ヘブライ人への手紙説教31 2022年11月13日
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。
それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。
「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、
むしろ、わたしのために
体を備えてくださいました。
あなたは、焼き尽くす献げ物や
罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。
そこで、わたしは言いました。
『御覧ください。わたしは来ました。
聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、
神よ、御心を行うために。』」
ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかし、キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
「『それらの日の後、わたしが
彼らと結ぶ契約はこれである』と。
主は言われる。
『わたしの律法を彼らの心に置き、
彼らの思いにそれを書きつけよう。
もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
ヘブライ人への手紙第10章1-18節
説教題:「罪のための唯一の犠牲」
今朝は、先週に続けてヘブライ人への手紙第10章1-18節の御言葉をお読みしました。その中から、11-18節の御言葉を学びましょう。
前回は、ヘブライ人への手紙第10章1-10節が二つの部分から成り立っていますことを学びました。1-4節と5-10節です。1-4節で、律法と言われていますのは、エルサレム神殿における祭儀規定です。それは、律法に従って毎年絶えず献げられる焼き尽くす献げ物、罪の贖いのための動物犠牲のことです。
これらは、「やがて来る良いことの影」であります。すなわち、本体であるキリストの影でした。だから、動物犠牲そのものに「実体はありません」。礼拝者を清くすることも心を変えることもできません。それゆえにヘブライ人への手紙は、「神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。」とはっきり、述べています。
罪のための贖いである動物犠牲は、将来来られるキリストの贖いの予型であり、そのものに罪を贖う力はありません。だから、ヘブライ人への手紙は、3-4節でこう述べています。「ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。」
キリストが来られるまでユダヤ人たちは神殿において罪のための動物犠牲を献げ続けました。彼らの罪の意識が消えなかったからです。むしろ、動物犠牲を献げるごとに罪の記憶がよみがえって来たのです。そこでヘブライ人への手紙は、こう結論付けるのです。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。」
だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに5-10節で、キリストの十字架の絵を見せてくれたのです。
神殿における動物犠牲の血は、わたしたちの罪を取り除くことが出来ません。将来来られるキリストの十字架の予型でした。そして、予型の本体であるキリストがこの世に来られました。
キリストは、5-7節で詩編第40篇7-9節の御言葉を引用して、正しい礼拝と誤った礼拝について述べられました。キリストは、こう言われました。第一に神は動物犠牲を好まれないと。そこでキリストの体を備えられたと。第二にキリストは聖書に証しされている通り、神の御心を行なうために、この世に来られたと。
そこでヘブライ人への手紙は、詩篇40編7-9節のキリストの言葉を、8-9節で解釈しています。ヘブライ人への手紙は、詩篇40編7-9節のキリストの御言葉を8- 9節前半で確認し、9節後半から10節で、こう解釈しています。「第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」
ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えたいことは、神の御心はキリストの十字架であるということです。神は御自身の御心を行われ、ただ一度わたしたちの罪のためにキリストを十字架にかけられました。それによって神殿における祭儀規定、すなわち、動物犠牲を廃されました。
父なる神の御心にキリストは服従されました。ただ一度御自身の体をゴルゴタの丘の、その十字架につけられました。その十字架のキリストの御血潮によって、わたしたちの罪は赦され、
わたしたちは清められました。わたしたちの心は変えられ、神に近づき、永遠の救いに与かっているのです。
これがヘブライ人への手紙が10章1-10節で述べたかったことです。
本日は、ヘブライ人への手紙11-18節の御言葉を学びましょう。
ヘブライ人への手紙は、エルサレム神殿において祭司たちが献げる動物犠牲とキリストの唯一の犠牲を対比して、キリストの唯一の犠牲が優れていることを証明しています。
11節でヘブライ人への手紙は、神殿において大祭司も他の祭司たちもすべて毎日の礼拝で同じ動物犠牲を繰り返し献げるが、その動物犠牲は決してわたしたちの罪を取り除くことは出来ないと述べています。
ヘブライ人への手紙は、ユダヤ教の祭儀の空しさを述べているのです。神殿で毎日献げられる動物犠牲が人の罪を取り除くことが出来ないからです。
ところが、ヘブライ人への手紙は、12節でキリストがわたしたちの罪のために唯一の犠牲を献げられたと述べています。ユダヤ教の祭司たちのように空しい動物犠牲を毎日繰り返すのではなく、たった一回限り、御自身をわたしたちの罪のための犠牲として、ゴルゴタの丘の十字架に献げられました。
そして、キリストは、今は永遠に父なる神の右の座に着かれています。
12節後半から13節のヘブライ人への手紙の御言葉は、詩篇110編1節の御言葉に基づいて記している文章です。
「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。』」この御言葉は、メシアが全能の神の右に座すという思想を生み出しました。足台とするとは、支配するという意味です。主なる神がわが主のために敵を支配してくださるので、わが主は主なる神の右の座に座しておればよいという、ダビデ王の歌です。
ヘブライ人への手紙は、ダビデの110編1節をそのままキリストに適用しました。キリストは、ただ一度御自身を十字架に犠牲として献げられ、今は父なる神の右に座され、敵たち、すなわち、悪魔やその仲間の敵たちが御自身に支配されるまで、待ち続けておられるのです。
