マタイによる福音書説教037 主の2011年7月3日
聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心をお開きください。御言葉を理解し、心に蓄え、それを行っていく決心をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。
マタイによる福音書第9章18-26節
説教題:「信仰が人を救う」
今朝は、マタイによる福音書第9章18-26節の御言葉を学びましょう。
主イエスが「このようなことを話しておられると」ありますね。それは、すぐ前の主イエスと洗礼者ヨハネの弟子たちとの断食についての対話です。主イエスは、洗礼者ヨハネの弟子たちに質問されました。「どうしてあなたの弟子たちは、断食しないのですか」と。主イエスは、彼らに答えられました。「わたしの弟子たちは、わたしと一緒にいる。あたかも婚礼の客である。喜びの中にいる者が断食する必要はない」と。
そのところで信じられないことが起こりました。マタイ福音書は、わたしたち読者の目をそこに釘づけにするために、18節に「見よ」と記しています。わたしたちの新共同訳聖書にはその言葉が訳されていません。残念なことです。
信じられない出来事とは、突然一人の指導者が主イエスに近づいて来て、主イエスにひざまずいて礼拝したことです。
この「指導者」は「アルコーン」、「有料者」という意味です。ユダヤの町々村々に礼拝のための集会所がありました。その集会所、会堂を管理する者が、この指導者でした。集会所、会堂を管理し、維持する者ですが、指導者と呼ばれていますように、朗読する聖書の箇所を選び、礼拝の司会者、説教者を指名しました。また、礼拝の秩序を守る責任を持ち、異端者を集会所、会堂から追い出しました。
カファルナウムの町の会堂司は、主イエスを主なる神が遣わした預言者であると信じていました。旧約聖書の預言者エリヤとエリシャが死んだ子供を生き返らせたように、主なる神から遣わされた主イエスも、自分の娘を生き返らせることができると、彼は信じていました。だから、彼は迷わず、大胆に言いました。「いましがた、わたしの娘が死にました。でもおいでになって娘の上にあなたの手を置いてください。そうすれば、娘は生きるでしょう。」
彼は、昔の預言者エリヤやエリシャのように、主イエスが死んだ娘の上に手を置いてくれれば、主イエスの手を通して主なる神の命が娘に伝わり、娘は再び命を得ることができる、生きるであろうと信じたのです。
主イエスは、指導者の信仰を御覧になり、立ち上がり、その家を出て彼について行かれました。「弟子たちも一緒だった」とありますが、マタイ福音書は「弟子たちも」としか述べていません。「一緒だった」はマタイ福音書が言いたいことを説明しているのです。
そして、主イエスが弟子たちと共に、指導者について行く途上で、また驚くべき出来事が起こったと、マタイ福音書は証言しています。
20節の冒頭に「そして、見よ」とあります。わたしたちの聖書は、「すると」としか訳していません。正確には「すると、見よ」です。主イエス一行は、12年間出血に患い続けて苦しんでいる女性に出会います。この女性は、現代の医学では治療が可能である子宮内の良性腫瘍でした。
彼女も指導者と同じように、主イエスに近づきました。そして、主イエスの後ろにまわり、主イエスの服の房に触りました。房は、広げると四角い1枚の布になる、着物の四隅につけられた糸の束です。青い1本の糸を含むより糸の束です。
旧約聖書の民数記第15章38-40節に次のように主なる神がモーセに命令されています。「イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。」(旧約聖書P239)。
彼女は、指導者と同じ信仰を持っていました。彼女は、自分の心に念じ言い続けました。主イエスの着物の房に触れれば、自分の病気は癒されると。それは、魔術的な信仰ではありません。彼女は主イエスの御力を信じたのです。主イエスは、彼女の心の中の信仰を見ながら、彼女に宣言されました。「勇気を出しなさい、娘よ。あなたの信仰があなたを救った。」その時から彼女は病気が治りました。主イエスは、御自身の救いの御力を御言葉を通して表されました。
