フィリピの信徒への手紙説教00            主の202515

キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしがキリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように、そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

               フィリピの信徒への手紙第一章111()

 

 説教題:「パウロの感謝」

 

 あけましておめでとうございます。

今年は、使徒パウロの手紙から『フィリピの信徒への手紙』を学ぼうと思います。パウロの手紙は新約聖書の中に13通あります。『フィリピの信徒への手紙』は、使徒パウロが『テサロニケへの信徒の手紙』一と二に続けて書いた三番目の手紙です。紀元54年頃、使徒パウロが第三回伝道旅行の時、パウロは三年間小アジアのエフェソの町に滞在しました。『フィリピの信徒への手紙』はその頃書かれたと考えられています。

 

さて使徒パウロはフィリピの信徒への手紙第一章1-2節で次のように手紙の冒頭で挨拶を書いています。「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」。

 

手紙はいつの時代も発信人がいて、受取人がいます。そして手紙は挨拶から始まります。『フィリピの信徒への手紙』も同じです。この手紙の発信人は「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテ」です。受取人は「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たち」です。

 

発信人が「パウロとテモテ」であるのは、二つの理由があります。第一の理由はこの手紙が個人の私的な手紙ではないということです。発信人の二人は「キリスト・イエスの僕である」とあります。パウロとテモテは主イエス・キリストによって異邦人にキリストの福音宣教のために遣わされた使徒と労同者です。キリストのために働く者ですから彼らは「キリスト・イエスの僕」と称しているのです。だからこの手紙は公の手紙です。

 

第二の理由はパウロとテモテは共にフィリピ教会の誕生に関わり、フィリピ教会でよく知られていたからです。

 

発信人の一人、パウロについて簡潔に紹介しましょう。新約聖書の『使徒言行録』九章でパウロが使徒となった経緯を物語っています。パウロはファリサイ派の人です。ファリサイ派の律法学者ガマリエルの弟子でした。彼はステファノが迫害されていた時、ステファノの死を見届けました。彼はエルサレムの都でキリスト教会とキリスト者たちを迫害しました。そして彼は外国のダマスコの町のキリスト教会とキリスト者たちを迫害しようとしました。ダマスコに行く途中で彼は復活の主イエスに出会いました。彼は回心し、キリスト者となりました。彼は復活の主イエスより異邦人への使徒として召されました。彼は小アジアからギリシアへとキリストの福音を異邦人に宣教し、次々にキリスト教会を建て上げました。労同者のテモテは、パウロが小アジアのアンティオキア教会で見いだした人です。テモテはパウロの弟子の一人です。

 

続いてこの手紙の受取人です。パウロは「フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たち」と記しています。

 

フィリピ」はギリシアの都市の名前です。『使徒言行録』の十六章に記されていますように、聖霊がパウロにマケドニア人の幻を見せられ、パウロを小アジアからヨーロッパへと導かれました。最初にパウロが福音宣教したのがフィリピの町でした。当時フィリピの町はローマ人たちの植民都市で、定住するユダヤ人は少なく、ユダヤ人の会堂がありませんでした。敬虔なユダヤ人たちは安息日に川のほとりで祈りをしていました。パウロはそこに行き、祈りに集まりましたユダヤ人たちに福音宣教しました。聖霊が紫布の商人リディアの心を開かれました。彼女はパウロを家に招き、彼女と家族の者たちが主イエスに救われ、フィリピの最初のキリスト者となりました。さらに占いをする女奴隷が救われ、彼女の所有者たちがパウロたちを訴えたので、パウロたちは牢に入れられました。その夜に大地震が起こりました。牢番は囚人たちが逃げたと思い、自害しようとしました。それをパウロが止めました。牢番と彼の家族の者たちも主イエスに救われ、キリスト者となりました。パウロたちは牢から解かれ、フィリピの町を去りました。

 

それからこの手紙が書き送られるまで、どのぐらい経っていたでしょうか。フィリピ教会は「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たち」と、パウロが記していますように、成長し信仰共同体を形成していました。フィリピ教会はフィリピの町の人々にキリストの福音を宣教したでしょう。それを聞いてある人々は聖霊に導かれ主イエスを信じ、洗礼を受けてキリスト者になったでしょう。それが「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」です。わたしたちキリスト者は洗礼によってキリストと結び付けられ、聖なる者とされました。パウロはフィリピの町においてキリストの交わりにあずかるすべての聖徒たちにこの手紙を差し出しているのです。わたしはフィリピ教会のキリスト者に宛てたパウロの手紙ですが、同様に主イエス・キリストを信じる者として、パウロがわたしたちに向けて書いた手紙でもあると思うのです。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者すべてと、「ならびに監督たちと奉仕者たち」にこの手紙を書き送っています。『使徒言行録』はパウロたちが福音宣教し、教会を立ち上げ、弟子たちを養成し、教会に長老を任命したことを記しています。宗教改革者カルヴァンは、監督についてこう述べています。「パウロは司牧者に敬意を表して別の名で呼んでいる。さらに、このことから、監督という名は、パウロは一つの教会にいく人かの監督を定めたが故に、すべてのみ言葉の役者に共通であると考えることができる。従って、監督と司牧者とはまったく同じものである」。群れの監督者、彼は礼拝で説教し、信徒たちを牧会したでしょう。「奉仕者たち」は教会の世話役であります。パウロがこの手紙の四章でフィリピ教会からの贈物に対する感謝を述べていますね。エフェソで捕らわれの身となっているパウロに、慰問の金品を集めて届けたのが、この奉仕者たちであったでしょう。カルヴァンは、この奉仕者たちを執事と呼び、「貧困者の世話役をする管理人か会計係か、生活態度の訓練や指導を任された長老かである」と述べています。

 

今日の日本キリスト改革派教会のように牧師と長老と執事という役職は、フィリピ教会にはありませんでした。しかし、礼拝で説教をし、信徒を牧会し、教会の群れを管理する者、そして貧しい者たちの世話をし、牢獄に囚われていたパウロを慰めるために、金品を集めて送る世話をする者たちがいました。

 

2節はこの手紙の挨拶の言葉です。わたしたちはキリスト者として手紙を書きますときに、挨拶は「主の御名を賛美します」と書き始めます。パウロは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と挨拶を述べています。これはパウロが当時の人々の手紙の文面に倣って書いたのでしょう。その時に「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの」という言葉を付け加えました。そして父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和がフィリピ教会のキリスト者たちにあるようにと、パウロは祝福の祈りをしています。

 

3-11節のパウロの御言葉はフィリピ教会を思うパウロの感謝と祈りです。これらは三つに分けることができます。3-6節がパウロの感謝です。7-8節がパウロの感謝から祈りへの橋渡しとなる御言葉です。9-11節がパウロの祈りです。

 

今日は3-6節のパウロの感謝を学びたいと思います。パウロは3節で「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し」と述べています。パウロは当時の手紙の形式に従って挨拶に続いて感謝を述べています。感謝する相手は「わたしの神」であります。フィリピ教会の「すべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たち」を思い起こすごとにパウロは「わたしの神」に感謝するのです。

 

パウロの神への感謝は、5節で次のようにパウロは述べています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」。そしてこのことのゆえにパウロは4節で「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と述べているのです。

 