神の右に座されているキリストは、高挙のキリストです。サタンに勝利されたキリストです。
キリストは再臨されていません。今の世界はキリストの敵であるサタンが勢力を奮っています。しかし、サタンとこの世の悪の勢力は必ず滅びると、ヘブライ人への手紙は確信しているのです。
そして、キリストが彼の全ての敵を支配され、勝利される時、この世の終わりにキリストがただ一度犠牲となられ、わたしたちの罪を贖われた救いが完成するのです。
ヘブライ人への手紙は、14節でこう述べています。キリストは唯一の献げ物によって、罪から清められた人々を、永遠に完全なる者として、御自身の救いを完成されると。
このことをヘブライ人への手紙は、聖霊の証しである聖書の御言葉によって証明しようとしています。16-17節の旧約聖書のエレミヤ書31章33-34節の御言葉です。
ヘブライ人への手紙は8章10-12節でエレミヤ書31章33-34節の御言葉を引用しています。ここではその引用した御言葉を、さらに要約した形で記しています。
エレミヤ書の要約した記述は、ヘブライ人への手紙が新しい契約に注目するのです。わたしたちキリスト教会はキリスト、十字架のキリストを仲保者として、神と新しい契約を結びました。その契約は、昔神の民イスラエルがシナイ山で結んだ契約とは違います。シナイ契約は、神の民たちの前に神の十戒の石の板が置かれました。彼らは、その十戒を守れませんでした。
ところが新しい契約は、神の律法がわたしたちの心に置かれます。そして、十字架のキリストの罪の贖いによってわたしたちは罪を赦されています。旧約の神の民たちのように神殿で毎日犠牲を献げて、罪の記憶がよみがえることはありません。
ただ一度キリストの十字架によって、わたしたちの罪は赦されたのですから、ヘブライ人への手紙が18節で述べていますように、罪を贖いための動物犠牲は必要ではありません。わたしたちには、十字架のキリストがいてくださるのですから、祭儀規定、すなわち、動物犠牲は必要ではありません。
わたしたちは、礼拝を改訂しました。罪の告白と赦しの宣言を入れました。讃美歌を新しい「讃美歌21」に替えました。
これからも礼拝の順序に変更があるかもしれません。しかし、プロテスタント教会の礼拝は、このヘブライ人への手紙が確信をもって述べていますように、十字架のキリストの罪の赦しがあるところでは、もはや動物犠牲という祭儀は必要ないうことです。
古いものは過ぎ去り、新しいものが来たのが、ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えようとするキリスト教会の神礼拝なのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日はヘブライ人への手紙第10章の11-18節の御言葉を学びました。十字架のキリストが保証人、また仲保者であられる新しい契約もとでわたしたちは、キリストのゆえに神がわたしたちの罪を思い起こされないという恵みを得ました。感謝します。
それゆえ教会の礼拝で動物犠牲を献げる必要はありません。
古いものは過ぎ去り、新しいものがわたしたちの教会に来ました。御言葉と礼典です。
どうかわたしたちが毎週の礼拝で御言葉を聴き、洗礼と聖餐の恵みに与るごとに、キリストの十字架のゆえに神はわたしたちを愛され、わたしたちの罪を赦してくださり、わたしたちの罪を思い起こされないという喜びで見たいしてください。
どうか十字架のキリストによって罪を赦された喜びに、わたしたちの家族を、この町の人々を招いてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教32 2022年11月20日
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。
「復讐はわたしのすること、
わたしが報復する」
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見世物にされたこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
信仰によって命を確保する者です。
ヘブライ人への手紙第10章19-39節
説教題:「信仰によって命を得る者」
今朝は、ヘブライ人への手紙第10章19-39節の御言葉をお読みしました。今朝は、その中から、19-31節の御言葉を学びましょう。
ヘブライ人への手紙が三つの説教から成り立っていますことを、以前にお話ししました。第一の説教は、ヘブライ人への手紙第1章1節から第4章13節です。第二の説教が第4章14節から第10章31節です。そして、第三の説教が第10章32節から13章17節です。
今朝お読みしました御言葉は、第二の説教の終わりの部分の奨励と勧告と第三の説教の初めの部分の奨励が記されています。
第10章19-31節は、第二の説教の終わりの奨励と勧告の御言葉です。
第二の説教で、ヘブライ人への手紙はキリストの大祭司職とキリストのただ一度の犠牲の御業について語りました。ユダヤ教の大祭司職と祭司たちが毎日祭儀規定に従って献げた動物犠牲がわたしたちの救いに無効であるのに対して大祭司キリストと彼のただ一度限りの犠牲の有効性を力強く語りました。
わたしたちの大祭司であるキリストのみが、御自身のただ一度の犠牲によってわたしたちを神に近づけることがおできになるのです。罪に汚れたわたしたちが十字架のキリストを通して天におられる神に近づける道を開いてくださったのです。
この希望を告白するのが、この地上の教会です。この世に生きるわたしたちキリスト者です。わたしたちは、大祭司キリストの十字架の犠牲を通して、神に罪を赦され、完全に神に仕える者となることができるのです。
だから、この手紙は第10章19-31節で、第二の説教を締めくくって、わたしたちに大祭司キリストと彼の一度限りの犠牲を通して与えられた希望を固守しつつ、神の恵みの御座に近づくようにと奨励し、また、近づかない者に対して勧告するのです。
10章19節でヘブライ人への手紙は、「兄弟たち」と呼び掛けて、「わたしたちはイエスの血によって天の聖所に入れる特権が与えられており」と述べています。
この特権を、ヘブライ人への手紙は20節で、イエスが御自身の犠牲によって開いてくださった、誰も通ったことのない新しい生きた道であると述べています。
ヘブライ人への手紙は、9章8節で「第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていない」と述べていました。ユダヤ教の神殿での祭儀規定、すなわち、動物犠牲では天の聖所への道は鮮明でありませんでした。しかし、大祭司キリストのただ一度の犠牲の血によって。それを根拠としてわたしたちの目に天の聖所への道が鮮明になりました。
キリストは、聖所と至聖所を区切り、隔てていた垂れ幕を取り除かれました。だから、わたしたちは、キリストが入られた天の聖所、すなわち、御国に至る道を鮮明に確信できるのです。