指導者に導かれて、主イエスと弟子たちは、彼の家に入りました。指導者が主イエスに「わたしの娘は死にました」と告げた通り、彼の家は悲しみと嘆きの人々に満ちていました。「笛を吹く者」や「騒いでいる群衆」とは、現代の葬儀屋のことです。聖書では、「泣き女」が有名です。古代イスラエルでは、家に死人が出ると、大声を上げて泣き叫び、葬列に加わり、巧みに楽器を奏して、歌を歌い、死者のために泣いて悲しみを盛り上げる葬儀屋がいました。彼らは「泣き女」=「巧みな女」、「笛を吹く者」と呼ばれています。
主イエスは葬儀屋たちを御覧になり、死んだ少女の部屋から追い出されました。そして、彼らに言われました。「立ち去れ、死んだのではない、少女は。そうではなく眠っているのだ。」
主イエスは、誰の耳にも聞こえるように、少女は生きている、眠っているのだと言われました。その場にいた人々は、主イエスの言葉を聞いて、「お前は何を言っているだ」と嘲笑いました。死んでいる者を生きている、眠っていると言う主イエスを、群衆たちは馬鹿にしたのです。
主イエスは、少女の部屋に入られました。そして、主イエスは少女の手を握られました。すると、少女は、起き上がらされました。死から命に移されました。
そこで主イエスが少女を生き返らせたという評判がガリラヤ地方全体に広まりました。
今朝の御言葉の大切な点は、第1に指導者と12年間出血に患っていた女性の主イエスに対する信仰です。両者は、ある意味で絶望の中にありました。指導者は、愛する娘の死という絶望に陥りました。12年間出血を患っていた女性は不治の病によって主なる神との交わりを失っていることに絶望していました。その二人が主イエスなら、自分たちの絶望を救うことができると信じました。
第2に主イエスは、女性の信仰を見ながら「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。そして、主イエスは、指導者の信仰を見ながら、彼の娘を救われました。
この二人の信仰は、主イエスを通してなされた主なる神の救いの御業に信頼することでした。指導者は、預言者エリヤやエリシャのように、主イエスを通してなされる主なる神の救いの御業に信頼しました。
新約聖書は、「信じる」という動詞を、何々の中へ、何々の上にという前置詞を伴って用いています。これは、人となってくださった神の御子イエス・キリストの人格と御業の上に、あるいはその中にすべてを委ねることこそが信仰であることを証ししているのです。そして、この信仰だけが唯一、この世にあって絶望している、罪ゆえに神から切り離されたわたしたちを救いえるというのが、マタイ福音書のわたしたちへの喜びのメッセージです。
第3に「信じる」には、3つの時制が使われています。過去形と現在形と完了形です。それによって「信じる」の過去形は、ある特定の時になされたわたしたちの決断であることを示します。「信じる」の現在形は、信仰は一時的な行為ではなく、継続的に信じ続けるものであることを教えています。そして「信じる」の完了形は、信仰の二つの面を同時に示しています。ある時与えられた信仰は、引き続き保たれて行きます。さらに継続し保たれているわたしたちの今の信仰は、自分たちの人間的努力によるものではありません。神の恵みのゆえにわたしたちに信仰が与えられ、今もわたしたちの信仰は守られています。
指導者と12年間出血を患った女性は、確かに過去のある一定の時に主イエスへの信仰を決断しました。そして、彼らは主イエスへの信仰を一時的な行為に終わらさなかったでしょう。彼らは、継続して主イエスを信じ続けました。
彼らに信仰を与えられたのは、主なる神です。神がわたしたちに与えられた信仰は、引き続きこの二人のように、わたしたちの中に保たれ続けて行きます。教会で与えられる信仰、教会に臨在されるキリストから与えられる信仰は、わたしたちの努力は必要ありません。毎週礼拝の席に座り続けているならば、神の恵みによって与えられます。そして、今もわたしたちは与えられた主イエスへの信仰を、神の恵みによって保ち続けています。