『使徒言行録』の十六章に使徒パウロが労同者のテモテを伴い、フィリピの町で福音宣教しましたことを記しています。あの最初の日から今パウロがこの手紙を書いています今日までフィリピ教会のキリスト者たちが「福音にあずかっている」ことを、パウロは「わたしの神」に感謝しているのです。「福音にあずかっている」とは、キリストの福音を聞いて受け入れていることです。そして教会の信仰の交わりに入れられることです。それは聖霊のお働きですから、パウロは「わたしの神」に感謝すると述べているのです。

 

上諏訪湖畔教会が1948年に松尾智恵子先生と25名の者たちと共に日本基督教団を離脱し、日本キリスト改革派教会に加入してから今年10月で77年になります。上諏訪湖畔教会も生まれた時から今日まで「福音にあずかっている」のです。玄関のところに岡田稔先生の改革派教会の十箇条という額がありますね。わたしたちの先輩たちは岡田稔先生から聞いた福音によって、日本キリスト改革派教会に加わり、教会に遣わされた牧師を通して毎週主日礼拝で聖書の御言葉とその解き明かしである説教を聞き続け、聖餐の恵みに共にあずかり、信仰の交わりを続けてきたのです。わたしは、パウロがこれを「福音にあずかっている」と言っているのだと思うのです。わたしたちが初めて礼拝で説教を通してキリストの福音を聞いた時から、その福音を信じて、今日までキリスト者として生きてきたことを、パウロは「福音にあずかっている」と言っているのです。

 

だからパウロはフィリピ教会がこの世に存在し、今も存在し続けている事実を、聖霊のお働きと、「わたしの神」に感謝しているのです。それゆえにパウロは、フィリピ教会を去ってから、この手紙を書いている今日まで一日も欠かさずフィリピ教会のために祈ってきたのです。その時パウロの祈りにいつも喜びがありました。彼はフィリピ教会のキリスト者たちが聖霊のお働きによって日々福音に生かされている姿を見ることができたからです。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者たちのことを神に感謝し、喜びをもって彼らのために祈るだけではありません。パウロは聖霊がフィリピ教会のキリスト者たちの信仰をキリストの再臨に向けて完成させてくださると強く確信しています。

 

6節です。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。「あなたがたの中で善い業を始められた方」とは聖霊です。聖霊がわたしたちキリスト者の内に信仰という善き業を始めてくださるのです。あのリディアがパウロの福音を聞きました時、聖霊が彼女の心を開かれ、彼女の内にキリストを信じるという善き業を始めてくださったのです。そして「キリスト・イエスの日まで」に、すなわちキリストが再臨される日までにリディアの信仰の業を完成させてくださるのです。リディアだけでなく、フィリピ教会のすべての聖なる者たちの信仰が完成されると、パウロは確信しているのです。

 

だからパウロは、フィリピ教会のキリスト者たちのために祈る時、彼らが福音にあずかっていることと共に、聖霊が彼らの信仰をキリストの再臨の日までに完成させてくださることを確信しているので、パウロはいつも喜んで彼らのために祈ることができたのです。

 

今わたしたちがこの礼拝にいるということ、これが聖霊のお働きでわたしたちが福音にあずかっていることであり、わたしたちが礼拝で聞いた説教を通してわたしたちが主イエスを救い主と信じることが聖霊のお働きであれば、わたしたちの信仰は聖霊がキリストの再臨の日までに完成させてくださるのです。信仰が人間の業であれば、その人が死ねば,無くなるでしょう。しかし、わたしたちが日曜日に教会の礼拝に出て、聖書の御言葉と説教を聞き、福音にあずかることもわたしたちがその福音を受け入れて、キリストを信じる信仰が聖霊のお働きであるならば、神の永遠の御業であるのですから無くなることはありません。わたしたちの信仰は神の御国において完成されるのです。

 

わたしたちの信仰も教会の業も、この世においては未完成です。しかし、キリストの再臨の日までに完成されることを、パウロのようにわたしたちも確信し、「わたしたちの神」に感謝しようではありませんか。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今年最初の主日礼拝より『フィリピの信徒への手紙』の講解説教を始めることができて感謝します。このパウロの手紙を学ぶことを通して、今年一年わたしたちの教会生活と信仰生活を喜びで満たしてください。

 

わたしたちも自分たちの教会の誕生から今日まで福音にあずかっていることを、わたしたちの神に感謝させてください。また、聖霊がわたしたちの内に始められた信仰の業を、キリストの再臨の日までに完成させてくださることを、わたしたちにも確信させてください。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしがキリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように、そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

               フィリピの信徒への手紙第一章111()

 

 説教題:「パウロの祈り」

 本日はフィリピの信徒への手紙第一章711節の御言葉を学びましょう。78節はこの手紙においてパウロの感謝から祈りへの橋渡しとなる御言葉です。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちがパウロと共に「福音にあずかっている」ことを神に感謝しました。神がパウロたちの福音宣教を通して働いてくださり、フィリピの町で幾人かの人々を救われたのです。そして神はフィリピ教会の福音宣教を通してフィリピの町の人々をさらに救われました。そしてフィリピの町にキリスト者たちの礼拝共同体が形成されました。パウロは、それを神さまに感謝しました。

 

 そしてパウロは7-8節で次のように感謝から祈りへの橋渡しである御言葉を述べています。「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。わたしがキリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

 

パウロは「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です」と言っていますね。これは3-6節のパウロの御言葉を受けてです。特にパウロが福音宣教した日から今日までフィリピ教会のキリスト者たちがパウロと共に「福音にあずかっている」ということです。パウロの「考える」はこの手紙の二章2節では「思い」と訳され、5節では「心がけなさい」の「心」と訳されています。ギリシア語は「フロネイン」という言葉で謙遜を意味します。また、パウロとフィリピ教会のキリスト者たちとの一致を生み出す思いを意味します。パウロにとって福音宣教はパウロ一人の働きでありません。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちの心と一つとなり、結び合って、交わり、共に福音宣教のために働いているのです。

 

だからパウロは7節で次のように述べています。「というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

 

今のパウロの状況は獄中にいるのです。パウロは福音宣教のゆえに捕らえられ、囚人となっているのです。キリストの福音のためにパウロは苦しみの中にいるのです。この手紙にはどこでパウロが牢に監禁されているのか、明らかでありません。獄中で書かれたパウロの手紙であることは確かです。わたしはパウロが第三回伝道旅行で三年間エフェソの町にいた時ではないかと考えています。推測の域を出ませんが。

 

パウロは牢獄にいても、裁判所に出廷を命じられ、キリスト教の弁明をするときも、彼は一人ではありません。なぜならパウロはフィリピ教会のキリスト者たちを彼の心に留めていたからです。パウロはいつも思っていたのです。わたしはフィリピ教会のキリスト者たちと共に福音に生きていると、その福音を人々に伝えていると、そしてこの福音のために苦難を受けていると。それをパウロは次の言葉でよく表しています。「共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と。

 

パウロにとって今福音のために牢獄につながれていることはマイナスではありませんでした。フィリピ教会のキリスト者たちと共にキリストの恵みにあずかっているからです。フィリピ教会のキリスト者たちが獄中のパウロのために祈り、彼に贈物をすることでパウロと共にキリストの福音を人々に伝え、キリストの福音のために苦しんでくれていたからです。

