ヘブライ人への手紙説教26 2022年9月18日
さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中ニハ、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。このことについては、今はいちいち語ることはできません。
以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのにものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、夕遺言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って地で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、」まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現われてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現われてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためにではなく、御自分を待望している人々たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。
ヘブライ人への手紙第9章1-28節
説教題:「犠牲だけで礼拝者の良心を救えない」
今朝より、ヘブライ人への手紙第9章を学びましょう。9章の御言葉全体をお読みしましたが、今朝は1-10節の御言葉を学びましょう。
9章1-23節は、「地上の聖所と天の聖所」という見出しがあります。ヘブライ人への手紙は、8章5節で「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。」と述べています。
「地上の聖所」とは、モーセが荒野で建てた神の幕屋、すなわち、地上の聖所のことです。
へブライ人への手紙は、9章1-10節でその「地上の聖所」、モーセが建てた荒野の神の幕屋について詳しく述べています。
荒野の神の幕屋は、第一の契約であるシナイ契約と深く結びついています。だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に9章1節で、こう述べているのです。「さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。」
「最初の契約」とは、シナイの契約です。主なる神は、神の民イスラエルの指導者モーセを通して、主なる神が奴隷の地エジプトから贖い出された神の民イスラエルと恵みの契約を更新されました。主なる神は彼らに「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束され、彼らに十戒の二枚の石の板を授けられ、守るように命じられました。
そして、十戒には主なる神だけが彼らの神であり、彼らが礼拝すべきお方であり、彼らが主なる神をどのように礼拝すべきかを具体的に命じられていました。
それゆえに、主なる神は、神の民イスラエルに指導者モーセを通して「礼拝の規定」、すなわち、祭儀の規定を設けられ、神の聖所、すなわち神の幕屋の建設をお命じになりました。
そして、神の幕屋で祭儀の規定を通して主なる神に仕える者として、神の民たちの中から祭司を召されました。それが、ユダヤ教の祭司の起源であるアロンとその子らです。
ヘブライ人手紙がわたしたち読者に伝えたいことは、次のことです。この地上の聖所、すなわち、荒野の神の幕屋は、天の聖所の写しであり、影であり、神の幕屋で主なる神に仕える祭司たちは、天の聖所にあるものの写しであり、影に仕える者たちであるということです。
9章1-10節は、地上の聖所、すなわち、神の幕屋について述べられています。古い契約である最初の契約に基づいて、神の幕屋が建てられ、祭儀の規定が設けられました。。
2-5節は、神の幕屋の構造と備品について述べています。「すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中ニハ、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。このことについては、今はいちいち語ることはできません。」
神の幕屋は、第一に聖所と第二に至聖所から成っていました。聖所が「第一の幕屋」です。至聖所は、3節で「また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。」と、ヘブライ人への手紙は述べています。
聖所には、燭台と机と供え物のパンが置かれていました。燭台は六つの枝が付いています。机は前面に金箔が施され、イスラエルの12部族を表わす12個のパンが、6個ずつ机の上に重ねて置かれていました。
第二の垂れ幕が聖所と至聖所を区切ります。ヘブライ人への手紙は神の幕屋が第一の幕屋と第二の幕屋があったという風に記しています。
第二の幕屋は至聖所のことです。至聖所には、金の香壇と金で覆われた契約の箱が置かれていました。契約の箱の中には、マナを入れた金の壺と芽を出したアロンの杖と十戒の石の板が二枚納められていました。そして、契約の箱の蓋の上にケルビムの像が二対迎え合わせに置かれていました。
ヘブライ人への手紙の記述には、旧約聖書の出エジプト記の神の神殿の描写と備品の位置に違いがあります。昔の神の幕屋を見たことはなかったでしょうから、勘違いもあるでしょう。しかし、ヘブライ人への手紙が主張する神の幕屋が天の聖所の写しであり影であることに間違いはありません。
ヘブライ人への手紙は5節で神の幕屋と祭儀規定を詳しく述べることが今の関心なのではないと述べています。
ヘブライ人への手紙の今の関心は、8章13節の御言葉です。「神は『新しいもの』と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。」
そこで6-10節で古い契約に基づいた神の神殿で仕える祭司たちの職務について述べて、大祭司キリストの現れによって、神の幕屋とユダヤ教の祭司たちの務めが古びたことを証ししています。
