マタイによる福音書説教054 主の2012年1月8日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種を蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石らだけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
マタイによる福音書第13章1-23節
説教題:「種をまく人のたとえ」
今朝は、マタイによる福音書の第13章1-23節の御言葉を学びましょう。
マタイ福音書の13章は、主イエスがなさった第3番目の説教集です。第1番の説教集が5-7章における主イエスの山上の説教です。第2番目の説教集が10章における使徒たちを伝道に遣わされる説教であります。そして、第3番目の説教集が、ここで主イエスがなさった天国についての7つの説教であります。
その第1の説教が、主イエスが群衆たちにお話しになった「種を蒔く人のたとえ」です。主イエスは、大勢の群衆たちに説教するために、ガリラヤ湖のほとりに行かれました。そして、舟に乗られました。大勢の群衆は岸に立っていました。
主イエスは、群衆たちに天国について、たとえを用いてお話しになりました。種を蒔く人のたとえでした。群衆たちが日ごろ見ているたとえでした。
ユダヤの国は、11月中ごろから翌年の1月の初めに畑に麦の種を蒔きました。大麦の種を蒔き、続いて小麦の種を畑に蒔きました。
種を蒔くやり方が、わたしたちの日本のやり方と違いました。最初に畑一面に種を蒔きました。その後畑を耕し、蒔き散らした種の上に土をかぶせました。従って、主イエスがお話しになるように、無駄になる種が多くありました。道端や土手に落ちた種は、鳥の餌になりました。石地に落ちる種がありました。茨や雑草の生い茂る中に落ちる種もありました。だから、種蒔きは無駄が多く、麦の収穫量はとても低かったでしょう。
主イエスは、「種を蒔く人のたとえ」を次のようにお話しになりました。「種を蒔く人の蒔く種たちがすべて実を結ぶわけではありません。無駄になる種も多いでしょう。人の目には失敗のように見えるかもしれません。天国も同じです。種を蒔く人はわたしです。蒔く種はわたしの語る御言葉です。多くは無駄になるでしょう。人の目には私の伝道は失敗に見えるでしょう。しかし、最後には神さまが豊かな実を結ばせ、天国は実現するでしょう」。
しかし、主イエスの弟子たちが心に留めたのは、どうして主イエスは、群衆たちに天国についてたとえを用いて話されたのか、ということでした。
主イエスは、弟子たちの質問に答えられました。主イエスの弟子たちは、天国の秘密を理解する恵みが与えられているが、群衆たちには与えられていないと。
主イエスは、群衆たちにたとえを語ることによって、預言者イザヤの御言葉が実現していると言われました。主なる神が、預言者イザヤの預言通りに群衆たちを、主イエスのたとえを聞いても理解せず、見ても決して主イエスを救い主と認めず、弟子たちのように主イエスに心から従わないようにされました。
他方、主イエスは、弟子たちを恵み祝福されました。弟子たちは、主イエスのたとえを聞いて理解しました。そして弟子たちは、主イエスを見て、救い主と信じて従いました。主イエスは、はっきりと弟子たちを祝福し言われました。「昔の旧約時代の預言者たちと義人たち、すなわち、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデたちは、メシア、主イエスを見たいと願いました。メシアの救いの言葉を聞きたいと望んでいました」。
さて、18節から23節は、主イエスが弟子たちに種を蒔く人のたとえを説明された場面です。マタイ福音書は、主イエスの御言葉を、教会の宣教を聞くわたしたちへの戒めとして記しています。
マタイ福音書が、主イエスのこの「種を蒔く人のたとえ」の話から聞き取ったものは、教会の中にはキリストの御言葉を聞く、いろんな人々がいるということでありました。キリスト者がキリストの言葉を様々に聞いているという現実でした。そして、4通りの聞き方に注目したのです。
第1は、道端に落ちて、鳥の餌になったものたちです。種は、キリスト者たちにキリストの御言葉を語ることです。彼らは、彼らの心の中にキリストの言葉が種として蒔かれたのに、正しく育てることができませんでした。礼拝において説教を聞いて、主イエスを救い主として受け入れました。そして、洗礼を受けて、教会員になりました。しかし、信仰を正しく理解し、育てることができませんでした。だから、悪い者が来て、「悪い者」とはサタンでしょう。主イエスは、弟子たちに主の祈りを教えられ、「悪しき者から救い出したまえ」と祈るように教えられました。サタン、悪魔に信仰を奪われてしまいました。キリスト者になったのに、その後信仰の学びと訓練を怠り、再びこの世の偶像に心を奪われて、信仰を失ったのでしょう。
