ハイデルベルク信仰問答 36           2013925

 

聖書箇所 ローマの信徒への手紙第32128(新約聖書P277)

 

 

 

 問60 どのようにしてあなたは、神の御前で義とされるのですか。

 

 答   ただイエス・キリストを信じる、

 

       まことの信仰によってのみです。

 

     すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、

 

       「お前は神の戒めすべてに対して、

 

        はなはだしく罪を犯しており、

 

        それを何一つ守ったこともなく、

 

        今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」

 

        と責め立てたとしても

 

     神は、わたしのいかなる功績にもよらず

 

        ただ恵みによって、

 

        キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、

 

        わたしのものとし、

 

        あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも

 

        罪人であったこともなく、

 

        キリストがわたしに代わって果たされた服従を

 

        すべてわたし自身が成し遂げたかのように

 

        みなしてくださいます。

 

     そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を

 

        信仰の心で受け入れる時だけなのです。

 

        

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問60と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、「信仰義人」の教理について解説しています。

 

先週ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに使徒信条のすべてを信じて受け入れることは、二つの益があると教えてくれました。神の御前で義とされることと永遠の命の相続人とされることです。

 

そこでハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにまずどのようにして神の御前に義とされるのかを問うています。そして、大変長い答えをしています。そして、この答こそ、宗教改革者ルターが聖書から発見した「信仰義人」の教理であり、宗教改革という出来事とそれによって形成されたプロテスタント教会の中心的教理です。

 

これこそがハイデルベルク信仰問答がわたしたちに教える「ただキリストを信じる、まことの信仰」です。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問21と答に「まことの信仰」を次のように定義しています。「それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしたちが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしたちのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります。」

 

信仰義人は、「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰」です。神がわたしたちに聖書の御言葉を通して啓示されました。先ほど輪読しましたローマの信徒への手紙32128節の御言葉、ガラテヤの信徒への手紙216節、エフェソの信徒への手紙289節、フィリピの信徒への手紙3811節に、神はわたしたちに「ただイエス・キリストを信じる、信仰による義」「人の行いではなく、信仰による義」を啓示されています。

 

神がわたしたちに聖書の御言葉によって啓示された「人の行いではなく、信仰による義」を知識としてだけでなく、「福音を通して」すなわち、礼拝における説教を通して、聖霊がわたしたちの内に働き、わたしたちが心から「信仰義人」の教理に信頼するのです。

 

そこでわたしたちキリスト者は、良心の責めから解放されます。わたしの良心は、いつもわたしの罪の行いをわたしの心に責めています。ハイデルベルク信仰問答は、それを次のように具体的に答えています。「『お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』     と責め立てたとしても」。

 

 この世に生きるキリスト者は皆、この心の声に直面します。宗教改革者ルターも例外ではありません。修道院で彼は、神の義によって罪の赦しを確信できませんでした。むしろ自分の罪を裁く神の義と理解しました。彼は、神の審判と永遠の滅びを恐れ、悩みました。そして、彼の良心は、彼の罪を一つ一つ指摘し、彼を責め立てました。

 

 しかし、ルターは、神が聖書を通して教えられている神の義は、人を裁く神の義ではなく、「ただ恵みにより、キリストを信じる信仰によって与えられる神の義」であることを悟りました。こうして良心がいかにわたしたちキリスト者を責め立てても、「神は、わたしのいかなる功績にもよらず ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも 罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。」

 

 ルターが見出した神の義は、人を裁く義ではなく、罪人を義とする神の義です。それは、ただ神の恵みであります。神は、「わたしたちのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって」キリストの消極的服従(キリストの十字架の死)と積極的服従(キリストの従順)を通して、「キリストの完全な償いと義と聖をわたしに与え、わたしのものとし」、キリストのゆえに「わたしは何一つ罪もなく」「罪人でもない」とみなしてくださいます。

 

 神の御前にわたしが義とされることは、良心に罪を責め立てられているわたしを、ただ恵みにより神がわたしをキリストのように義人とみなしてくださるのです。

 

 これは、神がわたしたちに聖書の御言葉を通してわたしたちに啓示してくださった神の義です。それを、ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに「わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」と教えているように、神の御前にわたしが義とされるのは、わたしがこの救いの恵みを信仰の心で受け入れる時だけです。

