ヘブライ人への手紙説教21 2022年8月7日
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。
さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。
ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、―というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですからーいったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるのでしょう。祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。
この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。― 律法が何一つ完全なものにしなかったからですーしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。
また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司になられたのです。神はこの方に対してこう言われました。
「主はこう誓われ、
その御心を変えられることはない。
『あなたこそ、永遠に祭司である。』」
このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることはできず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。
ヘブライ人への手紙第7章1-28節
説教題:「大祭司メルキゼデク」
今朝からヘブライ人への手紙第7章1-28節の御言葉を学びましょう。
この手紙は、第4章14節から第二の説教を始めています。読者であるキリスト者たちに向けて、「わたしたちには天の聖所に入られた偉大なる大祭司、神の子主イエス・キリストが与えられているのですから、彼への信仰告白を堅くし、大胆にその恵みの御座に近づこう」と、第二の説教を始めました。
それから、ヘブライ人への手紙は、読者たちに神の子主イエスは次のような理由で大祭司の資格があることを述べました。
第一の資格は神に召されたことです。第二の資格はわたしたち人間の弱さを御自分のものとして担われることです。第三の資格はキリストが神への従順によってすべての人々に対して永遠の救いの源となられ、神からメルキゼデクと同じ大祭司の地位に任命されたことです。
ヘブライ人への手紙は、5章11節から6章20節で大祭司キリストについて述べることを中断します。そして、5章11節から6章12節でヘブライ人への手紙は、読者たちに向けて彼らの背教に対する警告を語ります。彼らの信仰の未熟さを指摘し、悔い改めの不可能性を述べて、厳しく彼らの信仰の怠慢さを叱責します。
しかし、ヘブライ人への手紙は、読者たちを6章9節で「愛する人たち」と呼びかけて、彼らがもっと良い救いに関わることがあると励ますのです。
なぜなら、主なる神は、彼らが礼拝を通して神に示した愛をお忘れにならないからです。
だから、ヘブライ人への手紙は、彼らにアブラハムのように神を信頼し、根気よく神の確かな約束を受け継ぐようにと励ましました。神は御自身の誓いによって御自身の約束に変更のないことを知らされました。そして、安定した錨である主イエス・キリストが今天の聖所に入られて、メルキゼデクと同じ永遠の大祭司として、わたしたちを御国に入れるように執り成してくださっているのです。
ヘブライ人への手紙は、6章20節で「メルキゼデク」を渡し言葉として、7章から大祭司メルキゼデクについて説教を始めています。
この手紙の主題が語られ始めます。それは、10章18節まで続きます。そして、ヘブライ人への手紙は、10章19-31節で奨励と勧告を述べて、第二の説教を終えているのです。
ヘブライ人への手紙は、7章で主イエスの大祭司職をテーマにしています。このテーマは、1章3節においては暗示されていました。神の御子が人となられ、十字架の後に復活し、昇天し、天の聖所に入られ、神の右に座されました。
この1章3節の御言葉の背景に、詩篇110編の御言葉があります。神は主イエスを永遠の大祭司メルキゼデクと同じ位に任命されました。
2章17節で手紙は、主イエスを初めて「大祭司」、しかも「神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司」と呼んでいます。
さらに手紙は、3章1節で天に召されたキリスト者たちに「大祭司であるイエスのことを考えなさい」と勧めています。
それから4章14節から5章10節で手紙は、わたしたちに大祭司としての主イエスを次のように説教しています。主イエスはわたしたちが信頼すべき憐れみ深い大祭司です。彼は、わたしたちの弱さを担われます。主イエスは十字架の死に至るまで神に従順に従われました。そして、御自分に対して従順であるすべての人々に対して永遠の救いの源となられ、神によって永遠のメルキゼデクの位に価する大祭司に任命されたのです。
7章1‐3節は、メルキゼデクの紹介です。この御言葉の背景は、旧約聖書の創世記14章17-20節の御言葉です。
「アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された いと高き神がたたえられますように。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。」
旧約聖書のメルキゼデクについての言及は、この箇所と詩編110編だけです。
メルキゼデクは、アブラハムを祝福したいと高き神の祭司です。彼の名は義の王という意味です。彼はサレムの王です。彼は平和の王でした。戦争から戻って来たアブラハムに神の祝福をもたらしたからです。
ヘブライ人への手紙は、アブラハムがメルキゼデクの祝福に対して彼の戦利品の中で最上のものを十分の一献げたと記しています。
ヘブライ人への手紙は、7章3節でアブラハムを祝福したメルキゼデクが永遠にいと高き神の祭司であると述べているのです。
メルキゼデクは、歴史上のレビ人の祭司とは異なります。神の御子が永遠に変わられないように、メルキゼデクも永遠に変わることのない祭司です。
ヘブライ人への手紙は、7章4-10節でメルキゼデクとユダヤの祭司であるレビの違いを述べています。
ヘブライ人への手紙は、読者たちに7章4節でメルキゼデクの偉大さに注目させています。