モーセを通して荒野に神の幕屋が設けられますと、アロンと彼の息子たち、すなわち祭司たちが神の幕屋で祭儀を行なうために、第一の幕屋である聖所に入りました。アロン系の祭司たちが第一の幕屋である聖所を出入りし、主なる神に仕えました。
彼らは聖所の常夜灯に油を注ぎ、火を灯しました。祭壇で動物犠牲をささげました。また香をたきました。第一の幕屋における祭司たちと祭儀に相当するものが天の聖所にはありません。
第二の幕屋。すなわち、至聖所には大祭司が年に一度入りました。その日は大贖罪日と呼ばれました。自分と一族の贖罪のために雄牛の血を携えて入りました。その血を契約の箱の贖罪の蓋の東の面と前方に振りまきました。そして、大祭司は最後に民の贖罪のために雄山羊の血を携えて行き、契約の箱の贖罪の蓋の上と前方に振りまきました。
この犠牲の血は、無知による罪に対する贖いであり、故意の罪に対してはその罪は赦されないと考えられていました。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちにユダヤ教の祭司たちの務めを説明することで伝えたいことはこうです。それは、8節の御言葉です。「このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。」
どんなに神の幕屋で祭司たちが動物犠牲を献げ、大祭司が年に一度至聖所に入って、彼と彼の一族と民の罪を執り成しても、聖所への道、すなわち、彼らが神に近づく道が開けなかったことです。
ヘブライ人への手紙が9節で「この幕屋とは、今という時の比喩です。」と述べているのは、昔の神の幕屋は今のキリスト教会を不完全に示す比喩であるということです。天上の本体である大祭司キリストが来られ、今やキリスト教会の時代が来ているのです。だから、その比喩である神の幕屋と祭司たちの務めは無用になりました。
神の幕屋の祭司たちがどんなに主なる神に供え物と犠牲を献げても、礼拝する者たちの意識を主なる神に向けることは出来ません。
キリストの十字架の死だけがわたしたちの意識を主なる神に向け、神の対するわたしたちの罪を意識させ、わたしたちの心を神へと方向転換させるのです。
ユダヤ人たちに与えられた神の律法は、清めの規定に過ぎません。聖霊による罪の回心が起こるまでの肉の規定に過ぎません。
ユダヤ教の祭司たちが神の幕屋でどんなに動物犠牲を献げても、礼拝する神の民の意識は変えられませんでした。神の律法によって神の民たちに清めを守るように教えても、彼らの良心を主なる神に向けることは出来ません。
10節の「改革の時まで」とは、キリストが来られて、十字架と復活の救いの御業を実現され、約束の聖霊が来られて、わたしたちに回心の時が与えられるまで、ユダヤ教の祭儀は続くという意味です。
わたしたちの罪に曲がった心を、真っすぐにできるのは、大祭司キリストの犠牲のみであると、ヘブライ人への手紙はわたしたちに伝えたいのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝よりヘブライ人への手紙第9章を学び始めます。
どうか、大祭司キリストの犠牲こそがわたしたちの唯一の救いであることを理解させてください。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに繰り返し、ユダヤ教よりもキリスト教が優れえいると述べています。それは、大祭司キリストが御自身の犠牲の血によって、わたしたちが父なる神と和解し、神の御国に入れる道を開いてくださったからです。
どうか十字架のキリストのみにわたしたちの心を向けさせてください。そして、わたしたちの心を聖霊よ、新たにしてください。
キリストへの信仰によって、この世から御国へと歩ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教27 2022年10月2日
さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。このことについては、今はいちいち語ることはできません。
以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って地で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現われてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現われてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためにではなく、御自分を待望している人々たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。
ヘブライ人への手紙第9章1-28節
説教題:「新しい契約の血」
今朝は、ヘブライ人への手紙第9章11-14節の御言葉を学びましょう。
前回は、第9章1-10節の言葉を学びました。ヘブライ人への手紙が「最初の契約」と述べていますのは、古い契約です。すなわち、主なる神がモーセを通して神の民イスラエルとシナイ山で結ばれた恵みの契約です。
この「最初の契約」に対して主イエス・キリストを仲介者としてキリスト教会が結んだ恵みの契約が「新しい契約」です。
さて、「最初の契約」、すなわち、シナイ契約にも祭儀の規定と地上の聖所がありました。地上の聖所、すなわち、神の幕屋は聖所と至聖所から成っていました。この神の幕屋で大祭司アロンと彼の家の男子たちが主なる神に仕えていました。
祭司たちは、神の幕屋、後にはエルサレム神殿で毎日礼拝、すなわち祭儀を行いました。彼らは規定に従って動物犠牲と穀物を主なる神に献げました。
そして、年に一度大祭司が至聖所に入りました。彼は自分自身のために、神の民の過失のために動物犠牲の血を携えて入りました。
しかし、神の幕屋と動物犠牲は本体であるキリストの影ですから、神の幕屋で祭司たちや大祭司が主なる神に犠牲をささげているかぎり、天にある聖所への道が開かれていません。
また、祭司たちは礼拝者が携えて来た動物犠牲を聖所の祭壇で燃やしました。そして、祭壇の灰を礼拝者たちに振りまきました。それで礼拝者たちは清められました。
しかし、ヘブライ人への手紙は、9節でこう断言しています。「供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができないのです。」