そして、天にある神殿に今大祭司であるキリストがいてくださいます。そのキリストの執り成しによって、22節でヘブライ人への手紙は、わたしたちの「心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。」と述べています。聖霊が教会における洗礼を通してわたしたちをキリストの十字架の血によって清めてくださることを述べているのです。
ユダヤ教では、宗教的汚れを水で洗い流しました。しかし、人の心の汚れまで水で洗い流すことができませんでした。大祭司キリストの御自身の血によってわたしたちの心の汚れも、良心の罪の痛みも洗われたのです。
だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに22節後半で「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」と述べています。
神に近づける者には、「信頼」と「真心」があります。これは、神の恵みの契約に必要な要素であります。主なる神はアブラハムと恵みの契約を結ばれました。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」という約束です。主なる神はこの約束に真実なお方です。だから、23節でヘブライ人への手紙は「約束してくださったのは真実な方なのですから」と述べているのです。
主なる神がアブラハムを始め彼の子孫に、そして神の民イスラエルに、今のわたしたちの教会に対して恵みの契約に真実であられるので、わたしたちも、主なる神に信頼し、真心をもって主なる神に答えるべきです。そのようにヘブライ人への手紙は初代教会のユダヤ人キリスト者たちに、そして、今のわたしたちにも呼びかけているのです。
そこでヘブライ人への手紙は、23—25節で次のように奨励しています。「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。」
ヘブライ人への手紙は、三つのことを奨励しています。第一に希望の告白を固く守ろう。第二に愛と善行に励もう。第三にキリストの再臨を待ち望みつつ、信仰生活に励もう。
教会がしっかりと守るべきは、教会の信仰告白です。キリストに望みを置く信仰告白です。キリストを通して神が与えて下さった希望に対する教会の告白です。一言で言えば、「わたしたちの国籍は天にある」という教会の告白です。そこからキリストはわたしたちを救ってくださいます。
教会は、キリストにある兄弟姉妹の交わりであり、キリストはわたしたちに互いに愛し合いなさいと命じられました。そして初代教会はその愛から貧しい者への献金、施しをしました。それが愛ある善行です。それを今日的に理解しますと、教会の執事活動です。愛する兄弟姉妹に、愛する隣人と私たちに与えられた神の賜物を分かち合うことです。そして、主日礼拝を休まないで、共に集まり、信仰によって互いに励まし合い、共に再臨のキリストを待ち望むことです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに神の裁きに自らを委ねないようにと26-31節で警告の言葉を述べて、この第二の説教を閉じています。
警告の第一は、故意の罪です。自覚して主なる神に、キリストの反逆することです。彼にはもはや罪を赦してもらえる犠牲は残っていません。ただ一度限りのキリストの犠牲を軽んじたからです。彼は主なる神の審判を待つのみです。
警告の第二は、主なる神の手に落ちること、すなわち、主なる神の刑罰に身を委ねることは恐ろしいということです。主イエスは、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と言われています。また、主イエスは人をつまずかせる者の災いを述べられ、「つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。そろったままで火の地獄に投げ込まれるよりはましである」と言われています(マタイ18:6-9)。
まさに教会の主日礼拝は、ヘブライ人への手紙にとって神の子の御言葉が語られ、大祭司キリストのただ一度の犠牲が語られ、信じる者たちには天の御国への道が鮮やかに示されています。しかし、神の子、大祭司キリストとそのただ一度限りの犠牲を軽んじる者たちには神の裁きが、恐ろしい運命が待ち構えているのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちを脅して、第二の説教を閉じたのではありません。全能の神の御手から、わたしたちは誰も逃れることはできません。生きていても、死んでいても人は誰もが神の裁きに身を委ねなければなりません。だからこそ、神の子、大祭司キリストがただ一度御自身をわたしたちの罪の身代わりに犠牲とされたということが、わたしたちにとっては大きな福音なのです。
こうしてヘブライ人への手紙は、次週の10章32節から第三の説教に入ります。信仰によって命を得た者たちの主なる神への信頼の物語を綴るのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日はヘブライ人への手紙第10章19-31節の御言葉を学びました。教会の希望についての告白を固く守り、恵みの御座に近づこうと励ましてくれていますヘブライ人への手紙を感謝します。
どうか、十字架のキリストに目を向けて、わたしたちが御国に至る新しい道を鮮明に見させてください。主日礼拝で御言葉を聴き、洗礼と聖餐の恵みに与るごとに、わたしたちは主イエスにあって兄弟姉妹であり、わたしたちの国籍が天にあるという希望で満たしてください。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに奨励の言葉だけではなく、警告の言葉も語ります。どうかその御言葉を真摯に受け止めて、わたしたちに悔い改めの心を与えて下さい。
どうかわたしたちの家族を、この町の人々を、クリスマスに招くことができるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教33 2022年12月4日
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。
「復讐はわたしのすること、
わたしが報復する」
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見世物にされたこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
信仰によって命を確保する者です。
ヘブライ人への手紙第10章19-39節
説教題:「者警告ー赦されない罪」
アドベントの第二週を迎えました。クリスマスに備えると共に、キリストの再臨を待ち望もうではありませんか。
今朝は、ヘブライ人への手紙第10章19-39節の御言葉をお読みしました。その中から、26-31節の御言葉を学びましょう。
