マタイによる福音書説教072            主の201285

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

 

 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 

                   マタイによる福音書第181520

 

 

 

 説教題:「教会の交わり」

 

 主イエスは12弟子たちに教会の交わりについてお話しになりました。それは、教会の交わりの中で、ある兄弟があなたに対して罪を犯したとき、あなたはその兄弟に対してどういう配慮をし、兄弟愛を示すべきかというお話しでした。

 

主イエスは、12弟子たちに教会の交わりの中で、あなたにある兄弟が罪を犯した場合、まずはあなたと兄弟の二人だけで解決するようにお勧めになりました。

 

あなたに罪を犯した兄弟は、罪を自覚していないかもしれません。そこで、主イエスは、12弟子たちに次のように教えられました。あなたは、兄弟と二人だけになり、彼があなたに犯した罪を示し、彼があなたに罪の赦しを求めるように諭しなさいと。

 

あなたの忠告を、兄弟が素直に聞き入れ、あなたに罪の赦しを請えば、あなたは兄弟の罪を赦し、兄弟と和解し、共に教会の交わりを続けることができます。その喜びを、主イエスは「兄弟を得たことになる」と言われました。

 

主イエスは、12弟子たちにその兄弟があなたの忠告を聞き入れない場合には、次のような配慮をしなさいとお話しになりました。他に一人か、二人の兄弟たちを一緒に連れて行って、彼らの前であなたは兄弟があなたにした罪を明らかにし、兄弟の罪を確かなものとしなさい。

 

主イエスは、12弟子たちにモーセの律法に従って罪を犯した兄弟を諭すようにお命じになりました。モーセは、エジプトで奴隷生活をしていたユダヤ人たちを解放した指導者です。彼は、シナイ山で主なる神から律法を授けられました。彼は、それをユダヤ人たちに教えました。

 

今日のように警察も検察もありません。人の罪を裁く裁判は、民たちが参加して行われました。そこで重要な役割を果たすのが、証人です。主なる神は、モーセを通して、民たちが一人の証人の証言だけで人の罪を裁くことを禁じられました。二人、もしくは三人の証人がなければ、人の罪は立証できないし、確定できないと定められました(申命記1915)

 

主イエスは、12弟子たちに次のようにお教えになりました。当人同士の話し合いで解決できなければ、他に二人、または三人の兄弟を証人に立てなさい。あなたはその兄弟たちの前で、ある兄弟があなたに犯した罪を語り、証人となった兄弟たちがそれは罪であると証言させなさい。そしてある兄弟に、彼があなたに罪を犯したことを認めさせて、あなたに罪の赦しを請うようにさせなさい。

 

主イエスはさらに12弟子たちに言われました。あなたに罪を犯したある兄弟が、三人の証人たちを交えて話し合っても、あなたの罪の勧告を聞き入れないならば、「教会に申し出なさい」。

 

教会は、「エクレシア」です。旧約聖書にはイスラエルの「会衆」と訳されています。神の民の集まりです。主イエスは12弟子たちに、こう教えられたのです。教会における裁判で、あなたに罪を犯した兄弟の罪を明らかにしてもらいなさい。

 

主イエスは、兄弟が兄弟に対して犯した罪に対する最終的な裁きの場を、教会に定められています。今日は、牧師と長老から構成されている小会において裁判がなされています。教会は、三人の証人がおり、あなたに罪を犯した兄弟の罪が確実であることを認めて、罪を犯した兄弟に罪の赦しをあなたに請うように勧告しました。

 

しかし、主イエスは、12弟子たちにある兄弟が教会の勧告にも頑なに従わない場合には、次のように扱いなさいと教えられました。教会は勧告を聞きれない兄弟に対して「その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」と。

 

異邦人とは信仰のない者の呼び名であり、徴税人はユダヤ人社会の交わりから疎外された罪人です。

 

主イエスが12弟子たちにこのように「あなたに罪を犯した兄弟」について3段階の配慮を教えられました。それは、単なる裁判手続きによって、罪を認めない兄弟を信仰の無き者として教会から追放しなさいと教えるためではありません。

 

主イエス御自身が、ガリラヤ伝道された時、ユダヤ人社会から疎外され、罪人であると蔑まれた徴税人たちと食事を共にし、彼らと交わり、彼らに神の国の福音を語り、彼らに罪の悔改めを促し、彼らの罪を赦されました。

 

