ヘブライ人への手紙説教16 2022年6月12日
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
だから、わたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れ、成熟を目指して進みましょう。
神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。
ヘブライ人への手紙第5章11節-第6章12節
説教題:「信仰の未熟さ」
ヘブライ人への手紙は、4章14節から第二の説教を語り始めました。第二の説教は、読者たちへの奨励から始まりました。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に大祭司神の子主イエス・キリストが与えられていると語り、わたしたちの信仰告白をしっかり守りましょうと励ましています。
なぜなら、大祭司神の子主イエス・キリストは、天から訪れられ、わたしたちと同じ経験をされたからです。弱いわたしたちをよく知られている大祭司なのです。
ヘブライ人への手紙はわたしたち読者を次のように励ましています。大祭司主イエスがわたしたちを父なる神様に執り成してくださるのですから、大胆に主日礼拝に集おうではありませんかと。
そして、ヘブライ人への手紙はわたしたち読者に5章1-10節でユダヤ教の大祭司と大祭司神の子主イエスを比較して述べ、大祭司キリストが優れていることを論証しています。
ユダヤ教の大祭司は人間から選ばれ、神に召されてその職に就きました。そして、彼自身も神の民と同様に罪の贖いのために動物犠牲を神に献げなければなりませんでした。
主イエスは永遠にメルキゼデクと同じ父なる神に召された大祭司であり、御自身を十字架に犠牲として献げられました。そして、主イエスは父なる神に十字架上で罪の執り成しを祈ってくださいました。
父なる神は、十字架の死に至るまで御自身に従順であられたキリストの故にキリストの祈りと願いを受け入れられました。大祭司キリストは彼を主と信じるすべての者の永遠の救いの源となられました。
このようにヘブライ人への手紙は、わたしたちにユダヤ教の大祭司に対して大祭司神の子主イエスがどんなに優れたお方であるかを説教しました。
ヘブライ人への手紙は、5章11節から6章20節において大祭司キリストについての説明を中断し、この手紙の読者である初代教会のキリスト者たちに対して彼らの信仰の未熟さを非難し、乳児から大人に成長するようにと励ましているのです。
ヘブライ人への手紙は、教会における信者たち、特に教師たちの信仰の未熟さを厳しく非難しています。
ヘブライ人への手紙は、教会における信者たちの信仰の未熟さという問題を無視できませんでした。それによってこの手紙が語る大祭司キリストについての説教を、読者たちが理解できないという問題があったからです。
だから、ヘブライ人への手紙は、読者たちに5章11節で卒直に彼らの信仰の未熟さを非難しました。「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」
ヘブライ人への手紙は、読者たちにキリストがメルキゼデク同様に大祭司であることについていろいろと説教したいのです。ところが説教を聴きます読者たちの耳が鈍くなっているのです。
新共同訳聖書は礼拝用に翻訳されたものです。だから、ヘブライ人への手紙が読者にどんなに汚い言葉で非難していても、不快にならない言葉を用いています。しかし、実際はこう述べているのです。「あなた方は聞くことに関してうすのろだから、これを説明するのが難しいのだけれども。」(田川健三訳著「新約聖書 訳と註 6 公同書簡/ヘブライ書」P057 作品社)と。
「うすのろ」では聞こえが悪いので、新改訳聖書2017も「聞くことに対して鈍くなっている」とわたしたちの聖書同様に訳しています。
ヘブライ人への手紙が大祭司キリストについていろいろと難しい説教をするからこの手紙の読者は困難を覚えているのではありません。むしろ、逆です。読者たちの信仰の未熟さにゅえに、ヘブライ人への手紙が大祭司キリストについていろいろと説明するのが困難だと述べているのです。
その信仰の未熟さを、ヘブライ人への手紙は、12-14節でこう具体的に述べています。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」
ヘブライ人への手紙は、読者たちの信仰の未熟さを、皮肉を込めて、大変厳しく非難しているのです。
長い間彼らの中のある者たちは自分たちが教師であると威張っていたのでしょう。ですから、彼らは教会の中で求道者たちや信仰の浅い者たちを教えていたはずです。ところが、ヘブライ人への手紙は、実際彼らの信仰の未熟さを嘆いているのです。教会が信仰の未熟さという問題を抱えていたのです。
5章12節の「神の言葉の初歩」と6章2節の「キリストの教えの初歩」とは、同じ意味です。キリスト教で最初に学びますいろいろな教えのことです。
具体的には、6章1‐2節に記されています。死んだ行いの悔い改め、神への信仰、洗礼について、按手について、死者の復活、最後の審判についての教えです。これらを学び直さないといけないほどに、彼らの信仰が未熟で成長していないのです。
ヘブライ人への手紙の読者たちは、本当はキリスト者として善悪の判断ができる、まさに大人としての信仰の知恵を学ばなければなりませんでした。ところが、彼らは信仰の未熟さのゆえに乳児に戻っているのです。
13節でヘブライ人への手紙は、乳児に戻った彼らを非難して、「幼子ですから、義の言葉を理解できません」と述べています。
「義の言葉」は、「正しい言葉」です。これは大人が善悪を判断して行動する基準となる言葉ではないでしょうか。ヘブライ人への手紙は具体的にこの言葉を説明していませんので、何かとは説明できません。しかし、この手紙の読者は知っていたでしょう。少なくとも信仰に成熟した大人であるキリスト者は、「義の言葉」を信仰生活の規準にしていたでしょう。
「義の言葉」を弁えることが、ヘブライ人への手紙が述べている「固い食物」を食べることではないでしょうか。
わたしは「義の言葉」が説教の言葉ではないかと思うのです。この説教の教えによって14節の御言葉がわたしたちの現実となっていると思うのです。