ヘブライ人への手紙は、10章26節で「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」と述べています。これは、警告の言葉です。」
「もはや残っていません」とは、存在していないという警告です。これは、キリスト教を捨ててユダヤ教に戻ろうとする者たちへの警告でしょう。
ヘブライ人への手紙は、この警告を親身になってしています。だから、「わたしたちは」という主語を用いてユダヤ人キリスト者たちに警告しています。
ユダヤ人キリスト者の中にキリスト教を捨てて、ユダヤ教に戻ろうとする者たちがいたのでしょう。それは、背教という罪です。
ヘブライ人への手紙は、26節で「わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば」と述べています。教会の福音宣教によって十字架のキリストによる罪の贖いということを、彼らは知り、キリストを主と告白し、洗礼を受けてキリスト者になりました。
ところが、再びユダヤ教に戻ろうとしているのです。それは背教の罪であり、ただ一度わたしたちの罪のために自らの体を犠牲としてささげられた十字架のキリストを拒むことです。
だから、ヘブライ人への手紙はこのように警告するのです。もしわたしたちがユダヤ教に戻り、動物犠牲の祭儀によって罪を赦してもらおうとしても、ユダヤ教の祭儀はキリストが来られ、ゴルゴタで十字架につけられたとき、廃棄されたではないか。だから、わたしたちにはもう十字架のキリスト以外に罪を赦してもらえるものはこの世に残っていない、存在していないのだよと。
そして、ヘブライ人への手紙は、背教の罪を犯そうとするユダヤ人キリスト者に向かって27節でこう警告しています。「ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。」
新改訳聖書2017もここは、「ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす火を、恐れながら待つしかありません」と訳しています。
これでは警告の言葉より裁きの言葉です。警告の言葉は、罪を犯す者を裁くのではなく、彼らがどのような事になるかを知らせ、留まらせることでしょう。
新約学者田川健三氏がこのところをこう訳されています。「(その者に対しては)むしろ、裁きの恐ろしい展望と反対者を、食いつくそうとする火の執念がある」。田川氏は、この御言葉に次のようにコメントされています。「その展望そのものが恐ろしい、と言っているので、罪を犯した者が『恐れつつ待つ』と言っているわけではない」と。
ヘブライ人への手紙はユダヤ教に戻る者たちを裁いているのではありません。彼らの行く末を展望しているのです。キリストとキリストの一度限りの犠牲を捨てた彼らの行く末を展望すると恐ろしいと警告しているのです。火がすべてのものを焼き尽くすように、主の裁きが彼らを焼き尽くすことを、ヘブライ人への手紙は見通しているのです。だから、彼らの背教の罪、キリストから遠く離れることは恐ろしい罪だよと、この警告の言葉を述べているのです。
さらにヘブライ人への手紙は、ユダヤ人キリスト者に理解しやすいように一つの例を挙げて述べています。それは、モーセ律法の違反者たちを例です。
10章28-29節です。「モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。」
旧約聖書の申命記17章6節の御言葉を取り上げています。二人、三人の証言によって死刑に処せられるのは、偶像礼拝者です。ユダヤ人たちはモーセを通してシナイ山で主なる神と契約を結びました。その時に主なる神は彼らに十戒を授けられました。そこにおいて主なる神は彼らに他の神々を礼拝し仕えることを禁じられました。主なる神は、偶像礼拝者たちを、背教者たちを、情け容赦なく死刑をもって裁かれました。
キリストの教会は、主なる神と新しい契約を結びました。それは、モーセの時代の古い契約に勝るものでした。第一に神と教会の仲保者は神の子キリストです。第二にキリスト者を清めるのはキリストの一度限りの犠牲の血です。第三に教会は十戒の石の板ではなく、聖霊を授けられました。そして、聖霊はキリスト者の心に真理と自由を与えて下さいました。十字架の主イエスを救い主と信じる心を、キリストの十字架がわたしたちの罪のためであることを悟らせてくださいました。
それゆえにヘブライ人への手紙は、キリストから離れようとするユダヤ人キリスト者たちに警告するのです。モーセ律法に違反する者の背教の罪が死刑であるならば、神の子キリストを捨て、聖霊を汚す者たちの罪に対する刑罰はどのようなものであろうかと。
そして、ヘブライ人への手紙のこの警告の言葉は、わたしたちにヘブライ人への手紙6章4-6節の御言葉を思い起こさせるのです。「一度光に照らされて、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかれるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」
わたしたちは、キリストのただ一度限りの犠牲と聖霊の恵みによって、この教会の群れに加えられました。そして、聖霊に導かれて、毎週の礼拝で神のすばらしい御言葉を聴く恵みを得ています。さらに聖餐の恵みにあずかり、天の祝福をいただき、約束されています。この喜びに与りながら、キリストを捨て、聖霊を拒むことは主なる神を、キリストを侮辱することに外なりません。
だからこそヘブライ人への手紙は、わたしたちに10章30-31節で、次のように警告するのです。
「「復讐はわたしのすること、
わたしが報復する」
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」
警告の言葉として大切なことは、次のことをわたしたちが知ることです。聖書の神は、必ず神に向かって罪を犯す者たちを裁かれると。
神の裁きの恐ろしさという現実を、リアリティーを、知らなければなりません。
聖書を読むと、その説き明かしである神の御言葉を聴いていると、どこを読んでも、何時神の御言葉を聴いても、ヘブライ人への手紙が記すように、主なる神の裁きの現実に出会うでしょう。
聖書を学ぶ集いで今十二小預言書のひとつ、ホセア書を学んでいます。預言者ホセアは禍の預言者です。北イスラエル王国の神の民は、モーセ律法に違反し、バアルの神をわたしたちの主と呼んで、偶像礼拝をしています。だから、主なる神は預言者ホセアをとおして、彼らに繰り返し主なる神の裁きを語られます。主が語られた御言葉には力があり、リアリティーがあります。だから、神の御言葉は裁きの現実となり、実際に北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、神の民たちは捕囚されました。
だから、主なる神は復讐の神であり、御自身を捨てた神の民に報復されました。それが、聖書が物語る神の民イスラエルの歴史です。
