マタイによる福音書説教061            主の2012311

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。わたしたちの耳を神の御言葉に集中させてください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を、心を尽くし思いを尽くして聞かせてください。わたしたちの心をお開きください。主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れるために。そして、主イエスがお招きくださる聖餐の食卓に与らせてください。主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとに来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」という者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。

 

 『この民は口先ではわたしを敬うが、

 

その心はわたしから遠く離れている。

 

人間の戒めを教えとして教え、

 

むなしくわたしをあがめている。』」

 

 それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 

                 マタイによる福音書第15120

 

 

 

 説教題:「悪は人の心から出る」

 

 レントの第3週の主の日を迎えました。主イエスの御受難を覚えつつ、マタイによる福音書第15120節の御言葉を学びましょう。

 

 主イエスと弟子たちは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの迫害から逃れ、舟でガリラヤ湖の向こう岸に渡られました。そして、ゲネサレトという土地に御着きになりました。

 

主イエスは土地の人々の願いを聞き入れ、大勢の病人たちをお癒しになりました。

 

 主イエスがゲネサレトの地で、癒しの奇跡を行われていた、その時に、エルサレムの町からファリサイ派の人々と律法学者たちが主イエスのところにやって来ました。

 

ユダヤ教の一派として、ユダヤの民衆に大きな影響を与えていたのが、サドカイ派とファリサイ派の人々です。

 

ファリサイ派の人々は、ユダヤの民衆に次のことを教えていました。モーセ律法を守ること、特に安息日を守り、断食と施しを熱心に行うこと、食事の前には手を洗い、宗教的清めを行うことを。

 

「ファリサイ」とは、「分離した者」という意味であり、ファリサイ派の人々は律法を守らないユダヤ民衆から自分たちを分け隔てました。

 

律法学者とは、モーセ律法を専門に研究し、ユダヤ民衆に律法を教える教師たちのことです。彼らの多くの者は、ファリサイ派の人々に属していたのです。

 

彼らも、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスと同じように主イエスに恐れと妬みを抱いていました。そして、ひそかに主イエスを殺したいと思っていました。主イエスは、ユダヤの民衆に人気があり、彼らは民衆を恐れ、直接に主イエスに手を出すことができませんでした。

 

そこで彼らは、事前に主イエスと弟子たちを調べ、ゲネサレトにいる主イエスを尋ねました。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、事前の調べによって「主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わない」という汚点を見つけました。

 

そこで彼らは、主イエスに次のように質問し、非難しました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」と。

 

彼らが言う「昔の人の言い伝え」とは、モーセ律法を正しく守らせるために、イスラエルの民たちを指導した長老たちが教えていたことです。

 

モーセを通して主なる神は、神の幕屋において神に仕える祭司やレビ人たちに身を清めるために水で手足を、身体を洗うことをお命じになりました。

 

ところが、いつの間にか、身を清めることを、民の指導者たちが一般の人々にも守るように教えました。それが、「食事の前には手を洗い」という教えです。

 

主イエスは、ファリサイ派の人々と律法学者たちにお答えになりました。主イエスは、彼らに逆に問い返されました。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」と。

 

まず主イエスは、彼らに尋ねられました。「人の言い伝え」と神の掟と、どちらが、権威があるのかと。

 

そこで主イエスは、彼らが自分たちの教えを民衆に教えて、主なる神の御言葉を軽んじている実例を挙げて、その方がもっと悪いではないかと反論されました。

 

主なる神は、モーセを通して、シナイ山においてイスラエルの民たちに十戒をお与えになりました。その5番目の神の掟が「あなたたちの父と母を敬え」です。モーセを通して、主なる神は「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」と言われました。

 

ところが、主イエスの時代のファリサイ派の人々と律法学者たちは、自分たちの言い伝えを神の掟の上に置く過ちを犯していました。それが「コルバン」と呼ばれているものです。

 

コルバンとは、神への供え物のことです。彼らは、「これは神への供え物です」と言えば、

 