「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」
礼拝で聴きます説教は、わたしたちキリスト者の一週間の日常生活における生活と態度に大きな影響を与えるものです。
毎週主日礼拝の説教を通して、わたしたちは日常生活においてキリスト者として鍛錬された感覚を養い育てることが出来るのです。
説教を聴くという行為を通して、わたしたちは日常において「義の言葉」を規準として鍛錬されたキリスト者の感覚を持ち、この世における善悪を識別できるのです。
わたしたちは、主の祈りを唱えます時に、「天に成るように、地にも成させたまえ」と祈りますね。我が身よりも、主の御心を優先すべきです。
先程「義の言葉」を説教の言葉と言いましたが、説教は聖書の御言葉の解き明かしであるわけですから、聖書こそわたしたちにとって良い教えであり、信仰と生活の唯一の規準です。
ヘブライ人への手紙が教会における信仰の未熟さの問題を、ここで取り上げるとき、それを今聴いているわたしたちは、ここで今何を問われているのでしょうか。
わたしたちの信仰が単なるお題目であってはならないということです。聖書をよく読んでいる、またよく学んでいる。また教理を良く学んでいる。それは良いことだと思います。
しかし、ヘブライ人への手紙はそれだけでは合格点をくれないでしょう。
わたしたちが主日礼拝の説教を聴くことを通して、わたしたちの生活の仕方や態度に影響がなければなりません。
わたしたちの日常生活でわたしたちの信仰が鍛錬され、キリスト者としてのいろんな感覚を持ち、それが結果的にわたしたちに主の御心が何であるかを常に心に留めさせ、それによってわたしたちが日常生活で経験するすべてのことの善悪を識別することができる大人となるのです。
わたしは、今朝のヘブライ人への手紙の御言葉に耳を傾けながら、使徒パウロがローマの信徒への手紙第12章1‐2節で述べている御言葉を思い起こしました。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるよになりなさい。」。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第5章11-14節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちにも信仰の未熟さという問題があることを教えられ、感謝します。聖書を学ぶこと、教理を学ぶことに熱心ですが、聖書を信仰と生活の規準として、この世において何が神の御心であり、何が善で何が悪かを、よく見極めて生活することは難しいです。
この世の人々に、日本の社会に合わせて生活することが楽でありますので、日常生活の中で隣人と問題なく生きようとしています。
主の御心を優先して生きるべきですのに、どちらか言えば我が身を優先して日常生活を過ごしています。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちの信仰の未熟さを非難し、大人になるように、わたしたちの日常においていろいろなわたしたちの感覚を鍛錬し、その結果として常に聖書を規準にし、何が神の御心で、何が善で、悪かを識別する生活をするように勧めています。
どうか信仰にだけ閉じこもることなく、わたしたちの日常生活でわたしたちが経験することに心を留めさせてください。
どうか天に成るごとく、地にも成させてくださいと祈らせてください。日常における政治、経済、その他いろんな領域に関心を持たせてくださり、主の御心を尋ね求めさせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教17 2022年7月3日
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
だから、わたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れ、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。
ヘブライ人への手紙第5章11節-第6章12節
説教題:「成熟を目指しましょう」
ヘブライ人への手紙は、5章11節から6章20節において大祭司キリストについての教えを中断し、5章11節から14節でこの手紙の読者であるキリスト者たちに対して彼らの信仰の未熟さを非難しています。
なぜなら、それによってこの手紙が語る大祭司キリストについての教えを、彼らが理解できないからです。
ヘブライ人への手紙は、彼らを5章11節で厳しく非難しています。「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。」
ヘブライ人への手紙は、彼らにキリストがメルキゼデク同様の大祭司であることについて、いろいろと説教し、教えたいのです。しかし、信仰の未熟な彼らは、ヘブライ人への手紙が説教し、教えることを聞いて理解する耳を持っていません。
ヘブライ人への手紙は、彼らにひどい言葉で非難しています。「あなた方は聞くことに関してうすのろだから、これを説明するのが難しいのだけれども。」(田川健三訳著「新約聖書 訳と註 6 公同書簡/ヘブライ書」P057 作品社)と。
ヘブライ人への手紙が彼らに大祭司キリストについていろいろと難しい説教をするから、彼らは理解できないのではありません。むしろ、逆です。読者たちがうすのろであるので、ヘブライ人への手紙は大祭司キリストについての説明を、彼らに理解させるのが困難なのだと、言っているのです。
だから、ヘブライ人への手紙は、5章12-14節でさらに続けてこう述べています。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」
5章12節の「神の言葉の初歩」と6章2節の「キリストの教えの初歩」は同じ意味です。キリスト教の基本的な教えです。
6章1-2節で次のように具体的な例を挙げています。「だから、わたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れ、成熟を目指して進みましょう。」
ヘブライ人への手紙は、読者に必要なものをよく知っています。それは、5章14節で述べている「固い食物」です。