族長アブラハムは神の民ユダヤ人の父祖であり、信仰の父です。祭司であるレビ族も彼から生まれたのです。レビ族は、モーセ律法によって祭司に定められ、主なる神は彼らが神の民から十分の一を徴収することを委託されました。レビ人の祭司たちは、アブラハムから生まれた兄弟たちから十分の一を受け取りました。
ところが、メルキゼデクはアブラハムを祝福し、アブラハムから生まれた血縁者でありませんでしたが、アブラハムから十分の一を受け取りました。
ヘブライ人への手紙は、この事実からメルキゼデクの偉大さを次のように述べています。第一は、祝福するメルキゼデクが祝福されるアブラハムよりも上の者であるということです。上の者が下の者を祝福するのです。
第二は、祭司であるレビ人たちは死ぬ者たちです。ヘブライ人への手紙が9章27節で述べていますように、人間は一度死ぬのです。ところが、メルキゼデクは何時までも生きている者、永遠の大祭司であります。メルキゼデクは神の子に似た者なのです。
第三は、レビ人の祭司たちがアブラハムを通してメルキゼデクに十分の一を献げたということを、手紙は述べています。
このように手紙は、読者たちに大祭司メルキゼデクの地位は祭司であるレビ人たち以上であり、まさに永遠から永遠に存在される神の御子がアブラハムを祝福したように、メルキゼデクはアブラハムを祝福したと述べているのです。
ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えたいことは、こうです。大祭司メルキゼデクは、ユダヤの大祭司たちの上に立つ者であり、まさに神の御子、主イエスは、大祭司メルキゼデクに匹敵する大祭司なのであるということです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに大祭司メルキゼデクを紹介してくれました。彼は、ユダヤ教の大祭司と比較すると、その偉大さが目に付くのです。彼はユダヤ教の大祭司のように家系がありません。始めと終わりがなく、神の子のように何時までも生きており、大祭司であり続けるのです。
それゆえに彼は天の聖所に入られた大祭司キリストの予型であるのです。
それと共にヘブライ人への手紙は、アブラハムとメルキゼデクの関係を、祝福するという点で上下関係に見ています。祝福を与える方が祝福を受ける者よりも上であると理解しています。
祝福を受けるアブラハムは、死ぬべき人間です。祝福を与えるメルキゼデクは、「生きている者と証しされている者」です。メルキゼデクは永遠の大祭司です。神の祝福は、上から下へと下ります。
主イエス・キリストの十字架と復活という御業を通して、神の祝福は永遠の神の御子から死すべきわたしたち人間にお与え下さったのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝からヘブライ人への手紙第7章1-28節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
メルキゼデクについて学ぶ機会を得て、感謝します。
わたしたちはユダヤ人ではありません。それゆえにヘブライ人への手紙の大祭司キリストがユダヤ人ではない者であり、神の律法とも関係のないものであることに、心を留めさせてください。
神との契約に生きるアブラハムがメルキゼデクに祝福され、十分の一をささげたことに、神の深い摂理を覚えるのはわたしだけでしょうか。
メルキゼデクを通して、神の子主イエスがわたしたちの大祭司として、わたしたちを救い、御国へと導いてくださることを確信することが出来て感謝します。
次週は大祭司キリストによってわたしたちが神との交わりに到達できるという希望について学ばせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教22 2022年8月14日
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。
さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。
ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、―というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですからーいったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるのでしょう。祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。
この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。― 律法が何一つ完全なものにしなかったからですーしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。
また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司になられたのです。神はこの方に対してこう言われました。
「主はこう誓われ、
その御心を変えられることはない。
『あなたこそ、永遠に祭司である。』」
このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることはできず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。
ヘブライ人への手紙第7章1-28節
説教題:「もっと優れた希望、これによって生きる」
先週からヘブライ人への手紙第7章1-28節の御言葉を学び始めました。
第7章は、ユダヤ教の大祭司とは別のメルキゼデク的な祭司職について述べています。
1-10節でユダヤ教の大祭司とは別の祭司メルキゼデクについて紹介しています。彼はユダヤ教の大祭司たちより偉大な者です。
第一に彼には父母も、系図も、誕生日も終わりもありません。まさに神の子キリストのように永遠に祭司です。
第二に神の民イスラエルの先祖アブラハムから彼は、戦利品の最上のものから十分の一を受け取りました。そして、彼はアブラハムを祝福しました。祝福は、上の者から下の者に向けてなされます。例えば神から人であるアブラハムへと。
それゆえヘブライ人への手紙はメルキゼデクを永遠から永遠に生きる神の子に比する者と述べているのです。
