マタイによる福音書説教01           主の2010411

 

 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけ、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。

 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジアを、ウジアはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。

 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティルをもうけ、シャルティルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。

                   マタイによる福音書第1章1-17節

 

説教題:「イエス・キリストの系図」

 本日よりマタイによる福音書を続けて、説教します。また今月より月1度第4主の日の礼拝説教において旧約聖書の詩編から説教します。

 今年より上諏訪湖畔教会は、経済的独立に向けてスタートを切りました。先月の全員懇談会において今後の進め方として礼拝の充実と伝道を話し合うことを決めました。わたしは、次のように理解しています。上諏訪湖畔教会の経済的独立のために、教会の霊的深化の具体的内容としての礼拝の充実と伝道が大切であると。

 そこでその二つのことを、聖書の御言葉を通して深めるために、マタイによる福音書と詩編を選びました。説教は、マタイによる福音書を月3回ないし、4回、詩編を月1回します。

 さて、マタイによる福音書は、その名のとおり、主イエス・キリストの12弟子、12使徒の一人、マタイによって書かれた福音書という意味です。キリスト教会は、昔からこの福音書は、徴税人をしており、そこから主イエスに弟子に召されたマタイが書いたと、伝統的に信じられてきました。

 引退された榊原康夫先生も、よく知られた『マタイ福音書講解』の中でキリスト教会の伝統に従って次のように説教されています。「マタイ『による』福音とは、イエスの弟子のひとりマタイが、いつでも、どこでも語りならわしていた物語の型を、文字で書きとめたもの、という意味なのです」(2)

 では、マタイはいつ、どこで、何の目的で、この福音書を書きとめたのでしょうか。

紀元70年代後半から80年代に、マタイはこの福音書を書きました。

その第1の根拠は、マタイ福音書がマルコによる福音書を第1資料に用いているからです。マルコによる福音書は、70年代に書かれたと考えられています。それを、マタイは資料に用いてこの福音書を書いたので、70年代後半から80年代と思われています。

その第2の根拠は、マタイは紀元70年のエルサレム滅亡を体験したものとして、主イエスのエルサレム滅亡の預言を物語っています。

書かれた場所は、シリアです。シリアのギリシア語を話す町です。シリアのアンティオキアで最初にこの福音書が使われたことが確認されています。

福音書は、キリスト教会のために書かれました。マタイ福音書も、28章の終わりに復活の主イエス・キリストが11弟子たちに大宣教命令をなさったことを物語ります。教会の使命は、伝道です。だから、シリアのアンティオキアの教会は、使徒パウロとバルナバを、異邦人伝道に遣わした教会です。

この福音書は、主イエスの弟子たちが異邦人たちに伝道しようとしていた状況の中で書かれました。そのために教会とキリスト者たちの心を一つにし、行動の指針を定めるために、この福音書を書きました。異邦人に伝道するために、教会とキリスト者たちがどのように心を一つにして、キリスト者としてのふさわしい行動をするのか、その指針を示すためにこの福音書を書きました。

今朝の週報に望月明牧師が教会にルツ記の説教集を贈呈してくださったことを報告しています。望月先生の説教集の「あとがき」に、望月先生が「『ルツ記』は大きな神学的テーマを持っており、そこで語られ、記されている『言葉』には重要な意味が込められているのです」とお勧めをされています。

聖書は無目的に読んでも意味はありません。マタイは、教会が異邦人に伝道するという目的を持って、この福音書を書きました。だから、この福音書の中の言葉には、異邦人への伝道という意図が至るところにあります。

マタイの時代のシリア教会は、ユダヤ人キリスト者の教会でした。だから、ユダヤ人以外の異邦人に伝道することが、この教会とユダヤ人キリスト者たちの願いでありました。

そのためにマタイは、この福音書の中でキリスト教会が旧約聖書の神の約束を実現した真のイスラエルであることを明らかにしています。また、異邦人に伝道するわけですから、主イエスを裁判にかけ、死刑を宣告したローマ人ピラトが、主イエスの無罪を信じ、その死に責任のないことを物語っています。主イエスの死の責任は、全面的にユダヤ人に負わされています。

わたしたちにとりまして、今日異邦人とは、誰でしょう。主イエスのことを知らない人々です。聖書を読んだことのない人、主イエスの死が、その人の罪の身代わりであることを知らない人々です。それは、身近な家族、友人、職場の仲間、サークルの仲間でしょう。わたしたちが日頃、接している方々です。

その方々に、わたしたちは、キリストを真の救い主として伝えるのです。

人は、何事でも、本物に心を動かします。それが貴金属であれ、小説であれ、料理であれ、お菓子であれ、わたしたちはそれが本物であれば、喜んで伝えるでしょう。あの医者は本物だ、名医だと分かれば、わたしたちは誰でも喜んで、あの病院の先生は名医だ、診てもらいなさいと、伝え、勧めます。

マタイ福音書も、同じです。キリスト教会こそ本物のイスラエルであり、主イエス・キリストこそ異邦人を救う本物の救い主であることを、喜びをもって異邦人に伝えようとしました。