「良心」とは、わたしたちの内にある意識のことです。わたしたちの心のことです。「礼拝する者の良心を完全にすることができない」とは、わたしたちの内なる意識を、心を、主なる神の方に向けられないということです。わたしたちの心に悔い改めの心が生じて主なる神に立ち帰ることができないということです。
それゆえに神の幕屋で祭司たちが動物犠牲をささげているかぎり、「聖所への道」が開かれませんでした。最初の契約において神の民が主なる神に近づける道が開かれませんでした。
以上のことが、ヘブライ人への手紙がわたしたちに1-10節で伝えたかったことです。
気づかれたお方があるかもしれません。9章1-10節と11-28節は、第5章1-4節5-10節の関係によく似ています。ユダヤ教の大祭司と大祭司キリストとの、それぞれ対応するものと相違するものが明確に述べられています。
復習になります。ヘブライ人への手紙は第5章1-4節で旧約の大祭司の資格を述べています。資格の第一は神の民たちの中から選ばれた者です。第二は人の弱さを自分のこととして経験しています。第三は、あきまで主なる神によって大祭司の地位に任命されました。
大祭司主イエス・キリストも、この三つの資格を満たされています。ヘブライ人への手紙は、その三つの資格を逆から述べています。キリストの大祭司の資格は、第一に主なる神がキリストを御子と大祭司に任命されたことです。第二にキリストは神の子であるに、人の子となられ、わたしたちと共に弱さを分かち合われ、十字架の死に至るまで父なる神への従順を学ばれました。第三にキリストは完全な者として、メルキゼデクに等しい大祭司として、彼に従順な者たちのために永遠の救いの源となられました。
9章では祭司が神の幕屋の聖所に入り、大祭司が神の幕屋の聖所に入りました。大祭司は自分自身と神の民たちの過ちのために、動物犠牲の血を携えて至聖所に入りました。
彼らはキリストの影でした。だから、彼らが神の幕屋で動物犠牲をささげるかぎり、神の民は神に至る道を見出すことができません。礼拝者たちの内なる意識が主なる神に向けられ、彼らが悔い改めて、神に立ち帰ることができません。
本体であるキリストが来られるまで、聖所も祭儀も肉の規定に過ぎません。
今朝学びます第9章11-12節で、こう述べています。「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(11-12節)。
ヘブライ人への手紙は、大胆に述べています。「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのです」と。
キリストの到来を告げています。「既に実現している恵み」とは、本物の良いものをもたらすということです。神の御子キリストが人の子としてこの世に来られて、わたしたちに決定的な良きものをもたらされました。つまりキリストの十字架の死によるわたしたちの贖いです。
キリストがわたしたちにもたらされた決定的な救いは、キリストが祭司たちのように人の手で造られた聖所に入られることによってではありません。
キリストは、十字架に死なれ、復活し、天に昇天されました。そしてこの世の幕屋ではなく、天にある神の聖所に入られました。
キリストが天の聖所に携えられたのは、大祭司のように神の幕屋の至聖所に毎年動物犠牲の血を携えてではありません。ただ一回限りキリストは、天の聖所に御自身の血を携えて入られました。そして、キリストは神の民たち、わたしたちの永遠の贖いを成し遂げられました。
ヘブライ人への手紙は、続いて13-14節でこう述べています。「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」
祭司たちは神の幕屋の聖所に入り、毎日動物犠牲を祭壇で焼きました。そして祭司たちは動物犠牲を携えて来た礼拝者たちに祭壇の灰を振りまきました。その灰は礼拝者たちの罪を清める効果があると考えられていたのです。
ヘブライ人への手紙は、礼拝者たちを清める効果がキリストの影である動物犠牲の灰にあるのではなく、キリストの十字架の犠牲の血にあると述べています。
ヘブライ人への手紙は、動物犠牲の血と灰とキリスの血とを比較して述べています。キリストの影である動物犠牲の血と灰が礼拝者たちの罪を清めるのであれば、本体である、すなわち、本物であられるキリストは、永遠の神の霊である聖霊によって、きずのないものとして、すなわち、罪に汚れていない犠牲として、父なる神にささげられました。
ですから、キリストの血は、礼拝者の心を神に向かわせる効力があります。わたしたちの内なる意識を、神に向かわせ、悔い改めさせる力があります。
罪を悔い改めることのない心は、神の御前に死んだ者です。
キリストの十字架の血だけが、神の御前に死んでいるわたしたちの心を神に立ち帰らせることが出来るのです。
実際にヘブライ人への手紙は、この真理を主の日の礼拝の中で礼拝者たちがすでに経験していると述べているのです。
「死んだ業」が何を意味するのか。よくわからないかもしれません。わたしは、ヘブライ人への手紙の14節の御言葉を読み、思い巡らしていると、ペトロの手紙一の第1章18-19節の御言葉を思い起こしました。
使徒ペトロは。こう述べています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」
この世におけるわたしたちの毎週の主の日の礼拝が、その礼拝を中心にしてわたしたちは日々キリストに仕えて生きているのです。聖霊に導かれて、この世での空しい生活から、わたしたちの国籍は天にあるという御国に希望を持つ人生に変えられました。
まさにキリストの十字架の死は、神に背を向けているわたしたちの心を悔い改めさせて、神へと立ち帰り、主なる神のみを礼拝する人生を歩ませるためだったのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちの内なる意識に訴えるのです。「キリストの十字架の血は、あなたをこの世における空しい生活から神を礼拝し、御国に憧れる礼拝生活へと導き出してくれたのではないか」と。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝もヘブライ人への手紙第9章を学びました。
