マタイによる福音書説教03 主の2010年5月2日
イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこでヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せて、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜にあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈物として献げた。
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書第2章1-12節
説教題:「救い主を訪ねる旅」
マタイによる福音書第2章1節の御言葉は、2章1-12節の物語の小見出しです。「イエスは、ヘロデの時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」
マタイによる福音書第2章は、主イエス・キリストの3つの物語を記しています。第1は、1-12節です。ベツレヘムにお生まれになられた幼子主イエスを、東方の占星術師たちが拝みに来た物語です。第2は、13-18節です。ヘロデ王が幼子主イエスを迫害し、幼子主イエスと両親がエジプトに逃れ、ベツレヘムの幼子たちが殺された悲劇です。第3は、ヘロデ大王の死後、主イエスと家族がエジプトから帰国し、ガリラヤのナザレに住まわれたことです。すべてが、旧約聖書の神の御言葉が実現したと、福音書記者マタイは、証言しています。
さて、主イエスは、ユダヤの国をヘロデ大王が治めていた晩年にベツレヘムでお生まれになられました。
ユダヤの国は、暗黒時代でありました。なぜなら、ヘロデ大王は、疑い深い残忍な王であったからです。彼は自分の王座を奪おうとしている者と疑えば、たとえ自分の妻であり、子どもであっても、殺しました。そゆうわけでユダヤの国、その都エルサレムは、暗闇と恐怖が人々の心を支配していたのです。
エルサレムの都から少し離れたベツレヘムという町にひとりの男の子が生まれました。
1節の後半に「そのとき」という言葉がありますね。ギリシャ語の新約聖書には、「見よ」というギリシャ語の言葉です。
2章1節の表題は、ユダヤに救い主が生まれられた喜びを、わたしたち読者に伝えています。まことに暗闇の中に光が射し輝く喜びの出来事を、神はこの地上に起こされたのです。
しかし、驚くべきことに、その喜びに最初に招かれたのは、ヘロデ大王はありませんでした。都のエルサレムに住む神の民ユダヤ人でもありませんでした。東方の占星術の学者たちだったのです。
旧約聖書の申命記に神の人モーセが神の律法を通して神に呪われた者と告げている者に、この占星術師たちがいます(申命記18:11、12)。
神に呪われた異邦人の占星術師たちが、主イエスの誕生、救い主の誕生という神の喜びの出来事に、第一番に招かれました。マタイ福音書記者マタイは、その驚きをギリシャ語の「イドゥ」、すなわち「見よ」という言葉で表しました。
だから、わたしたちの聖書の「そのとき」という訳は、福音書記者の驚きを、わたしたち読者に伝えていません。
救い主の誕生を、神の約束として待ち続けていたのは、神の民イスラエル、ユダヤ人たちです。しかし、その喜びに、神が招かれたのは、ユダヤ人たちが神に呪われ、見捨てられた異邦人の占い師たちと軽蔑していた者たちでした。
「占星術の学者たち」は、ギリシャ語の言葉では「マゴス」です。マタイによる福音書は、「見よ、東からのマゴスたちがエルサレムに到達した」と記しています。「学者」という言葉はありません。昔から救い主主イエスを拝みに来た「東方の博士たち」として親しまれたので、わたしたちの聖書も「東方の占星術の学者たち」と訳しました。
しかし、「マゴス」というギリシャ語が意味しているのは、星を占う魔術師という意味です。彼らは、夜の星を眺めて、その年が豊作になるか、不作になるかを占いました。あるいは国や人の運命を占ったでしょう。
マタイがこの物語を伝えるには勇気がいりました。敬虔なユダヤ人には信じられないことでした。神が呪われ見捨てられた異邦人の占い師たちを、救い主の誕生に最初に招かれたのです。