第三にユダヤ教の大祭司たちは、アブラハムの腰から出た者です。すなわち、アブラハムの子孫です。アブラハムが祭司メルキゼデクに十分の一を献げた時、彼らもアブラハムを通して彼に十分の一を献げたのです。そして、アブラハムを通して彼らも祝福されました。だから、メルキゼデクの方がユダヤ教の大祭司たちよりも上の者であるのです。
要するにヘブライ人への手紙がわたしたち読者にメルキゼデクを紹介しているのは、こういう理由です。メルキゼデクは、大祭司キリストを説明する象徴的存在です。彼は、神の子キリストと同様にいつまでも生きて祭司です。ユダヤ教の大祭司を越える存在です。従ってヘブライ人への手紙は、メルキゼデクがユダヤ教の大祭司と別の存在であることを強調するのです。
それがこの手紙の第7章11-19節の御言葉です。
11節でヘブライ人への手紙は、こう述べています。「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、―というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですからーいったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるのでしょう。」
ユダヤ教の祭司制度は、ユダヤ教に限定されたものです。
ところが、メルキゼデクやレビ族の出身ではない主イエス・キリストが彼らより優れた大祭司になるのであれば、それはユダヤ教の祭司制度自体の変更を意味すると、ヘブライ人への手紙は述べているのです。
メルキゼデクと主イエス・キリストは、アロンの系統の祭司、すなわち、ユダヤ教の祭司ではありません。
彼らが出現したことは、ユダヤ教の祭司制度自体の変更です。それは、神の民が規制されている律法自体の変更となります。それが、12節の「祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。」という御言葉です。
ヘブライ人への手紙が述べていることは、こういうことだと思います。ユダヤ教の祭司制度は、すべての人間にあてはまるものではなかったということです。だから、祭司制度が変更されるだけではなく、それを規制している律法も変更されるべきです。
それゆえにヘブライ人への手紙は、アロン系の、すなわち、ユダヤ教の大祭司ではなく、別の大祭司であるメルキゼデクと主イエス・キリストが必要であると言うのです。
13節と14節は、ユダヤ教の大祭司とは別の大祭司のことを述べています。モーセが述べてはいないとは、旧約聖書のモーセ五書、すなわち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記には、レビ族以外の祭司について、ユダ族出身の祭司について、記載されてはいないという意味です。
メルキゼデクのような大祭司が立てられるのは、次のような原則によると、ヘブライ人への手紙は、16節で述べています。「この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。」
肉の掟の律法とはモーセ律法のことです。ユダヤ教の祭司制度は、肉の制度であり、滅びます。現に紀元前70年にローマ帝国の軍隊がエルサレムの都と神殿を破壊しました。それ以来ユダヤ教の祭司制度は神殿と共にこの地上から消えてしまいました。
ユダヤ教の大祭司とは別のメルキゼデクのような大祭司、主イエス・キリストは、永遠の大祭司です。
ヘブライ人への手紙は、その根拠を、旧約聖書の詩編110編4節の御言葉に見出したのです。詩編110編がメシア預言として、初代教会ではよく知られていました。ヘブライ人への手紙は、主イエスがメシアであるだけではなく、永遠のメルキゼデクのような大祭司であるという真理を見出しました。
「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従って あなたはとこしえの祭司 メルキゼデク』」
これはヘブライ語聖書ですが、ヘブライ人への手紙は70人訳聖書のギリシア語訳聖書を引用しています。「あなたこそ永遠に、メルキゼデクと同じような祭司である。」
主イエスは、メルキゼデクが永遠に生きて祭司であるように、今も神の右に座されて大祭司の役目を果たされています。
18節でヘブライ人への手紙はその結果を述べています。ユダヤ教の祭司制度は、神殿と共に弱く無益なものとされ、廃棄処分されました。
同時にヘブライ人への手紙は、わたしたち読者にこう述べているのです。19節です。「― 律法が何一つ完全なものにしなかったからですーしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。」
律法であるユダヤ教はすべての人々の救いとならなかったのです。しかし、ユダヤ教よりももっと優れた希望が、わたしたちすべてにもたらされました。
それは、キリスト教です。キリスト教は希望の法です。ユダヤ教は、律法を守ることで、神との交わりを得ようとするでしょう。しかし、キリスト教は、十字架と復活のキリストが大祭司として、わたしたちを父なる神に取り成してくださり、父なる神とのの交わりに至るようにしてくださるのです。
わたしたちは、この希望によって生きているのです。今朝の主日礼拝にあずかっているのです。この世においてキリスト者として未熟な者です。罪を犯すことを避けられません。しかし、キリストはメルキゼデクのような大祭司として、永遠に生きてわたしたちを執り成してくださり、わたしたちの国籍が天にあることを絶えず自覚させ、入れるように導いてくださるのです。
だから、キリスト教の希望こそが、わたしたちを神へと近づけさせてくれるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝からヘブライ人への手紙第7章に入り、大祭司キリストについて学べる機会を得て、心より感謝します。
今朝は、主イエスがメルキゼデクのような大祭司であることを学びました。
主イエス・キリストは、メルキゼデクのように永遠に生きる大祭司として、今もわたしたちを父なる神に取り成してくださり、今朝もわたしたちが神に近づき、礼拝できるようにしてくださり、心より感謝します。
諏訪地方にある本当に小さな教会ですが、天にいます主イエスの大祭司としての執り成しのゆえに、今もこの教会が主日礼拝を継続していることを、兄弟姉妹の交わりをなしていることを、何よりも諏訪の地に存続していることを感謝します。
どんなに小さな群れであっても、主の群れです。わたしたちの国籍は天にあり、そこから主が救いに来て下さると、今も希望を持って生きています。