どうか、キリストの犠牲の血こそが、わたしたちをこの世の空しい生活から解放してくれた唯一の救いであることを理解させてください。
わたしたちが今ここで礼拝できるという恵みは、キリストが御自身の御血潮によってわたしたちを贖い出されたからです。
キリストが復活し、天に昇られ、天の聖所に入られ、わたしたちが父なる神と和解し、神の御国に入れる道が開らかれたこと感謝します。
どうか、今から聖餐の恵みに与ります。十字架のキリストの血にのみわたしたちの心が神に向けられ、神を崇め礼拝できる喜びへと導かれることを、わたしたちの心に留めさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教28 2022年10月9日
さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。このことについては、今はいちいち語ることはできません。
以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って地で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現われてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現われてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためにではなく、御自分を待望している人々たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。
ヘブライ人への手紙第9章1-28節
説教題:「新しい契約の仲介者」
今朝は、ヘブライ人への手紙第9章15-22節の御言葉を学びましょう。
前回は、第9章11-14節の言葉を学びました。ヘブライ人への手紙は、11節で「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになった」と述べています。田川健三氏は「それに対してキリストは本物の良いものをもたらす大祭司として到来した」と訳されています。そして、田川氏は、キリストがもたらされた「本物の良いもの」を、12節の「永遠の贖い」、15節の「新しい契約」を指すと述べておられます。それを読みまして、わたしは、ユダヤ教の祭儀に対してキリストは御自身に血によって決定的な救済を、わたしたちにもたらされたのだと思い巡らしました。
キリストは、12節でヘブライ人への手紙が述べていますように、この世の、人の手で造られた聖所ではなく、天にある真の聖所に入られて、御自身の血を携えて、ただ一度わたしたちのために決定的な救済を成し遂げてくださいました。
ヘブライ人への手紙は、幕屋での祭儀と大祭司キリストを比較し、大祭司キリストの恵み深さを、13-14節において次のように述べています。「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。」
ユダヤ教の祭司たちは、幕屋の聖所で主なる神に動物犠牲を献げ、祭壇で焼きました。そして雌牛の灰を礼拝者たちにまきました。罪を清める効果があると考えたからです。
しかし、礼拝者の心を変えることは出来ませんでした。雌牛の灰には、彼らの意識を生ける主なる神に向けて礼拝させる効力はありませんでした。
ところが、大祭司キリストの血は、礼拝者たちの内なる意識を死んだ業から清めて、生ける主なる神を礼拝するようにする効力がありました。
ペトロの手紙一の1章18-19節で使徒ペトロは、こう述べています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」。
ヘブライ人への手紙が「死んだ業」と言っているのは、「先祖伝来のむなしい生活」だと、わたしは思うのです。
今年は、諏訪地方は御柱祭の年です。一年間御柱祭がなされています。家内安全、五穀豊穣、商売繁盛を願って、諏訪大社に、地域の神社の神々に祈願し、祭りが祝われています。
ユダヤ教の聖所と祭儀同様に、この世の、人の手で作られたものです。それに対して本物の良きものをもたらす大祭司キリストが、福音宣教を通してこの諏訪地方に到来されました。明治の時代にアメリカの宣教師を通して、上田市から和田山峠を越えて、下諏訪、上諏訪にキリストの福音が伝えられました。そして、キリスト教会が建てられました。日本キリスト教団諏訪教会です。戦後この教会から25名の信徒たちが出て、日本キリスト改革派教会に加入し、上諏訪湖畔教会が建てられました。
使徒パウロが使徒言行録20章28節でこう述べています。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」。
牧師が立てられ、長老たちが群れの中から選ばれ、上諏訪湖畔教会は小さな群れであっても、聖霊が御子キリストの血によって御自身のものとされた群れです。そして、今もその群れを守り、養われているのです。
そして、わたしたちは、真の生ける神を礼拝する者として、この世の空しい生活から召し出されました。
だから、わたしたちも、ヘブライ人への手紙が15節で「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」と信仰告白していますように、同じことを告白しましょう。
わたしたちは、ヘブライ人への手紙が述べていますユダヤ教の祭儀の経験はありません。しかし、この地で御柱祭を祝い、神社の神々に家内安全、五穀豊穣、商売繁盛を祈願していたのです。人の手で作ったものに、この世のもの、肉のものに御利益があると信じていたのです。
しかし、本物の御方が、本物の永遠の命を携えて、キリスト教の福音宣教を通して、諏訪の地に来られたのです。そして、キリストは、御自身の福音を聞いて、主イエスをわたしの救い主と信じる者たちに、決定的な救いを提供してくださいました。永遠の命です。神々にこの世における御利益を求めて、この世の栄華に、この世での幸せに満足していたわたしたちに、キリストはわたしたちの本国が天にあると約束してくださいました。
ヘブライ人への手紙が15節で続けてこう述べている通りです。「それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」
