ヘブライ人への手紙説教46              2023430

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

 

指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益とはなりません。

                ヘブライ人への手紙第1378節、17

 

説教題:神の御言葉を語る指導者に聞き従う

今朝は、ヘブライ人への手紙1378節と17節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ人への手紙が読者やわたしたちに1378節と17節で教会の指導者たちに従いなさいと勧めています御言葉のみに耳を傾けたいと思います。

 

7節と17節の御言葉は、教会の指導者たちに従順に従おうという勧告です。

 

7節の指導者たちと17節の指導者たちは、過去と現在の指導者たちです。7節でヘブライ人への手紙は読者に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。」と勧めています。「思い出しなさい」とは、過去の指導者たちのことです。

 

ヘブライ人への手紙は1033節で「このような目に遭った人たちの仲間となったこともありました。」と述べていますね。使徒パウロたちは、福音宣教を通してキリストの教会を建て上げました。その時にユダヤ人たちやローマ帝国の官憲に迫害され、捕らえられて牢に入れられました。ヘブライ人への手紙の読者たちは、キリストの福音を宣教し、彼らをキリスト者として育て上げてくれた指導者たちが迫害され、捕らえられ、牢に入れられるのを目撃したでしょう。

 

既にこの世にはいません。しかし、彼ら指導者たちが神の御言葉を語り、ユダヤ人教会を建て上げ、ヘブライ人への手紙の読者たちの信仰を育ててくれました。

 

ヘブライ人への手紙は、読者たちに最初の指導者たちを思い出し、彼らの生涯と彼らがなしたことの結果を見て、彼らの信仰を、あなたがたの模範としなさいと勧めているのです。

 

このヘブライ人への手紙の勧めを聞いていまして、大学生のころのことを思い出しました。わたしは、大学2年生のころ、Y先生にドイツ語を教わりました。そのときわたしは基礎ゼミのH先生を尊敬していると話しました。すると、Y先生が「尊敬しているのなら、その先生がしているようにしなさい」と言われました。「次の日曜日にその先生が行かれている教会に行きなさい」と勧められました。しかし、わたしは迷い、行きませんでした。すると、Y先生がわたしに「行きましたか」と尋ねられました。わたしは「行きませんでした」と答えました。Y先生は「どうして行かなかったんですか。次の日曜日に必ず教会に行きなさい」と勧められました。それで、基礎ゼミのH先生に電話し、次の日曜日に教会に行きました。暖かく迎えられました。

 

その日から教会の主日礼拝に出ました。そしてH先生の後について行くように、主日礼拝だけではなく、水曜日の祈祷会にも出ました。H先生は、わたしにお祈りで主に呼びかける時、「あなたさま」と丁寧に呼びかける必要はない、「あなた」でよいと教えてくださいました。

 

わたしは大学の二人の先生から信仰に生きることは具体的には、わたしたちの改革派教会の信条に、そして宣言に生きることであると教えられました。聖書を、教理をよく理解し、自分たちが主イエス・キリストを信じる信仰にひたすら向かうのです。

 

ヘブライ人への手紙も、8節でこう信仰告白しています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。

 

どんなに大切な先生も、教会の大切な指導者も、人間は必ず一度死ぬのです。これがヘブライ人への手紙の確信です。人間には終わりがあります。

 

しかし、わたしたちの真の霊的な指導者主イエス・キリストには終わりがありません。終わりがないというより、ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えたいことは、主イエス・キリストは、昨日も今日も、そして永遠に、同じお方であるということです。

 

主イエスは、過去の十字架と復活の主イエスも、今教会で福音を通して提供されている主イエスも、そして天におられ、大祭司としてわたしたちを執り成す主イエスも、そして再臨される主イエスも、同じ主イエスです。

 

主イエスは、何時の時代も同じ御方です。

 

ヘブライ人への手紙が読者に、そして今のわたしたちに伝えたいことは、こうです。主イエスは、いつでも、どこでも常にわたしたちと共にいてくださるということです。

 