「父と母を敬わなくてもよい」と教えていました。両親がそれを必要であると思っていても、神への供え物の方が大切だから、神の「父と母を敬え」という掟は守る必要がないと教えていたのです。

 

主イエスが言われるとおりに、彼らは自分たちの教えのために神の御言葉を無にしていました。

 

そして、主イエスは、ファリサイ派の人々と律法学者たちが偽善者であることを、預言者イザヤが次のように証言していると言われました。預言者イザヤは、こう預言しました。「人の見た目は、まことに敬虔そうに見えるけれども、人の目で見ることができない彼らの心の中は、遠く主なる神から離れている。だから、彼らは神の掟ではなく、人間の戒めを教えとして教え、心からの主なる神への服従がなく、空しい神礼拝をしている」と。

 

そして、主イエスは、ゲネサレトの地にいた群衆たちを集めて、神に喜ばれるためには、心からの悔い改めが必要であると言われました。

 

主イエスは、言われました。「人の目で見える『水で手を洗う』ということで、人は決して神の御前に清くなれない。なぜなら、口の中に入るものが、人を汚すのではなく、人の中から出て来るものが人を汚すからだ」。

 

ファリサイ派の人々と律法学者たちは、民衆たちの面前で主イエスのお言葉に反論できませんでした。恐らく顔に怒りをあらわし、黙って立っていたでしょう。

 

弟子たちにはいい気味だという思いがあったでしょう。一人の弟子が主イエスに「ファリサイ派の人々がお言葉に、つまずいたのをご存じですか」と言いました。

 

主イエスは弟子に答えられました。「父なる神に選らばれていない者は、わたしの御前に立てず。棄てられる。放っておくように。彼らは、神を知らない人を道案内している神を知らない人だ。神を知らない人が神を知らない人を神へと道案内しようとすれば、二人とも滅びの穴に落ちてしまうだろう」。

 

主イエスを通してでなければ、誰も父なる神に導かれません。父なる神が選らばれた者でなければ、誰も主イエスの弟子となることはできません。この世には、ファリサイ派の人々や律法学者たちのように、人の目によく見える立派な宗教を語り、教えを語る者がおります。彼らは、お祓いをし、高価な壺を買わせて、「あなたはこの壺で清められた」と申します。だが、彼らは、ファリサイ派の人々と律法学者たちと同じです。真の神を知らない人たちです。人の目には、一見神に導くように見えるでしょうが、神を知らない者です。彼らは、主イエスが偽善者と呼ばれる者であり、彼らに誘われて、いつの時代でも滅びの穴に落ち入るものが多いのです。

 

弟子の一人ペトロが主イエスに、「そのたとえを説明してください」と言っていますね。マルコによる福音書では、弟子たちがある家に入り、主イエスが「口に入るものは人を汚さず、口から出るものが人を汚すのである」と言われたことの説明を願っています(マルコ717)

 

主イエスは、ペトロに11節の御言葉を説明し、人を汚すものは、人の心から、人の内から言葉となって出て来ると教えられました。人の心から、人の口を通して出て来る悪しき言葉が人を汚すのだと。

 

人の目に見えない、人の内にある心は、常に神の掟に違反しています。主なる神がモーセを通して、シナイ山でイスラエルの民に与えられた十戒の第2の板の神の掟に違反しています。「あなたの隣人を愛せよ」と主なる神はお命じなりました。「父と母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽るな」「貪るな」。

 

人の目に見えない心は、主なる神が「父と母を敬え」と御命じになると、わたしたちの心は父と母に悪意を持ち、口汚く罵るのです。「人を殺すな」と主なる神がお命じなると、心の内に隣人を憎み、妬み殺意を持つのです。「姦淫するな」と主なる神がお命じなると、心の中で情欲を抱くのです。すべてのことは、わたしたちの目に見えない心から、悪が出て来るのです。言葉となって出て来るのです。

 

