マタイによる福音書説教058            主の2012212

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。わたしたちの心を開いて、主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主の御心を知り、行わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことであるし、また客の手前それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

 

                  マタイによる福音書第14112

 

 

 

 説教題:「良心の痛み」

 

 今朝は、マタイによる福音書14112節の御言葉を学びましょう。

 

マタイによる福音書は、洗礼者ヨハネの最後の出来事を記しています。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが良心の痛みを覚えつつ、洗礼者ヨハネを殺したことを思い起こすという形で記しています。

 

さて、ヘロデ・アンティパスは、幼子主イエスを迫害したヘロデ大王の息子です。ガリラヤの領主でした。ヘロデ・アンティパスには、腹違いの兄弟たちがおり、父ヘロデ大王が死ぬと、彼らはユダヤの国を4分割しました。ヘロデ・アンティパスは、ユダヤの国の王ではなく、ガリラヤという地方の支配者にすぎません。

 

さて、主イエスがガリラヤ伝道を始められたのは、ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを逮捕し、牢に入れた時からでした(412節以下)。その時から主イエスは、ガリラヤ伝道を開始し、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と福音を宣べ伝え始められました。そして、12弟子を召し集め、ガリラヤを中心に伝道し、人々の病気をいやし、悪霊を追い出すという奇跡を行われました。

 

そのうわさが、ヘロデ・アンティパスの耳に入りました。彼は、主イエスの奇跡について聞きました。すると、彼は良心の痛みを覚えて、彼が殺した洗礼者ヨハネを思い起こしました。彼は、家来たちに、主イエスを、死人の中から甦ったヨハネだと言いました。「あれは洗礼者ヨハネだ。誰かが彼を死人の中から生き返らせたのだ。だから、彼に奇跡を行う力が働いているのだ。」と。

 

ヘロデ・アンティパスがどうして主イエスを、洗礼者ヨハネだと決めつけたのか、マタイによる福音書はわたしたちに詳しく説明していません。彼が、主イエスを洗礼者ヨハネとみなし、主イエスに敵対したことを伝えているのです。だから、主イエスは弟子たちと共にユダヤの国を出て、逃げなければなりませんでした。そして、16章に主イエスの12弟子たちが信仰告白し、教会の基礎が築かれたことを、マタイによる福音書はわたしたちに証しします。

 

どうして洗礼者ヨハネは、ヘロデ・アンティパスに殺されたのでしょう。ヨハネが、だれにも聞こえるように、だれにも見えるように、彼の罪を責めたからです。それは、近親相姦の罪です。主なる神は、預言者モーセを通して、イスラエルの民に兄弟の妻を、妻にすることを禁じました。彼は、腹違いの兄弟が離婚したヘロディアを妻にしました。そして、そのために自分の妻と離婚したのです。この罪を、洗礼者ヨハネが公然と非難しました。ヨハネは彼に告げました。「あなたが、腹違いの兄弟の妻ヘロディアと結婚することは、神の律法に許されていません」と。

 

ヘロデ・アンティパスは、ヨハネに憎しみを覚え、殺そうと思いました。しかし、実行できませんでした。ガリラヤ地方の人々たちは、ヨハネを主なる神が遣わされた預言者として敬っていたからです。ヨハネを殺そうものなら、ガリラヤの人々が反乱を起こすかもしれないと恐れたのです。そこで彼は、ヨハネを死海の東海岸にあるマケルス砦の牢に閉じ込めました。これは、ユダヤ人の歴史家ヨセフスが『ユダヤ古代誌』に証言しています。

 

ところがヨハネを殺す機会が与えられました。彼の誕生日に、ガリラヤの有力者たちを招きました。そして、彼らのその真ん中でヘロディアの娘に踊りをおどらせました。彼は喜び、客たちの前で少女に「願うものは何でも与える」と誓いました。少女は母親のヘロディアに唆されて、「ヨハネの首を盆に載せて、ちょうだい」と言いました。

 

ヘロデ・アンティパスは、心を痛めても、娘の願いを、客たちの手前、かなえてやりました。牢に家来を遣わし、ヨハネの首をはねさせ、盆に載せて、少女に渡しました。少女は、母親のヘロディアのところにヨハネの首を持って行きました。