第2は、石だらけの所に蒔かれたものです。彼も、教会に導かれ、礼拝においてキリストの言葉を聞いて、主イエスを信じて、洗礼を受けました。教会員になりました。しかし、彼は心の弱いものでした。どんなことがあってもキリストに従うという強い心がありません。だから、キリストゆえに、キリストの福音を宣べ伝えている教会のゆえに彼が艱難や迫害に遭うと、彼はつまずき、信仰を捨て、背教しました。
第3は、茨の中に蒔かれたものです。彼も福音を聞いて、キリスト者になりました。しかし、主イエスよりもこの世を愛しました。使徒パウロは、彼の弟子デマスについて、テモテへの第二の手紙4章10節に、こう書いています。「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい」と。この世の富と誘惑が、彼の信仰を奪い取ってしまったのです。現代では、「世俗化」です。この世の富める生活、便利な生活、溢れるこの世の情報の中に身を沈めてしまい、その者の信仰が息もできなくなっている状態です。
第4に良い地に蒔かれたものです。主の弟子たちのようにキリストの御言葉を聞いて理解できる恵みを与えられたキリスト者であります。その者は、主に祝福されます。だから、ある者は信仰生活において百倍の実を結びます。そして、他の者は60倍、30倍の実を結びます。
主イエスは、わたしたちの教会のためにいつの世も時代も「良き土地に蒔かれる種を用意してくださっています。」100倍の実を結ぶ者がいます。60倍の実を結ぶ者がいます。30倍の実を結ぶ者がいます。
その主の祝福は、人の目には小さなことです。教会の礼拝におけるあなたの目と耳です。そこに主があなたに約束された幸せがあります。今あなたは、耳で何を聞いていますか。今あなたの目は何を見ていますか。ここであなたが見聞きしているものを、昔の預言者たち、義人たちは見たかったのです。キリストがわたしたちの罪の身代わりに十字架に死に、死人の中から復活し、わたしたちはキリストゆえに罪を赦され、永遠の命が与えられ、父なる神により神の子としていただけた。アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ダビデ王は、この喜びを見聞きしたかったのです。わたしたち同様に礼拝において説教を聞き、聖餐の恵みに与りたかったのです。
礼拝できる喜び、説教を聞き、聖餐を目にし、その恵みに与れる喜び、ここにまことにキリストがわたしたちと共に居てくださると、信仰の目と耳で見聞きする幸い。これが今朝の御言葉がわたしたちを導こうとする所です。
大切なことは、素直に今日、その御言葉をわたしたちの心に留めて、今礼拝できること、説教を自分の耳で聞き、聖餐を目にし、その恵みに与れることを喜べること出ないでしょうか。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの目と耳が、聖霊と御言葉を通して主イエスが弟子たちに約束された恵みを、今この礼拝において与えられていることを確信させてください。新しき年、主イエスと共に歩ませてください。御言葉をと聖餐の恵み与らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教055 主の2012年1月15日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。ア-メン。
イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「わたしは口を開いてたとえを用い、
天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた者は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」
マタイによる福音書第13章24-43節
説教題:「天国のお話」
主イエスは、たとえを用いて7つの天国のお話をされました。先週は、種まきを蒔く人のたとえを学びました。主イエスは、天国を刈り入れにたとえられています。今朝の主イエスの「『毒麦』のたとえ」も天国を刈り入れにたとえています。主イエスは、民衆に天国の話をされました。
天国は、良い種を畑に蒔いた人に似ていると。彼は、畑に良い種を蒔きました。ところが人々が眠っている間に、敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行きました。
毒麦とは、有害な雑草のことです。日本では稲田の中に生える雑草、ヒエのようなものです。ヒエも人が蒔くわけでありませんが、稲が成長するに従い、田の中に現れて来ます。
同じように麦を蒔き、麦の芽が出、麦が実ると、毒麦も畑に現れました。
そこで主人の奴隷たちが、主人に質問しました。「ご主人様、畑には良い種を蒔かれたではありませんか。どうして毒麦が現れたのでしょうか。」と。主人は、奴隷たちに「敵の仕業だ」と答えました。
そこで奴隷たちは、主人に言いました。「行って、毒麦を抜き集めておきましょうか。」と。主人は答えました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」