これは、大人の食べるものです。乳児には食べられません。だからこの手紙は、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのもの」と述べています。
この手紙は、5章13節で「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。」と述べていますね。
「固い食べ物」を、「義の言葉」と言い換えています。これは大人が善悪を判断して行動する基準となる言葉のことです。
ヘブライ人への手紙は、「義の言葉」を具体的に何であるか説明していません。推測する他ありません。
わたしは「義の言葉」を、説教の言葉と思うのです。
礼拝でわたしたちが聴き続けている説教の御言葉が「固い食物」です。「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」とは、わたしたちが毎週の主日礼拝で説教を聴き続けるという経験によって、わたしたちが神の御心を、何が善であり、悪であるかを見分ける感覚を養い訓練しているのです。
ところがヘブライ人への手紙の読者たちは、大人のキリスト者へと成熟するどころか、逆に乳幼児に戻ってしまいました。
彼らは、大人のキリスト者として、教師として若者たちに教える立場にありました。ところが、大人のキリスト者に成熟できず、乳児に戻り、信仰の基本的な教えを学び直す状態でした。
それが6章1-2節の御言葉です。ヘブライ人への手紙が記しています「死んだ行いの悔い改め」、「神への信仰」、「種々の洗礼についての教え」、「手を置く儀式」、「死者の復活」、「永遠の審判」。これらの教えはキリスト教の基本的な教えです。
これらは三つのグループに分けられます。第一は、「死んだ行いの悔い改め」と「神への信仰」です。第二のグループは、「種々の洗礼についての教え」と「手を置く儀式」です。そして第三のグループが「死者の復活」と「永遠の審判」です。
第一のグループは、異教からの真の唯一の神への信仰に立ち帰ることです。「死んだ行い」とは偶像礼拝のことです。偶像礼拝の罪から真の唯一の神、主への信仰に立ち帰ることです。
第二のグループの洗礼と按手の教えは、聖霊を受けることと関係しています。
「種々の洗礼についての教え」が何を意味するのか、よく分かりません。
わたしたちの場合ですと、洗礼には三つの形式があります。水槽に洗礼者の身を浸す浸礼という形式、洗礼者の頭に水に浸した手を置く適礼という形式、水を洗礼者に降り注ぐという形式があります。
しかし、ヘブライ人への手紙の時代に、この三つの洗礼の形式があったという事実は見つかっていません。使徒言行録には、洗礼者ヨハネの洗礼とキリスト者の聖霊のバプテスマには違いがあることが記されています。しかし、それが「種々の洗礼についての教え」と同じであると言い切れません。
次のことは推測に過ぎません。ヘブライ人への手紙の読者たちは、ユダヤ教からキリスト教に改宗した者たちです。その時に彼らは、まず改宗者として洗礼を受け、次にキリストの名によって洗礼を受けたと考えられています。これが事実かどうか、確かめるすべはありません。
第三のグループの死者の復活と神の永遠の裁きは、ユダヤ教とキリスト教の共通の終末論です。
第一のグループと第三のグループは、ユダヤ教とキリスト教に共通のものであり、第二のグループの洗礼と按手が、聖霊を受けることがキリスト教独自のものです。
しかし、ヘブライ人への手紙は、この三つのグループの基本的な教えで肝心のキリストとキリストの御業について言及していません。
分かっていることは、ヘブライ人への手紙が5章12節と6章1‐2節で二度にわたり「神の言葉の初歩」、「キリストの教えの初歩」と三つのグループの基本的な教えに戻ることを非難し、キリスト教の基本的な教えを学び直すことを強く否定していることです。
だから、ヘブライ人への手紙は読者たちに次のように励まします。「基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れ、成熟を目指して進みましょう。」と。
そして、6章3節でもヘブライ人への手紙は、読者たちに「神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。」と述べています。
ヘブライ人への手紙は、読者たちを、大人のキリスト者に成熟させたいのです。それが神の御心であると信じているのです。
神が聖であるように、キリスト者が聖となることが、ヘブライ人への手紙にとって、彼らが完全な者となることなのです。
そのためにヘブライ人への手紙は、読者たちを励まします。毎週の礼拝で「義の言葉」を聴き続けよう。大人のキリスト者として何が神の御心か、何が善であり、悪であるかを、訓練によって身につけ、成熟しよう。神がお許し下されば、あなたがたは大人のキリスト者として成熟できるのですと。
今朝のヘブライ人への手紙が読者を励ます御言葉を聴いて、わたしは神の御言葉を語る者として、一つのことを心に留めました。
それは、礼拝で語られる説教とは何かということです。
わたしは大学生の時に大学の近くにある宝塚教会に導かれました。しばらくして金田幸男牧師が神港教会から宝塚教会の牧師になられました。その日から金田牧師の説教を聴き続けました。
一言で言うと、金田牧師の説教は、今わたしがしている説教でした。聴いた説教以外、わたしは説教できません。わたしは、ただ聖書を説き明かす説教を聴き続けました。だから、聖書のお話をしています。
わたしたちの前には、聖霊に寄り頼む道と人の言葉のマニアルどおりにする道があります。
聖書の御言葉が語られ、それを聞き続ける道と、聖書が語られ、最後に牧師がわたしたちに日常生活に聖書の御言葉を適用して、そのマニアルどおりにわたしたちを導く道があります。
前者は牧師の言葉のとおりに従えば、良いのです。後者は、自分が聞いた御言葉から何が主の御心であるか、何が善であり、悪であるかを判断しなければなりません。だから、彼は語る牧師に頼らず、自分にも頼らず、聖霊に寄り頼むのです。
このヘブライ人への手紙が述べている通りです。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」