占星術の学者たちが東方の、どこの国の人か分かりません。彼らは、夜空の星を眺めて、ユダヤの方角に希望の星が輝いているのを見つけました。その星を道しるべとして旅をしました。
占星術の学者たちは、エルサレムの王宮のヘロデ大王を尋ねました。そして、彼らは言いました。「ユダヤ人の王としてお生まれになったお方はどこにおられますか。東方でそのお方の星を見たので、拝みに来ました」と。
占星術の学者たちの語る救い主の誕生は、ヘロデ王には不安を与え、エルサレムの人々には恐怖をもたらしました。王は自らの地位を脅かす存在を恐れ、エルサレムの人々は王の残虐な振る舞いに恐怖を覚えました。
次にマタイは驚くべきことを、また語ります。占星術の学者たちを、救い主キリストへと導くのは、聖書の御言葉であると。
星は旅の途中で見失ったようです。だから、占星術の学者たちはユダヤの都エルサレムのヘロデ大王に会えば、王子が生まれていることが分かるかも知れないと思いました。
しかし、彼らは思いがけない神の御言葉と出会いました。ヘロデ大王が聖書の専門家たちを集め、民の祭司長たちと律法学者たちに救い主の生まれる預言を探させたからです。
聖書の専門家たちは、旧約聖書のミカ書5章1節を引用しました。そして、彼らはヘロデ大王に預言者ミカが、メシアはベツレヘムに生まれることを預言していると伝えました。
ヘロデ大王は、占星術の学者たちを呼び寄せました。そして、いつその星が現れたのか尋ねました。王は彼らに「その子のことについて詳しく調べて、見つかったら知らせてくれ」と頼み、「わたしも行って拝もう」と、言いました。
さて、占星術の学者たちが聖書の御言葉に示されて、エルサレムの町を出発しますと、東方で見た星が現れました。そして、星はベツレヘムの幼子主イエスのおられる場所の上に止まりました。
彼らは、その星を見て喜びに満ちあふれました。彼らが見つけた星は、聖書の御言葉によれば、キリストの誕生を予告する星だと分かったからです。しかも、神に呪われた彼らが、神の民に先立って一番にキリストの御元に招かれました。彼らは、喜ばずにはいられませんでした。地上の偉大な王を求めて旅をし、その旅の途上で聖書の御言葉に出会い、導かれて、彼らが捜し求める王がこの世の支配者ではなく、神の御子キリストであり、彼らの救い主であることを知らされたのです。
彼らは、神の導きの不思議さを思ったでしょう。どうして、わたしたちのような神に呪われた者たちに、神は心にかけてくださったのか。そして、後に彼らは知ることになるのです。彼らが訪ね求めたユダヤ人の王キリストが、彼らの罪の身代わりに十字架に死なれたユダヤの王であることを。
さて、占星術の学者たちは、家に入り、マリアと共におられる幼子主イエスを礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げました。
彼らの献げものは、彼らが幼子主イエスに徹底して服従することを示すのです。彼らが、幼子キリストの十字架と復活を知っていたか、分かりません。しかし、彼らは、わたしたちと同じように、キリストの十字架によって彼らの罪が赦され、キリストを信じる信仰によって神に義とされ、神の子としていただいたことを喜び、幼子キリストを礼拝し、献金をし、すべてをキリストに献げて生きることを表しました。
占星術の学者たちは、夢によって「ヘロデのところに帰るな」と神に警告されて、別の道を通して彼らの国に帰りました。
占星術の学者たちのように、わたしたちも生まれながらの異邦人であり、神に呪われ、見捨てられた者でした。しかし、聖霊と御言葉によってこの礼拝へと導かれ、キリストを礼拝し、聖餐の恵みにあずかり続けて、この地上から神の御国を目指す希望の旅へと、わたしたちの人生が変えられたのです。
マタイがキリストの誕生を語りたかったのは、わたしたち異邦人がキリストによって救われた喜びを伝えるためでした。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、東方の占星術の学者たちのように、あなたはわたしたちをキリストの臨在される礼拝にお導きくださり、聖餐の惠にあずからせてくださいますことを感謝します。願わくは、わたしたちを、キリストの十字架によって罪赦され、神の子とされた者として、御国へとお導きください。御国への旅は、多くの仲間が必要です。わたしたちの家族、この町の人々をお加えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教04 主の2010年5月16日