だから、主イエスは、よくご存じです。人を汚し、傷つけるのは、手を洗わないで食事をすることではない。人の心が罪に汚染されているからであることを。そして、聖霊によってわたしたちの心を清めていただくことが必要であることを。

 

そのために主イエスは、十字架の道をこれから歩まれるのです。わたしたちを罪から救い、わたしたちの心を悪から清めるために、ゴルゴタの丘の十字架に死に、そして死人の中から甦り、わたしたちに聖霊をお与えくださるのです。

 

聖霊は2000年昔、エルサレム教会に降ってくださいました。そして、今、聖霊はこの教会に降ってくださり、わたしたちは、聖霊によってわたしたちの心が神の御言葉のとりことされています。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第3主の日を迎えました。昨年の311日の東日本大震災と福島第1原発事故より1年目になります。この一年間、被災地にあって多くの困難の中を歩まれた人々とわたしたちの教会と兄弟姉妹たちの上に主の平安と慰めをお祈りします。特に風評被害という人の心から出た悪によって困難の中に置かれた農家の方々、漁師の方々、今も避難の生活をされている方と、主よ、共にいてくださり、その苦しみからお救いください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教062            主の2012318

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。わたしたちの耳を神の御言葉に集中させてください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を、心を尽くし思いを尽くして聞かせてください。わたしたちの心をお開きください。主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れるために。そして、主イエスがお招きくださる聖餐の食卓に与らせてください。主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 

 

 

                 マタイによる福音書第152120

 

 

 

 説教題:「主に信仰を誉められた女」

 

 マタイによる福音書第152128節の御言葉を学びましょう。

 

主イエスはガリラヤ領主ヘロデを避けるために、ガリラヤ地方にあるゲネサレトの地から退かれました。そして、ガリラヤを出て、異邦人たちの国フェニキアにあるティルスとシドンの地方に行かれました。

 

フェニキアはガリラヤと境を接しています。旧約時代からイスラエルと境を接してきました。地中海に面し、ティルスとシドンには良い港がありました。外国との貿易によって町は富み栄えました。また外国との交流によってエジプトやギリシャの進んだ文化を輸入しました。そして、偶像礼拝の盛んな土地でもありました。旧約時代の北イスラエル王国アハブ王は、シドン人のエトバアル王の娘イゼベルと結婚し、偶像の神バアル礼拝をイスラエルに輸入しました。ティルスとシドンは、今日のわたしたちが住む諏訪地方とよく似ています。国は貿易で栄え、進んだ文明を輸入し、他方で八百万の神々が人々の生活に根付いていました。

 

まさにユダヤ人たちの目には、ティルスとシドンは主なる神に呪われた地でありました。そこに主イエスは行かれました。

 

22節に「すると」とありますね。これは、まずい翻訳です。そのまま読むと、「そして見よ」です。マタイによる福音書にしばしば使われています。驚きを表現しています。主なる神に呪われた地に主イエスを救い主として受け入れた女性が突然現れたのです。彼女は生粋のカナン人です。「この地に生まれたカナンの女」です。彼女は、紛れもない異教徒です。ユダヤ人たちの目には宗教的に汚れた者であり、滅びの子です。

 

その女が、突然主イエスの前に現れて、主イエスに「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけました。これは、マタイによる福音書の時代のキリスト者たちが主イエスに呼びかけていた信仰告白です。

 

まさに今、この教会に生粋の諏訪生れの人が来て、わたしたちと同じように「イエスさまはわたしのキリストです」と信仰告白したしたら、わたしたちは驚くでしょう。

 

カナンの女は、愛する娘がおりました。娘は恐らく長いこと悪霊に苦しめられていました。彼女は、隣国のユダヤにあるガリラヤで、主イエスが病人を癒し、悪霊を追い出されていることを伝え聞いたのでしょう。彼女は、それを彼女への福音として聞いたのです。彼女は、伝え聞いた主イエスを、主なる神であり、ダビデ王に約束されていた救い主と受け入れました。

 