 

パウロは8節で神の御前でフィリピ教会のキリスト者への愛を、次のように証ししています。「わたしがキリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。

 

パウロはユダヤ人です。旧約時代の神の民イスラエルのように神を証人に立てて、パウロはフィリピ教会のキリスト者たちをキリスト・イエスの愛の心でどんなに深く思っているかを訴えています。「キリスト・イエスの愛の心」とは主イエス・キリストが罪人たちを憐れみ愛される愛の心です。パウロはキリストの愛の心に裏打ちされた心で、パウロの熱烈な愛情でフィリピ教会のキリスト者たちを心に留めていたのです。

 

その熱い思いをもってパウロは、4節で「あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と述べていますが、パウロは9-11節で次のように彼の祈りの具体的な内容を述べています。「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように、そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 

パウロはいつも喜びをもってフィリピ教会のキリスト者たちのために三つのことを祈っています。第一は9節です。フィリピ教会のキリスト者たちの愛がますます豊かになることです。第二は10節です。本当に重要なことを見分けて、キリストの再臨に備え、全き救いにあずかることです。第三は11節です。イエス・キリストの義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れを賛美することです。

 

パウロの祈りの中心はフィリピ教会のキリスト者たちの救いの完成です。そのためにパウロはフィリピ教会のキリスト者たちの愛がますます豊かになるようにと祈ります。そしてパウロはそのために彼らが「知る力と見抜く力とを身に着け」るように祈ります。彼らが認識と洞察を身に着けるように、パウロは祈ります。パウロは彼らの愛がますます増すためには、彼らが神さまを知ること、よく人とこの世を洞察することが欠かせないと思っているのです。キリストを知ることとキリストを愛することは比例します。そして神を知り、人とこの世を洞察することで、フィリピ教会のキリスト者たちは謙遜を学ぶのです。私たちの罪のために十字架の上で死なれたキリストを通して、わたしたちが神の愛を知ることで、私たちもこの世の人々を愛せるのではありませんか。

 

第二にパウロはフィリピ教会のキリスト者たちが「本当に重要なことを見分けられるように」と祈ります。この世においては重要なことがたくさんあります。そしてこの世の価値は常に変化します。今は重要でも、明日はそうでないかもしれません。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちが神を知り、人とこの世界を洞察し、キリストに対する愛をますます増して、自分たちにとって何が本当に重要な事かを見極める知恵を得るようにと祈るのです。

 

その後でパウロはフィリピ教会のキリスト者たちが「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者とな」ることが最も重要なこととして祈っているのです。彼らの救いの完成を、パウロは最も重要なこととして祈るのです。

 

第三にパウロは11節でフィリピ教会のキリスト者たちが「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と祈っています。

 

イエス・キリストによって与えられる義の実」とはイエス・キリストの救いによって与えられる実りです。ガラテヤの信徒への手紙五章22節と23節でパウロは「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と述べています。神がキリストによって救われた者に聖霊を通して信仰をお与えくださり、キリストに結ばれた者にこのような実りをお与えくださるのです。フィリピ教会のキリスト者たちがこうした聖霊を通しての実りを豊かに受けることができるようにと、パウロは祈るのです。それはフィリピ教会のキリスト者たちが「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」です。パウロは彼と共に恵みにあずかる者たちが、キリストの救いを通して聖霊の実に豊かにあずかり、神の栄光と誉れを賛美する礼拝共同体を形成するようにと祈っているのです。

 

パウロはこの手紙で神への感謝に続いて、フィリピ教会のキリスト者たちのために祈り、最後に神賛美をもって祈りを終えています。

 

このパウロの御言葉を通して私たちは一つのことを学ぶのです。それは、わたしたちが上諏訪湖畔教会で毎日曜日に礼拝していることの幸いです。わたしたちも神が福音宣教を通してこの教会に集めてくださったのです。毎週の礼拝で聖書の御言葉が読まれ、説教が語られ、聞くわたしたちがいるなら、上諏訪湖畔教会のわたしたちはパウロやフィリピ教会のキリスト者たちと同様に「福音にあずかっています」。パウロは共に恵みにあずかる者として、わたしたちにも心を留めて、次のように祈ってくれているのではないでしょうか。わたしたちが互いに愛に富む者となるように、キリストの再臨の時にわたしたちの救いが神によって完成されるように、その日までわたしたちが聖霊の賜物にあふれて、礼拝から礼拝へと励むことができるようにと。

 

ウェストミンスター小教理問答問1と答に「人生の主な目的は何ですか」「人生の主な目的は神の栄光を現し。永遠に神を喜ぶことです。」とあります。これが聖書の御言葉によって、わたしたち改革派教会のキリスト者が聖書から与えられた知恵であり、真理であり、最も大切なことです。毎週日曜日にわたしたちが共に集まって、神を礼拝し、神の栄光と誉れを賛美することこそわたしたちの最高の喜びです。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第一章7-11節の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちも共に福音にあずかっていることを、主に感謝します。パウロの祈りはフィリピ教会のキリスト者への祈りですが、この手紙を通して、パウロの祈りの御言葉を聞いているわたしたちへの祈りでもあります。どうかわたしたちもパウロの祈りを通して互いに愛にあふれ、何がわたしたちに一番大切か見分けることのできる知恵を与えてください。キリストの再臨の日にわたしたちの救いを完成してください。

 

聖霊の賜物の実りを豊かにいただき、毎週の礼拝を神賛美で溢れさせてください。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

フィリピの信徒への手紙説教02            主の2025119

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立つたと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

               フィリピの信徒への手紙第一章1220

 

 説教題:「パウロの喜び」

本日はフィリピの信徒への手紙第一章1220節の御言葉を学びましょう。今この手紙をフィリピ教会のキリスト者たちに書いていますパウロは、獄中に捕らえられています。この手紙でパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに今彼の状況について述べています。12節から13節です。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立つたと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「兄弟たち」と親しく呼びかけ、今パウロの身に起こっていることを伝えようとしています。わたしたちはパウロのその呼びかけで、彼とフィリピ教会のキリスト者たちがどんなに親密な関係であるか知ることができます。だからパウロは彼の身を心配しているフィリピ教会のキリスト者たちに今彼の身に起こっていることを知らせたかったのです。

 

パウロは、親しい呼びかけに続いて「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立つたと知ってほしい」と、手紙に書いています。パウロは彼の身を案じているフィリピ教会のキリスト者たちを励ますように手紙を書いています。使徒パウロがローマ帝国の官憲に捕らえられて、牢獄にいることは、フィリピ教会のキリスト者たちにとって大事件だったでしょう。使徒パウロは彼らにとって無くてはならない人でした。捕らえられたパウロの身に何かあれば、フィリピ教会のキリスト者たちにとって大きな打撃となり、失望も与えることでしょう。

 

ところがパウロの手紙はフィリピ教会のキリスト者たちに驚きを与えました。なぜならパウロが牢獄に捕らえられることで「かえって福音の前進に役立った」と書いているからです。パウロはそのことを13-14節で次のように述べています。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

 