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためである。
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルの子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない。
子供たちがもういないから。」
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢に現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
マタイによる福音書第2章13-23節
説教題:「人の闇に輝く神の恵み」
幼子イエスを守るために、天使がヨセフに夢で現れて、エジプトに幼子と彼の母を連れて逃げるように命じました。
ヨセフは、一刻も早く妻子を連れてエジプトに逃げなければなりませんでした。ヘロデ大王が幼子主イエスを探し出して殺そうとしていたからです。
そこでヨセフは、朝になる前に、真っ暗な中を、幼子主イエスと彼の母を連れて、エジプトに逃れました。
マタイは、わたしたち読者に15節にヨセフが幼子主イエスと彼の母と一緒にヘロデ大王が死ぬまでエジプトで逃亡生活をしたことを記しています。
そして、15節の後半の御言葉を読みますと、マタイは、旧約聖書の預言者が「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」(ホセア書11:1)と預言していたことを実現するためであると書いていますね。
マタイが、わたしたち読者に幼子主イエスのエジプトへの逃亡生活を物語りますのは、その目的をわたしたちに告げるためでした。
旧約聖書の預言者を通して主がお約束されたことを、この幼子主イエスにおいて今主が実現されたことを知らせることでした。
主イエスがお生まれになるおよそ1000年昔、ダビデ王の子ソロモン王が死に、ダビデ王国は北と南に、二つに分裂しました。そして、200年後この預言者が北イスラエル王国の中で活躍していました。その頃、北イスラエル王国はヤロブアム2世が治めていました。
主なる神は、「神よ、お救いください」という名の、ホセアという預言者を北イスラエル王国にお遣わしになりました。彼は、主がお命じになったので、身持ちのよくない女を妻に娶りました。そして結婚生活をしました。しかし、妻は夫を裏切り、他人の子をもうけました。当然ホセアの家庭は壊れてしまいました。
その時主は、預言者ホセアに命じられました。「あなたの妻と同じように、イスラエルはわたしを裏切っている」と。
主は、出エジプトの時代にモーセを通してイスラエルを奴隷の地エジプトから解放されました。そしてシナイ山でイスラエルと契約を結ばれました。「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と。主なる神とイスラエルは結婚関係に入りました。
しかし、北イスラエル王国のイスラエルの民たちは、ホセアの妻のように主を裏切り、他の神々に仕えました。それゆえに主は、預言者ホセアに「あなたがたは滅びる」と預言させられました。
預言者ホセアが「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主の御言葉を語りましたとき、イスラエルの民は出エジプトの出来事を思い起こしたでしょう。あの偉大な指導者モーセに率いられて、イスラエルの民たちが奴隷の地エジプトから約束の地カナンに入ったことを。
マタイは、わたしたち読者に、預言者の預言が幼子主イエスによって実現したと語ることで、あのモーセより偉大な救い主が今現れたと告げていのです。
ヨセフと母マリアと一緒にエジプトに逃れて、エジプトで逃亡生活をした、この幼子主イエスこそ、主なる神が預言者ホセアを通して約束してくださっていた神の子、救い主であると。
