マタイによる福音書説教052 主の2011年12月4日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取りだしてくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日に責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」。
すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の人々と一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある」。
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠にうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」
マタイによる福音書第12章33-45節
説教題:「今の時代に求めるしるし」
今朝は、主イエスの3つのお話を学びましょう。主イエスは、ファリサイ派の人々に反論されるときに、12章25節に「彼らの考えを見抜いて言われた」とありますね。人の心を見抜くことができるのは、主なる神だけです。主なる神である、主イエスは、ファリサイ派の人々、律法学者たちの心を見抜いて、彼らの悪い心と罪を示して、裁かれました。それが今朝の3つのお話です。
主なる神である、主イエスは、ファリサイ派の人々と律法学者たちが主イエスを殺そうとしている彼らの心を、考えを見抜いておられました。
そこで第1のお話は、木とその木からできる実をたとえです。木を人の心に、木の実をその人の口から出る言葉にたとえられました。主イエスはファリサイ派の人々に言われました。その人の心が良ければ、その人の口から出る言葉も良いものです。しかし、その人の心が悪ければ、その人の口から出る言葉も悪いものです。
ファリサイ派の人々は、神の御子主イエスを殺そうとする「蝮の子ら」です。だから、主イエスは、彼らに「あなたたちは悪い人間である」と告げられています。悪い人間ですから、彼らは「良いこと」が言えません。それは神の喜びの知らせです。福音です。
主イエスが善い人と悪い人を区別される基準は、「良いこと」を知らせる人か、悪いことを告げる人か、です。それは、その人の心にあります。善い人は、心の倉に「福音」という良いものを一杯蓄えています。悪い人は、心の倉に悪や罪という悪いものを一杯蓄えています。それを、人は言葉として心から取り出してくるのです。わたしたちが普段話す言葉は、わたしたちの心から汲みだされたものです。
次に主イエスは、わたしたちにこのお話を通して、御自身が何ものであるかを語られています。主なる神であられ、審判者であられると。
アドベントの第2週を迎えました。主イエス・キリストの第1の到来であるクリスマス、キリストの御降誕をお祝いする準備をしています。同時に主イエス・キリストが再びわたしたちのところに来て下さることを期待し、備えています。主イエスは、わたしたち全人類を神の永遠の審判の下に置くために来られます。
だから、主イエスは、わざわざ36節に「言っておくが」と言葉を強めて語られています。「わたしはあなたがたに言う」と。再臨されたキリストは、絶対にわたしたちが普段語っている言葉の責任を問うと告げられました。「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」と。それは、神と隣人に対して役に立たない言葉です。益にならない言葉です。神と人に対して害となる言葉です。
おそらく、言葉によって主イエスに裁かれないですむ人は、存在しません。人は、皆罪人です。誰もがファリサ派の人々のように「蝮の子ら」です。神と隣人を、自らの言葉によって悲しませています。
政府の高官が、大臣が先日言葉によって沖縄の人々の心を強く傷つけ、悲しませたことが大きなニュースになりました。
恐らくここに大勢の群衆たちがいたでしょう。主イエスのお話を聞き、自分たちの語る言葉に対して、神の永遠の審判の前で責任を取らなければならないことを知ったでしょう。言葉で人を傷つけ、悲しませない人間はいません。主イエスのお言葉を聞いた群衆たちは、思ったでしょう。「ではわたしたちはどうなるのでしょうか。」
それに対して主イエスは、37節に慰めと戒めを語られました。自分の言葉で自らの罪を認めて告白する者は、神に罪を赦されて救われ、自分の言葉で自分の罪を認めない者は神に罪ある者とされ、裁かれると。Ⅰヨハネ1:8-10。
主イエスは、御自身にしるしを求める律法学者たちとファリサイ派の人々に二つ目のお話をされました。彼らは、主イエスにメシアであるしるし、証拠を求めました。それに対して主イエスは、彼らに言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と。「よこしまで神に背いた時代」とは、この世、この時代は常に神に人々が反抗しているという意味です。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、主イエスに反抗し、主なる神に反抗しているのです。そして彼らは、よこしまな心で主イエスを殺そうと企んでいます。だからしるしを求める彼らに、主イエスは、預言者ヨナのするしの他にないことをお示しになりました。
