ヘブライ人への手紙説教11 2022年4月10日
だから、聖霊がこう言われるとおりです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
荒れ野で試練を受けたころ、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。
荒れ野であなたたちの先祖は
わたしを試み、験し、
四十年の間わたしの業を見た。
だから、わたしは、その時代の者たちに対して
憤ってこう言った。
『彼らはいつも心が迷っており、
わたしの道を認めなかった。』
そのため、わたしは怒って誓った。
『彼らを決してわたしの安息に
あずからせはしない』と。」
兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―それについては、次のように言われています。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。」
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたたちのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
「わたしは怒って誓ったように、
『彼らは決してわたしの安息に
あずからせはしない』」
と言われたとおりです。もっとも。神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない」
とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ人への手紙第3章7節-第4章13節
説教題:「聖霊の御言葉とその解釈」
今朝より受難週の一週間が始まりました。受難とは、主イエスがお受けになられた苦難を指しています。ギリシア語の「苦難を受ける」という語からキリストの受難を表わすパッションという言葉が生まれました。特に新約聖書の四福音書は、共に主イエスが最後の七日間に受けられた苦しみを克明に記しています。そして、主イエスが受けられた苦しみは、金曜日の十字架の死と墓への葬りをもって最高潮に達します。
週報の報告欄にルカによる福音書に従って、主イエスの受難週の最後の一週間を記していますので、ルカによる福音書を通して、主イエスの受難を辿り、瞑想してください。
さて、ヘブライ人への手紙は、三つの説教から成り立っています。第一の説教が1章1節から4章13節です。この第一の説教の題は、「神の御言葉に聴き従いましょう」です。聖書の神は、神の民たちに御言葉を語られました。旧約聖書の時代は預言者たちを通して語られました。そして、終りの時の新約の時代は御子主イエス・キリストを通して語られています。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に御子主イエス・キリストが預言者たち、天使たち、神の民の指導者モーセに勝るお方であることを述べてきました。
そして、ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に今朝の3章7節から4章13節で旧約聖書のヨシュアに主なる神が賜った安息に勝る安息を、御子主イエスがわたしたちにお与えくださることを述べているのです。
ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えたいことは、神の御子であり、大祭司である主イエス・キリストの素晴らしさであります。このお方の御救いの素晴らしさです。
だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに2章1-4節で預言者たちや天使たちに勝る御子主イエスの御救いを伝える神の御言葉をないがしろにするなという短い勧告をしました。
そしてヘブライ人への手紙はわたしたちに今度は3章7節から4章13節で神の民の真実の安息から迷い出るなという第二の長い勧告をしています。
7節の「だから」という接続詞で、前の3章6節後半の「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」という文章を引き継いでいます。そして、ヘブライ人への手紙はわたしたち読者に信仰を忍耐強く継続するように長い勧めをしょうとしているのです。
聖徒の堅忍という言葉をお聞きになられたことがあるでしょう。カルヴァン主義の五ポイントの一つです(全的堕落、無条件的選び、限定的贖罪、不可抗的恩恵、聖徒の堅忍)。神の御救いの永遠の保持のことです。分かりやすく言えば、「一度救われた者は、常に救われる」という教えです。
キリストの十字架によって救われた者は、決して滅びへと逆戻りはしません。主なる神の恵みの御力によって最終的な救いへと、キリストにある真の永遠の安息へと至るように保持されるのです。
この教えは、ダビデ王のように姦淫と殺人の罪を犯した者が主なる神の厳しい裁きを招くことを排除するものではありません。ダビデ王は、自らの罪によってわが子の反逆を招き、一時は王座を奪われ、荒れ野に逃げました。しかし、主なる神はダビデを憐れみ、彼に王座を再び返されました。
聖徒の堅忍の教えは、主なる神に対して服従の道を歩む者への喜びの福音です。なぜなら、キリストにあって神が選ばれた者を、神はお見捨てにならないからです。一時は、罪と弱さによって信仰の危機を経験するでしょう。しかし、陰の谷を歩むとも、主イエスが共に居てくださり、永遠の安息である御国へと導いてくださるのです。
さて、ヘブライ人への手紙は、旧約聖書の御言葉を、3章7節で「聖霊がこう言われたとおり」と述べています。
ヘブライ人の手紙にとって聖書は神の啓示の書です。神は聖書の御言葉の語り手です。だから、ウェストミンスター信条が告白しますように、聖書の御言葉は常にわたしたちにとっては信仰と生活の唯一の規準となるのです。
聖書の言葉のうちに天に昇られたキリストがこの地上の教会に遣わされた聖霊が語られているのです。聖霊は、キリストの霊であります。だから、「聖霊がこう言われる」とは、御子キリストがこう言われると同じことです。だからヘブライ人への手紙は、7後半から11節で引用した旧約聖書の御言葉をキリストが語られたという意味で述べているのです。
第二の勧告は、7節後半から11節までの旧約聖書の詩編第95編7節後半から11節の御言葉の引用です。新共同訳聖書は、次のように訳しています。「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。『あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように 心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい、心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り 彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。』」