「最初の契約」とは、旧約聖書のモーセの契約です。出エジプト記に記されていますモーセの契約です。主なる神はモーセを通して神の民イスラエルと恵みの契約を結ばれました。そして、主なる神は二枚の石の板を神の民たちの前に置かれました。主なる神は神の民たちが約束の地カナンに入り、この二枚の石の板に刻まれた主の十戒を守るように命じられました。しかし、約束の地カナンに入りました神の民たちは、キリストが来られるまで誰も守ることは出来ませんでした。
だから、主イエス・キリストが神の独り子であられたのに、人の子となり、この世に来て下さいました。主の戒めを守れず、滅びゆく神の民を贖うためです。それゆえに罪なきキリストが彼らの身代わりに十字架で死なれることで、罪の赦しを成し遂げられました。
そして、ユダヤ人たちだけではなく、それ以外のすべての異邦人に、キリストの十字架の死は福音として伝えられました。
わたしたちは聞いたのです。キリストがすべての者の罪の身代わりに死なれたことを。福音のキリストをわたしの主と信じて、このキリストと新しい契約を結ぶ者たちは、「永遠の財産」を、正確には永遠の遺産を受け継ぎことが約束されたことを。
これは、わたしたち信者がキリストを長兄とする神の御国の子とされるという恵みです。この恵みは、今は約束です。実現はしてはいません。しかし、キリストは昨日も今日も、何時までも生きておられます。今は約束ですが、キリストが約束してくださっているのですから、ヘブライ人への手紙はわたしたちに信じましょうと励ましているのです。
そこでヘブライ人への手紙は、わたしたちに16-22節で遺言について述べています。遺言は、15節の「永遠の財産を受け継ぐ」、正確には「永遠の遺産を受け継ぐ」ということから出てきました。遺産相続の話です。
遺言は、遺言者が死んで初めて効力が生まれます。遺言者が生きている間は、効力がありません。
ヘブライ人への手紙は、契約も遺言と同じだと述べています。18-22節でヘブライ人への手紙は、最初の契約、すなわち、モーセのシナイ契約も血が流されずに成立しなかったと述べています。
19-20節は、出エジプト記第24章3-7節の御言葉を引用しています。「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」。
このように最初の契約は、血を流すことなしに新たに設定されることはありませんでした。
また、ヘブライ人への手紙は、聖所で礼拝と祭儀に用いられる器物もすべて、動物犠牲の血が振りまかれたと記しています。
このように血を振りまくことなしに、ユダヤ教の祭儀においては罪の赦しはあり得なかったと、ヘブライ人への手紙は述べているのです。
そう述べることで、ヘブライ人への手紙はわたしたちに一つの事実を告げています。それは、血を流すことなしにわたしたちの罪の赦しはないという事実です。
主イエス・キリストが十字架で御自身の御血潮を流されたので、わたしたちの罪が赦されたのです。この福音をヘブライ人への手紙は、わたしたちに伝えようとしているのです。
わたしたち人類の歴史を顧みますと、この世に人の罪のない世はありませんでした。無実の人の血が流されるのは、兄のカインが弟のアベルを殺したことからです。それ以来、今のわたしたちの世においてもそれは繰り返されているのです。
人は叡知を働かせて、法治国家を造り、警察権と司法権によって罪を犯した者を捕えて、法でその罪を償わせようとします。しかし、人は命を贖うことはできません。
ただ神の御子キリストがわたしたちの罪を担われて、十字架でわたしたちの身代わりに血を流されるということによって、人の罪が赦されるという喜びがこの罪の世に生まれました。
キリストの十字架の福音だけが人の心に愛を訴えるのです。「あなたの罪のためにキリストは十字架に死なれた」と。その時、聖霊がわたしたちの心に、「キリストはわたしの罪のために死なれたのだ」と説得されます。
ロシアのプーチン大統領だけが罪人ではありません。彼は、誰の目にも見えるかたちでウクライナの人々の命と生きる権利を侵害しているのです。
しかし、わたしたちの心の中にも小さなプーチンがいるのではないでしょうか。わたしの心の中の小さなプーチンが隣人を傷つけているのではないでしょうか。
だから、わたしたちはロシアのプーチン大統領を非難しても、わたしたちの罪は赦されません。罪は大きくても小さくても罪です。見えていても見えなくても罪です。主なる神が嫌われ、裁かれるものです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに9章27節ではっきりと宣言しています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と。
人は罪があるから死ぬのです。だから、死に定められた人は皆、神に裁かれるのです。だから、「わたしはあのプーチン大統領とは違う」と言える人はいません。プーチン大統領が死に、神に裁かれるのであれば、わたしたちも同じです。
この死に定められた人類の危機を唯一救えるのは、十字架のキリストです。
だからこそどんなに小さくても、この世にキリストの教会が必要です。十字架のキリストの福音をこの世界に宣教する教会が必要なのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今日もヘブライ人への手紙第9章の御言葉を、主なる神の御言葉として聞くことが出来ました。感謝します。
日本は、キリスト教国ではありません。ユダヤ教の世界でもありません。しかし、わたしたちが神の御前に罪人であり、神に死んだ後、裁かれる定めです。この定めを逃れることのできる日本人は一人もいません。
だから、キリストの犠牲の血こそが、わたしたちの福音であることを、この諏訪の人々に、日本の人々に、オンライン礼拝を通して告知させてください。
わたしたちが今礼拝できる恵みを、キリストの十字架の福音を聞ける喜びを、心から感謝させてください。
どうかわたしたちにキリストの十字架を、家族に、知人に、日々に出会う人々に語る勇気をお与えください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教29 2022年10月16日