 

わたしたちは、神が聖書の御言葉を通して啓示された神の義を、ただキリストを信じる心で受け入れる時だけ、わたしたちは、信じるキリストと一つとされ、神の御目において罪なき者とみなされ、神の御前に義とされるのです。

 

ハイデルベルク信仰問答は、まことの信仰を問21と答で定義し、問60と答にその信仰内容を、「信仰義認」として解説しています。ですから問21と問60は、互いにハイデルベルク信仰問答がわたしたちに次のことを教えています。「まことの信仰」が信仰義認であり、「信仰義認」の教理がまことの信仰であることを。そして、このまことの信仰は、わたしたちの行いではなく、「ただイエス・キリストを信じる」ことです。

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 37           2013102

 

聖書箇所 ローマの信徒への手紙第10817(新約聖書P288289)

 

 

 

 問61 なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。

 

 答   それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、

 

       というのではなく、

 

       ただキリストの償いと義と聖だけが

 

       神の御前におけるわたしの義なのであり、

 

     わたしは、ただ信仰による以外に、

 

        それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。

 

                        

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問61と答を学びましょう。先週に続き、ハイデルベルク信仰問答は、「信仰義認」の教理について解説しています。

 

先週ハイデルベルク信仰問答が問21と答において「まことの信仰」を定義し、問60と答においてその「まことの信仰」の内容が「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰」であることを学びました。そしてその信仰の中心が信仰義認の教理であることを学びました。

 

 問61と答は、問60と答と重複しています。問60と答に十分に「信仰によってのみ義とされる」ことは説明されていないでしょうか。それにもかかわらずハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにさらに徹底して「なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか」と問うています。

 

 救いは神の恵みであり、人の行いではなく、ひたすらキリストを信じ抜く信仰によって義とされ、救われる、救いは、義は人の功績ではなく、キリストの御業と功績による純粋な神の恵みである、これが宗教改革の信仰を継承するハイデルベルク信仰問答の中心的な問いを性格づけているのです。

 

 ですから、ハイデルベルク信仰問答は、「あなたが信仰によってのみ義とされる」とは、「わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく」と答えています。わたしたち信仰者の信仰の行いとその力強さによって救われるのではありません。ハイデルベルク信仰問答は、問60の答の最後に「わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」と告白していますね。これは、ハイデルベルク信仰問答が信仰義認を人の行いではないことをとても注意して表現しているのです。

 

 ハイデルベルク信仰問答の「わたし」は、信仰を告白する「わたし」であり、宗教改革の教会のことです。そして、ハイデルベルク信仰問答にとって、信仰を告白する「わたし」は、「信じる心」のことでもあります。ハイデルベルク信仰問答は、「わたしがキリストの御業と功績による神の恵みを信じる心で受け入れる時にのみ」、罪人であるわたしは神に義とされると教えているのです。

 

 ハイデルベルク信仰問答は、それゆえに「ただキリストの償いと義と聖だけが 神の御前におけるわたしの義なのであり」と告白しています。問1218と答、問4748と答にキリストの人格と御業が教えられていますね。ハイデルベルク信仰問答は、神人である仲保者キリストの罪の償い、積極的服従(十字架の死に至るまでのキリストの服従)と消極的服従(キリストの十字架の死)によるキリストの義と聖を教えています。そして、問60と答において「神は、わたしのいかなる功績にもよらず ただ恵みによってキリストの完全な償いと義と聖をわたしに与え」と教えています。

 

 だから、ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに述べていることは、わたしたちの救い、わたしたちが神の御前に義とされるのは、キリストの御業と功績によってです。キリストが神の御前にわたしたち罪人の罪を償い、神の御前に得られた義と聖をわたしたちに恵みによってお与えくださることによって、わたしたちは神の御前に義とされました。

 

 ハイデルベルク信仰問答が、「義とされる」と述べている「義」は、わたしたちの行いによる「義」ではなく、キリストの御業と功績による「義」です。それは、わたしたちが行いによって獲得するのではなく、またわたしたちの信仰の価値のゆえに得られるものでもありません。「キリストによって」わたしたちは義とされます。それは、ただ神の恵みによってのみ、わたしたちに与えられるものであり、信じる心で受け取る以外にわたしたちのものとはならないのです。