毒麦は、麦と似ていません。芽が出て、成長すれば、見分けがつきました。しかし、根が広く深く張り、毒麦を抜くときに、麦も一緒に引き抜く恐れがありました。だから、主人は、奴隷たちに麦も毒麦も育つままにしておくように命じました。
主人は、刈り入れの日に最初に毒麦を刈り取り、束にして燃やし、後で麦を刈り取り、倉に納めることにしていたからです。
さて、主イエスはなぜこのような天国のたとえをお話しになったのでしょうか。主イエスが種を蒔く人のたとえを話されたことに共通するものがあります。それは、種を畑に蒔かれることです。そして、その後にいろいろと困難が生じました。最初のたとえは、伝道の困難さでありました。
さて、天国は、神の国であり、神の御支配です。主イエスがガリラヤで「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語られ、主イエスによって神の王権の支配が始まりました。
しかし、この世は罪の世です。主イエスの敵であるサタンは、公然と、主イエスの宣教を妨害しました。主イエスを荒れ野で誘惑し、ファリサイ派の人々や律法学者たちを敵対させ、弟子の一人ユダの心の中に入り、主イエスを裏切らせました。
この世にありますキリストの教会も主と同じ苦しみを経験してします。教会は天の国のひな型です。しかし、この世における教会は、天の国に似て非なる状態です。主イエスは、弟子たちに信仰の種を蒔かれました。しかし、教会の代表者であった弟子たちは、この世において出世争いをし、色々なトラブルを起こし、信仰と罪の矛盾と悲しみを抱えながら、主イエスに従いました。主イエスは、弟子の一人ユダにサタンが入り込んだことを御存知でしたが、12弟子たちから排除されず、彼が自殺するまでそのままにされました。神の裁きに委ねられたのです。
わたしたちの教会は、天の国が来ているしるしです。主イエスは、神の国はあなたがたのただ中にあると言われました。しかし、教会もわたしたちも、人の目に失望を与えることが多いのではありませんか。もし教会の外の人々が、天の国はわたしたちのようなものですと聞いたら、失望するでしょう。そしてわたしたちに質問するでしょう。「なぜ、主イエスはあなたがたに『互いに愛し合いなさい』と命じておられるのに、あなたがたの中に、教会の中に争いがあるのですか」と。
人々をつまずかせないために問題のある者は、教会から排除すべきでしょうか。教会の中に主イエスは、良き種を蒔かれました。信仰の種を蒔かれました。愛の種を蒔かれました。しかし、サタンはわたしたちの心に悪意と敵を植え付けるのです。教会に、わたしたちの中で大きな失望を起こそうとします。だから、この世ある教会は、常にトラブル処理をしているようなところです。
だから、教会の困難を、自分たちの力で解決しようと、あせらないで、すべてを神の裁きに委ねなさいと、主イエスは弟子たちに、そして今のわたしたちにこのたとえを用いて励ましてくださいました。
それに続いて主イエスは、弟子たちや群衆たちに「からし種」と「パン種」のたとえを用いて天国のお話をされました。
主イエスは言われました。天の国はからし種に似ています。からし種を畑に蒔くと、それは野菜の中で一番小さな種です。しかし野菜として大きくなりますと、5メートルほどの大きな木のようになります。そして、小鳥たちが枝々巣を作って住みつくのです。
主イエスは、このたとえを用いて天の国、神の支配はこのからし種の巨大な成長と同じであると言われました。サタンは、教会の中に毒麦を蒔き、サタンに動かされた者が教会の中に憎しみを起こし、争いを起こし、色々なトラブルを起こして、キリストの体なる教会を破壊しようとしても、キリストの教会はからし種のように世界に満ちて巨大なものとなり、世界を変えるようになると。
さらに主イエスは、パン種のたとえをお話しになりました。主イエスは、天の国はパン種に似ていると言われました。パン種の力は、その全体に行きわたるというお話です。女の人が3サトンの粉にパン種を入れ、パンを焼きました。3サトンはメリケン粉約20キロです。20キロのパンを焼きました。Ⅰ斤の食パンが50個分です。それだけの量の粉をこねて、パン種を入れると、パン種は発酵して、Ⅰ斤の食パン50個分を焼く生地になります。20キロの生地全体に行きわたります。
天の国の型としての教会は、世界の歴史を動かすくらい大きくなります。日本は独立国家ですが、アメリカの意のままです。そして、世界の歴史を動かす力があるアメリカの大統領を選んでいるのは、教会です。キリスト者たちです。主イエスという一粒のからし種から現代は世界のキリスト教会という大きなものになりました。
そして、キリスト教会はパン種のように世界の隅々に行きわたっています。医療、福祉、学校、刑務所は言うに及ばす、ビジネス、経済、政治等、キリスト教会、キリスト者が関わりのない分野は見出すことが難しいでしょう。
主イエスは、第1のたとえを用いてお話しになられたと同じように、ここでも群衆たちにたとえを用いてお話しになりました。そして、群衆たちにたとえを用いることなしにお話しになることはありませんでした。