キリストの教会がこの世に持続する基礎は、昨日も今日も、永遠に同じ主イエス・キリストです。過去のキリストは肉体を取られて、12弟子たち共にいてくださいました。今のわたしたちの時代は聖霊と御言葉を通して共にいてくださいます。わたしたちに説教を通してキリストの福音を提供することを通して。肉を取られた主イエスと御言葉と聖霊を通しての主イエスは、同じ主イエスです。

 

そして、主日礼拝の説教を通して語られる主イエスは、やがてこの世の終わりに再臨される主イエスと同じ御方です。神の御国を御支配される主イエスと同じ御方です。

 

その同じ主イエスが今この教会にも、わたしたちと共にいてくださいます。だから、わたしたちの教会は、昨日も今日も、この諏訪の地に存在しているのです。75年間継続し続けて来たのです。これからもわたしたちがこの教会で主日礼拝ごとに主を礼拝し、主の御言葉が語られ、それを聴き続ける限り、ここにわたしたちの教会は持続して行くのです。

 

だからこそ17節の御言葉が大切なのです。「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでないと、あなたがたに益とはなりません。

 

新共同訳聖書は、翻訳に苦労しています。「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。」の「言うことを聞き入れ」と「服従しなさい」は、どちらも服従しなさいという意味です。カルヴァンの新約聖書注解書のヘブル書は、「あなたがたの指導者に従い、これをうやまえ」と訳しています。

 

「言うことを聞き入れ」は、ただ「従え」です。「説得する」という動詞の受身形で、「説得されてある」という意味で、服従と信頼を表します。

 

指導者は、今の教会の指導者たちです。ヘブライ人への手紙は、指導者たちの「言うことを聞き入れ」と勧めることで、教会の今の指導者たちを信頼しなさいと勧めているのです。

 

服従しなさい」は、「うやまいなさい」という訳がありますように、教会の指導者を尊敬しなさいという意味でしょう。

 

教会の指導者たちを信頼し、尊敬することは、結局指導者たちに従うことになります。だから、新共同訳聖書の訳で良いということになります。

 

回りくどいことをお話ししましたが、回りくどくお話ししたから、ヘブライ人への手紙は、読者やわたしたちに「教会の指導者におとなしく従え」と命令しているのではないことを知っていただけたでしょう。ヘブライ人への手紙は、「信者はおとなしく教会の牧師に従っていなさい」と権威主義的なことを命じているのではないのです。これでは、信者が牧師を信頼する、敬うという気持ちが生まれません。

 

教会の牧師は、魂の医師と呼ばれています。ヘブライ人への手紙は、「この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。」と述べています。教会の指導者たちは、信徒たちの魂をしっかり目を覚まして見張っているのです。そして、彼らは、その報告書を、主なる神に提出するのです。官僚が上司に仕事の報告書を提出するように、教会の指導者たちは信者たちの魂について主なる神に報告書を提出するのです。

 

だから、ヘブライ人への手紙は、彼らがため息をつき、嘆きながらするようにではなく、喜んでするようにさせなさいと勧めています。

 

ヘブライ人への手紙は、こう述べているのです。教会の指導者たちが信者たちの魂を見張っていてくれるので、信者たちはこの世で道に迷うことなく、魂の救いを得ることができると。

 

「益とはならない」とは、「役立たない」ということです。税金に関係ある言葉です。わたしたちは、国に税金を納める義務があります。今年も2月から3月の初めに確定申告の期間があり、税金を完納されたでしょう。支払いの義務から解かれるから、自分にとって「役立つことである」という意味です。

 

同様にわたしたちは、主なる神に対して罪という大きな負債があります。この負債を自分で神に支払うことはできません。キリストがわたしたちに代わって支払ってくださるのです。その良き福音を語るのが教会の指導者であります。毎週の主日礼拝で神の御言葉を語るだけではなく、教会の指導者たちは信者たちを訪問し、彼らにキリストを届けてくれるのです。