神の民として、この地上では旅人であり、寄留者ですが、永遠の大祭司キリストの執り成しによって、神の御国への途上にあることを心に留めさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教23 2022年8月21日
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の戦利品の中から十分の一を献げたのです。
ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかかわらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けている者を祝福したのです。
さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている者と証しされている者が、それを受けているのです。そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。
ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、―というのは、民はその祭司制度に基づいて律法を与えられているのですからーいったいどうして、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるのでしょう。祭司制度に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずです。このように言われている方は、だれも祭壇の奉仕に携わったことのない他の部族に属しておられます。というのは、わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていないからです。このことは、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられたことによって、ますます明らかです。
この祭司は、肉の掟の律法によらず、朽ちることのない命の力によって立てられたのです。なぜなら、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と証しされているからです。その結果、一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。― 律法が何一つ完全なものにしなかったからですーしかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。
また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司になられたのです。神はこの方に対してこう言われました。
「主はこう誓われ、
その御心を変えられることはない。
『あなたこそ、永遠に祭司である。』」
このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることはできず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。
ヘブライ人への手紙第7章1-28節
説教題:「主イエスは永遠に生きて救われる」
先々週からヘブライ人への手紙第7章の御言葉を学び始めました。
ヘブライ人への手紙は、1-10節でユダヤ教の大祭司とは別の祭司メルキゼデクについて紹介し、彼がユダヤ教の大祭司たちと格が違うほど偉大な者であると述べました。
そして、ヘブライ人への手紙は11-19節でメルキゼデクに等しい新しい大祭司が現われた事実を述べました。
ユダヤ教の大祭司とは別のメルキゼデクに等しい新しい大祭司は、永遠の大祭司です。彼は、ユダヤ教の大祭司とは異なり、自らを通してわたしたちを神に至らせることが出来ます。
このもっと優れた希望によって、わたしたちは生き、神に近づけることを学びました。
今朝は、ヘブライ人への手紙第7章20-28節の御言葉を学びましょう。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に新しい大祭司がユダヤ教の大祭司に比べて、わたしたちの救いにどのように効果あるものであるかを述べています。そして26-28節でこの新しい大祭司主イエスについて、一つの結論を述べています。
ヘブライ人への手紙は、レビの系統の祭司たち、すなわち、ユダヤ教の祭司たちとメルキゼデクに等しい新しい大祭司を比較して述べています。20-22節です。
「また、これは誓いによらないで行われたのではありません。レビの系統の祭司たちは、誓いによらないで祭司になっているのですが、この方は、誓いによって祭司になられたのです。神はこの方に対してこう言われました。
「主はこう誓われ、
その御心を変えられることはない。
『あなたこそ、永遠に祭司である。』」
このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです。」
ヘブライ人への手紙が述べていることによりますと、レビの系統の祭司たち、すなわち、ユダヤ教の祭司たちは誓約の言葉によらず、世襲で祭司の職に就きました。他方新しい大祭司主イエスは、誓いの言葉によって祭司の職に就かれました。
21節の詩編100編4節の御言葉です。
「神はこの方に対してこう言われました。
「主はこう誓われ、
その御心を変えられることはない。
『あなたこそ、永遠に祭司である。』」」
「その御心を変えられることはない。」は、本来「後悔することはない」という意味の言葉です。そこから「決心を変えられることはない」という意味になりました。
主なる神は、メルキゼデクに等しい新しい大祭司に言われました。「主なる神はこう誓われました。そして後悔することはない。『あなたは永遠に祭司である』」
ヘブライ人への手紙は、わたしたちにこう述べているのです。主なる神の誓いの言葉によって、メルキゼデクに等しい新しい大祭司主イエスは、いっそう優れた契約の保証人となられたと。22節の御言葉です。
22節の「いっそう優れた契約」は、19節の「いっそう優れた希望」と同じ意味です。どちらもユダヤ教に対してキリスト教が優れていることを述べているのです。
誤解を恐れずに言いますと、22節の御言葉は、ヘブライ人への手紙がメルキゼデクに等しい新しい大祭司である主イエスがキリスト教の保証人となられたと述べているのです。
そしてその保証人がレビの系統の祭司たちよりいっそう優れている点を、23—25節でヘブライ人への手紙はこう述べているのです。
