ハイデルベルク信仰問答 06           2013213

 

聖書箇所 マタイによる福音書第223440節 

 

 

 

 問4 神の律法はわたしたちに何を求めていますか。

 

 答え それについてキリストは、マタイによる福音書二二章で

 

    次のように要約して教えておられます。

 

     「『心を尽くし、精神を尽くし、

 

      思いを尽くし、力を尽くして、

 

      あなたの神である主を愛しなさい。』

 

      これが最も重要な第一の掟である。

 

      第二も、これと同じように重要である。

 

      『隣人を自分のように愛しなさい。』

 

      律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

 問5 あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。

 

 答え できません。

 

    なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと

 

      生まれつき心が傾いているからです。

 

                         吉田 隆訳

 

 

 

 今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問45と答えを学びましょう。

 

先週は、ハイデルベルク信仰問答の問3と答えにおいてわたしの悲惨さを学びました。ハデルベルク信仰問答は、わたしたちに救いの教理の見取り図を示し、第一にわたしたちに「どれほどわたしの罪と悲惨さが大きいか」を知らなければならないと教えて、問3において「何によってあなたは自分の悲惨さに気づくのか」と問うています。

 

ハイデルベルク信仰問答の教える悲惨さは、わたしたちが本来居るべきところから離れてしまうことによってもたらされるものです。

 

先週人間の悲惨さの始まりがアダムとエバが罪によって主なる神の元から離された結果、現れたことを学びました。放蕩息子が父親を離れて、自由奔放に生きようとしました時、彼の悲惨が始まりました。自分が本来居る場所を離れてしまったからです。

 

ハイデルベルク信仰問答の問3の答えは、わたしたちに真の悲惨さを気づかせ、本来の居るべき場所を指し示してくれるのが、「神の律法」であると教えています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちが神の律法という眼鏡をかけて、鏡に映ったわたしたちの姿を見ます時に、自分の惨めさに気づかされると教えています。

 

「神の律法」とは、モーセの十戒です。ところが、ハイデルベルク信仰問答は、主イエスが、そのモーセの十戒を要約なさった御言葉を取り上げています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問4において「神の律法はわたしたちに何を求めていますか。」と問うています。神の律法が何であるかという説明を求めず、「神の律法は、わたしたちに何を求めているか」と問うています。そして、主イエスが律法の専門家に教えられた神の律法の要約を記しています。ハイデルベルク信仰問答は、マタイによる福音書の223739節の主イエスの御言葉を、答えにそのまま記しています。

 

主イエスが律法の専門家に、「神の律法は、すなわち、主なる神がわたしたちに教えておられることは、要約すると二つである。『神を愛すること』と『隣人を愛すること』である」と教えられました。

 

神の律法は、神と隣人への愛を教えています。本来人間は、神に創造された者です。「神が御自分にかたどって人を創造されました」(創世記127)。だから、本来の人間は、心に神の律法が刻まれ、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記65)と命じられています。

 

また人は、「神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記127)。神は、御自身の律法を人の心に刻み、男と女に人を創造し、「自分を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記1918)と命じられました。

 

万物を創造された創造主への愛と隣人への無私の愛に生きるのが、創造主なる神に造られた本来の人間の姿です。神の律法は、その人間の真の姿を指示しています。

 

そして、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに問5において「あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか」と問いかけています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに聖書の教える愛を行うことができるのか。神を愛し、隣人を自分のごとく愛せるのかと問うています。聖書の教える愛は、男女の情愛でありません。人の好き嫌いの感情でもありません。それは、意志であり、服従です。そして、十字架の主イエスを通して神がわたしたちに知らされた愛は、自己犠牲です。

 

主イエスは、弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とお命じになりました(マタイ1624)。これが愛です。

 

答えは一つです。「できません」。この世に自分の命を犠牲にして神を愛し、隣人を自分のように愛する者は誰もいません。使徒パウロが言うように「神の律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ320)

 

その理由をハイデルベルク信仰問答は、次のように明確に告白しています。「なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです。」