さて、最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。すなわち、第一の幕屋が設けられ、その中には燭台、机、そして供え物のパンが置かれていました。この幕屋が聖所と呼ばれるものです。また、第二の垂れ幕の後ろには、至聖所と呼ばれる幕屋がありました。そこには金の香壇と、すっかり金で覆われた契約の箱とがあって、この中には、マンナの入っている金の壺、芽を出したアロンの杖、契約の石板があり、また、箱の上では、栄光の姿のケルビムが償いの座を覆っていました。このことについては、今はいちいち語ることはできません。
以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行うために、いつも第一の幕屋に入ります。しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献げる血を、必ず携えて行きます。このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができないのです。これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。遺言の場合には、遺言言者が死んだという証明が必要です。遺言は人が死んで初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間は効力がありません。だから、最初の契約もまた、血が流されずに成立したのではありません。というのは、モーセが律法に従ってすべての掟を民全体に告げたとき、水や緋色の羊毛やヒソプと共に若い雄牛と雄山羊の血を取って、契約の書自体と民全体とに振りかけ、「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と言ったからです。また彼は、幕屋と礼拝のために用いるあらゆる器具にも同様に血を振りかけました。こうして、ほとんどすべてのものが、律法に従って地で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。
このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現われてくださったからです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現われてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためにではなく、御自分を待望している人々たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。
ヘブライ人への手紙第9章1-28節
説教題:「一度限りの犠牲」
今朝は、ヘブライ人への手紙第9章23-28節の御言葉を学びましょう。
前回は、第9章15-22節の言葉を学びました。ヘブライ人への手紙は、15節で「キリストは、新しい契約の仲介者のです」と述べました。当然ヘブライ人への手紙は、預言者エレミヤが預言しました「新しい契約」のことを心に留めていました。主イエス・キリストは、御自身の血によって、すなわち、十字架の死の贖いによってこの新しい契約を実現されたのです。
古い契約は、仲介者モーセを通してシナイ山で主なる神と神の民イスラエルとの間で結ばれました。しかし、神の民イスラエルは、主なる神に不従順の罪を犯しました。だから、ヘブライ人への手紙は、神の御子であるキリストが人の子としてこの世に来られて、彼らの罪を贖うために死んでくださったと述べています。
こうしてヘブライ人への手紙は、十字架の主イエス・キリストが新しい契約の仲介者となられたと述べているのです。
新しい契約は、キリストの教会に召された者たち、信者たちとの契約です。ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者にこの新しい契約によって、教会に召されるキリスト者たちには永遠の財産、すなわち、永遠の遺産が約束されたと述べています。
そして、ヘブライ人への手紙はわたしたち読者に「遺言」という言葉を用いて相続財産の譬えで、永遠の遺産の約束について説明をしています。
遺産は契約のことです。遺産は遺言者が亡くならない限り、効力を発揮しません。契約も同じです。古い契約は動物犠牲の血を流す事なしに新しく設定されませんでした。
古い契約の場合は、祭司が動物犠牲の血を契約の書と幕屋の祭壇、そして幕屋にあるすべての器物に、そして礼拝者たちに振りかけました。
ヘブライ人への手紙は、次のように説明します。これは、神の律法に従って血によって清めるためだったと。
そして、この事実からヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に、22節で一つの真理に導くのです。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」ということです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者にさらにこう述べているのです。9章23-24節です。「このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現われてくださったからです。」
モーセの時代の神の幕屋、すなわち、ユダヤ教の聖所は、天にある聖所の写しです。23節の「写し」とは模型のことです。模型とは本物に似せて、人が手で作ったものです。だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者にこう言うわけです。模型であるユダヤ教の聖所は、神の律法に従って動物犠牲の血によって清めなければならないと。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に24節でその模型に対してキリストは本物の犠牲であると述べています。だから、キリストは本物の天の聖所に入られ、ただ一度わたしたちのために御自身を犠牲とされました。
そこでヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に25-26節でこのように強調しています。「また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現われてくださいました。」