そして、わたしたちは、神の恵みによって与えられた主イエスへの信仰によってわたしたちの罪が赦され、永遠の命にあずかる自分たちの救いえを得ていることを喜び感謝しているのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝の御言葉を通して、神の恵みによってわたしたちに与えられた主イエスへの信仰によって私たちも罪から救われ、永遠の命の喜びに与れていることを感謝します。この後わたしたちを聖餐の食卓にお招きくださり、感謝します。主イエスは言われました。「しっかりしなさい。娘よ、あなたの信仰が今あなたを救った。」。今信仰をもってパンとぶどう酒にあずかります。わたしたちの罪の赦しと永遠の命を確信させてください。今日から始まります新しい週も、わたしたちの残された人生も、主の恵みと憐れみの内に生きるようにお助け下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教038 主の2011年7月17日
聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心をお開きください。御言葉を理解し、心に蓄え、それを行っていく決心をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外に出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。
マタイによる福音書第9章27-34節
説教題:「主イエスのいやし」
今朝は、マタイによる福音書第9章27-34節の御言葉を学びましょう。
主イエスが、二人の盲人と悪霊につかれて口の利けない人をいやす奇跡を行われました。
27節に「イエスがそこからお出かけになると」とありますね。主イエスは、カファルナウムの町にある会堂司の家において会堂司の娘を生き返らせる奇跡を行われました。そして、会堂司の家を立ち去られました。
その時に二人の盲人たちが主イエスの後について来ました。彼らは、主イエスに次のように叫び、言いました。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」
主イエスは、ある家に入られました。二人の盲人たちも、主イエスの後に従いました。そして、彼らは主イエスのそばに近寄りました。
主イエスは二人の盲人たちに問いかけられました。「わたしにできると信じるのか」と。はっきりと言いますと、「わたしにあなたがたの目をいやすことができると信じるのか」と、主イエスは問われました。二人の盲人は、主イエスに「はい、主よ」「その通りです。主よ」と答えました。
そこで主イエスは、二人の盲人たちの目を手で触られ、お命じなりました。「あなたがたの信じるとおりになるように」。すると、二人の盲人たちの目はいやされ、物が見えるようになりました。
主イエスは、二人の盲人の目を御言葉によっていやされました。「あなたがたの信仰のとおりになれ」と、とても強くお命じなっています。二人の盲人たちの目は、この主イエスの強い命令のお言葉によっていやされました。
ある聖書学者は、主イエスのこの強い命令のお言葉に、主イエスの強い御意志を響かせて、次のように訳しています。「あなたがたの信仰をがっかりさせはしないぞ」と。主イエスは、二人の盲人が「この方はわたしたちの目をいやす力がある」と信じて、主イエスに憐れみを乞うた真剣さに、強い決意をもって応えられました。
主イエスは、二人の盲人たちに思いがけない忠告をされていますね。「このことは、だれにも知らせてはいけない」と。実際主イエスは、二人の盲人たちをある家の中で、人目を避けていやされました。
どうして主イエスは、二人の盲人のいやしの奇跡を、ある家で人々の目を避けて行われたのでしょう。どうして主イエスは彼らに隠すように忠告されたのでしょう。マタイ福音書はわたしたちに説明していません。
マタイ福音書がわたしたちに伝えていることは、次のことです。目をいやされた二人は、主イエスの忠告にも関わらず自分たちの喜びを隠すことができませんでした。二人は、その家を出るやいなや、会う人々に主イエスが自分たちの見えない目を見えるようにしたと触れまわりました。その結果、ガリラヤ地方全体に主イエスのいやしの奇跡が広まりました。