パウロは福音宣教のためにローマ帝国の官憲に捕らえられました。パウロが今牢獄で囚人としてとらえられていることが、教会の外でも内でも大きな反響を呼びました。そしてそれがますますキリストの福音を広めることに貢献したのです。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちにそのことを伝えることで、彼らを励まそうとしているのです。

 

パウロが「兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り」と書いていますね。「兵営全体」とはローマ皇帝のお膝元のローマに置かれていた「親衛隊の兵営」を意味する言葉です。しかし地方にあるローマ総督の官邸や総督府の行政と裁判所のある役所の建物をも意味しています。パウロは使徒言行録の十九章において第三回伝道旅行で3年間エフェソの町で伝道しました。使徒言行録にはパウロがそこでローマの官憲に捕らえられたという記述はありません。しかしコリントの信徒への手紙二の一章でパウロはアジア州で被った苦難について書いています。パウロは耐えられない苦難を経験しました。彼は生きる望みすら失ったと述べています。また他の手紙でもパウロはエフェソで獣と戦ったと述べています。この獣とはローマ帝国の官憲のことでないでしょうか。パウロがどこの牢獄からこの手紙を書いたのか、ローマか、カイサリアか、エフェソか、いろいろと言われてきました。現在ではエフェソが有力です。わたしもエフェソだろうと思っています。

 

パウロはエフェソでローマ総督府の牢獄につながれたでしょう。そこで彼は裁判においてキリストを弁明したでしょう。そのことでパウロがキリストの福音宣教のために投獄されたことが誰の目にも知られる事実となりました。ローマ総督府の者たちだけでなく、エフェソの町の他のすべての人々にも知られました。その結果、パウロの投獄は福音宣教の打撃になるどころか、むしろ福音宣教を前進させたのです。キリストの福音がエフェソの町に浸透するようになりました。

 

それだけではありません。アジア州の、すなわち小アジアにあります諸教会のキリスト者たちがパウロの投獄によって奮起し、勇気をもって福音宣教するようになりました。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」。「主に結ばれた兄弟たち」とはキリスト者のことです。キリスト者は主イエスを「わが主」と告白し、洗礼を受けて、キリスト教会に入会した者です。最初は勇気がなく、自分がキリスト者であることを証しできませんでした。しかしパウロの投獄と彼の主イエスへの信仰を見て、彼らは勇気を与えられ、主イエスへの信仰を更に強められ、大胆に人々にキリストを証ししたのです。

 

パウロはキリスト者たちが「御言葉を語るようになったのです」と書いていますね。福音宣教、すなわち、わたしたちキリスト者がキリストを証しすることは私事でありません。時が善くても悪くてもわたしたちはこの世の人々にキリストを公に証ししなければなりません。言葉だけでなく、毎週日曜日の主日礼拝を通してキリストを証しするのです。アジア州の諸教会のキリスト者たちは毎週の主日礼拝を通して町の人々に公にキリストの福音を伝えて行ったのです。彼らは礼拝の説教で聞いたキリストの福音を人々に伝えたのです。だから、パウロは「御言葉を語るようになった」と述べているのです。

 

しかし良いことだけではありません。この世は罪の世です。この世だけでなく、教会も罪人の集まりです。教会の福音宣教も人の罪の影響を免れません。しかし同時に福音宣教は聖霊のお働きでもあります。パウロは15-19節で次のように書いています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

 

パウロは福音宣教するキリスト者たちの動機について語っています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」。これはパウロと共に福音宣教している者たちのことです。同じ信仰を持つ者たちが異なった動機から福音宣教しているのです。すなわち、ある者たちは明らかに使徒パウロを妬み、対抗心を抱いて福音宣教していました。他方本当に善意から福音宣教している者たちがいました。パウロは前者の者たちを「わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのです」と述べています。彼らは使徒パウロがキリストの僕として今キリストの福音のゆえに投獄され、福音の真理を弁明するために神に立てられていることを知っているので、キリストへの愛と真実をもってキリストの福音を人々に伝えていたのです。ところが後者の者たちは「自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」。彼らは異端者ではありません。偽りの福音を伝えていたのではありません。まことにキリストの福音を伝えていたのです。しかし、彼らの動機は不純でした。おそらくパウロ以上に自分たちの名を挙げようという野心がありました。彼らはパウロを嫉妬し、反感を持っていました。だから彼らは牢獄のパウロを苦しめようとしたのです。

 

まことに教会の福音宣教が個人の利害関係でなされました。キリストよりも自分たちの名を挙げようという野心を持つ者たちがいました。しかし福音宣教は人の業ではなく、聖霊の御業です。パウロは福音の前進という立場に立って、次のように喜んでいるのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」パウロは、福音宣教を自分の力でしているとは少しも思っていません。パウロは相手の動機が不純であろうと、福音宣教は聖霊の御業であり、聖霊は人の悪を善に変えられると信じています。だから、パウロに嫉妬し、反感する者たちが不純な動機で福音宣教していても、パウロは「それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」と言うのです。パウロの思いは自分のことよりキリストでした。キリストの福音が人々に伝えられ、伝道地に浸透することでした。そして彼は聖霊が牢獄に囚われているパウロを苦しめようとする者たちの悪意を用いて福音を人々に伝えさせてくださることを喜んだのです。本当にキリストが人々に伝えられるならば、人も方法も問題ではありません。大切なことはキリストが人々に告げ知らされることです。十字架と復活のキリストの福音が人々に告げ知らされることです。

 

異端や偽りの福音でないなら、キリストの十字架と復活の福音が人々に告げ知らされているなら、パウロは喜ぶというのです。「これからも喜びます」と、パウロは言っていますね。パウロは今自分が牢獄にいることを知っています。しかしキリストの福音が人々に告げ知らされているという喜びが今の彼の運命を勝利に導いています。なぜならパウロは捕らわれの身ですが、彼が伝えているキリストの福音は人に捕らえられ、牢獄につながれていません。人から人へと、町から町へとキリストの福音は告げ知らされて、前進し浸透しているのです。

 

パウロは19節で彼が大いに喜ぶ理由を述べています。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」。パウロの救いは牢獄から解放されることではありません。フィリピ教会のキリスト者たちはパウロが牢獄から解放されることを祈ったでしょう。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちの熱心な祈りを主イエスが聞き届けてくださると信じたでしょう。何よりもパウロは、キリストの霊である聖霊がフィリピ教会のキリスト者たちの祈りを聞き届けてくださり、牢獄のパウロを永遠の命の御救いにあずからせてくださると確信していたでしょう。

 

このパウロの御言葉は本当に私たちにとっても慰めです。教会の祈りとイエス・キリストの霊である聖霊の助けによって、わたしたちはこの世における困難さから解放されるだけではなく、永遠の命という御救いにあずかるのです。この喜びを、パウロはわたしたちキリスト者に体験しているでしょうと述べているのです。

 

だからパウロは今わたしたちにも勧めるのです。まずは祈りましょう。教会で共に二人、三人で祈りましょう。そこに主イエスはいてくださいます。教会の祈りを聞き届けてくださいます。主イエスが聖霊によってあなたがたを助けてくださいます。それがキリスト者としてのわたしたちの体験なのですからと。

 

そしてパウロは20節でキリストにすべての栄誉を帰するのです。「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

 