ユダヤ人たちに信仰のない者と呼ばれた異邦人たちに、主イエスはユダヤ人以上の信仰を見出されました。そして、彼らの信仰を見られて、病を癒され、罪を赦されました。

 

ではなぜ主イエスは、12弟子たちに教会は頑なに罪を認めない兄弟を「異邦人と徴税人同様に見なし」て、教会からの交わりから追放するようにお命じになったのでしょうか。それは異邦人や徴税人たちと交わり、彼らの罪を赦された憐れみの主イエスの御手に委ねるという意味であります。教会という囲いの外で、迷える羊を探されている羊飼いのキリストに、この兄弟を委ねるということです。

 

そして、主イエスは、12弟子たちに「はっきり言っておく」と、主イエスは2度繰り返されて、教会に3つのことを約束してくださいました。

 

第1に地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれることです。「地上で」とは、地上の教会でという意味です。「天上でも」とは、天国、神の国でも、ということです。つなぐとは、入ることを禁じることです。地上の教会が、ある人を教会員として入ることを禁じれば、天国でも主はその人が入ることを禁じられます。

 

解くとは、入ることを許すことです。地上の教会がある人を教会員として入ることを赦せば、天国でも主はその人を入ることを許されます。わたしたちが教会の交わりに入ることは、天国の交わりに入ることであります。

 

2に主イエスは、教会を祈りの家としてくださいます。先週、木曜日に旧約聖書の歴代誌下7章を学びました。主なる神は、ソロモン王がエルサレム神殿を建て、その神殿で王と神の民が祈るならば、天にいます主なる神は民の祈りを聞いてくださいますようにと祈り願いました。主なる神は、神殿が完成した夜にソロモン王に現れ、ソロモン王が建てた神殿を「いけにえをささげる家」とし、王と民が神殿で祈る祈りを聞き届けると約束されました。主イエスは、二人が地上で心を一つにして祈るならば、主イエスの父なる神がその祈りを実現してくださると約束されています。教会の交わりの最低の人数は二人です。その二人が心を合わせて、祈る祈りを、主イエスの父なる神は実現してくださいます。それが、主イエスのお約束です。

 

3に教会の交わりにキリストが臨在してくださると、主イエスは約束してくださいました。二人、三人が主イエスの名を呼び、礼拝している所にキリストがその真ん中に居てくださると約束してくださいました。

 

主イエスが12弟子に教えられたように、わたしたちの教会の交わりに、兄弟が兄弟に対して罪を犯すという悲しい現実があります。また心頑なに罪を認めない兄弟が、教会の交わりから断たれるという悲しみもあります。

 

しかし、主イエスは、12弟子たちを通して、わたしたちに約束してくださいました。わたしたちが罪を赦すものを、キリストも罪を赦してくださり、わたしたちがたとえ二人でも祈祷会において心を合わせて祈るならば、主イエスの父なる神が実現してくださり、主イエスの御名を呼び礼拝する者が二人、三人いるなら、その真ん中にわたしは居ると。

 

教会は交わりです。交わりは一人では成り立ちませんが、二人以上居れば成り立ちます。その二人が心を合わせて祈るならば、そこに主イエスは共に居て、わたしたちの祈りを父なる神にとりなしてくださり、わたしたちの祈りは実現するのです。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの祈りを聞き届けてください。この教会にあなたの民を集め、あなたの御名を呼び、祈り、あなたの御心をわたしたちにお示しください。わたしたちを主の御前に生きる者としてください。今から聖餐の恵みにあずかります。御言葉と聖餐の恵みを通して、主イエスは今わたしたちと「共に居てくださっている喜びを心より賛美させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教073            主の2012812

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によって(お招きくださる聖餐の食卓に与らせ、)主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は哀れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 

                   マタイによる福音書第182135

 

 

 

 説教題:「ゆるしとあわれみ」

 

 先週は、主イエスが12弟子たちに「あなたに罪を犯した兄弟」に対してどのような配慮をすべきかをお教えになったことを学びました。その配慮には、3つの段階がありました。第1段階において、主イエスは12弟子たちに「あなたに罪を犯した兄弟と二人切りになり、兄弟に罪を勧告し、兄弟があなたに罪の赦しを請うようにしなさい」と勧められました。さらに第2段階において、主イエスは12弟子たちに「その兄弟があなたの勧告を拒むならば、あなたがたは他に二人の兄弟を連れて行き、二人の兄弟たちの前でその兄弟の罪を明らかにし、二人の兄弟たちに証人となってもらいなさい。そして、あなたに兄弟が罪の赦しを請うようにしなさい」と勧められました。そして、第3段階において、主イエスは12弟子たちに「それでも兄弟があなたの勧告を拒むならば、最後の手段として教会にその兄弟を訴えなさい。教会があなたに罪を犯した兄弟を勧告しても、彼が拒むならば、教会は彼を徴税人や異邦人同様に扱うだろう」と勧められました。