「また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることはできず、多くの人たちが祭司に任命されました。しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」
レビの系統の祭司、すなわち、ユダヤ教の祭司たちは世襲制です。そして、この世では彼らは死があり、祭司の務めを永遠に続けることは出来ません。だから、ヘブライ人への手紙は多くの祭司たちが任命されたと述べています。
ある注解書を読みますと、大祭司アロンが主なる神に任命されて以来、紀元70年にエルサレム神殿がローマ軍によって破壊され、祭司制度が滅びるまで、83人の大祭司が任命されたそうです。
他方、メルキゼデクに等しい新しい大祭司主イエスは、永遠に生きる御方です。彼は、永遠に大祭司の職を担われるのです。
このようにヘブライ人への手紙は、ユダヤ教の大祭司が既に過去のものとなったのに対して、新しい大祭司主イエスは何時までも生きておられ、変わることのない大祭司の職を持っておられると述べています。
彼は生き続けておられ、御自身を通して神に近づきたいと願うわたしたちを執り成して下さっています。だから、レビの系統の祭司たちとは違い、わたしたちを完全に救うことがおできになるのです。
ユダヤ教の大祭司たちは、年に一度神殿の至聖所に入り、動物犠牲をささげて自分と祭司たちと神の民たちの罪を執り成しました。しかし、彼らは自分も祭司たちも神の民たちも主なる神に近づけさせることが出来ませんでした。
しかし、主イエスはわたしたちを完全に救われ、父なる神に近づけるように執り成してくださるのです。主イエスは御自身を犠牲としてささげられ、彼を信じる者の罪を贖われることによって、彼らを自由に父なる神に近づけさせてくださるのです。
このことを、ヘブライ人への手紙は、26-28節で述べて、新しい大祭司がわたしたちにとってどのようなお方であるかを述べています。
「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」
「聖」は、聖書の神、主なる神の本質的性質です。主なる神は、「わたしは聖である」と言われます。神御自身が聖なるものです。このメルキゼデクに等しい大祭司、主イエスは神御自身です。当然御自身聖なるお方ですから、「罪なく、汚れなく、罪人から離され」たお方です。そして主イエスは、復活し、昇天し、父なる神の右に座され、天において大祭司に就かれているのです。
ヘブライ人への手紙は、この「大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」と述べています。これは、わたしたちの側から述べているのではありません。わたしたちが神に対して何らかの条件を満たすことで、この大祭司がわたしたちにとって必要なお方となるのだと述べているのではありません。
むしろ逆です。神が無償で与えてくださる恵みによる救いを述べているのです。それが、この大祭司に最もふさわしいことだと述べているのです。
レビの系統の大祭司、ユダヤ教の大祭司たちは、年に一度神殿の至聖所に入り、自分と祭司一族と神のために罪の執り成しをしました。また祭司たちが毎日、毎週神の民たちの罪のために動物犠牲をささげていました。彼らは何度も犠牲をささげなければなりませんでした。
ところが新しい大祭司主イエスは、一度だけ、あの十字架の死によって、御自身をわたしたちの罪の贖いとしてささげられました。そしてわたしたちの救いを完全に遂行されました。
そしてヘブライ人への手紙が20節から述べてきましたことを、28節で要約してユダヤ教の大祭司に比較して、新しい大祭司主イエスがどんなに優れたお方であるかを述べているのです。
律法は、モーセを通してシナイ山で神の民に授けられたものです。その律法によって罪と死の弱さを持つ人間が祭司に任命されました。しかし、律法の後、主なる神はダビデを通して詩編110編4節の御言葉から誓いの言葉によって、完全な者とされている、すなわち、主イエスは今や天に入られ、神の栄光の中に入れられているので、完全な者です。この神の御子主イエス・キリストを、神は永遠の大祭司に任命されているのです。
わたしたちの国籍は天にあり、その天で主イエスは父なる神の右に座され、大祭司としてわたしたちのために執り成しをしてくださっているのです。
だから、わたしたちは、恐れることなく父なる神に近づくことを許されています。わたしたちのこの礼拝が主イエス・キリストを通して天にいます父なる神に近づける入口になっているのです。一緒にこの礼拝を通して天の御国に行こうではありませんか。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝ヘブライ人への手紙第7章20-28節の御言葉を学べる機会を得て、心より感謝します。
主イエスは永遠の大祭司として、今日もわたしたちを天にいます父なる神に執り成してくださり感謝します。
主イエスは、わたしたちの弱さに共感してくださる大祭司です。罪を犯されませんでしたが、御自身を私たちの罪のために、ただ一度ささげてくださいました。
主イエス・キリストを通しての神の無償の恵みによって、わたしたちは救われました。どうか、礼拝を通して神の恵みへの感謝をささげさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教24 2022年9月4日
今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべての大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物をもっておらなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではあり得なかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことはモーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった契約の仲介者になられたからです。
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。
「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実ではなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。