どんなことにも恥をかかず」とは、パウロがキリストの僕として、彼によってキリストが誉れを受けたまうようにすることです。わたしたちキリスト者が恥をかくとは、わたしたちが自分を通してキリストに栄光を帰さないことです。わたしたちが神の御名を汚すことです。牢獄に入れられることはパウロにとって恥ではありません。パウロは何でも牢獄に入れられることを体験しました。そしてパウロが「切に願い、希望しています」のは、「これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられる」ことです。

 

パウロはキリストの用いられる土の器です。だからキリストの誉れのために用いてくださいと、彼は祈り続けたでしょう。彼にとって生も死も問題ではありません。問題なのは彼を通してキリストが誰の目にも崇められることです。そのために福音宣教が前進することです。その前進を上諏訪湖畔教会は今日の主日礼拝を通して進めているのです。わたしたちがここでキリストを礼拝していることは誰の目にも明らかです。パウロはわたしたちの礼拝を喜ぶことでしょう。日本キリスト改革派教会が発行しています『リジョイス』の一月号の16日木曜日の聖書日課は上諏訪湖畔教会のために祈りました。全国の改革派教会の『リジョイス』の読者たちが上諏訪湖畔教会と代理牧師の村手敦教師のために祈ってくれました。そしてキリストの霊である聖霊がお助けくださり、今日もこうしてわたしたちは主日礼拝を守り、聖書の御言葉を聞く恵みにあずかることができました。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第一章12-20節の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちは小さな群れでありますが、今日も主日礼拝を通してキリストの福音に共にあずかっていることを、主に感謝します。

 

『リジョイス』を通して全国の改革派教会の兄弟姉妹たちがわたしたちの教会のために祈ってくださいました。本当に感謝です。またキリストの霊である聖霊のお助けによって、今日も主日礼拝を守ることができて感謝します。

 

どうかわたしたちも改革派教会の諸教会と伝道所の兄弟姉妹のために祈らせてください。今の苦難の時代に聖霊の助けをいただき、わたしたちもキリストの福音を世の人々に、わたしたちの家族に伝えることができるようにお導き下さい。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

フィリピの信徒への手紙説教03            主の202522

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。

こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。

               フィリピの信徒への手紙第一章2126

 

 説教題:「パウロの熱望」

本日はフィリピの信徒への手紙第一章2126節の御言葉を学びましょう。使徒パウロは今牢獄に捕らえられています。だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに20節で「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」と述べているのです。

 

わたしは思います。パウロはある意味で死を覚悟していたと。だが、パウロにはそれ以上に大切なものがありました。それは、生きるにしても死ぬにしてもパウロがキリストの福音宣教を通してキリストの素晴らしさを公にすることでした。それがパウロの切なる願いだったからです。

 

そこでパウロは、フィリピ教会のキリスト者たちに21-24節で具体的に彼の生と死の意味とその葛藤を説明しています。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。

 

パウロは「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と言っていますね。実はギリシア語新約聖書にはこの文章に動詞がありません。「なぜならば、わたしにとって生きること、キリスト、そして死ぬこと、益」。わたしたちの聖書(新共同訳聖書)は「生きること」が主語で、「キリスト」が述語になっています。宗教改革者ルターはそれを反転させて「わたしにとってキリストこそ生きることである」と訳しています。

 

パウロをはじめキリスト者たちは、キリストに贖われた者たち、すなわち、キリストの所有です。だから「わたしにとって、生きるとはキリストであり」とは「わたしたちキリスト者にとって、生きることはキリストであり」と言ってもよいと、わたしは思います。パウロもわたしたちキリスト者もこの地上の命がキリストに捉えられています。キリストのためにあります。この地上のわたしたちの体はもはやわたしたちのものでありません。キリストのものです。だからパウロにしてもキリスト者であるわたしたちにしても、キリスト抜きの生というのはあり得ないのです。

 

だからパウロもわたしたちもキリストの内に生きており、キリストがパウロとわたしたちキリスト者たちの内に生きておられるのです。この手紙の三章9節でパウロは、「キリストの内にいる者と認められるためです」と述べています。「キリストの内にいる者」とは「キリストの中に見出される者」という意味です。パウロは常にどこに居ようと、キリストの命の中に自分を見出すことができました。キリストはパウロにとってインマヌエル、神はわれらと共にいますお方でした。それはわたしたちキリスト者も同じでないでしょうか。

 

だからパウロは続けて、「死ぬことは利益なのです」と言うことができました。「死ぬこと」とは死ぬという行為を意味します。パウロにとって「死ぬこと」は、23節でパウロがフィリピ教会のキリスト者たちに「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と言っていますように、永遠にキリストと共に生きる命です。死はパウロにとって、救いの完成です。顔と顔を合わせてパウロはキリストと交わるのです。だから、パウロにとって死は儲けもの、利益なのです。

 

宗教改革者カルヴァンは次のようにパウロの御言葉をコメントしています。「イエス・キリストなしでは、生きるのと死ぬのとどちらが益であるかを決めることは難しい。反対に、キリストがわれわれとともにあるならば、彼はわれわれの生をも死をも祝福し、従って、どちらもわれわれにとって幸せであり望ましいであろう」。

 

わたしはパウロの御言葉とカルヴァンのコメントから慰めを得ました。わたしたちキリスト者の生と死は神に祝福されたものであると教えられたからです。

 

しかし、パウロは使徒の働きとフィリピ教会のキリスト者たちへの牧会という面からこの地上にある彼の生を思っているのです。それがパウロの22-24節の御言葉です。「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です

 

パウロが熱望することは、今すぐにも死んで、「キリストと共にいたい」という彼の熱望を実現することです。これがパウロの一番の願いでもあります。しかしパウロはキリストに異邦人への使徒として召されました。パウロが「肉において生き続ければ、実り多い働きができ」ます。パウロは使徒として実に実りの多い働きができるのです。パウロは19節で「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」と言いましたね。パウロはこの地上に生きる限り、キリストが遣わされた聖霊の助けとフィリピ教会のキリスト者たちの祈りによって使徒としての実り多い働きができると確信しています。

 

だからパウロは今、生きることと死ぬことのどちらも選ぶことができない、まさに生と死の板挟みの状態であるのです。しかし、パウロは使徒です。使徒としてこの世に生き、彼の職務を果たすことを、彼は選ぶのです。だから彼はフィリピ教会のキリスト者たちに言うのです。「わたしがこの世に生き続けるならば、わたしは聖霊の助けとあなたがたの祈りに支えられて、福音宣教を通して働きの実を多く得ることができるでしょうし、何よりもわたしがこの世に生きていればあなたがたに会い、あなたがたを慰め励ます牧会の働きをすることができます。わたしはその方が今はもっと必要だろうと思っているのです」と。

 

パウロが牢に捕らえられていても、福音宣教は前進しました。さらにパウロがフィリピ教会のキリスト者たちのところに留まれば、彼らの信仰も前進するのです。パウロは、このように確信していますので、25-26節で次のように述べているのです。「こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」。

 

パウロは、この手紙の二章17節で「更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」と言っていますように、パウロは殉教を覚悟していたようです。たとえ彼が殉教しようと、キリストはパウロの使徒の働きの実を豊かに実らせてくださるので、彼は喜ぶと述べています。

 