 

「心の傾き」とは、心の秤のことです。自分と神を心にはかり、自分と自分の隣人を心にはかり、どちらも自分と相反しているのであれば、わたしたちは自分の方を愛し、選ぶでしょう。

 

例えば、神に「むさぼるな」と命じられたなら、わたしたちは貪りの罪を犯す自分を見出すでしょう。主イエスに「情欲をもって女を見るな」と命じられたなら、情欲をもって女を見ている自分を見つけるでしょう。わたしたちは「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」自分を見出すのです(ローマ718)。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(ローマ724)

 

ある人がハイデルベルク信仰問答の問5の答えを解説しながら、「愛というものは、憎しみが混じっていたなら、全部が腐ってしまう」と教えておられます。人は、生まれながらに罪により神を愛し、人を自分のように愛することはできないのです。わたしの心から出る憎しみがそれらすべての行為を腐らせているからです。

 

 

 

 

 

ハイデルベルク信仰問答 07           2013220

 

聖書箇所 創世記第12631節 

 

 

 

 問6 それでは、神は人をそのように悪い邪悪なものに

 

創造なさったのですか。

 

 答え いいえ。

 

    むしろ神は人をよいものに、また御自身のかたちに似せて、

 

      すなわち、まことの義と聖とのうちに創造なさいました。

 

    それは、人が自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、

 

      永遠の幸いのうちに神と共に生き、

 

      そうして神をほめ歌い賛美するためでした。

 

 問7 それでは、人のこのような堕落した性質は何に由来するのですか。

 

 答え わたしたちの始祖アダムとエバの、

 

      楽園における堕落と不従順からです。

 

    それで、わたしたちの本性はこのように毒され、

 

      わたしたちは皆罪のうちにはらまれて、生まれてくるのです。

 

問8 それでは、どのような善に対しても全く無能で

 

   あらゆる悪に傾いているというほどに、

 

   わたしたちは堕落しているのですか。

 

答え そうです。

 

   わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは。

 

                         吉田 隆訳

 

 

 

 今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問68と答えを学びましょう。

 

先週は、ハイデルベルク信仰問答の問45と答えにおいて次のことを学びました。神の律法は、わたしに神への愛と隣人への愛を求めています。しかし、わたしは神の律法を完全に守れません。なぜならわたしの心が生まれつき神と隣人を憎むように傾いているからです。

 

ハイデルベルク信仰問答問68と答えにおいて、わたしの悲惨な状態の責任が創造主にあるのか、またどこから来たのかを問うています。そして、わたしたちの悲惨さの始まりがアダムとエバの堕落と罪に由来し、わたしたちは生まれながらに罪人であり、御霊による再生なしには、どのような善に対してもわたしたちは無能であると教えています。

 

人は生まれながらに罪人ですと言いますと、必ず次のような反論が来ます。それが問6です。「それでは、神は人をそのように悪い邪悪なものに創造なさったのですか」と。

 

病気を治療する第1歩は、自分が病気という悲惨な状態と向き合うことです。同様に自分の罪という悲惨さから救われるためには、まず自分が生まれつき罪人であるという悲惨さに向き合うことです。

 

ところが、人は自分が「邪悪なもの」であり、すなわち、心の根っこから腐っているものであるという悲惨さに目を向けません。むしろ、神に責任転嫁します。わたしが罪人で、邪悪であるのは、神がわたしをそのように創造されたからではないかと。

 

ハイデルベルク信仰問答は、その反論に「いいえ」と答えています。その理由として、第1に神がわたしたち人間を「よいもの」「御自身のかたちに似せて」創造されたからです(創世記12631)。第2に創造主なる神は、義と聖という性質をお持ちのお方です。だから、神は御自身のかたちに人間を、すなわち、神がお持ちの聖と義という性質と同じ性質を持った人間を創造されました。第3に神が人間を創造された目的は、人間が創造主を知り、創造主を心から愛し、永遠に神と共に生きる幸いにあずかり、神の栄光を賛美するためでした。それゆえに人間の罪と悪を、創造主に責任転嫁することはできません。