マタイ福音書の冒頭に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。」とありますね。これは、217節の見出しです。

新約聖書を読まれる方は、多くが主イエス・キリストの系図で躓き、その先を読む気力を失います。

ところが、無意味に思える主イエスの系図こそ、異邦人にとって本物の救い主が、主イエス・キリストであることを、この福音書は大胆に伝えようとしています。

「アブラハムの子」とは、普通はユダヤ人を指します。ユダヤ人の先祖はアブラハムです。しかし、マタイは、異邦人に「あなたにとっての、真の救い主イエス・キリストは、神がアブラハムに異邦人の救いを約束されたことを実現してくださった」と、この系図から伝えているのです。

旧約聖書の創世記1223節と1718節に、主なる神がアブラハムに子孫とカナンの地をお約束になり、アブラハムの子孫から異邦人を救う救い主が現れることをお約束になりました。

マタイは、異邦人たちに主イエス・キリストこそ神がアブラハムになさった異邦人の救いの約束を実現された、異邦人を救う本物の救い主だと伝えているのです。

今も昔も、わたしたち人間は誰でも、この世からの救いと救い主を求めています。経済的困窮から、病気から、わずらわしい人間関係から、この世界から、そして死と死後の恐怖から、救われたいと思っています。

だから、いろんな偽りの宗教が現れ、消えていくのです。偽りの救い主が現れ、消えていきます。

しかし、イエス・キリストは本物の救い主です。真の神が約束された、わたしたちの歴史の中で神がわたしたち異邦人の救いを約束して下さった通りに実現してくださったお方です。

17節に、この系図が十四代ずつ、3つの時代にまとめられていますね。アブラハムの族長の時代からダビデ王まで、ダビデ王その子らの時代からバビロン捕囚まで、そして、ユダヤ人たちがバビロンに捕囚された時代から主イエスがお生まれになるまで。

この十四代の「14」は、「7」の2倍です。7は完全を現す数字です。神の約束が完全に行われ、約束どおり、主イエスがお生まれになり、主イエスは神の約束を完全に実行されて、異邦人を救われたことを証言しているのです。

また、この系図に4名の女性の名が出てきます。3節の「タマル」、5節の「ラハブ」、「ルツ」、6節の「ウリヤの妻」です。姦淫、遊女、異邦人の女性です。罪ある女性たちを通して神の約束が実現されたことを示して、この福音書は十字架に死なれた主イエス・キリストこそ異邦人たちを罪より救われる救い主であることを告げているのです。

さて、この主イエス・キリストの系図は、主イエスが生まれられたことで閉じられていますね。マタイは、異邦人のわたしたちにイエスがこの世に来られたことを、その意味を次のように伝えているのです。 

1にわたしたち異邦人を、1から新しく始めさせる救い主が現れたというメッセージです。主イエスに救われるとは、新しい人生を生きることです。自分中心の生きかたを捨て、救い主キリストと共に生きる新しい人生を。

2に神ご自身が御言葉によって異邦人の救いを約束した真実の救い主が、わたしたちの世界に来られた、この地上の歴史に現れられましたというメッセージです。

3に世界の救いは、主イエス・キリストが中心であるというメッセージです。

4にわたしたちは罪に汚れた家系から生まれる罪人であるが、キリストの十字架によってわたしたちは罪を赦され、罪から清められるというメッセージです。

キリストは新しい人間を創造され、その新しい人間の共同体こそ、キリスト教会なのです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりマタイによる福音書を学びます。異邦人伝道のために書かれた福音書です。わたしたちがこの福音書に励まされ、キリストを知らない家族、友人、この町の人々にキリストを伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 マタイによる福音書説教02            主の2010418

 

 

 

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

 

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 

                       マタイによる福音書第11825

 

 

 

 説教題:「イエス・キリストの誕生」

 

 

 

今朝は、マタイによる福音書から主イエス・キリストの誕生を学びたいと思います。

 

 18節から25節に主イエス・キリストの誕生の次第を物語っています。この物語の登場人物は、主イエスの父であるヨセフと夢に現れる神の御使いであります。

 

 福音書は、「母マリアはヨセフと婚約していた」と述べていますね。主イエスの時代、婚約は結婚と同じでした。だから、「二人が一緒になる前に」とは、彼らが婚約して一緒に暮らす前にということです。

 

それなのに、ヨセフは驚くべき事実に直面しました。それは、妻のマリアが聖霊によって身重になり、母となったことです。

 

18節の「母マリアは、・・・・・・明らかになった」という文章は、原文通りに訳しますと、「母マリアは、見出された」です。

 

 妻マリアは、夫ヨセフに「わたしは聖霊によって身重になった」と告げたのでしょう。しかし、この驚くべき事実を、誰が信じるでしょうか。ユダヤの人々は、マリアが姦淫して赤ちゃんを身ごもったと思うでしょう。そして、マリアは姦淫した女として石打ちの死刑に処せられるでしょう。

 

福音書は、夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、密かに離縁しようと考えたと述べていますね。

 