だからパウロは死を自覚しつつも、それ以上に主に生かされて、フィリピ教会のキリスト者たちを訪れたいと思っていたのです。その理由は、パウロがフィリピ教会のキリスト者たちと共に居たいと思っているからです。それは、パウロが彼らの信仰を深めて、主イエスにある喜びを増したいからです。

 

そのように考えますと、パウロの26節の「そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります」という御言葉は、つぎのような意味になるのではないでしょうか。「わたしがフィリピ教会を訪問することによって、あなたがたのイエス・キリストに対する信仰への誇りがわたしによって増し加わることになるでしょう。」

 

フィリピ教会のキリスト者たちの誇りは彼ら自身に対する誇りではありません。彼らのイエス・キリストにある誇りです。パウロはフィリピ教会を訪れ、キリストの福音を彼らに語るでしょう。彼らはパウロからキリストの福音を聞いて、ますますこのキリスト以外に救いのないことを誇るようになるでしょう。そのようにパウロは彼らの信仰が成長することを願っているのです。

 

キリストは今この教会にもパウロのように福音宣教する者をお遣わしくださいます。わたしたちはパウロとフィリピ教会のキリスト者たちのように、その者と共にいて、その者からキリストの福音を聞くのです。それによってわたしたちはイエス・キリストに対する信仰を深めることができるのです。パウロが言うように、わたしたちにとっても生きることはキリスト、死ぬことは益です。パウロが熱望したように、わたしたちもキリストと共に永遠の交わりにあずかることを望んでいます。しかし、今この世にわたしたちが生かされているのは、わたしたちを通して家族が救われ、友達が救われ、この町の人々が救われるためです。キリストはわたしたちを通して御自身の民を召されていると信じて、わたしたちは今年一年を歩もうではありませんか。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第一章21-26節の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちにとって生きることはキリストであり、死ぬことは益です。しかし、わたしたちの家族の救いのために、この町にいますわたしの友人たちや人々の救いのために、わたしをキリストが用いてくださるならば、この身をこの地上に生き永らえさせてください。

 

キリストの霊である聖霊のお助けによって、今日もこの教会で共に集まり、主日礼拝を守ることができて感謝します。

 

どうかわたしたちの教会が持続できるようにしてください。毎週の主日礼拝で説教者を通して御言葉を聞ける恵みを感謝します。わたしたちの信仰を深め、キリストと共に生きる喜びに満たしてください。

 

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

フィリピの信徒への手紙説教04            主の202529

ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。 

              フィリピの信徒への手紙第一章2730

 

 説教題:「パウロの戦い」

本日はフィリピの信徒への手紙第一章2730節の御言葉を学びましょう。使徒パウロは、フィリピ教会のキリスト者たちにこの手紙の一章12節から26節までで牢に捕らえられている彼の近況について伝えています。彼がキリストの福音のために牢に捕らえられたことがアジア州での福音宣教を前進させたのです。牢獄のパウロのことが教会以外の人々に知られるようになり、同時にパウロが福音宣教のために捕らえられたことがアジア州の諸教会のキリスト者たちを勇気づけ、アジア州でのキリストの福音宣教が増々前進したのです。使徒パウロが熱望していることは彼の福音宣教によって増々キリストが人々に崇められることでした。そして捕らわれの身であるパウロは命の危険の中にありますが、フィリピ教会のキリスト者たちを訪れたいと願っていました。

 

さて、使徒パウロはこの手紙の一章27節から自分の近況からフィリピ教会のキリスト者たちへと関心を移しています。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに27節で勧告しています。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と。パウロの勧告は命令というよりも励ましだとわたしは思います。パウロだけがキリストの福音のために労苦しているのではありません。フィリピ教会のキリスト者たちも異邦人たちへの福音宣教に労苦していたのです。だから、彼はフィリピ教会のキリスト者たちを励まして、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と勧告したのです。これはパウロのフィリピ教会への牧会的配慮です。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「一途にキリストの福音に生かされて神の御国の市民として生活しなさい」と慰めているのです。フィリピの町はローマ帝国の植民地でありました。フィリピ教会のキリスト者たちはパウロ同様にローマ市民権を持つ者もいたでしょう。フィリピの町はローマ市民の共同体であり、ローマ市民権を持つと共に市民としての義務を果たしていました。徴兵と納税です。パウロの「生活を送りなさい」という言葉は、そのような背景のある言葉です。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者たちを神の御国の市民にたとえているのです。パウロのキリストの福音宣教を通して主イエス・キリストを主と信じ、洗礼によってキリスト者となった彼らは、この手紙の三章20節で「わたしたちの本国は天にあります」と記されています。キリスト者の国籍は天にあり、キリスト者はこの世において天に市民権を持つ者として生きるのです。

 

だからパウロの勧告は、単なる命令ではありません。むしろ、パウロは神の恵みに対する励ましを語っているのです。フィリピ教会のキリスト者たちはキリストの福音を通して神の恵みの選びにより御国の市民とされました。パウロはその喜びの現実を踏まえて彼らに「一途にあなたがたが聞いて救われたキリストの福音に生かされて、御国の市民としての生活をしてください」と慰め、励ましました。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちが教会の礼拝でキリストの福音を聞き、それに生かされて、フィリピの町で神の御国の市民としてキリストを証しする生活をすることを願っているのです。

 

だからパウロは、フィリピ教会のキリスト者たちに27節後半から28節で次のように述べているのです。「そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。今パウロはこの手紙でフィリピ教会のキリスト者たちの信仰の戦いについて良い知らせを聞きたいと願っています。パウロがフィリピ教会を訪問しても、今この牢で捕らわれの身であっても、彼はフィリピ教会のキリスト者たちが聖霊によって一致団結し、信仰の戦いに勝利することを聞きたいと願っていました。

 

だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに第二の勧告をしています。「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと」と。パウロは「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち」と言っていますね。この聖霊による一致こそキリスト教会の要です。わたしたちは毎週の礼拝で信仰告白しますね。「使徒信条」です。わたしたちはその中で「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会」と信仰告白しますね。主イエスは教会をぶどうの木とその枝に喩えられました。パウロは教会を人の体に喩えました。キリストとわたしたちキリスト者たちを一つに結び付けているのが聖霊です。聖霊は御言葉と共に働かれ、わたしたちにキリストを信じる信仰をお与えくださるのです。聖霊が御言葉、キリストの福音を通してわたしたちをキリストと一つにしっかりと結び付けてくださり、わたしたちが互いに心を合わせて福音の信仰のために、すなわち、キリストのために共に戦うことができるようにして下さるのです。

 

だから、パウロが「心合わせて福音の信仰のために共に戦っており」と言うのは、具体的には「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだ」ということです。パウロが勧めていますこの信仰の戦いは、教会の戦いです。わたしたちが毎週日曜日にこの教会に来て主日礼拝をしますことは、わたしたちが「心合わせて福音の信仰のために共に戦っており」ということなのです。まさにパウロの時代、フィリピの町でキリスト者たちが日曜日の礼拝に行くことがこの世においての教会の戦いだったのです。なぜなら、家族に礼拝に行くことを反対されることがありました。パウロは家族や人に何と言われても、動揺することなく、キリスト者たちが日曜日に教会へ行き、主なる神さまを礼拝していることを聞きたいと思っていたのです。それがしるしとなるからです。パウロは、こう言っています。「このことは、反対者たちに彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。