マタイによる福音書は、それによって詩編の78篇2節で、預言者アサフが預言した御言葉が実現し、主イエスがメシアであることが明らかになったのだと証ししています。アサフという詩人は、旧約聖書の歴代誌下29章30節に「先見者」、すなわち、預言者であると記されています。
マタイ福音書は、わたしたちに次のことを教えています。主イエスのたとえは、天上において隠されていた神の教えでした。そして、その教えを、旧約時代の預言者や義人たち、アブラハム、モーセ、ダビデ王たちは乞い求めていました。だから、主イエスはメシアであります。主イエスのたとえは、旧約聖書の御言葉によって正当であることを保証されています。そして、主イエスのたとえは、神の隠された教えであるから、その理解には特別な賜物が必要であることです。それは、聖霊です。
そして、主イエスは、種まきの人のたとえと同様に、ここでも毒麦のたとえの説明をされました。
主イエスは、たとえの説明を弟子たちだけに、ある家に入られて、お話しになりました。弟子たちは、毒麦のたとえの説明を求めました。
主イエスは、弟子たちにたとえを説明された時に、主人と奴隷たちの対話は省かれました。それによって話の内容が変わりました。主人と奴隷たちの対話を通して教会は教会の中でトラブルを起こす者を急いで裁くべきではない、主なる神の裁きに身を委ねるべきである。そうすれば他の教会員も傷つくことはないと教えられました。
しかし、ここでは主イエスは対話を省いて、刈り入れに、神の裁きを中心にして話されています。現代における共存と寛容は消え去り、この世の終わりに善と悪が厳しく分けられ、悪魔の子たちは神に裁かれ、御国の子らであるキリスト者は神の栄光に与るという話をされています。毒麦である者たちは地獄の火で焼かれ、御国の子らは、太陽のように輝きを放つと。
正直に申しますと、どうしてこんな話しになるのか、よくわかりません。先週の話も同じです。小会の中で説教を話し合いました。先週も今日と同じように話しました。主イエスは御自分が御言葉を宣べ伝えるお話しをされました。弟子たちは主イエスのお話の内容よりも、主イエスがたとえを用いられることに興味を抱きました。そして、主イエスは預言者イザヤの預言通りに群衆たちにたとえを用いて語られ、彼らは主イエスのお話を聞いても理解できず、主イエスの御業を見ても、主イエスを救い主として認めませんでした。そして、主イエスは、弟子たちに主イエスの話を聞いて理解し、主イエスの御業を見て、主イエスをメシアと認める弟子たちは幸いであると話されました。それは、アブラハム、モーセ、ダビデ王のような預言者たちや義人たちが見たいと願ったことだったからです。そして、種をまく人のたとえを弟子たちに説明され、弟子たちの中に御言葉を4通りに聞く者たちが現れると話されました。
今日も同じです。どのように言えばよいのかわかりませんが、主イエスは天国のお話をされています。天国は神の支配ですから、主イエスがガリラヤで「天の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と宣べ伝えられてから、始まっています。そして、主イエスが再びこの世に来られ、最後の審判を経ないと、完成されません。
主イエスは、弟子たちを、そして教会を「神の右に座されて、生ける者と死ねる者とを裁かれる」キリストの御前に立たしめようとされているのではないでしょうか。ここに立たない限り、この世の悪の問題と教会の中にある罪と悪の悲しい現実は解決できないのではないでしょうか。
教会は、主イエスから始まり、今では世界を動かすことのできるアメリカの大統領を選ぶことのできる大きな力を持つ存在となりました。パン種のように世界の至る所にキリスト者は主に召されて働き、キリスト教会が、キリスト者が行きわたらない分野はありません。しかし、教会が選んだ大統領が主の御心に適う正義をしているでしょうか。悪魔にそそのかされたとしか思えない戦争を行っています。キリスト者が、教会が世界の隅々まで行きわたる所に悪があり、罪があり、悲惨があります。そして、わたしたちは、教会もキリスト者個人も、この世界に主に召された所の悪と不正を解決できずにいるのが現実です。この世も教会も神の審判を通してでなければ、真実の平安はないのではないでしょうか。主の祈り、御国来たらせたまえ、主よ、あなたの裁きによって教会とこの世を清めたまえ。これこそが主イエスが天の国のお話をなさった思いなのではないでしょうか。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、罪と悪に満ちたこの世に慣れたわたしたちに、主イエスのたとえを理解させてください。どうか、主イエスよ、わたしたちに聖霊をお与えください。わたしたちを、あなたの御言葉に従わせてください。わたしたちがあなたに召された所で、自分たちに解決できない人の罪と悪に出会いました時、今朝の主イエスの御言葉に従い、忍耐と寛容をお与えください。御国を来たらせたまえと、祈らせてください。あなたの最後の審判だけがわたしたちがこの世の罪と悪から解放される希望であることを確信させてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教056 主の2012年1月22日
聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解するために。わたしたちの心を開いてください。主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れるために。そして、主の御心を知り、主の御心を行わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま
隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠
を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろんな魚を集め
る。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪い
ものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる
悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣
きわめいて歯ぎしりするだろう。」
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言
った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉
から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
マタイによる福音書第13章44-52節
説教題:「天国という宝を見つける」
今朝は、主イエスの天国についての最後の3つのたとえ話を学びましょう。第1は、天国とは、畑に隠された宝であるというお話です。第2は、天国とは商人が長年買い求め続けて、手に入れた一つの非常に高価な真珠であるというお話です。そして、第3は、天国とは地引網で集めたいろいろな魚を、漁師が良いものと悪いものに分けるようなものであるというお話です。
そして、この7つの天国についてのたとえ話を話し終えられた主イエスは、弟子たちに「あなたがたはこれらのことがみな分かったか」とお尋ねになりました。弟子たちは「はい」と答えました。主イエスはその弟子たちに「あなたがたは天国を学ぶためにわたしのところに弟子入りした学者であり、あなたがたはだれでも、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人である」と言われました。そして、主イエスは天国についての説教を終えられました。
今朝の最後の3つのたとえ話は、主イエスが弟子たちだけになさったお話です。マタイ福音書13章36節は、主イエスが群衆たちを後に残して弟子たち共にある家に入られたと記していますね。そこで主イエスは、弟子たちだけに話されました。
では第1のたとえと第2のたとえを見てみましょう。この二つのたとえ話に共通するのは、第1に天国という宝を見出した人の喜びのお話です。第2にその喜びを手に入れるために二人の人は大きな犠牲を払いました。
まずは、畑に隠された宝のお話です。それは、偶然見つけた大きな喜びのお話です。昔、主イエスの時代、人々は自分が所有する畑に穴を掘り、そこに宝を埋めました。強盗や外国の兵隊たちから自分の財産を守る一番安全な方法であったからです。ところが、畑の持ち主が亡くなると、畑に埋められた宝は隠されたままに残りました。
見つけた人は、その畑の持ち主ではありません。その畑の持ち主に雇われて、畑を耕していたのでしょう。そこで偶然畑に隠された宝を見つけました。
彼は、見つけた宝をもう一度畑の中に隠しました。その人の心は宝を見つけた大きな喜びで圧倒されてしまいました。そして、その大きな喜びが、彼に次のような行動をとらせました。彼は、自分の持っている全財産を売り払いました。そしてどんなに大きな犠牲を払っても畑を買うという行動に走りました。
もう一つのたとえ話です。非常に高価な真珠を買い求める商人のお話です。彼は、その真珠を長年求め続けて来たのです。
商人は、苦労してたった1個の非常に高価な真珠を見つけました。恐らく商人は大きな喜びに心が圧倒されたことでしょう。その喜びが、彼を、その真珠が見つかった所へと急がせました。そして、その1個の非常に高価な真珠を手に入れるために、商人は畑を買った人と同じように彼の全財産を売り払いました。そして、喜びは彼にどんな大きな犠牲を払っても、その真珠を買うという行動に走らせました。
天国の宝は、見出した者にとても大きな喜びを与え、見つけた人たちの心を動かし、そして、彼らにどんな犠牲を払っても、その喜びを手に入れようという行動をとらせるのです。
第1のお話では、畑に宝が隠されています。畑と宝は切り離すことができません。だから、見つけた人は、その宝を畑から取り出しませんでした。畑にそのまま埋め戻し、隠しました。
