フィリピの信徒への手紙説教06 主の2025年3月2日
そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピの信徒への手紙第二章1-11節(2)
説教題:「パウロの賛美」
今日はフィリピの信徒への手紙第二章5-11節の御言葉を学びましょう。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致を勧めました。そのためにパウロは彼らが互いに同じ思い、同じ愛、そして心を合わせて思いを一つにしてほしいと願いました。それがパウロの喜びであったからです。そのためにパウロは彼らにへりくだりが必要であり、彼らが兄弟たちへの尊敬と配慮に注意を払うように勧めました。
続いて使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに5節で次のように勧告しました。「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」。新改訳聖書2017は「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」と訳しています。わたしは訳が違うと思いますが、どちらも使徒パウロの思いをくみ取ろうとしていると思います。それはキリストのへりくだりという思いです。
この5節のパウロの御言葉は1-4節のパウロの勧告と6-11節のパウロが引用したキリスト賛歌を結び付けています。そしてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに12節以下でキリストへの従順と彼らの救いの達成に努めるように勧告しているのです。
さてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに3節で「へりくだって」と勧めていますね。わたしはこの勧めがパウロのキリスト賛歌を引用する動機になっていると思います。ある註解書を読んでいますと、次のように解説されていました。「一節から四節にかけて打ち出した勧告の内的原理、根拠、動機づけ、それに、模範を提供しようとしている。従って五節の句は『勧告』と「キリスト賛歌」を結びつける『つなぎの句』となる。パウロは単にキリスト者がとるべき態度の『模範』としてキリストの態度を指示しているのではない」。
わたしはこの文章を一度読んで、理解できませんでした。なぜなら注解書は「模範を提供している」と言いながら、「パウロは単にキリスト者がとるべき態度の『模範』としてキリストの態度を指示しているのではない」と述べているからです。どういうことなのでしょう。わたしはパウロがフィリピ教会のキリスト者たちにへりくだりを勧めていると思うのです。それはパウロが教会の一致のためにこのキリストのへりくだりがカギとなると思っているからです。だからパウロは、この手紙でキリスト賛歌を引用しているのではないでしょうか。
わたしは5節の「互いにこのことを心がけなさい」の「このこと」とはフィリピ教会のキリスト者たちのへりくだりだと思います。そしてパウロは「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と言って、このキリスト賛歌を引用したのだと、わたしは思うのです。
それからパウロはその前の2節で「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」と述べていますね。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにキリストのへりくだりを、形ばかりまねることを願っているのではありません。何よりもパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致を、彼らが互いにキリストに思いを一つとしてほしいと願っているのです。
だからわたしはある注解書が解説しています「パウロは単にキリスト者がとるべき態度の『模範』としてキリストの態度を指示しているのではない」ということを理解したのです。わたしはパウロがフィリピ教会のキリスト者たちに5節で伝えたかったことは、キリストのへりくだりを模範にせよということではなかったと考えています。もしパウロがフィリピ教会のキリスト者たちにキリストのへりくだりを模範として示そうとしたのであれば、パウロがどうして9-11節でキリストの高挙の讃美歌を引用しているのか、その意味が分かりません。キリストのへりくだりの模範を示すだけであれば、6-8節で十分でありませんか。
パウロが願った教会の一致という根底にある大きな出来事を、パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにこのキリスト賛歌の引用によって知らせたかったのです。わたしはパウロが引用したキリスト賛歌に、キリスト者の今があり、わたしたちキリスト者は十字架のキリストに生かされて、今を生きているのではないかと思うのです。もうわたしたちキリスト者は自分を主体にこの世を生きているのではありません。わたしが自分で生きているのでなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにどのようにしてわたしたちキリスト者が今この新しい生を生きるようになったのかを示そうとしているのです。だからパウロはこのキリスト賛歌を引用しているのでないでしょうか。
このように推測しますと、パウロが6-11節でキリスト賛歌を引用し、キリストのへりくだりだけでなく、高挙も引用していることに、わたしは納得できるのです。このキリスト賛歌はパウロが作ったものでありません。初代教会の中で賛美されていたものです。それをパウロが少し手を加えて、引用しているのです。教会への一致を基礎づけるためです。