 

フィリピ教会のキリスト者たちがこの世の人々の反対にあっても毎週日曜日に教会へ行き、礼拝することは彼らの救いのしるしでした。なぜなら、彼らはキリストの十字架による罪の赦しと永遠の命を得て、御国の市民として生きているからです。キリスト者たちに反対する者たちは自らの罪によって滅びる道へと歩んでいるのです。キリスト者たちが礼拝を通して御国へと歩むことも、この世の人々が自らの罪によって滅びへと歩むことも、パウロに言わせると「これは神によることです」。神の選びという恵みゆえにキリスト教会はこの世において戦いがあるのです。

 

そのことをパウロは2930節で次のように説明しています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」キリストの福音を通して神に選ばれたキリスト者たちは二つの恵みを得ていると、パウロは語っています。それは、「キリストを信じる」という恵みと「キリストのために苦しむ」という恵みです。神に選ばれたキリスト者たちはこの二つの恵みを通して救いへと導かれるのです。

 

宗教改革者カルヴァンであれば、これがこの世における教会の姿だと言うでしょう。わたしは、パウロの「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」という御言葉には、救いについての予型があると思います。それは旧約聖書のイスラエルの民の救いです。イスラエルの民は主なる神の選びの民です。彼らは主なる神を信じるという恵みと主なる神に従って苦しむという恵みを与えられました。出エジプトと荒れ野の生活はその典型です。神の民イスラエルは主なる神を信じ、荒れ野の40年の苦難を通して約束の地カナンに入りました。

 

パウロは直接に旧約聖書に言及していません。しかし、使徒言行録で復活の主イエスによってパウロは異邦人の使徒として選ばれ、多くの苦難を与えられました。彼は弟子たちを力づけて「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(十四:22)と勧めています。神の民イスラエルが多くの苦難を経て約束の地カナンに導かれたように、この地上のキリスト教会も主なる神を信じ、多くの苦難を経て御国へと導かれるのです。

 

そのためにパウロは福音宣教に苦闘しており、今おそらくエフェソ市で牢に捕らえられているのです。フィリピ教会のキリスト者たちは使徒パウロの信仰の戦いについて聞いておりました。パウロはフィリピ教会の福音宣教の戦いも彼の戦いと同じであると、励ましているのです。

 

今、わたしたちの教会は初代教会のように迫害はありません。日本国憲法によって信教の自由が保障され、家族に教会に行くことを反対されることもないでしょう。国家も社会も教会を脅かすことはありません。しかし、それにも関わらず教会がこの世の人々に福音宣教することは難しいです。教会は外圧を受けないかわりに、こちらからキリストの福音を伝えることも難しい状況になっているからです。教会だけではなく、社会が人間関係を難しくしています。こちらがよいと思っても、相手が嫌がれば、こちらの善意であっても相手を傷つけることになります。ハラスメントは実際に人と接することを困難にしています。

 

しかし、パウロはわたしたちに「あなたがたはわたしのことを見聞きしました。それと同じ戦いをしているのです」と語り、わたしたちを励ましてくれています。つい先だって水垣清先生の『岐阜キリスト教史―日本伝道覚書』という本を読みました。中津川教会の牧師であられた故水垣清先生が『つのぶえ』という機関紙に連載されていたものをご遺族がまとめられて、金城学院大学キリスト教文化研究所が監修して教文館から出版された本です。

 

『つのぶえ』で読まれた方もあると思います。岐阜県下のキリスト教史です。キリシタンの時代からプロテスタントの時代まで、特に日本キリスト改革派教会が岐阜県下で伝道しています現代までを丁寧に書き留められています。それを読みますと、本当にパウロのようにアメリカから来た宣教師たちが岐阜県下の町や村々まで徒歩で伝道したことを記しています。パウロと同じようにアメリカの宣教師たちが仏教や神道からの迫害を受けました。宣教師から聞いたキリストを信じて、洗礼を受け、キリスト者になることは、その当時の人々には命がけでした。しかし、聖書に書かれている通りに、父なる神はキリストを通して、福音宣教によって村の中から選びの民を起こされ、教会堂が建てられ、礼拝がなされ、キリスト者たちは主イエスを信じ、苦難に耐え、キリストを人々に、家族に証ししました。濃尾大震災や戦前の神社参拝拒否による迫害、戦時下の困難にも耐えて、教会は戦後を迎えました。戦前の日本の教会は宮城遥拝や戦争に協力するという罪を犯しつつも、キリスト者たちは細々ながら教会の礼拝を守りました。それがその当時の教会の信仰の戦いでした。

 

わたしは聖書の御言葉には力があると思います。それはパウロが証言する通りだし、岐阜県下でキリストの福音を宣教したアメリカの宣教師たちや日本の伝道者たちが証ししたとおりです。そして今ここで礼拝しているわたしたちが証しするとおりでないでしょうか。パウロはわたしたちキリスト者に時が善くても悪くても伝道しなさいと勧めました。キリストを証しすることです。それはわたしたちの礼拝を通してなされるのです。わたしたちは礼拝を通してキリストの福音を聞き、聖霊がわたしたちの心を一つとし、共にキリストを信じ、キリストのために苦しむのです。そして共にわたしたちキリスト者の本国は御国ですから、御国へと共に歩むのです。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第一章2730節の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちキリスト者は神に選ばれた民です。キリストを信じる恵みとキリストのために苦しむ恵みをいただき、わたしたちの本国である御国へと導かれていることを感謝します。

 

今日もこの教会で共に集まり、主日礼拝を守り、キリストの福音を聞き、聖霊により心ひとつとしていただき感謝します。

 

どうかわたしたちがこれからも教会の礼拝を継続し、聖霊によってわたしたちの信仰の戦いをお支え下さい。

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

フィリピの信徒への手紙説教05            主の2025216

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことも注意を払いなさい。

互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 

                    フィリピの信徒への手紙第二章111(1)

 

 説教題:「パウロの思い」

本日からフィリピの信徒への手紙第二章の御言葉を学びましょう。第二章111節の御言葉をお読みしましたが、今日は14節の御言葉を学びます。

 

パウロは2章1節で「そこで」と述べていますね。パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに一章27節以下でキリストの福音にふさわしく生活するように勧めました。そのためにパウロは彼らが一つの霊において一致団結してパウロと共にキリストのために信仰の戦いをしてほしいと願いました。さらにパウロは二章1節の冒頭で「そこで」と述べて、願いからより強い願いへと彼らの教会の一致を促し、励ましているのです。

 

パウロのその思いは、2節の彼の御言葉によく表れています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」。わたしは、おそらくパウロとしてはフィリピ教会のキリスト者たちに「わたしの喜びを満たしてください」ということを何よりも伝えたかったと思います。それは、フィリピ教会のキリスト者たちの教会の一致です。それがパウロの祈りであり、願いであり、喜びだったからです。

 

牢獄の中でパウロはフィリピ教会のキリスト者たちのために彼らの教会の一致を祈り、彼らが常に一つの霊によって互いに愛し合い、思いを一つにし、キリストのために信仰の戦いをし、彼らが御国の市民としての証しをしてほしいと願い続けていたでしょう。

 