改革派教会の礼拝説教は、聖書以外に何もありません。わたしたちは、主日礼拝でその聖書を説き明かす牧師の説教を聴くのみです。その時に聖霊がわたしたちに聖書の御言葉とその説き明かしである説教を神の御言葉であると証言してくださり、わたしたちの心にキリストの十字架がわたしたちの罪のためであると悟らせてくださるのです。
だから、大人のキリスト者は、聖霊に寄り頼み、義の言葉である説教を聴くのです。その時、わたしたちは適用という牧師が語る信仰のマニアルは必要ありません。聖霊があなたがたの心に働きかけて、今日聴いた説教を通して、何が主の御心か、何が善であり、悪であるのかを判断することができるようにしてくださるのです。
大人のキリスト者とは、成熟したキリスト者とは、聖霊に寄り頼み、人の言葉から自由にされた者のことです。成熟した者とは、大人です。大人は子供のように監督されません。自由に思い通りに振舞うことができます。
同じように求道中の時は、牧師や長老からいろいろと信仰のイロハを、キリスト教の基本を学びますし、指導を受けます。
しかし、洗礼を授かり、聖霊を受けると、わたしたちは聖霊のみに寄り頼み、説教を聴き続けて、聖書の御言葉を自分の信仰と生活の唯一の規準として、何が神の御心であるかを、何が善であり、悪であるかを判断するのです。
ですから改革派教会は、牧師が具体的に信仰のマニアルを示してくれることよりも、正しく聖書の御言葉を説き明かしてくれることを重んじているのです。
キリスト者の自由は、わたしたちが聖書を自分で解釈できることです。聖霊に寄り頼むキリスト者は、聖霊に導かれ、主日礼拝の説教を聴き続け、自分で主の御心を知り、何が善であり、悪であるかを判断するのです。
これを神が許してくださるならば、わたしたちは説教を聴いて自分で神の御心が何かを知ることができるし、知ったことを行なうように導かれるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第5章11節から第6章3節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちには信仰の未熟さという問題があります。どうか、聖霊に寄り頼み、その弱さを克服させてください。
聖霊に導かれて今朝の御言葉を通して、主の御心を悟らせてください。何が善であり、悪であるかを、わたしたちが判断し、日常生活を歩めるようにしてください。
いつまでも人の言葉に支配されることがありませんように、わたしたちを成熟したキリスト者としてください。
キリストの十字架の贖いによってわたしたちが得た自由を大切にし、ただ人に教えられた通りに生きるのではなく、聖霊に導かれ、聴いた御言葉を通して自分で判断したことを、主の御心として歩ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教18 2022年7月10日
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
だから、わたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れ、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。
ヘブライ人への手紙第5章11節-第6章12節
説教題:「厳しい戒めを前にして」
今朝は、ヘブライ人への手紙第6章4-8節の御言葉を学びましょう。ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちに「悔い改めの不可能性」を警告しています。大変厳しい勧告の言葉です。
この厳しい勧告の言葉は、初代教会の事情を反映しています。初代教会は、無知のゆえにキリストを拒むことについては寛容でありました。しかし、キリスト教の初歩を学び、洗礼を受けた者がキリストを拒むことについては、非寛容でした。
ヘブライ人への手紙は、次の原則に従っていました。洗礼によって人は、新しい命に生きるのです。だから、洗礼後の罪はあり得ないと。受洗後の罪の悔い改めはあり得ないと。なぜなら、キリストの十字架と復活は一度限りのことです。キリスト者の洗礼は、それに与ることでした。救いの恵みも一度限りのことです。
ヘブライ人への手紙は読者であるキリスト者たちにこの原則に従って厳しい勧告をするのです。それが、6章4-8節の御言葉です。
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」
ヘブライ人への手紙は、受洗後の罪には赦しの望み、悔い改めの望みはないという見解に立っています。
「一度光に照らされ」は、10章32節に同じ表現が出てきます。聖霊を受けることです。聖霊によって心を照らされることです。それによってわたしたちはキリストへの信仰を得たのです。そして後には、洗礼がこの言葉の生活の座となりました。
「天からの賜物を味わい」とは、狭い意味は聖餐式のことです。キリスト者は洗礼を受け、そして聖餐の恵みにあずかり、天国の前味を体験するのです。
洗礼と聖餐は、聖霊を受けたキリスト者の天的祝福です。そして、この祝福は、神の御国の相続者である神の子の特権です。神の子であるキリスト者は、この地上だけではなく、神の御国の祝福にも与るのです。
それを、ヘブライ人への手紙は、「聖霊にあずかるようになり」と述べているのです。キリスト者が洗礼と聖餐、そして神の祝福に与るのは、聖霊に与ることです。主イエスは、聖霊を通してキリスト者たちにこの世におけるすべての祝福を賜るのです。
「神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら」とは、洗礼式、聖餐式で語られる主イエスの御言葉の約束です。洗礼式で厳粛な神の約束の宣言が語られ、聖餐式においてもキリストの再臨と御国での永遠の交わりが約束されています。
わたしたちは、洗礼と聖餐においてキリストと一つに結び合わされ、御国の相続者とされるのです。死んだ体がキリストのように、来るべき世に復活するのです。その恵みを、聖霊と神の御言葉を通して毎週の礼拝ごとに体験しているのです。
だから、ヘブライ人への手紙は読者であるキリスト者たちを6章6節で次のように厳しく戒めているのです。「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。