ヘブライ人への手紙が強調しているのは、こうです。キリストはただ一回限り御自身をわたしたちの代わりに犠牲として神にささげられ、わたしたちの罪を除かれたということです。
ユダヤ教の大祭司は、毎年一度至聖所に入りました。入るごとに、動物犠牲の血を携えました。大祭司主イエス・キリストは、御自身の犠牲を何度も繰り返されませんでした。今の世の終わりにただ一度天の聖所に入られ、御自身のいけにえを神にささげて、わたしたちの罪を除かれたのです。
そして、ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者にユダヤ教の大祭司と大祭司キリストを比較しながら、次の真理へと導くのです。
27節と28節です。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためにではなく、御自分を待望している人々たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。」
ヘブライ人への手紙がわたしたちに告げる真理はこうです。わたしたちの人生は一度限りであるということです。それをヘブライ人への手紙はわたしたちに知らせるために、わたしたちの一度の死と死後における神の審判を告げているのです。
仏教のように輪廻はありません。わたしたちはわたしたちの人生を繰り返すことはありません。わたしたちは一度限りの人生を生きているのです。だから、わたしたちは一度の死があり、死後における神の裁きがあるのです。
日本人の多くが、死んだら無になると思っています。ヘブライ人への手紙は、決してそうではないと述べているのです。人は一度死ぬことと、死後における神の裁きがあり、神の御国を相続する者とそうでない者が分けられるのです。
そうでなければ、なぜキリストは、父なる神の独り子なる神であられるのに、わたしたちと同じ人間性を取られ、この世に来られたのでしょう。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちにはっきりとこう告げています。「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」と。
キリストは、ただ一度わたしたちの罪の身代わりに死ぬために、人としてこの世に来られました。そして、キリストは、御自身の血によって清められたものを完全な者とするために再臨されるのです。これがヘブライ人への手紙がわたしたちに福音として語ることです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日でヘブライ人への手紙第9章の御言葉を学び終えることが出来て感謝します。
キリストの十字架の贖いがただ一度限りの犠牲であったことを学ぶことが出来て感謝します。
神の御子が人の子として、わたしたちの罪を贖い、わたしたちを主イエスの兄弟として神の永遠の御国を相続させてくださるという約束を、今朝の礼拝を通していただき、ありがとうございます。
この約束は、神の遺言です。神の御子キリストが十字架で死なれない限り、効力を発揮することはありません。しかし、キリストはただ一度死んでくださいました。
その死によってただ一度死ぬことと死んだ後において神の裁きが定められているわたしたちに、キリストの一回限りの死によって、死と神の裁きからの解放と永遠の命が約束されていることを、心から感謝します。
だから、キリストの十字架の福音を、私たちの家族に、この世の人々に伝える勇気を、わたしたちにお与えください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教30 2022年11月6日
いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを献げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。
それで、キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。
「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、
むしろ、わたしのために
体を備えてくださいました。
あなたは、焼き尽くす献げ物や
罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。
そこで、わたしは言いました。
『御覧ください。わたしは来ました。
聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、
神よ、御心を行うために。』」
ここで、まず、「あなたはいけにえ、献げ物、焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえ、つまり律法に従って献げられるものを望みもせず、好まれもしなかった」と言われ、次いで、「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言われています。第二のものを立てるために、最初のものを廃止されるのです。この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。
すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。しかし、キリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
聖霊もまた、わたしたちに次のように証ししておられます。
「『それらの日の後、わたしが
彼らと結ぶ契約はこれである』と。
主は言われる。
『わたしの律法を彼らの心に置き、
彼らの思いにそれを書きつけよう。
もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない。』」
罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。
ヘブライ人への手紙第10章1-18節
説教題:「神の御心である十字架」