ヘブライ人への手紙は、警告の言葉を「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」と述べて、閉じています。
聖書の主なる神は、生ける神です。石や木で作られた死んだ神ではありません。必ず主なる神は、御自身に反逆する者たちを裁かれるのです。その裁きは、永遠の滅びです。
どうかゴルゴタの丘の十字架での主イエスに目を留めようではありませんか。「わが神わが神、何故わたしを見捨てられたのか」と叫ばれる主イエスを見て下さい。その御苦しみが我が身にも起こるのだと想像してください。あなたがたは主なる神の恐ろしい裁きに、わが身を委ねたいですか。まさにヘブライ人への手紙は想像できないほどの、まさに目が眩むほどの恐怖を覚えたことでしょう。
そして、わたしは、今朝のヘブライ人への手紙のこの警告の言葉を読み、ヘブライ人への手紙がわたしたちに主なる神の裁きの恐ろしさという警告で、留めてくれていることに、わたしたちは希望を見いだそうではありませんか。
なぜなら、わたしたちはまだこの恐ろしい主なる神の裁きを身に受けていません。ヘブライ人への手紙は、神の子キリストだけがただ一度限り犠牲となられて、ゴルゴタの丘の上でこの恐ろしい神の裁きを受けて下さったのです。
わたしたちは今アドベントの季節を過ごしています。神の子キリストが生まれられたクリスマスを祝う準備をしています。
今年のクリスマス礼拝は、「羊飼いのクリスマス」という題でわたしはクリスマス説教をしようと思います。羊飼いたちは、天使に告げられて、手ぶらで誕生された主イエスを拝みに行ったでしょう。東方から来た博士たちは、それぞれが献げ物を携えて、ベツレヘムに生まれられた主イエスを訪れ、礼拝しました。
わたしたちは、羊飼いや博士たちのように手ぶらで、あるいはささやかな献げ物を携えてクリスマス礼拝にやって来るでしょう。
そして、クリスマス礼拝でわたしたちが礼拝する幼子主イエスは、わたしたちのためにただ一度御自身を犠牲として献げて下さるのです。
なぜなら幼子主イエスは、光の世界からこの世の罪の闇の中に来られて、この闇の世に捕らわれ、主なる神の恐ろしい裁きを避けられないわたしたちのために、あのゴルゴタの丘の上で神の恐ろしい裁きを受けるために生まれて下さったのです。
だから、わたしたちは神の御子キリストのみを信頼し、この方のゆえにわたしたちはこの世で罪を赦されて、御国に永遠に生きるという希望の光が与えられることを信じようではありませんか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日はヘブライ人への手紙第10章26-31節の御言葉を学びました。ヘブライ人への手紙の警告の御言葉に耳を傾けました。そして、警告の言葉の中にもキリストの福音を聴く喜びが与えられたことを感謝します。
どうか、わたしたちを十字架のキリストから目を逸らさせないでください。どうか、主日礼拝から離れることなく、常に神の御言葉を聴き、聖餐の恵みに与からせてください。
キリストは神であられたゆえに、ゴルゴタの丘の十字架の神の裁きに耐えられました。わたしたちには耐えられに神の恐ろしい裁きです。
それゆえにわたしたちは祈ります。どうかわたしたちを試みに遭わせないで、悪からお救いください。どうか御言葉と聖餐の恵みの中にわたしたちを留まらせ、わたしたちの国籍が天にあるという希望でわたしたちの心を満たしてください。
どうか、聖霊なる神よ、今朝の警告の御言葉を、わたしたちが真摯に受け止めて、わたしたちの心に悔い改めの心を与えて下さい。
どうかわたしたちの家族を、この町の人々を、クリスマスのおはなし会に、クリスマス礼拝に招くことができるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教34 2022年12月11日
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。
更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。
もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。
「復讐はわたしのすること、
わたしが報復する」
と言い、また、
「主はその民を裁かれる」
と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください。あざけられ、苦しめられて、見世物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にしたし、また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。
だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
わたしの正しい者は信仰によって生きる。
もしひるむようなことがあれば、
その者はわたしの心に適わない。」
しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
信仰によって命を確保する者です。
ヘブライ人への手紙第10章19-39節
説教題:「信仰と堅忍」
アドベントの第三週を迎えました。クリスマスも間近となりました。心を整えてクリスマスに備えて行きましょう。
今朝も、ヘブライ人への手紙第10章19-39節の御言葉をお読みしました。19節に「奨励と勧告」という見出しがありますね。19-39節は二つの奨励と一つの警告が一つのまとまりのある文章になっています。二つの奨励に挟まれて一つの警告があります。ですから、奨励―警告―奨励という順で述べられた一つのまとまりがある文章です。
ヘブライ人への手紙は、キリストのただ一度限りの犠牲によって贖われた読者たちを19-25節でキリストの道を歩み、神に近づきましょう。互いに励まし合い主の日の礼拝に励みましょう、と励ましています。
続いて26-31節でヘブライ人への手紙は背教後に罪の赦しはないと警告し、神の裁きに身を委ねることは恐ろしいことですと勧告しています。
そして、今朝の奨励の御言葉に続いています。ヘブライ人への手紙は32-39節でユダヤ人キリスト者たちに彼らが他のキリスト者たち同様に迫害を受け、患難を耐えてきた経験を思い起こさせて、今必要なのは信仰を続ける忍耐であると励ましています。そして、11章で信仰を続けるために忍耐した者たちについて述べているのです。
32節の御言葉を見て下さい。「あなたがたは、光に照らされた後、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してください」
ヘブライ人への手紙は、読者たちに、ユダヤ人キリスト者たちに、「初めのころのことを、思い出してください」と述べています。彼らがユダヤ教からキリスト教に改宗した最初のころを思い出してくださいと、ヘブライ人への手紙は述べています。