マタイ福音書は、わたしたちに主イエスが二人の盲人たちの目をいやされた、この奇跡によって何を語りかけているのでしょうか。
二人の盲人たちは、主イエスを「ダビデの子」と信じて、主イエスの後について行き、憐れみを乞い求めました。
「ダビデの子」の「ダビデ」とは、今から3000年昔のイスラエル王国の王の名です。羊飼いから身を起してユダとイスラエルを統一し、周りの諸国を平定してイスラエル王国を建てました。主なる神は、預言者ナタンを通してダビデ王と契約を結ばれました。主なる神は、ダビデ王に彼と彼の子孫の王国を永続させると祝福されました。そして、後の預言者たちは、主なる神とダビデ王との契約に基づいてダビデ王の子孫よりメシアが生まれると告げ知らせました。ユダヤ人たちは、メシアを「ダビデの子」と呼び、来られるのを待ち望んでいました。
ユダヤ人たちは、主なる神がダビデ王のように国を救う者を起してくださると期待していました。メシアは、「第2のダビデ」として、ダビデ王の子孫から、ダビデ王の故郷であるベツレヘムから現れると信じていました。
二人の盲人たちも、主イエスをユダヤ人たちが待ち望んでいるメシア、「ダビデの子」と信じました。「偉大なダビデ王の血筋を引いて生れた、我らの希望であるお方よ」、これが、二人の盲人たちが主イエスを「ダビデの子」と信じた信仰です。
主イエスは、ユダヤ人たちが期待した「ダビデの子」、メシアとして病に苦しむ二人の盲人に憐れみをお示しになりました。見えない目を見えるようにいやされました。
マタイ福音書は、わたしたちに次のように二人の盲人たちの「主よ」という信仰告白を通して、主イエスが主なる神として、二人を憐れみ、御言葉の権威によって彼らの見えない目を見えるようにいやされたと。
主イエスのいやしの奇跡は、まさに主なる神が天地創造の時に、闇と混沌の世界に御言葉によって「光あれ」と命じ、暗黒に光を創造された出来事でした。マタイ福音書は、わたしたちにこの奇跡を通して、主イエスが憐れみ深い神として盲人たちを救うために御自身の創造の御力を発揮されることを教えているのです。
主イエスが二人の盲人たちに御自身のいやしの奇跡を隠すようにお命じになったことは、続く悪霊につかれて口が利けない人を、主イエスがいやされた奇跡と共に考えてみましょう。
32節から34節です。主イエスは、二人の盲人たちをいやされた家を立ち去られました。弟子たちも一緒だったでしょう。そこでマタイ福音書独特の言い回しがあります。「見よ」という言葉です。「また、彼らが出て行ったとき、見よ、イエスのところに悪霊につかれて口の利けない人を、人々は連れて来た」。
マタイ福音書はわたしたちに「見よ、信じられないことが起こった」と証言しています。人々が悪霊につかれて口の利けない人を、主イエスのところに連れて来ました。
悪霊が、連れて来られた人にとりついて口を利けなくしていました。悪霊によって、この人は、人々とのコミュニケーションを、人と人との関係を断たれていました。彼は、口が利けないだけではありません。悪霊に耳も閉ざされ、聞こえませんでした。人々は、憐れに思い、主イエスならこの人をいやせると信じて、連れて来ました。
主イエスは、二人の盲人のいやしとは異なり、人々の面前で悪霊につかれて口の利けない人から悪霊を追い出すいやしの奇跡を行われました。
恐らく主イエスは、悪霊につかれた人に向かって、「悪霊よ、この人から出て行け」とお命じになられたでしょう。悪霊はその人から出て行き、口の利けなかったその人は、耳が聞こえ、物を言えるようになりました。
その場に居合わせた群衆たちは、主イエスの奇跡を見て大変驚きました。それは、イスラエルでは今まで見聞きしたことがなかったからです。
旧約聖書の中に悪霊につかれたサウル王が悪霊に苦しめられ、心を悩ますことが記されています(サムエル記上16:14)。ダビデは竪琴の名手であり、サウル王が悪霊に悩まされたとき、竪琴を奏でて、王の心から悪霊を離れさせました。しかし、ダビデに悪霊を支配する力があったと、旧約聖書は証言していません。旧約聖書には、預言者エリヤとエリシャが、主イエスのように数々の奇跡を行っています。しかし、どこにも彼らが悪霊を追い出し、悪霊を支配したという証言はありません。
