マタイによる福音書説教046         主の2011102

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく、預言者以上のものである。

 

 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、

 

あなたの前に道を準備させよう』

 

と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である。彼が活動を始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。

 

 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

 

 『笛を吹いたのに、

 

踊ってくれなかった。

 

葬式の歌をうたったのに、

 

悲しんでくれなかった。』

 

 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 

               マタイによる福音書第11219

 

 

 

 

 

 説教題:「あなたは、信じられますか」

 

 今朝は、マタイによる福音書第11219節の御言葉を学びましょう。

 

2節の「ヨハネ」は、洗礼者ヨハネのことです。彼は、ユダヤの荒れ野において人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。そして、人々に近づく神の裁きを告げ知らせ、人々に悔い改めの洗礼を施していました。マタイ福音書は、わたしたちに3章において洗礼者ヨハネを紹介し、彼こそが預言者イザヤが預言した救い主の道を整える「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ33)であると証ししました。

 

 その洗礼者ヨハネが牢に入れられていました。マタイ福音書は、わたしたちに14章においてどうして洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデに捕らえられ、牢に入れられ、殺されたかを証ししています。

 

 11章においては、ガリラヤの領主ヘロデに捕らえられて、牢に入れられた洗礼者ヨハネが、「キリストのなさったことを聞いた」ことを伝えています。

 

「キリストのなさったこと」とは、「キリストの業」です。マタイ福音書の510章におけるキリストの御言葉と奇跡と癒しの御業です。ヨハネは、主イエスのガリラヤ伝道を聞きました。

 

そこでヨハネは自分の弟子たちを主イエスのところに遣わして、主イエスに質問しました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか。」

 

「来るべき方」とは救い主を敬う呼び名です。ヨハネは、主イエスに質問しました。「救い主はあなたですか。それともほかの者を救い主として待つべきでしょうか」と。

 

牢の中でヨハネは、主イエスのガリラヤ伝道を聞いて、本当に主イエスが救い主なのかという疑いが生まれたのです。主イエスが審判者として民を裁かれなかったからです。ヨハネは、民衆にメシアが来られ、民の罪を裁かれることを告げました。そして、彼は民に罪の悔い改めの洗礼を施して、メシアの裁きに備えさせたのです。

 

しかし、ヨハネが牢で聞いている主イエスは、罪を裁く審判者ではありませんでした。身を低くし、貧しい人々に天の国の福音を教え、奇跡を行われ、病める者を癒されていました。主イエスのへりくだりに、洗礼者ヨハネはつまずきました。

 

主イエスは、ヨハネの弟子たちを通してのヨハネの質問に、神の御言葉の事実によって答えられました。預言者イザヤが旧約聖書のイザヤ書においてメシアを預言した御言葉を用いられました。イザヤ書2614節、2918節と19節、355節と6節、611節です。

 

主イエスはヨハネの弟子たちにこうお命じになりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 

主イエスは、ヨハネに預言者イザヤが語りました神の御言葉をお示しになり、主イエスがその御言葉通りのことをなされている事実から判断するように導かれました。そして、彼に「わたしにつまずかない者は幸いである」と告げられたのです。

 

続いて主イエスは、ヨハネの弟子たちが牢にいるヨハネのところに戻りますと、群衆にヨハネについてお話しになりました。

 

主イエスは、群衆たちが洗礼者ヨハネを追いかけていたことを思い起こさせられました。群衆たちにとってヨハネは過去の人でした。今は、主イエスが群衆たちにとって時の人であり、話題の中心でした。

 

しかし、主イエスは、群衆たちに言われました。「あなたがたは、誰を見るために、ユダヤの荒れ野まで言ったのか」と。そこで洗礼者ヨハネが預言者として活躍していました。しかし、今では群衆は忘れています。主イエスは、言われました。「風にそよぐ葦か」と。「風にそよぐ葦」とは、しっかりした考えもないまま、その時代に合わせて生きている人のたとえです。

 

また主イエスは言われました。「しなやかな服を着た人か」と。その人とはヘロデ王の宮殿に住んでいる貴族のことでしょう。表向きは偉そうに振る舞っています。そして、ヘロデ王におもねり、ごまをすっています。