 

 ですから、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに「わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです」と教えているのです。

 

 信仰義認の教理は、キリストへの絶対的信頼に対するわたしたちの信仰告白であると思います。

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 38           2013109

 

聖書箇所 マタイによる福音書第71520(新約聖書P12)

 

 

 

 問62 しかしなぜ、わたしたちの善い行いは、

 

     神の御前で義またはその一部にすら

 

     なることができないのですか。

 

 答   なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、

 

       あらゆる点で完全であり、

 

       神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、

 

       この世におけるわたしたちの最善の行いですら、

 

       ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです。

 

 問63 しかし、わたしたちの善い行いは、

 

     神がこの世と後の世でそれに報いてくださるというのに、

 

     それでも何の値打ちもないのですか。

 

 答   その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。

 

 問64 この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか。

 

 答   いいえ。

 

     なぜなら、まことの信仰によって

 

     キリストに接木された人々が、

 

     感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです。

 

                        

 

今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問6264と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちの「善い行い」について解説しています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問62において「わたしたちの善い行い」が、神の御前に義とされ、あるいは、義の一部として認められないのかと問うています。

 

ハイデルベルク信仰問答の答は、「わたしたちの善い行い」は、神の御前に義と認められないです。神の御前での義とは、神の裁きに耐えうる義です。それは、「神の律法に全く一致するものでなければなりません」と、ハイデルベルク信仰問答は答えています。

 

ところが、使徒パウロは、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」(ローマ320)と主張し、「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」と主張しています。

 

生まれながらの人間は、神の御前で善き行いによって義とされません。神の律法を実行しようとしても、神の律法と完全に一致できないからです。ハイデルベルク信仰問答の問5と問8とその答に次のように告白しています。「問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。」「答 できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと 生まれつき心かが傾いているからです」。「問8 それでは、どのような善に対しても全く無能で あらゆる悪に傾いているというほどに、わたしたちは堕落しているのですか。」「答 そうです。わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは。」

 

預言者イザヤも次のように述べています。「わたしたちは皆、汚れた者となり 正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり わたしたちの悪は風のように わたしたちを運び去った。」(イザヤ645)

 

ハイデルベルク信仰問答がわたしたちに教えていることは、わたしたちは聖書を完全に実践することはできないし、自分たちの「善い行い」によって救われるのではないということです。

 

 問63と答は、問62と答の結論から導き出される問と答です。「わたしたちの善き業」とは、わたしたちの信仰のことです。「善き業」は、信仰と切り離せません。信仰は善き業であり、善き業は信仰の実践です。主イエスは、その関係を「良き木と良き実のたとえ」でもって説明されています。「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ717)。そして、主イエスは、わたしたちの信仰、善き業を「大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」と祝福してくださいました(マタイ512)。ヘブライ人の記者も「信仰がなければ神に喜ばれません」と述べて、「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である」と信じるように勧めています(ヘブライ116)

 

 ですから、ハイデルベルク信仰問答は、問8の答においてわたしたちが「神の御霊によって再生」され、神の恵みにより与えられた信仰(善き業)には価値があると教えています。ります。そして、わたしたちの信仰(善き業)は、わたしたちの功績ではなく、神の恵みであると告白するのです。

 

 救いは神の恵みであり、人の行いではなく、ひたすらキリストを信じ抜く信仰によって義とされ、救われる、救いは、義は人の功績ではなく、キリストの御業と功績による純粋な神の恵みである、これが宗教改革の信仰を継承するハイデルベルク信仰問答の中心的な問いを性格づけているのです。

 

 ハイデルベルク信仰問答の問64と答は、わたしたち罪人が救われ、神の報いを受けるのは、わたしたちの善い行いによるのではなく、ただ神の恵みにより、信仰によるのだ、という宗教改革者たちの主張に対して、反対者たちが「この教えは、無分別と放縦な人々を作る」と批判していたことに丁寧に答えているのです。

 

 まことの信仰とは、ハイデルベルク信仰問答の問21と答において定義されています。簡単に言えば、こうです。聖書の神の御言葉においてわたしたちに啓示されたことを、わたしたちが「真実であると確信」し、福音を通して、すなわち、使徒信条を通して聖霊がわたしたちの内に起こしてくださる信仰、すなわち、心から父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神とその救いの御業に心から信頼することです。