だからこのキリスト賛歌は二部構成になっています。6-8節と9-11節です。キリストのへりくだりと高挙に分けられています。6-8節はキリストのへりくだりです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」
6-8節はキリストが主語です。6節でキリストが「神の身分でありながら」と言われていますね。これはキリストが神の創造の前に神として存在されたこと、キリストが神であられたことを歌っています。「神と等しい者である」とはキリストは父なる神と等しい者であるということです。「固執しようとは思わず」とは、神であられたキリストが神であることにこだわらなかったということです。神であるキリストが7節で神であることにこだわらなかっただけでなく、へりくだり、「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」と歌っています。いわばキリストは神であることを放棄して、当然神であることにこだわらず、わたしたちと同じ人間となられたのです。
8節はパウロの挿入句であると考えられています。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。神であられたキリストが十字架の死に至るまでわたしたちと同じ人間としてへりくだり、父なる神に従順であられたのです。それによってパウロは、この十字架の死に至るまでキリストが父なる神に従順であられたということを根拠にして、フィリピ教会のキリスト者たちに12節以下で従順を勧告しているのです。
ところが、9-11節は主語が神です。キリストは神であられたが御自分を空しくし、わたしたちと同じ人間になられ、十字架の死に至るまでへりくだられました。神はそのキリストを大いに高められました。9節で「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と歌っています。神は父なる神です。「キリストを高く上げ」とは父なる神がキリストを死人の中から復活させ、昇天させ、神の右に座せられたことです。神がキリストに「あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とは、全被造物にまさる位と権能を恵みとしてお与えになったということです。
10節の「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて」とは、宇宙の全被造物を指しています。キリストは宇宙の全被造物を支配する者となられたのです。「イエスの御名にひざまずき」とは神がキリストを高挙され、宇宙の全被造物の支配者とされた、すなわち万物の主とされたので、全被造物がキリストを主と告白し、礼拝するのです。だから11節で「すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」と歌っているのです。
パウロが引用したキリスト賛歌はキリストのへりくだりだけでなく、神がキリストを高く上げられ、キリストが万物の主として全被造物に礼拝されることを通して、父である神の栄光が表されたと歌っているのです。
わたしはパウロのキリスト賛歌を読み、思うのです。これはただわたしたちにキリストのへりくだりを教えているのだろうかと。教会の一致のためにはわたしたちがキリストのへりくだりを模範とすべきだと、パウロが教えているのだろうか。わたしは違うのではないかと思うのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにこのキリスト賛歌を通して神がどのようにキリストのへりくだりと高挙を通してキリスト者に新しい生を、大きな恵みの出来事をお与えくださったのかを伝えているのです。
キリストがへりくだり、十字架に死なれ、神がキリストを高く上げられた出来事は教会の一致の出来事でありました。すべての被造物がキリストを万物の主と崇め、礼拝し、神の栄光をあらわす出来事でした。神はキリストが十字架に至るまで御自身に従順であられたので、彼を高く上げて、万物の主として立てられたのです。
今わたしたちが主の日に主イエス・キリストをわたしたちの主として礼拝していること、この恵み、パウロがキリスト賛歌を引用していることの意味ではないでしょうか。神であるキリストがわたしたちと同じ人となり、十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。だから神はキリストを死人の中から復活させ、昇天させ、神の右に座さしめ、高く上げて、万物の主とし、全被造物が主イエスを礼拝するようにさせられたのです。こうして神の栄光が表されました。今日はここまでです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章5-11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
どうかわたしたちの教会にも教会の一致をお与えください。わたしたちが同じ思い、同じ愛、そして心を一つとし、互いに協力し、この教会の礼拝を守り、神の栄光を現すことができるようにして下さい。
そのためにキリストはへりくだり、十字架の死に至るまで神に従順でした。どうかわたしたちもキリストのように死に至るまでキリストに従順な者としてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教07 主の2025年3月9日