預言者ヨナは、旧約聖書のヨナ書に登場する預言者です。主なる神は、彼をアッシリア帝国の首都ニネベの町に遣わされました。その目的は、ニネベの町の人々を悔い改めさせるためでした。ヨナは、敵国のニネベの人々が主なる神に罪を赦されるのが面白くありませんでした。だから、彼は主なる神から逃げました。船で逃げました。しかし、主なる神は海に嵐を起こし、逃げるヨナを捕らえられました。その時、ヨナは嵐を静めるために海に投げ込まれました。そして、大魚に飲み込まれて、三日三晩その腹の中にいました。
主イエスは、わたしもヨナのように、ファリサイ派の人々と律法学者たちに殺されて、大地の中に、死者の国に三日三晩居ることになると言われました。三日三晩とは短い間という意味です。
主イエスは、それから彼らに自らを世界の審判者なる者として示されました。主は死ぬ者にして復活する者である審判者です。だから、主イエスは、今の時代の人々である彼らと預言者ヨナの時代のニネベの人々を一緒に甦らせ、その時にニネベの人々がしるしを求めるファリサイ派の人々と律法学者たちを罪に定めると告げられました。ニネベの人々は預言者ヨナの説教を聞いて、主なる神に立ち帰りました。他方、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、預言者ヨナよりも偉大な者、主なる神である主イエスの説教を聞いても、神に立ち帰らなかったからです。南の国の女王も同じです。
最後の3つ目の主イエスのお話は、逆戻りのお話です。汚れた霊が人から出て行きました。砂漠は汚れた霊たちの住みかです。しかし、人から出た悪霊に休める場所がありませんでした。そこで出て行った人のところに戻って来ました。
主イエスは、ファリサイ派の人々にわたしの救いを真剣に受け取ってほしいと言われているのです。主イエスは、わたしたちにも同じ思いを伝えようとされています。主イエスの救いは、異教の神々からまことの神、主なる神へとわたしたちを立ち帰らせることです。まことの神を捨て、この世の神々に心を奪われていたわたしたちから、主イエスは悪霊を追い出されました。この世の神々を追い出されました。
しかし、わたしたちが真剣に主イエスをわたしの神として、わたしの心の中心に迎え入れないと、わたしたちから追い出された悪霊が、この世の神々がわたしたちの心の中に戻って来るのです。
それは、煙草を禁煙し、失敗した人と同じです。よくわたしの父がたばこをやめようとしていました。しかし、煙草をやめられません。すると、以前吸っていた煙草の2倍以上吸うようになりました。
信仰も同じです。折角主イエスを信じて、心が清められ、家をきれいに掃除した状態になったのに、そこに主イエスを、聖霊を住まわせなかったので、再び悪霊が他の7つの悪霊を連れて戻って来て、以前の状態よりもさらに悪い状態にするのです。
主イエスのこの3つのお話を、アドベントの今聞くことの益は、クリスマス、主イエス・キリストの御降誕を祝う準備をすると共に、その幼子主イエスを、あの羊飼いたちのように、東方の博士たちのように、わが主、わが神としてわたしたちの心にお迎えすることであります。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、アドベントの第2週を迎えました。クリスマスの準備を始めております。今朝は、御言葉と聖餐の恵みにあずかります。わたしたちの心の中に主イエス・キリストをわが主、わが神として迎えさせてください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教053 主の2011年12月11日
聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
マタイによる福音書第12章46-50節
説教題:「まことの兄弟と姉妹」
今朝は、マタイによる福音書の第12章46-50節の御言葉を学びましょう。
これまでマタイ福音書は、主イエスがファリサイ派の人々と律法学者たちとの対立されたことを述べて来ました。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、主イエスが悪霊たちを追い出された奇跡を見て、悪霊の頭、ベルゼブルの力で行っていると非難しました。彼らは、主イエスを通して御業をなされている天の父なる神の御心が見抜けませんでした。
しかし、主イエスの周りに主イエスの癒しの奇跡が天の父なる神の御心と信じている者たちがいます。それが、主イエスの弟子たちです。
今朝の御言葉は、ここに突然、主イエスの家族が登場します。主イエスは、大勢の群衆たちにお話をされていました。
