ハイデルベルク信仰問答41 主の2013年11月6日
聖書箇所:コリントの信徒への手紙一第15章1-11節(新約聖書P320)
問67 それでは、御言葉と礼典というこれらの二つのことは、
わたしたちの救いの唯一の土台である
十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、
わたしたちの信仰を向けるためにあるのですか。
答 そのとおりです。
なぜなら、聖霊が福音において教え
聖礼典を通して確証しておられることは、
わたしたちのために十字架上でなされた
キリストの唯一の犠牲に、
わたしたちの救い全体がかかっている、
ということだからです。
問68 新約において、キリストは
いくつの礼典を制定なさいましたか。
答 二つです。
聖なる洗礼と聖晩餐です。
ハイデルベルク信仰問答が「御言葉」というとき、それは「福音の説教」のことです。礼典は、問68と答においてキリストが制定された「聖なる洗礼と聖晩餐」の二つであると教えています。
ハイデルベルク信仰問答は、問67において「御言葉と礼典」が「わたしたちの救いの土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へとわたしたちの信仰を向けるためにあるのか」と問うています。
ハイデルベルク信仰問答は、何のためにわたしたちの礼拝の中に「御言葉と礼典」があり、どうしてわたしたちの礼拝の中心が「御言葉と礼典」であるのかと問うているのです。
「御言葉と礼典」が何であり、どうしてわたしたちは主の日の礼拝ごとに「御言葉と礼典」を行うか、この二つの目的を、わたしたちが正しく理解することが、わたしたちの信仰にとって決定的に大切であると、ハイデルベルク信仰問答はわたしたちに教えています。
すなわち、この二つの目的は、「十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、わたしたちの信仰を向ける」ことにあります。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「御言葉と礼典」を聖霊のお働きであると教えています。問67の答です。「聖霊が福音において教え、聖礼典を通して確証しておられる」。礼拝における牧師の説教は、牧師のお説教ではありません。牧師が道徳のお話をしているのでもありません。まして牧師の信仰体験談ではありません。ハイデルベルク信仰問答は、主の日の礼拝説教は「聖霊が福音において教え」ておられることであると教えています。その福音の具体的な内容は、「わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲」を伝えることです。
聖礼典も聖霊のお働きです。聖霊は、わたしたちに「わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲」を確証しておられるのです。主の日の礼拝の説教と礼典は、聖霊がわたしたちに信仰の賜物をお与えくださり、「わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲」にわたしたちの信仰を向けさせておられます。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖礼典が問66の答において「聖なるしるし、また封印」として効果があるものとなるためには、二つのものが必要であることを教えています。それは、聖霊と御言葉です。
聖礼典の効果は、礼典制定の御言葉と聖霊のお働きがあってのものです。もし聖礼典が制定の御言葉がなく、水とパンとぶどう酒だけを用いても、わたしたちは「わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲」について何も知ることはできません。聖礼典は意味のない魔術に堕してしてしまうでしょう。聖霊と御言葉が聖礼典にあずかるわたしたちに効果的に働き、「キリストの十字架上の唯一の犠牲」が「わたしたちの救いの全体にかかっている」ことを説明してくれるので、聖礼典はわたしたちにキリストとその祝福を確証するものとなるのです。
ハイデルベルク信仰問答42 主の2013年11月13日
聖書箇所:使徒言行録第2章37-42節(新約聖書P216-217)
問69 あなたは、聖なる洗礼において、
十字架上でのキリストの唯一の犠牲が
あなたの益となることを、
どのように思い起こしまた確信させられるのですか。
答 次のようにです。
キリストがこの外的な水の洗いを制定された時
約束なさったことは、
わたしたちがわたしの魂の汚れ、
すなわち、わたしのすべての罪を、
この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、
ということ。
そして、それは、日頃体の汚れを落としているその水で、
わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、
ということです。
ハイデルベルク信仰問答は、問65より「聖なる礼典について」の総論を述べてきました。そして、問68と答において「聖なる礼典」は、キリストが制定された「聖なる洗礼と聖晩餐」との二つであることを教えています。
ハイデルベルク信仰問答は、問69-82において「聖なる礼典について」の各論を述べています。問69-74が「聖なる洗礼」について、問75-82が「イエス・キリストの聖晩餐」について述べています。
ハイデルベルク信仰問答は、よく「聖なる」という言葉を用いています。ここでは「聖なる洗礼」「聖晩餐」です。「聖」とは、新約聖書の用法では「神にささげるために聖別されているもの」です。「聖なる都」「聖なる宮」「聖徒」等があります。特に新約聖書では「キリストと聖霊」に関する聖が語られています。「聖なるしもべイエス」「聖なる霊」等。聖の中心内容はキリストであり(Ⅰコリント1:30)、それを遂行するのが聖霊です(Ⅱテサロニケ2:13)。そして、「聖化」は、信徒の生がキリストの中にあり、キリストの生が信徒の中にあるという経験(キリストとの霊的結合)です。
それゆえにキリストが制定し、キリストが臨在し、聖霊と御言葉によってなされる礼典に、洗礼と晩餐に「聖なる」「聖」が付されるのです。