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
フィリピの信徒への手紙第二章12-18節
説教題:「パウロの従順」
本日はフィリピの信徒への手紙第二章12-18節の御言葉を学びましょう。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致を勧めました。そのために鍵となりますのが礼拝であり、フィリピ教会のキリスト者たちの互いのへりくだりであり、従順でありました。そこで使徒パウロはこの手紙の二章6-11節でキリスト賛歌を引用して彼らにキリストのへりくだりと高挙を示して、神であられたキリストが人としてこの世に来られ、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられ、父なる神はキリストを死人の中から引き上げて、万物が主と礼拝するお方とされたことを語りました。
12節の「だから」は、使徒パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに6-11節のキリスト賛歌に結び付けて従順を勧告しようとしているのです。パウロは続けてフィリピ教会のキリスト者たちに「わたしの愛する人たち」と呼びかけて、キリストが父なる神に十字架の死に至るまで従順であられたように、「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて」くださいと勧めています。
このように従順が今朝の御言葉を理解する鍵です。パウロにとって信仰とは従うことです。だから福音の宣教者である使徒パウロは福音の聞き手であるフィリピ教会のキリスト者たちを信仰の従順に、すなわちパウロが語ります神の御言葉への従順に常に導こうとしたのです。パウロにとっては信仰の行為は聴き従う行為だったからです。まずパウロが従順をどのように考えていたかをよく理解してください。
パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「わたしの愛する人たち」と呼びかけています。パウロにとってフィリピ教会のキリスト者たちは共にキリストの愛に浴する信仰の同志でした。パウロは彼らと共に居たとき、彼は彼らに彼の語る福音に聞き従うように熱心に指導していたでしょう。今パウロは牢獄に閉じ込められています。彼は彼らと一緒にいることができません。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちにこれまで以上に礼拝で宣教者たちが語る福音に聴き従って、従順でいてほしいと勧めているのです。
わたしはパウロが勧める従順の場所は教会の礼拝にあると思うのです。そこでわたしたちキリスト者たちは礼拝します。神の御言葉、すなわち命の福音を聴くのです。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに彼らが教会の礼拝で聴いた神の御言葉に従うように、彼らに宣べ伝えられたキリストに従うように勧めたのです。
そのように考えますと、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに従順を勧めて、12節後半で「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と勧告していますことが分かります。わたしは、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちにこう勧めたと思います。「愛する人たち、キリストを畏れつつ、キリストの御言葉に聴き従い、その信仰によってあなたがたの救いを完成するように努めなさい」と。
続いてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちにキリストを礼拝し、キリストの御言葉を聞いて、キリストを彼らの主と信じ、従うことが人間の行いではなく、神のお働きであることを伝えています。13節です。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」パウロは彼が勧める従順の主体が人でなく、神であると述べているのです。神の御言葉に聴き従う信仰は人の行いではなく、神のお働きです。たとえば手元の週報の主日礼拝の礼拝順序を見ても、一目瞭然ですね。一目でわかります。礼拝はキリストの招きに始まり、神の御言葉が語られ、わたしたちは聴くのです。その時に神はキリストにあって選ばれた者に聖霊を通して御自身の御心を、まさに御言葉を聴く者が自分で決心したかのように導かれ、従順へと歩まされるのです。だから、パウロはキリスト者の従順は神があなたがたの内に働かれる御業であると言っているのです。
続いてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに従順への道の厳しさと確かな約束を、14節から16節前半で次のように述べています。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」。このパウロの御言葉の背景には旧約聖書の神の民イスラエルの荒野の旅があります。昔神の民イスラエルが奴隷の地エジプトから解放された時、彼らは40年間約束の地カナンを目指して荒野で生活しました。彼らはエジプトの奴隷から贖われて、神の民となりました。主なる神は彼らにモーセの口を通して語られる神の御言葉に聴き従う従順を求められました。しかし、彼らはモーセが語る主の御言葉に不平を言い、主なる神に逆らい、偶像礼拝の罪を犯しました。だからパウロはこの世におけるキリスト者の生活を神の民イスラエルの荒野の生活にたとえて、「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」と述べているのです。パウロはこう言っているのです。「あなたがたは神の民イスラエルの悪例に従ってはならない。彼らがモーセの語る神の御言葉に不平を言い、主なる神とモーセを疑ったように、わたしたちが語るキリストの御言葉に反抗の態度を表してはいけない」。