そして、彼女は、主イエスを信じるキリスト者がするように、主イエスに向かって「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と助けを求めました。彼女の娘がひどく悪霊に苦しめられていたからです。娘に悪霊が取りついて離れないのです。彼女は、娘のためにあらゆる祈祷師に願って、悪霊払いをしてもらったでしょう。しかし、駄目でした。主イエスが最後の頼みだったでしょう。

 

ところが、わたしたちは、驚くべき光景を見ます。まさに「そして見よ」です。主イエスは、カナンの女に無反応でした。「イエスは何もお答えにならなかった」。主イエスは、カナンの女に一言も言葉をおかけになりませんでした。無視なさったわけです。

 

恐らくマタイによる福音書の時代のキリスト者たちも驚いたでしょう。「わたしを憐れんでください」という叫びは、彼女が主イエスに「困っているわたしに同情してください」と言っているのです。彼女は、主イエスに困っている者への慈悲を願いました。それを、主イエスは無視されました。

 

ところが、カナンの女は、主イエスの無視に怒りを表すどころか、なお諦めないで、主イエスに「困っているわたしにご慈悲をください」と叫びました。それでも主イエスは、彼女を無視して、弟子たちと先に進まれたでしょう。彼女は主イエスを追いかけました。そして、弟子たちの後ろから「困っているわたしにご慈悲を」と叫びました。

 

根負けしたのは、主イエスの弟子たちです。彼らは主イエスに近寄り、願いました。「この女を去らせよ。わたしたちの後ろから、彼女はいま叫んでいるから」と。弟子たちは、自分たちの後ろからついて来て、主イエスに憐れみを願うカナンの女が煩わしかったでしょう。彼らは、主イエスに「彼女の願いを聞いて、去らせてください。わたしたちの後ろから追いかけて来て、今も叫んでいます。」

 

その時主イエスは、弟子たちにお答えになりました。「しかし、わたしは遣わされていない。イスラエルの家の失われた羊たちのところにしか」。

 

主イエスのお言葉は、冷たく聞こえるかもしれません。しかし、主イエスは短い生涯において、そして、数年間の伝道を通して父なる神の救いのご計画を遂行されているのです。そのためにまずは神の選びの民を、キリスト教会を起こさなくてはなりません。神の選びの民、新しいイスラエルである教会を通して、キリストの福音が全世界の人々に提供され、全世界の人々への救いがなされるのです。そのために今、主イエスは、イスラエルの家の失われた羊たちの中から12弟子たちを選び出し、彼らをキリスト告白に導き、キリスト教会を建て上げることに心を集中されていたのです。

 

カナンの女は、それを聞いても諦めませんでした。彼女は、主イエスの前に来て、主イエスを礼拝しました。主イエスの御前にひれ伏すことは、主イエスを礼拝することであり、主イエスを礼拝することにより、わたしたちは主イエスに近づくのです。彼女は、主イエスに近づいて、「主よ、お助けください」と願いしました。彼女は、主イエスが主なる神であり、必ず娘を悪霊より救ってくださるという信仰と期待を変えませんでした。

 

それでも主イエスは、彼女に答えられました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。主イエスの時代の人々がよく口にした諺でしょう。人からその最も必要としているパンを奪い、あろうことか捨ててしまって、小犬の餌にしてしまうのは良くないという意味の言葉だったでしょう。

 

主イエスは彼女に言われました。「わたしの救いは神の選びの民のための命のパンである。神の子供たちが最も必要とするこの救い、命のパンを彼らから奪い、小犬である異邦人のあなたに与えるのはよくないでしょう。」

 

カナンの女は主イエスに答えました。「主なる神である主イエスよ、お仰せのとおりです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」。

 

カナンの女は、主イエスのお言葉を理解するより受け止めました。それは第1にイスラエルの民は神の選ばれた民であり、神の子供であり、神に救われる特権があるが、異邦人である自分には主イエスに救いを求める特権はないということです。第2に自分には権利がないが、主なる神である主イエスに、ただ憐れみを願うことは許されているということです。