 

もし教会の指導者が怠惰な者であれば、神の御言葉に対して沈黙する者であれば、だれがわたしたちにキリストを届けてくれるでしょか。また、わたしたちが教会の指導者を軽んじて、無視し、厄介をかけ、失望させるならば、彼はわたしたちの魂の医者の役割を果たせないでしょう。そうなれば、どんなにわたしたちの魂は永遠の滅びの危機にあることでしょう。

 

ヘブライ人への手紙は、わたしたちに牧師に従っていればよいと言いたいのではありません。牧師は、わたしたちの魂の医師として、主なる神様にわたしたちの魂について報告する義務があり、その義務を牧師が喜んで果たさないと、教会には益がないのです。

 

牧師が教会のことで、信者たちのことで不満があり、失望があれば、彼は信者を牧会することはありません。彼は、信者に神の御言葉を語ることも、キリストを届けることも、祈ることもありません。わたしたちは自分の魂を、永遠の滅びという危機にさらされるでしょう。

 

それを、ヘブライ人への手紙は、絶対に避けたいと思っています。しかし、ヘブライ人への手紙が心に留めるユダヤ人キリスト者たちは、教会の指導者を軽んじて、キリスト教からユダヤ教に戻ろうとしているのです。教会の指導者たちは、彼らを正規に戻そうとしましたが、効果がなく、成功しなかったようです。

 

教会の痛みの中で、このヘブライ人への手紙の勧告がなされているのです。

 

本当にこの世の教会の中に、痛みも悲しみも、嘆きもなくという状況はあり得ません。だからこそ主イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に同じ御方として、わたしたちの教会にいてくださることがこの教会の希望ではないでしょうか。

 

お祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヘブライ人への手紙第1378節と17節の御言葉を学びました。

 

わたしたちの教会は、「祈りと学びと奉仕を継続する教会」という教会目標をかかげて、この一年を過ごしています。教会の持続こそわたしたちの願いです。

 

今朝、ヘブライ人への手手紙第1378節と17節の御言葉をとして、主イエスが昨日も今日も、永遠に同じ御方であることがわたしたちの教会の基礎であることを教えられ、感謝します。

 

今朝は、日本キリスト改革派教会の創立者たち、また今働いている教会の指導者たちのことを覚える機会が与えられて感謝します。

 

どうか、ヘブライ人への手紙がわたしたちに勧めるように、わたしたちが教会の指導者たちを信頼し、敬うことができるようにしてください。マインドコントロールでも権威主義でもなく、わたしたちがよく牧師のことを理解し、納得し、従えるようにしてください。

 

また、逆にわたしたちがサタンの策略に陥り、教会の指導者たちを軽んじ、失望を与え、彼らが魂の医者としての務めを果たせず、嘆きと悲しみで落胆し、わたしたちの魂を危険にすることがないようにしてください。

 

わたしたちの教会がこの諏訪の地にこれからも持続できるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

ヘブライ人への手紙説教47              202357

いろいろ異なった教えに惑わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず。来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。

                ヘブライ人への手紙第13916

 

説教題:主イエスのみもとに赴こう

今朝は、ヘブライ人への手紙13916節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ人への手紙の13章は、戒め、祈り、挨拶の言葉です。戒めは、78節の御言葉を挟んで、前半と後半に分けられます。前半は隣人愛と不品行と貪欲の戒めであり、後半は、神に献げるキリスト者のいけにえへの勧めです。

 

ヘブライ人への手紙は、読者やわたしたちに9節で「いろいろ異なった教えに惑わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。」と勧告しています。

 

わたしたちは、一つの教えに満足できません。いろいろ異なる教えに心を揺さぶられます。ヘブライ人への手紙がわたしたちに伝えていることは、こういうことです。人がいろいろと言うことに振り回されてはいけません。まことにわたしたちの信仰を強めてくれるのは、人が言うような食べ物のことではなく、神の恵みの賜物です。だから、あなたがたがユダヤ教のように食物の規定を熱心に守って生活しても、神の恵みの賜物という益を得ることは出来ません。