 

ヘロデ・アンティパスは、旧約聖書のダビデ王のように姦淫の罪に、殺人の罪を加えました。しかし、ダビデ王のように罪を心から悔いることはありませんでした。むしろ、彼はヨハネを殺したことに良心の痛みを覚えたでしょう。だが、ダビデ王のように心を主なる神に向けることはありませんでした。彼は洗礼者ヨハネを殺し、そして、後に主イエスを十字架に殺す者たちの仲間に加わるのです。

 

マタイによる福音書は、わたしたちに預言者である洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに殺される出来事を語り、次のことを伝えています。第1に洗礼者ヨハネは主イエスの先駆者であります。ヨハネが世の権力者に預言者として殺されたように、主イエスも殺されます。第2にヨハネの死は、彼自身の苦難の道を通して、主イエスに先んじて受難の道を歩みました。彼の死こそ主イエスが預言された再来のエリアの死であります。

 

3にマタイによる福音書は、旧約聖書においてイスラエルの民が主なる神に従わないで、主なる神が遣わされた預言者たちを殺したことを、その恐ろしい罪をヘロデ・アンティパスのヨハネ殺しに重ねて見ているのです。そして、主イエスもまた、この世の権力者、ユダヤの群衆たち、そして、わたしたちの主なる神への不従順の罪によって十字架の死に歩まれることを暗示しているのです。

 

洗礼者ヨハネの弟子たちは、ヨハネの遺体を引き取り、葬った後に、主イエスを訪れ、ヨハネの死を報告しました。その時に主イエスは、御自分の最後を予感されたでしょう。その前に主イエスは、12弟子たちにキリスト告白に導き、教会の基礎を据える使命が残されていました。そこでヘロデ・アンティパスの迫害の手から逃げられました。ガリラヤを出て、ヘロデ・アンティパスの支配の届かないところに逃げられました。12弟子たちは主イエスに従って行きました。

 

今朝の御言葉を読み、この御言葉から何を聞きとるべきでしょうか。わたしが示されたことは、次のことです。洗礼者ヨハネとメシア主イエスとの受難の死という運命の一致であります。わたしは、マタイによる福音書の関心が、ここにあるのだと確信しました。預言者殺し、メシア殺しへの関心です。

 

主イエスは、ヨハネの弟子たちの報告から御自分がメシアの先駆者ヨハネの歩んだ受難の死を歩むことを悟られていたでしょう。だから、今朝の御言葉においてマタイによる福音書は、わたしたちに殉教に至るヨハネの受難の道は、主イエスの受難の道に通じていると伝えています。そして、マタイ福音書は受難の主イエスに従う12弟子たちの道も、また権力者たちに迫害される受難の道を歩むことになると確信したと思います。その恐れに打ち勝つ道は、キリスト告白だけであります。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、洗礼者ヨハネの受難の死を通して、メシア主イエスの十字架の死に、わたしたちの心を向けさせて下さり感謝します。十字架の罪の赦しの恵みと共に、十字架のキリストに従うわたしたちの受難にも目を留めさせていただきました。2月第4主の日よりレントの季節に入ります。キリストの受難を思いつつ、日々を歩ませてください。12弟子たちのようにキリスト告白に導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教059            主の2012219

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。わたしたちの心を開いて、主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主の御心を知り、行わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間たちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 

                  マタイによる福音書第141321

 

 

 

 説教題:「5千人を養う主イエスの奇跡」

 

 今朝は、マタイによる福音書141321節の御言葉を学びましょう。主イエスが5千人を養われたパンの奇跡は、新約聖書の4つの福音書すべてに記録されています。主イエスの奇跡の中で唯一、この奇跡のみが4つの福音書に記されています。それだけ初代教会の中で、このパンの奇跡はとても大切にされ、影響を与えて来たのでしょう。教会の中で行われている聖餐と愛餐においてこの奇跡が特に覚えられて来ました。

 

マタイによる福音書は、わたしたちにどのようにこのキリストのパンの奇跡を、教会の中で経験したのか記しています。

 

マタイ福音書がわたしたちに証しします教会は、キリストの体なる共同体です。そこでわたしたちキリスト者がキリストの現臨を経験します。マタイ福音書は、復活のキリストは弟子たちに次のように約束され、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820)、福音書を閉じています。