 

カナンの女は、主イエスに言いました。「わたしにはあなたに救いを求める権利はありません。しかし、主イエスよ、あなたの福音は、主人の食卓から落ちたパン屑のように、イスラエルの外にある異邦人のわたしのところまで届きました。だから、わたしは、あなたのご慈悲をいただくのです」。

 

カナンの女の信仰をお聞きになられた主イエスは、とても喜ばれました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。そのままに主イエスの喜びを表現すれば、こうです。「おお婦人よ、あなたの信仰は大きい。あなたの望むようにあなたに出来事として起これ」。

 

主イエスがカナンの女を祝福された、その時に彼女の娘の病気はいやされました。

 

主イエスがお誉めになったカナンの女の信仰は、わたしたちの信仰であると、マタイによる福音書は証言しています。わたしたちも彼女と同様に異邦人です。選民イスラエルの民のように救いの特権を持ちません。主イエスに救う権利を要求できません。彼女のようにただ神の憐れみを乞う以外にありません。

 

2に彼女は、彼女に伝えられたキリストの福音を聞いて、キリストを救い主として受け入れました。わたしたちもわたしたちが聞いた福音のキリストを受け入れています。十字架のキリストがわたしたちの罪のために死に、復活のキリストがわたしたちの永遠の保証として甦られたことを受け入れています。

 

3にキリストが彼女に「願っている通りになるように」と祝福されると、彼女の信仰は出来事として起こされ、彼女の娘の病気はいやされました。信仰は、わたしたちの生活の中で出来事として起こされます。

 

わたしは、主イエスを救い主と信じましたときに、生涯主イエスを信じて生きることができるように願いました。主イエスは、カナンの女のように「あなたの願いどおりになるように」祝福してくださいました。わたしに牧師としての道を開き、妻を与え、子を与え、そして、今母がわたしたちの家族と同居しています。

 

主イエスは生きておられます。だから、ご自身のお言葉を、祝福を、約束を、必ずわたしたちの生活の中に出来事として起こし、わたしたちの願いをそのとおりに実現してくださるのです。わたしたちは、自分の行いではなく、主の恵みと憐れみの内に生かされているのです。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第4主の日を迎えました。カナンの女の信仰を通して、わたしたちが主イエスの憐れみの内に日々生かされている喜びを知りました。心より感謝します。もう一度主を信じたころに、わたしたちが願ったことを思い起こし、主イエスがわたしたちの生活の中でその願いを適えてくださった恵みを見させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教063            主の2012415

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。(主イエスがお招きくださる聖餐の食卓に与らせてください。)主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。

 

 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに小さい魚が少しばかり」と答えた。そこでイエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパン屑を集めると、七つの籠にいっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。

 

                 マタイによる福音書第152939

 

 

 

 説教題:「憐れみの神、主イエス」

 

 マタイによる福音書第152939節の御言葉を学びましょう。マタイ福音書は、わたしたちに二つのことを物語ります。一つは、主イエスが大勢の病人と障碍者を癒された奇跡です。もう一つは、主イエスが7つのパンと少しの小さな魚で、成人男子の数だけで4000人を養われた奇跡です。

 

 マタイ福音書は、わたしたちにこの二つの奇跡物語を通して憐れみの神、主イエスを伝えようとしています。憐れみの神、主イエスがわたしたちと共に居てくださる、それがわたしたちの教会だと。

 

ガリラヤのどこの山か、分かりません。主イエスは弟子たちと共にティルスとシドンの地方を去り、再びガリラヤに戻られました。

 

主イエスの時代、ユダヤ人にとって、山は神に近い場所でした。昔イスラエルの民は奴隷の地エジプトから救われて、シナイ山に導かれ、主なる神に出会いました。シナイ山は全山煙に包まれ、天空は激しく雷が鳴り、主なる神はイスラエルの民に語られました。聖なる神の御声を聞いた民は恐れを抱きました。主なる神はモーセを通して民に十戒を授けられ、主なる神に従って歩む道を教えられました。