 

わたしたちの信仰を強めることができるのは、人の行ない、努力ではありません。神の恵みです。それは、キリストを通してのみ、わたしたちに至る恵みです。この恵みは、わたしたちに真理を確信させてくれるものであり、ユダヤ教のような食物の規定ではありません。

 

だから、ヘブライ人への手紙は、読者とわたしたちに、10節で「わたしたちには一つの祭壇があります。」と述べているのです。

 

ヘブライ人への手紙は、こう断言していますのは、ユダヤ教のように私たちが何を食べても良いか、あるいは何を食べてはいけないかという規定を、わたしたちの信仰生活の中心にすることはあり得ないということです。

 

一つの祭壇」とは、主イエス・キリストの十字架です。地上の聖所、エルサレム神殿ではありません。主イエスが十字架上で流された血を携えて、天に昇られた、そこにある祭壇です。主イエスが十字架上でわたしたちの罪の身代わりに御自身の血を流してくださいました。それゆえにわたしたちキリスト者は御国に入り、天にある祭壇に集うことを許されているのです。

 

ヘブライ人への手紙は、10節後半で「幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。」と述べています。これは、神の幕屋で贖罪の日に動物犠牲が献げられていたことに注目しているのです。

 

神殿の祭司は、動物犠牲の肉を食べることが許されています。しかし、贖罪日の動物犠牲の肉は食べることができませんでした(レビ記16:27)

 

11節でヘブライ人への手紙が述べているとおりです。「なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。

 

贖罪日の動物犠牲は、大祭司が動物犠牲の血は聖所に持って行きました。そして、犠牲の動物は宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かねばなりませんでした。だから、祭司たちは、その祭壇から食べる権利がありませんでした。

 

このようにキリストの十字架の死を表わす動物犠牲のからだが聖所の外で捨てられ、宗教的意味を持ちませんでした。だから、キリスト者は、動物犠牲の規定や食物の規定を信仰生活の中心に置くことはできません。キリスト者の祭壇、すなわち、信仰生活の中心は、主イエス・キリストです。なぜなら、わたしたちはキリストの十字架で流された血によって、天の聖所、すなわち、御国に入ることができるからです。

 

この祭壇は、聖餐式のことではありません。ヘブライ人への手紙は、12節でこう述べていますね。「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。

 

門の外」は、11節の「宿営の外」に対応しています。エルサレムの都の城壁の外です。ゴルゴタの丘を暗示しています。「門の外で苦難に遭われたのです」とは、神の御子である主イエスが人の子として、わたしたちのように人間として十字架の死という苦難に遭われたということです。

 

 それは、「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするため」です。主イエスがゴルゴタの丘で十字架に掛けられ、御血を流されることで、わたしたちの罪を清めてくださり、わたしたちの救いを完成して下さるためです。

 

 このように主イエスがユダヤ人たちによって宿営の外に追われ、ゴルゴタの丘で十字架の辱めを受けられました。

 

 ヘブライ人への手紙は、読者とわたしたちに13節で次のように励ましています。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。

 

 ヘブライ人への手紙は、こう励ましています。わたしたちが「わが主よ」と呼びかける主イエスがあのゴルゴタの丘で人として苦難を経験されたのであるから、わたしたちもその主イエスの御苦しみに参加しようではないかと。

 

 十字架の苦難を共にすることは不可能です。人として主イエスは苦しまれたのですが、主イエスは神であられたから、あの十字架の苦しみに最後まで耐え忍ばれたのです。神の子キリストがあのゴルゴタの丘で経験された苦しみは、わたしたちが追体験できるものではありません。

 