旧約聖書の民数記14章に主なる神に対して神の民が荒れ野で反抗し、心頑なになり、主なる神はヨシュアとカレブ以外の民を約束の地カナンに入れないと誓われたことを記しています。
詩篇95編7節後半から11節は、その出来事を歌ったものです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに聖霊の言葉、キリストの言葉として述べているのです。キリストを通して詩編95編7節後半から11節の御言葉を理解するように勧めているのです。
3章12-19節の御言葉は、ヘブライ人への手紙が聖霊の言葉である詩編95編7節後半から11節の御言葉を、キリストを通して解釈したものです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に対して12節で荒れ野の神の民たちのように不信仰になり、キリストから離れることを警告し、今日という日に信仰を互いに励まし合いなさいと訴えています。
「兄弟たち」とは、信仰を共にする者たちです。教会の群れ全体です。この世の教会にとって最も注意すべきは、不信仰であり、神の御言葉に耳を傾けない心の頑なさです。
それを打破するのは、教会が常に今日という日に兄弟姉妹が互いに励まし合うことです。教会はだれかが弱さのゆえに不信仰になります。その時に他の兄弟姉妹たちが弱い兄弟姉妹を、聖書(説教)から聞いた神の御言葉によって励ます合うことが大切です。
14節の御言葉は、聖徒の堅忍の教えです。3章6節後半の御言葉と同じです。わたしたちがキリストへの信仰と希望の確信を持ち続ける、それが神の家である教会の姿です。この世が良い時代であっても、悪い時代であっても、この世の教会にとって主イエス・キリストの十字架だけがわたしたちの救いであり、主イエスの復活だけが永遠の命の保証です。だからキリスト以外にわたしたちの救いはありません。この信仰と確信を持ち続ける群れがキリストの教会であり、彼らは頭である主イエスに結び付いているのです。
わたしたちは、一人一人がこの世にあって不信仰に陥る危険性があります。そのわたしたちの不信仰のしるしが、今日語られた神の御言葉に対する不服従です。主の日の礼拝で朗読される神の御言葉に、それを説き明かす神の御言葉である説教に対して耳を塞ぎ、心を閉じ、頑なという不信仰になることです。
神の御言葉に対して、わたしたちは常に今日、心を頑なにしてはなりませんと、勧告しているのです。
主なる神は奴隷の地エジプトに神の民の指導者モーセを遣わされ、神の民を奴隷から贖い出されました。そして、主なる神はモーセを通して神の民に語られました。しかし、荒れ野での40年間、神の民はモーセを通して神の御言葉を聞きながら、不信仰によって主なる神に従いませんでした。
彼らは、金の子牛を礼拝し、主なる神が禁じられた偶像礼拝の罪を犯しました。また、彼らは不道徳な行いによって自らを汚して、主なる神の怒りを買いました。そして主なる神が約束の地を12部族の者たちに探らせた時、ヨシュアとカレブ以外主を信じて約束の地に入ろうとする者はいませんでした。だから、神の民たちは不信仰によって荒れ野で死んでしまったのです。
18節と19節の「安息にあずからせる」とは、約束の地カナンに入らせることです。主なる神は、アブラハムと恵みの契約を結ばれました時に、彼と彼の子孫にカナンの地を彼らへの約束地とされました。
荒れ野の神の民たちは、不信仰によって約束の地カナンに入ることは出来ませんでした。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に神の御言葉に聴き従わない不信仰を警告しているのです。
わたしたちの上諏訪湖畔教会も例外ではありません。
目に見えるコロナウイルスがこの教会を滅ぼすことはないでしょう。
この教会を滅ぼすのは、ヘブライ人への手紙が指摘しますように、目に見えない不信仰です。聖書が神の御言葉と信じられない不信仰です。牧師が語ります説教が神の御言葉の解き明かしであると信じられない不信仰が教会を滅びへと導いていくのです。
しかし、わたしたちは、不信仰に対して絶望する必要はありません。主イエスの憐れみは、わたしたちの不信仰で消されることはないからです。
それゆえにヘブライ人への手紙は4章から神の安息にあずかる希望が残っていると述べています。次回にその恵みについて学びましょう。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、受難週を迎えました。どうか今日から主イエスの最後の七日間を辿らせてください。
わたしたちの不信仰をおゆるしください。御子主イエス・キリストの十字架の苦しみがわたしたちの罪のためであったと信じさせてください。
そして次週の4月17日の朝イースターを、喜びをもって迎えさせてください。
次週はイースター礼拝で御言葉と聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。どうか主イエスが死人の中から復活されたことを喜ばせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教12 2022年5月1日
だから、聖霊がこう言われるとおりです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
荒れ野で試練を受けたころ、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。
荒れ野であなたたちの先祖は
わたしを試み、験し、
四十年の間わたしの業を見た。
だから、わたしは、その時代の者たちに対して
憤ってこう言った。
『彼らはいつも心が迷っており、
わたしの道を認めなかった。』
そのため、わたしは怒って誓った。
『彼らを決してわたしの安息に
あずからせはしない』と。」
兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―それについては、次のように言われています。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。」
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたたちのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