 

洗礼者ヨハネは、そのどちらの人でもありませんでした。だから、主イエスは、次に群衆に「何を見に行ったのか。預言者か」と尋ねられました。そして、主イエスはヨハネを大変お誉めになりました。「預言者以上の者である」と。さらに主イエスは、女から生まれた者の中で、すなわち、人の歴史の中でヨハネほど偉大な者はないと言われています。

 

洗礼者ヨハネの偉大さは、彼が最初に救い主をこの世の人々に指し示し、救い主イエスの道を整えたからです。

 

そして、主イエスは、そのヨハネと比較してわたしたちキリスト者の特権と恵みの素晴らしさを証しされています。11節の「天の国で最も小さい者」とは、わたしたちキリスト者です。わたしたちは、十字架と復活の主イエスの御業を見聞きし、主イエスを救い主と信じて、受け入れました。そして、罪赦されて、神の御国に入れられました。ヨハネは、「天の国が近づいた。悔い改めよ。」と宣べ伝えました。しかし、主イエスを救い主と信じて、罪赦され、神の子とされる恵みを知りません。

 

さらに、主イエスは、御自身の迫害について預言されています。12節です。ヨハネが宣教を始めた時から、今主イエスがガリラヤ伝道をされている時まで、主イエスは「天国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と言われています。洗礼者ヨハネの活動によって、天の国の事態に大きな変化が生まれたと、主イエスは言われています。

 

12節の御言葉は、主イエスが何を言われているのか、分かりにくい御言葉です。いろいろと理解されています。第1に天国がこの世に突入したと理解されています。ヨハネの悔い改めの洗礼と主イエスのガリラヤ伝道によって神の国がこの世に突入したと。だから、天の国を激しく襲うような姿勢で、奪うような熱心さで、自分のものとすべきであると。

 

2の理解はこうです。洗礼者ヨハネの出現以来、天の国は暴力を振るう者たちに踏みにじられているという理解です。今洗礼者ヨハネは牢に入れられ、これからキリストも権力者の暴力によって十字架の苦しみの道を歩まれます。「激しく襲う者」とは、悪魔の攻撃であり、権力者の迫害です。

 

他にもいくつかあります。わたしは、第2の理解がマタイ福音書の流れに合うと思っています。

 

13節は、洗礼者ヨハネは旧約の時代の預言者であると、主イエスが言われています。そして14節は、主イエスがヨハネをエリヤだと言われています。旧約聖書のマラキ書にエリヤが遣わされ、救い主が来られる道備えをすると預言しています(マラキ3:123)。主イエスは、洗礼者ヨハネがそのエリヤの役割を果たしたと言われています。だから、ヨハネをエリヤと認める者は、主イエスを救い主と信じ、受け入れている者です。

 

1619節は、主イエスが「今の時代」を何にたとえようかとお語りになり、世の無関心と不信仰をお話しになりました。主イエスは、群衆にこの時代を子供が遊びでいさかいを起こすことにたとえられました。

 

子供の遊びとは、結婚ごっこと葬式ごっこです。遊びに誘っても、誘われた子供が「ぼくは別に」と、仲間に入って遊ぼうとしないのです。ただ傍観しているだけなのです。だから、遊びに誘った子供が相手になってくれないと不平を述べているのです。

 

群衆たちのヨハネと主イエスに対する態度も同じでした。主なる神は、洗礼者ヨハネを悲しみの使者として遣わされました。ヨハネが、群衆に罪を悔い、悲しみ、洗礼を受けて、清い生活に入るように招きますと、群衆はその招きを断り、ヨハネと弟子たちの生活をただ傍観していました。そして、彼らが罪を悲しみ、悔いて、神の御前に清い生活をしているのを見て、彼らの禁欲的な生活を、「あれは悪霊にとりつかれている」と批判しました。

 

父なる神は、主イエスを喜びの使者として、救い主として遣わされました。主イエスが群衆をお招きになりますと、群衆はその招きを断り、ただ傍観しているのです。そして、主イエスが弟子たちたちと共に、罪の赦しの喜びを罪人や徴税人たちにもたらすために、彼らと交わり、飲み食いしているのを見て、「イエスと弟子たちは大食漢の大酒飲みだ」と非難しました。