 

 聖霊は、わたしたちをこのまことの信仰によってキリストと接ぎ木してくださいます。具体的には洗礼によって。先ほどの主イエスが「良い木と良い実のたとえ」をルカによる福音書にもなさっています(ルカ64345)。ハイデルベルク信仰問答は、それをキリスト者の感謝の生活に当てはめています。キリストの十字架と復活によって罪の赦しと永遠の命をいただいたキリスト者たちは、無分別、放縦な生活をしません。むしろ、キリストにと神に感謝して、信仰生活をすると、ハイデルベルク信仰問答は教えています。

 

 ハイデルベルク信仰問答は、信仰と善き業を一つのことと見ています。そして、ぶどうの木とその枝、良き木と良き実のように、キリスト者の信仰生活と善き業は、わたしたちの功績ではなく、キリストの結ばれた恵みの業であると教えているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 39         20131023

 

 聖書箇所 マタイによる福音書第281620

 

 

 

 問65 ただ信仰のみが、わたしたちを

 

     キリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、

 

     そのような信仰はどこから来るのですか。

 

 答   聖霊が、わたしたちの心に

 

         聖なる福音の説教を通してそれを起こし、

 

         聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです。

 

 

 

 今夜は、今までの学びを復習して始めましょう。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問2064まで「まことの信仰」について教えてきました。ハイデルベルク信仰問答は、問21で「まことの信仰」を定義しました。「まことの信仰」とは、「神の御言葉(聖書)へのわたしたちの確かな認識」と「聖霊が福音を通してわたしたちの心に起こしてくださる心からの信頼」でありました。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちにこの「まことの信仰」がわたしたちに必要不可決なことを次のように述べています。「まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」(20の答)

 

つまり、「わたしたちは信仰(まことの信仰)によってキリストの一部となり」(32の答)、「わたしたちの体も魂もすべてを御自分のもの(キリストの所有)としてくださ」(34の答)ることで、わたしたちは「キリストとその恵みのすべてにあずかり(受け取り)(20の答、問65)、救われるのです。「まことの信仰」は、わたしたちがキリストと結合し、キリストの所有となるための重要な神の恵みの手段です。この「まことの信仰」なしにわたしたちが「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰め」(1)に生きることはできません。

 

 そこでハイデルベルク信仰問答は、問22でキリスト者の信じるべきものが何かを問い、「福音において約束されているすべてのもの」と答え、それを要約したものが使徒信条であると教えて、問2258まで使徒信条を解説しています。父子聖霊の三位一体の神の教理と父なる神の創造と御子の贖い、そして聖霊の聖化についての御業を解説しています(24の答)

 

 ハイデルベルク信仰問答は、丁寧に使徒信条を解説しています。問いでしばしば「何を信じているのか」「何を理解しているのか」という質問があります。その目的は、わたしたちがこのハイデルベルク信仰問答を通して使徒信条を学び、信仰において一致できるキリスト者として育つことです。ハイデルベルク信仰問答にとって使徒信条は福音の要約であり、同時に健全な教理でもあります。わたしたちが使徒信条を学び、信仰において一致するならば、わたしたちは健全な教会を建て上げて行くことができると、ハイデルベルク信仰問答は確信しているのでしょう。

 

 さて、今夜の問65は、ハイデルベルク信仰問答が「まことの信仰」と「信仰によってのみ神の御前に義とされる」ことを理解し、信仰による救いの恵みを知ったわたしたちに、「そのような信仰がどこから来るのか」と問うています。

 

 この問いは、「まことの信仰」がわたしたちの外から来るということを教えています。「まことの信仰」は生まれながらの人の心の中には存在しません。

 

 ですからハイデルベルク信仰問答は、その答で「聖霊が、わたしたちの心に」と答えています。わたしたちが「まことの信仰」を持つのは、己の働きではありません。聖霊なる神の聖化のお働き(24の答)です。聖霊は、御父と御子なる神がわたしたちにお与えくださったお方であり、「まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みをわたしたちにあずからせて」くださいます(53の答)

 