「わたしは怒って誓ったように、
『彼らは決してわたしの安息に
あずからせはしない』」
と言われたとおりです。もっとも。神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない」
とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ人への手紙第3章7節-第4章13節
説教題:「神の安息の約束」
わたしたちは信仰に迷いがあり、不安を持っています。だから、誰でも不信仰に陥る危険性があります。
ヘブライ人への手紙を受け取りました初代教会のキリスト者たちも同じだったでしょう。兄弟姉妹のある者たちは、自分たちが神の安息に入ることに乗り遅れたのではないかと、不安になりました。
だから、ヘブライ人への手紙は、4章1節で次のように述べて、警告し励ましました。「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたたちのうちから出ないように、気をつけましょう。」
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに常に教会の兄弟姉妹の中に誰か信仰からこぼれ落ちそうな者たちがいるから、注意して見ていましょうと勧告しています。
そして、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに4章2節で最初にキリストの福音を聞いたユダヤ人たちと同様に、わたしたちにもキリストの福音が語り、聴き続けられていると述べているのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちにキリストの福音が告げ知らされ、聴き続けられている所では、神の安息の約束は持続していると述べているのです。
ヘブライ人への手紙が4章2節で「彼ら同様に」と述べていますのは、神の安息に乗り遅れていると思っている兄弟姉妹ではありません。ヘブライ人への手紙は、「あの人たちと同様に」と述べているのです。それは、ユダヤ人一般を指しています。
使徒パウロは、最初にユダヤ人たちに福音宣教しました。初代教会は最初ユダヤ人たちにキリストの福音を伝えました。
使徒ペトロはペンテコステの日にユダヤ人たちに説教しました。彼はエルサレム神殿で、彼らに言いました。「あなたがたが十字架につけて殺したナザレの主イエスを、神は死人の中から甦らされた」と。ペトロは、ユダヤ人たちに神が主イエスをメシアとされたと伝えました。
ヘブライ人への手紙は、初代教会のユダヤ人たちへの宣教が実を結ばなかったと、次のように述べています。「けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」
キリストの福音の言葉は、彼らの益となりませんでした。ユダヤ人たちがキリストを拒んだからです。彼らは、自分たちに語られた御言葉に信頼しませんでした。すなわち、使徒パウロやペトロの語る説教に対して、その説教を通して語られた御言葉である主イエス・キリストに信頼しませんでした。だから、彼らはキリストの福音を聞いても、主イエスを救い主と信じて、キリスト教会に加わろうとしませんでした。
しかし、わたしたちキリスト者は、使徒たちや彼の弟子たち、そして多くの伝道者たちが語る福音を聞いて、語られた御言葉を、主イエス・キリストを信頼し、教会に加わりました。
だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに4章3節でキリストの福音の御言葉を聞いて、主イエスに信頼するわたしたちは、神の安息に入ることが出来るのですと述べています。
3節の「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」という御言葉は、わたしたちの最後の状態ではありません。未来における神の安息に入ることが、現在すでに確実なものとなっていることを示しているのです。
だから、神の安息に入ることを実現するために、わたしたちは「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです」という信仰のこの最初の確信を持ちこたえなくてはなりません。
3節後半に詩篇95編11節の御言葉の引用があります。「わたしは怒って誓ったように、『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』。」
ヘブライ人への手紙は、旧約聖書の詩編95編11節で言われている通りであると述べています。
この引用の御言葉だけだと、ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えたいことが分かりません。だから、ヘブライ人への手紙は、創世記2章2節から神の安息について述べているのです。「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」
ヘブライ人への手紙は、詩篇95編11節の安息を、創世記2章2節の御言葉によって解釈しています。すなわち、ヘブライ人への手紙は、詩篇95編の「安息」を神の創造の御業の完成と結びついた安息と理解します。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちにこう述べています。第七日での神の安息、この神の安息の休みこそ神が神の民に定め置かれたものであると。
神は六日間の創造の御業を完成された後に、永遠の安息に入られました。この永遠の神の安息に、神は神の民たちを入れると約束されました。
この神の安息の約束に最初に福音を聞いたユダヤ人たちは、あずかれませんでした。その理由は、彼らの不従順、不信仰です。
ヘブライ人への手紙は、詩篇95編の安息を、創世記2章2節の御言葉で解釈し、6節で次のように結論しています。「そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから」。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに人々が神の安息にあずかる可能性が残っていると述べているのです。最初にキリストの福音を告げ知らされたユダヤ人たちは、彼らの不従順によって神の安息に入るという約束に与れなかったからです。
そこで神は、わたしたちキリスト者を神の安息の約束に与らせるために、7節である日を定められました。「今日」と呼ばれる日を定められました。神は第七の日に神の安息を定められましたが、それから長い年月を経た後に、ダビデの口を通して「今日」という日が来ることを預言されました。