パウロは「そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」と述べています。わたしは約束の言葉だと思います。フィリピ教会のキリスト者たちが神の御言葉に聴き従い、すなわち、キリストに従う従順の道を歩み続けるならば、彼らは「とがめられるところのない清い者」とされるという約束です。これはわたしの言い方では文句なしに真の神の子とされるということです。
パウロの見方、それは聖書の見方ですが、今、わたしたちのこの世、わたしたちのこの世界は「よこしまな曲がった時代」です。人は神を恐れてはいません。そして人は傲慢です。人はどんな権威に対しても反逆します。だから、神を離れ、その傷のゆえに、今の世に、世界に神に従う者がないという中で、キリストは聖霊を通してこの世のキリスト者たちを「非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つ」ようにしてくださるのです。今の世に、世界に神の御言葉に聴き従うキリスト者がいるということは、パウロの言う神の約束であり、ある意味で奇跡であると、わたしは思うのです。暗い夜空を見上げますと、星が輝いています。キリストに従う従順なキリスト者たちも暗い夜空に輝く星のように輝き、命の言葉をしっかりと持つ者とされているのです。
キリスト者の輝きは命であるキリストの光を照らすのです。キリスト者はキリストの御言葉を聴くだけではありません。キリストの命の光に照らされているのです。わたしは思うのです。わたしはどこでキリストに出会ったのかと。大学生のころに求道し、宝塚教会で礼拝生活を始めました。51年間キリストの御言葉を聴き続けました。今わたしは思うのです。キリストは教会の礼拝に居てくださり、牧師の説教を通して語り続けてくださっていたと。キリストとの出会いは聖書の御言葉を聴くことの中で、礼拝の説教を聴き続ける中で、あったのだと、今のわたしは思うのです。ただわたしが非の打ちどころのない神の子であると、今自信をもって言えません。しかし神の約束の言葉であれば、わたしは信じたいと思うのです。キリストが再臨された日に、このわたしが非の打ちどころのない神の子だと、キリストに宣言されることを。
16節後半から18節はパウロの喜び、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちと共に喜ぶことを述べています。パウロが彼らと共に喜びたいことは、第一に16節後半です。「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」「キリストの日」とはキリストが再臨され、最後の審判がなされる日です。そこで使徒パウロは彼の使徒としての評価を、キリストに下されるのです。フィリピ教会のキリスト者たちがパウロの指導に従って福音を聴き続け、キリストに最後まで従ってくれれば、彼らがパウロの働きの証人となってくれるのです。パウロの使徒としての働きが有効であったことが証しされます。だからパウロは、キリストの日に誇ることができると述べているのです。彼の誇りは彼が自分の功績を誇るのでありません。18節でパウロがフィリピ教会のキリスト者たちに共に喜んでくれと言っていますように、パウロと共にフィリピ教会のキリスト者たちが最後まで従順であったことを、神に感謝し喜ぶのです。
パウロが共に喜びたいことの第二は17節です。「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。」パウロは牢獄に捕らえられていました。判決は下されていません。死刑の判決が下されるか、無罪放免になるか、パウロには二つの可能性がありました。しかし、パウロにはキリストの福音のために牢につながれているという確信がありました。特にパウロは死刑の宣告が下ることを想定して、自分とフィリピ教会のキリスト者たちとの関係を述べているのです。
パウロは旧約聖書の神の民イスラエルの祭儀を持ち出しています。昔神の民イスラエルは神殿で神さまに動物犠牲を献げました。その時に祭司は犠牲の動物の血を祭壇に灌祭として注ぎました。パウロは自分の死をフィリピ教会のキリスト者たちの信仰の従順のための献げ物とすると述べているのです。
わたしにはまるでパウロがキリストのように自分が祭司となり、犠牲となってフィリピ教会のキリスト者たちの信仰の従順を執り成すと言っているように聞こえるのです。カルヴァンは註解書の中でこう述べています。「ここでわれわれは、信仰の本質、すなわち、それは決して空しいものでも無益なものでもなく、人を神に捧げることであるという有益な教訓を学ばなければならない。また福音の仕え人はここで、信者の魂を犠牲として捧げる神の祭司と呼ばれるが故に、特別の慰めを持つ。この捧げ物が神の嘉し給うものであることを知る人は、どのような熱心をもって福音ののべ伝えに従事すべきであろうか。」
パウロは自分がキリストの福音のために殉教の死を遂げることになっても喜ぶと言っているのです。そしてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに共に喜ぶと言い、一緒に喜んでほしいと願っています。キリストの共同体はキリストにあって共に喜び合う集いです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く集いです。