 

マタイ福音書は、わたしたちにシナイ山における主なる神とイスラエルの民の出会いを思い起こさせて、「山に登って座っておられた」主イエスこそ、主なる神が人としてこの世に来られたお方であると教えているのです。だから、主イエスは病める者、障碍のある者をいやす奇跡を行われる主なる神なのです。

 

大勢の群衆が主イエスに癒していただくために、病める者たちを連れて来ました。足の不自由な人、目の見えない人、体の曲がった人、耳が聞こえず口の利けない人、その他大勢の病人を運んで来ました。

 

マタイ福音書がわたしたちに伝えているのは、大勢の群衆たちが病める者たちと一緒に主イエスに近づいたということです。イスラエルの民がシナイ山で主なる神に近づいたように、です。

 

ここで、マタイ福音書は教会の姿を描いています。教会は主イエスがおられる所です。そして、この後主イエスから大勢の群衆たちは、食事に与ります。大勢の群衆は自分たちと一緒に体の障碍のある者たち、心に障碍を持つ者たちを連れて来ました。そして主イエスが連れて来られた障碍のある多くの人々をいやされました。マタイ福音書は、わたしたちにこれが教会であると証言しているのです。

 

マタイ福音書が証しする教会の中に憐れみの神、主イエスがいました。主イエスは聖霊を通して彼の民のためにいやしの奇跡を行われました。それは、マタイ福音書の時代の教会の姿でもありました。

 

マタイ福音書が世に出たのは、紀元80年ごろです。その頃の教会は、大勢の群衆が主イエスのところに病人を連れて来たように、教会に連れて来ました。そして主イエスの前に多くの病人を横たえたように、病人たちを教会の中に横たえたでしょう。そして、教会の中で病人のいやしがなされました。ガリラヤの山で多くの病人をいやされた主イエスは、教会の中で聖霊を通して多くの病人をいやされました。

 

マタイ福音書は、わたしたちに大勢の群衆が主イエスのいやしの奇跡を見て、驚き、イスラエルの神を賛美したと証しします。その賛美がマタイの福音書の時代の教会の中で引き続きなされていたでしょう。

 

それは80年代のマタイ福音書が書かれた時代の教会の信仰体験でもありました。マタイ福音書にとって教会は、大勢の信者たちが礼拝に一緒に体に障碍のある人、心に障碍がある人を一緒に連れて来ました。そして、いやしがなされるところでした。

 

しかし、現代の教会は、マタイ福音書の教会のように病人をいやすところではありません。わたしたちは、誰もこの教会で病人のいやしの奇跡を期待していないでしょう。わたしたちが信仰告白する『ウェストミンスター信仰告白』にも、第1章の聖書論のところで次のように告白しています。「神がその民にみ旨を啓示された昔の方法は、今では停止されている」。聖書66巻が神の御言葉として完成したとき、それまでの神の御心を啓示する以前の方法は、たとえばこのいやしの奇跡も今では停止されました。

 

では、現代の教会は、今朝のこの御言葉からどんな益を得ることができるのでしょうか。現代でも、わたしたちの身近に多くの病人、障碍のある者たちが存在します。教会の中に病人のいやしの奇跡がないのであれば、今のわたしたちの教会にとって今朝の御言葉はどんな慰めがあるのでしょうか。

 

預言者イザヤは、イザヤ書2918節に次のようにメシアである主イエス・キリストが来られた後の教会の祝福を預言しています。「その日には、耳の聞こえない者が 書物に書かれている言葉をすら聞き取り 盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。」

 

わたしたちが聖霊の導きにより、聖書が証しするイエス・キリストのわたしたちへの救いを聞き取り、わたしたちの信仰の目が聖餐の恵みを通して主なる神の恵みと憐れみを、主イエス・キリストの十字架の死に見ることができます。

 