そして、この幼子は、神ご自身が預言者を通して「わたしの子」と呼ばれる神の子ですので、モーセより偉大であり、この幼子が異邦人であるわたしたちを罪と死の滅びから救い出してくれるのです。
預言者ホセアは、主に彼を裏切りました妻と彼女から生まれた子供を愛によって赦し受け入れるように命じられました。彼は、主のご命令を実行するのです。そして、主は預言者ホセアを通して主を裏切りましたイスラエルの民たちを、主ご自身が愛し、罪を赦すと告げられました。
この神の愛と罪の赦しの中でマタイは、幼子主イエスのエジプト逃亡とエジプトから再び帰国する物語を、わたしたちに物語るのです。
神に背を向けて生きているわたしたち異邦人を、神がこの幼子主イエスを通して愛し、罪を赦し、神の家族の中に加えてくださるのだと、その喜びを、神の恵みを伝えているのです。
神の恵みを知るために、マタイは人の暗闇を物語ります。どんなに人間は、神に背を向けて悲惨な罪の中に生きておるのかを、わたしたち読者に描いて見せています。
この罪と悲惨からどのようにイエス・キリストによって救われるかを、これから明らかにするためです。
16節から18節の御言葉に目を留めてください。そこに神に背を向けているヘロデ大王が幼子主イエスへの怒りと憎しみによって、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の子供たちを皆殺しにするという悲惨な物語が語られています。
子を失って嘆き悲しむ母親たちの姿に、マタイは、わたしたち読者に預言者エレミヤの預言が実現したのだと述べています(エレミヤ書31:15)。
この悲惨な事件は、主イエスの生まれるおよそ600年昔に、主なる神が南ユダ王国にお遣わしになった預言者エレミヤの預言によって予告されておりました。マタイは、わたしたち読者に預言者エレミヤのエレミヤ書第31章15節の預言が実現したと述べています。
この御言葉をお聞きになり、正直にどう思われたでしょうか。なんと酷いことを、ヘロデ大王はしたのでしょう。幼子主イエスの身代わりに殺された子供たちがかわいそうだ。何という理不尽な出来事だろう。神はこの悲惨な出来事を止めることができなかったのだろうか。
しかし、この福音書の記者マタイは、わたしたちの思いと目は別なところに向けてくれています。
ヘロデ大王を通して、その王の命令に従い幼児たちを殺した部下たちを通して、マタイは神に背を向けて生きている人間の罪という暗闇を見ているのです。
われわれ自身の中のヘロデ大王を、王に従う部下たちを、マタイは描いています。人は誰でも罪人です。神に背を向けて生きています。だから、ヘロデのように己を神とする絶対者の立場に立てば、自らの保身のために幼子たちを平然と殺すという罪を犯す可能性があります。
神に背を向けた世界、罪の世界において人は、兄カインが弟アベルを殺して以来、常に憎しみと怒りによって強き者が弱き者を虐げてきたのです。
預言者エレミヤが預言した言葉は、イスラエルの民が巨大な力を持つ異国の国バビロンに捕らわれ、奴隷の辱めを受ける嘆きの歌です。
マタイは、わたしたち読者に18節のエレミヤの預言によって問い掛けているのです。どうして昔イスラエルの民は、アッシリアやバビロンの国に捕らわれ、奴隷の辱めを受けたのだろうか。どうして今、主イエスの時代にユダヤは、異国のローマ帝国に支配され、ユダヤ人でない王ヘロデに支配され、幼子たちが殺されるという悲しみに遭わなければならないのだろうか。どうして独立国の日本が戦後60年以上経たのに、沖縄の基地の問題で苦しまなければならないのだろうか。
そして、マタイは、わたしたち読者にはっきりとユダヤ人たちが主なる神に背を向けているからだ、罪があるから、この悲惨な出来事が預言者の言葉どおりに起こったのだと告げていのです。そして、わたしたちも、同様に神に背を向けているから、わたしたちの国に、わたしたちに悲惨な出来事があるのです。
そして、マタイは、わたしたち読者に最後にエジプトから帰国し、ナザレに住まわれ、ナザレ人と呼ばれる、この主イエス・キリストのみが、われわれを罪とその悲惨さから救う救い主であると告げているのです。