わたしはキリスト者の従順を推進する力は聖霊の御力であると思いますが、聖霊はフィリピ教会のキリスト者たちがパウロと一緒に喜ぶことで、彼らのキリストへの従順を推進されていると思うのです。本日はここまでにします。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章12-18節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
わたしたちにもこの教会での礼拝で神の御言葉を聴き続け、キリストに従順に歩めるようにして下さい。わたしたちの今の時代もよこしまな曲がった時代です。どうか聖霊よ、わたしたちに神の御言葉に聴き従う信仰をお与えくださり、小さな群れですが、暗き夜空に輝く星として、わたしたちの住むまわりの人々にキリストを証しさせてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
フィリピの信徒への手紙説教08 主の2025年3月16日
さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。
フィリピの信徒への手紙第二章19-24節
説教題:「パウロの希望」
本日はフィリピの信徒への手紙第二章19-24節の御言葉を学びましょう。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに2章18節で喜びの勧めをしました。パウロは彼らに「わたしと一緒に喜んでください。わたしもあなたがたと一緒に喜びます」と言いました。パウロはその後に二章19-30節でこれからの計画について具体的に述べています。第一の計画は彼の弟子テモテをフィリピ教会に派遣することです。第二の計画はエパフロデットをフィリピ教会に帰すことです。
本日は使徒パウロが弟子のテモテをフィリピ教会に遣わす第一の計画について学びましょう。使徒パウロは、彼の弟子テモテをフィリピ教会に遣わす理由について、19節で次のように述べています。「さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」。
使徒パウロは既に学びましたように、彼がこの手紙をフィリピ教会に書き送りましたとき、牢獄で囚われの身となっていました。そして、彼は死刑の判決の宣告を受けるのか、あるいは無罪放免の宣告を受けるのかを、待っていました。パウロはフィリピ教会を離れていて、愛する兄弟姉妹のことが心配だったのでしょう。そこで彼は共に働いている福音宣教の協力者をフィリピ教会に遣わすことを計画しました。その理由は彼が19節でこう述べています。「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので」と。今は離れていても、パウロの心は常にフィリピ教会のキリスト者たちと共にありました。共にキリストの福音宣教を担う、そして12節でパウロが「わたしの愛する人たち」と呼びかけているフィリピ教会のキリスト者が今どのような状況にあるのかを知りたいと思いました。そして彼自身が今の困難な状況にあるので、彼らによって力づけられたいと思ったのです。
そこでパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています」と述べているのです。パウロの言葉は彼のテモテを遣わすというこの計画が主イエスによってわたしが希望したことだと言っているのです。おそらくパウロは牢獄でフィリピ教会のキリスト者たちのために熱心に祈っていたでしょう。その時に主イエスがパウロにあなたの身近にいる協力者をフィリピ教会に遣わすように促されたのでしょう。だからパウロが弟子のテモテをフィリピ教会に遣わすことは、パウロにとっては主の御心だったのです。
そこでパウロは自分がフィリピ教会に遣わす弟子のテモテについて20-22節で次のように紹介しています。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。」
テモテはパウロの弟子です。使徒パウロは使徒言行録の16章で第二回目の伝道旅行をしました。その時第一回目の伝道旅行で訪れたデルベ、リストラを再び訪れました。そこでパウロは小アジアのリストラとイコニオンで評判の良いテモテを見出しました。彼の父はギリシア人で、母がユダヤ人でした。パウロは彼を弟子とし、福音宣教に伴いました。パウロがヨーロッパに渡り、フィリピで伝道したとき、テモテも同伴し、フィリピ教会の設立を助けたのです。
だからパウロは、22節で「テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と述べているのです。フィリピ教会のキリスト者たちはテモテが常にパウロのそばで、まるで父に従う子のようにパウロに協力していたことを見ていたでしょう。実際パウロは、テモテをわが子のように愛しました。ただパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに誤解を与えたくなかったので、「テモテは息子が父に仕えるように、わたしに仕えてくれた」と言わないで、「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と言い換えています。パウロも弟子のテモテも共に主イエス・キリストに仕える下僕であるからです。