「堕落した者」とは、キリスト教の真理を放棄した者のことです。先ほど話しましたように、キリストの十字架と復活は一度限りのものです。だから、罪の赦しという神の恵みも一度限りのものです。キリスト者がキリストを拒めば、二度と罪の赦しを得られないのです。キリスト者が信仰を否認することは、光に照らされることを永遠に失うことです。一度限りの十字架のキリストの恵みを失うことです。
だから、ヘブライ人への手紙はキリスト者である読者たちに次のように厳しく戒めているのです。「その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません」。
ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちに、更に次のように彼らが信仰を捨てれば、救われない理由を、こう述べています。「神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」
「改めて」という言葉があるのか、ないのか、難しい問題です。東方の教父オルゲネス以来、「アナ」という反復を表わす接頭語があるので、「再び十字架につける」と解釈されてきました。今日でもこの解釈が主流です。聖書協会共同訳、新改訳聖書2017もこの訳を支持しています。しかし、「アナ」を反復ではなく、上昇を意味すると理解する者が現れ、「十字架につけ」と訳す翻訳聖書が現われています。
「十字架につけ」だけだと、次のような理解になります。主イエスを十字架につけたユダヤ人たちと同じことを、信仰を捨てたキリスト者もすることになると。
ヘブライ人への手紙が読者であるキリスト者たちに伝えたかったことは、彼らが二度キリストを十字架につけることではなく、ユダヤ人たちと同じことをし、主イエスを公衆の面前で罵倒されるままにするということです。
ヘブライ人への手紙の読者であるキリスト者たちは、ユダヤ教から改宗した者たちです。彼らに対して信仰を捨てることは、キリストを十字架につけたユダヤ人たちと同じことをすると戒める方が、効果があるでしょう。
そしてヘブライ人への手紙は、一つのたとえ話をしているのです。6章7-8節です。「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。」
土地のたとえ話です。役立つ土地と役に立たない土地のお話です。役に立つ土地は、天から降る雨を蓄えて、土地を耕す者たちに役立つ農作物をもたらします。それによってその土地は神の祝福に与るのです。
ところが、土地が茨やあざみを生えさせると、農作物は取れず、役に立たない土地になります。その土地は呪われたのです。だから、焼き払われます。
7節の良い土地は、信仰を成熟させるキリスト者です。天からの雨は福音です。キリスト者は福音を聞き、聖霊の賜物にあずかり、役立つキリスト者となります。彼は、神に祝福されます。
8節の茨とあざみが生じる土地は、信仰を捨てたキリスト者です。彼は呪われた者となり、失格者となり、神の裁きによって滅ぼされるのです。
このたとえ話は、旧約聖書以来の神の祝福の道と呪いの道を教えています。
成熟したキリスト者として歩む者は、神の祝福の道を歩み、信仰を捨てる者は神の呪いの道を歩み、最後は神の審判によって滅びるのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちにこのたとえを通して、こう呼びかけるのです。信仰者には神の祝福があるが、信仰捨てる者は、神に呪われ、最後に神の審判によって滅びるという厳しい将来を避けることができないと。
こうして、わたしたちは今朝の御言葉を聴きつつ、一つの信仰の決断を迫られているのです。
今日は参議院選挙です。わたしたちは選挙によって長野県の候補者と政党を選挙します。それによってわたしたちのこの世の生活が影響します。将来日本国憲法を改正し、戦争のできる日本にするのか、それとも日本国献本を堅持し、平和と対話による日本を維持するのかと。
同様に、今朝わたしたちはこの礼拝でわたしたちの信仰を成熟させて、神の祝福の道を歩むのか、それとも信仰を捨てて、神の呪いの道を歩み、最後の神の審判によって滅びへと至る将来を選ぶのかと。
参議院選挙は、国民の審判としてわたしたちのこの世の生活が左右され、この礼拝でのわたしたちの信仰の決断は、神の審判としてわたしたちの永遠の命と滅びが左右されるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第第6章4-8節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちは、今朝の御言葉で、悔い改めの不可能性という厳しい戒めの前に立たされました。
その前でわたしたちは、二つの道のどちらかを選ぶように、信仰の決断を迫られました。信仰への成熟を目指して、信仰から信仰へと歩むか、それとも信仰を捨てるのかという選択です。
前者は神の祝福の道であり、後者は神の呪いの道です。
どうか聖霊によってわたしたちの心を照らし、信仰の成熟を目指して、信仰から信仰へと歩ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教19 2022年7月17日
このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。
だから、わたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れ、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。
一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。しかし、茨やあざみを生えさせると、役に立たなくなり、やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます。
しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。
神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。
ヘブライ人への手紙第5章11節-第6章12節