19節に「ヘロデ大王が死ぬと」とありますね。ヘロデ大王は、紀元4年に死にました。幼子主イエスは、紀元前紀元前4年に生まれられたと考えられていますので、主イエスが8歳のときにヘロデが死んだことになります。
数年間のエジプトでの逃亡生活ののちに、ヘロデ大王が死に、天使はヨセフに夢に現れて、ユダヤに帰国するように告げました。天使は、ヨセフに幼子と彼の母を連れてイスラエルの地に行きなさいと命じています。
しかし、ユダヤは、ヘロデ大王の息子アルケラオが支配していました。彼は父同様に冷酷な暴君でしたので、ヨセフは恐れました。そこで天使は三度ヨセフに夢に現れ、ガリラヤ地方のナザレの町に行くように命じました。
ヨセフと幼子主イエスと彼の母は、ナザレの町に住みました。マタイは、わたしたち読者に幼子主イエスが「ナザレ人」と呼ばれるのは、預言者を通して語られた神の約束の実現であると述べていますね。
しかし、マタイが旧約聖書のどこの御言葉を言及したのか、定かではありません。昔からキリスト教会は、メシア預言の御言葉の一つ、旧約聖書のイザヤ書11章1節の「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち」という御言葉の、預言者イザヤが「若枝」と言っている言葉ではないかと推測してきました。
わたしは、この説教を作りますときに、榊原康夫引退牧師の『マタイ福音書講解』を読みます。古きを知り、新しきを学ぶことが大切だと思います。
榊原先生は、次のように説明されています。「若枝」はメシアの名前に用いられ、ヘブライ語の「若枝」とこの「ナザレ人」という言葉が同じ文字で、同じ発音だからであると。
だから、マタイは、ナザレに住まわれ、ナザレ人と呼ばれた主イエスこそ約束の救い主であると告げているのです。
こうしてマタイは、わたしたち読者にマタイ福音書の1章と2章において異邦人を罪より救われる救い主主イエス・キリストを紹介しました。わたしたちは、この福音書の1-2章において、第1に主イエス・キリストは、アブラハムとダビデの子孫として生まれられた約束のメシアであることを学びました。第2におとめマリアより聖霊によって生まれられた神の子であることを学びました。第3に、異邦人の占星術師たちも誕生を祝った世界の王であることを学びました。第4に新しいモーセ、モーセ以上の存在であり、ナザレ人、すなわち、異邦人の救い主として異邦人の罪を贖うために苦難と死を身に受けられるメシアであることを学んだのです。
この幼子イエスは、新しいモーセです。昔モーセが民を奴隷の地エジプトから約束の地カナンに導いたように、神に背を向けて、罪と死に捕らわれたわたしたち罪人を、十字架によって罪から救い出して、神の御国へと導かれるのです。
そのためにマタイは、モーセが主に召されたのと、同じ言葉をヨセフに、天使が語ったと述べています。20節です。20節の後半の御言葉は、モーセがミディアンでエジプトの王の迫害を逃れて、逃亡生活をしていたときに、主がモーセを召された御言葉と同じです。
マタイは、わたしたち読者に幼子主イエスは、新しいモーセとして、モーセを越える救い主として、これからナザレ人イエスと呼ばれて、この地上の生涯を歩まれると述べているのです。
3章以後に主イエスが30歳でガリラヤにおいて神の国の福音を語られ、御自身の所に神の民を集め、神に背を向けた異邦人をその罪から救うために苦難と死を身に負われ、ゴルゴタの十字架の道を歩まれることを、マタイは物語ります。
マタイは、わたしたち読者に主イエス・キリストはその生涯を通して、旧約聖書が預言している神の救いを実現されたと告げているのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、マタイによる福音書の始まりの1章と2章を学ぶことができて感謝します。幼子主イエスこそわたしたち異邦人、神に背を向けて生きる者を救う救い主であることを、聖霊と御言葉によって受け入れることのできるようにお導きください。願わくは、わたしたちが神の御前に罪人であることを、わたしたちが十字架のキリストを抜きにした人生と生活がどんなに惨めで悲惨なものかを聖霊と御言葉によって悟らせてくださり、日々キリストを通して神に愛され、罪を赦され、神の子にしていただいた喜びを、この町の人々に、家族の者たちに伝えることができるようにお導きください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教05 主の2010年5月30日