 

つまり、マタイ福音書は、わたしたちに常に過去における主イエスの教えと奇跡を報告し、復活の主イエスが今教会の中でいやしの奇跡を行い、パンの奇跡を行われている経験を伝えています。それが、マタイ福音書の証しする教会です。

 

 マタイ福音書がわたしたちに教会の経験として伝える主イエスは、受難のお方です。洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられ、迫害され、殺されたように主イエスも権力者に捕らえられ、迫害され、殺されます。そして、主イエスの後に従う弟子たちと教会も、時の権力者たちに捕らえられ、迫害されます。

 

 主イエスは、御自身の受難を自覚し、ゴルゴタの十字架の道を歩まれています。ただ歩まれるのではありません。12弟子たちを訓練し、キリスト告白に導きつつ歩まれています。 

 

 さて、主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子たちからガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを殺したことをお聞きになりました。

 

 主イエスは、412節においてヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを捕らえたとお聞きになり、ユダヤからガリラヤに退かれました。そして、ガリラヤで伝道を始められました。ところが、ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスは、主イエスを、死人から甦ったヨハネと恐れ、迫害しようとしたのでしょう。そこで主イエスは、舟に乗られて、ひとり人里離れた寂しい所に逃げられました。

 

 大勢の群衆たちは、主イエスが他のところに行かれたと聞いて、徒歩で追いかけました。そして、主イエスを先回りして待ちました。主イエスは、舟から降りると、大勢の群衆たちがいるのを御覧になり、群衆たちを深く憐れまれました。マタイ福音書は、主イエスの憐れまれた理由を省いています。すでに936節に「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と記しているからです。だから、「深く憐れまれた」と記し、主イエスが群衆たちの中にいる病人たちをいやされたと、マタイ福音書は証ししました。

 

 それは、ただ過去の主イエスの癒しを述べているのではありません。マタイ福音書は、復活の主イエスを通して教会の中で多くの病人が癒されていた経験を通して、主イエスのいやしの奇跡を証言しているのです。

 

 夕暮れになりました。弟子たちは、主イエスのところに来て、大勢の群衆たちを解散させて、家に帰って食事を取るようにさせてくださいと進言しました。

 

 主イエスがおられた所は、人里離れた寂しいところでした。弟子たちは、主イエスに群衆たちを解散させて、夜の食事を買いに行かせてくださいとお願いしました。すると、主イエスは弟子たちに思いがけない言葉を返されました。「群衆たちを解散させる必要はない。あなたがたが彼らに食べ物を分けてやりなさい」。弟子たちは、主イエスの御命令に驚くやら困るやら、言いました。「ここにパン五つと魚二匹しかありません。」

 

 主イエスは、弟子たちに「それをここに持って来なさい」とお命じになりました。そして、大勢の群衆にも草の上に座るようにお命じになりました。

 

 主イエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、天の父なる神に感謝の祈りをささげられました。その後、五つのパンを裂かれました。そして、弟子たちに次々と裂かれたパンをお渡しになりました。その裂かれたパンを、弟子たちは大勢の群衆に与えました。大勢の群衆たちは、皆パンを食べて満腹しました。無駄にならないように、弟子たちがパン屑を集めると、十二の籠に一杯になりました。成人男性の数だけで五千人でした。大勢の群衆たちは家族を連れて、来ていたので、女性や子供たちの数を加えると2万人いたと、ある学者は推測しています。

 

 マタイ福音書は、わたしたちにこの主イエスの5千人を養われたパンの奇跡を、教会における愛餐、そして、聖餐において経験した出来事として伝えています。19節に「パンを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた」とありますね。これは、教会の礼拝において行われている聖餐式そのものです。マタイ福音書は、教会の聖餐式の経験を通して主イエスが5千人を養うためにパンの奇跡を行われたことを証言しているのです。

 

 それによってマタイ福音書がわたしたちに伝えているのは、洗礼者ヨハネの死後、主イエスは、御自身の受難を覚悟して、この奇跡を行われたということです。それは、弟子たちが主イエスを誰と信仰告白するか、訓練ともなりました。