確かにこの教会の中に病人のいやしの奇跡はありません。しかし、わたしたちは聖霊に導かれ、今朝の御言葉が証しする憐れみの神、主イエス・キリストを、わたしたちの信仰の目を通して見ているのです。そして、心から主イエスを賛美しています。

 

さて、マタイ福音書は、わたしたちに3239節において主イエスが成人男子の数だけで4000人を7つのパンと少しの小さな魚で養われた奇跡を物語ります。5000人を5つのパンと2匹の魚で養われた奇跡に続くものです。

 

この奇跡の目的は、主イエスの憐れみです。主イエス・キリストが大勢の群衆が3日も食事をしていない空腹状態であることを憐れみ、パンの奇跡をなさいました。

 

主イエスは、弟子たちに言われました。「大勢の群衆が腹を空かせたままで帰したくない。帰る途中で倒れるかもしれない」。

 

実際に人里を遠く離れたところにいます。食べ物がない荒れ野です。弟子たちは主イエスに答えました。「ここは、荒れ野です。大勢の群衆のためにどこで食べ物を用意することができるでしょう」。

 

そこで主イエスは、弟子たちに言われました。「あなたがたが持ち合わせているパンは、いくつあるのか」。弟子たちは答えました。「パンが7つと小さな魚が少しあります」。

 

主イエスは、大勢の群衆たちに地面に座るように命じられました。そして、主イエスは弟子たちから受け取った7つのパンと少しの小さな魚を、手に取られ、父なる神に感謝の祈りを唱えられました。そして、これを裂き、弟子たちに手渡されました。

 

弟子たちは大勢の群衆に主イエスが裂かれたパンと魚を配りました。大勢の群衆たちは皆、食べて満腹しました。残ったパン屑を集めると、7つの籠に一杯になりました。男も女も子供たちも食べたでしょう。成人男子の数だけでも4000人の人たちが食べて、満腹しました。そして、主イエスは、大勢の群衆たちを解散させられました。

 

マタイ福音書がわたしたちに伝えているのは、主イエスはご自身の民を憐れむ主なる神として、常にわたしたちと共に居てくださるということです。それが教会です。

 

わたしたちと共に居てくださる主イエスは、大勢の群衆を憐れまれたように、わたしたちを憐れまれるお方であります。

 

大勢の群衆が連れて来た病人たちや障碍のある者たちを、主イエスは憐れみいやされました。大勢の群衆たちの空腹を、主イエスは憐れみ、パンの奇跡によって彼らの命を養い支えられました。

 

マタイ福音書がわたしたちに伝えたいのです。憐れみの神、主イエスは復活し、わたしたちの教会に今も居てくださり、わたしたちを聖餐の食事に招かれていると。

 

十字架の死によってわたしたちの罪を贖われ、3日目に甦られた主イエスは、この教会にわたしたちと共に居て、わたしたちを憐れみ、わたしたちをご自身の永遠の命によって養い支えるために、わたしたちを聖餐の食卓にお招きくださるのです。

 

だから、わたしたちは、この教会の聖餐式を大切にすべきです。教会員だけではありません。一緒に礼拝する方々も、大切にしていただきたいのです。そこで今もわたしたちは、今朝のマタイ福音書が証しする憐れみの神、主イエスにお会いできるからです。

 

主イエスは今日、どんなにこの教会に招かれた者たちを愛されているか、憐れまれているのかを知ってほしい。憐れみの神、主イエスを、わたしの救い主として受け入れてほしい、それがマタイ福音書がわたしたちに願っていることであります。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは、主イエスが大勢の病人をいやされ、大勢の群衆が空腹であるのを見て、パンの奇跡で養われた奇跡を学びました。わたしたちの教会は、わたしたちと共に憐れみの神、主イエスが共に居てくださるところであることを教えられました。そして、今わたしたちは、御言葉と聖餐の恵みによって罪を赦され、永遠の命の喜びに生かされていることを知りました。心より感謝します。どうかこの教会の中に臨在されるキリストの憐れみを、兄弟姉妹の信仰の交わりにおいて、礼拝においてわたしたちに経験させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。