問67と答で学びましたように礼典の目的は、「十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、わたしたちの信仰を向ける」ことにあります。
ですから、ハイデルベルク信仰問答は、「聖なる洗礼」を学び始めるにあたり、わたしたちの信仰を「十字架上でのキリストの唯一の犠牲」に向けて、わたしたちにそれが「あなたの益となること」を「どのように思い起こしまた確信させるのか」と問うているのです。
「益」とは、「ご利益」のことではありません。わたしたちと関わってくださる聖なるキリストのみがいたもうということです。キリストとわたしたちの霊的結合というほうがよいと思います。なぜならキリストが十字架上で御自身を犠牲とされ、わたしたちは信仰によってそのキリストと結ばれ、罪に死に、義とされ、聖とされました。
そのしるしが、キリストが制定された水による洗礼でした。使徒ペトロは、「キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使徒言行録2:38)と言っています。
ハイデルベルク信仰問答は、キリストの名による洗礼によって、次のことが約束されたと教えています。わたしたちの罪の赦しです。具体的には、「わたしたちの魂の汚れ」、すなわち、アダムの原罪によって全人類に生じた腐敗です(問7と答)。そして魂の腐敗から実際にわたしたちが行っているすべての罪です。
キリストの十字架上での唯一の犠牲によって、すなわち、「この方の血と霊とによって」、わたしたちの罪は「確実に洗っていただける」のです。
洗礼は、この喜びのしるしであります。水という物質は、汚れを洗い流すことができます。日常生活の中でわたしたちは、風呂で体を洗って、汚れを落とします。
ハイデルベルク信仰問答は、そのように「キリストの血と霊によって確実に洗っていただける」ことは、わたしたちが罪の赦しを受け、聖霊によって新たにされ、キリストの肢に聖別されることです。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが水で洗礼を受けた時、わたしたちが水でわたしたちの体の汚れを洗い落とすのを、わたしたちの目で見るのと同じぐらいに、わたしたちが信仰によってキリストの十字架上での唯一の犠牲による罪の赦しを認識することは確実であると教えています。
ハイデルベルク信仰問答43 主の2013年11月20日
聖書箇所:ローマの信徒への手紙第6章1-11節(新約聖書P280-281)
問70 キリストの血と霊とによって洗われるとは、
どういうことですか。
答 それは、十字架上での犠牲において
わたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、
恵みよって、神からの赦しを得る、ということです。
さらに、聖霊によって新しくされ、
キリストの一部分として聖別される、
ということでもあります。
それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、
いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです。
問71 わたしたちが洗礼の水によるのと同じく、
この方の血と霊とによって
確実に洗っていただけるということを、
キリストはどこで約束されましたか。
答 洗礼の制定の箇所に、次のように記されています。
「あなたがたは行って、
すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」、
(「信じて洗礼を受ける者は救われるが、
信じない者は滅びの宣言を受ける」。)
この約束は、聖霊が洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか
「罪の洗い清め」と呼んでいる箇所でも
繰り返されています。
ハイデルベルク信仰問答は、問66において「礼典とは何ですか」と、礼典の定義を問い、「それは、神によって制定された」福音の約束の「目に見える聖なるしるしまた封印」と答えています。そして、福音の約束とは、「十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が、恵みによって罪の赦しと永遠の命とを、わたしたちに注いでくださる」ことであると述べてきました。
問70と答は、問69と答において洗礼の水が特に象徴しているのが「キリストの血と霊によって洗われる」ことであると言われていることを、さらに詳しく説明しています。すなわち、キリストの「血と霊」は、罪の赦しと再生を表しています。使徒パウロは、その喜びを次のように述べています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6:4)。
洗礼を受けたわたしたちは、十字架上でのキリストの犠牲によって、その流された血、すなわちキリストの死によってわたしたちの罪が赦されました。パウロは、それをわたしたちが「キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとされました」と述べています。そして、わたしたちは聖霊によって新しくされ、キリストと一つにされ、キリストの体の一部として再生されました。それを、パウロは死者の中から復活されたキリストに結ばれて「わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と、再生を述べています。
ですから、洗礼を受けたわたしたちは、キリストと共に罪に死に、復活のキリストと共に新しい命に生きる再生者とされました。そしてわたしたちが罪を赦され、再生された目的は、「わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです。」洗礼は、信仰生活のスタートであります。
ハイデルベルク信仰問答の問71と答は、洗礼の歴史的根拠を問うています。キリスト教という宗教は、歴史的根拠に基づくものです。洗礼の起源は不明です。旧約聖書の中に水で洗い清める儀式がレビ記等に記されています。キリスト教の洗礼のモデルは、洗礼者ヨハネの洗礼です。ヨハネは「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」をユダヤ民衆に伝えていました。そして、彼は、救い主イエスは聖霊と火によって洗礼を授けることを預言しました(マタイ3:11)。