 

 主イエスが12弟子たちにお教えになったことは、心頑なにして、罪を悔い改めない兄弟を教会から追い出し、排除しなさいということではありません。教会の現実として、教会の中であなたに罪を犯す兄弟の存在を避けることはできません。あなたに罪を犯した兄弟がその罪を認めて、赦しを請うのであれば、教会は一人の兄弟を失うことなく、むしろ得ることになります。それは主イエスにとって大きな喜びです。

 

反対に最後まであなたに罪を犯した兄弟が罪を認めないことはあり得るのです。わたしたちと教会がどんなに努力しても、あなたに罪を犯した兄弟が心を頑なにし、罪を認めないことがあり得ます。主イエスは、12弟子とわたしたちの教会にその兄弟を、「わたしの憐れみに委ねなさい」とお教えになりました。ユダヤ人たちが見捨てた徴税人や異邦人たちを、主イエスはあわれみ、彼らと交わり、彼らの友となられました。そして、主イエスは彼らの罪を背負い、十字架の道を歩まれていました。主イエスは、12弟子たちに「あなたに罪を犯した兄弟をわたしに委ねなさい」と勧められました。

 

 12弟子の中の一人、ペトロは主イエスのお勧めを聞いていました。そして、彼は、主イエスの御言葉を聞いて、他のことに心を奪われてしまいました。そこで彼は、主イエスのところに近づいて、言いました。「主よ、わたしの兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、わたしは何度まで彼の罪を赦すべきなのでしょうか。七度まででよろしいでしょうか」。

 

 ペトロの耳には、主イエスのお言葉がわたしたちの罪を赦してくださるという福音として、喜びの訪れとして聞こえて来ませんでした。

 

ペトロは、主イエスが教えられた「あなたに罪を犯す兄弟」への配慮を、教会の中における個人的な争いごとのように理解しました。だから、ペトロは、主イエスが語られる「あなたに罪を犯す兄弟」を、教会の中にいるトラブルメーカー、問題児と理解しました。だから、彼は、主イエスにそういう「兄弟の罪」を「何回まで赦せばよろしいでしょうか。7回まで赦せば十分でしょうか.」と尋ねました。

 

 日本の諺に「仏の顔も3度」とあります。どんなに穏やかな人でも3度も嫌なことをされれば、腹を立てるという意味です。主イエスの時代に12弟子たちは、幼いころからユダヤ教の教育を受けていました。ユダヤ教では、神は人間の同じ罪を3度までなら赦してくださると教えていたようです。

 

ですから、主イエスの時代において、またわたしたちの世間の常識から見ても、ペトロが「7度までですか」と、主イエスに質問したことは、人の目で見て本当に寛大な罪に対する処置でありました。

 

ところが、主イエスはペトロをお誉めになりませんでした。「お前は寛大な人である」と言われませんでした。主イエスは、ペトロに「わたしはあなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。

 

「七の七十倍」とは、無限にという意味です。主イエスは、ペトロに人の罪を赦すという問題は、回数の問題ではないと言われたのです。無条件かつ無制限の問題であると。主イエスはペトロに、「それは、人にできることではなく、神の憐れみである」と宣言されました。

 

そして、主イエスは、ペトロに一つのたとえ話をされました。天の国のお話です。主イエスは、ペトロにこのお話しをして、実はこの地上に生きるキリスト者の生き方を教えられました。

 

ある王様が、家来たちに莫大なお金を貸して、返済を求めました。その決済日に王様は、1万タラントンという莫大な金額を借りた家来を呼び出して、返済を迫りました。主イエスの時代に、あの幼子主イエスを迫害したヘロデ大王の年収が900タラントンでありました。1万タラントンを借りた家来は、ヘロデ大王の11年分の年収に相当する莫大な金を借りていました。王様は、家来に、「お前とお前の妻と子供たち、お前の持っているすべての財産を処分して、返済せよ」と命じました。

 

家来は、ひれ伏して王様を拝み、懇願し続けました。「どうか、御猶予をください。必ず返済します」と。王様は、家来を憐れに思いました。そこで王様は、家来の借金を無条件で、そして、無制限に帳消しにしてやりました。