「光に照らされた後」とは、使徒たちの福音宣教によって神の真理に照らされ、すなわち、聖霊の導きで彼らは真理に導かれてキリスト者になりました。
その後は、彼らの信仰生活は多くの苦難との戦いでした。「戦い」という言葉は、運動競技で選手が賞を目指して戦うことを意味します。使徒パウロがフィリピの信徒への手紙で信仰者の生活を、賞を目指して競技する選手に譬えています。ヘブライ人への手紙も同じです。34節でヘブライ人への手紙が「自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。」と述べていますね。ユダヤ人キリスト者たちはキリスト者になった最初のころ、迫害や患難とよく戦ったのです。
その戦いは、孤独な戦いでありませんでした。同じように迫害と患難と戦う仲間との連帯がありました。
33-34節前半です。「あざけられ、苦しめられて、見世物にされたこともあり、このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。実際、捕らえられた人たちと苦しみを共にした」
ユダヤ人キリスト者たちは、同胞のユダヤ人から迫害を受けました。公の場で悪口を言われました。暴行を受けました。そして異邦人たちからも町の習慣に従わないので、暴行を受けました。
ユダヤ人キリスト者たちと異邦人キリスト者たちは同胞から迫害を受けただけではありません。ローマ帝国の官憲に捕らえられました。そして、ローマの競技場等で観衆の見世物にされました。動物の毛皮を着せられ、観衆が見ている前でライオンの餌食にされる見世物にされました。
彼らは、彼らの仲間が迫害され、大きな患難を受けたことに連帯しました。そして、彼らは仲間の苦難の経験に寄り添いました。
彼らは、迫害を受けても、財産を奪われても、様々な弾圧を受けても、御国の約束を信じるゆえに積極的に自らの苦難を引き受けたのです。
だから、ヘブライ人への手紙は、34節後半でこう述べているのです。「また、自分がもっとすばらしい、いつまでも残るものを持っていると知っているので、財産を奪われても、喜んで耐え忍んだのです。」
神がキリスト者に約束されたものは、キリストであり、御国です。これらは持続するものです。この世の財産のように無くなり、朽ちるものではありません。いつまでも持続するすばらしいものです。
だから、ヘブライ人への手紙は、13章8節でこう述べているのです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」と。
すべてのキリスト者たちは、永遠に変わることのないキリストのゆえにこの世においてすべてのものを奪われ、無くしても喜んで忍耐できるのです。
だから、ヘブライ人への手紙は、読者に向かってキリストの福音を聞いて、得られた真理に、信仰の確信に留まるように奨励しています。
35節です。「だから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。」
これは旗色を鮮明にせよとの奨励です。この世においてわたしはキリスト者ですということをはっきりさせて生活せよと勧めているのです。
その大胆さには、裏付けがあるからです。大祭司キリストの一度限りの犠牲によってわたしたちキリスト者は罪を赦されました。神の子の身分を与えられ、神の御国を相続しました。この世の終わりに、キリストが再臨され、神の審判がなされる時に、わたしたちはその報いを受け取ることができるのです。
その時が来ていません。今年もアドベントの時を迎えています。しかし、キリストは約束通り、再臨されてはいません。わたしたちはキリストの再臨と約束を待ち続けているのです。
だから、ヘブライ人への手紙は、36節でこう述べているのです。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」
アダムとエバの罪以来、わたしたち人間は、目に見えるものへの誘惑に弱いです。わたしたちは、信仰によって約束された目に見えないものを待ち望むことよりも、この世でわたしたちの目に見える豊かさを求めようとします。この世においてキリスト者は、しばしば目の欲に心を奪われます。だから、的外れに生きることがあります。これでは神の報いを得られません。
そこでヘブライ人への手紙は36節でこう述べています。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」
ヘブライ人への手紙が言っていることは、神の意志を行なうことを十分に実践した結果として約束されたものを受け取るためには、忍耐、すなわち、聖徒の堅忍が必要であると。
ヘブライ人が言う「忍耐」は、ただ一度キリストの犠牲によって救われた者は常に救われているということです。キリスト者に対する神の堅持のことです。キリストによって救われた者は、決して滅びに逆戻りすることはなく、神の御力によって最後まで救いに至るように保持されるということです。
主イエスは、わたしたちに「天に成るごとく、地にも成させたまえ」と祈るように、主の祈りをお与えくださいました。主イエスは、聖霊の導きを通してわたしたちが神の御心を行えるようにしてくださり、その結果としてわたしたちを救いへと導かれ、御国を相続させてくださるのです。
そこでヘブライ人への手紙は、彼の主張を神の御言葉によって支持しています。37-38節です。旧約聖書のハバクク書2章3節で預言者ハバククは、このように主の御言葉を告げています。「たとえ、遅くになっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と。
それから38節の御言葉は、ハバクク書の2章4節の御言葉です。使徒パウロがローマの信徒への手紙1章17節とガラテヤの信徒への手紙第3章11節でハバクク書2章4節の御言葉を引用しています。有名な「義人は信仰によって生きる」という御言葉です。
ヘブライ人への手紙は、この二つの旧約聖書の御言葉を、わたしたち改革派教会の言葉にして言えば、聖徒の堅忍の教えとして用いているのです。
キリストの再臨が遅いのは、神がわたしたちを見捨てておられるからでありません。神は、キリストによって救われたわたしたちをお見捨てになりません。だから、必ず神はわたしたちを救いへと導くために、キリストの再臨を速やかにもたらされます。
そして、神がわたしたちを最後まで救いへと堅持されるので、「わたしの正しい者は信仰によって生きる」のです。
「正しい人」とは、神の保持によって信仰の堅忍を果たす人です。
わたしは、ヘブライ人への手紙が「わたしの正しい者は信仰によって生きる。もしひるむようなことがあれば、その者はわたしの心に適わない。しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」と述べる時、わたしたちの教会墓地の最初の埋葬者となられた後町武雄兄のことを思い起こします。