 

そこでハイデルベルク信仰問答は、問7において人間の生まれながらの罪がどこから来たのかを問うています。問7と答えは、本来善いものとして創造された人間が堕落したことを教えています。それは、創世記3章に記されている堕落物語です。

 

アダムとエバは、神が創造された人類の始祖です。人間の罪と悪は、彼らの堕落から始まりました。神は、アダムとエバにエデンの園において命の契約を結ばれました。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記217)と。しかし、アダムとエバは、神に対して不従順でした。神に背を向けてへびの誘惑の声に耳を傾けて、神の御命令を破り、食べてしまいました(創世記346)

 

澄んだ水の中に泥を放り込みますと、水は黒く濁り、汚染されますね。アダムとエバの罪によって人類全体が罪に汚染されてしまいました。だから、ハイデルベルク信仰問答は、問7の答えにおいて「それで、わたしたちの本性はこのように毒され、わたしたちは皆罪のうちにはらまれて、生まれてくるのです」と述べています。

 

使徒パウロは、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」(ローマ512)と言っています。そしてダビデが家来のウリヤの妻バト・シェバと姦淫の罪を犯したとき、彼は詩編51篇において神に悔い改めの賛美を歌っています。その時にダビデは、「わたしは咎のうちに産み落とされ 母がわたしを身ごもったときも わたしは罪のうちにあったのです。」と告白しています。ダビデは、自分の罪深さを神の御前に嘆き、「自分のうちには罪の血が流れています」と告白しています。これがキリスト教の教える原罪です。

 

「楽園における堕落」とありますように、楽園は、神がアダムとエバのために設けられた神と彼らとの幸いな状態でした。しかし、アダムとエバは、神に背を向け、そして後の人類も神に背を向けて、神との幸いな状態から落ちてしまいました。

 

ハイデルベルク信仰問答の問8と答えは、わたしたち全人類は、落ちた所に、あの楽園の神との幸いな状態に自分の力で戻る善をなしえないのかと問うています。自分たちが神の御前に善きことを行って、神と和解することはできないのかという問いであります。

 

答えは、「できない」です。なぜなら、神が見られる人類の姿は、常に悪いことばかりを心の中で計っているのです(創世記65)。神の御前に人は、どんな善をも行うことができません。要するに楽園から落ちて、神との幸いな状態を失ったわたしたちは、自分たちがどうあがいてみても、自分の行いによって神との幸いな状態に戻ることは不可能なのです。

 

 一つのことを除いてです。それは、「わたしたちが神の御霊によって再生される」ことです。

 

落ちた所に戻れる可能性は、人には不可能です。しかし、神には不可能がありません。主イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われ(ルカ1827)、ニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ33)と言われ、「霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ36)と言われました。上からの神の助けにより、罪人が生まれ変わらされる方法によって、神は人の救いの道を開かれました。

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 08           2013227

 

聖書箇所 創世記第12631節 

 

 

 

 問9 御自身の律法において人ができないようなことを人に求めるとは、

 

神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。

 

 答  そうではありません。

 

    なぜなら、神は人がそれを行えるように、人を創造されたからです。

 

    にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、

 

      故意の不従順によって

 

      自分自身とそのすべての子孫から

 

      それらの賜物を奪い去ったのです。

 

 問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。

 

 答  断じてそうではありません。

 

    それどころか、神は生まれながらの罪についても

 

      実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、

 

      それらをただしいさばきによって、

 

      この世においても永遠にわたっても罰しようとまさるのです。

 

     それは、

 

      「律法の書に書かれているすべての事を

 

       絶えず守り行わない者は皆、呪われている」と

 

       神がお語りになったとおりです。

 

                      吉田 隆訳

 

 

 

 今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問910と答を学びましょう。神の律法と人間の罪について教えています。わたしたちの罪を、神の刑罰から逃れられない悲惨な現実として教えています。