 使徒パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ1017)と述べています。信仰は、わたしたちの外から来ます。フィリピで使徒パウロは、キリストの福音を語りました。リディアという女性がパウロの語る御言葉を聞きました。「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞きました」(使徒言行録1614)

 

 リディアと同様にわたしたちも教会において説教を聞きました。その時に「聖霊が、わたしたちの心に」、その説教を通して、信仰を起こしてくださいました。「まことの信仰」は聖霊がお働きになり、わたしたちの心に生み出されるものです。「起こす」とは、「火をともす」という言葉が語源です。

 

 ハイデルベルク信仰問答は、聖霊が説教を通してわたしたちの心に信仰を起こし、起こしたわたしたちの信仰をさらに確かなものとするために、聖礼典を行われると教えています。聖礼典とは、洗礼と聖餐です。この二つの礼典によって、わたしたちが礼拝の説教を聞くことを通して、聖霊によって与えられたまことの信仰を確かなものとしていくと、ハイデルベルク信仰問答は教えています。

 

 洗礼と聖餐は、信仰を前提としてなされます。信仰を強め、確かなものとするために行われます。聖霊は説教を通してわたしたちの心にまことの信仰を起こされますので、教会は毎週説教をします。聖礼典である洗礼と聖餐は、わたしたちの心に信仰を生み出すことはできませんが、その信仰を強め、確かにするために、聖霊は教会の中で聖礼典を用いられています。

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答40       主の20131030

 

 聖書箇所:使徒言行録第23742(新約聖書P216217)

 

 

 

 問66 礼典とは何ですか。

 

 答   それは、神によって制定された、

 

       目に見える聖なるしるしまた封印であって、

 

       神は、その執行を通して、

 

       福音の約束をよりよくわたしたち理解させ、

 

       封印なさるのです。

 

     その約束とは、

 

       十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、

 

       神が、恵みによって、

 

       罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる、と

 

いうことです。

 

 

 

 先週は、ハイデルベルク信仰問答の問65の答において聖霊が、聖なる福音の説教(御言葉)によって信仰をわたしたちの心に起こし、聖礼典の執行を通して信仰に確証(保証)を与えると教えていることを学びました。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問6582まで聖礼典について教えています。問6568と答においては総括的に聖礼典を取り上げています。そして個別的に問6974と答において洗礼を取り扱い、問7582と答において聖餐を取り扱っています。

 

ハイデルベルク信仰問答の問66と答は、聖礼典の定義と目的を主に教えています。次のように定義について述べています。「それは、神によって制定された、目に見える聖なるしるしまた刻印であって」

 

ハイデルベルク信仰問答は、聖礼典を「神によって制定されたもの、目に見える聖なるしるし、また証印である」と定義しています。

 

聖礼典は、「信仰によって義とされた証し」であり、「罪のゆるし」の証しです(ローマ411)。神が制定され、わたしたちの目に見えるしるしであり、わたしたちの心にしるされた刻印(申命記306)です。

 

洗礼と主の晩餐(聖餐)は、旧約の時代には割礼(創世記1711、コロサイ21112)と過越(127813231417、Ⅰコリント57)においてあらかじめ示されていました。どちらも神が定められた制度です。

 

ハイデルベルク信仰問答は、続いて聖礼典の目的を次のように述べています。「神は、その執行を通して福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、刻印なさるのです。」

 

聖礼典の執行の目的は、福音の約束(御言葉)をわたしたちによりよく理解させ、その約束に御自身の証印をわたしたちの心に押してくださるためです。聖礼典は、御言葉によって告げ知らされた救いの恵みを、聖霊がわたしたちの心に理解させ、確かなものとして心に保証し、刻印してくださるのです(申命記306、ローマ6311)

 

ハイデルベルク信仰問答は、続いて「福音の約束」が何かを説明して、次のように述べています。「その約束とは、十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が恵みによって罪の赦しと永遠の命とを わたしたちにそそいでくださる、ということです。」

 

聖礼典がわたしたちに指し示すものは、聖霊がわたしたちにキリストの十字架の贖いによる罪の赦しと永遠の命を、豊かにお与えくださっているということです。

 

ただ1度のキリストの十字架の贖いによって、わたしたちは罪を赦され、聖なるものとされ、永遠の命の恵みに入れられたこと(ヘブライ1010)を、次週の聖餐式において共にしましょう。