畑とは聖書であり、聖書に隠されているのはキリストです。主イエスは、ユダヤ人たちに言われました。「あなたがたは聖書を調べている。その中に永遠の命があると、思いこんぢルからである。だが、その聖書は、わたしについて証しするものである」(ヨハネ5:39)。聖書には、キリストという宝が隠されています。ユダヤ人にとって聖書は、神の律法であり、それは永遠の命の泉でした。ユダヤ人たちは、神の律法を知り、行うことに目を向けました。彼らの目に、その永遠の命がキリストという宝によって与えられる恵みは隠されていたのです。
主イエスの弟子たちだけが、キリストの十字架と復活によってわたしたちに与えられる罪の赦しと永遠の命の喜びを、聖霊によって見させていただいたのです。それは、教会が世の人々に伝えている福音です。キリストの福音という宝こそ天国の宝ではないでしょうか。
第2のお話では、一つの非常に高価な真珠は主イエス・キリストのことであります。商人は永遠の求道者です。彼は、この世における名誉と地位、財産、教養を持っていました。しかし、彼がこの世において求め続けたのは、人間が努力して得られるものではありませんでした。なぜなら、それは、神が与えてくださる恵みであるからです。商人は、それを発見しなければなりません。それはキリストを見出すことです。
商人は、たった一つの非常に高価な真珠を見つけました。その大きな喜びのために彼の人生が180度方向転換しました。彼は、この世において得ました彼のすべての財産を売り払いました。その真珠を見つけて、その大きな喜びが、彼の心を変えました。そのたった一つの非常に高価な真珠の前にこの世のすべてのものが色あせてしまいました。
この商人の心を、使徒パウロが次のようにとてもうまく証ししています。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピの信徒への手紙3:7-8)。
使徒パウロのように、この商人は天国の宝であるキリストを見出した喜びで、この世のすべてのものが色あせてしまったことを経験しました。この商人こそキリストの弟子であります。
第3のお話は、毒麦のたとえのお話に似ています。この世の終わりのお話です。神の審判のお話です。
天国とは、神の支配のお話です。父なる神さまがキリストを通してこの世界をお造りになりました。そして、聖霊によってお守りになりました。また、罪を犯して堕落した神の民を救おうとこの世にキリストを遣わしになりました。そして、キリストは民を集めるためにこの世に教会を造られました。
主イエスは、ついて来る弟子たちに「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と約束されました(マタイ4:19)。そして、この弟子たちのキリスト信仰告白の上に教会を建て、教会の福音という地引網を通してあらゆる人々を集められました。教会とは、主イエスに呼び集められた群れであります。
天国は、この世の教会の宣教を通して、漁師が地引網であらゆる魚を集めて取るように、すべての人々をキリストのところに集めるのです。
聖書を読みますと、神の支配は次のように行われています。天地創造に始まり、アダムとエバの堕落の後、主なる神はアブラハムを通してのイスラエルの民を選び、彼の子孫からキリストの到来を約束されました。その約束はダビデ王の子孫を通して、聖霊によってキリストが処女マリアから生まれられて、実現しました。そしてキリストは神の民を救いために十字架の道を歩まれて死に、復活されました。そして聖霊を遣わし、教会を誕生させ、キリストの福音宣教による異邦人の救いを通して、世界の民を御自身の所に集められています。そして最後にキリストが再臨し、神の審判を通しての天国が完成するのです。
その神の最後の審判に向けて、この世にある教会は「正しい人々」と「悪い者ども」が共存して歩み続けているのです。
誰が「正しい人」で、誰が「悪い者ども」か、見分けるのは再臨のキリストのです。キリストは御使いを通して見分けられます。
主イエスは、今朝のたとえ話によって、「正しい人」「悪いものども」と見分けられる基準があることをお話になっているのです。そのために主イエスは、第1と第2の話をなさいました。
「正しい人」は、教会において、あるいは聖書を通して、天国という宝、キリストを見つけ、すべてのものを捨てて、キリストに従うことができた主イエスの弟子たちです。「悪い者ども」とは、キリストを見つけることができず、この世のものを捨てられなかった者です。使徒言行録のアナニヤとサフィラ夫婦のような者たちです。彼らは、キリストよりもこの世の名誉を願い、見せかけの献金をしました。その偽りによって二人は主の裁きに遭いました。
だから、この3つのたとえは、一つの話になるのです。この世の終わり、天国の完成は、神の審判を通してわたしたちの人生の総決算の日でもあるのです。そこでわたしたちは、聖書の中に、この教会の中に天国の宝であるキリストを見出すことができたかどうかを問われるでしょう。