 

ハイデルベルク信仰問答の問9と答は、問6と答と同じく反論です。神に責任転嫁をしています。問6は、創造主である神が人間を邪悪に創造されたのかと問いました。

 

ハイデルベルク信仰問答問9は、「御自身の律法において人ができないようなことを人に求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。」と問うています。神は、人に善を求められたのに、神が人を善を行えるように創造されなかったとすれば、神の側に不正があるのではないかという反論をしています。

 

そして、ハイデルベルク信仰問答は、問6の答と同じく、簡潔に「そうではありません」とはっきりと否定しています。そして、神に責任転嫁できない理由を述べています。創造主なる神がどのように人間の創造されたかに言及しています。旧約聖書の創世記131節に、神が創造された被造物は、人間を含めて「それは極めて良かった」とあります。神と創造された被造物との関係が非常に良かったのです。人間は神の命令に服従する善き者として創造されました。新約聖書のエフェソの信徒への手紙424節に「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」とあります。神に創造された人間は、真理、すなわち、神の律法に基づいて正しく清い生活ができるように創造されたのです。

 

ハイデルベルク信仰問答は、続けて「にもかかわらず」と言います。罪の起源を次のように指摘します。「人が悪魔に唆されて」と。人の罪は、神が創造された人間のうちにはありませんでした。外から来ました。創世記313節にエバが蛇に騙されて、主なる神の命令を破りました。罪は、悪魔の誘惑によって、それから創世記36節に「女が見ると、その木の実はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べて、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」とあります。神の命令を知っていて、二人は神の禁じられた善悪を知る木の実を食べました。彼らは、神と同じように賢くなろうとしたのです。それをハイデルベルク信仰問答は、「故意の不従順によって」と述べています。守ろうと思えば、守れたのに、悪魔に誘惑され、二人は神が禁じていることを知っていて、神に服従しませんでした。

 

アダムとエバの罪と不従順の結果、アダムとエバだけでなく、彼らの子孫である全人類から、「それらの賜物を奪い去ったのです」と、ハイデルベルク信仰問答は罪により堕落した人間の悲惨さを告白しています。「それらの賜物」とは、人間が神に創造されたことを喜び感謝し、神を賛美礼拝し、神に喜んで服従して生きることです。それらの賜物を、全人類は奪われ、生まれながらにわたしたちの心は神と隣人とを憎む傾向を持っているのです。

 

ハイデルベルク信仰問答は、続いて問10と答に罪に対する神の刑罰を、はっきりと告げています。神に曖昧さはありません。神は、アダムに「園の中央の善悪を知る木からは取って食べるな。食べると必ず死ぬ」(創世記217)と言われました。ですから、ハイデルベルク信仰問答は、「神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。」と問うて、「断じてそうではありません」と答えています。

 

ハイデルベルク信仰問答は、人の罪に対する神の激しい怒りと裁きを明言します。その裁きの厳しさを二通りに述べています。第1に、「それどころか、神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒って」おられることです。神は、人間の生まれながらの罪と実際に犯している罪に対して激しく怒っておられます。わたしたちが偶像礼拝をする、親不孝をし、殺し、盗み、姦淫、偽証、貪りの罪を心と手でなすのは、生まれながらにわたしたちが罪に腐敗しているからです。ですから、神に罪を裁かれない人は誰もいません。神の裁きを逃れられる人は、誰もいません。

 

2に神が、罪の裁きを、「この世においても永遠にわたっても罰しようとなさるのです。」ヘブライ人への手紙の927節に「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とあります。すべての人間は、神の怒りと裁きから逃れられる者はいませんし、この世でもそして永遠に神の裁きから逃れられません。死んでも、神の罪に対する刑罰から逃れられません。

 

 ハイデルベルク信仰問答は、その理由を次のように述べています。「それは、『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている』と神がお語りになったとおりです。」聖書の神は、聖と義なる神です。ですから人の罪と不義を激しく憎まれます。神の律法に服従しない罪人は、永遠に聖なる、義なる神の怒りの下に置かれ、呪われた者であります。