群衆たちは、モーセの奇跡も知っています。預言者たちの奇跡も知っています。しかし、今主イエスが悪霊を支配し、追い出し、人をいやす奇跡を初めて目撃しました。だから群衆たちは驚きました。そして、この驚きは、群衆たちの主イエスは「神の子」であるという告白だったのです。主イエスが主なる神でなければ、悪霊を従わせることはできないと、群衆たちは思ったのです。
しかし、ユダヤの民衆たちの宗教的指導者でありますファリサイ派の人々は、主イエスを嘲りました。「イエスは、悪霊の頭によって悪霊たちを追い出しているのだ」と。
ファリサイ派の人々は、主イエスが悪霊につかれて口の利けない人から悪霊を追い出して、口が利けるようにいやされた事実を否定することはできませんでした。主イエスに、群衆たちは主なる神の御力を見て賛美したのに、指導者たちは主イエスのいやしの奇跡を「悪魔の行為だ」と非難しました。
マタイ福音書は、わたしたちに主イエスがいやされた盲人たちにいやしの奇跡を隠すように命じられたことを証言しています。そして、悪霊につかれた人から悪霊を追い出された主イエスが、ユダヤの宗教的指導者たちに悪魔の行為だと非難されたことを証言しています。
民衆たちとユダヤの宗教的指導者たちの間で、主イエスの理解に深い溝が生まれていることを記しています。そして、主イエスとユダヤの宗教的指導者との対立が深まって行ったことを、同時にわたしたちに伝えています。
その対立の頂点がゴルゴタの十字架なのです。ダビデの子であり、メシア、神の子キリストが宗教的指導者たちと対立を深め、十字架へと歩まれることを、マタイ福音書はわたしたちに証ししているのです。
マタイ福音書は、わたしたちにいやしの奇跡を行われる主イエスを通して病める者への主イエスの憐れみを伝えています。そして、教会にわたしたちと共に臨在される主イエスは、わたしたちにとっても憐れみの救い主でることを、マタイ福音書はわたしたちに伝えたいのです。
ウェストミンスター信仰告白の第1章1節に告白されていますように、聖書の完成をもって、神がわたしたちに御心を示された特別な啓示は停止されました。主イエスのいやしの奇跡も停止されました。わたしたちは、直接に主イエスにいやしの奇跡を求めることはできません。しかし、今朝も御言葉の説き明かしを通して、主イエスは今もわたしたちを憐れむ救い主です。二人の盲人と共にいてくださった主イエスは、わたしたちと共にこの教会にいてくださいます。
御言葉によっての罪の赦しを宣言し、聖餐の恵みの食卓へとわたしたちを招き、永遠の命にわたしたちを導かれています。その喜びを伝えることが、マタイ福音書の目的なのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝の御言葉を通して、病める者を憐れむ主イエスが、わたしたちと共にいてくださり、御言葉によってわたしたちの罪の赦しを宣言し、聖餐の恵みの食卓へとわたしたちを招き、永遠の命に導いてくださっていますことを知り、心より感謝します。今日から始まります新しい週も、わたしたちが主の恵みと憐れみの内に生きるようにお助け下さい。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
マタイによる福音書説教039 主の2011年7月24日
聖霊を願い求めてお祈りします。「父なる神と御子イエス・キリストがわたしたちに遣わされた聖霊よ、聖書の御言葉にあずかろうとしているわたしたちを清めてください。聖霊の御力によって一人一人の心をお開きください。御言葉を理解し、心に蓄え、それを行っていく決心をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
マタイによる福音書第9章35-38節
説教題:「収穫は多いが、働き手が少ない」
今朝は、マタイによる福音書第9章35-38節の御言葉を学びましょう。