 

家来は、王様の憐れみのゆえに莫大な借金を帳消しにしてもらい、自由の身となり、解放されました。おそらく家来は、喜び勇んで、王様の宮殿から外に出て行ったでしょう。

 

そこでこの家来は、同じ王様の家来である彼の仲間に出会いました。王様に1万タラントンの莫大な借金を赦された恵みを、この家来は王宮の外に出てしまうと忘れてしまいました。そして、出会った仲間に、彼は百デナリオンを貸していることを思い起こしました。百デナリオンは、主イエスの時代の人々が1日働いて得ることができる賃金でした。

 

35億円の借金を、王様に帳消しにしてもらった家来が、高々5、6千円を貸した仲間を捕まえて、その首をしめ、借金を返せと迫りました。仲間の家来が、彼が王様に懇願したように彼に返済の猶予を懇願したのに、彼は王様のように仲間に憐れみをかけませんでした。彼は仲間を、返済するまで牢に入れました。

 

他の王様の仲間たちは、自分たちの仲間の一人がこの家来の無慈悲な行いによって牢に入れられたことを見て、非常に心を痛めました、そして、彼らは、王様の前に出て、無慈悲な家来のしたことを報告しました。

 

王様は、借金を帳消しにした家来を呼び出しました。そして、王様は彼に言いました。「不届きな家来だ。わたしはお前がしきりに懇願したから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前をあわれんだように、お前も自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」。そこで王様は、怒って無慈悲な家来をすっかり借金を返済するまでと、牢役人に引き渡しました。

 

主イエスのたとえ話は、王様である神が終わりの日にわたしたちキリスト者の人生に決済を求められるお話です。王様に1万タラントンを借金した家来は、わたしたちキリスト者です。わたしたちは、神に罪という莫大な借金をしています。わたしたちは、無慈悲な家来が王様にひれ伏し、拝み、借金の返済を猶予してくださいと懇願したように、わたしたちの罪を赦してくださいと懇願します。自分でこの罪という神への借金をお返しすることはできません。だから、王様のように、父なる神がわたしたちを憐れみ、神の独り子主イエスをこの世に人として遣わし、わたしたちに代わって主イエスが十字架においてわたしたちの罪を負い、返済してくださいました。

 

「あなたに罪を犯した兄弟」を赦すというわたしたちの教会の問題は、主イエス・キリストの十字架における神のあわれみによって、わたしたちキリスト者は罪を赦されたという、神の憐れみにわたしたちの心を向ける機会なのです。

 

主イエスは、たとえ話を終えると、12弟子たちに言われました。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 

兄弟の罪を赦すことと兄弟を愛することは、コインの表裏の関係です。そして、その関係は、父なる神が十字架の主イエスによってわたしたちの罪を赦し、わたしたちを愛してくださった関係の上に築かれています。

 

今朝の主イエスの御言葉は、わたしたちに次のことを教えています。この教会の中でキリスト者として生きることは、罪という1万タラントンの借金を赦され、神に愛された者として、神の憐れみの光に照らされて、その

 

光の中で兄弟を愛し、赦し合って生きるということです。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは、父なる神のあわれみにより、キリストの十字架を通して罪を赦され、愛された者です。主の憐れみを心から感謝し、共に御国を目指しています兄弟姉妹を愛し、共に赦し合って、この地上の生涯を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教074            主の2012819

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。福音において提供される主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエスが御言葉によってお招きくださる聖餐の食卓に与らせ、主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。

 

 ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

 

                   マタイによる福音書第19112

 

 

 

 説教題:「神が結び合わされた結婚」

 

 マタイによる福音書は、191節の冒頭に「イエスはこれらの言葉を語り終えると」と記していますね。主イエスが12弟子たちに18章においてなさったもろもろの説教が終わりました。

 

そして、マタイによる福音書は19章から23章において、主イエスの新しい活動を記します。主イエスはガリラヤを去られます。そして、エルサレムの町に向かわれます。ヨルダン川の向こう側にあるユダヤの地方で神の国を宣教されます。そしてエルサレムの都に入城されます。そしてエルサレムの町において主イエスは、敵対者たちであるファリサイ派の人々、律法学者たち、サドカイ派の人々、すなわち、ユダヤの指導者たちと対決し、彼らを非難されます。

 

マタイによる福音書は、エルサレムに向けて十字架への道を、その結末に向かわれるメシアである主イエスの歩みを記します。

 