わたしたちキリスト者にとってこの「今日」は、キリストが再臨されるまでの今日であり、わたしたちがこの世の命を終えるまでの今日です。キリストの福音を聞き続けるまでの今日です。
ヘブライ人への手紙は、この「今日」をキリストの福音が告げ知らされる日と理解しました。だから、今わたしたちは、キリストの福音を、神の御言葉である説教を聴いている今日、心を頑なにしてユダヤ人たちのように、神の御言葉を、十字架のキリストを拒んではならないのです。
そこでヘブライ人への手紙は、わたしたちに旧約聖書のヨシュアが神の民を荒れ野から約束地カナンに入れたことを思い起こさせます。荒れ野で40年間過ごした神の民にとって約束の地カナンは、まことに神の安息の地でありました。しかし、それは、決して神が第七の日に休まれた神の永遠の安息ではありません。だから、わたしたちキリスト者にとっては、なお神の永遠の安息に入れるという約束が残っているのです。
ヘブライ人への手紙にとって神の安息とは、一つの場所ではない。一つの状態です。神が六日間の創造の御業を終えて、永遠に休まれたように、わたしたちも自らの働きを終えて永遠に神の安息に入れられるのです。
家電の発明によって現代人であるわたしたちは、労働の苦しみから解放されています。週休二日制は当たり前で、週休三日制の会社もあるそうです。しかし、古代の人にとって農作業も家事も重い労働でした。だから、神の民たちもこの世の労苦から解放されて、永遠の神の安息に入ることを熱望したでしょう。
ヘブライ人への手紙は、わたしたちに11節前半で次のように励ましの言葉を述べています。「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。」
教会の墓地が完成し、故後町武雄兄が最初の納骨者となられました。教会墓地で納骨式をしました。兄弟は、92年間の生涯を終えられ、神の永遠の安息に入られました。わたしたちの国籍は天にあり、そこから救い主キリストがわたしたちを救ってくださるのです。この希望に生きる時に、わたしたちは、信仰から落伍するという危険を避けることが出来るのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第4章1-11節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
コロナウイルスの災禍、ロシアとウクライナの戦争、政治と経済の不安、わたしたちは、世界と社会の不安の中で、不信仰に陥る危険にさらされています。
どうか、今朝の主イエス・キリストの福音を聞き、十字架の主イエスを信じ、歩ませてください。
死人の中から復活し、神の永遠の安息に、わたしたちを導かれる主イエスと共に歩ませてください。
今朝は、御言葉と聖餐の恵みにあずかれることを感謝します。どうか御国で主イエスと共に休めるときを望ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教13 2022年5月8日
だから、聖霊がこう言われるとおりです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
荒れ野で試練を受けたころ、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。
荒れ野であなたたちの先祖は
わたしを試み、験し、
四十年の間わたしの業を見た。
だから、わたしは、その時代の者たちに対して
憤ってこう言った。
『彼らはいつも心が迷っており、
わたしの道を認めなかった。』
そのため、わたしは怒って誓った。
『彼らを決してわたしの安息に
あずからせはしない』と。」
兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。―わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。―それについては、次のように言われています。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
神に反抗したときのように、
心をかたくなにしてはならない。」
いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。
だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたたちのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。
「わたしは怒って誓ったように、
『彼らは決してわたしの安息に
あずからせはしない』」
と言われたとおりです。もっとも。神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていたのです。なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と言われているからです。そして、この個所でも改めて、「彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない」と言われています。そこで、この安息にあずかるはずの人々がまだ残っていることになり、また、先に福音を告げ知らされた人々が、不従順のためにあずからなかったのですから、再び、神はある日を「今日」と決めて、かなりの時がたった後、既に引用したとおり、
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない」
とダビデを通して語られたのです。もしヨシュアが彼らに安息を与えたとするなら、神は後になって他の日について語られることはなかったでしょう。それで、安息日の休みが神の民に残されているのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか。さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ人への手紙第3章7節-第4章13節
説教題:「御国に入る努力をしよう」
ヘブライ人への手紙にとって、「御国」とは神の安息です。神は、六日間で創造の御業を終えられ、七日目に休まれました。それが、詩編95編が述べている神の「安息」です。
この神の「安息」に、旧約時代のイスラエルはあずかることが出来ませんでした。彼らは、不信仰によってそれを拒んだからです。だから、神はわたしたちキリスト者が神の安息にあずかるようにしてくださったのです。
4章9節の「安息日の休み」です。わたしたちは、神が創造の御業を休まれたように、自分たちの業を終えて、神の永遠の安息に休むのです。
それゆえにヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に4章10節で「わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか」と励ましています。
昔のイスラエルが不信仰によって神の約束の地に入れなかったように、わたしたちも神の安息に入れないという可能性があるのです。
ヘブライ人への手紙は4章1節で「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたたちのうちから出ないように、気をつけましょう。」と述べているのです。そして、11節後半でも「さもないと、同じ不従順の例に倣って堕落する者が出るかもしれません。」と警告しているのです。
ヘブライ人への手紙にとって、大切なことはわたしたちが神の安息に入ることです。わたしたちは、この世に安住する者ではありません。必ず神の御国に入るのだという強い思いを持つべきです。そうしないと、神に対して不従順の故に荒れ野で滅びたイスラエルのようになります。4章11節後半の「堕落する者」とは「落ちる者」です。教会の中からある者たちがこの世で堕落し、滅びるのです。
だから、わたしたちは、互いに励まし合う必要があるし、共に神を礼拝すべきなのです。
ヘブライ人への手紙は、第一の説教を終えるにあたり、4章12-13節で厳かな警告をしています。3章7節からの第二の奨励の結びでもあります。ヘブライ人の手紙は、3章7節で「聖霊がこう言われるとおりです」と述べて、詩篇95編7-11節の御言葉を語りました。これが神の御言葉です。この「神の御言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」
神の教会の礼拝において語られる聖書とその解き証しである説教は、聖霊が語られているのです。使徒パウロは、聖霊についてこう述べています。「人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8:27)。
ヘブライ人への手紙は、2章3-4節で「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示された。更に神はまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。」と述べています。
ヘブライ人への手紙にとって福音の告知は救いを意味します。旧約時代の預言者によって福音が告知されました。そしてイエス・キリストの到来と主の福音の告知によって、神の御国にはわたしたちに近づきました。
主イエスは、悔い改めと信仰によってわたしたちが神の御国に入れると語られました。そして、主イエスの弟子たち、すなわち、12使徒たちが初代教会のキリスト者たちにキリストの十字架と復活の福音を告げ知らせました。
ヘブライ人への手紙の最初の読者たちは、異教からユダヤ教の信仰に改宗した後に、イエス・キリストの福音を聞いて受け入れた者たちです。彼らのある者たちは、その時の最初の確信を失い、ユダヤ教に戻ろうとしていたのでしょう。
人の心の思いは、人には見えません。わたしたちは、人の心を見ることができません。現代は精神医学が発達し、人の心を診断しています。しかし、精神医学が人の心をすべて明らかにしているのではありません。人の心にある深い闇は、精神医学で診断はできません。
しかし、ヘブライ人への手紙は、神の御言葉は生きており、人間存在の奥底まで到達していると述べています。神の御言葉が人間の心と体において到達しない所はありません。
神が生きておられ、3章11節で神に不従順のイスラエルを怒り裁かれたように、神の御言葉も生きており、不従順なわたしたちを裁くことが出来るのです。精神科の医者よりも鋭く、わたしたちの罪を診断され、滅びへと裁かれるのです。
外科医のメスは、人の体を切り分けるだけですが、神の御言葉のメスは、人の心の闇を切り分けるのです。人の意識化に罪があることを診断するのです。
ヘブライ人への手紙が「心の思いや考えを見分けることができるからです」と述べるとき、神の御言葉は神御自身であることに、わたしたちは気づくべきです。
教会の礼拝において神の御言葉を聞くということは、わたしたちに語られる神の御前に、わたしたちが出るということです。すべてを見ておられる神の御前に、わたしたちは出て、自らを弁明しなければなりません。
このようにヘブライ人への手紙の第一の説教は、神の御言葉について語り、神の御言葉はわたしたちを診断し、すべてをご存じである神の御前にわたしたちを出させて、神に自らを弁明させると述べています。
こうしてヘブライ人への手紙は、4章14節から10章31節の第二の説教へと移ります。大祭司である主イエス・キリストについて説教します。そして、神の御前で弁明しなければならないわたしたちには、大祭司キリストがおられると述べているのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第4章11-13節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちが教会で最初に聞いたキリストの福音を確信した思いを、どうか持ち続けさせてください。
どうか、今朝の神の御言葉を聞き、神の御国に入るために努力させてください。
神の御言葉は生きています。神御自身がわたしたちに語られ、わたしたちが知らないわたしたちの心の闇を明るみに出されます。
わたしたちは、今あなたの御前に出ています。どう自分のことを弁明すればよいのか分かりません。
ただ信じます。十字架と復活の主イエスがわたしたちの罪を執り成してくださると。
どうか、わたしたちが神の御前で犯すすべての罪をおゆるし下さい。
どうか、わたしたちを神の永遠の安息へとお導きください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教14 2022年5月15日
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
ヘブライ人への手紙第4章14節-第5章10節
説教題:「大胆に御座に近づこう」
ヘブライ人への手紙は、三つの説教から成り立っています。第一の説教は、既に学びました1章1節から4章13節です。ヘブライ人への手紙は、「神の御言葉に聞き従おう」と題して説教しています。
神は、昔多くの預言者を通して語られ、終わりの日、すなわち、わたしたちの時代には神の御子主イエス・キリストを通して語られました。
神の御言葉である神の子キリストは、天使にも、昔のイスラエルの指導者モーセにも勝るお方です。だから、ヘブライ人への手紙は、神の子主イエス・キリストを通して語られる神の御言葉に聞き従おうではないかと説教しました。