35節の御言葉は、4章23節の御言葉と全く同じです。4章23節と9章35節に挟まれた5-9章は、救い主イエス・キリストの御言葉といやしの奇跡によるガリラヤ伝道の活動をひとまとめにしています。
そして、主イエスの3つの活動を示す動詞が使われて、主イエスがガリラヤの町々、村々を残らず回られ、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、いやしの奇跡を行われたことを伝えています。
次にマタイ福音書は、わたしたちに主イエス・キリストのガリラヤ伝道の本質を「憐れみ」と証ししています。キリストは、民衆たちへの「深い憐れみ」から会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、苦しみの中にいる民たちをいやす奇跡を行われました。
「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(36節)。
36節の初めのところをそのまま訳すと、「また、群衆たちを見て」となります。5章1節の御言葉と同じです。「イエスはこの群衆を見て」です。
旧約聖書を読んでいますと、次のことに気付きます。主なる神は御自身が創造された人間を、アブラハムを通して選ばれた神の民をよく御覧になっています。マタイ福音書も、主イエスが群衆を見ておられたことを証ししています。
その群衆は、主イエスの目には、羊飼いのいない羊たちでありました。「羊飼いのいない羊たち」という表現は、たびたび旧約聖書に使われています。有名な御言葉は、旧約聖書の民数記27章16-17節です。
イスラエルの民の指導者モーセが次のように主なる神に彼の後継者を祈りました。「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」
モーセは、彼の後継者ヨシュアを民の指導者として立ててくださいと祈りました。主なる神は、モーセの祈りをお聞きくださいました。ヨシュアをモーセの後継者として任命し、ヨシュアに率いられてイスラエルの民は約束の地カナンに入りました。
しかし、約束の地に入りました民たちは、主なる神に背いて罪を犯し、ダビデ王国は二つの国に分裂しました。そして北イスラエル王国のアハブ王は、外国の神バアル神を輸入し、民たちにバアル神を偶像礼拝させて、民たちを罪と暗闇に導きました。それ故に列王記上22章17節において預言者ミカヤが次のように預言しました。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」と。
羊たちは、いつも先頭に立って導く羊飼いがいてはじめて、命と安全を保つことができる動物です。羊飼いの少年ダビデは、サウル王に次のように言っています。「僕は父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します」と(サムエル記上17:34-35)。また、羊飼いは、羊たちを危険から守るだけでなく、水と牧草地に導きます。
旧約聖書は、羊飼いを、民たちの指導者に、羊たちを、イスラエルの民にたとえています。そして、その指導者を失った民の悲惨さを、「羊飼いのいない羊たち」と表現したのです。北イスラエル王国の王たちは、自らも主なる神に背いて、偶像礼拝をし、民たちを偶像礼拝をさせ、主なる神の怒りに導きました。そして、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、それ以後、北イスラエル王国の民たちはこの地上から消滅してしまいました。
また、モーセが祈りますように、「肉なるものに霊を与える神」に、民を導く者が羊飼いです。主イエスの時代の宗教的指導者たちは、民衆に律法を守ることを教えました。罪を教え、罪を犯す者たちを罪人として裁きました。宗教的汚れを教え、汚れた者たちを共同体から追放しました。その結果、神の民なのに、主なる神との交わりを失い、苦しむ多くの者たちが生まれました。
主イエスは、その飼い主のいない羊たちを御覧になりました。彼らたちを、罪を赦してくださる憐れみの神に導く宗教的指導者はいませんでした。だから、主イエスの目には、彼らは疲れ果て、打ちひしがれていました。悲惨な状態にありました。