 マタイによる福音書は、191節に「ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」と記します。主イエスの行動には理由があります。主イエスは、マタイによる福音書の1524節に「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。だから、主イエスはエルサレムの町に向かわれた時に、ユダヤ人ではないサマリア人たちが住んでいる土地を通行することを避けられました。そして、主イエスは御自身のメシアとしての使命を果たすために「ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれ」ました。そしてユダヤ人たちが住んでいますペレア地方において、神の国の福音を宣教し、彼らの病気をいやされました。

 

 だから、マタイによる福音書は、192節に「大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた」と記しています。

 

 さて、今朝のお話は、そのところにおいて主イエスに近づいたファリサイ派の人々の主イエスへの質問であります。ファリサイ派の人々は、主イエスのところに来て、離婚について質問をしました。彼らの目的を、マタイによる福音書は193節に「イエスを試そうとして」と記しています。

 

 ファリサイ派の人々が主イエスを試そうとしたのは、主イエスの知恵と知識を試験したのではありません。主イエスの人物を評価しようとしたのでもありません。主イエスの存在そのものを、彼らの目の前から葬り去ろうとしたのです。

 

 今主イエスがユダヤ人たちに神の国の福音を宣教しているペレアの地方は、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが支配していました。

 

 ファリサイ派の人々が主イエスに「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問しました。

 

 ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスと離婚という関係から、何か思い起こしませんか。マタイによる福音書はわたしたちに洗礼者ヨハネを思い起こすように期待していると思います。マタイによる福音書の14章において洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに彼が妻と離婚し、兄弟の妻と再婚したことを「姦淫である」と非難したことを記しています。そして、洗礼者ヨハネはヘロデに逮捕され、牢に入れられ、殺されました。

 

 ファリサイ派の人々が主イエスを試そうとしたことと、ヘロデが洗礼者ヨハネを迫害して殺したことに、関係があります。

 

ファリサイ派の人々は、主イエスに離婚について尋ねました。そこで主イエスが洗礼者ヨハネのように離婚について非難を口にすれば、それを口実にしてヘロデに「イエスがあなたの離婚を、洗礼者ヨハネのように非難しています」と訴え出て、主イエスを政治的に葬り去ろうと考えたのでしょう。

 

 ファリサイ派の人々は、旧約聖書の申命記2414節の御言葉に基づいて、主イエスに「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と質問しました。

 

モーセは、神の民に妻に何か不品行があり、夫が妻を気に入らなければ、離縁状を書いて渡しなさいと教えていました。

 

 ところが、主イエスの答は、ファリサイ派の人々の想定外でありました。主イエスは、彼らに「旧約聖書を読んでいないのか」と問いかけられて、同じ旧約聖書の創世記の2章に記してあります結婚に関する主なる神の御意志に訴えられました。

 

 主なる神がわたしたち人間を男と女に創造され、一つに結び合わす結婚という制度を定められました。その時に主なる神は、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記224)と定められました。

 

 だから、主イエスは、モーセ律法に従って離婚を前提にして離婚について質問しましたファリサイ派の人々に、創造主なる神の御意志に基づいて離婚を根本的に否定されました。主イエスは、創造主なる神が人間を創造され、結婚という制度を定められた最初に立ち戻り、結婚はわたしたちの自由意志で成り立つものではなく、創造主なる神が男と女を一つに結び合わされ、二人が一体となることであると答えられました。

 

 神が結び合わされた結婚は、わたしたちがどんな理由を加えようと、国の法律に離婚が合法であると定められていようと、主イエスに従えば、創造主なる神が男と女を一つに結ばれ、一体とされた者を、人が勝手に引き離すことはできないし、あり得ないことです。

 

 主イエスは、ファリサイ派の人々に対して離婚を根本的に否定し、創造主なる神が男と女を一つに結び合わされた結婚に、何か条件を入れて、離婚の余地を人に与えようとするファリサイ派の人々の考えを排除されました。

 

 主イエスが離婚を否定された根拠は、創造主なる神が男女を一つに結び合わされた御意志にあります。神の永遠の御意志を有限である人は引き離すことはできません。わたしたちの日本の国は容易に離婚できます。性格の不一致ということで、国の法律は離婚を認めています。しかし、主イエスのお言葉に従うと、離婚が禁じられているというよりも、創造主なる神の御意志によって男女が一つに結ばれ、一体となった結婚には、離婚という事態はあり得ないのです。だから、わたしたちが日本の法律に許されているからという理由で結婚している者が離婚をし、再婚すれば、それは重婚であり、神の御前に姦淫の罪を犯すことになります。