このように第一の説教は、神の御言葉がテーマでした。神の御言葉は、神の子主イエス・キリストに始まり、その証人たちである12使徒たちを通して初代教会に伝えられました。
第一の説教は、2章1-4節で救いを軽んじることを警告する短い勧告があり、3章1-4章13節の長い勧告において3章1節で大祭司主イエスを仰ぎ見ることを勧めて、旧約時代の荒れ野のイスラエルのように不信仰に陥ることがなく、約束の神の永遠の安息に入る努力をしようと勧めています。
こうして第一の説教は終わりました。
第4章14節から10章31節までが第二の説教です。説教題を付ければ、「告白を固守し、神の恵みの御座に赴こう」です。
大祭司キリストについては、既に第一の説教に出てきました。2章17節と3章1節です。2章17節と18節でヘブライ人への手紙は、主イエスが「忠実な大祭司」となり、「民の罪を贖うために、兄弟たちと同じように」なられたことを述べて、主イエス御自身が人として試練をうけられたので、この世において試練を受けている者たちを助けることが出来ると述べています。大祭司キリストと彼の苦難について述べています。
そしてヘブライ人への手紙は、手紙の読者たちに3章1節でわたしたちが教会で告白している主イエス、使徒であり大祭司を仰ぎ見なさいと勧めています。
ヘブライ人への手紙は、第二の説教において大祭司キリストについて詳しく説教します。
4章14-16節と10章19-31節の勧告がこの第二の説教の額縁の役割を果たしています。ヘブライ人への手紙は、これらの勧告によって、わたしたち読者に主イエスへの信仰の告白に堅く立ち、神の恵みの御座に近づこうと励ましています。その励ましの中で大祭司キリストの救いが説教されているのです。
ヘブライ人への手紙を最初に受け取りましたのは、ユダヤ教からキリスト教に改宗した信者たちです。ヘブライ人への手紙が4章1節で「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」と述べていますように、ある者たちが自分は救いに乗り遅れてしまったと思い、キリスト教会から離れて、ユダヤ教に戻ろうとしていたのです。
ヘブライ人への手紙は、信仰に揺らぎのある弱いキリスト者たちに向けて第二の説教を始めました。4章14-16節は、その説教の序論です。ヘブライ人への手紙は、信仰の励ましでもって第二の説教を始めています。そして、10章19-31節で閉じているのです。
キリストの福音を聞いてイエスは主であると最初に告白したことに忠実であろう。そして共に神の恵みの御座に近づこうと勧めているのです。
この勧告が第二の説教の額縁であり、基調ですので、わたしたちもヘブライ人への手紙をわたしたちに語られた説教として聞き、自分たちが告白したキリストに堅く留まり、そして共に神の恵みの御座に赴こうではありませんか。
さて、ヘブライ人への手紙は、わたしたちに14節でこう語りかけています。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」
古代の人たちは、宇宙を幾つもの天の層に覆われていると考えました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二の12章2節でこう述べています。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神が御存じです。」
このように使徒パウロの時代のユダヤ人たちは、天が七層も重なり、その上に神の御座があると信じていました。
ヘブライ人への手紙はわたしたち読者に神の御子キリストが神の御座から七層もの天を通り抜けられ、わたしたちの世界にわたしたちの偉大な大祭司として来られたと述べているのです。
ヘブライ人への手紙は、1章3節後半でこう述べていますね。「人々の罪を清められた後、天の高い所おられる大いなる方の右にお着きになりました。」
だから、新共同訳聖書は、「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」と訳しています。復活した主イエスが天に昇られ、父なる神の右の座に着かれたとイメージしているのです。
しかし、「通過された」という言葉は、行くという意味ではなく、来るという意味です。だから、聖書協会が新たに聖書翻訳しました聖書協会共同訳聖書は、次のように翻訳しています。「さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。」
神の御子主イエスがわたしたちと同様の人となられたことを、ヘブライ人への手紙は述べているのです。
「偉大な大祭司」とは、ユダヤ教の大祭司と区別するためです。主イエスは、神の御子です。そして主イエスはわたしたちの大祭司となるために、天から人の子としてこの世に来て下さいました。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に大祭司である神の御子主イエスに対する信仰告白をしっかりと保とうと勧めています。
そしてヘブライ人への手紙は、2章17節での大祭司キリストについて、さらにここでは詳しく述べています。主イエスは、神の御前で憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を宥めるために、あらゆる点でわたしたちと同じ人間となって下さったのです。
大祭司、神の御子主イエスは、わたしたちが生きているこの世界に、わたしたちと同じ人間となり、来られました。そして、人がこの世で経験することを、御自分で経験されました。罪を除いてすべてにおいて、主イエスはわたしたちと同じことを経験されたのです。
初代教会のキリスト者同様に迫害を受けられました。貧しい大工の子として生まれ、貧困を経験されました。父ヨセフを早くなくされ、御自身が一家を支える労苦を担われました。そして、十字架の死によって、人の死の悲しみ、苦しみを経験されました。
だから、大祭司主イエスは、わたしたちの苦しみを傍観している御方ではありません。わたしたちの苦しみの中に入られて、わたしたちの苦しみを御自身の苦しみとして担うことのできるお方です。
このようにわたしたちと全く同じ試練を受け、わたしたちの弱さを十分に知る大祭司主イエスがおられるのです。そして、大祭司主イエスはわたしたちを父なる神に執り成してくださるのです。
だから、わたしたちは、神より恵みを受け、憐れみをいただいています。その証拠にわたしたちは、日常生活の中で試みに遭うことがあります。しかし、私たちが主イエスの御名で「試みに遭わせないでください」と祈ります時に、折に適った助けをいただくことがしばしばです。