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われていた人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打もない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
マタイによる福音書第3章1-12節
説教題:「今こそ神を恐れよ」
今朝は、マタイによる福音書第3章Ⅰ-12節の御言葉を学びましょう。
福音書記者マタイは、マタイ福音書の1章から4章16節までに、主イエスが公に活動をされる前の準備の期間を物語っています。
そこでマタイがわたしたち読者に伝えたいことは、主イエス・キリストとはだれであるかであります。
マタイは、第1に主イエス・キリストの系図を紹介して、神がアブラハムとダビデに約束されていた救い主であり、神の約束が主イエス・キリストの出現によってこの世界に実現したことを語っています。
第2にマタイは、キリストの誕生の物語を通して、主イエス・キリストは、聖霊によって処女マリアよりお生まれになった神の子であり、その名を「イエス」と名付けられ、多くの者たちを罪から救う働きをされることを伝え、そして、キリストの誕生によって預言者イザヤが預言しました「インマヌエル」、「神我らと共にいます」ことが実現したと述べています。
第3に2章のもう一つの主イエスの誕生物語により、主イエスはユダヤの王であり、異邦人を救う世界の王であることを物語りました。
第4に幼子イエスの迫害の物語によって、主イエスが新しいモーセであることを紹介し、主イエスはモーセのようにわたしたちを罪から救い出す任務を果されるお方であることを紹介しました。
本日よりマタイによる福音書の第3章より4章17節まで、マタイはわたしたち読者に主イエス・キリストの公けの活動が始まる前に、神がどのような準備を備えられたかを物語ります。
第1にマタイは、洗礼者ヨハネとその宣教活動を物語ります。第2に主イエスがそのヨハネから洗礼を受けられる出来事を物語ります。第3に主イエスが荒れ野で悪魔に試みを受けられる出来事を物語ります。そして、第4に主イエスがガリラヤでの伝道の始められることを物語ります。マタイは、わたしたち読者にこの4つの物語を通して、主イエスがわたしたちを罪より救う神の子であることを証ししています。
マタイは、3章Ⅰ-6節を、マルコによる福音書1章2-8節の御言葉に沿って洗礼者ヨハネの宣教活動を物語っています。注意すべきことは、マタイがマルコ福音書の「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:4)という御言葉を、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を」という文言を削除していることです。マタイの考えでは、わたしたちを罪から救い、罪を赦すことができるのは主イエスのみです。
後半のマタイ福音書の3章7-12節は、マルコによる福音書にはありません。
実は、新約聖書の4つの福音書は、みな主イエスが公に活動するに先駆けて、洗礼者ヨハネがその道備えの役割を果たすために、宣教していたことを物語っています。また使徒言行録の10章にペトロが説教し、洗礼者ヨハネが水で洗礼を授けて、主イエスへの救いに道備えしたことを説教しています。
これは、初代教会においては洗礼者ヨハネの宣教が主イエス・キリストの福音の先駆けとして高く評価されていたことを示しているのです。
その洗礼者ヨハネの宣教の働きの特色を学びましょう。それは、一言で神の裁きを告げ知らせるものでした。神の審判が今すぐに行われ、神はメシアを、ヨハネの後に遣わして罪ある者すべて滅ぼされると、ヨハネはユダヤの民衆たちに説教していました。
マタイは、ヨハネの容姿を、彼のイメージを、旧約時代の預言者エリヤに似せて、次のように述べています。らくだの毛の衣服を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていたと。