 

 主イエスは、憐れみ深い主なる神です。大勢の群衆たちの飢えを憐れまれたゆえに主イエスは、弟子たちを通して大勢の群衆たちの主人として食べ物を与えられました。旧約聖書の民数記を知るものであれば、出エジプトした神の民が荒野の40年間、主なる神に天から命のパンであるマナによって養われたことを思い起こすでしょう。教会は、愛餐と聖餐を通して主イエスが主なる神であることを、そして、メシアの食事を通して、今も主イエスは神の民を配慮し、羊飼いとして、王として憐れみを施されていることを経験しているのです。

 

 マタイ福音書は、20節に「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠にいっぱいになった」と証言しています。教会は、主の祈りを祈ります。その祈りの一つに「われらに日々の糧を与えたまえ」と祈ります。今朝の主イエスの5千人を養うパンの奇跡は、その祈りに対する主イエスの答です。

 

 主イエスは、主なる神として荒れ野の神の民を40年間マナによって養い、約束の地カナンに至るまで飢えさせることはありませんでした。まして教会において愛餐と聖餐にあずかるわたしたちを天国に至るまで飢えさせられることはありません。

 

 教会に足りないものはあります。わたしたちに不足はあります。だから、主イエスにわたしたちも大勢の人々に食物を、サービスを与えてあげなさいと命じられても、答えられないことがあります。教会とわたしたちには「五つのパンと二匹の魚」しかありません。それでこの世の人々に何ができるでしょうか。

 

 しかし、今朝の主イエスのパンの奇跡がわたしたちに教えていることは、あの使徒ペトロとヨハネがエルサレム神殿の「美しい門」に座っていた足の不自由な者に告げた祝福があります。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。足の不自由な者は、主イエスを信じて、立ち上がり、神を賛美し躍り出しました。

 

 一つ証しをさせていただき、終わります。昨年10月に妻が両足に人工股関節を入れる手術をしました。いつかは手術しなくてはなりませんでしたが、本当に思いもかけない出来事でした。夏に家内が船橋高根教会の長老たちに手術を促され、祈って決心しますと、お金もなにもないのに、本当に主イエスはすべてを備えてくださっていました。そして、主が備えてくださるものには、わたしたちは満足を与えられ、無駄や浪費がないということを経験させられました。

 

 キリストのパンの奇跡は、わたしたちの教会生活と日常生活の経験というフィルターを通して見るとき、過去の出来事ではないことを知らされます。今も主イエスはマタイ福音書に約束されているように、わたしたちと共に居てくださいます。わたしたちを御国に導くために、守り養ってくださっています。お祈りします。

 

 

 

主イエス・キリストの父なる神よ、主イエスが5千人を養われた奇跡の恵みを、わたしたちは礼拝における聖餐式を通して、また、愛餐会を通して経験していることを教えられ感謝します。今月の26日よりレントの奇跡が始まり、キリストの受難を思いつつ、日々を歩みます。今朝の御言葉によってこの1週間を生かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

マタイによる福音書説教060            主の201234

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「父と御子なる神がわたしたちに遣わされた聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。わたしたちの耳を神の御言葉に集中させてください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を、心を尽くし思いを尽くして聞かせてください。わたしたちの心をお開きください。主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れるために。そして、主イエスがお招きくださる聖餐の食卓に与らせてください。主イエスの平安の中へとわたしたちの魂を憩わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させられてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗りこむと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 

 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

 

                 マタイによる福音書第142236

 

 

 

 説教題:「主イエス、湖の上を歩く」

 

 レントの第2週の主の日を迎えました。今年は、41日より受難週が始まり、48日がイースターです。主イエス・キリストのご受難を覚えて一日一日を過ごし、イースターに備えていきたいと思います。

 

 さて、今朝は、主イエスがガリラヤ湖を歩かれた奇跡の記事を学びましょう。主イエスは、人里離れたところで5000人にパンを与えて養う奇跡を行われました。

 

その後主イエスは、すぐに群衆たちを解散させられました。そしてその間に弟子たちを舟に乗せて、この場所を離れさせられました。

 

どうして主イエスは群衆たちを解散させ、弟子たちを強いて舟に乗せて、この場所を離れさせられたのでしょうか。二つのことが考えられています。

 