説教題:「信仰と堅忍によって、約束のものを」
今朝は、ヘブライ人への手紙第6章9-12節の御言葉を学びましょう。ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちに5章11節から大変厳しい勧告の言葉を述べてきました。
ところが一転して、優しい言葉で語りかけています。ヘブライ人への手紙では6章9節にだけ「愛する人たち」という読者への呼びかけが出てきます。
これまでヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちの未熟な信仰を大変厳しく責めました。彼らを、「うすのろ」と呼び捨て、キリスト教信仰の初歩を離れるように諭しました。さらに洗礼を受けて、神の恵みに与った者が信仰から落ちるなら、彼には二度と救いはないと警告しました。キリストを二度十字架につけて辱めるからです。
ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちに農地の譬えを語りました。作物を実らせない農地は役に立たず、神に呪われて、火で焼かれると。同様に役に立たないキリスト者たちも神に呪われて、神に裁かれ、滅びると。
ヘブライ人への手紙の読者たちは、正直、悲しんだでしょう。しかし、ヘブライ人への手紙が彼らに勧告し、彼らの信仰の未熟さを警告したのは、彼らに良きものがあり、救いの望みがあるからです。
ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちを、それに気づかせようとしています。そこでヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちを「愛する人たち」と呼びかけています。ヘブライ人への手紙は、主にある愛の交わりを、彼らと続けると宣言しているのです。
その理由は、ヘブライ人への手紙が彼らを見捨てていないからです。むしろ彼らに希望を持っています。ヘブライ人への手紙は彼らに「わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。」と述べています。
具体的に何であるか、分かりませんが、ヘブライ人への手紙は彼らが信仰から信仰へと歩み続けてくれると確信しているのです。
その確信の根拠が彼らの働きです。教会における彼らの聖徒たちに対する奉仕の業です。
ヘブライ人への手紙は、10節でこう述べています。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」
「聖なる者」とは聖徒のことです。キリスト者です。主イエスは最後の晩餐で弟子たちに新しい戒めを与えられました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネによる福音書15:12他)と。
主イエスは、最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗われました。一人一人の弟子たちを愛して、僕のように仕えられました。そして、主イエスは、同じことを弟子たち同士がするように命じられました。
だから、ヘブライ人への手紙は、こう述べているのです。初代教会は主イエスが命じられた愛の実践をしていたと。
「神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。」は、主イエスが弟子たちに示された愛です。その愛を、初代教会のキリスト者たちは実践していたのです。だから、主なる神は、彼らがしている兄弟愛を忘れられるほど、不義な方ではないと、ヘブライ人への手紙は述べているのです。
礼拝すること、祈ること、伝道すること、献金すること、他にも教会において、キリスト者としていろいろな働きがあります。わたしたちが教会のためにしている奉仕は、主イエスがお命じになった愛の実践です。
その愛がわたしたち相互で行われます時、それは主イエスとの愛の関係において行っているのです。わたしたちの互いに愛し合うという主の命令は、教会において礼拝する、祈る、伝道する、献金する、主にある交わりをすると、互いに物質的に分かち合うという形を取り、互いに援助し合うことです。
「聖なる者に仕える」とは、昔も今も兄弟姉妹に奉仕することです。コリント教会は、貧しいエルサレム教会の兄弟姉妹のために祈り、彼らを支えるために贈り物、献金をしました。わたしたちの教会も対外献金を設けて、兄弟姉妹たちの働きを祈り、支援しています。ヘブライ人への手紙は、そうしたわたしたちの働きを、主イエスの命じられた愛の実践であると気づかせてくれるのです。
さて、ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちをこの手紙の本筋へと導くために、11-12節でこう述べています。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。」
この「希望」は、信仰と同義語です。ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちにお願いしているのです。「最後まで信仰を持ち続けてください。信仰が御国へと続くように、いつも今持っている信仰の熱心さを示し続けてください」。
愛の実践だけではなく、希望、すなわち、信仰の徹底という面で、御国へと至る信仰の熱心を持ち続けてほしいと、ヘブライ人への手紙は読者であるキリスト者たちにお願いしているのです。
そこでヘブライ人への手紙は、「約束」という言葉をキーワードに使っています。12節です。「あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです」。
「怠け者とならず」は、5章11節の「あなたがたの耳が鈍くなっている」と同じ言葉です。「うすのろ」という言葉です。
5章11節では、理解することに鈍くなっているという意味でしたが、ここではキリスト者の方向性に鈍くなっているという意味です。
キリスト者、神の民は神との約束を通して、この世から神の御国へと歩む者です。だから、神の約束を信じて、6章15節のアブラハムのように根気良く待って、現在の信仰の試練を、また、信仰の訓練の時を、終わりの日まで、御国に至るまで続けて行かなければなりません。