 では、ヘブライ人への手紙はわたしたちに何を言おうとしているのでしょうか。主イエスが宿営の外で受けられた十字架の辱めによって、わたしたちは罪を清められたということです。エルサレムの都、エルサレム神殿の外で主イエスは十字架に死なれ、血を流され、宿営の外を清められました。汚れた場所であり、汚れた異邦人であったわたしたちがキリストの十字架の故に清められ、聖なる場所、聖なる者とされたのです。

 

 ですから、わたしたちは主イエスに従い、宿営の外に出ようと、ヘブライ人への手紙は読者とわたしたちを励ましています。この励ましは、ある意味で殉教を覚悟しています。

 

ユダヤ教は、ローマ帝国の公認の宗教でした。そのユダヤ教に背を向けるのですから、ユダヤ人に迫害されるだけではありません。ローマ帝国の官憲からは、キリスト教は非合法な宗教であると、迫害されるということです。

 

ヘブライ人への手紙は、読者とわたしたちにキリストの十字架を担っていこうと励まします。そして、天の父なる神の右の座にいます主イエスを目指して歩もうと、励ましているのです。

 

キリスト者とこの世の教会は、神の御国への途上にあります。ヘブライ人への手紙は、14節でこう述べています。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず。来るべき都を探し求めているのです。

 

ヘブライ人への手紙は、読者とわたしたちにわたしたちの国籍は天にあると言っているのです。この世に永遠のものを求めてはいけません。この世のものはすべて過ぎ去ります。ただ一つ主が天に用意してくださる永遠の都、御国が来るのです。

 

そして、わたしたちの目を天に向けることを学ぶために、毎週の主日礼拝があるのです。ヘブライ人への手紙は、15節でこう述べています。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。

 

主を礼拝しょうということです。礼拝は、キリストを通して絶えず父なる神に献げられる賛美のいけにえです。父なる神は、キリストを通してわたしたちがささげる感謝と賛美を受け入れてくださるのです。わたしたちは、讃美歌21を礼拝で賛美しています。それは、主イエスの御名を、父なる神の御名を、聖霊の御名をたたえるわたしたちの唇の実です。

 

ヘブライ人への手紙は、16節でこう述べています。「善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。

 

ヘブライ人への手紙は、御国への途上に生きるわたしたちに、善い行いと施しをするように励ましています。これは、その当時の社会と人々の道徳的基準でした。神にささげるのは、金や物ではありません。わたしたちの心です。

 

善い行いと施しは、131節と2節の兄弟として愛すること、旅人をもてなすことです。わたしたちの隣人に親切にすること、遠くの人々の平和を祈り、また避難民の方々を支援すること。ヘブライ人への手紙にとって人が善と言うことを、主イエスの御名によって、信仰によって行なうことが、神が喜び受け入れてくださるいけにえなのだということです。

 

お祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝は、ヘブライ人への手紙第13916節の御言葉を学びました。

 

この世にはわたしたちの信仰を迷わす多くの人の教えがあります。どうか人の多くの声に耳を傾けるのではなく、ただ主イエスの御声に、神の御言葉にわたしたちが耳を傾けることができるようにしてください。

 

 

わたしたちの信仰の中心に主イエスが居てください。主イエスの十字架の血によってわたしたちは罪を赦され、清められました。

 

どうか、主イエスの御後を歩めせて下さい。この世に心が奪われず、天の御国へと、主イエスのみもとへと歩ませてください。

 

この世は永遠ではなく、過ぎ去ることを心にいつも留めさせてください。主イエスが備えてくださる御国を待ち望ませてください。

 

わたしたちの主の日の礼拝が主イエスの御名をたたえる唇の実とならせてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

ヘブライ人への手紙説教48              2023514

わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストよってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。

あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。恵みがあなたがた一同と共にあるように。

                ヘブライ人への手紙第13章1825

 

説教題:永遠の契約の血による羊の大牧者主イエス

今朝で、ヘブライ人への手紙の連続講解説教は終わります。

 

ヘブライ人への手紙は、この手紙の結びの言葉を、1318節の祈りの言葉で始めているのです。

 