そこで主イエスは、弟子たちに「天国のたとえ話が分かったか」と質問されました。弟子たちは、主イエスに「はい」と即答しました。
すると主イエスは、弟子たちに「天の国のことを学んだ学者たちは」と言われました。主イエスの弟子たちは、誰でも主イエスに弟子入りし、一生涯天国のことを学び続けるのです。聖書、キリスト、信仰、救い、霊的なことに関して、主イエスの弟子たちは、天国の宝であるキリストを見出した喜びの時から、キリストについて学び続ける者になるのです。
古いものとは旧約聖書であり、新しいものとは新約聖書であります。主イエスは、弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしの弟子になったのは、一生涯聖書を学ぶ者となるためである。そして、あなたがたは、聖書という自分の倉からキリストという宝を取り出して客に見せる一家の主人のような者である。いつでも聖書からキリストという宝を取り出して、あなたの客に罪の贖いと永遠の命のという大きな喜びを振る舞うことができる」と。
教会は、聖霊の学校です。わたしたちは、生涯キリストを学ぶのです。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、7つの天国のたとえ話を学びました。ここに、聖書の中に天国の宝であるキリストを見出す大きな喜びを教えられました。わたしたちも十字架のキリストを通して、父なる神の愛を知り、その大きな喜びに動かされて、今日まで信仰生活を続けることができたことを感謝します。さらに主イエスの弟子として、生涯聖書を学び、聖書の中にあるキリストの救いの喜びを、家族友人に語らせてください。そして、この教会のわたしたちの家族、友人を導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教057 主の2012年2月5日
聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。わたしたちの心を開いて、主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主の御心を知り、主の御心を行わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
イエスはこれらのたとえを語り終えられると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。
マタイによる福音書第13章53-58節
説教題:「心を閉ざさないでください」
今朝は、マタイによる福音書13章54-58節の御言葉を学びましょう。
主イエスは、群衆と弟子たちに天国についてのたとえ話を話し終えられました。そして、ガリラヤ湖のほとりから立ち去られました(13:1)。
マタイによる福音書は、わたしたちにその時に主イエスに起こった一つの出来事を伝えています。それは、主イエスの故郷であるナザレの村の人々が主イエスについて驚きとつまずいた事件であります。
主イエスは故郷のナザレの村にお帰りになりました。そして、ある安息日にナザレの村の会堂において故郷の人々に教えられました。
その様子を、ルカによる福音書4章16-21節に次のように描かれています。こうです。主イエスが安息日に会堂に入られました。そして、旧約聖書をお読みになるためにお立ちになりました。旧約聖書のイザヤ書をお読みになりました。そして、主イエスは、ナザレの人々に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とお教えになりました。
ナザレの村の人々は主イエスの教えを聞きました。その結果、ナザレの村の人々に驚きとつまずきが起こりました。
驚きとは、次のことです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」
知恵とは、ラビ、律法の専門家としての知恵であります。ナザレの人々は、主イエスがラビ、律法の専門家となるために幼いころより教育を受けていないことを知っていました。しかし、今主イエスは彼らの前で律法学者たちのように教えられました。
また彼らは、主イエスが奇跡を行われ、病人をいやし、悪霊を追い出すことまでやってのけたことを聞いていました。彼らは、次のように心の中で自問自答したでしょう。「おれたちと同じように生活していたこの男に、そんなことがあってもいいのか」「おれたちと、この前まで同じようにしていたではないか。どこかおかしのではないか。」「いったいあの男はどこからこの力を得たのだろう。」
しかし、驚きはすぐにつまずきとなりました。ナザレの村の人々はあまりもよく主イエスを知っていたからです。彼らにとって主イエスは、大工のヨセフの息子でした。主イエスは30歳までナザレの村において大工をされていました。父のヨセフは亡くなっていました。ナザレの村の人々は、主イエスを「大工のヨセフの息子」と呼び、どこの家の人々も、「うちの家は大工のヨセフの息子に作ってもらったのさ」と言っていたでしょう。主イエスが大工をし、家族を養っていたことを知っていたでしょう。彼らの目には、普通の青年でした。