わたしたちの日常生活は、いつも思いがけない神の恵みをいただく時があります。しばしば試みに遭いますが、主イエスは逃れの道を備えてくださっています。そして時に応じて助けてくださいます。
わたしたちが、日常での小さな神の助けを覚えます時、神の御子がわたしたちと同じ人となられたことに、喜びと慰めを見出すことが出来るでしょう。
恐れることなく、堂々と神の恵みの御座に赴こうではないかと、ヘブライ人への手紙がわたしたちを励ます言葉に喜び答えたいと思います。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第4章14-16節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちは、ヘブライ人への手紙の第二の説教を学び始めました。大祭司、神の子キリストがわたしたちと同じ人となられたことを学びました。
主イエスは、罪を除いて。わたしたちと同じ人となってくださいました。わたしたちがこの世に体験する弱さや苦しみを体験されました。最後の苦しみである死も体験されました。その主イエスがわたしたちの大祭司としていてくださることを感謝します。
今も主イエスは生きておられますので、わたしたちは日常生活で試みに遭うときに、折に適って助けをいただき、神の恵みと憐れみを覚えることができます。
どうか、今朝の神の御言葉を聞き、堂々と神の御前に出ることが出来ることを感謝します。
どうか、わたしたちが告白した主イエスに堅く留まり、教会の礼拝に与らせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
ヘブライ人への手紙説教15 2022年5月29日
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
大祭司はすべて人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分自身のためにも、罪の贖いのために供え物を献げねばなりません。また、この光栄ある任務を、だれも自分で得るのではなく、アロンもそうであったように、神から召されて受けるのです。
同じようにキリストも、大祭司となる栄誉を御自分で得たのではなく、
「あなたはわたしの子、
わたしは今日、あなたを
産んだ」
と言われた方が、それをお与えになったのです。また、神は他の個所で、
「あなたこそ永遠に、
メルキゼデクと同じような祭司である」
と言われています。キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。
ヘブライ人への手紙第4章14節-第5章10節
説教題:「偉大なる大祭司キリスト」
先々週からヘブライ人への手紙の第二の説教を学び始めました。第二の説教は第4章14節から10章31節までです。説教題を付ければ、「告白を固守し、神の恵みの御座に赴こう」です。
第二の説教のテーマは大祭司キリストです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に次のように励ましの言葉で説教を始めています。「わたしたちには、天から来られた大祭司、神の子主イエスが与えられている」と。
4章14節の「与えられている」という言葉は、「存在する」とも訳せます。天から来られた大祭司、神の子主イエスがわたしたちと共にいてくださるのです。
どこに。この教会の礼拝に、です。
だから、ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に第一にこう励まします。我々はこの礼拝において我々の信仰告白を堅く守ろうと。
わたしたちがこの礼拝で信仰告白する使徒信条を、ウェストミンスター信条を、ハイデルベルク信仰問答を堅く守ろうと。
次にヘブライ人への手紙はわたしたち読者に4章15節で「我々が持っている大祭司」と述べています。
新共同訳聖書は「この大祭司」としか、記していません。ギリシャ語を直訳すると、「というのは、我々に与えられている大祭司」です。
父なる神がわたしたちに天から大祭司、神の子主イエスをお与えくださったのです。
今ここで礼拝しているわたしたちに。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に「この大祭司はわたしたちの弱さに同情できない方でなく」と述べています。
田川健三氏は「我々の弱さを同様に感じることのできないような方ではない」と訳されています。
これまでわたしたちは、主イエスを「わたしたちの弱さを同情する」御方と思ってきました。
「同情」という言葉を「日本語大辞典」で調べると、「人の気持ち、身の上、特に苦しみを、人ごとではなしに感じること。おもいやり」と解説されています。そして、用例として「同情心を買う」とありました。
田川健三氏が「同情」ではなく、「同様に感じる」と訳された意図をこう説明されています。「神の子イエスは、我々と同じ地上で生きて、我々と同じ弱さを自ら体験した、ということ。」「『思いやる、同情するというのは、自分自身はその痛み、弱さを体験してはいないが、しかし、それをかかえている人たちに同情することはできる』という意味である」と。
天から来られた大祭司、神の子主イエスは、わたしたちと同じ人となられました。しかも罪を除いてはすべての点においてわたしたちと同様のことを、まさにわたしたがこの地上で体験しているすべての弱さと苦しみを体験してくださったのです。
その大祭司、神の子主イエスがこの教会の礼拝にいてくださるのですから、ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に4章16節で堂々と恵みの御座に赴こうと勧めているのです。
そして、礼拝を通してわたしたちは、三つの主の祝福をいただくのです。主イエスの憐れみを受ける祝福、主イエスの十字架に自分たちの御救いを見いだす祝福、そして、助けとは、キリストの約束を受ける祝福です。
このようにヘブライ人への手紙は、第二の説教の序論で、励ましの言葉を語り、礼拝に集う者たちを、三つの礼拝の祝福へと招いているのです。
わたしたちも今朝、この礼拝でその祝福に与るのです。どうか、この礼拝で主イエスの慈しみと愛を受け取ってください。どうか、説教を通してキリストの十字架に自らの救いを出だしてださい。どうか、礼拝において洗礼と聖餐の恵みを受けてください。
さて、ヘブライ人への手紙は、第5章より大祭司の任職と大祭司主イエスについて述べています。
ヘブライ人への手紙は、5章1-4節においてユダヤ教の大祭司について述べています。ヘブライ人への手紙は、5章5-10節において大祭司キリストについて述べています。
そして、ヘブライ人への手紙はわたしたち読者にユダヤ教の大祭司に大祭司神の子主イエスはまさるお方であることを述べているのです