わたしたちのために祈ってください」は、19節の御言葉から分かりますように、この手紙の著者個人のことです。

 

ヘブライ人への手紙は続けて読者たちに「わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。」と述べています。これは、執り成しの祈りを願う動機を述べているのです。

 

ヘブライ人への手紙の著者は、読者と親しい特別な関係にある人です。だから、「わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、立派にふるまいたいと思っています」と述べていることは、著者の弁明です。

 

彼は、自分の義務に対して良心においても、行動においても忠実であろうという強い信念を持っているのです。

 

それを可能とするのは、著者が2021節で述べている「平和の神」です。ヘブライ人への手紙は、こう述べています。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストよってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」と。

 

だから、この手紙の著者は読者にその平和の神にキリストの執り成しを祈ってくださいとお願いするのです。

 

人間は、聖なる神の御前に罪人です。人間の生涯は罪の悔い改めの生涯です。だから、良心と行動において完全に自分の義務を成し遂げることは不可能です。

 

平和の神、父なる神がキリストによってわたしたち人間の罪を執り成され、聖霊によって私たち人間を再生し、神の御前に良きものとして生きることができるように導き、助けてくださる必要があります。

 

それゆえにヘブライ人への手紙は、読者に2021節で「平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストよってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」と祝福しているのです。

 

ヘブライ人への手紙の著者は、読者たちに特別に執り成しの祈りをしてほしいことがありました。19節です。「特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。

 

特にお願いします。」は意訳です。ヘブライ人への手紙は、読者に「わたしは呼びかける、ますます多く祈ってほしい。あなたたちのためにわたしがもっと早く戻れるように。」と述べているのです。再会を切に切望しています。著者と読者たちの間に、何が妨げになっているのか分かりません。著者は、読者たちに切に彼らの間にある妨げが速やかに取り除かれて、再会できるように祈り続けてほしいと懇願しているのです。

 

続いてヘブライ人への手紙は、読者に2021節で頌栄と祝福の言葉を述べています。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストよってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。

 

これは、両手を挙げて祝福する言葉です。礼拝順序の最後に祝福の宣言がありますね。ヘブライ人への手紙は、この手紙で三つの説教を語り、この手紙の終わりで祝福の言葉を述べています。

 

そして、その祝福の言葉の中にこの手紙の中心の主題が出てきます。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエス」です。

 

へブライ人への手紙が主イエスを、「羊の大牧者」と呼ぶのは、この個所だけです。20節でヘブライ人への手紙は、平和の神が、永遠の契約の血における大牧者、すなわち、わたしたちの主イエスを、死人の中から連れだして下さったと述べています。キリストの復活を、この手紙が述べているのは、この個所だけです。

 

キリストの復活は、十字架のキリストがわたしたちの罪の贖いの犠牲として神に受け入れられたことを意味します。

 

それによって旧約聖書の預言書、ゼカリヤ書911節の御言葉が実現したのです。「またあなたについては あなたと結んだ契約の血のゆえに わたしはあなたの捕らわれ人を 水のない穴から解き放つ。

 

主イエスの十字架の血は、父なる神が受け入れられたいけにえであり、新しい契約がそれによって制定されました。わたしたちは、旧約時代のモーセや大祭司アロンよりも優れた永遠の契約の血による大牧者、わたしたちの主イエスによって、罪と死から救い出されました。平和の神である父なる神が死人の中から主イエスを引き出されたように、わたしたちも罪と死の中から主イエスによって引き出されたのです。

 

どうしてわたしたちは、十字架のキリストの血によって贖われたのでしょうか。ヘブライ人への手紙は、こう述べています。「平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストよってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように

 

わたしたちがキリスト者として、今ここにいるのは、平和の神、すなわち、父なる神の永遠の御計画です。父なる神は、御子主イエスによってわたしたちを選ばれました。そして御自身の御心の嘉しとすることを、すなわち、御子主イエスを通してわたしたちを救うことを成し遂げてくださいました。そのために父なる神は御子主イエスを救い主として備えてくださっただけではありません、御子の十字架によって贖われたわたしたちが神の御心に従って生きるように、わしたちに聖霊をお与えくださいました。