『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。
『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
彼らの心にそれを書きつけよう。
わたしは彼らの神となり
彼らはわたしの民となる。
彼らはそれぞれ自分の同胞に、
それぞれ自分の兄弟に、
「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
小さな者から大きな者に至るまで
彼らはすべて、わたしを知るようになり、
わたしは、彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。
ヘブライ人への手紙第8章1-13節
説教題:「キリストの犠牲の独自性」
ヘブライ人への手紙は、8章から新しい大祭司キリストにつて語り始めます。
それが8章1‐2節の御言葉です。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。」
ヘブライ人への手紙は、7章まで主イエス・キリストがメルキゼデクに等しい永遠の大祭司であることを主張しました。ユダヤ教のこの世における一時的な人間の大祭司に対して主イエスは永遠の神の子の大祭司として完全にわたしたちを父なる神に執り成され、永遠に大祭司としてわたしたちと共に居てくださいます。
ヘブライ人への手紙は、この8章から新しい大祭司キリストを主張します。1節の「今述べていることの要点」とは、7章からヘブライ人への手紙が主張し始めました大祭司キリスト論についての新しい展開を述べようとしているのです。
7章の大祭司キリスト論を要約するのではありません。そこから新しい大祭司キリスト論を主張し始めるのです。すなわち、天の聖所における大祭司キリストの新しい務めを詳しく語り始めています。
「わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて」とは、直訳しますと、「このような大祭司を、わたしたちは持っている」です。
具体的にはヘブライ人への手紙が7章26節で述べている大祭司キリストです。「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」
わたしたちが持っている大祭司キリストは、地上の罪人である大祭司ではなく、聖なる罪も汚れもない天的な大祭司です。彼は天に上げられ、父なる神の右に座されて、わたしたちを常に執り成し続けてくださっています。
この大祭司は、ユダヤ教の大祭司のように人間が作った神殿で仕えてはおられません。父なる神が建てられた天の聖所で、また真の幕屋で仕えられているのです。
「真の幕屋」は、5節の「モーセの幕屋」に対するものです。モーセの幕屋は荒野に建てられました。ヘブライ人への手紙が5節で述べていますように、モーセは主なる神のお告げを受けて、荒野に天の幕屋を型どおりに模した幕屋を作りました。
ですから、ヘブライ人への手紙は、「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており」と述べているのです。モーセが荒野で建てた幕屋、ソロモンがエルサレムの都に建てた神殿は、天の聖所の写しであり、影です。天の聖所こそが真の幕屋であり。神殿なのです。そして、大祭司キリストは、天にある真の幕屋、聖所に仕えておられるのです。
次にヘブライ人への手紙は、ユダヤ教の大祭司たちの務めを言及しています。3節です。「すべての大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。」
「すべての大祭司」とは、地上の聖所、すなわち、エルサレム神殿に仕えるユダヤ教の大祭司です。彼らは、「供え物といけにえを献げるために、任命され」ました。「供え物」は、穀物等の献げ物です。「いけにえ」は動物犠牲です。
地上のユダヤ教の大祭司たちは、継続して供え物と動物犠牲を献げなければなりませんでした。
ヘブライ人への手紙は、「それで、この方も、何か献げる物をもっておらなければなりません。」と、持って回った言い方ですね。主イエスは、ただ一度、御自身を献げることによって、わたしたちの罪のために完全な犠牲を献げて下さったということを暗示しているのです。
ヘブライ人への手紙は、4節で「もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではあり得なかったでしょう。」と述べていますね。これも持って回った言い方ですね。
要するに、ヘブライ人への手紙は、こう述べたいのです。キリストはこの地上の聖所に於ける大祭司ではない。もし、地上にいて祭司の務めをするならば、律法に従って毎日供え物と犠牲を献げ続けなければならない。キリストはそういうことはされていない。だから、キリストは地上に於ける祭司ではないと。
このようヘブライ人への手紙は、ユダヤ教の祭司とキリストを比較して、キリストは地上の祭司たちとは違うメルキゼデクに等しい大祭司として、天において神とわたしたち人間を仲介してくださっているのだと主張するのです。
そしてヘブライ人への手紙は、大祭司キリストが天の聖所において契約の仲介者としての務めとなされていると、6節で次のように述べているのです。
「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった契約の仲介者になられたからです。」
ヘブライ人への手紙は、大祭司キリストの天における聖所の務めが、地上に於けるユダヤ教の大祭司たちのエルサレム神殿における務めに優ると述べています。ユダヤ教の祭司たちは神殿で供え物と動物犠牲を献げるために任命されました。
それに対して主イエス・キリストは、天の聖所においてそれよりも優れた務めを与えられました。神の契約の仲介者になられたからです。
ヘブライ人への手紙は、大祭司としてのキリストの務めと契約の仲介者としてのキリストの務めを結び合わせています。
ヘブライ人への手紙は、7章20-22節でレビ系のユダヤ教の祭司とキリストを比較し、ユダヤ教の祭司たちは誓いによって任命されなかったが、キリストは父なる神の誓いによって永遠の大祭司に任命されたと述べて、「このようにして、イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです」と述べています。
ここではヘブライ人への手紙は、持ち回った言い方をしているだけです。9章14-15節で契約とキリストの犠牲の死が明確に記されています。契約の仲介者になられたキリストは、永遠に父なる神とわたしたち罪人を執り成す大祭司となられました。そして、彼は、ただ一度御自身の死によって最初の契約によって神に罪を犯したすべての人間の贖いとなって下さったのです。