そして復活の主イエスは、使徒たちを派遣されるときに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」(マタイ28:19)と命じられました。主イエスは、その時「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ16:16)と宣言されました。使徒ペトロは、キリストのご命令に従い、十字架のキリストを信じたユダヤ人たちが罪を悔い、どうすべきかと質問した時、次のように答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒言行録2:38)。「賜物としての聖霊」を、使徒パウロは「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現した」と述べています。
洗礼が保証するのは、わたしたちの確かな行動ではなく、十字架上でのキリストの唯一の犠牲の確かさです。
ハイデルベルク信仰問答44 主の2013年11月27日
聖書箇所:使徒言行録第16章25-34節(新約聖書P246)
問72 それでは、外的な水の洗いは、
罪の洗い清めそのものなのですか。
答 いいえ。
ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、
わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです。
問73 それではなぜ、聖霊は洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか
「罪の洗い清め」と呼んでおられるのですか。
答 神は何の理由もなくそう語っておられるのではありません。
すなわち、ちょうど体の汚れが
水によって除き去られるように、
わたしたちの罪が
キリストの血と聖霊とによって除き去られるということを、
この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。
そればかりか、わたしたちが現実の水で洗われるように、
わたしたちの罪から霊的に洗われることもまた
現実であるということを、
神はこの神聖な保証としるしを通して、
わたしたちに確信させようとしておられるのです。
問74 幼児にも洗礼を授けるべきですか。
答 そうです。
なぜなら、彼らも大人と同様に
神の契約とその民に属しており、
キリストの血による罪の贖いと
信仰を生み出される聖霊とが、
大人に劣らず彼らにも確約されているからです。
それゆえ、彼らもまた、契約のしるしとしての洗礼を通して
キリスト教会に接ぎ木され、
未信者の子供たちとは区別されるべきです。
そのことは、旧約においては割礼を通してなされましたが、
新約では洗礼がそれに代わって制定されているのです。
ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問71と答において洗礼を「罪の洗い清め」と呼んでいる聖書箇所に注目させています。「洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」(使徒言行録22:16)。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにこの聖書の御言葉を文字通りに理解すべきですかと問うています。わたしたちの目に見える水がわたしたちの罪を清めるのかと。
答は、「いいえ」です。水という物質にはわたしたちの罪を赦し、清める力はありません。それは、「十字架上でのイエス・キリストの血と聖霊」のみである(問答の70と答)と、ハイデルベルク信仰問答は教えています。
さらにハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問73と答において聖霊が洗礼を「新たに造りかえる洗い」(テトス3:5)とか「罪の洗い清め」(使徒言行録22:16)と呼んでおられることはどうなのでしょうかと問うています。聖書や聖霊の御言葉を文字通りに理解すべきでしょうか。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖霊なる神は、何の理由もなくそう言われていないと答えます。
礼拝において洗礼の儀式が行われ、水という物質が用いられるのは、わたしたちの罪がキリストの犠牲の血と聖霊によって罪を赦され、清められているという現実を実物教育するためです。罪の赦しは、霊的な現実であり、それはわたしたちの目には見えません。それをわたしたちの目に見える水の性質を用いて理解させるのです。水はわたしたちの身体の汚れを落とします。聖霊は、その水を用いて、キリストの血と聖霊がわたしたちの罪を除かれることを教えてくださるのです。洗礼は、今のわたしたちの目に見えない罪の赦しという出来事が現実であるということをわたしたちに示すしるしであり、保証です。
ハイデルベルク信仰問答の問74と答は、幼児洗礼について教えています。キリスト教会は、初代教会、中世のローマカトリック教会をとおして幼児に洗礼を施してきました。ところが、宗教改革の時代に再洗礼派が現れ、幼児洗礼を否定しました。彼らは、キリストを告白した者に洗礼を授けるべきであって、何も分からない幼児に洗礼を授けるべきではないと反対しました。
ハイデルベルク信仰問答が幼児洗礼を擁護する理由が述べられています。第1に幼児洗礼を授けられた契約の子供たちは、大人と同様に神の契約とその民に属しています。幼児洗礼は、神の契約のしるしです。旧約聖書の神の選びの民、すなわち、族長アブラハム、そしてイスラエルの民を見ますと、神の民の中に子供たちが含まれます。子供たちは割礼を通して民の一員に加えられました。新約の時代は、幼児洗礼を通して子供たちは教会の一員に加えられました。第2に大人同様に子供たちも「十字架上でのキリストの犠牲の血と聖霊」に基づいて罪の赦しと永遠の命が約束されています。ですから、大人同様に子供たちにそのしるしと保証としての洗礼を施すべきです。第3に大人同様に子供たちにも聖霊は働いてくださいます。子供たちも聖霊によって信仰を与えられ、義とされ、罪赦され、清められ、御国へと導かれます。ハイデルベルク信仰問答は、幼児洗礼を授けられた契約の子たちと未信者の子供たちとを区別します。