 

しかし、主イエスは、「知恵の正しさは、その働きによって証明される」と言い返されました。「知恵」とは、「神の知恵」です。それは、主イエスとヨハネの業を、主イエスを信じる者に正しいと認めさせるのです。神の知恵は、主イエスの御言葉と御業に現されました。だから、使徒パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント2:1)と述べ、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(2:21)と証ししています。

 

主イエスの目には、常に「この時代」、今の世は主イエスに無関心であり、不信仰です。どうして教会に人が集まらないのか、確かにわたしたちの弱さがあります。しかし、根本的なことは、常にこの時代は、主イエスに無関心です。教会に来られませんかと招いても、「わたしは別に」と断られます。そして、遊びを断った子供のように、決して離れてしまうのではなく、外から傍観しているのです。そして、「クリスチャンはまじめすぎる」とか、「偽善者である」と非難します。

 

しかし、神の知恵が、キリストの御業によって正しさを証明します。それが教会の礼拝です。そこでキリストの御業が、聖霊と御言葉を通して行われています。

 

キリストがガリラヤの山上において説教され、弟子たちや群衆がその説教を聞きましたように、今教会の礼拝においても聖書が朗読され、説教がなされ、わたしたちは聖霊の導きによって、今ここでキリストの御声を聞いています。キリストは、わたしたちに「あなたがたは天の国で最も小さい者ですが、ヨハネよりも素晴らしい特権と恵みが与えられています」と語りかけてくださいました。それは、キリストの十字架のゆえにわたしたちは、主イエスを救い主と信じて、罪を赦され神の子とされていることです。

 

さらにキリストは12弟子たちと最後の晩餐を招かれたように、今朝わたしたちを聖餐の食事にお招きくださいました。そして、主イエスは徴税人や罪人を食事に招き、罪を赦し、天の国に加えられましたように、わたしたちを食卓に招き、天の国の前味を味わわせてくださっています。

 

マタイ福音書は、わたしたちにそのことを、「あなたは信じられますか」と問いかけているのです。お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、主イエスの洗礼者ヨハネのお話しによって、わたしたちが天国の中で小さな者でありますが、罪を赦され、神の子とされ、ヨハネよりも大きな特権と恵みをいただいていることを教えられ感謝します。今日も、主イエスが聖霊によって説教し、聖餐の食卓にお招きくださり、感謝します。われらの国籍は天にあることを、聖餐の恵みを通して確信させてください。この祈りと感謝を、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 マタイによる福音書説教046         主の2011102

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 それからイエスは、数多くの奇跡を行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、

 

 天にまで上げられるとでも思っているのか。

 

 陰府にまで落とされるのだ。

 

お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」

 

                   マタイによる福音書第112024

 

 

 

 説教題:「憐れみの主イエス」

 

 今朝は、マタイによる福音書第112024節の御言葉を学びましょう。

 

主イエスが悔い改めないガリラヤの町々をお叱りになりました。コラジンとベトサイダとカファルナウムの町の人々です。

 

主イエスがガリラヤの町々で「天の国は近づいた。悔い改めよ」と福音を語り、目の見えない人の目を見えるようにし、手足の不自由な人の手足をいやし悪霊を追い出され、徴税人や罪人たちを食事に招き、罪を赦されていたのに、ガリラヤの町々は主イエスをキリストと受け入れませんでした。

 

あれだけそばにいて、目の前で主イエスが行われる驚くべき救いの御業を見たのに、ガリラヤの町々の人々は、彼らにとって主イエスが誰であるか、に無関心でした。

 

だから、主イエスは、ガリラヤの町々の不信仰をお叱りになりました。その理由が20節に記されています。わたしの言葉で紹介するとこうです。「その時イエスは、非難することを始められた、彼の非常に多くの力ある御業がガリラヤの町々で出来事として起こったのに、そして、主イエスを通して、神は民を招かれたのに、彼らは神に立ち帰らなかったからである」。          

 