今朝は、ヘブライ人への手紙第10章1-18節の御言葉をお読みしました。その中から、1-10節の御言葉を学びましょう。
ヘブライ人への手紙第10章1-10節は、二つの部分から成り立っています。1-4節と5-10節です。
ヘブライ人への手紙は、1-4節で、一枚の絵画をわたしたちに見せてくれます。1節の「できません」と4節の「できないからです」という言葉がその絵画の額縁です。額縁は、その絵に一つの限界を設けています。その絵の主題は律法です。律法とは、エルサレム神殿における祭儀規定のことです。それは、動物犠牲の規定です。焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえのことです。
エルサレム神殿における祭儀規定である焼き尽くす献げ物、罪を贖うためのいけにえは、「やがて来る良いことの影」であります。すなわち、ヘブライ人への手紙が8章5節で「天にあるものの写しであり影である」であると述べたものであり、9章9節で「この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といういけにえが献げられても、礼拝する者の良心を完全にすることができないのです。」と述べていることと同じです。幕屋も祭儀律法も動物犠牲も、天にある原型の影であり写しです。そして、後から来る「やがて来る良いこと」、すなわち、主イエス・キリストの犠牲を予め示すものにすぎません。
だから、ヘブライ人への手紙は、祭儀規定である動物犠牲に「そのものの実体はありません」と述べています。実体とは天にある現実のことです。その現実とは、わたしたちを永遠の救いと生ける神を礼拝するために近づけることを可能にするものです。
律法、すなわち、神殿の祭儀規定は、毎年贖罪日に同じ犠牲を繰り返して、永久の繰り返しに堕し、礼拝に来て、神に犠牲を献げる者たちを神に近づける完全な者にすることが決してできません。
その証拠に、彼らは神を礼拝し、神に動物犠牲を献げることを中止することが出来ません。なぜなら、動物犠牲は礼拝者たちを一度も清めないからです。彼らは、神殿の祭儀規定に従い毎年動物犠牲を繰り返すのです。彼らの心から罪の意識を消せないからです。だから、毎年ユダヤ人たちは、贖罪日に動物犠牲を神に献げるごとに、罪の記憶をよみがえらせるのです。
だから、律法、すなわち、神殿の祭儀規定は、すなわち、神殿における毎年の贖罪日における動物犠牲は、礼拝者たちの心を変えることもできませんし、彼らを神に近づける完全な者とすることもできないのです。
それゆえにヘブライ人への手紙は、4節で「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです。」と述べているのです。
これは、礼拝者たちが毎年贖罪日に動物犠牲を献げるごとに、罪の記憶がよみがえることの理由を述べています。雄牛や雄山羊の血が人の心から罪の責任を取り除くことが出来ないからです。わたしたちの心からこの罪の責任を取り除くことは、主イエス・キリストが御自身のただ一度の犠牲によって実現してくださったことなのです。
そこでヘブライ人への手紙は、旧約聖書の詩編第40篇7-9節の御言葉を引用して、正しい礼拝と誤った礼拝についてのキリストの証言を述べています。
ヘブライ人への手紙は、この詩編の「わたし」をキリストと同一視しています。それでキリストは世に来られたとき、次のように詩編第40編7―9節の御言葉を証言されました。
ヘブライ人への手紙の10章5-9節は、キリストの御言葉です。詩編40編7-9節と少し違っています。5節の「わたしのために体を備えてくださいました。」は、ヘブライ語聖書では「わたしの耳を開いてくださいました」です。
詩編は、こう証言します。神が喜ばれる礼拝は、動物犠牲を献げることではなく、心をヘリ下り、神に服従することであると。そこで詩人は服従し、神の御心を行いますと告白しています。
ヘブライ人への手紙は、70人訳のギリシア語訳聖書を用いています。それをキリストの言葉と信じて、忠実に従っています。神殿における祭儀規定の動物犠牲よりも、神はキリストの体の犠牲を喜ばれました。神は全焼のいけにえも罪を贖う犠牲も望まれませんでした。それゆえ主イエス・キリストはこの世に来られました。そして、聖書の巻物に書かれているように、キリストは十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、神の御心を行われました。
ヘブライ人への手紙がわたしたち読者に伝えたいことは、神の御心は十字架であるということです。詩編40編でキリストは、言われているのです。神は神殿における祭儀規定、すなわち、全焼のいけにえ、罪の贖いのための犠牲を喜ばれません。好まれもしません。だからキリストがこの世界に来られたのです。神の御心を行われ、ただ一度御自身の体を十字架にささげるために。それゆえに神殿における祭儀規定は廃されました。そして、御子の十字架が立てられました。
父なる神の御心にキリストは服従されました。ただ一度御自身の体をゴルゴタの丘の、その十字架につけられたのです。その十字架のキリストの御血潮によって、わたしたちの罪は赦されました。わたしたちは、清められ、洗礼を授かり、キリストに結び合わされ、わたしたちの内にキリストが生きてくださり、わたしたちの心は変えられ、神に近づき、永遠の救いに与かっているのです。
キリストの十字架によってわたしたちは聖化されたのです。まさに今ここで神を礼拝し、神の御言葉を聴き、聖餐の恵みに与っているのは、十字架のキリストの恵みです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、本日からヘブライ人への手紙第10章の御言葉を学びます。
どうか、聖霊よ、キリストの十字架のただ一度限りの犠牲によって、今わたしたちがここに、上諏訪湖畔教会の礼拝にいるという現実に、心から喜び感謝させてください。
キリストが御自身の十字架によって、父なる神の御心を行われたことを信じさせてください。わたしたちは、キリストの十字架によって清められ、聖化されたことを信じさせてください。
どうか、キリストの十字架の福音を、私たちの家族に、この世の人々に伝える勇気を、わたしたちにお与えください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。