このようにヘブライ人への手紙を読み解きます時に、神の子であるキリストが人の子としてこの世においてただ一度わたしたちの罪のために死なれたというキリストの犠牲の独自性によって、わたしたちは神の約束のいっそう確かさの中に置かれるのです。
次回は二つの契約について、ユダヤ教とキリスト教という立場からヘブライ人への手紙を読み解きたいと思います。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝ヘブライ人への手紙第8章1-6節の御言葉を学べる機会を得て、心より感謝します。
主イエスはメルキゼデクに等しい永遠の大祭司です。そして、今日は主イエスが天の聖所における大祭司であり、恵みの契約の仲介者であることを学ぶことが出来て感謝します。
主イエスは、この地上にいて、わたしたちの教会の礼拝を司式されることはありません。しかし、御国において、天の聖所において礼拝の司式者です。そして、わたしたちを永遠に父なる神に執り成してくださる恵みの契約の仲介者です。
神の「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という約束は、十字架のキリストのただ一度の犠牲の死という独自性によって確かなものとされました。
どうか、大祭司主イエス・キリストを通して、今朝わたしたちは御言葉と聖餐の恵みに与ります。どうか、わたしたちに十字架のキリストを仰がせてください。このキリストのただ一度の犠牲の死によって、わたしたちは恵みの契約の約束の確かさの中に置かれて、今朝の礼拝を喜びできることを確信させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教25 2022年9月11日
今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべての大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物をもっておらなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではあり得なかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことはモーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった契約の仲介者になられたからです。
もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。
「『見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る』と、
主は言われる。
『それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
エジプトの地から導き出した日に、
彼らと結んだ契約のようなものではない。
彼らはわたしの契約に忠実ではなかったので、
わたしも彼らを顧みなかった』と、
主は言われる。
『それらの日の後、わたしが
イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、
主は言われる。
『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
彼らの心にそれを書きつけよう。
わたしは彼らの神となり
彼らはわたしの民となる。
彼らはそれぞれ自分の同胞に、
それぞれ自分の兄弟に、
「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。
小さな者から大きな者に至るまで
彼らはすべて、わたしを知るようになり、
わたしは、彼らの不義を赦し、
もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」
神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。
ヘブライ人への手紙第8章1-13節
説教題:「ユダヤ教とキリスト教」
今朝は、ヘブライ人への手紙第8章7-13節の御言葉を学びましょう。
「最初の契約」と「第二の契約」、「古い契約」と「新しい契約」という言葉が出てきます。これらの言葉を理解することが、今朝の御言葉を理解する鍵になります。
そして、ヘブライ人への手紙は、第7章22節で「イエスはいっそう優れた契約の保証となられたのです」と述べて、大祭司キリストが天の聖所において新しい契約の仲介者としての務めとなされていると述べています。そして、8章6節で「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった契約の仲介者になられたからです。」とも述べています。
ヘブライ人への手紙は、ユダヤ教を神との古い契約と呼び、キリスト教を大祭司キリストが天における聖所で保証してくださっている新しい契約と呼んでいるのです。
これは、初代教会ではよく知られていました。使徒パウロは、主の晩餐におけるパンとぶどう酒がキリストの犠牲の体と血であり、わたしたちキリスト者は十字架のキリストの仲介を通して、神の民に加えられ、神との新しい契約を結び、キリストがその保証となられたと述べています。
ヘブライ人への手紙は、使徒パウロがコリント教会の聖餐式で語りました御言葉を心に留めていたのではないでしょうか。天にいます大祭司キリストが仲介者となられ、永遠の命というさらに優れた約束に基づいてキリスト教会はキリストの御命令によって聖餐式を制定しました。
天にいますキリストは、教会に聖霊を遣わされました。聖霊のお働きで聖餐式に集うわたしたちは、永遠に生きておられ、変わることのない大祭司キリストの執り成しに与ることが出来るのです。
ヘブライ人への手紙は、7章25節で「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく者を完全に救うことがおできになるのです」と述べています。
主イエスは今も生きておられます。この大祭司キリストの犠牲による贖いのゆえに、わたしたちは父なる神に近づくことが許されています。毎週の主日礼拝を通して、聖餐式を通して、わたしたちはこの地上から御国へとキリストの執り成しによって完全な救いと至るのです。