神の審判を告げる預言者として、この世の生活には背を向け、神との交わりを第一として生きていました。
彼のところに多くの人々が集まり、罪を告白し、洗礼を授けられました。ユダヤ全土、エルサレムの町のすべて、そして、ヨルダン川流域から人々が、荒れ野のヨハネを訪ねてきました。
なぜなら、その当時の人々は、ヨハネを神が遣わされた預言者と信じていたからです。マタイも、彼を、預言者イザヤが預言していた「荒れ野の声」と述べています。ユダの荒れ野に住み、彼のもとに来る人々に、彼が訪れるところで、神の審判が今すぐに来る、お前たちは、罪を裁く神を恐れよ、罪を告白し、悔い改めの洗礼をうけよと語りました。
ヨハネは、神の怒りに対してユダヤの民たちに備えるように警告しました。罪を告白し神に背を向けた人生から心を神に向けて生きる人生に方向転換するように。水で洗礼を授けることは、心を神に方向転換することの霊的なしるしでした。
洗礼者ヨハネは、自分がメシアとは思っていません。彼の後に、今すぐ神はメシアを出現させ、神の審判を行われると、彼は切に期待していたのです。
だから、ヨハネが、「悔い改めよ、天の国は近づいた」とメッセージを語った内容が、罪を告白し、心を神に向けて、人生を方向転換しなさい。神の裁きの日は近づいた、です。
洗礼者ヨハネは、メシア・主イエスの先駆けとして、主イエスがファリサイ派とサドカイ派の人々と敵対されたように、敵対します。
だから、ヨハネは、彼に洗礼を請うて来た彼らに神の怒りの裁きから逃れられないと宣告しました。
ファリサイ派の人々は、自分たちがモーセの律法を遵守していることを誇っていました。サドカイ派の人々は、エルサレム神殿で祭儀を行い、清めをしていましたから、神の御用をする者として、常に儀式的に身を清めていました。だから、彼らは、自らを神に近い者と思っていました。しかし、ヨハネは、彼らの勝手な思いが通用する時代は終わり、神の審判をファリサイ派とサドカイ派の人々も免れないと告げました。
外見ではなく、神に心を、真心を、真の信仰を問われる時代が来たことを、ヨハネは告げました。神の審判の前に形式的に神に仕えているという見せかけの信仰は許されません。だから、ヨハネは、彼らに真実神に罪を告白し、心から神に服従する人生に方向転換せよと迫りました。
ヨハネは、彼の後に来られるお方は、ヨハネよりも優れたお方であり、聖霊と火で洗礼を授けられると告げていますね。それは、罪を裁かれる神のイメージです。ヨハネにとってメシアは、罪を裁かれる神です。水で罪を洗い流すような、やわなお方ではありません。火によって罪である存在を焼き滅ぼし尽くす恐ろしい神を、ヨハネは待望しました。
今、わたしたちは、このヨハネの荒れ野の声をどのように聞くべきでしょうか。神の権威への恐れを持ち、聞くべきでしょう。
マタイは、わたしたち読者に向けて、このヨハネの神の審判の説教を語りかけているからです。その証拠に、マタイはギリシア語の新約聖書を見れば、動詞はすべて現在形を使っています。今この場でヨハネがわたしたちに語りかけるように、ヨハネは洗礼を受けに来たファリサイ派の人々やサドカイ派の人々に神の怒りから免れることができないと告げています。
次にヨハネが彼らに「悔い改めにふさわしい実を結べ」と警告していますね。これは、マタイがわたしたち読者に、キリスト者たちにヨハネの口を通して警告しているのです。なぜなら、キリスト者の生活は、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」生活だからです。
ヨハネは、ファリサイ派とサドカイ派の人々に「自分たちはアブラハムの子孫だ」と軽く思ってみるなと言い、そして、神は石ころからでも神の民を起こされると述べていますね。悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活は、神の恩寵による生活です。聖霊の導きなくしてはあり得ない生活です。人の行い、才能、努力では得られません。しかし、神は恩寵によって聖霊を通して、わたしたちの石の心を、霊の心に変えてくださいました。