群衆たちの悲惨な様子を御覧になり、主イエスは深く憐れまれました。岩波書店が刊行しています新約聖書のマタイ福音書は、次のように訳しています。「彼は群衆を見て、彼らに対して腸がちぎれる想いに駆られた」と。主イエスのお心が激しく痛んだのです。
わたしたちは、心は心臓にあると思っています。主イエスの時代のユダヤ人たちは、心は内臓にあると考えていたのです。だから、心を痛める、同情する、憐れむことを、「腸がちぎれる」と表現しました。
そこで主イエスは、御自身に代えて弟子たちを派遣することにされました。苦しみの中にある民たちのところに弟子たちを遣わそうと、主イエスは弟子たちに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
「収穫」とは、何でしょうか。刈り入れです。大麦や小麦の刈り入れです。実りは、主なる神の恵みです。主が小麦や大麦を実らせて、収穫の時期になれば、その実りをすべて刈り取ります。
だから、主なる神は、わたしたちに小麦、大麦を刈り取りさせられるお方ですので、主イエスは「収穫の主」と言われています。
旧約聖書を読みますと、「収穫」は人としては悪いイメージです。世の終わりの神の審判、神の裁きのたとえに使われているからです。
また、「働き手」とは主なる神の御使い、天使たちのことです。マタイ福音書の13章において主イエスが弟子たちに毒麦のたとえを説明されています。そこで主イエスは弟子たちに「刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(マタイ13:40)と言われています。
主イエスは、わたしたちにわたしがこの世に来て、神の収穫の時は始まっていると宣言されました。収穫の主、すなわち、主イエス・キリスト御自身が、救い主として、憐れみを持ち、たくさんの神の民たちを大麦や小麦のように刈り取り、その穂を集められます。主イエスは、憐れみの主です。罪の中に、暗闇の世界に沈んでいるユダヤの民だけでなく、わたしたち異邦人たちも含めて、とても多くの者たちを神の御国に連れて行こうとされています。だから、人手が足りないと言われています。弟子たちに、そして、教会に、収穫の主に願って、このキリストの憐れみを、救いを知らせる働き手を増員してもらわないといけないと言われています。
それは、天使たちではなく、天使たちのように主なる神が遣わされる存在です。すなわち、主の弟子たちの派遣です。
主イエスは、わたしたちに「わたしに伝道の働き手の増員を祈りなさい」と言われています。わたしは、主イエスが牧師や伝道者だけが増えるように祈りなさいと命じられたのではないと思います。教会が今、キリストの罪の赦しの喜びを多くの人々に伝えることができるように、信徒一人一人が主の働き人となれるように祈りなさいと命じておられるのです。
礼拝の順序を昨年12月より変更し、礼拝の終わりに派遣の言葉と祝福の宣言を結び付けることにしました。主イエスが御覧になり、憐れまれている人々は本当に多いのです。わたしたちの教会は、小さな群れですが、主イエスは今もわたしたちを見て、わたしたちの家族を見て、わたしたちの住む町の人々を見て、深く憐れまれています。刈り入れ時は、刻一刻と近づいています。
主イエスの憐れみ、罪の赦しの喜びを、一人でも多くの人々に伝えるために、わたしたちは、わたしたちの教会に、わたしたちの改革派教会に、わたしたちの住む諏訪地方にある教会の中から多くの働き人を起こしてくださいと、主イエスに祈ろうではありませんか。
イエス・キリストの父なる神よ、今朝の御言葉を通して、主イエスが、今もわたしたちとわたしたちの家族、わたしたちの住む町の人々を見て、深く憐れんでくださっていることを感謝します。わたしたちが今神の審判の下にあるとはいえ、一人も滅ぼされる者がないことがあなたの願いです。あなたは、わたしたちに御自身の罪の赦しの喜びを人々に伝える神の働き人にしてくださいとわたしたちに祈るように願っておられます。わたしたち一人一人をお用いください。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。