さて、ヘブライ人への手紙は、8章7-13節で古い契約と新しい契約について述べています。
8章7節では、古い契約が「最初の契約」と呼ばれ、新しい契約が「第二の契約」と呼ばれています。
最初の契約は、シナイ契約のことです。出エジプトにおいて主なる神が指導者モーセを通して神の民イスラエルと結ばれた契約です。
主なる神は、彼らと恵みの契約を更新されて、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束され、十戒の石の板二枚を彼らの目の前に置いて守るように命じられた。
ヘブライ人への手紙が7節で「あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら」と述べているのは、「非の打ちどころがない」、「非難する所がない」という意味です。義人を指す言葉です。
主なる神と神の民イスラエルとの最初の契約は、不完全でした。なぜなら、神は彼らの前に十戒の板を二枚置かれたが、彼らは守れませんでした。神の民イスラエルは、荒野でも約束の地か何でも神の戒めを守れず、神の民は主なる神から背反し、彼らの王国は滅びてしまいました。
その王国がまさにネブカドネツァル王が率いるバビロニア帝国の軍隊によって滅ぼされようとした時に、預言者エレミヤが現われ、主なる神の新しい契約の約束を告げたのです。
それが、ヘブライ人への手紙第8章8-12節の御言葉です。この御言葉は、旧約聖書の預言書のひとつ、エレミヤ書第31章31-34節の御言葉の引用です。
ヘブライ人への手紙は、次のように述べて引用しています。「事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。」
ヘブライ人への手紙が非難しているのは、神の民であり、最初の契約ではありません。不完全であったのは、最初の契約ではありません。神の民が最初の契約を守れなかったことです。彼らは、石の板に刻まれた主なる神の御言葉を守れませんでした。
ヘブライ人への手紙は、70人訳旧聖書のエレミヤ書第31章31-34節をそのまま引用しています。
預言者エレミヤは、次のように預言しています。
「見よ、イスラエルの家に対して、またユダの家に対して、新しい契約を実現する日々が来る、と主は言われる。」
預言者エレミヤが預言する「新しい契約」の「新しさ」は、時代的に新しいという意味ではありません。すなわち、「最新の」という意味ではありません。
9節以下のエレミヤの預言を読まれますと、次のことを理解されるでしょう。全く経験のない新しさです。だれもがこれまで知らなかった新しさです。
預言者エレミヤは、9節で出エジプト記の最初の契約に言及しています。奴隷の地エジプトから解放された神の民が、指導者モーセに率いられて、荒野のシナイ山に行きました。彼らは、そこで主なる神に会い、恵みの契約を更新しました。
その契約の内容は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という主なる神の約束です。
そして主なる神は彼らにモーセを通して十戒の二枚の石の板を授けられ、守るように命じられました。
しかし、神の民イスラエルは、主なる神に忠実ではありませんでした。彼らは十戒を守らないで、偶像の神々を拝み、主なる神に背を向けました。そして彼らは十戒を破り、不道徳の罪を犯しました。その結果、主なる神も彼らを顧みられませんでした。
10-12節は、預言者エレミヤが新しい契約について預言しています。その新しさの第一は、神の律法を神の民の前に置くのではなく、彼らの心に刻まれます。第二にだから、神の民は「主を知れ」と教えられる必要がありません。子どもから老人まで神の民の心に聖霊が主を知ることが出来るようにしてくださっています。第三に新しい契約の仲介者、保証人は主イエス・キリストです。この御方の十字架の犠牲によって新しい契約の神の民たちは、彼らの不義を赦され、キリストの執り成しのゆえに神は彼らの罪を思い起こされません。第四にこの新しい契約は普遍です。ユダヤ人だけでなく、すべての人々と結ばれる契約です。第五にこの新しい契約の民は、誰もが主を認識し、主に服従することが出来るのです。
このようにヘブライ人への手紙は、預言者エレミヤの新しい契約という預言の御言葉が今や実現したのだと述べているのです。そして古いものは消え去るのです。
それが13節の御言葉です。「神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消え失せます。」
律法と預言者の時代、旧約の時代は過ぎ去りました。今や御子の時代、聖霊の時代が来ているのです。
13節の御言葉は、紀元70年にローマ帝国の軍隊がエルサレムの都と神殿を破壊した出来事と関係していると思います。御子主イエス・キリストが来られ、聖霊が下られました。エルサレム神殿とユダヤの祭司たちはこの地上から消え去りました。ヘブライ人への手紙は、古い契約で呼ばれていたユダヤ教は古くなり、消えゆき、新しい契約と呼ばれているキリスト教の時代になると思ったでしょう。
ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えたいことは、次のことです。古い契約であるユダヤ教の律法、祭司制度、天使、安息日、約束等のすべては、新しい契約であるキリスト教に比べて劣ったものであり、神が廃棄されたのであるということです。
主なる神はユダヤ教という古い契約に代えて、キリスト教という新しい契約を実現されたのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、今朝ヘブライ人への手紙第8章7-13節の御言葉を学べる機会を得て、心より感謝します。
古い契約と新しい契約について学ぶ機会を得て感謝します。
御子の時代、聖霊の時代が来て、律法、神殿、祭司制度、安息日等が古くなり、消え去りました。
しかし、永遠の大祭司主イエス・キリストは、新しい契約の仲介者、保証人であります。今も生きて働かれ、わたしたちを父なる神に執り成してくださり、御自身の犠牲によってわたしたちの罪は神に赦されています。心より感謝します。
どうか聖霊に導かれ、神の御言葉に従い、神の御国へと歩ませてください。
主なる神がわたしたちに「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束してくださった御言葉に、わたしたちを固く結び付けてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。