第1は、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの手から逃れることです。ヘロデ・アンティパスは、主イエスがガリラヤ伝道をされているうわさを聞いて、彼が殺した洗礼者ヨハネが生き返ったと思い、主イエスを恐れていました。おそらく主イエスは、ヘロデ・アンティパスがここでの5000人にパンを与えて養った奇跡の噂を聞いて、捕えに来ると思われたことでしょう。

 

2は、ヨハネによる福音書を読みますと、この奇跡の後に大勢の群衆たちが主イエスを王にしようとしたと記しています。主イエスは、群衆たちがご自分をこの世の王に祭り上げようとするのを避けて、彼らを解散させられました。

 

マタイ福音書は、主イエスが群衆たちを解散させ、その間に弟子たちを強いて舟に乗せて、ガリラヤ湖の向こう岸に行かせられた理由を詳しく説明しません。そして、主イエスは夕方にひとり祈るために山に登られたと、まことに簡潔に記しています。

 

主イエスが、夕方から明け方まである山でお一人祈られました。その間に弟子たちを乗せた舟は、「陸から何スタディオン離れており、逆風のために波に悩まされてい」ました。弟子たちが向こう岸に渡るために、舟でガリラヤ湖の真ん中ほどに来た時に、急に突風が吹き荒れました。風は逆風で、高い波に弟子たちは悩まされ、先に進むことができませんでした。舟の中は、主イエスがおられませんでした。

 

主イエスは、弟子たちを助けるためにガリラヤ湖の上を歩いて、彼らの舟に行かれました。夜明けの頃でした。

 

弟子たちは、主イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、パニックってしまいました。そして「これは幽霊だ」と心の底から恐れの思いが噴出して、大声で叫びました。

 

主イエスの弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師たちです。舟を操ることも、天候や波に対する知識もありました。しかし、今彼らが湖の真ん中で経験した嵐は、彼らの長年の経験を持ってしても、役に立ちませんでした。そこへ主イエスが湖の上を歩いて、彼らのところまで来られたのです。弟子たちが「幽霊を見た」と恐れ、パニックっていたのは当然のことだったでしょう。

 

恐怖の中でパニックっていた弟子たちに、主イエスはすぐに語りかけられました。そして、主イエスは言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 

主イエスは、弟子たちにご自分であることを証明するために「安心せよ。わたしだ。イエスだ。怖がることはない」と言われたのでしょうか。

 

マタイが、わたしたちに主イエスの御言葉によって伝えたいのは、単なる主イエスの自己紹介ではありません。旧約聖書の主なる神が今主イエスとして弟子たちの前に現れ、彼らを救われることを伝えようとしているのです。

 

詩篇77編の詩人は、次のように主なる神を賛美します。「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。」(詩篇77:20)。ヨブ記の中でヨブも、「神は自ら天を広げ、海の高波を踏み砕かれる」と賛美しています。他にも旧約聖書の中に主なる神は水の上を踏破するという御言葉があります。

 

マタイ福音書がわたしたちに湖を歩く主イエスについて、教えていることは、第1に旧約聖書の主なる神は、主イエス・キリストとして弟子たちに、そしてキリスト教会に現れられたということです。

 

2にマタイ福音書は、わたしたちに旧約聖書の主なる神はイスラエルの神の民と共にいる神であり、主イエス・キリストは「インマヌエル」、弟子たちと共にいる神であり、教会と共のいる神であることを伝えようとしています。

 

主イエスが「わたしだ」と言われた言葉は、出エジプト記の中で主なる神が「わたしはある。有ってある者」と言われた御言葉と同じです。主なる神は、モーセをイスラエルの民の指導者に選ばれ、エジプトの民たちに遣わされました。その時にモーセは、民たちに自分を遣わした神の名をどのように伝えましょうかと言いました。主なる神はモーセに「『わたしはある』という者が、お前を遣わしたと答えよ」と言われました。そして、主なる神は、イスラエルの民と共にいて、奴隷の地エジプトから民たちを紅海の海を渡らせ、荒れ野の40年間民たちを養い、そしてモーセの後継者ヨシュアを「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。勇気を出せ」と励まし、約束の地カナンに導き入れてくださいました。