「正しい人」というのは、ディカイオスというギリシャ語であり、「義人」と訳されています。

 

国語辞典で「義人」を調べますと、「正義を守る人」、「自分の利益を考えず、他人の苦しみを救う人」とありました。

 

マタイ福音書がヨセフを「正しい人」と述べたのは、ヨセフが相手を思いやる優しい心の持ち主だったからです。ヨセフは、自分の不名誉よりマリアを心から憐れみ、世間の中傷と姦淫を犯した者への制裁から彼女を守ろうとしたのです。そこで世間の人々に分からないように密かに離縁しようと、考えたのです。

 

夫ヨセフが思い巡らしていた時、ヨセフの前に主の使いが現れました。マタイ福音書は、ヨセフの夢の中に主の使いが現れたと物語ります。

 

主の使いは、ヨセフに20節と21節において次のように告げました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 

主の使いの告知は、私たちに2つのことを教えています。第一にヨセフがマリアと結婚することで、主イエス・キリストはヨセフの子とされ、ダビデの子孫として生まれた救い主となられたのです。第二に主の使いは、ヨセフに聖霊によって生まれる男の子の使命を伝えています。主の使いは、ヨセフに男の子を「イエス」と名付けよと命じて、「この子は自分の民を罪から救うからである」と伝えました。

 

この男の子は、聖霊によって処女マリアから生まれ、罪を除いては私たちと同じ人間性と魂をもってこの世に来られるのです。そして、完全に神に服従して、十字架への道を歩まれるのです。それによって私たち異邦人は、主イエス・キリストによって罪を赦され、救われるのです。

 

さらに主の使いは、ヨセフに23節にこう告げていますね。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

 

主イエス・キリストの誕生は、昔の預言者イザヤによって、今から2700年昔に預言されていたのです。マタイによる福音書は、預言者イザヤが預言したとおり、主イエス・キリストが聖霊によって処女マリアから一人の男の子として生まれたことを証言しています(イザヤ書7:14)。そして、この救い主の使命は、異邦人たちを罪から救うことでありました。

 

こうしてマタイによる福音書は、主イエス・キリストの誕生と生涯を通してインマヌエル、「神が我々と共におられる」という恵みの体験を証言します。キリストの教会とキリスト者たちが主イエス・キリストによって体験したことは、神が我々と共にいてくださるというと喜びでありました。

 

わたしたちが今朝、ここでキリストの復活を記念し礼拝をしますのは、私たちのために聖霊によってマリアから生まれたキリストが、わたしたち異邦人を罪から救うためにわたしたちの身代わりとして十字架に死に、わたしたちの永遠の命の保証として死人の中から復活し、このキリストによって「神が我々と共におられる」という恵みを体験しているからであります。

 

マタイによる福音書は、初めから終わりまで、主イエスの誕生から復活に至るまで、このインマヌエルに貫かれています。聖霊によって処女マリアから生まれられた主イエス・キリストは、わたしたちの罪の身代わりに十字架に死に、すべてが終わったのではありません。わたしたちの永遠の命の保証として死人の中から甦られました。そして、主イエス・キリストは、天に上げられ、今も生きておられます。

 

「神、我々と共にいます。」ですから、この世にキリストの体なる教会が存在しています。毎週日曜日に世界中の教会で礼拝が行われています。キリストの福音が語られ、聖餐式が行われ、洗礼式が行われています。クリスマスが祝われ、イースターが祝われ、ペンテコステが祝われています。

 

わたしたちの世界にキリストが共にいてくださることを、礼拝を通してわたしたちは恵みの体験をしています。

 

今朝の御言葉から、特にヨセフから次のことを学びましょう。ヨセフがわたしたちキリスト者の模範です。彼が正しい人であるように、わたしたちキリスト者も正しい人です。キリストの十字架によって、わたしたちはわたしたちの罪を赦された神さまの愛と憐れみを知りました。隣人に憐れみの心を持って接しましょう。第二に神さまに徹底的に服従したヨセフに従いましょう。24節から25節です。夢の中で主の使いがヨセフに語りました御言葉にヨセフは徹底して従いました。

 

聖霊なる神さまは、毎週の礼拝において神さまの御言葉を通して私たちを新しい人間に造り変えて下さいます。神さまを人に造られた聖霊は、わたしたちをキリストに似た者に造り変えてくださいます。キリストが十字架の死に至るまでも父なる神さまに従順に従われたように、聖霊は私たちを聖書の御言葉に信頼し、キリストに従順に従わせて下さるのです。キリストは、クリスマスに天からわたしたちの地に来てくださいました。そして、キリストは再びわたしたちの地に来られて、私たちを新しい永遠の命に甦らせ、わたしたちを神さまの御国へと引き上げてくださいます。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちのために御子キリストを、聖霊によってマリアよりこの世に生まれさせてくださり、わたしたちの罪をお救いくださったことを感謝します。御子キリストの十字架と復活のゆえに今わたしたちは、神われらと共にいてくださる恵みを、この礼拝を通して体験できることを感謝します。願わくは、わたしたちを永久にキリストと共に歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。