 

 主イエスのお答えに満足できなかったファリサイ派の人々は、主イエスに「どうしてモーセは離縁状を渡して妻と離縁するように命じたのか」と質問しました。

 

 主イエスは、彼らにモーセは、神の民に命令したのではなく、許したのだと言われました。神の民の心が頑なであったからです。モーセは譲歩したのです。だから、このモーセの離婚についての律法を盾にとって、離婚の権利があると主張する者たちは、創造主なる神の御意志に反逆する罪を犯しているのです。

 

 そして、主イエスは、ファリサイ派の人々に9節においてこう言われました。「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

 

 主イエスが言われる「不法な結婚」とは何か、よく分かりません。神の御心に適わない結婚でしょうか。主イエスのお言葉をそのまま日本語にしますとこうです。「それでわたしはあなたがたに言う。淫行のためではなくて彼の妻を去らせ、そして、他の婦人をめとる者は姦淫するのである」。主イエスは、一つの例外を許しておられるのでしょうか。モーセが神の民の心の頑なさから許したように、主イエスもわたしたちの心の頑なさから譲歩されたのでしょうか。

 

 教会の歴史を見れば、姦淫による離婚は許されると考えられてきました。結婚は、男と女が契約によって結ばれます。結婚式の誓約を夫婦の一方が破れば、関係は破綻します。そこでこの主イエスの御言葉が例外的なこととして許されてきたのでしょう。

 

 しかし、主イエスは、モーセの律法の譲歩を言及されたとき、初めからそうではなかったと言われました。創造主なる神は、男と女を一つに合わせて、一体とされました。人は、それを引き離すことはできません。わたしたちの心の頑なさ、神の御前における罪が、離婚という現実を産み出しているのです。

 

 ですから、弟子たちは、主イエスに「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言いました。

 

 弟子たちには、主イエスの要求が不可能な要求に見えたのです。創造主なる神が男と女を一つに結ばれ、一体とされたものを、人は引き離してはならないという要求が不可能に思われたのです。

 

 マタイによる福音書は、わたしたちに離婚という問題から、人は罪ゆえに不可能であるが、神には不可能はなく、神は罪ある者を恵みによって御国に迎えてくださると教えています。

 

 主イエスがファリサイ派の人々に話されたお言葉は、だれでも受け入れることはできません。主イエスは、弟子たちに神に恵まれた者だけであると言われました。

 

 現代は、結婚するよりも独身の者が多いです。主イエスの時代は、主イエスがお教えになったように、創造主なる神は男と女を結び合わせて、一体とされるから、人は結婚するのが当たり前です。独身は、ユダヤ人の社会では認められていませんでした。神から祝福を排除された者でした。結婚することができなくされた宦官も、神から祝福を排除された者でした。主イエスは、結婚できなくて、神の国の交わりに入り得ないとされた者たちを、神に恵まれた者たちと呼ばれました。

 

 主イエスは、独身者を積極的に奨励されていません。カトリックの司祭のように御国のために独身者である者を奨励されてはいません。旧約聖書を読みますと、独身者はほとんどいません。アダム、ノア、アブラハム、ダビデ王、旧約聖書の登場する人物のほとんどは結婚しています。例外は、預言者エリヤとエリシャでしょう。そして、洗礼者ヨハネと主イエスです。

 

 十字架の道に歩まれる主イエスは、神の御国の交わりから除外された独身者、宦官たちを神に恵まれた者とするためにエルサレムに向けて歩まれました。キリストの十字架の贖いのゆえに、人の目には神の御国に入ることが不可能と思われていた独身者、宦官たちが神に恵まれた者とされるのです。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、離婚と再婚が普通に行われているわたしたちの罪の世に、主イエスをお遣わしくださり感謝します。主イエスのお教えを通して、わたしたちの結婚が創造主なる神の御意志によって男と女が一つに結ばれ、一体とされ、決してわたしたちが勝手に引き離すことがないように警告を受けました。わたしたちの心の頑なさゆえに、モーセも主イエスも譲歩し、教会も譲歩していますが、同時に罪のゆえに御国に迎えられることが不可能であるわたしたちのために、主イエス御自身が十字架によって、罪の中にあるわたしたちを神に恵まれた者にしてくださいました。心より感謝します。わたしたちを主イエスの御後に従わせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。