 

 ハイデルベルク信仰問答からわたしは、次のことを教えられました。アダムの罪によりわたしたち全人類が生まれながらに罪ある存在と定められています。これはわたしたちの力では克服できません。同時にわたしたちは生まれながらに腐敗し、実際に心と身体で犯す自分の罪の責任を、誰かに転嫁することはできません。罪の責任はわたしにあります。

 

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 09           201336

 

聖書箇所 ローマの信徒への手紙第71325節 

 

 

 

 問11 しかし、神はあわれみ深い方でもあるのではありませんか。

 

 答   確かに神はあわれみ深い方ですが、

 

       またただしい方でもあられます。

 

     ですから、神の義は、神の究極の権威にそむいて犯される罪が

 

       同じく究極の、すなわち永遠の刑罰をもって

 

       身と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。

 

                              吉田 隆訳

 

 

 

 今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問11と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答の「第一部 人間の悲惨さ」の最後の問答であります。

 

わたしたちは、ハイデルベルク信仰問答の問3から10まで学びました。人は、神の律法によって自らの罪の悲惨さに気付かされます。人は、神の律法を完全に守ることができません。神の御意志に完全に服従し、神を愛し、人を愛することができません。なぜなら、人の心が生まれつき神を憎み、隣人を憎む方に傾むいているからです。人は神が求めるあらゆる善に対して無能力であり、母の胎内にある時から悪に傾いています。さらに、すべての人は、罪ゆえに聖と義なる神の御前に呪われた者であり、神の永遠の刑罰を避けられない悲惨な状態にあります。

 

何とか、神に責任転嫁し、言い逃れの道を見出そうとしましたが、見出した結論は、問10の答にあるようにこの世においても永遠にわたってもすべての人は自らの罪のゆえに神の怒りと永遠の刑罰を逃れられないという悲惨な状態に置かれているということです。

 

そこでハイデルベルク信仰問答は、何とか逃れようと、最後の望みにすがる人の問いを記します。それは、「しかし、神はあわれみ深い方でもあるのではありませんか。」という問いです。要するに神の慈悲でもって言い逃れられないかと問うています。わたしたち流に言えば、「聖書に神は愛なるお方であるとあるではないか。そのお方が、わたしたちの罪を赦さないで裁くのはおかしいではないか」と、こう文句を言うようなものです。

 

そこでハイデルベルク信仰問答は、答に「確かに神はあわれみ深い方ですが」と同意しています。旧約聖書の出エジプト記3467節にはっきりと神が憐れみ深いお方で、罪を赦してくださるとあります。主なる神が、「憐れみ深く恵みに富む神」であり、「忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」神であると、聖書は証言します。それを否定することはできません。ダビデも詩編10389節に「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなく とこしえに怒り続けられることはない」と賛美しています。

 

しかし、ハイデルベルク信仰問答は、聖書が神について証言するもう一つの真理を明らかにし、人が言い逃れできないようにします。それは、神は「またただしい方でもあられます」という、聖書の神の真理です。旧約聖書の出エジプト記347節の後半に、神は正義のお方ですから、「しかし、罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」と証言し、申命記7章10節に「御自分を否む者にはめいめい報いて滅ばされる」と証言します。そしてダビデも詩編5篇5-7節に「あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御もとに宿ることを許されず 誇り高い者は御目に向かって立つことができず 悪を行う者はすべて憎まれます。主よ、あなたは偽って語る者を滅ぼし 流血の罪を犯す者をいとわれます」と賛美しています。新約聖書のヘブライ人への手紙の記者は、103031節に主なる神が神の民の罪を裁かれることを知っていると証言し、生ける神の手に、すなわち神の刑罰に自分の身を置くことは恐ろしいことであると告白しています。

 

それゆえにハイデルベルク信仰問答は、神の律法を守らない者を、神の権威に背く者と定義し、その者に神の義が何を要求するかを教えています。

 