 

その主なる神が今主イエス・キリストとして弟子たちの前に現れられたのです。彼らと共にいる主なる神として現れられました。

 

だから、主イエスのお言葉は、次のように言い換えることができると思います。「恐れるな。わたしはあなたがたを救う。わたしはあなたがたと共にいる主なる神、恐れるな。」主のお言葉は、弟子たちにご自身を気付かせる言葉ではなく、明らかにご自身が主なる神として弟子たちの前に現れたことを宣言されているのです。

 

3にマタイ福音書はわたしたちに弟子たちの信仰の小ささを教えています。28節から31節は、マタイ福音書だけに記されています。弟子のペトロの失敗談です。

 

ペトロは、主イエスがご自分を主なる神と宣言されたことを受け入れて、「あなたが主なる神でしたら、わたしに湖を歩いて、あなたのところに来るようにお命じください」と言いました。主イエスは、ペトロに「来なさい」とお命じになりました。ペトロは湖の上を歩き、主イエスに近づきました。ところが、嵐は止んでいませんでした。ペトロは強い風に気付きました。怖くなり、湖に沈みかけました。そのときペトロは、主イエスに「主よ、助けてください」と叫びました。主イエスは、すぐにペトロに助けの手を伸ばされ、助けられました。そして言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と。

 

ペトロは、主イエスが主なる神であることの確証を得ようとしたのです。しかし、ただ目の前の恐ろしさに、彼自身が疑ってしました。だから、主イエスは、彼に「信仰の小さい者よ、何のために疑ったのか」と言われました。そして、ペトロをお救いになられました。

 

4にマタイ福音書は、わたしたちに弟子たちの信仰告白を証ししています。嵐は止み、舟の中で弟子たちは、主イエスに「本当にあなたは神の子です」と信仰告白しました。主イエスは、弟子たちに「恐れてはならない。わたしがあなたと共にいてあなたを救う」と宣言された通りに、主イエスは信仰の小さな弟子たちと共にいて、大水の中に沈み、滅びようとしていたペトロを救われました。

 

主イエスの「わたしだ」という御言葉は、「わたしがあなたと共にいてあなたを救う」という意味です。湖を歩かれる主イエスは、主なる神としてご自身を表し、弟子たちに「恐れるな」と励まし、海の嵐、大水や波が暗示する神の救いに敵対するこの世の諸勢力を静め、弟子たちが「主イエスこそわたしたちの共に住まわれた神である」と信仰告白したことを証ししているのです。

 

今朝の御言葉から得る慰めは、次のことです。マタイ福音書は、わたしたちに教会とこの世におけるキリスト者の苦しみをよく知っています。この世には、迫害があり、病気や災害の苦しみ、死の恐怖があります。マタイ福音書は、湖を歩く主イエスをわたしたちに語り、伝えています。キリスト者であるわたしたち、教会がいろいろな苦難に遭って苦しむとき、昨年の311日の東日本大震災のような恐ろしい災害に苦しむとき、主イエスはわたしたちの嘆き、助けを呼ぶ声を聞き、湖を歩き弟子たちのところに来られたように、天からわたしたちのところに来てくださいます。そして、御言葉を通して「わたしだ」と励ましてくださいます。そしてわたしたちと共にいてわたしたちをこの世の罪と苦しみから救い出してくださいます。たとえわたしたちが弟子たちのように、信仰が薄く、疑ったとしても、主イエスはわたしたちと共にいてくださる主なる神として、わたしたちを救ってくださいます。お祈りします。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、レントの第2に主の日を迎えました。次週は、昨年の311日の東日本大震災と福島第1原発事故より1年目になります。湖を歩き、ご自身がわたしたちと共にいてわたしたちを救う主なる神であることを現された主イエスよ、苦しみと絶望の中にいる者に、「わたしだ。恐れるな」と声をかけてくださり、お救いください。わたしたちの教会にもいろいろな試練と困難の中にある兄弟姉妹と共にいてくださり、兄弟姉妹の苦しみをお救いください。人は皆死に支配されます。死からよみがえり死に勝利された主イエスよ、わたしたちをしっかりと捕まえて、死から取り上げてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。