生の頃には信じられないことでした。しかし、主イエスは、闇の中に生きていたわたしを、二人の目の見えなかった者たちのように、憐れみ、主イエスに従い、共に主イエスに従う教会の中にわたしを入れてくださり、38年過ぎた今も、主イエスはわたしが願ったことを忘れないで、導いてくださっています。
そして、わたしは、愛する兄弟姉妹たちが本当に何をしてほしいと願われているか、知らないことに気づかされました。そして、実は主イエスのみが兄弟姉妹たちが本当に主イエスにしてほしいことを知っておられ、具体的に願うように促され、そして二人の目が見えなかった者たちのように、その願いを聞き届けてくださり、共にこの教会の礼拝に導いてくださっているということです。
わたしたちは、今朝の御言葉によって主イエスのみに信頼することを、そして、具体的に主イエスに何をしてほしいのか、願うことを、チャレンジされています。どうか、神のご慈悲の中に自分の身を委ね、お恐れなく主イエスに「わたしはあなたにこうしていただきたい」と祈る信仰を、主よ、わたしたちに与えてください。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、二人の目の見えない者たちが主イエスに憐れみを求め、彼らの目が見えるようにしていただき、心から主を賛美する教会の群れに加えられたことを学び、感謝します。主イエスは、わたしたちに「あなたはわたしに何をしてほしのか」と問いかけられています。どうか、聖霊よ、わたしたちを導き、わたしたちを心の闇からキリストの光の中に導き、本当にわたしたちがキリストに何をしてほしいのか、はっきりと理解させて、主イエスに具体的にこうしてくださいと祈らせてください。ただただキリストの憐れみの中に生かしてください。そして、主の日の礼拝の中に常にわたしたちをお加えください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。