ユダヤ教の大祭司は旧約聖書に出て来る大祭司です。大祭司は、誰でも人間の中から選ばれました。旧約聖書は神の民の中からアロンと彼の子孫たちが大祭司に選ばれ、イスラエルの民の中からレビ族が祭司に選ばれたことを記しています。
その大祭司が選ばれた目的は、「罪のための供え物やいけにえを献げるよう」にということです。「供え物」は主として植物の献納物です。「いけにえ」は生きた動物を祭壇に献げることです。「罪のための」というのは、供え物やいけにえを神に献げ、人間が犯した罪の贖いのためであります。出エジプト記29章において神の民の罪を贖うためにアロンと彼の息子たちが大祭司と祭司に任命され、任職式をしたことを記しています。
次にユダヤ教の大祭司は、知らずに罪を犯した者や過ちに陥っている者に対して怒りの感情を制御出来ました。なぜなら、彼らは自分たちにも罪の弱さがあることを知っていたからです。
ヘブライ人への手紙がわたしたち読者にここで伝えたいことは、こういうことです。知らずに罪を犯している者に対して、あるいは間違った信仰生活をしている者に対して、わたしたちが適度なところで怒りを抑えることが大切であると述べているのです。
大祭司が面と向かって相手を非難すれば、大祭司自身も罪を犯しているのですから、その怒りが自分に向けられることをよく知っているのです。兄弟を裁く者は、主に裁かれるのです。
その事をユダヤ教の大祭司は良く知っていますので、怒りを抑えて、自分も含めた神の民の罪の執り成しのために、年に一度神殿の至聖所に入りました。
更にユダヤ教の大祭司は、この光栄ある職務を、大祭司アロンのように神の召しによって就きました。大祭司は自己推薦で職務に就くことはできません。主なる神が神の民の中からアロンと彼の家族を選ばれて大祭司とし、祭司としてくださったのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に5章5-10節においてユダヤ教の大祭司と比較して、大祭司神の子主イエスを述べています。
ヘブライ人への手紙は、大祭司神の子主イエスを、父なる神の召しから述べています。主イエスは、ユダヤ教の大祭司と同様に、父なる神に召されて大祭司に任ぜられました。1章5節と同じ詩編第2編7節の御言葉を引用して、主イエスが父なる神によって神の子に定められ、大祭司に任ぜられたと述べています。
主イエス・キリストは、人間の中から選ばれたユダヤ教の大祭司ではありません。神の御子であり、父なる神が永遠から主イエス・キリストを神の子に定め、大祭司に召されたのです。
また、ヘブライ人への手紙は、6節において詩篇110編4節の御言葉を引用しています。ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に主イエス・キリストが永遠に大祭司であり、メルキゼデクである、義なる王であると述べているのです。
ヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に主イエスがユダヤの大祭司とは違って、神の子であり、永遠の大祭司なのであると述べているのです。
初代教会は、主イエスをメシアと信じていました。主イエスは王であり、永遠の大祭司であるメシアでした。
だから、主イエスは大祭司アロンの子孫ではありません。旧約聖書の創世記14章にただ一度登場するメルキデゼクのように、王であり大祭司でありました。
次にヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に5章7節において神の子主イエスがこの地上で人として生きられたことを記しています。
福音書に描かれていますゲツセマネの園における主イエスの祈りを思い起こします。しかし、ヘブライ人への手紙は、ゲツセマネの園の主イエスの祈りを再現しているのではありません。
もし、そうであれば、ヘブライ人への手紙が述べていることは矛盾するからです。ゲツセマネの園で主イエスは、大きな嘆きと涙をもって、父なる神に十字架の苦しみを取り除けてくださいと祈られました。しかし、父なる神は主イエスの祈りを聞かれませんでした。主イエスは、父なる神の御心にわが身を委ねられたのです。
ではヘブライ人への手紙は、わたしたち読者に何を伝えようとしているのでしょうか。大きな嘆きと涙でもって主イエスが熱心に祈られたことを、ヘブライ人への手紙は、「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と述べています。
ヘブライ人への手紙は、主イエスが何を祈られたかを述べてはいません。主イエスが大祭司として父なる神に畏れ敬う態度でもって祈り願ったことを、父なる神は聞き届けて下さったと述べています。
「その畏れ敬う態度」こそ、主イエスがこの地上において多くの苦しみを通して神への従順を学ばれたことだったのでしょう。
主イエスがこの地上の生涯、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われました。それによってヘブライ人への手紙は、主イエスが9節において「完全な者となられた」と述べています。これは、主イエスが十字架において「成し遂げられた」と言われたことを思い起こします。「成就する」「完成する」という言葉です。
主イエスが十字架の死に至るまで、父なる神に従順に従われて、わたしたちの救いが完成したのです。
こうして主イエスは、わたしたちの救いの源であり、創始者となられました。主イエスは、神からメルキデゼクと同じ大祭司と呼ばれました。永遠の王であり、大祭司である主イエスは、ユダヤ人の大祭司よりはるかに偉大なわたしたちの救い主なのです。
お祈りします。
主イエス・キリストの父なる神よ、ヘブライ人への手紙第5章1-10節の御言葉を学ぶ機会を得て、心より感謝します。
わたしたちが礼拝し、主と告白する主イエスは、ユダヤ人の大祭司に遥かに勝る永遠の大祭司であり、王であり、神の子であることを学ぶことが出来て感謝します。
その方が、罪を除いてわたしたちと同じ人となり、多くの苦しみを体験し、徹底して父なる神に従順に従われ、十字架の道を歩んでくださいましたことを、それによってわたしたちの救いの源となり、創始者となって下さったことを感謝します。
どうか、大祭司キリストがわたしたちに与えられている事の喜びを、この主日礼拝を通して味わわせてください。
この世で多くの苦しみのゆえに押しつぶされます時、キリストもわたしと同じ体験をされたことを心に留めさせてください。だからこそ弱いわたしたちを助けることのできるお方であると信じさせてください。
次週は、ペンテコステです。聖霊降臨の恵みに豊かに与らせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。