また主イエスの母マリアと主イエスの兄弟や姉妹たちは、今もナザレの村に住んでいました。自分たちと変わらない生活をしていました。だから、主イエスは、ナザレの村の人々にとっては、依然として大工のヨセフの息子でした。ラビでも預言者でも、ましてメシアであるはずがありませんでした。
こうしてナザレの村の人々は、主イエスに驚かされても、主イエスにつまずいてしまいました。
主イエスにつまずいたナザレの村の人々に言われました。「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と。
ギリシャ語の新約聖書を見ますと、ちょっとわたしたちの聖書の御言葉と雰囲気が違います。主イエスは、こう言われています。「預言者は、郷里また彼の家での他では尊敬されないことはない」。
預言者、メシアである主イエスは、故郷の人々や家族以外のところでは、メシアとして受け入れられ、尊敬されていると言われました。
主イエスのお言葉は、初代教会の中で確かに実現していました。そして、2000年の教会の歴史の中でも明らかにされました。主イエスを、身内意識を持って見たユダヤ人たちは、主イエスをメシアとして尊敬しませんでした。マタイによる福音書の読者であった教会は、ユダヤ人たちに迫害されていました。むしろ、ユダヤ人としての主イエスを知らない異邦人たちが、主イエスを神が遣わされた預言者、メシアとして信じ、受け入れ、敬いました。それが今日の教会です。
最後に今朝の御言葉を読み、わたしは、畑に宝が隠されている天の国のたとえ話を思い起こしました。
ナザレの村の人々は、天国の宝である主イエスの前にいるのに、彼らが見ているのは神の御子が人となられた姿だけでした。まさしく天国の宝である主イエスは、その人の姿の中に隠されていました。ただ、主イエスが天の国について教えと奇跡をなさったときに、彼らが「この人はその知恵と力をだれから与えられたのか」と驚いたように、神の御子の姿を見せられたのです。しかし、ナザレの村の人々は、それを深く追い求めようとしませんでした。それは、人間の理性と知識だけでは見出せないのです。人の理解だけにたよれば、ナザレの村の人々と同じ結論になります。「イエスはわたしたちと変わらない人間だ、騙されないぞ」と。主イエスをメシアとして受け入れることを拒むのです。
マタイによる福音書は、最後に「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった」と、この事件を締めくくっています。この御言葉を聞いていて、どう思われましたか。良き知らせに聞こえましたか。不幸な知らせに聞こえましたか。
わたしには、良い知らせに聞こえました。最後の御言葉に、主イエスのこの事件への思いがあると思います。そして、この御言葉を今聞くわたしたちに希望があると思います。
人々が不信仰だったのは、主イエスの時代だけではありません。この世、この世界は罪の世です。天地万物を創造された主なる神に背を向けている世界です。世界中不信仰に満ちているのです。
だったら主なる神は、聖なる神であり、義なる神です。罪と不信仰を憎まれるお方です。すぐにでも、主イエスはナザレの村の人々を滅ぼされても、良かったのではないでしょうか。
しかし、主イエスは、不信仰の中で多くの奇跡を行うことはお出来になりませんでしたが、一人、二人に、数人に奇跡を行われました。そして、主イエスは、彼らの不信仰を十字架の上から、父なる神に祈られました。「裁いてください」と祈るのではなく、「自分が何をしているのか知らないので、彼らの罪を赦してください」と。
今復活の主イエスは、わたしたちに「あなたの心を閉ざさないでください」と、説教者の説教を通して叫ばれています。身の周りも社会も世界も、不信仰に満ちていても、復活の主イエスは、昨日同様に今日も天の国について語られています。聖餐を通して天の国に招いておられます。一人、二人、キリストの救いに与る者を、今も主イエスは起こされています。そして、主イエスは再臨に至るまでこの世の不信仰を寛容に扱われるのです。そこにわたしたちの伝道の希望があります。一人の人の魂の救いを追い求める希望があります。
主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちは身内の不信仰に涙する者です。愚かにもあきらめてさえいます。お赦しください。主イエスよ、あなたは身内の不信仰を怒り、裁くのではなく、十字架の死に至るまで忍んで下さいました。不信仰な中でも一人二人とあなたに心を開き、救われる者を起こしてくださいました。有難うございます。わたしたちも不信仰の中から救われ、今朝御言葉と共に聖餐の恵みにあずかり、御国へと招かれていることを感謝します。小さく弱い者ですが、主イエスの弟子として、生涯聖書を学び、聖餐の恵みに与り、キリストの救いの喜びを、家族友人に語らせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。