パウロがテモテを見出した時、既にテモテはキリストの福音を聞くことによって立派な主イエスの弟子でありました。だから、使徒パウロがフィリピ教会のキリスト者たちに言いたかったことは、こうです。「わたしがテモテを生んだのではなく、キリストの福音が彼をキリスト者として産み、彼はわたしと共にそのキリストの福音に父のように仕えている」と。
パウロの22節の御言葉からわたしたちは次のことを教えられるのです。教会において人間的親子関係とか、師弟関係は意味がありません。わたしたちはキリストの福音を聞くことによって、神の子として、キリスト者として生まれ変わったのです。だから教会では人が人に仕えることはありません。わたしたち兄弟姉妹は共にパウロやテモテのようにキリストの福音に仕えるのです。
キリストの福音とは福音の宣教者たちが語りますキリストの言葉です。パウロはローマの信徒への手紙十章で福音を宣教する者の足は何と美しいかと述べて、17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と述べています。わたしたちは教会の礼拝において福音として提供されたキリストを救い主と信じて、キリストに従うのです。
だからパウロは、フィリピ教会のキリスト者たちに20節でこのように述べているのです。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」。パウロとテモテは常に同じ思いで、何よりもキリストの福音に仕え、キリストの御心を優先し、キリストが十字架を通して愛されたフィリピ教会のキリスト者たちに対して親身となりました。同じ思いを抱いてとは、パウロとテモテがフィリピ教会のキリスト者たちに対して同じ配慮をしていたということでしょう。パウロがフィリピ教会のキリスト者たちの様子を知り、力づけられたいと思うように、テモテもパウロと同じ思いを持っていたということでしょう。
だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」と断言できたのです。実際にパウロの身の周りにテモテのようにパウロと同じ思いとなり、自分の利益を求めないで、何よりもキリストを優先する者はテモテ以外にいませんでした。パウロはこの手紙の一章17節で「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせている」者がいたと述べています。パウロの身の周りにはキリストの福音を宣教する者たちがいたのです。しかし、彼らは個人的な面でパウロに反感を持ち、自分たちの益のために福音宣教をしていたのです。だからパウロの身の周りにはテモテしか信頼のおける者はいなかったのです。
そこでパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに23節で次のように述べているのです。「そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています」。パウロの言います「わたしは自分のことの見通しがつきしだい」とは、牢獄に囚われているパウロが裁判で有罪か無罪かの判決の見通しがつくことでしょう。パウロの裁判の結果が見通せれば、パウロはテモテをフィリピ教会に派遣しようと思っていたのです。
それだけではありません。パウロは24節で次のようにフィリピ教会へ彼が訪問することが主イエスの御心であると述べています。「わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています」。パウロは、主イエスによって自分がこの牢から解放されて、フィリピ教会のキリスト者たちを間もなく訪問できると述べています。
二章17節ではパウロは殉教を覚悟しています。しかし、ここではパウロは新しい計画を立てて
テモテをフィリピ教会に派遣するだけでなく、牢獄にいる自分が解放されて、フィリピ教会を訪れることが主イエスの御心であると、パウロは信じているのです。
パウロは二章19節で「主イエスによって希望しています」と述べ、24節で「主によって確信しています」と述べています。パウロが計画していることは、主イエスによってです。主イエスの御心を求めて計画しているのです。それは、パウロがこの計画のために、牢獄で祈り続けた結果であるということです。パウロはローマの信徒への手紙で次のように述べています。十四章8節です。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。常にパウロは主イエスとの交わりの中に生きているのです。彼は生と死をキリストに委ねています。だから彼は信じているのです。主イエスが彼を必要とされれば、必ず主はこの牢獄から彼を解放し、フィリピ教会のキリスト者たちのところへと遣わされると。
パウロは知っています。たとえ今牢獄で死んでも、キリストと永遠の命に生きる喜びがあることを。しかし、彼はなおこの地上に生かされて、フィリピ教会のキリスト者たちを励ましたいのです。だから、この新しい計画を主にあって立てたのです。本日はここまでです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章19-24節の御言葉を学ぶことができて感謝します。
どうかわたしたちもパウロのように主イエスにあって希望を持ち、この教会に仕えることができるようにしてください。
どうか人にではなく、わたしたちがこの教会の礼拝で説教を通して聴き続けたキリストに仕えることができるようにして下さい。
既に天に召されたわたしたちの指導者や信仰の先輩たちの最後を見て、わたしたちの国籍が天にあることを確信させてください。
この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。