「神の義は、神の究極の権威にそむいて犯される罪が同じく究極の、すなわち永遠の刑罰をもって 身と魂とにおいて罰せられることを要求するのです。」

 

ハイデルベルク信仰問答は、次のことを教えています。人が神の律法を守らないことは、人の「神の究極の権威にそむいて犯される罪」であると教えます。そして、ハイデルベルク信仰問答は、人のその罪が「究極の、すなわち永遠の刑罰」に価すると教えています。ですから、神の律法を守れないすべての人の身と魂、すなわち人の全存在が神の永遠の刑罰をもって、罰せられることを、神の義が要求していると教えています。

 

人の悲惨さは、この神の義の要求することを満たすことができないことです。ヘブライ人の手紙の記者が告白するように、「生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです」。生ける神とは、「人の罪に対して報復をされる神」という意味です。その神の手に落ちるとは、永遠の神の裁きの下にわたしたちの全存在が、身と魂が置かれることです。罪人であるわたしたちは、自ら罪を償うことができずに、神の義の要求を満たすことができないで、永遠に神の刑罰の中に置かれるのです。人のこの悲惨さは、絶望の悲惨さであることを、ハイデルベルク信仰問答は、わたしたちに教えて、第1部を終えています。

 

ハイデルベルク信仰問答が教える人の悲惨さは、神の永遠の刑罰の下に身も魂も置かれている人間の悲惨さの現実です。そして、ハイデルベルク信仰問答が問11と答を通して次のことを教えています。神の憐れみは、神の義の要求が満たされるまで見合わさられます。ですから罪ある人は死の刑罰を避けられませんし、永遠に身と魂が神の永遠の刑罰に罰せられることを免れません。

 

次回よりハデルベルク信仰問答の第2部「人間の救いについて」学びましょう。誰が神の最高の刑罰である神の永遠の刑罰の下に置かれた人間の悲惨さからわたしを救い出してくれるのか、神と人の仲保者が誰かを学びましょう。

 

今レントの季節です。キリストの十字架の御苦しみを覚えて、永遠の神の刑罰の悲惨さの中にいたわたしたち罪人を救ってくださったキリストの十字架の御救いに心を留めましょう。

 

 

 

 

 

 

 ハイデルベルク信仰問答 10           2013313

 

聖書箇所 ローマの信徒への手紙第2111節 

 

 

 

 問12 わたしたちが神のただしいさばきによって

 

     この世と永遠との刑罰に値するのであれば、

 

     この刑罰を逃れ再び恵みにあずかるには

 

     どうすればよいのですか。

 

 答   神は、御自身の義が満足されることを望んでおられます。

 

     ですから、わたしたちはそれに対して

 

       自分自身によってかあるいは他のものによって、

 

       完全な償いをしなければなりません。

 

 問13 しかし、わたしたちは自分自身で

 

     償いをすることができるのですか。

 

 答   決してできません。

 

     それどころか、

 

       わたしたちは日ごとにその負債を増し加えています。

 

 問14 しかし、単なる被造物である何かが

 

     わたしたちのために償えるのですか。

 

 答   いいえ、できません。

 

     なぜなら、第一に、神は人間が犯した罪の罰を

 

       他の被造物に加えようとはなさらないからです。

 

     第二に、単なる被造物では、

 

       罪に対する神の永遠の怒りの重荷を担い、

 

       かつ他のものをそこから救うことなどできないからです。

 

 問15 それでは、わたしたちは

 

     どのような仲保者または救い主を求めるべきなのですか。

 

 答   まことのただしい人間あると同時に、

 

       あらゆる被造物にまさって力ある方、

 

       すなわちまことの神でもあられるお方です。

 

                              

 

 今夜は、ハイデルベルク信仰問答の問1215と答を学びましょう。ハイデルベルク信仰問答の「第二部 人間の救いについて」に入ります。問1219と答に「ただ一人の仲保者」という見出しがあります。仲保者イエス・キリストについて学びます。