だからパウロはフィリピ教会のキリスト者たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」ほしいと励ましているのです。教会のこの一致こそがパウロの喜びなのです。パウロは常にどこに居ても教会の一致を考え、思い、祈り続けていたでしょう。どうしたらフィリピ教会のキリスト者たちが「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」教会の一致を実現できるだろうかと。そのために何が必要だろうかと、パウロは考え続けたと、わたしは思うのです。

 

パウロが確信していたことは、これは人間には不可能であるということです。だからパウロは、2節のパウロの御言葉を勧める前に、1節で次のように述べたのです。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者たちが教会の一致を得るために、まず彼らに「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」を求めています。これは、コリントの信徒への手紙二 十三章13節のパウロの祝福の宣言の祈りに対応しています。そこでパウロは次のように述べています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」と。パウロは教会の一致の根拠を、御子キリスト、父なる神、聖霊の三位一体の神に置いているのです。フィリピ教会のキリスト者たちの礼拝の場こそが教会の一致の土台です。

 

パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「励まし」と「慰め」と「交わり」をもたらす主体がキリスト、父なる神、聖霊であると確信しています。教会の礼拝を通してフィリピ教会のキリスト者たちは「キリストによる励まし」を得ました。彼らは毎週の礼拝での説教を通してキリストからの励ましを得ました。彼らはキリストの言葉によって強められ、キリストの思いを一つにして、教会の奉仕に励みました。こうしてフィリピ教会のキリスト者たちはキリストの思いを、共に持つことで一致団結したでしょう。

 

愛の慰め」は父なる神の愛による慰めです。パウロはコリントの信徒への手紙二の一章3節で「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」と述べています。教会は父なる神の愛に生かされている場所です。わたしたちキリスト者は教会の礼拝においてイエス・キリストを通して父なる神の愛に慰められ、励まされています。キリストの言葉と神の愛によって弱いキリスト者たちと悲しみにあるキリスト者たちは慰められ、励まされています。まさしく礼拝における聖餐式はキリストの御言葉と神の愛によってわたしたちが一つの思いにさせられ、慰めを得るのです。

 

“霊”による交わり」とは聖霊による交わりです。使徒信条の「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり」は、聖霊と聖霊のお働きです。一つの霊として聖霊は教会を一つにされます。キリストの御言葉と共に働かれ、神の愛にわたしたちキリスト者を包み込まれ、キリストに一つに結び付けてくださり、キリストの思いをわたしたちの思いとしてくださるのです。キリスト者の思いと意志を、キリストに向けさせてくださるのは聖霊です。聖霊はわたしたちに父なる神を「アバ、父よ」と呼びかけて、神との親しい交わりにあずからせてくださるのです。

 

だからパウロはキリストがわたしたちを励まし、神がわたしたちを愛で慰め、聖霊がわたしたちをキリストにおいて一つとしてくださると述べているのです。

 

またパウロは、続けて「それに慈しみや憐れみの心があるなら」と述べていますね。「慈しみや憐れみの心」は父なる神の愛の心です。父なる神はキリストの十字架を通してわたしたちに「慈しみや憐れみの心」をお示しになられました。だから、キリスト者に「慈しみや憐れみの心」があるのであれば、それはキリストの十字架を通してわたしたちに示された父なる神の「慈しみや憐れみの心」です。このようにパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致を励まし、彼らが同じ思いになり、心を一つとして互いの愛と慰めと交わりに生きるように勧めているのです。そして彼は彼らに慈しみと憐れみが彼ら自身から出ているのではなく、父なる神、子なるキリスト、聖霊から出ており、彼らの互いの愛と一致として結実していると教えているのです。

 

さてパウロはフィリピ教会のキリスト者たちに教会の一致からへりくだりへと勧めを移しています。使徒パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに3-4節で次のように述べています。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことも注意を払いなさい。

 

牢獄で捕らわれの身となっているパウロにとって、フィリピ教会のキリスト者たちが教会の一致に立ち、パウロを喜ばせてくれることが祈りであり、願いでありました。そのためにパウロには心配なことがありました。

 

パウロはこの手紙の一章12節でパウロが牢獄に捕らえられ、キリストの福音の前進になったことを喜んでいます。他方でパウロは一章15節と17節でキリストの福音を宣教するのにねたみと争いの念にかられてする者がおり、自分自身の利益を求めて獄中のパウロを苦しめるという不純な動機で福音宣教をする者がいると述べています。

 

フィリピ教会のキリスト者たちの中にも利己心や虚栄心から福音宣教をする者たちがいたのでしょう。驕り高ぶり、兄弟たちを見下す者がいたのでしょう。パウロは、彼らにへりくだりを教える必要があると思ったのです。

 

教会の一致を破壊するのは、わたしたちが自分だけに目を向けることです。わたしたちが互いに自己中心となるならば、教会の交わりは破壊されます。またわたしたちは自分にだけ関心があり、人に自分をよく見せたいと思うようになります。そうすると、教会の交わりが偽りのものとなり、自分より劣ると思える兄弟を蔑むようになり、教会における愛の交わりが破壊されるでしょう。

 

使徒言行録の五章で初代教会のエルサレム教会でアナニアとサフィラ夫婦が見せかけの立派なキリスト者を演じて、売った土地の代金をごまかして、教会に全部献金したように見せかけました。しかし、聖霊が彼らの偽りの罪を裁かれ、二人は死んでしまいました。その結果、エルサレム教会に大きな悲しみが起こったことでしょう。聖なる教会で偽りの出来事が起こることは、教会にとって大きな痛手であるでしょう。

 

わたしたちが自己中心であり、自己のみを愛することは、罪ある人間として逃れられません。しかし、パウロは次のことを信じているのです。キリスト者はキリストの十字架と共に死に、キリストの復活と共に古き自分を脱ぎ捨て、新しき人に生まれ変わったと。聖霊はキリスト者を新しい人と生まれ変わらせてくださいました。それがへりくだるということです。相手より自分が偉いと思うことから、自分より相手が優れていると考える者に変えられたのです。

 

これはわたしたちの意識のことだけではありません。聖霊はキリスト者各自に賜物を与えてくださいました。教会はキリストの体であると言われます。キリストの体に必要のない部分はありません。だから、パウロはフィリピ教会のキリスト者たちに「めいめい自分のことだけでなく、他人のことも注意を払いなさい」と勧めるのです。教会を建てられるのは聖霊です。聖霊はそれぞれのキリスト者たちに賜物を与えて、彼らが同じ思いで、教会を建てるように導かれるのです。だから、わたしたちは自分のことを考えているだけでは、教会は建てられません。自分以外の兄弟姉妹たちに注意を払うべきです。聖霊が兄弟姉妹たちにどんな賜物を与えられているのかを目に留めるべきです。そして互いに賜物を生かし合うことで、キリストの教会が建てられるのだと、パウロは思っているのです。今日はここまでです。

 

お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、『フィリピの信徒への手紙』の第二章1-4節の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

今日もこの教会の礼拝に集まり、主日礼拝を守り、キリストの言葉を聞き、励ましをいただき感謝します。

 

どうかわたしたちがこれからも教会の一致を保ち、互いに協力し、この教会の礼拝を支え、この教会を維持し、神の栄光を現すことができるようにして下さい。

 

この祈りと願いをイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。