ノーベル文学賞を授与した作家の大江健三郎さんが「あなたが行くことができるとしたら、どの時代に行きたいですか」という質問に、「イエスの時代に」と答えられているのを読んだことがあります。イエスの時代の人々。ガリラヤのカファルナウムやコラジン、ベトサイダの町の人々は、彼らの目の前で主イエスを通して神の御業を見せていただいた人々です。わたしたちには何と羨ましい人々でしょう。世界一恵まれた人々ではないでしょうか。しかし、彼らは、わたしたちの思いとは違い、主イエスは「お前たちは不幸だ」と告げられています。主イエスを目の前で見ながら、主イエスの招きに無関心だったのです。

 

主イエスの目は、彼らの世の終わりに向けられていました。その時主イエスは、この世の審判者として、ガリラヤの町々を裁かれます。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、主イエスが伝道した町です。しかし町の人々は主イエスをキリストと信じませんでした。

 

主イエスをキリストと信じない者は、この世の終わりに審判者であるキリストに厳しく裁かれ、滅びるのです。だから、主イエスは、御自身を救い主として受け入れなかった「コラジン」と「ベトサイダ」を「お前たちは不幸だ」と言われているのです。

 

カファルナウムの町もこの世の終わりに滅びることを免れません。主イエスは、預言者イザヤが諸国を滅ぼしましたバビロンの滅びを預言した御言葉をそのままカファルナウムの町に当てはめて、「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府まで落とされるのだ」と滅びを告げられました(マタイ1123)

 

ところが、主イエスは、厳しい裁きをお告げになりましたが、憐れみのお方であることをお示しになりました。ご自身が招かれた神の民がその招きを拒み、厳しく主イエスはお叱りになりました。しかし、初めから罪に沈む者に、その存在が初めから神の怒りに触れ、滅びの中にある者に、憐れみの主イエスは救いの希望をお与えになりました。

 

それは、「ティルス」と「シドン」、そして「ソドム」の町であります。旧約聖書の時代からこの3つの町は、異教と不道徳、悪徳の町として有名でした。「ティルス」と「シドン」の人々はバアルの神を拝みました。そして、彼らの信仰が、北イスラエル王国と南ユダ王国に輸入され、神の民を罪に堕落させました。ソドムは、悪徳の町の代名詞です。アブラハムのとりなしの祈りでも救われませんでした(創世19)

 

しかし、主イエスは次のように告げられました。その町で、主イエスが福音を語り、奇跡を行われれば、町の人々は主イエスを救い主と信じて悔い改めると。ソドムの町は今日まで無事に残っていただろうと。

 

終わりの神の審判の日には、主イエスの福音を聞き、主イエスのなさったことを見たのに、主イエスをキリストと信じなかった者は、ソドムの町の人々よりも厳しい裁きを受けます。

 

しかし、主イエスの本当のお気持ちは、終わりの日に一人も滅びてほしくないのです。まことの父は、子を厳しく叱り、幸いに導きます。憐れみの主イエスも厳しく叱り、終わりの日に滅びを免れない者のために、御自身が彼らの罪の身代わりに十字架の道に歩まれるのです。

 

本当に不思議なことです。主イエスの十字架と復活の福音が、聞く者に二つの反応をさせます。キリストの十字架が聞く者の生き死につながる者とつながらない者を生じさせるのです。キリストの十字架がわたしの罪のためであると信じ受け入れる者と、わたしの罪の贖いなどに全く興味のない者を生じさせるのです。

 

いつもわたしは、思うのです。どうしてわたしは、教会の礼拝で説教を聞き、語られるキリストの十字架がわたしの罪のためだと信じることができたんだろうかと。わたしの側には何もありません。それは、今朝の御言葉で言えば「イエスの力ある御業」です。奇跡と言われています。それは、聖霊の御力のことです。主イエスがわたしを憐れんで下さったとしか言いようがありません。

 

憐れみの主イエスを心より崇めたいと思います。お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちを罪と滅びから救い出すために、憐れみの主イエスは世の光として御自身を与え尽くしてくださいました。わたしたちに永遠の命を与えて豊かにするために、御自身は貧しくなられました。わたしたちが永遠の御国に生けるように、憐れみの主は神であられたのに、人となり、この世に来てくださいました。主イエスの憐れみと愛に感謝します。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。