後町兄は、上諏訪湖畔教会の最初の教会員でした。松尾智恵子先生の指導で諏訪清陵中学校時代にキリスト教信仰を告白し、洗礼を受けられてキリスト者になられました。一時は献身の志が与えられ、四国学院大学に入学されました。しかし、御家の事情で諏訪に帰られ、家業を継ぎ、上諏訪湖畔伝道所で信仰生活を続けられました。しかし、わたしがこの教会に赴任した時には、教会から離れておられました。しかし、主は兄弟を見捨てられませんでした。わたしがこの教会に赴任し、何年かして後町兄弟は主日礼拝に出席されるようになりました。そして、兄弟が若き日に信じたキリストへの信仰を堅持し、御国へと旅立たれました。キリスト者としての御自身を世の人々や家族に隠すことは、後町兄弟にはにありませんでした。だから、主は後町兄弟の信仰を隠すことなく、信仰によって永遠の命を確保する者として、兄弟の信仰を保持し、今も教会の墓地に埋葬されて、わたしたちの国籍は天にあると証しされているのです。
そして、使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙3章20節後半でこう述べています。「そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。
どうかアドベントのこの季節、自分たちがイエス・キリストの弟子であることを隠して滅びに至るのではなく、わたしたちの信仰をこの世の人々に証しし、聖徒の堅忍を果たして、信仰から信仰へと、命から命へと歩ませていただこうではありませんか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日はヘブライ人への手紙第10章32-39節の御言葉を学びました。聖徒の堅忍についての教えを学ぶ機会が与えられ、感謝します。
どうか、主よ、わたしたちの信仰をお守りくださり、信仰から信仰へと歩ませてください。御国へと永遠の命へと至らせてください。
アドベントのこの季節に、クリスマスへと心を整え、再臨のキリストを待ち望ませてください。
どうか、神の御心を行わせてください。御国の約束を待ち望ませてください。
どうかわたしたちの家族を、この町の人々を、クリスマス礼拝に、クリスマスおはなし会に招くことができるようにしてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教35 2022年12月18日
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられることと、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束なさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れていませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを、公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。
信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるより、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。
これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行ない、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。
女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で撃ち殺され、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。
ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
ヘブライ人への手紙第11章1-40節
説教題:「信仰とは何か」
アドベントの第四週を迎えました。次週はクリスマスです。この一週間わたしたちの心を整えてクリスマス礼拝に備えて行きましょう。
今朝からヘブライ人への手紙第11章に入ります。わたしたちの新共同訳聖書は「信仰」という見出しが付されています。この章で目立ちますのは「信仰によって」というフレーズが繰り返されていることです。
ヘブライ人への手紙は、10章19節から奨励と警告を述べて、その最後の39節で「しかし、わたしたちはひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です」と言いました。
ヘブライ人への手紙は口にするだけではなく、わたしたち手紙の読者たちに「信仰によって命を確保する者」となるように、昔の人々の信仰を証しし、わたしたちが信仰において堅忍を果たす者となるように励ましているのです。
ヘブライ人への手紙にとって信仰のひるみということが大きな問題でした。ユダヤ人キリスト者たちがユダヤ教に戻ろうとすることも、異邦人キリスト者たちの背教も大きな問題でした。キリスト教会は、何時の世にも12弟子たちがキリストの受難を目の前にして、ひるみ、身を隠したという問題を避けることができません。ヘブライ人への手紙は、迫害を目の前にして多くのキリスト者たちがひるみ、身を隠すという問題を真正面から問題にし、解決しようとしているのです。
だから、ヘブライ人への手紙にとって信仰が問題なのです。ひるまない、後ずさりしない信仰の堅忍が問題なのです。信仰においてヘブライ人への手紙の読者たちは、堅忍しなければなりません。それが彼らにとっては命を確保する者の道であるからです。
そこでヘブライ人への手紙は、読者たちの信仰の堅忍を支えるために、12章1節で「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と述べているように、昔の人たちの信仰の堅忍の証しを述べて、彼らの信仰の堅忍を支えようとしています。
この信仰の堅忍の創始者であり、完成者は、12章2節で「イエス」であると、ヘブライ人への手紙は述べています。
ヘブライ人への手紙が、「信仰」と言っていますのは、信頼、忠実という意味です。主なる神に対する信頼、忠実さを代表する昔の人々のリストがあり、ヘブライ人への手紙はそれを用いて述べているのだという説があります。
例えば旧約聖書続編のマカバイ記一第2章49-61節です。マタティアが息子たちに次のように遺言しています。「我らの父祖がそれぞれの時代になした業を思い起こせ。そして大いなる栄光と永遠の名を受けよ。アブラハムは試練の中で忠実であると認められ、それが彼の義と見なされたのではなかったか。ヨセフは困難の時にも戒めを守り、エジプトの主となった。我らの父祖ピネハスは燃え立つ熱情のゆえに、永遠の祭司職の契約を得た。ヨシュアは御言葉を遂行したことによって、イスラエルの士師となった。カレブは集会で証言したことによって、相続の地を受け継いだ。ダビデはその憐れみ深さのゆえに、永遠に王国の王座を受け継いだ。エリヤは律法への燃え立つ熱情のゆえに、天にまで上げられた。ハナンヤ、アザルヤ、ミシャエルは信仰のゆえに炎の中から救い出された。ダニエルは潔白さのゆえに獅子の口から救われた。それゆえ、誰でも神に希望を置く者は決して力を失うことはないということを、代々にわたって心に留めよ。」