 

平和の神は、この世から神の民を、羊飼いが羊の群れを牧するように、主イエス・キリストによって一つに集められます。集められたわたしたちは、ある意味でばらばらです。すなわち、性格や生活態度が不一致であり、信仰の理解も異なります。そこから教会の中に混乱が生まれ、争いが起こります。しかし、平和の神は、わたしたちのために教会を備え、礼拝を備え、礼拝に説教と聖餐を備えて、聖霊と御言葉を通してわたしたちが目に見えない臨在のキリストに触れ、信仰の一致を得、わたしたちの国籍が共に天にあることを悟らせてくださいます。

 

わたしたちは、このヘブライ人への手紙の祝福の言葉を通して、この世の主人公が平和の神であり、神はわたしたちを神の御心に生きることができるように、すべての備えをしてくださっていることを教えられるのです。

 

だから、わたしたちは、祈るのです。主の御心に生きることができますように、わたしたちにすべてのものを備えてくださいと。

 

ヘブライ人への手紙は、最後に挨拶を述べて、この手紙を閉じています。2224節です。「兄弟たち、どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください、実際、わたしは手短に書いたのですから。わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、一緒にわたしはあなたがたに会えるでしょう。

あなたがたのすべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく。イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています。

 

ヘブライ人への手紙は、三つの説教から成っています。それが勧めの言葉です。ヘブライ人への手紙は読者に書かれた説教、勧めの言葉として受け入れてほしいとお願いしています。話された説教としては、もっと長いものだったでしょう。それを、ヘブライ人への手紙は手短に書いたと述べています。この手紙は、読者の教会で説教として読まれたでしょう。説教として、この手紙が朗読されたのであれば、短いものでしょう。

 

使徒パウロの一番弟子テモテを、ヘブライ人への手紙は「わたしたちの兄弟」と呼んでいます。テモテが牢に投獄され、釈放されたということは、ヘブライ人への手紙のこの個所だけです。ヘブライ人への手紙の著者は、読者にテモテの釈放を知らせるだけではなく、テモテが読者のユダヤ人教会に早く来れば、著者も一緒に読者たちに会えると述べています。著者はパウロではありませんが、テモテと良き協力関係にある人です。

 

ヘブライ人への手紙は、24節で教会の指導者たち、信徒たちに、イタリア出身のキリスト者たちに挨拶を述べています。

 

最後の25節は、祝福の祈りです。祝福の祈りは、パウロの手紙と同じです。ヘブライ人への手紙は恵みが読者たちと共にあるようにと祈り、この手紙を閉じています。

 

わたしも祈ります。どうか神の恵みが感諏訪湖畔教会の兄弟姉妹たちと共に、オンライン礼拝の兄弟姉妹たちと共にありますように。

 

お祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神よ、今朝でヘブライ人への手紙の連続講解説教を終えることができて感謝します。

 

神の子主イエス・キリスト、大祭司主イエス・キリスト、永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスと、聖書の中心がキリストであることを深く万分ことができて感謝します。

 

いつの世も、教会とキリスト者は背教という危険に身を晒しています。十字架のキリストよりも、形式的な礼拝や信仰に心を奪われています。

 

どうかわたしたちが神の子主イエス・キリストへの信仰を固くすることができますようにしてください。

 

どうかわたしたちが大祭司キリストの十字架の執り成しのみに信頼し、今も天の父なる神の右に座されているお方にのみ心を向けさせてください。

 

わたしたちが一度死ぬことと、キリストがわたしたちの罪のために死なれたことを信じさせてください。

 

この世の教会が常に神の御国の途上にあることを覚えて、わたしたちの国籍が天にあることを確信させてください。

 

 

 

この祈りと願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。