だから、ヘブライ人への手紙は読者であるキリスト者たちに12節でこう勧めるのです。「信仰と忍耐によって」と神が約束されたもの、すなわち、御国を相続することを、アブラハムのような人々に倣う者となりましょうと。
「信仰と忍耐によって」は、神の約束の希望と堅忍によって、ということです。信仰は神がお与えくださる確かな希望です。その希望とは、神の約束によって御国を相続することです。しかし、その天の御国に至るためにキリスト者たちは、この世における試練と訓練の時を歩まなければなりません。
わたしたちは、アブラハムが神の約束を得るために、長い時を根気よく待ち続けたように、神の約束にあずかるには信仰と忍耐が必要です。
ヘブライ人への手紙が「信仰と忍耐によって」と述べるとき、その信仰は神の約束の確かな希望のことです。そして、その信仰には、忍耐よりも堅忍が必要です。なぜなら、アブラハムのように神の約束の確かな希望は、堅忍に結び付いて、一つの固い信仰となるからです。
堅忍は、一度キリストの救いに与かる者は、神がわたしたちに約束された御国に至るまでその信仰を守られるという教えです。だから、わたしたちは信仰と堅忍によって、神の約束を確かな希望として得ることができるのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第第6章9-12節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちは、今朝の御言葉で、愛の実践と神の約束の確かな希望に生きることを学ぶことができて感謝します。
わたしたちは、罪人です。信仰の未熟さがあり、神に不従順な者です。しかし、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに二つの善きものを教えてくれました。
主イエスの愛の実践と信仰と堅忍によって御国という神の約束の確かな希望に生きることです。
どうか、今朝の御言葉にこの一週間喜びと励ましを得て歩ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教20 2022年7月31日
神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と言われました。こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。そもそも人間は、自分よりも偉大な者にかけて誓うのであって、その誓いはあらゆる反対論にけりをつける保証となります。神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。
わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこに入って行き、永遠にメルキゼデクと同じような大祭司となられたのです。
ヘブライ人への手紙第6章13-20節
説教題:「大祭司メルキゼデク」
今朝は、ヘブライ人への手紙第6章13-20節の御言葉を学びましょう。
ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちに成熟した信仰を持続してほしいと願っています。それゆえに手紙は、彼らにうすのろにならないで、この世における人生の最後まで礼拝の説教に対する良き聴き手であってほしいと訴えているのです。
だから、ヘブライ人への手紙は読者たちに6章11-12節で次のように勧めています。
「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐によって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。」
「信仰と忍耐によって」は、「あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続ける」ためです。この「希望」は、信仰のことです。ヘブライ人への手紙にとって信仰と希望はコインの裏表の関係です。キリスト者が主イエス・キリストへの信仰を持つことは、主イエス・キリストに希望を持っていることです。それは、主イエスが約束された神の御国への希望です。
ヘブライ人への手紙は、読者であるキリスト者たちにお願いしているのです。「最後まで気を長く持ち、神を信頼し続けてください。この世の終わりまで神の御国への約束に対する信仰を熱心に証し続けてください」と。
そこでヘブライ人への手紙は読者であるキリスト者たちに「約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者になってほしいのです。」と奨励しました。
そして、この奨励の言葉を渡し言葉として、6章13-20節でヘブライ人への手紙は、見出しにあるように「神の確かな約束」について述べているのです。この「神の確かな約束」という主題が6章9-12節と13-20節の御言葉をつないでいます。
「約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者」が手本とすべき人物が旧約聖書の創世記に登場しますアブラハムです。
ヘブライ人への手紙は読者であるキリスト者たちに信仰の父アブラハムを見倣うように勧めているのです。
旧約聖書の創世記第22章でアブラハムが主なる約束の子イサクをモリヤの山で犠牲として献げるという事件を記しています。それがこの手紙の6章13-18節の御言葉の背景にあります。
13節と14節の御言葉は、創世記22章16-17節の御言葉の引用です。アブラハムがイサクを犠牲にしょうとした時、主なる神は御使いを通して介入し、イサクに代わる雄羊を備えられました。そして、後の人々は、「主の山に備えあり」と主を誉め称えました。
主なる神は、御使いを通してアブラハムに次のように誓われたのです。
「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこのことを行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。」(創世記22:16-17)。