そこに主イエスの母マリアと兄弟たちが主イエスのところに来ました。マタイ福音書は、その理由をはっきりと記していません。マルコによる福音書の3章20節に主イエスの家族の者たちが主イエスの頭がおかしくなったという噂を聞いて、連れ戻しに来たと記しています。
マタイによる福音書は、その点があいまいです。主イエスの母と兄弟、姉妹たちは、主イエスと話をするために来たと記しています。
また、マルコによる福音書は、主イエスの母と兄弟たちが来て、外に立ち、人をやって主イエスを呼ばせたと記しています(マルコ3:31)。マタイによる福音書は、単におとなしく、主イエスが群衆たちに教えられるのを終わるまで、外に立ち待っていたと記しています。
主イエスの母と兄弟たちが「外に立つ」のは、主イエスの弟子たちの仲間に入っていなかったという意味です。仲間に入るつもりはありませんでしたが、何か主イエスと話をするために、主イエスの母マリアと兄弟たちは来たのです。
そこである人が主イエスに「母上と御兄弟たちが話しをしたいと外で待たれています」と知らせました。
それに主イエスは答えて、ある人に言われました。その時に主イエスは、わざわざ「弟子たちの方を指さして」と、マタイ福音書は記していますね。
主イエスは、ある人に肉親を否定して、「わたしの母とはだれか。」「わたしの兄弟とはだれか。」と言われ、弟子たちを指さして、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言われました。そして、主イエスは「だれでもわたしの天の父の御心を行う者は、わたしの母、わたしの兄弟である」と宣言されました。
マタイ福音書がわたしたちに伝えたい主イエスのお心とは、次のことです。第1に主イエスの家族は、肉親のことではありません。第2に主イエスは、御自分の弟子たちを指さして、これがわたしの求めるまことの家族であると言われました。主イエスは、肉親の家族を求められませんでした。彼と弟子たちの家族を求められました。
そして、主イエスは指差された弟子たちを、よく「天の父の御心を行う者」と呼ばれています。主イエスは、山上の説教において「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天国に入るのではなく、わたしの天の父の御心を行う者が入る」と言われました(7:21)。主イエスの弟子とは、主イエスに向かって「主よ」と呼びかける者ではなく、「わたしの天の父の御心を行う者」であると宣言されました。
ここでも主イエスは、弟子たちを指さして「わたしの天の父の御心を行う者が、わたしの母、わたしの兄弟たちである」と宣言されています。
「わたしの天の父の御心を行う者」とは、何か立派な行いをする者のことではありません。主イエスが指差された弟子たちです。弱い弟子たちです。過ちを犯す弟子たちです。出世争いをする弟子たちです。うぬぼれ、自慢し、失敗する弟子たちです。わたしたちと変わらない人間です。
しかし、主イエスの弟子たちは人間的な欠点、弱さがありますが、ただ一つ主イエスへの信仰がありました。失敗しながら、過ちを犯しつつ、天の父なる神の御心を受け止め、天の父なる神が「信ぜよ」と言われる主イエスをキリスト、救い主と信じて、従いました。天の父なる神の御心は、わたしたちが父がこの世に遣わす主イエスをキリストと信じて、御自身のところに戻ってくれることです。
だから、主イエスは、「わたしの天の父の御心を行う者は、わたしの母、わたしの兄弟たちである」と言われました。主イエスのまことの家族は、信仰によって応える者たちの交わりであります。そして、マタイ福音書は、それがわたしたちのキリスト教会であると証ししています。
使徒パウロは、今朝の主イエスのお言葉をよく知っていたでしょう。わたしたちにこう述べています。「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(Ⅰコリント15:50)。神の国は、信仰によってしか入れません。
わたしたちは、今アドベントを過ごしています。主イエス・キリストの御降誕の準備をしています。その一つとして、天の父なる神が、ナザレのイエスという人の中に込めた唯一の思いを受け止めましょう。御子イエス・キリストをこの世に遣わして、神に背を向けて生きるわたしたちを愛された、父なる神の思いを。キリストの十字架を心に留めましょう。そして、この十字架によって、わたしたちは罪を赦され、神の子としていただいたことを喜びましょう。父なる神の愛に、キリストを信じて生涯従って行くという信仰によって応えましょう。その者こそ主イエスは、わたしのまことの家族の一員であると言われているのです。お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、アドベントの第3週を迎えました。キリストの御降誕を準備する中で、わたしたが主イエスのまことの家族であることを思い巡らせる機会が与えられ感謝します。主イエスのまことの家族として、クリスマスを喜び祝わせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。