 

ハイデルベルク信仰問答は、問1219において次の二つのことを教えています。第1にわたしたち人間が救われるためには、仲保者(救い主)が必要であるということです。第2に神と人との唯一の仲保者(救い主)は、誰であるかを教えています。

 

今夜は、問1215において、第一の教えを学びましょう。わたしたちが神の永遠の刑罰という悲惨な状態から救われるためには、ただ一人の仲保者(救い主)が必要であることを学びましょう。

 

ハイデルベルク信仰問答の問12は、次のようにわたしたちに問うています。「ただしい神のさばきによって、この世と永遠において神の刑罰に値するわたしたちが、どうしたらもう一度神の御下に戻り、創造された時のアダムのように神の恵みにあずかり生きることができるか」と。

 

人間の救いの救いという言葉は、解放です。神の永遠の刑罰の中で身動きが取れない悲惨な状態にある者を、自由と恵みに解放する。それが「人間の救い」と、ハイデルベルク信仰問答は、定義しています。救い、すなわち解放は、二つの面があります。ひとつは、神のさばきの悲惨さから人を救うことです。すなわち、神が罪ある人に下されたこの世と永遠の刑罰から解放することです。もうひとつは、再び神の恵みにあずかることです。創造時の人間の状態に回復されることです。罪の悲惨な状態から解放されて、神の御下に戻ることです。

 

次にハイデルベルク信仰問答は、人間の救いの条件を教えています。それは、完全な償いです。償いと罰は同じです。それゆえにハイデルベルク信仰問答は次のように告白します。「神は、御自身の義が満足されることを望んでおられます」と。

 

神は、人間の救いを成し遂げるために、神の義を満足させることを望まれています。それが完全な償いです。すなわち、神は、人を救うためにわたしたちの罪に対する完全な刑罰を実行されます。ですから、自分自身か、あるいは他のものがこの完全な償いをし、完全に神の永遠の刑罰を身に受けなければ、人間の救いは成し遂げられません。

 

そこでハイデルベルク信仰問答は、問13においてわたしたちが自分自身によって完全な償いができるかと問うています。わたしたち自身が神の永遠の刑罰を受けて、自分を救うことができるのかと問うています。答は、決してできないです。なぜなら、わたしたちは、悲しむべきことに日々神の御前に罪の負債を増し加えています。ですから、わたしたちが神の永遠の刑罰を受けても、神の義を満足させることはできません。

 

そこでハイデルベルク信仰問答は、問14においてわたし以外の神が造られた被造物の中に完全な償いができるものはいないかと問うています。答は、神の被造物は完全な償いができないです。その理由は、二つあります。第1に神に罪を犯したのは、わたしたち人間です。主なる神は、人の罪に対する刑罰を他の被造物に加えることを望まれていません。「罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル184)。第2に被造物は、罪に対する神の永遠の刑罰の重荷に耐えられません。それゆえそれを担って他のものを救うことはできません。詩編130篇の詩人も、次のように告白します。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められたなら 主よ、誰が耐ええましょう。」

 

完全な償いを、人も他の被造物もできなければ、わたしたちは、どのような仲保者(救い主)を求めることができるのか、それが問15の問いです。わたしたちの身代わりになり、完全な償いをする仲保者(救い主)が必要です。彼は、わたしたちの身代わりになって神の永遠の罪の刑罰を引き受ける者です。

 

仲保者の条件を、ハイデルベルク信仰問答は次のように告白します。「まことのただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神であられるお方です」と。

 

完全な償いができる仲保者(救い主)は、まことの人間、罪のないただしい人間でなければなりません。同時に被造物では、神の永遠の刑罰を受けて、耐え忍ぶことはできませんから、仲保者(救い主)は被造物に優って力あるお方、すなわちまことの神であるお方でなければなりません。レントの季節に、神であり人であるキリストが十字架の上で完全な償いを成し遂げて、わたしたちを救ってくださったことを感謝しましょう。