アブラハムは、何度も主なる神から約束の御言葉を与えられた。主なる神は、アブラハムに「わたしはあなたの神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」という約束の言葉を与えられた。そして主なる神は、アブラハムの神の約束の確かなしるしとして、アブラハムと妻サラの間に男の子が生まれ、主なる神がアブラハムを召されたカナンを彼と彼の子孫の嗣業の地として与えられました。
アブラハムは、神の約束を信仰と忍耐によって、すなわち、彼は25年間を経て、彼と妻の間にイサクという約束の子を得たのです。カナンの地の相続は、彼が死んで700年後に奴隷の地から解放された神の民イスラエルがカナンの地を占領し、実現しました。
このように神の約束を、神の民はアブラハムのように、信仰と忍耐によって、すなわち、気持ちを長く持って、主なる神を信頼し続けて、自らの手に得ることが出来ました。
では、どうしてアブラハムは、主なる神の約束を25年も待って、信頼できたのでしょう。ヘブライ人羽の手紙は、主なる神が誓われたからだと述べています。
主なる神は、御自分以上の存在がないので、御自分自身によってアブラハムに誓われました。これ以上の約束に対する確かな保証はありません。
わたしたちの場合でも人と約束し、誓います時、自分よりも社会的に身分の高い者やお金持ちを保証人すれば、わたしの約束と誓いを疑う者はありません。ましてや主なる神は御自身がアブラハムに約束を誓われたのです。
だから、アブラハムは、主なる神の約束を根気よく待って、25年目にして彼と妻の間にイサクが生まれました。彼は約束のものを自らの力によってではなく、主なる神の恵みによって手に入れることが出来ました。
主なる神は、アブラハムのように、約束も誓いも変えられることはありません。主なる神はアブラハムに何度も約束され、誓われました。主なる神はアブラハムに約束と誓いを繰り返されることで、御自身の計画に変更はなく、約束が確かであることを保証されました。
このアブラハムの例は、わたしたちキリスト者への模範であります。18節でヘブライ人への手紙は、次のように記しています。「それは、目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。」。
わたしたちの希望は、「目指す希望」ではありません。目の前に置かれている希望です。「わたしたちの国籍は天にある」という希望は、常にキリスト者の前に置かれている希望です。
またわたしたちキリスト者は、この世から神の御国へと、主なる神によって召された者です。二つの不変の事柄とは、神の約束と誓いです。神はアブラハムのように約束と誓いによって御自身の意志と御計画に変更にないことを示されました。同じように神はキリストを通して約束され、誓われたことに対して変更したり、計画を変えられることはありません。
すなわち、キリストの十字架を通して神はわたしたちの罪を赦してくださいました事実に変更はありません。キリストの復活を通して、わたしたちを神の子、御国の相続人としてくださったことに変わりはありません。
キリストの十字架と復活によってわたしたちキリスト者は、この世から神の御国へと呼び出された者となっているのです。だから、わたしたちの国籍が天にあるということに関して、神が偽られることはありません。
わたしたちキリスト者は、この世における寄留者、旅人です。その意味でこの世を避けている者です。この世を逃れることは出来ません。しかし、わたしたちの国籍は天にありと、この世に染まることは避けているのです。この世に生きており、生活していても、わたしたちの前には御国に入れるという希望があるのです。
上諏訪湖畔教会は、教会の墓地を持つことができました。19節でヘブライ人への手紙が次のように記していることを教会の墓地がそのしるしとなっています。
「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。」
わたしたちは、わたしたちの国籍は天にあるという希望を持っています。これは、この世に生きるキリスト者の心の拠り所です。この世ではキリスト者は寄留者、旅人であるという根無し草のような存在です。しかし、天の御国に錨を降ろして、この世を生きているのです。
聖書は、神の民は御国の民であるから、死ぬこと、葬儀や墓地を軽んじたと記してはいません。アブラハムは、死んだサラを葬るために、畑と洞穴を買いました。そして彼自身も彼の子イサクと妻、孫のヤコブと妻もそこに葬られました。それによって彼らは、この世だけではなく、神の御国への希望を証ししました。
主イエスも墓に葬られました。そして主イエスは墓から復活し、死に勝利されました。永遠の命の初穂となられました。
1.
19節の「安定した錨」とは、主イエス・キリストのことです。わたしたちの国籍は天にあるという信仰、希望を支えているのが主イエス・キリストです。キリストは、神殿の至聖所に年に一度入る大祭司のように、十字架に死に、復活し、天の至聖所に入られました。わたしたちの初穂として復活し、天の御国に入られ、今わたしたちの先導者として、永遠に大祭司メルキゼデクとなり、わたしたちを御国へと執り成してくださっています。
どうか、ヘブライ人への手紙の良き聴き手となってくださり、わたしたちの国籍は天にあるという希望に生き続けてください。教会の墓地を軽んじることなく、そこにわたしたちの体を納めることが御国への約束の確かなしるしであると、どうか心にお留めください。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第第6章13-20節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちの国籍は天にあります。これこそ、この世に生きるわたしたちキリスト者の希望です。
この神の確かな約束に生きることを学ぶことができて感謝します。
どうか、わたしたちがアブラハムのように気を長く持ち、根気よく待って、神の確かな約束を手に入れることが出来るようにしてください。
この世ではわたしたちは寄留者、旅人です。しかし、主イエスという錨によって、神の御国へとつながれていることを感謝します。
永遠に大祭司メルキゼデクとなられた主イエスよ、わたしたちを御国へと執り成し、導いてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。