このような神に対する忠実さで知られる者たちのリストは他にもあったでしょう。ヘブライ人への手紙は、そのリストを用いながら、11章を記しているのでしょう。
さて、11章1節は、信仰の定義です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
ヘブライ人への手紙が「信仰」と定義するのは、二つのことに関係するものです。それは希望されているものと目には見えないものです。前者は、将来実現するものです。神の啓示です。それによって神が約束されたものです。後者は、いつも隠れているものです。わたしたちの目から見えないものです。
ヘブライ人への手紙は、信仰を信頼の意味で用いています。主なる神を信じる態度です。主なる神は真実なお方ですから、お約束は必ず守ってくださるという信頼です。その意味で11章に挙げられた昔の人々は、どこまでも主なる神をした信頼した人々です。信頼にひるむことがない人々です。
聖書協会共同訳聖書は、11章1節をこのように訳しています。「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証することである」と。
望み、希望は将来のことです。だから、わたしたちの目には見えません。今ここにあるというものではありません。ところが信仰というのは、そこに今あるものとして見えていることです。
例えば、わたしたちは救いの完成を将来のこととして希望していますね。しかし、信仰においてわたしたちは、希望しているものを今あるものとして確かめているのです。
わたしたちの救いという信仰は、わたしの希望的観測でありません。わたしの信じるという主観的事柄でありません。それは、キリストの十字架の死と復活という客観的事実によって確立された信仰です。だから、この教会の礼拝でキリストの十字架の御業を聞くごとに、わたしたちはその救いが現に今見えているのです。そういう信仰の客観性を、ヘブライ人への手紙は、信仰の定義として述べているのです。
だから、確証するというのは、わたしたちの救いにしろ、その約束にしろ、キリストの十字架と復活という確かな証拠があるのです。それにわたしたちが心からの信頼を寄せることができるという事実そのものが、確証なのです。
つまり、わたしたちは、この礼拝の説教を聴くという形でキリストの十字架と復活の御業を通して神の御救いを現にあるものとして受け取っており、それを聖餐式を通してわたしたちの目で、口で確認しているのです。
このようにヘブライ人への手紙が言う信仰は、今ここで、この礼拝でわたしたちが自分たちの目で、あるいは感覚で確認できるものです。
わたしたちは、今朝の礼拝でわたしたちが願望するものを、あるいは幻想を見ているのではありません。わたしたちが希望する救いを、現にここにあるものを、この礼拝を通して客観的に確かめているのです。
わたしたちにとって信仰とは、わたしたちが希望する救いは現実なのであるということです。わたしたちがこの礼拝ごとに祈る主の祈りは、わたしたちが切に希望するものです。それは、幻想ではありません。その時が来れば現実となるのです。わたしたちが礼拝する主なる神は、今現にわたしたちと共にいて下さいます。御国は将来ですが、時が来ればわたしたちの現実です。罪の赦しも、キリストの十字架のゆえに現にわたしたちは罪を赦されているのです。また、キリスト者にとってこの世は試練の連続です。しかし、神がわたしたちのために逃れ場を常に用意してくださっていることも、わたしたちにとっては現実なのです。
このような理解から生じて来る信仰、すなわち、主なる神への信頼こそ、信仰の堅忍に欠かすことはできません。
ヘブライ人への手紙は、11章2節でこう述べています。「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」
「昔の人たち」とは、ヘブライ人への手紙が書かれた時より以前の人たちという意味です。旧約聖書に登場する人物たちです。「認められました」は、賞賛されましたという意味の言葉です。昔の人々は、どこまでも主なる神を信頼し続けましたので、主なる神から賞賛を受けました。
さらにヘブライ人への手紙は、11章3節でこう述べています。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」
わたしたちは、信仰によってこのわたしたちが生きている世界を見ます時に、この世界が神の諸々の御言葉によって造られ、従ってわたしたちが目にする世界は、わたしたちの目で見えるもので造られたのではないことを理解するのです。
ヘブライ人への手紙は、主なる神が無から御言葉によって万物を創造されたと述べているのではありません。主なる神は、無から創造された万物を、自然を摂理の御業によって今わたしたちが目にする美しい世界に整えられたと述べているのです。
わたしたちが今目にします世界の美しさは、わたしたちが目にするものによって造られ、整えられているのではなく、わたしたちの目に見えない神の御手によるのだということです。
光、風、空、星、海、山、このわたしたちの目に見えるものは、わたしたちが目にできない神の御手の業なのです。
わたしたちは、わたしたちが目にできない神の御業の中で存在し、生きているのです。神の創造と摂理の中でわたしたちは生きているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日はヘブライ人への手紙第11章1-40節の御言葉を読み、1-3節の御言葉を学びました。聖徒の堅忍を実践した信仰の先達たちを学ぶ機会が与えられ、感謝します。
どうか、ヘブライ人への手紙が教えている信仰について、深く学ばせてください。聖霊よ、へブライ人への手紙が証しする信仰にわたしたちも生かしてください。
今の世は、平和に見えますが、国は多額の防衛費で戦争のできる国を造ろうとしています。見た目には人々に自由があり、平等ですが、人々の間にある社会的格差は隠しようがありません。わたしたちの目の届かない所で貧困に苦しむ人々がいます。スマートホンやネットで便利な世になりましたが、その裏で人々はますます孤立しています。
いよいよ今週の土曜日よりクリスマスイブとなり、次週の主日礼拝はクリスマス礼拝です。どうか主イエス・キリストの御降誕を祝わらせてください。平和の君主イエスの祝福と恵みにこの世の人々を、わたしたちの家族を、知人をあずからせてください。
クリスマスを心から祝うと共に、再臨のキリストを待ち望ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。