もうひとつ、キリスト者の生活は、神の裁きが神の家から始まることを知るものですね。だから、ヨハネが言いますように、神の裁きの斧が木の根元に置かれ、良い実を結ばない木を切り倒し、永遠の火の中に投げ込むことを、自覚しないわけにはいかないのです。
ここでもヨハネは、現在形で語っています。今、ヨハネがわたしたちの目の前で、わたしたちに告げているのだと、マタイはわたしたち読者に訴えているようです。
神の審判を、2000年昔のことではなく、キリスト教会は常に今の問題としてきたのです。再臨のキリストが来られ、神の審判が神の家から始まるのです。だから、マタイは、ヨハネの口を通してわたしたちに、今神の審判を恐れ、神に背を向ける人生から心を神に向けて神に服従する人生に方向転換せよと呼びかけているのです。
わたしたちは、ヨハネが語ります聖霊によって洗礼を授けられました。罪を告白し、主イエスを救い主と受け入れました時に、水で洗礼を授けられ、同時に聖霊をいただいたからです。
そして、聖霊は、礼拝の説教の御言葉と共にお働き下さり、わたしたちに罪を悟らせ、心をこの世の罪の世界から十字架のキリストに方向転換し、キリストを救い主として服従して生きるように、キリストに人生を委ねて生きるように常に導いてくださっています。
だから、ルターの語りましたようにキリストの生涯は悔い改めの生涯であります。カルヴァンも、先週の水曜日に学びましたキリスト教綱要の3巻3章2節に「キリスト者の全生涯に渡って続けられるべき悔い改め」と言っています。
わたしたちは、本当に弱いものです。いつもこの世の生活に目を奪われています。旧約聖書の民数記のロバに乗った愚かな預言者バラムのように、神が裁きの剣を向けられていることに気づかないのです。
神の裁きの斧がわたしたちの足元にあります。それは、聖霊に導かれる者のみが霊の目で見えるものです。
聖書に、「人間には、ただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定められている」(ヘブライ9:28)とありますね。
キリスト教会の歴史の中で聖霊が信仰の先輩たちを通して荒れ野の声として叫ばしたのは、「死を忘れるな」(シシド・メトリ)です。わたしたちは、死の時に、裸一貫で、神の前に、裁きの座に立たなければなりません。その時にわたしたちは、主ご自身から「悔い改めにふさわしい実をむすんだか」どうかを問われるのです。
それは、十字架の主イエスに、復活の主イエスに、一心に心を向けてより頼むことです。石ころからでも神の子を起される神の恵みに希望を持つのであれば、わたしたちの心のかたくなさを聖霊が打ち砕き、キリストにより頼ませてくださる信仰を確信できます。
わたしたちが罪を告白し、洗礼を受け、信仰告白するのは、聖霊をいただき、キリストにより頼む人間に変えられるためです。それは、死ぬまで続きます。そして、死ぬまで礼拝において聖餐の恵みにあずかり、キリストにのみより頼む人生を歩む訓練を続けていくのです。
ヨハネは、わたしたちがキリストの恵みにあずかり、キリストによる頼む人生に方向転換するように、キリストの十字架の道を備える者として、今朝も神が遣わされた荒れ野の声として、罪を告白しなさい。神に背を向けて生きないで、あなたの死の時、十字架のキリストにより頼めるように、復活のキリストにより頼み、永遠の命を得なさい。もしあなたが、キリストよりもこの世を愛するならば、必ず神の裁きによってこの罪の世と共にあなたも永遠に滅びることになると警告するのです。
マタイは、わたしたちにヨハネを紹介し、わたしたちの上諏訪湖畔教会が神の裁きの前に常に十字架のキリストにより頼む教会として立つことができるように祈りつつ、今朝の物語を語っているのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、洗礼者ヨハネが神の裁きは近づいている、罪を告白し、神に背を向けた人生からキリストをより頼む人生に方向転換するように警告する御言葉を学ぶことができて感謝します。罪あるわたしたちは、必ず死に、裁きの神の座に裸で立たなければなりません。どうか聖霊よ、わたしたちの心の頑なさを打ち砕き、十字架のキリストにより頼む真実の信仰をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。